紋章のような

My name is Samataka. I made coats of arms in my own way. Please accept my apologies. I didn't understand heraldry. I made coats of arms in escutcheons.

自作小説「塔の上のセピイ  〜中世キリスト教社会の城女中の話」第十二話(後編)(全十九話の予定)

第十二話 戦う理由、気づかう理由(後編)

 

「パールは結局、泣き疲れたのか、そのままオペイクス様に乗ったまま寝てしまったんだと。それほど彼女を安心させることができたオペイクス様を、私らは、つくづく立派なお方だと思ったよ。

 しかしオペイクス様は、自分自身を許さないんだ。自分と、パールを悲しませる何か、もね。

 オペイクス様は、ほとんど眠れなかったそうだ。昼間、宮殿に上がった時の気疲れで、すぐに寝てしまうかと思いきや、やたらと目が冴えたと。そのくせ王様たちとの会話なんか、一つも思い出さない。

 気になるのは、ひたすらパールのことだけ。パールを泣かす何か。その何かをいくら探っても、推測に過ぎない。そう分かっていても、考えずにはいられない。暗い天井を睨みながら。

 どこかの不埒な男が、パールに近づいて卑猥なことを言ったのか。それともペレガミ家で受けた仕打ちが、不意に思い出されるのか。

 考えただけで、怒りで体が震えてくる。パールをそっと撫でる手も震えてくる。

 八つ裂きにしてやる。地の果てだろうが、どこまでも追いかけて、必ず。誰か知らんが、パールを悲しませるなら、思い切り打ちのめして抹殺してみせる。絶対に許さない。

 オペイクス様は話しながら、すごい形相になっていたよ。私らの存在なんか忘れたみたいだった」

「そんなんじゃ、眠れるわけないわね」私がやっと打てた相づちは、これだけだった。

「ああ。オペイクス様は寝るのを諦めて、朝を待ったそうだ。

 で、外が明るくなってきたら、パールをそっと起こして、それぞれの仕事場に向かったよ。まず、パールをボジェナさん一家のところに送る。続けて自分自身は、ビナシス家の出先機関となった屋敷に急ぐ。

 駆け込んでおきながらオペイクス様は、お役人にすぐさま外出許可をもらった。適当な口実をもうけて。

 その頃は屋敷での仕事も落ち着いて、時間の融通が利いたから、お役人も特に文句は言わなかった。逆に、前の晩に見たヌビ家との関係を考慮して、オペイクス様に対して身構えたのかもしれないね。

 とにかく、オペイクス様は時間をもらったんだ。で、今度は、ボジェナさん一家の畑に取って返した。と言っても、近くまで来たら、パールに気づかれないよう、木の陰なんかに隠れて、だが。

 オペイクス様は辛抱強く待ったよ、平民が近くを通るのを。その甲斐があって、背後から小声で呼びかけられた。振り向くと、普段よく言葉を交わす平民が四人ほど、近づいて来る。全員、人目を気にして、忍び足で。彼らの視線が、畑にいるボジェナさん一家、特にパールに向かっている事に、オペイクス様は気づいた。

 彼らはオペイクス様のそばに来ると、小声で言った。『そろそろ、あなた様がいらっしゃる頃と思っておりました』

 それでオペイクス様は急き込んで問うた『パールに何があった。パールは誰に怯えているのか』と。

 平民たちは、すぐには答えなかった。悲しげな顔で互いに見合って『言うしかないべ』などとつぶやき合う。決心した彼らはオペイクス様を真っ直ぐ見つめて、やっと答えた。

『き、昨日、あなた様がトカゲのお殿様たちとお出かけになった後で・・・あなた様のお母様が来られました』

 オペイクス様は、あっと声が出そうになったのを、必死でこらえた」

 私も絶句した。そんな。よりによって、オペイクスのお母さんだなんて。

「平民たちが言うには、オペイクス様のお母様はパールに直接、何かを言ったわけではなかったと。逆にお母様は、パールが居ないかのように振る舞ったとさ。他の平民たちにやたら話しかけるばかりで、パールには見向きもしない」

「わざとね。いくら何でも、視界の隅には彼女が入るはずよ。むしろ意識しすぎるくらい、パールを意識しているじゃないっ」私は早口になってしまった。

「居合わせた平民たちも全員、そう思っただろうよ。しかしオペイクス様のお母様は、そんな周囲の目もお構いなしだったのかも。一方的に、平民たちに話し続けたらしい」

「話すって何を」

「長男であるオペイクス様の自慢だよ。『王陛下に謁見するなんて、大変な名誉だ』ってね。こんな幸運は、そう得られるもんじゃない。たとえ貴族でも、城持ちとか権力者に限られるだろ。そんな上級貴族の輪に長男が加わる事ができたなんて『エクテ家の誉れだ』とお母様は言いたいわけさ。

 でも、オペイクス様のお母様の狙いは、自慢話なんかじゃないよ。本題は、ここから。『だからこそ』と言うんだ。『エクテ家は、そんな誉れある貴族となったからこそ、相応の貴族の娘を長男の嫁に迎えるべきだ』と。誰が質問したわけでもないのに、長々と演説をぶったんだろう」

 

騎士オペイクスの生家、エクテ家の紋章 図形のみ、X字か?

 

「パールに聞かせるつもりで、大声で言ったのね。やり方が、いやらしいわ」

「当時の平民たちも内心、そうやって憤りを感じてくれているといいんだが。

 それよりも、まず彼らはパールを心配した。オペイクス様とパールの関係を知っている平民たちは、彼女の様子に気をつけた。案の定と言うか、パールは音も無く、その場を離れて、木の陰に隠れる。声は抑えていて聞こえなかったが、その肩が震えていたよ。彼女はすすり泣いていたに違いない。平民たちはみんな、そう思ったらしい。

 そんなパールを追いかけるように、オペイクス様のお母様は、その木の近くに歩いていこうとする。演説を続けながら。見かねた平民たちは『オペイクス様がお戻りになったら、お伝えしますので』とか口約束して、お母様が帰るように誘導したんだと」

 はーっ。私は呆れて、ため息をついた。

「オペイクス様も、おっしゃっていたよ。『腹立たしいやら、情けないやら。母と弟の無理解をある程度、覚悟していたつもりだったが、自分が甘かった』と。オペイクス様としては、血族である二人が、いつかパールを認めてくれるのでは、と一縷の望みを捨てきれていなかったのさ。『でも、もうだめだ。思い知らされた』と言いながら、オペイクス様は苦しそうな顔を横に振ってねえ。

 オペイクス様は、事情を教えてくれた平民たちに礼を言い、お母様の振る舞いを謝った。そして引き続きパールへの気づかいを頼んで、実家に向かおうとする。

 平民たちは慌てて、小声でオペイクス様を引き止めたよ。『ど、どうか、お気を鎮めください』

 対して、オペイクス様の返事は、こんなだ。『別に暴力を振るったりはしない。一応、私を産んでくれた人だ。しかし縁は切る。

 私にとってパールがどれほど大切か、分かろうとしないのなら、もはや親ではない』

 オペイクス様は畑仕事に加わっているパールをちらと見てから、ご自分の生家へと急いだ」

 セピイおばさんは、また一息つく。

「おっと、そうだった。言い間違えるところだったよ。オペイクス様は生家に直行しなかったんだ。その前に、ご自分の小さなお城に戻ってね。前日に王弟様からいただいた褒美袋を引っつかんで、懐に入れてからお母様に談判に行ったんだ。

 お母様は長男であるオペイクス様を見て、まず驚いた。自分の長男がまだ都アガスプスに滞在しているもの、と思っていたらしい。

 オペイクス様は、そこら辺の説明をほとんどせず、とにかく褒美袋をお母様に押しつけた。『弟が結婚する時に使え』と。『それでも金がまだ余るようなら、よその貴族とのお付き合いに活用しろ』とか付け加えて。

 お母様は当然、オペイクス様に問いただしたよ。『なぜ、こんなことを急にするのか』と。

 オペイクス様は答えた。

『手切金だ。私はエクテ家を抜ける。私とあなた方は、もう家族じゃない。

 あなたが私を産んでくれた事は、私も認めよう。しかし、あなた方がパールを認めないのなら、彼女を否定するのなら、私もあなた方との血縁を否定する。

 さよなら、母さん。もう二度とパールに近づくな』

 途端にお母様は、わめき散らした。『あんたは実の母親を買収するつもりなのか』とか『あんたは、あの女にたぶらかされているんだよ』とかね。でも、こんなのは、まだいい方だよ。それどころか『パールは何人もの男たちに安易に身をまかせた淫売だ』みたいなことも口走ったらしい。それこそ何度も唾を飛ばして、声を荒げたんだろう。オペイクス様は詳しく話さなかったが。

 オペイクス様は生家を飛び出したよ。お母様をぶちのめしたい衝動に駆られたのを、必死にこらえたんだ。すかさずお母様の声が追いかけてきた。『エクテ家に戻ってきなさい』『あんたたちは絶対うまく行かないよ』だの、何だの。お母様が褒美袋を投げ返す気配もあったが、オペイクス様は、もう振り返らなかった。

 そのまま役人の居る屋敷に戻って、オペイクス様は仕事をした。役人の指示で戸籍簿を引っぱり出してきたり、役人がビナシス家党首に提出する報告書を準備するのを手伝ったり。作物の出来具合、商人たちの景気、競争相手である近隣の中級貴族の状況などなど、ビナシス家党首も広く情報を集めていたからね。

 机仕事ばかりじゃないよ。屋敷には来客も多少あったそうだ。小貴族、商人、僧侶とか。それぞれ挨拶しながら、ビナシス家に助勢願おうって魂胆さ。この日は無かったが、逆にオペイクス様がお使いとして相手の方に派遣される事もあったとか。

 とにかく仕事を終えたら、オペイクス様はパールを迎えに行った」

 セピイおばさんの話を聞きながら、ああ、と声が出そうになるのを、私はこらえる。オペイクスのお母さんなら、きっといい人だろうと期待したのに。まさか、こんなだったなんて。

 しかし嘆いても仕方ない。私はセピイおばさんの話を追う。

「その夜、食事を終えた後で、オペイクス様はパールに謝った。自分の母親の振る舞いを。そして誓ったんだ。二度と彼女に母親を近づけない、と。

 すると、パールも逆にオペイクス様に謝るんだ。自分のせいで、オペイクス様を家族と絶縁させてしまった、と気に病んだのさ。

 オペイクス様は『それには及ばない』と答えた。『悪いのは私の母親と弟であって、あなたじゃない。むしろ血の繋がりがある私自身を恥じる』と。

 そんな感じでお互いに謝り合ったら、会話が平行線になるだろ。オペイクス様はそれを遮って、改めてパールに言った。自分は貴族の娘を妻に迎えたりする気は一切無い事。自分が共に暮らしたい相手は、パールだけである事をね。

 きっと、その夜もパールはオペイクス様の胸板に顔をうずめて、泣きながら寝ついたんだろうよ」

 セピイおばさんは、そこで話を区切って、窓の方を見た。窓は開けていないし、そのずっと先にナクビーの町があるのかも分からない。そこまでは、さすがにおばさんも知らないはず。

 

「さて、オペイクス様が都から戻って、生家と絶縁してから。オペイクス様は、たしか『一週間も経ってはいなかった』とおっしゃったよ。ビナシス家の党首からコモドーン城に呼び出された。

 ビナシスは、やっぱり気になったんだよ。都で自分と別れた後、オペイクス様がアンディン様とどんな会話、やり取りをしたのか、がね。

 オペイクス様は問われるままに正直に答えたんだろう。もちろんパールの名前は伏せて、だが。

 オペイクス様の報告を聞くや、ビナシスは声を荒げたらしい。『それでは何か。そなたは早く家に帰りたい一心で、ヌビ家に馬車で送ってもらったと申すか。馬鹿かっ。そんな図体で、童(わっぱ)でもあるまいに。聞かされる俺の方が恥ずかしくなるわっ』

 続けて小言を浴びせたが、言われなくてもオペイクス様には内容が読めていたよ。ヌビ家という上級貴族の党首と会話する絶好の機会を逸した事。相手の情報を引き出したり、自分を売り込んだり。できる事は幾らもある。しかも、そんな好機は、そう簡単には、やって来ない。

 居合わせた他の騎士や兵士、使用人たちも忍び笑いしていたみたいだね。

 オペイクス様は、これらの反応に大人しく耐えたよ。何と罵られようが、パールの安全を確認できれば、それでいい。逆に、それ以外を優先するなんてできないのさ。

 ついでと言おうか、ビナシスはオペイクス様に、もう一つ確認した。王弟様からいただいた褒美袋の使い道だよ。

 オペイクス様は一瞬、没収されるのでは、警戒した。しかし顔に出すわけにはいかないし、正直に言うしかない。お母様に渡して、弟の結婚に使うよう勧めた事を話した。

 するとビナシスは、また貶した。『母親にそっくり差し出すなんて、それこそ童のやる事』って言うんだよ。

 で、この賢明なご主人様が言うには『自分だったら、女郎屋でしこたま遊んでから、ゆっくり帰る』んだと」

「作法とか肝心の事は教えないで、そういう尋ねてもないような事は進んで話すのね」と私もビナシスを貶したくなる。

「まあ、男なんて、そんなもんだ。

 とにかくビナシスは好き勝手に叱りつけて、オペイクス様を帰した。ビナシスとしては、探りを入れた割には大して収穫が無かったってことだろう」

 セピイおばさんは、また一旦、話をやめる。

 そして、ため息。今回は、何とも重たく聞こえる。もしかして。

「それから、さらに二ヶ月くらいは、大した事件も無く、オペイクス様とパールは比較的平穏に過ごせた、と。

 その頃に一度、アンディン様から手紙が届いた。都アガスプスからナクビーまでオペイクス様を馬車で送ってくれた連中が、今度は使者として、手紙を持って来たんだよ。

 オペイクス様は、ビナシス家の党首に散々叱られた後だったから、ちょっと疑う、というか諦めかけていたらしい。『ヌビ家の党首、アンディン様も、このオペイクスに呆れ、かつ忘れたのかも』なんてね。そこへ手紙が届いたもんだから、オペイクス様は慌てて返事を書いて、使者たちに手渡した。アンディン様は文中で、改めて話を聞く約束を念押ししておられたそうだ。日程の方は、アンディン様が何かとお忙しくて、まだ決まっていなかったが。

 そうだ。『平穏そうでも、一度だけ、その平穏を破る、嫌な出来事があった』とオペイクス様は、おっしゃっていた。

 平民たちの中でも無礼な男どもが、パールを悪く噂したんだよ。そいつらは、パールがペレガミ家でどんな目に遭ったのか、薄々知りながら勝手な事を言いふらしたらしい。『俺たちも頼めば、床で相手してもらえるんじゃねえか』くらいの事をね。

 それを聞いて心配した、良識のある平民たちは、急いでオペイクス様に報告した。もちろんオペイクス様は、カンカンだよ。すぐさま、その無礼な男どもを捕まえた。平民たちも手伝ってくれてね。

 調子に乗っていた馬鹿どもは、オペイクス様が人数分の槍を持ってくると、震え出して失禁したそうだ。さすがに、この時は、肛門から刺したりはしなかったがね。パールの目を見れば、怯えや悲しみの色は見えても、彼女がそこまで望んでいないことは明らかだった。そこでオペイクス様は、そいつらを槍に縛りつけて、数日ほど屋敷の前に立たせる事で我慢したんだ。

 オペイクス様は、この事件もコモドーン城に出向いて、ビナシス家党首に報告したよ。そして、先走って問題の男どもを勝手に処分した事を謝罪した。

 言われたビナシスは、そんな不届き者たちなんか、どうでもよかったんだろう。オペイクス様を大して叱らなかった。それどころか、城の使用人とか他の者たちから事件の発端をパールだと知らされて、余計なことを言うのさ。『そんな傷物の女など捨てて、お前も貴族の娘と世帯を持たんか』なんてね。

 ビナシスが言うには、ちょうどオペイクス様の弟さんに、近隣の小貴族の娘との縁談を世話してやっている最中だったんだと。

 もちろんオペイクス様は丁重にお断りして、ナクビーに帰った」

「ほんっと気が利かないわね、このビナシスって」私は我慢できずに吐き捨てた。ロウソクの明かりで、つばが飛ぶのが見えた。

「オペイクス様は改めて推測したそうだよ。お母様がパールを悪く言ったのは、こういう連中の言葉を真に受けたからじゃないかってね。その意味でも『連中に怒りを覚えた』と」

「あり得るわね。まったく、どいつもこいつもパールの気持ちを考えようともしないで」

 そこまで言って、私は黙った。セピイおばさんの話を邪魔してしまった。そうじゃなくて、今は、まず聞かねば。

 しかし、おばさんもすぐに話を再開しない。気のせいか、元気も無いような。数秒の沈黙の後、やっと再開してくれる。

「ビナシス家党首の余計な気づかいは、その後も続いてね。

 弟さんの結婚が近づいてきた、ある日、ビナシス家は狩りを催した。で、オペイクス様もナクビーから呼び出して、弟さんも同行させて、仲直りの機会を作ってやろうと。

 一応、主君の意向なんだから、オペイクス様は、なるべく弟さんに話しかけたそうだ。ところが弟さんからは、ほとんど無視。主君ビナシスの手前、仕方なく返事するだけ。

 これにはビナシスも呆れて、オペイクス様たちを放っておいて、狩りを楽しんだ。

 気の優しいオペイクス様は、か弱い動物たちを仕留めてもパールに自慢できないと思って、矢を外してばかりだった。当然、他の騎士や兵士たちから笑われて。

 逆に弟さんの矢は、主君ビナシスから逃げる鹿の脚に突き立って、ビナシスが鹿を仕留める際に、ちょうどいい加勢になったんだと。その後はビナシスも弟さんにばかり話しかけて、オペイクス様には素っ気なかったとさ」

 聞きながら、私はますますビナシスが嫌いになった。いい歳こいたオッさんがえこひいきだなんて。ビナシスの方が、よっぽど子供じゃない。弟だって、そう。

 しかし言わずに、セピイおばさんの話に耳を傾ける。

「オペイクスは帰ってから、失敗談のつもりでパールに話した。そしたらパールは目を輝かせてオペイクス様を褒めた。『それは良い事をなさいました。あなた様のおかげで、生き物が何頭か生き延びたのです』と。

 オペイクス様は、途端に心が軽くなるのが分かったそうだ。日中の居心地の悪さから解放されて、雨雲に覆われていたような気分が晴れ渡ったのさ。

 オペイクス様は嬉しくて、それをそのままパールに伝えて、感謝した。

 すると、だ。逆に、輝いていたパールの表情に、サッと影が差した。オペイクス様は驚いて、言葉を失ったよ。自分は何か悪いことを言ったのか。一体、どこで彼女の心を曇らせたのか。

 しかし反省する暇も無かった。パールが、またしても、すがりついてきたんだ。そうやってオペイクス様の胸に飛び込んだかと思えば、急に顔を上げて、オペイクス様の唇やら頬やら首筋、あちこちに口づけをする。狂ったように、夢中で、口づけしまくるんだ。前回より、いやそれまでで一番激しかったんじゃないかねえ。

 その上、服も乱暴に脱ぎ捨てて、オペイクス様が止めようとしても、着ない。泣きながら裸になって、オペイクス様の手を取って、乳房や尻をつかませようとする。

 オペイクス様も慌てて服を脱いだ。そして、その服でパールを包もうとしたが、彼女は嫌々と首を横に振って抵抗する。

 困り果てたオペイクス様にできたのは、せめてパールと同じく、自分も裸になって立ち尽くす事くらいだった。

 絶句しているオペイクス様に、パールは言った。『きつく抱いてください。今日こそ、私の上に覆い被さって。どうか私に遠慮しないで』

 涙をだらだら流しながら訴えるパールの勢いに呑まれて、オペイクス様は寝床まで引っぱられた。で、横たわる彼女に上から近づいた。自分の体と寝床の間につっかえさせている腕や脚の力を抜いて、そっと彼女の上に乗る。オペイクス様はパールに体重をかけたよ。

 途端に、パールの口から苦しげな声が漏れた。オペイクス様は慌てて体を浮かせたが、その首を彼女は急いで捕まえて逃がさない。『ご、ごめんなさい。ちゃんと、こらえますから、もう一度』

 しかしオペイクス様も、もう言わせなかったよ。まず、パールの唇に口づけして塞いだ。そして、できるだけ優しく言った。『あなたが謝る事じゃない。あなたは何も悪くない。こらえたりしないで』

 そしてパールの背に腕を回して、とにかく体を引き起こした。

 で、二人とも、そのまま数秒ほど何も言えずにいたんだが、オペイクス様も、もう興奮してしまっている。オペイクス様は、脚を開いたパールを自分に跨らせた。そして、きつく抱きしめる。二人とも、体を起こした状態で抱き合うんだ。

 オペイクス様は、その状態から顔を下げて、パールの首筋や乳房に、やたらめったらに口づけした。舌を這わせ、肌を吸いもした。

 それからオペイクス様は自分の陰茎を、パールの膣に入れた。そおっとだが、全部入ってしまうと、また腕に力を込めて、抱きしめる。背中に回していた手も下げていって、尻も掴む。

 二人して、そうやって体を起こしたまま、互いの体をひしと密着させて、しばらく抱き合っていた。オペイクス様がパールの中に精を放った後も。

 それからオペイクス様は背を倒した。例によって、パールが上に乗った状態だよ。二人とも汗だくだったそうな。

 オペイクス様は聞いた。『痛くなかったかな』と。パールは首を横に振る。顔をオペイクス様の胸板にこすりつけて。そして小声だが『嬉しい』と言ってくれた。そんな気がした、と」

 セピイおばさんは、ため息をはさんだ。またしても、重たい重たい、ため息。

「オペイクス様はねえ、そんなパールとの契りを、どんな様子で私らに話したと思う?」

 不意の質問に、私は答えられない。どういうふうに体を触れ合わせたかの説明がやたら細かくて、本来なら親族であるセピイおばさんとできる話題じゃない。赤面ものだ。

 しかし私の顔は今、赤いどころか、青くなっていると思う。鏡が無くても充分、予想できる。熱くなったりしない。嫌な予感がどんどん大きくなっていく。あの忌まわしい小屋の事件の話を聞いた時より、はるかに。

 セピイおばさんは私を待たずに、答えを語った。

「オペイクス様は泣いていた。いつの間にか、塔の床に座り込んで、大きな体を丸めるように縮めて。消え入りそうに、私には見えたよ。

 オペイクス様は泣きながら、私らに話したんだ。パールに、なんて乱暴な事をしたのか、と言わんばかりにね。

 オペイクス様が言うには『その前にも時々あった』と。性欲のみでパールを見てしまった事が。自分本位で、相手を思いやらない、身勝手な欲求。ペレガミの人でなしどもと同じ類の欲望だよ。

 それがために、パールを怯えさせ、苦しめ、自分が彼女から嫌われる。拒まれる。その展開をオペイクス様が、どれほど恐れた事か。

 しかし実際は、それ以上だよ。パールはオペイクス様を拒むどころか、責めない。一言も。『パールは私に、嫌とは言わなかった。だからと言って、許されるのか。私は彼女に我慢させていただけじゃないのか。彼女は私の欲求に合わせただけじゃないのか』なんて自問を、オペイクス様は何回も繰り返す。私らの存在なんか忘れて、一人語りしているみたいに。そして一向に顔を上げない。

 でも私らだって、オペイクス様を責める気になんかなれないよ。何と声をかけてあげたら良いのか。その言葉が、なかなか思いつかない。私は、やっとこさ言ったんだ。『オペイクス様はパールに応えただけです。パールに言われた通りにした』と。それしか言えなかった。

 でもオペイクス様は黙って、首を横に振るんだよ。座り込んで、両膝に顔を隠したまま。

 オペイクス様は私に答える代わりに、話を続けたよ。『その後しばらくしてパールと、もう一度契った』と。

 パールが這い上がってきて、またオペイクス様の顔や首筋に口づけしまくる。さらにはオペイクス様の頭を抱え込んで、自分の乳房に押し当てて。

 オペイクス様もパールの乳房や首筋に口をつけ、舌をつけて、強く抱きしめる。そして陰茎を差し込んで、腰を掴む。

 二人とも、さっきと同じ、体を起こした状態だよ。オペイクス様は言った。『要するに、私は彼女の体を貪ったんだ。上から、のしかからないようにするのが、やっとだった』と。

 その後、パールはオペイクス様の上で、ぐったりとして。オペイクス様は『ゾッとした』とおっしゃったよ。あの小屋での事、ペレガミの人でなしどもに嬲られた後のパールを思い出したんだ。オペイクス様は『結局、自分は連中と同じじゃないか』と思えて、泣きたくなったそうだ。

 オペイクス様は、できるだけ、そっと尋ねた。『きつかったんじゃないのか?』と。

 パールは、やっぱりオペイクス様の胸板に顔をつけたまま、首をゆっくり横に振る。自分の胸板が濡れて、オペイクス様は、それが彼女の涙だと気づいた。

 パールは一度だけ、とても小さな声でオペイクス様の名を呼んでから、眠ってしまったそうだ」

 

「おばさん」私は、たまらず口をはさんだ。「パールは、オペイクスを悪く思ったりしてないわよ」

「ああ、私も、そう思うし、一緒に話を聞いた他の三人も、そこは分かっていただろう。

 でも、オペイクス様は自分自身を許さない。パールを大事にしたいというお気持ちは、私も賛成なんだが。

 それより、次の朝だよ。オペイクス様は、そっとパールを起こした。すると、パールは何とも優しげな微笑みを浮かべて。オペイクス様は『その時のパールの表情は、いつでも思い出せる』とおっしゃっていたね。

 オペイクス様はパールに服を着せてから、軽く抱きしめた。パールは、サッと背伸びしてオペイクス様に口づけしたとか。

 それから二人は、それぞれの仕事場に向かうんだが。オペイクス様の方は、もう一度コモドーン城に行かなきゃならない日だった。前日の狩りの後片付け。仕留めた獲物の解体とかを手伝うんだよ。城まで距離がある分、オペイクス様は早く行かなければならない。

 それで気を使ったのか、パールは一人でボジェナさんの家に行くと言った。オペイクス様に送ってもらわなくても大丈夫だ、と。二人の小さなお城からボジェナさんの家まで、薄暗い場所があるわけでもない。卑猥な男どもは、パールを見かけたら黙って逃げ出すほどになっていた。そいつらだって、肛門から槍で串刺しなんて嫌だろうからね。

 パールは、それら全てがオペイクス様のおかげだとして、改めて礼を言って、微笑んだ。

 オペイクス様は迷った。なるべくなら送って行きたい。しかし。微笑んでいながら、同時にパールが自分に向ける眼差しには、力が感じられた。はっきりした意志の力だよ。

 パールは繰り返した。『どうか私のことは心配しないで、お仕事に行ってください』と。

 オペイクス様は少し気圧されて、仕方なく屋敷に向かった。馬を借りるためにね。その途中でオペイクス様は振り返ったよ。パールが小さく手を振っていた」

 セピイおばさんの言葉が途切れた。嫌だ、嫌だ、嫌だ。悪い予感が止まらない。おばさん、普通に話して。

「オペイクス様はコモドーン城に入ると、他の騎士や兵士たちに混ざって、予定通りに仕事をした。毛皮を剥いだり、角を切り外したり。動物たちの死骸をいじくり回すばかりで、少しも楽しくない仕事だったと。

 党首のビナシスは前日に続いてご機嫌だったが、オペイクス様には、ほとんど声をかけてこない。見限られたな。そう推測しながらも、オペイクス様は焦る気にもなれなかったそうだ。

 オペイクス様だって、党首ビナシスには幻滅していた。パールの存在を知りながら、認めない。結局、お母様や弟さんと同類なんだ。

 おまけに、嫌な噂も伝わってきてね。表向きはペレガミの未亡人と娘を保護しているが、実際は母娘ともども妾にしているとか」

「りょ、両方とも、なの?本当だったら、最低だわ」私は呆れて、声が裏返った。

「おそらく本当だったんだろうよ。こういう時は、残念ながら、本当である事が多い。火のないところに煙は立たないからね。

 オペイクス様は、ビナシスを主君として尊敬できなくなっていた。ペレガミよりマシ、というくらいか。あまり信用できない。できれば、お仕えなんかせずに、距離を取りたい。しかしパールを養うためだ。仕方なく、お仕えするだけ。

 そうやって再認識していたら、オペイクス様は、ふと思い出したよ。ヌビ家の党首アンディン様を。いつか、ゆっくり語らいたい、とおっしゃってくださった、あの方」

「はっ、そうだわ。パールを連れて、ヌビ家に移ればいいっ」

 私は思わず、椅子から立ち上がりそうになった。鬱陶しい雲が退き下がって、空が晴れ渡った気分。悪い予感なんて、私の勘違いなんだわ。

「そう。オペイクス様も、それを思いついた。その時点でオペイクス様はヌビ家の領地をよく知らなかったが、ナクビーやコモドーンから離れている事は間違いない。ということは、パールの辛い過去を知っている者は居ない。勝手な噂を広めて、パールを苦しめる奴も居ないはずだよ。新天地に行けば、きっとパールの心は解放されるだろう。世話になったボジェナさん一家とパールを別れさせる事になるのが、唯一の気がかりだが。

 そこまで考えが至ったオペイクス様は、もう居ても立っても居られなくなったそうだ。早くパールに話したい。提案して、パールの意見を聞きたい。一刻も早く。

 そんな時に限って、だよ。弟さんが近づいてきた。普段はコモドーン城内で、兄であるオペイクス様とすれ違っても目を合わせようともしないのにね。

 弟さんが言うには、主君ビナシスが自分たち兄弟を、揃って晩餐に招待した、と。それを伝えに来たのさ。

 その夕刻、オペイクス様は焦れる気持ちを抑えて、晩餐の席についた。ほとんど末席に近かったが、真向かいに弟さんが座った。その隣に若い娘。弟さんが彼女を、自分の婚約者と紹介したよ。

 オペイクス様は弟さんの婚約者のことをほとんど覚えていないそうだ。たしか、エクテ家同様の小貴族の娘だったんだろう、と。オペイクス様自身もおっしゃっていたが、当たり障りのない会話に終始したんじゃないかねえ。コモドーン城で知り合ったのか、とか、それぞれの紋章の由来とか。

 逆にオペイクス様がはっきり覚えていたのは、途中で主君ビナシスが割り込んできた事だよ。日中は言葉も交わさず、晩餐への誘いも弟さんにさせたくせに、盃片手にオペイクス様の背を叩いたりしたとさ。それで言うのは、また余計なお節介だよ。

『見よ。弟は、こんなに美しい嫁御を見つけたではないか。そなたも弟を見習って、嫁をもらえ』

 オペイクス様は、ぐっとこらえてビナシスに答えた。

『ご冗談を。私に妻と望む相手が居る事は、ご党首様もご存知ではありませんか。

 むしろ私は、その人の元に戻らねばなりません。そろそろ、お暇させていただこうと思います』

 すると、ビナシスは露骨に顔をしかめたそうだ。

『ああ?せっかく俺が、そなたら兄弟のために和解の場を設けてやったのに。平民の女の方が大事と申すか。

 ふん、勝手にせい。ついでに、このコモドーンには、しばらく顔を出さんでよいぞ』

 オペイクス様はビナシスに晩餐の礼を言い、弟さんと婚約者に『お幸せに』と祝意を伝えてから、コモドーン城を後にした」

「やっとコモドーンから出られた」と私はビナシスに腹が立ってくる。

「そう、やっとだ。外は、すっかり暗くなっていたらしい。

 オペイクス様は馬を急がせて、ナクビーに戻ったよ。

 そして馬を返すべく、屋敷に向かおうとしたが、ふと考え直した。もうしばらく借りていよう、と。主君ビナシスに邪険にされた、ささやかな仕返しでもないが。パールを迎えに行って、その帰りに馬を返せばいいだろ。それでオペイクス様は騎乗したまま、ボジェナさんの家に寄ったんだ。

 そしたら」

 セピイおばさんは、はああ、と重たい息を吐いた。

「パールは居なかった。ボジェナさんの一家は出てきて、迎えに来たオペイクス様に驚いたよ。『今日は元々、パールがこちらに来ない予定だったはずですが。あなた様に同行して、お仕事を手伝う日だ、と。昨日、彼女から、そう聞いております』

 オペイクス様は、おっしゃったね。『おそらく私は青ざめていただろう』と。

 オペイクス様は混乱して、ボジェナさんたちに返事するのも忘れて、自分たちの小屋に戻った。そして馬の手綱も近くの木に結びつけるのも忘れて、小屋に飛び込んで。

 中には・・・テーブルの上に、羊皮紙が一枚、広げて置いてあった。その端に、王弟様からの褒美袋が乗っかっていて。お母様に渡したはずの褒美袋。羊皮紙には、何か書いてあるのが見える。

 オペイクス様は息が詰まりそうに感じながらも、意を決して羊皮紙を手に取ったよ。案の定、文字はパールが書き残したものだった。

 パールの文章は、まず字の拙さを謝るところから始まっていた。それまで、字をしっかり教えてもらう機会が無かったらしい。ペレガミ家で女中として働きながら、ボジェナさんとか、目上の女中たちに教わった、と書いてあった。

 それから本題に入るんだが。前日の出来事が記されていた。オペイクス様がビナシス家の狩りに参加して、コモドーン城に行っていた間、オペイクス様のお母様が小屋に来ていたんだよ。そこまで読んだだけでオペイクス様は怒りに駆られて、思わず大声を出した。『パールに近づくな、と言ったのに』と。

 オペイクス様のお母様とパールが、どんな会話をしたのか。その細かい内容までは、パールも書いていなかったよ。

 とにかく分かったのは、オペイクス様のお母様がパールに、オペイクス様と別れるよう迫った事。『私の息子は、せっかく王陛下に謁見までしたの。まだまだ貴族として出世できるはずでしょ。お願いだから、私の息子を束縛しないで』とかパールに言ったらしい。

 王弟様の褒美袋は、パールがオペイクス様と別れた後に、当面の生活費に充てるよう、お母様が押しつけたものだった。

 これらのせいでパールは、自分が身を引くべきだ、と結論したんだよ。『お母様のおっしゃる通りだと思いました』と、その置き手紙には書かれていた。

 そしてパールは、こんなふうに手紙を締めくくった。『どうか私のことは忘れて、私と違った、立派なお嫁さんを迎えてください。あなたのためにこのようなお返ししかできない私の非力さを、どうかお許しください』と。

 読み終えたオペイクス様は、気が狂いそうに思えたそうだ。自分と別れたら、どうするつもりなのか。パールは、その点を全く書いていなかったんだ。

 この時点でパールは、どこにいるのか。誰か他の男のいるのか。それとも一人なのか。安全な場所なのか、危険なところなのか。全く分からない。

 もし、パールが何らかの暴力に苛まれていたら。ちょっと考えただけでも、オペイクス様は体が震えて、すぐにでも小屋を飛び出したくなった。しかし、どこに行けば。

 オペイクス様は、とりあえず小屋の外に出たよ。すると、放ったらかしにされた馬がオペイクス様をなじるでもなく、ゆっくり近づいて来た。

 さらに、その向こうに揺れる人影が幾つか見えた。ボジェナさん夫妻を含めた、平民たちだよ。彼らが状況を尋ねたので、オペイクス様は、もう正直に話した。パールがどこかへ行ってしまった事。置き手紙の事。

 これを聞いて、平民たちは『手分けして探しましょう』と言ってくれたよ。『おかげで私は目が覚めた』とオペイクス様は表現したね。途方に暮れている場合じゃないと気づかされたんだ。

 オペイクス様は自分の両頬を叩いてから、改めて平民たちに協力を求めた。そして自分は馬がある分、なるべく遠くを回ってみる事にしたよ。時折り、オペイクス様の小屋に集合するということで。

 平民たちは、すぐに動いてくれた。パールを探しながら、それぞれ隣近所に声をかけて仲間を増やしてくれたんだ。しばらくすると、もうナクビーの住民全員が外に出てきたようだったと。中には松明やランプ片手に、暗がりなんかを分け入ってくれたらしい。

 その間オペイクス様は、馬をナクビーの端から端まで走らせたよ。大声でパールの名を繰り返して。しかし、どこからも返事は無い。

 一回、二回と町を往復して、平民たちとすれ違う度に、成果を尋ねても、良い知らせは無かった。まあ、何かあったら、平民たちの方からオペイクス様を呼び止めるはずだからね」

「おばさん」私は我慢できずに、話を遮った。

「オペイクスのお母さんのところは?原因をつくった母親が何か知っているんじゃない?」

「うむ。当時のオペイクス様も、途中でそれを考えたよ。で、馬でエクテ家に向かい、お母様を叩き起こした。

 お母様は、パールの行方を知らない、と答えた。オペイクス様が喰い下がって『パールは何か言っていなかったか』と聞いても『あの女の言い分なんて興味は無い』と来た。それどころかオペイクス様に『エクテ家に戻って来なさい』と繰り返すばかり。

 口論になってオペイクス様が声を荒げているところへ、ロバに乗った平民が二、三人ほど駆けつけた。オペイクス様は、また彼らのおかげで冷静さを取り戻して、お母様の元を去ったよ。罵り合うより、パールの捜索に専念しようと。

 そうまでして夜中、ナクビーの町を調べ尽くして、郊外にも馬を走らせ、小屋にも何回も戻ったんだが」

 

 おばさんの言葉が途切れる。私が口をはさんだわけでもないのに。

「お、おばさん」私は泣き出した。「お願いだから、パールが見つかった、と言って。二人を再会させてあげて」

 セピイおばさんは、ゆっくりと首を横に振った。

「プルーデンス。私は神様じゃないよ。私も事実は変えられない。私も聞き手だったんだ。オペイクス様に話を聞かせてもらっただけ。もちろん、忘れはしないが。

 イリーデがあんたと同じ事をお願いしていたよ。あの娘も、わんわん泣いてね。かつてオペイクス様に迫った事とか、すっかり忘れて」

 そこまで言って、セピイおばさんは笑いかけたが、やっぱり笑えなかった。おばさんも泣いていたんだ。

「パールの遺体が見つかったのは、翌朝だった。

 夜は大人たちが捜索を手伝ってくれたんだが、朝になって、平民の子から情報が入った。

 その子が親に言うには『川に入っていく女の人を見かけた』と。その川は深い所があって、以前にも子供が溺死した事があったらしい。

 その事故をその子も覚えていたから、その女の人に教えてあげたんだが。彼女はその子に感謝しながらも『水浴びをするから見ないで』とか返した。

 その子は男の子だったんで、慌てて、その場を離れたよ。しかし、まだ幼かったとは言え、やっぱり気になったのか、少し覗いてみたそうだ。

 そしたら彼女は水浴びどころか、川原を何回も行き来するじゃないか。どうやら大きめの石を探して水際に集めているらしかった。

 それで男の子は興味を失って、家に帰り、翌朝まで忘れていたのさ。

 この情報を得て、とにかくオペイクス様は、その川へ急いだよ。馬も、まだ返さずに、そのまま使っていた。

 川原では、先に平民たちが集まっていた。自分たちで持ち寄った粗布か何かにパールを寝かせ、そのそばでうろたえていたんだ。男たちは立ち尽くし、頭を抱えて、オロオロしたり。女たちは体を寄せ合って、震えていたり、泣いていたりしていたそうだ。

 オペイクス様は馬から飛び降りんばかりに急いで、パールに駆け寄った。そして抱え起こそうとしたのだが。

 パールの体は濡れて冷え切っていた。その事は、ある程度オペイクス様も覚悟していたつもりだったが。すぐに分からなかったのは、その姿と重み。服の上から縄が、パールの体にぐるぐる巻き付いていた。

 その縄の端をパールの両の手が、それぞれ左右に引いている。強ばったその手を少しずつほぐして、オペイクス様は縄を離させた。そしてパールの体から縄を外していったよ。単純に巻き付いているだけで、硬く縛ったりはしていなかったから、ほどくと言うほど手間でもなかったんだが。

 その最中に服の中で、やたら重い塊がずり下がって、服を下に引っぱる。オペイクス様がパールの服の襟元とかを広げて、塊の一つ一つを取り出すと、やはり石だった。拳とか林檎くらいの大きさの石が幾つも出てきたんだよ。

 服は破けていなかったんだが。肌着の中にも石が入っていたせいか、肌にかすり傷が幾つか見えた。

 オペイクス様は近くにいた平民の女たちに頼んで、パールの傷の程度を調べてもらったよ。女たちはパールの遺体を囲んで、男たちからの視線を防ぎ、って男たちもオペイクス様の手前、ちゃんとよそを向いていたようだが。女たちはパールのかすり傷を数え上げ、やはり石でこすれたんだろう、とオペイクス様に報告した。どこかの男どもに乱暴されたわけではなさそうだ、と。

 女たちがパールの服の乱れを直して、オペイクス様を呼んだので、オペイクス様は改めてパールのそばに膝をついて、彼女を抱き起こした。そして、少しでも暖められないかと、自分の胸元に彼女の頭をもたれさせて。彼女の濡れた額に頬ずりして。

 オペイクス様は、ひたすら泣けて、声も出なかったそうだ。もっとも駆けつけた時から涙を流しておられたんだろうけど。

 そんなオペイクス様に平民たちは謝るんだ。

『あなた様が来られるまで、この人をどうしたらいいか分からなくて』

『うちの息子がもっと早くお伝えできていたら』

 なんて帽子とかを胸元で握りしめたりしながら、言う。彼らの何人かも涙していた。

 オペイクス様は、返事をするのが大変だったそうだよ。『気にしないで。あなた方は何も悪くない。むしろ、よく見つけてくれた』とか言ってあげたいんだが、何度も、つっかえたと」

「パールは・・・自分で死を選んだの?」

「おそらく」

 セピイおばさんの返事の後、私たち二人は数秒ほど言葉を失くした。

 言いたいことは山ほどあるが、私が言ったところで、オペイクスとパールの状況は変わらない。そう思うと、悲しいし、悔しい。

 沈黙を破ったのは、セピイおばさんだ。

「いけないね、こんなことじゃ。話を続けよう。あんたも、しっかり聞いとくれ。

 オペイクス様は、しばらく泣き続けた。それから自分がどうするべきか、考えようともしなかった。何も考えられなかったと。

 考えようにも、疑問ばかり。しかも相手は答えてくれない。パールからは、もう何の反応も得られないんだ。分かるのは、それだけ。

 なぜパールは死を選んだのか。彼女には、他に方法は無かったのか。これなら他の男と逃げてくれた方が、まだマシだったのでは。いや結局、私は嫉妬にかられて耐えられなかったのかも。だったら、この結果は仕方ない事なのか。もしかしたらパールは私を気づかって、あるいは私を恐れて死を選んだのか。

 そうだ。少なくとも私がパールの死に関わっている事は確かだ。オペイクス様も『それだけは理解した』とおっしゃったよ。なぜなら、パールに言葉でとどめを刺したのは、自分の母親だ。その母親に、手切金なんて親不孝をしたのは、自分。その親不孝が、こんな形で自分に返ってくるなんて。『まんまと母親に復讐された』とオペイクス様は思ったそうだよ。

 しかし。いつまでも嘆いてばかりはいられなかった。平民たちが小声で話しかけてきたんだ。『これから、どうしましょうか』と。

 それでオペイクス様は、ようやく考えを進めた。平民たちに礼を言い、『苦労をかけて悪かった』と謝った。そして解散を促しながら『荷車を一台、貸してほしい』と頼んだ。

 荷車はすぐに来たが、平民たちは、なかなか去らない。

 それどころか、オペイクス様たちの小屋の前に男たち数人を縛り上げている、なんて報告までする。以前、パールに卑猥な言葉を投げかけて、こってり搾られた連中だよ。オペイクス様は平民たちに、その男たちを解放するように言った。今回は無実だし、オペイクス様には八つ当たりする気力も無かったんだ。

 ついでにオペイクス様は、王弟様の褒美袋を思い出して、みんなで分けて使うよう頼んだよ。平民たちに押しつけて悪いとは思ったが、パールにとどめを刺したそれを、もう見たくなかったんだ。

 オペイクス様は、荷車にパールの遺体を載せたよ。そして、とにかく教会堂に行って、神父をつかまえようと考えた。終油の秘蹟が受けられないか。それがだめでも、葬儀のミサだけでもしてもらおうと。

 馬に荷車を引かせようと繋ごうとした、ちょうどその時、屋敷の使用人がやって来たよ。主人である、ビナシス家の役人から馬を取り返すよう命じられたんだと。オペイクス様は馬を返して、自分で荷車を引くことにした。これもパールに対する償いのようなものだ、と思ったそうだ。

 オペイクス様と荷車は、河原からナクビーの町の中心に向かって進み、途中にあった教会堂に入った。それまでには平民たちもだいぶ減っていたが、ボジェナさん一家を含め、まだ二十人ほどがついて来ていた」

 セピイおばさんは、そこまで話すと、葡萄酒をちょっとだけ口にした。私も同じくらい、もらった。

 

「教会堂では、少々もめたらしい。オペイクス様じゃなくて、平民と神父が、ね。オペイクス様が事情を話すと、パールを自殺者と見なして、神父が渋い顔をしたんだ。言葉ではっきりと表明したわけじゃないが、明らかにいい顔はしなかった、と。要するにヨランドラの坊主どもの、融通が利かないところだよ。

 そんな神父の態度に、事情を知る平民たちが喰ってかかったわけさ。『それでもキリスト教徒かっ』なんてね。中には、その神父が元領主のペレガミ家と懇意にしていたんじゃないか、なんて勘ぐる者までいたようだ。

 そんなでも、とにかく、その神父は即席でパールの葬儀のミサを執り行ってくれたよ。神父が仕方なしにでもいい、とオペイクス様は思ったそうだ。

 終油の秘蹟も結局、催促しなかった。そんな形式的な儀式で許されたと認定してもらわなければならないような罪など、パールにあるはずがない。むしろペレガミたちが終油の秘蹟を求めたら、拒絶してほしいくらいだ。そんなことを考えながら、オペイクス様はミサにあずかったそうだ」

「同感だわ」と私。

「私もだよ。一緒に話を聞いたイリーデたちも、きっとそうだったろう。

 ミサには、もちろん同行してくれた平民たち全員が参列して、パールのために手を合わせてくれたよ。

 ボジェナさんなんか泣き過ぎて、旦那さんに支えられていたとか。

 それよりも、ボジェナさん夫妻の孫たちだ。当時、四歳から八歳くらいだったとか。『何で、パールお姉ちゃんは死んじゃったの』なんて疑問を持つわけさ。オペイクス様はもう、それだけで泣き出した。『私の母が』とか『私の配慮が足りなかったから』とか答えようとして、ボジェナさんたちから止められたんだと。

 ミサの方は、それで何とか形になったが。

 困ったのは、お墓だよ。そもそもオペイクス様としては、パールの死を受け入れたくない。彼女を土に埋めたりしたくない。かと言って、このまま彼女の遺体を腐らせるわけにもいかないだろ。

 河原から教会まで歩く間中、そしてミサの最中も、パールが息を吹き返してくれないかと、ずっと願っていた。甘過ぎる期待と知りながらも、願わずにはいられなかった。しかし神様は叶えてくださらなかった。

 だから、彼女を埋めてあげるお墓が要るのだが。オペイクス様は生家エクテと断絶しているんだ。エクテ家の墓は使えない。オペイクス様も一瞬、お母様に頭を下げて、頼もうかとも思ったよ。だが、すぐに無駄だ、と考え直した。よくて、自分がエクテ家に戻る事を条件をつけてくるか。そんな条件の後で、本当にパールを墓に入れさせてくれるかどうか。『そうやって予想しただけでも、もう生家に頼るのが嫌になった』とオペイクス様は、おっしゃっていた。

 仕方なくオペイクス様はパールを乗せた荷車を引いて、自分の小屋に戻った。平民たちは、もちろん帰したが、オペイクス様を心配して、なかなか解散しなかったらしい。

 その時点で日も暮れていた。平民たちに容疑者と見なされた男どもは解放されたらしく、影も無かった。

 オペイクス様はパールを乗せた荷車を小屋に横付けにした。そしてパールが少しでも痛い思いをしないように願いながら、小屋の中の寝床にそっと移した。パールの体は、だいぶ固くなって、へんに抱えやすくて、それがまた悲しかったそうだよ。

 その後で、ふとテーブルに目が行った。王弟様の褒美袋が、まだ残っている。オペイクス様は『途端に体が熱くなるのが分かった』と私らにおっしゃったよ。褒美袋を引っつかんで、小屋の外に飛び出した。そして地面に叩きつけようと振り上げたんだが。

 周りに平民たちの家の明かりが見えた。ゆっくり見回すと、点々と灯っている。それぞれ夕食の支度などしている頃だろう。その日、一日中オペイクス様とパールのために行動を起こしてくれた、ナクビーの住民たちだ。

 オペイクス様は、たしか、その時の気持ちをこんなふうにおっしゃったね。

『彼らに、この報奨金を分けたら、彼らの生活にどれほど潤いをもたらす事ができるだろう。彼らが遠慮したから、小屋に残っていたのかもしれないが。

 彼らに配ったら、パールは、きっと喜んでくれただろうなあ。今からでも一軒々々回って、その玄関先にそっと一枚ずつ置いて去る、というのはどうだろう。パールを小屋に残したままになるのが気がかりだが。

 そうだ。こんな事なら、自分の母親に嫌味な親不孝をするより、パールと一緒に配って回ればよかったんだ。夜、パールと二人で、いたずらするみたいに近所を回って、密かに貨幣を配る。そしたらパールは私にどんな顔を見せただろう。少なくとも、母がパールにこれを押しつけるような事態にはならなかったはずだ。

 そう思い至って、私は泣いた。大声で泣かずには、いられなかった。すぐに近くの平民たちが心配して外に出てきたので、私は小屋に戻るしかなかったがね』

 と」

 セピイおばさんの言葉が、また途切れた。私も、何も言えなかった。

 

「オペイクス様は、その後パールの遺体のそばに座り込んで夜を明かした。眠れない。全然眠くならなかったと。

 もしかして、パールが目を覚ますのでは。小屋の外とかで、ちょっとした物音がする度に、その、もしかして、が繰り返された。でもパールは動かない。オペイクス様の呼びかけにも返事しない。オペイクス様は彼女の頬や額に何度も触れた。口づけまでした。それでも反応は無い。冷たいまま。

 つまり、パールは死んでしまったんだ。もう二度と語らう事もできない。抱きしめる時に、パールからも自分の背に腕を回してほしい、と頼む事もできない。パールの魂は、ここには無いんだ。『そんな事、認めたくなかった』とオペイクス様は、おっしゃっていた。

 そうやって呆然としている時間は、オペイクス様には異様に永く感じられたそうだ。自分は、もしかして永遠に、この状態なのでは。パールの遺体のそばで、彼女に何もしてやれずに絶望し続けるのでは。まるで時間が止まったような。永遠とは、こういうことなのだろうか。

 そんな考えに囚われていたら、別の考えもオペイクス様の中に浮かんだよ。それならそれで、パールとずっと一緒に居られるのでは。埋葬しないで、ずっとこのまま・・・

 しかしオペイクス様は我に返った。慌てて両の頬を叩いて、考え直した。だめだ。そんな永遠は、何の意味も無い。さっきから何度やっても、パールの返事は得られなかったんだ。もう心を通わせることはできない。目の前にあるのは、彼女の亡き骸だけ。自分にできる事は、せめて、この亡き骸を汚さないように、気をつけて守ってあげる事だ。

 オペイクス様は、そこまで話してから、私らに言ったよ。『これも彼女から教わった事の一つだ』とね」

 私は黙って、うなずいた。そうすることで、セピイおばさんに応えたつもりだ。セピイおばさんも、うなずき返してくれた。

「その夜は本当に永かったようでね。

 途中で、来客があった。暗くなって、しかも、だいぶ経ったからだ。ボジェナさんの一家が心配のあまり、とうとう見に来たんだよ。夜遅くだから、お孫さんのほとんどは息子さん夫婦と家に残っていたが、一番年上の男の子だけ、ついて来ていた。

 ボジェナさんたちとオペイクス様が短い会話を終えると、その男の子が口をはさんだ。

『パ、パールお姉ちゃんには悪いけど、もう死んじゃったんでしょ?騎士様は怖くないの?』

 まあ、素朴な疑問だったんだろうが、当然、祖父母から怒られたよ。

 オペイクス様は、それを見て、少し気持ちがほぐれた。

『パールお姉さんが幽霊か何かになると思ったのかい?もちろん、そんな事には、なってほしくないが。

 でも、そしたら私は、またパールお姉さんとお話しできるかな』

 なんて答えたと。

 ボジェナさん夫妻は孫の失言を謝りつつ『また明日、お伺いします』と言って、去っていった。

 残ったオペイクス様は改めてパールの遺体を見つめて、考えた。

 パールを化け物みたいに見なすなんて、口にしたのが大人なら怒るところだ。しかし子どもに悪気は無い。気になって仕方がないだけだ。

 むしろ、これをきっかけに想像してみるか。パールが化けて出てくる。彼女が恐ろしい形相で私に恨みごとを言う。

 とオペイクス様も、言葉では考えたが、姿を思い描けなかった。そして、はたと気づいた。パールが怒った顔を見た事が無い、と。笑顔も少ない。あったとしても、さびしげな笑みが多かった。それよりも何よりも、彼女の泣き顔ばかり見ていたような気がする。

 そう思い至ると、オペイクス様は改めて元領主のペレガミ家や自分の親族に怒りを覚え、パールの生涯が悲しいものに思えた。そして、彼女が自分に対しても遠慮していたとしたら・・・

 オペイクス様は私らに、こう言ったよ。

『私は、はっきり声に出してパールに呼びかけた。私を恨んでほしい。憎んでほしい。呪って、私を殺してくれ。そうすれば私も、そちらに行ける、と』

『オペイクス様っ』

 鋭い声が遮ったと思ったら、シルヴィアさんだった。

『おやめください、オペイクス様。あなたまで彼女を化け物扱いですかっ』

 オペイクス様は惚けたようにシルヴィアさんを見つめて、しばらく答えられないでいた。

『ありがとう、シルヴィアさん。あなたの言う通りだ。当時、私は全く余計な妄想に囚われていたんだな。実際、パールは私を連れて行ってはくれなかった』

 オペイクス様は答えながら笑みをつくろうとして、できなくて私らから目をそらしたよ。

 そして話を続けた。『おそらく神様も、シルヴィアさんと同じ考えだったんだろう』と。

 と言うのも、オペイクス様がパールから恨まれたいと願っている間に、周囲の夜の闇がだんだん薄れていったんだ。小屋の戸の隙間から、かすかに光が漏れてくるような。しばらくして戸や窓を開けると、日がまだ顔を出さないだけで、周りの家屋などが充分、識別できた。とうとう夜が明けたのさ。

 オペイクス様は念のため、試してみた。『パール。朝だよ。少し早いけど起きようか』そのままパールの顔を見つめ続けると、不意に彼女の唇の両端がほんの少し、つり上がった気がした。しかし、それだけ。その後、いくら待っても、何の変化も無かった。

 変化があったのは、むしろ小屋の外ばかりさ。遠くで鶏が朝を告げた。犬の返事も少々。家の戸を開け閉めする音もしたから、早起きが二、三人くらいは居たんだろう。

 オペイクス様は暗澹とした気持ちになったよ。何も解決しないまま、パールに何もしてやれないまま、朝を迎えてしまった。パールが、なぜ死を選んだのか。それは、このオペイクスのためと思ってのことじゃないか。そう思って、オペイクス様は自分を情けないと感じた。

 そして、改めてパールの気持ちを想像してみたんだ。水底に沈んだ時のパールの気持ちを。息ができなくて苦しかっただろう。近づいてくる死が怖かっただろう。もがいたり、身をよじったりすれば、抱え込んだ石も少しは外れ落ちたかもしれない。しかし河原では、彼女の服の中から、石は幾つも出てきた。つまり、もがいたり、身をよじったりを、パールは、ほとんどしなかったんだ。苦しさや死の恐怖に耐えながら、パールは死んでいった。誰のために。誰のせいで。

 オペイクス様は、またしても余計な妄想に囚われそうになった。嫌な言い方になるが、話を聞きながら私は、むしろオペイクス様は囚われたがっているように思えたよ。パールに恨まれたい。自分はパールに恨まれるべきだ。要するに、恨まれてでもパールとつながりを持ちたい、とオペイクス様は願っていたんだ。そんな関係でもいいから、パールと何らかの関係を保ちたい。オペイクス様自身は自覚していたか分からないが、私には、そんなふうに思えた。

 私の隣りで、シルヴィアさんが迷っている気配がしたよ。もう一度、叱るべきか。でも幸い、そんな手間は取らなくて済んだ。

 当時のオペイクス様も結局は、妄想に浸れなかったんだ。もう朝なんだよ。小屋の中でさえ、はっきり見えるようになった。パールの口元は少し上がったまま。それどころか、見ているうちに、だんだんパールが優しく微笑んでくれているようにさえ、オペイクス様には思えてきた。パールが私を気づかっているのでは。あるいは神が憐んでくださったのか。オペイクス様は、いつしか声に出して言っていたらしい。『パール。私を許さないで』と。

 この言葉をオペイクス様自身は、あまり覚えていなかった。へんに思うかもしれないが、オペイクス様本人は口にしていた事を自覚していなかったんだ。人に指摘されて、自分がぶつぶつ言っていた事に気づかされたのさ。例のボジェナさん家族だよ。この人たちが朝もやって来て、オペイクス様に声をかけたんだ。

 小屋のそばまで来たボジェナさんたちは最初、オペイクス様がパールと話しているのかと驚き、かつ期待したそうだ。やっぱりパールが息を吹き返したのでは。しかし、さらに耳をすますと、オペイクス様の声しか聞こえない。それで、ボジェナさんたちは慌てて小屋に踏み込んだとさ」

「オペイクスが狂った、と思ったのね」私は息を呑んだ。

「そう。オペイクス様が言うには、ボジェナさんたちは顔が真っ青だったらしい。当のオペイクス様本人は、何でボジェナさん家族がやって来たのか分からず、ぼんやりしてしまったと」

「それくらい心配してくれていたんだわ。しかも予感的中」

「要するに、見ていられなかったんだろうね、ボジェナさんたちからすれば。もっとも、この一家だけでなく、近所の平民たちも少しずつ集まって来たらしい。みんな、ボジェナさんたちと同じく、オペイクス様を気づかっていたんだ。

 オペイクス様は、そんな彼らと言葉を交わしているうちに、だんだん気持ちが落ち着いてきたそうだ。そして感謝を伝え、かつ心配させた事を詫びた。

 そんな時に、だよ。騎馬と馬車が押しかけてきた。平民たちは慌てて道を開ける。

 騎馬がオペイクス様の前で止まる。降りてきたのは、オペイクス様の上役にあたる、ビナシス家の役人だ。そういえば、昨日は無断欠勤だったな、とオペイクス様は思ったとか。

 しかし、お役人はオペイクス様を責めなかった。たしかに固い表情をしていたが、言及したのは別の事。『ヌビ家のご党首様がお前を訪ねて来られた』そう言ったっきり、硬直して立ち尽くした。

 役人は後ろを向いて、馬車に視線を投げた。オペイクス様がそれを目で追うと、馬車からアンディン様が降りてくるところだった。

 ヒュドラの紋章衣を着て、真っ直ぐオペイクス様を見つめ、そして歩いてくる。ちょうど、アンディン様の背後から陽光が立ち昇ってきた。その情景は、オペイクス様がパールを思い出す時に、よく頭に浮かんでくるそうだよ。

 アンディン様はオペイクス様の前に立った。オペイクス様とアンディン様は、向かい合ったまま数秒、沈黙した。

 オペイクス様は混乱していたんだよ。頭の中では、いろんな考えが渦巻いていた。ひざまずいた方が良いか。何とご挨拶するか。自分からも手紙などで連絡するべきだった、と謝罪するか。迷うばかりで、結論が出ない。都アガスプスの時と同じように『あの、その』の繰り返しになった。

 アンディン様は、そんなオペイクス様を止めたよ。ゆっくり手を上げて。そして、こんなふうにおっしゃったらしい。

『ここに来るまで間に、君の事情は、ある程度、聞いた。だから、君にも言いたいことが山ほどあるだろう、と推測している。

 だが、その前に私から一つ、言わせてほしい。

 実は、私も大切な人を失った事がある。だから、今の君の気持ちは分かるつもりだ』

 と」

「えっ」私は声が裏返った。「あれっ。それって・・・オペイクスがブラウネンに似たようなことを言ってなかった?」

「覚えていてくれたかい。ブラウネンも同じ質問をしたよ。オペイクス様は散々泣き濡らした後の顔をニヤリとさせて、告白してくださった。この時のアンディン様のお言葉を真似したんだと」

 そう答えるセピイおばさんも、ニヤリとしている。

「そういうことだったの」私も納得した。「オペイクスは、この話をブラウネンに聞かせたかったのね」

「ああ。だからブラウネンの、オペイクス様に向ける眼差しが変わったんだ。側で見ていて、はっきり分かったよ」

「あ、でも、アンディンの大切な人って、キオッフィーヌと結婚する前の話かしら?」

「そこはオペイクス様も知らなかったねえ。主君であるアンディン様に、根掘り葉掘り聞くわけにはいかないだろ。ご本人が自ら話してくださるのを待つしかない。そして、とうとう最後までアンディン様から話は無かった。

 そうだ。シルヴィアさんも、よっぽど気になったのか、オペイクス様に頼んで、よくよく思い出してもらったんだよ。パールを亡くした時のオペイクス様は二十過ぎ。ということは、アンディン様のご長男、ジャッカルゴ様も十歳は越していたはずなんだ。前に、修道院で学んでおられると説明した長女のメイプロニー様も、次男のジャノメイ様も、当時はすでに生まれていないと、おかしい。

 しかし、やはり遠慮しなければ、とシルヴィアさんも結論していた。相手が相手という問題もあるが、人の心に安易に踏み込んではならない。そんなことをぶつぶつ言っていたっけ」

 ふーむ。これでスカーレットとヴァイオレットも揃っていたら、もっとそわそわしていたんだろうなあ。まあ、そこは私も言える立場ではないが。

「それより、オペイクス様とアンディン様の会話に戻ろう。と言っても、オペイクス様はアンディン様のお言葉に驚いて、なおのこと返事ができなかったんだが。

 そんなオペイクス様を責めもせずに、アンディン様は続けた。『だからこそ。君が今、何か困っているようであれば、私も、できるだけ協力したい』と。

 オペイクス様は、このお言葉にハッとした。そして、ひざまずいて頭を下げた。『どうか、どうかヌビ様、お力添えを』

 オペイクス様は、パールのために墓を用意してやれない状況を、急いで説明した。

 すると、アンディン様は少し首をかしげた。『君の亡くなった細君のために、ヌビ家の土地を割くくらいは一向に構わん。しかし、それはビナシス家にも頼めるのでは?』

 オペイクス様は、またしてもハッとした。アンディン様に指摘されるまで、考えもしなかったんだよ。

 しかし、すぐに首を横に振って、オペイクス様は説明した。自分が主君ビナシスから疎まれている事を。ビナシスに頼んでも、まともに応じてくれないだろうという予想を。

 このままでは、パールは教会の墓地の、身寄りの無い者たちをまとめて葬る墓に入れられてしまう。自分という関係者が居るのに。オペイクス様としては、それだけは避けたかった。

 聞き終わると、アンディン様はオペイクス様を真っ直ぐ見つめて、おっしゃった。

『では、こうしよう。オペイクス。君は細君の亡き骸と共に、ビナシス家から我らヌビ家に移りたまえ。ヌビ家の墓地に、君の細君の墓を設けよう。君はヌビ家の一員として働きながら、細君の墓を守ればいい。

 どうかな、オペイクス』

 オペイクス様は、へなへなと座り込んで泣き出した。

『つい先日、私も似たような事を考えておりました。パールもまだ生きていて、一緒にヌビ様を訪ねて行こうかと。しかし、一度しかお会いした事の無いヌビ様に、いきなり、そのようにおすがりしてよいものか。

 迷っているうちに、このような情けない結果となりました。私の至らなさが、パールを死なせたのです』

『それを言うなら、私が君の細君を死なせたのだ』

 アンディン様の強い口調に、オペイクス様は驚いて顔を上げた。

『私がもっと早く、ここに来ていれば。もっと早く君を訪ねていれば。君の細君が死ぬ事は無かった。違うかね』

 オペイクス様は泣きながら、とうとう本当にアンディン様にすがりついたよ。『どうか、どうか、そんなことは、おっしゃらないでください。あなた様を責めるなど、筋違いです』

 これに対してアンディン様は、強い口調を続ける。『ならば、君も自分を責めるな。君が自分を責めたところで、おそらく細君は喜ばんぞ』とね」

「そうよっ。その通りだわ」私は声が大きくなって、思わず腰が浮いた。

 セピイおばさんは私を責めなかった。大声を出してしまったのに。代わりに、じっと見つめて言った。

「ありがとう、プルーデンス。わたしゃ、嬉しいよ。あんたと会わせてくれた兄さん、義姉さん、あんたの家族に、私は心から感謝する。

 あんたをオペイクス様に直に会わせる事ができたら、どんなに良かったか。せめてオペイクス様の代わりに礼を言わせておくれ」

 私はセピイおばさんにすがりついて、声を上げて泣いた。それで、おばさんの話をしばらく中断させてしまった。

 

 その後セピイおばさんから聞いた、オペイクスとパールの物語の続きは、こんなだった。

 まず、アンディンはオペイクスを連れて一度、コモドーン城に向かう事にした。オペイクスの転属に関して、一応ビナシス家に断りを入れるのだ。

 アンディンは自分の馬車を、オペイクスとパールに譲って、自分は騎乗した。コモドーン城への案内を、オペイクスの上役だった役人に言いつけて。

 オペイクスは、馬車の座席にパールの亡き骸を横たえ、自分は、そのそばにひざまずいたそうだ。

 コモドーン城では、いきなり現れたヌビ家党首のアンディンに、ビナシスは驚き、慌てて応対したのだが。アンディンから用件を聞くや、緊張を解いて、オペイクスに対する嫌味を好きなだけ言い散らかしたらしい。

『ヌビ様がよろしいとおっしゃるなら、どうぞ、ご自由に。

 ただし、後で此奴が期待はずれだったと分かっても、当家は引き取りませんぞ』

 とか。

 セピイおばさんから、これを聞いた時は、私は声を荒げてしまった。

「何を、偉そうにっ。オペイクスのおかげで、ペレガミ家の領地を取れたくせに」

 セピイおばさんは、またしても私の大声を叱らなかった。それどころか、くすくす笑ってくれた。

「安心しな、プルーデンス。それは、アンディン様が言ってくださったよ。ビナシスは反論できずに赤面していたとさ」

 そうよ。そう来なくっちゃ。やっと少し、私が喜べる展開になった。

 ビナシス家への断りが済むと、アンディンはヌビ家の領地に直行しようとしたが、思い直してナクビーの町に引き返した。オペイクスに出発の準備をさせてくれたのである。

 おかげで、オペイクスは準備だけでなく、ボジェナさん一家をはじめとする、多くの平民たちにお別れを言うことができた。彼女たちは、ただの平民ではない。一緒に戦い、パールのために行動してくれた、貴重な味方なのだ。

 オペイクスができた事は、お別れだけじゃなかった。王弟からもらった褒美袋を、今度こそ平民たちに配った。小さな小さなオペイクス城も、元の持ち主に返した。

 もっとも、ナクビーの平民たちとしては、オペイクスから物をもらうよりも、オペイクスを引き留めたかったのだが。彼らは思い余って、アンディンに訴えた。

『ええっと、あのう。遠方からおいでくださったお殿様。たくさんの蛇のお殿様、とお呼びしたら、よろしいでしょうか。

 えっ、何です、お付きの方。あ、ヌビ、というのですか。

 ヌビ家のお殿様。私どもも本当は、オペイクス様を連れていかないでほしい、と思っておるのです。と申しますのも、こちらのオペイクス様こそ、このナクビーの本当の領主様だ、と私どもは思っておりまして。

 もちろんペレガミ家と違って、今の領主であるビナシス家を忘れたわけでも、恨むわけでもないのですが』

『ペレガミ家に対する一揆が成功したのも、私らが安心して暮らせるようになったのも、みんな、オペイクス様のおかげなんです』

『だから本当は、オペイクス様に残っていただきたいのですが。パールさんのためなら、仕方ありません』

『どうか、オペイクス様をよろしくお願いします。そしてパールさんのお墓も』

 平民たちは口々に主張した。本来なら事前に発言の許可を求めるべき事も忘れて。オペイクスは『自分には、もったいない言葉の数々だった』と評した、とセピイおばさんは話してくれた。

 従者たちは平民たちに発言を控えさせたかったようだが、アンディンはそれを止めて、平民たちが主張するのに任せた。

 その上で彼は、こんなふうに返したとか。

『君たちの話を聞いて、私も一つ、思いついた。

 今後は定期的に、当家からこの町に、人を派遣しよう。ビナシス家がペレガミ家と同じ過ちを繰り返さないか、確認するためだ。ビナシス家には気づかれぬよう秘密にして、当家の者が調べる。ビナシス家の治政に理不尽な点があれば、君たちも覚えておいて、当家が派遣する者に訴えればいい。君たちの訴えを取りまとめて、私からビナシス家に注意しよう。

 そして私がこの町に派遣する者だが・・・もう君たちも分かるな』

 アンディンは平民たちに微笑んでみせた後で、オペイクスに目を向けた。

 これには、オペイクスもナクビーの住民たちも、あっと声を上げたらしい。

 そしてアンディンは、さらにもう一言くれた。『つまり、君たちは永遠に別れるわけでもないのだ。案ずる事は無い』

 粋だ。粋な計らいの連発。こんな人が私たちの領主のご先祖だなんて。あのモラハルトと兄弟である事が、まるで嘘みたい。もっとも、そこはセピイおばさんに言わなかったが。セピイおばさんに嫌な事を思い出させるほど、私も馬鹿じゃない。

 とにかくナクビーの平民たちは、歓声を上げて、アンディンとオペイクスを称えた。きっとオペイクスは涙を浮かべて、彼らに、そしてアンディンに礼を言ったことだろう。

 

 こうして別れを済ませたオペイクスは、アンディンに従って、ナクビーの町を後にした。

 そして一行が向かったのは、ロミルチ城。アンディンに言わせると、ナクビーの町からヌビ家の領地を目指すと、ロミルチ城が一番近い拠点だったようだ。まあ、話を聞くだけの私には、ナクビーも、そしてコモドーン城、ロミルチ城も、どんな位置関係にあるのか、想像もつかないのだけれど。

 ナクビーからロミルチまで、オペイクスたち一行は、その日のうちに行けたのか、翌日に着いたのか。そこは、セピイおばさんも忘れてしまっていた。

 とにかくアンディンは、オペイクスをロミルチの郊外にあるヌビ家の墓地に連れて行った。そして従者たちに棺を持って来させ、オペイクスがパールの亡き骸を運ぶのを手伝わせた。どうやらヌビ家は、それぞれの城の郊外に墓地を確保しているらしい。

 ロミルチ城の使用人たちも手伝って、墓地の片隅に穴が掘られた。パールの亡き骸を収めた棺が、そこに降ろされた。

 呼び出された神父が祈りを捧げている間、オペイクスは、目の前の墓穴に飛び込みたい衝動に駆られたとか。パールと共に、自分も埋められたいと思ったのだ。オペイクスがぼろぼろ泣きながら、そんな心情を吐露すると、アンディンからピシャリと叱られた。

『それを実行すれば、私は君を放り出すぞ。穴からではない。ヌビ家の領内からだ。細君の棺ともども、君を出て行かせる』

 オペイクスは大人しくアンディンに謝った。そして土が戻され、パールの姿がすっかり見えなくなると、その土を濡らすように、しばらく泣き伏していた。

 そんなオペイクスの上に、アンディンは、ぽつりぽつりと言葉を降らすように話しかけたのである。ついさっき叱責した時とは違って、その声から、尖った響きが無くなっていた。

『都で別れる時に、もう少し君の話を聞きたい、と私が言ったのを覚えているな。ついでだ。ここで聞かせてもらおう。そうすれば、細君も君の話が聞ける』

 そうまでして、アンディンはオペイクスの何を知りたかったのか。オペイクスの本心である。どんな気持ちでペレガミ家に対する一揆を扇動し、平民たちと行動を共にしたのか。それは、まさにオペイクスが、アガスプス宮殿で王族たちに聞いてもらいたかったことだった。

 ペレガミ家という、ごく一部の権力者から暴力や理不尽に苛まれた平民たちの気持ち。パールやオペイクス自身の気持ち。肛門から串刺しなんかでは全然収まらない、途方もない怒りや悲しみ。それらをオペイクスはアンディンに話した。洗いざらい話した。この方なら、王族たちと違って、受け止めてくださる。自分だけでなく、パールや平民たちの気持ちを理解しようと努めてくださる。オペイクスは、そう思ったのだろう。

 実際アンディンの反応は期待以上だった、と言える。セピイおばさんから話を聞いた私は、そう理解した。

『辛かったな。

 しかし同時に、貴重な体験でもある。そして世の政(まつりごと)に携わる者は皆、君がしたような体験を、体験者そのものを尊重すべきだ。私は、そう思う。悲劇を一つでも減らしたければ、まず、それこそが第一歩だ。

 そして私も、その第一歩を踏み出したい。だから、君に声をかけた。宮殿で君の話を聞いた時から、君を放っておく手は無い、と思っていた。

 君が我らヌビ家と共に、一歩も二歩も進めば、その分、亡くなった細君の涙も拭われるだろう。そう思わないか、オペイクス。

 改めて、私は君に頼む。ヌビ家に力を貸してくれ』

 オペイクスは泣きながら答えた。『私からもお願いします』と。

 それから。

 アンディンは、もう一つ、大事な話をオペイクスにした。アンディンが言うには、墓に入ったパールにも聞いてもらいたいことだ、と。そのためにアンディンは、従者たち全員を墓地の入り口まで下がらせた。オペイクスも内心、構えただろう、どれほどの話か、と。

 アンディンは、こんなふうに話し出した。

『私もここに来るまで、いろいろ考えたのだが。やはり私は、君と細君に謝罪しておいた方が良さそうだ。いや、いいのだ、オペイクス。聞いてくれ。

 実はな、宮殿で君を娘婿にしようなどとおっしゃった、あの王弟様はな、私の舅なのだ』

 セピイおばさんからこの事を聞いて、私は、あっと声を上げた。しかし、当時のオペイクスは、ぽかんとするだけだったらしい。それも仕方ない事で、オペイクスは、まだキオッフィーヌを知らなかったのだ。

 だからアンディンは、そこから説明しなければならなかった。自分は王弟の娘キオッフィーヌと結婚して、長男をはじめ、子供にも恵まれた、と。しかし。

 アンディンは、妻キオッフィーヌの父である王弟が、自分をあまり良く思っていないらしい事に気づいていた。具体的に何か迷惑をかけられたわけではない。だが、打ち解けているとは、お世辞にも言えない。

 セピイおばさんも私も、その気配は本物だったろう、という意見で一致した。名家の党首を務めるほどのアンディンだ。気のせいじゃないと思う。

 そんな状況で宮殿に召集されたわけである。アンディンも。そしてオペイクスも。

 招集するにあたって、王様は用件を知らせなかった。そのためアンディンをはじめ、ヨランドラの重臣たちは気を揉んだ。お互いに見合わせた顔が、明らかに強ばっていたらしい。シャンジャビ家も、リブリュー家も来ている。かつての名家も。ビマー家など、主だった中級貴族まで揃って。

 これらの面子から考えれば、ヨランドラが総力を上げて戦わなければならないほどの事態を予想するのが当然である。東隣りのフィッツランドと戦争になるのか。西側のセレニアは、まだ、そこまで団結していないはずだが。あるいは湖の向こうのラカンシアが、こちらヨランドラの漁民を襲ったのか。

 しかし、これら全ては杞憂だった。王様はアンディンたちに言った。『今回は少々変わった余興を用意させた。皆、楽しんでゆくが良い』と。

 オペイクスが若き日のセピイおばさんたちに言う事には、アンディンはロミルチの墓地で、遠くをぼんやり見ながら話したそうだ。

『あれは、ひどい会合だったな。舅殿を悪く言う事になるので、気をつけねばならんが。王陛下も王弟陛下も、君の真剣さを理解しようとしていなかった。

 王族の方々がそうであれば、シャンジャビなど家臣たちは、右に倣えだ。誰か一人くらい、疑問を持ってくれても良さそうなものを。

 私には、時間を無駄にしている、としか思えなかった。君の貴重な体験を教わる、せっかくの機会を無駄にしている、と。歯がゆい。早く終わってくれ。終われば、すぐに君に声をかけよう。そればかり考えていた。

 そんな気持ちを、顔に出さないよう努めていたつもりだったが。おそらく舅殿は勘づいたのだろう。そして君に、からんだ。私という娘婿の前で。

 もし本当に舅殿の、王弟陛下の娘と君が結婚したら、君の立場は私と同じになる。つまり王弟陛下は私に当てつけていたのだ。(お前と同じ立場の者を、もう一人こしらえてやろうか)と。

 まあ舅殿には、すでに未婚の娘は居なかったのだが。妻キオッフィーヌの姉妹は皆、所帯を持っている。つまり、はじめから君をからかうつもりだったのだ、舅殿は。もちろん、王陛下も気づいておられたはずであり、シャンジャビやナモネアも状況を見抜いていただろう。あ奴らの笑みには、明らかにその色がにじんでいた。

 嫌な事を思い出させて悪いが、あの時、君は笑われていたな。しかし、私もまた、共に笑われていたのだ。

 気にし過ぎ、と言いたいか。私は、そうは思わない。こちらは、わざわざ宮殿にまかり越すような手間を取っているのだ。従者たちまで連れて。そんな手間を取っておきながら、やる事が他人をだらだら笑う事か。全く割りに合わない。分かるな、オペイクス。私は油断したり、大切なことを見落としたり、したくないのだ。

 だからこそ、私は君に謝ろうと思う。オペイクス。君は、私と舅殿の軋轢に巻き込まれたのだ』

 恐縮するオペイクスを制して、アンディンは続ける。

『遠慮しないで答えてくれ、オペイクス。君は、近づいて来た私を警戒したのではないか。君からは私が、他の者たち、シャンジャビやナモネアと同様に君を笑う側に見えた。それで、私と語らうことに気が乗らなかった。違うかな。

 いや、私は君を責めているのではない。当然の反応だ。私が君の立場だったら、なるほど、このヌビという男を疑い、見極めるのに時間をかけるだろう。

 私と君は、出会い方が悪かったのだ。宮殿の空気が、あのようにならなかったら。君はもっと早く私と語らい、私も君たち夫婦に協力できていたはずだ。それこそ、細君が生きている間に。

 これで分かっただろう。元をたどれば、私と舅殿が原因、いや、ひとえに私が至らなかったのだ。

 だから私は、君の亡くなった細君のために、墓地の一画を割こう。せめてもの罪滅ぼし、と解釈してくれたまえ』

 これを言われた時、オペイクスはすでに両膝をついて、鼻水まで流して、泣いていたそうだ。本人が若き日のセピイおばさんやイリーデたちに、そう話したのだ。

 そしてオペイクスは、新たな主君アンディンに、何と返事したかも語った。

『罪滅ぼしなど、もったいないお言葉です。どうか、お気になさらないでください。

 それより、もう一つ、お願いがございます。ヌビ家のために命を捧げて、お仕えしますゆえ、私が死んだ暁には、どうか、ここに、パールのそばに私を埋めてください』

 罪滅ぼしの受取り方はともかく、アンディンは快く引き受けて、オペイクスを安心させた。

 

「こうして、オペイクス様はアンディン様にお仕えするようになったのさ」

 セピイおばさんの話は続く。

「ペレガミ家、ビナシス家と来て、ヌビ家が三軒めの奉公先だ。オペイクス様は、とにかく必死で働いたんだろうよ。がむしゃらって言葉は、こういう時に使うんじゃないか、と私は話を聞きながら思ったもんさ。

 戦闘ごとがあれば、必ず自分から参加を申し出て。オペイクス様が戦闘で囮役を買って出るようになったのは、ヌビ家に移ってからだ。その理由は、もう想像がつくだろ」

 私は、あっと思ったが、絶句して続けられなかった。代わりに、おばさんが続けた。

「オペイクス様は認めたよ。『自分は死にたがっていた』と。下手をすれば、私らに話してくださった時も、どうか分かったもんじゃないねえ。

 だから聞いていたシルヴィアさんの目が尖ったし、それ以前にアンディン様からも、たしなめられていたんだ、オペイクス様は。それも一度や二度じゃない。新しく上役になったロンギノ様からも、ね。アンディン様としては、雇い入れたばかりの者が死にたがるようじゃ、骨折り損だろ。そもそも、自殺はカトリック教会の教えに反している。

 とは言え、アンディン様がオペイクス様を説得し、励ますのに、さほど手間取らなかったよ。『君が死んだら、細君の墓は誰が守る。ヌビ家は、そこまで甘くないぞ』ってね。

 おかげで私らはオペイクス様から話を聞く事ができたし、オペイクス様も長生きしてくださった」

「今も生きているの?」

 聞いた直後に私は、間違えた、と思った。さっきセピイおばさんは、私をオペイクスと直に会わせられない、と言ったばかりだ。

 おばさんは、さびしげな笑みを浮かべた。

先の大戦で亡くなったよ。もう、私以上の年寄りなのに、侵略者を相手に・・・って、これは、また別の機会にしよう」

 セピイおばさんは先走りすぎた話をすぐに区切って、オペイクスの若かりし頃に話を戻した。

 ヌビ家で騎士として働きながら、オペイクスは定期的にロミルチ城まで馬を飛ばした。パールの墓参りをするために。

 そしてナクビーの町にも。住民たちの生活に変わりはないか、オペイクスは注意して見回った。時折り、ボジェナさん一家などとの嬉しい再会もあったらしい。

「パールの墓参りの方は、特に問題は無かったようなんだが。

 ナクビーの方では、オペイクス様にとって、ちょいと嫌な事があった。

 弟さんの噂だよ。弟さんは結婚するには、したんだが。相手は、どうもコモドーン城でオペイクス様に紹介した婚約者ではなかったらしい。じゃあ誰かと言うと、元領主ペレガミの娘なんだと」

「えっ、ペレガミの娘って、たしか」

一揆の時にオペイクス様から見逃してもらって、ビナシス家に身を寄せていた。で、母親ともどもビナシス家の党首の妾にされて。その娘だよ」

「そ、そんなことって」驚きのあまり、私は言葉が続かない。

「もちろん、いいわけないよ。しかし、逆らえないだろ。弟さんも、ペレガミの娘本人も。

 貴族にありがちな話さ。自分が使い古した女を家来なんかに下げ渡す。貴族の男からすれば、女は物同然なんだよ」

「さっ、最低だわ、ビナシスはっ」

「さらに言えば、母親、つまりペレガミの未亡人の方は、役人の一人に押しつけたとか。ちょうど奥さんを亡くして、独り身の中年男が居たらしい」

「で、でも、ビナシスには奥さんも子供も居たんでしょ?」

「居ただろうね。コモドーン城なんていう、歴とした城持ちの貴族なんだ。跡継ぎが絶対、必要になる。

 そのくせ世間体も気になるし、教会からお叱りを受けるのも嫌だから、妾に男をあてがうのさ。この女は誰それの妻であります、自分は知りません、なんてね。

 ひどい貴族になると、そうやって家来とかに押しつけておきながら、その後も密かに女に迫ったりし続けるらしいよ」

 か〜っ。私は腹が立ち過ぎて、もう、どんなに罵っても収まらない。モラハルトといい、このビナシスといい、どいつもこいつも。

「この弟さんの噂を、オペイクス様はコモドーンの城下町の呑み屋で耳にしたんだ。頭巾を目深に被って、正体を隠している時にね。

 これがどういうことか分かるかい、プルーデンス」

 セピイおばさんに顔を覗き込まれて、私は答えられなかった。

「ボジェナさんたち、ナクビーの人たちは噂を知っていて、オペイクス様に聞かせなかったのさ。嫌な思いをするだけだ、と気づかってね。

 オペイクス様自身も、おっしゃっていた。『パールに聞かせてられない話だ』と。墓参りでは、なるべく、ボジェナさんたちが安泰であるというような話をしたかったそうだ。誰かの子供が大きくなったとか、畑の収穫がよかったとかね。

 ビナシス家が弟さんにした仕打ちは、とてもじゃないが、墓前の話として使えなかったわけさ」

「アンディンには話したのかな?」

「一応、報告したらしい。オペイクス様も気が進まなかったが、これも務めだからね。後はアンディン様がどう活用なさったかは、オペイクス様も分からなかった。ただビナシス家は一度もヌビ家に刃向かった事は無いから、釘を刺すネタの一つには、なったかもね」

「おばさん」

「ん、何だい」

 セピイおばさんが私の目を覗き込む。

 私は、ちょっと言い淀んだ。自分から声をかけておきながら、後悔の気持ちがわいてきたのだ。そのくせ止められない。私は、こう質問する。

「もしかして・・・ペレガミの娘は、妊娠していたとか」

 セピイおばさんは一瞬、固まったが、ため息をつくことで自分を緩めた。

「ビナシスの子供をかい?まあ、それも、ありがちな話だよ」

 そう答えても、セピイおばさんは断言まではしなかった。オペイクスも、そこまではセピイおばさんたちに話さなかったらしい。知っていたのか、知らないのか。私も、ため息をつきたくなる。

 そもそもオペイクスの弟は、ペレガミの娘から見れば、親の仇の親族じゃないか。二人の結婚生活が明るいものだったとは、とても思えない。

「オペイクス様は、アンディン様から忠告されたそうだ」

 セピイおばさんが話を続ける。

「もう弟さんやお母様の事は気にするな、と。弟さんたちも、その時点で大人なんだ。自分で対処するべきだ、ってね。

 オペイクス様だって、その娘の父親を面白半分に殺めたわけじゃないだろ。大真面目だったんだ。

 しかも弟さんたちの方では、パールの件でオペイクス様に協力しなかった。

 オペイクス様が弟さんたちを気にかけてやる義理なんか無いのさ」

 私は黙って、うなずいた。そのくせ、心の中では、でも、と思っている。きっと、セピイおばさんも。オペイクスは・・・気になったんだろうなあ。弟と母親を許さないことは変わらないけど。それでも気にした、に違いない。オペイクスは、そういう人だ。

 だから私たちは、二人して、ちょっと黙り込んでしまった。

 

「さてと」セピイおばさんが沈黙を破った。

「話がこの辺りまで来ると、オペイクス様は『そろそろ、お開きにしなければ』と言い出した。

 日暮れどころか、周りは、もう真っ暗だったよ。城壁の上の歩廊には、いつの間にか篝火が点々と並べられていた。

 晩餐の時間も、とっくに過ぎていただろう。食事を取り損なうとか以前に、私とイリーデとシルヴィアさんは女中としての仕事をすっかり忘れている。ブラウネンも給仕とかを勤めなきゃいけなかったんじゃないかねえ。もしかして誰かが私らも呼びに来ていたのかもしれないが、話に夢中で、誰も気づいていなかった。

 オペイクス様が、おっしゃってくれたよ。『周りの人たちには、私が説明して謝るから』と。

 で、急いで塔を降りようということになったんだが。シルヴィアさんがオペイクス様を引き留めた。『あと少し、お聞かせください』と。

 何の事かと思ったら、シルヴィアさんは、パールの置き手紙を見たい、と言い出したんだ。もちろんオペイクス様は驚いていたし、私もきっと目を丸くしていただろうよ。そもそも、シルヴィアさんらしくない発言なんだ。他人の手紙を読みたがるなんて。

 一番若いイリーデでさえ、良くないことだ、と反対したんだが。なぜかシルヴィアさんは真剣に、オペイクス様にお願いを繰り返す。

『それなら』と、オペイクス様が懐から羊皮紙を一枚、取り出した。オペイクス様は、それをパールの形見として、普段から肌身離さず持っていたんだよ。お願いした時点で、そのことをシルヴィアさんも推測していたのさ。

 オペイクス様はパールの手紙を手に、篝火のそばに移動しようと提案した。その塔が、メレディーン城の塔の中で一番太くて広い、と私が説明しただろ。替わりに高さはそれほどでもなくて、左右に歩廊が延びていたんだ。つまり外城壁と同じ高さでくっついているわけ。

 もうすっかり夜だから、手紙を見せていただくには、篝火の明かりが要る。その明かりの中で、オペイクス様はパールの手紙を広げてみせた。シルヴィアさんは、それでも飽きたらないのか、直に手に取って読みたい、と許可を求める。オペイクス様は気圧されたのか、手紙を渡したよ。

 受け取ったシルヴィアさんは、私とイリーデ、ブラウネンに強めの口調で言うんだ。『あんたたちも、しっかり目を通しなさい。こんな貴重な機会、滅多に無いわよ』と。しかも言うだけ言ったら、私らの反応なんかお構いなしに、自分が真っ先にむさぼり読んでいた」

「う〜ん」私は、例によって話に割り込んでしまった。

「いいのかなあ。そりゃ、貴重な機会って言うのは分かるけど。だからって」

 私が首をかしげると、セピイおばさんは微笑んだ。

「まあ、その反応が普通だろうよ。そもそも私ら四人の中で、そういう礼儀作法とかを一番注意しそうなのは、年上のシルヴィアさんなんだがね。シルヴィアさんに、何か思うところがあるのか。それは、パールの手紙を読ませていただいて、何となく分かった気がしたよ。

 で、肝心のパールの手紙なんだが。なるほど、上手な字とは言えなかったね。たどたどしい、いかにも習っている途中って感じの。

 でも・・・ひしひしと伝わってきたよ。パールがオペイクス様に伝えたいという気持ちが。何としてでも、それこそ死を選んででも伝いたいという気持ちがね。

 羊皮紙には、大体こんなことが書かれていた。

『わたしは、なんのとりえもない女です。男たちに身をまかせることで、なんとか生きのびてきました。いんばいとののしられたこともあります。

 そんなわたしの人生の中で、あなたとすごした日々だけが、心やすまるひとときでした。あなたにかんしゃしております。

 もし生まれかわったら。生まれかわり、なんてかいたらきょうかいのしんぷさんたちからおこられるかもしれませんが。もし生まれかわって、もういちど会えたら。どうか、そのときこそ、わたしをあなたのおよめさんにしてください。

 でも今は。わたしは、あなたのおよめさんにふさわしくありません。

 どうか、すてきなおよめさんをみつけてください。どうか、おしあわせに』

 とかね」

 セピイおばさんは、そこまで話すと、言葉に詰まっていた。

「あの時、私は・・・読み終えてから、改めてオペイクス様を見た。そして手紙を読ませてくださった事に礼を言ったよ。と言うのも、シルヴィアさんが先にオペイクス様に礼を言っていたんでね。シルヴィアさんがお手本を示してくれたのさ。イリーデとブランネンも、そのお手本に倣ったよ。

 そして私はシルヴィアさんにも礼を言った。本人は『私に言う必要は無いでしょ』なんて言っていたが、私は引っ込めなかったよ。パールの手紙を読むことができたのは、シルヴィアさんがオペイクス様に頼んでくれたおかげなんだから。

 で、イリーデとブラウネンも私に続いてくれたよ。イリーデは多少、ぎこちなかったけど」

 一度、言葉に詰まったセピイおばさんを、イリーデがまた微笑ませてくれた。

 

「おばさん、ありがとう。私にも聞かせてくれて」

「ふふっ、さっそく応用したね。私も話した甲斐があった。

 とは言え、私らも、そろそろお開きにしなきゃねえ。すっかり長話になってしまった」

 セピイおばさんはそう言うや、話の区切りを急いだ。

 まず、手紙を懐に戻したオペイクスは、セピイおばさんたちを食堂に向かわせるべく、歩廊から下に伸びる階段を探したのである。階段自体はすぐに歩廊の前後に一つずつ見つかり、その近い方におばさんたちは移動したのだが。

 なぜか、その陰に色男の騎士オーカーが潜んでいた。シルヴィアに見つかって、盗み聞きを咎められて、ばつの悪そうな顔をしていたのだろう。

 そんなオーカーに、オペイクスは言うのだ。『なんだ。やっぱり君も話を聞いてくれたのか。ありがとう』と。

 これに対して、オーカーは、こう、ごまかした。『き、聞いていたって、今来たばっかりっすよ』

 するとオペイクスは、こんなことを言い出した。

『はっ、そうか。みんなを迎えに来てくれたんだな。ちょうどいい。オーカー君は、みんなを連れて、先に行っていてくれないかな。

 他の人たちから怒られたら、オペイクスが謝罪する、と言ってくれ。私も後から行くよ』

 当然、若き日のセピイおばさんたちはオペイクスに尋ねた。なぜ一人で残るのか、と。オペイクスは答えた。『話をしているうちに何度も昂ったからね。ここで少し頭を冷やそうと思う』

 これを聞いたセピイおばさんたちは『そんなこと言わないで、一緒に降りましょう』とオペイクスの腕を引っぱって行ったそうだ。ナクビーの住民たちと同様、とてもじゃないがオペイクスを一人にできない、と思ったのである。

「オペイクス様も今さら城壁や塔から飛び降りたりしないだろうと思いたかったが。念のためにね」

 とセピイおばさんは私に説明した。

 なるほど。話の区切りが、なかなかつかないわけである。

 しかも。当時のセピイおばさんとオペイクスたちは、階段を降りていく途中で、さらなる人影に気づいた。オーカーが、げっと驚きの声をもらし、オペイクスも慌てて階段を駆け降りようとして、制止の声を受けた。『急がなくてよい』と。

 主君アンディンだった。そして、すぐ隣りに若い男が一人。

 オペイクスはアンディンに正直に告白した。セピイおばさんやイリーデたちに、パールとの一件を話して聞かせた事を。それでいろいろと話しすぎたかもしれないと謝ったが、アンディンは責めなかった。『いや、君にしか話せない事だ。むしろ、自分の辛い経験をよくぞ話してくれたな。若い者たちの気づきになるだろう』とまで言ってくれたらしい。

 オペイクスは続けて、若い男にも挨拶した。『ジャッカルゴ様、お戻りでしたか。お変わりないようで、何より』

 若い男は、こんな返事だったとか。『うむ。お前も変わりない、と言うか、あいかわらず親父にこき使われているようだな』

 そしてニヤリと笑みを見せ、拳を突き出してオペイクスに受け止めさせた。

 これが、オペイクスとシルヴィアたちの会話に登場した、アンディンの長男ジャッカルゴである。シルヴィアやイリーデは以前から面識があったようだが、セピイおばさんが彼と会ったのは、この時が初めてだった。

 ヌビ家の党首父子が待ち構えていたなんて。セピイおばさんもシルヴィアも、にわかに緊張したらしい。もちろんイリーデとブランネンも。

 セピイおばさんたちの心配をよそに、アンディンは穏やかに言った。しっかり食事を摂るように、と。その上でブラウネンにだけ、こう付け加えた。『急がなくてよい。腹ごしらえが済んだら、私の書斎に来るのだ』

 つまり党首父子が待っていた相手は、ブラウネンだったわけである。若き日のセピイおばさんがそばで見ていて、オペイクスが党首アンディンに事情を尋ねたがっているような気配があった。しかしオペイクスは、主君と目が合うと、口をつぐんだ。尋ねる事は、できなかった。

 その後、セピイおばさんたちは食堂に行ったのだった。かなり遅くなった晩ご飯。セピイおばさんたちは、ほとんど会話せずに食事を済ませたらしい。塔の上では、あんなに語らったのに。なぜ口数が急に減ったのか。オペイクスが青い顔になって、黙りこくっていたからである。

 やがてブラウネンが一番に食べ終わって、イリーデに小声で『行ってくる』と言い残して、出て行った。急がなくてよい、と言われていたにもかかわらず。

 イリーデは何か返事をしてあげようとしながら、ブラウネンを目で追うばかりで、何も言えなかった。

 ブラウネンが食堂から見えなくなると、イリーデはオペイクスに尋ねた。『ブラウネンは、ご党首様からお叱りを受けるのですか?私が結婚を拒みすぎたから』尋ねながら、彼女の目には涙がたまっているのが、セピイおばさんにも分かった。

 オペイクスは慌てて笑みをつくろった。『お叱りなんかじゃないよ。大丈夫。

 ただ、大事なお話があるのだろう。他の者には聞かせられないような、とても大事な話が』

 この答えでも、イリーデの顔は晴れなかった。晴れるわけがないのだ。納得も何も、信じて待つしかないだから。

 その後、若き日のセピイおばさんとイリーデ、そしてシルヴィアの三人は女中頭ノコのところに行って、謝ろうとした。が、ノコは三人を叱らなかった。先に寝ていて、セピイおばさんたちから起こされたのに、ノコは叱らなかった。事前に、党首アンディンがノコに事情を説明してくれていたのである。だから他の女中たちも使用人たちも、三人に、とやかく言わなかった。

 ここまで話して、セピイおばさんは大きく背伸びした。

「ふーっ、やらかした。外が明るくなり出したよ。

 もう、あんたも寝なさい。アンディン様が根回ししてくださっていたみたいに、私もあんたの両親に根回ししておこう。だから安心して寝坊するんだよ。いいね」

 セピイおばさんに急き立てられて、私は離れの外に出された。

 戸を閉めようとするおばさんに急いで礼を言った。そして、付け加えた。「おばさんも、寝坊してね」

「ああ、そうさせてもらうよ」

 私たちは、それで一旦、別れたのだが。

 家に入る直前、私は振り返って、離れを確かめた。まだ、かすかに光が漏れているような気がした。

自作小説「塔の上のセピイ  〜中世キリスト教社会の城女中の話」第十二話(中編)(全十九話の予定)

第十二話 戦う理由、気づかう理由(中編)

 

 セピイおばさんは、ため息をついた。それは、すごく重たいものに聞こえた。

 と思いきや、セピイおばさんは私をひたと見つめる。私は緊張してきた。

「さて、ここで質問だよ、プルーデンス。あんたはどう思う。パールが不生女なのか、それとも考えすぎなのか」

 私は言葉に詰まった。散々口をはさんできたくせに、今はそう簡単には答えられない。分からない。パールの気持ちを考えると、考えすぎと答えたいが。果たして、それが妥当なのか。

「迷っているね。じゃあ質問を替えよう」セピイおばさんは私の答えを待たずに進め出した。

「オペイクス様はパールをどう思ったんだろうか。パール自身の言葉通り、不生女と思ったのか、パールの考えすぎと思ったのか」

「って、それは、もちろん・・・あっ、えっ、もしかしてっ」私は声が大きくなってしまった。

「そう。オペイクス様はパールを不生女と思ってしまったんだよ」

「ええーっ、そんな。・・・よりによってオペイクスが、オペイクスが、そんな考えに囚われるなんて。パールのことを一番思いやっているのは、オペイクスでしょ?」

「だからオペイクス様自身が驚いていたよ。私らに話すまで、そしてシルヴィアさんに『否定すべきだった』と指摘されるまで、自分でも気づかなかった、とね。

 オペイクス様は言った。

『私は、なんて大馬鹿野郎なんだ。理解するのに、こんなに、こんなに時間がかかるなんて。

 ・・・でも、みんなのおかげで、やっと分かった。あの人が・・・パールが泣き続けた理由が。私が至らなかったんだ』

 オペイクス様は、うつむいて、笑みを浮かべようとして、できなかった。自分自身を笑おうとして、結局、泣き顔になったんだよ」

 セピイおばさんがそこで、また、ため息をはさんだ。私には、それが、さらに重くなったように聞こえる。

 それからセピイおばさんは、オペイクスがパールを不生女と思った事情を話した。

 当時のオペイクスは、泣き続けるパールを上に乗せたまま、受け止めながら、天井を見上げて考えた。パールが自身を不生女と言う理由。パールが自身をそのように思う理由を。

 それは、やはりペレガミでは。ペレガミはパールを妾として弄んだ。それで、パールは何度か妊娠したのでは。そして、その度に堕胎薬などで胎児を堕した。堕ろさせられた。

 領主ペレガミなら、都アガスプスで堕胎薬を仕入れてもおかしくない。あるいは、紋章に蛇を使うくらいだから、やはり王家とつながりがあって、そちらから回してもらったのかも。遠い海の向こうから貿易商が運んできた薬。それをペレガミが、パールに飲ませたとしたら。

 しかし、そうやって子堕しを繰り返すと、やがて女の体に悪影響を及ぼす。ついには、子どもを産めなくなる。私は、セピイおばさんから話を聞くまで、そのことを知らなかった。だが、当時のオペイクスは知っていた。噂などの耳学問に過ぎないが、そういう事例が多いらしい、と認識していたのだ。

「オペイクス様は、その夜、眠れなかったそうだよ。『寝つけないでいると、あれこれ邪推して、そんな説を組み立てしまった』と。

 分かっているだろうが、もちろんオペイクス様の推測に過ぎないよ。オペイクス様はパールに確認できなかったんだ。

『尋ねるべきか、本人が話し出すまで待つべきか。それ以前に、確かめる、真実を受け止める覚悟が無かった。私は臆病で、卑怯だった』

 オペイクス様がそんなふうに言うと、シルヴィアさんが少し語気を強めて言ったよ。

『オペイクス様、自分を卑下するのは、やめてください。この場合は、本人が話し出すまで待つ、で正解なんです』

 イリーデとブラウネンも、シルヴィアさんを追いかけるように言ったね『オペイクス様は間違ってません』と。

 オペイクス様は絞ったような小声で『ありがとう』と答えていた。

 そんなオペイクス様の姿は、見ていて、こちらも辛かったねえ」

 セピイおばさんは、そこで話を中断して、私に忠告した。まずは、堕胎薬なんて物に頼らないこと。そんな物に頼るような男に引っかからないよう、気をつけて相手を選ぶこと。「ちゃんと責任感を持って、女と接する男。子育てという責任を自覚している男。そういう男をつかまえなさい」と。

 おばさんは薬についても忠告した。市場で、あるいは何かの拍子に堕胎薬を見かけることがあるかもしれない。しかし、あっても、信用しないこと。「どんな紛いもんで、体にどんな影響があるか、分かったもんじゃないよ」と、おばさんは吐き捨てるように言った。

 私は少し怖いような気もしたが、とにかく忘れまいと思って、おばさんにそう答えた。

 それで安心してくれたのか、おばさんは話を再開してくれた。

「オペイクス様は当時の夜について、あと一つ付け加えた。パールは泣き疲れたのか、そのまま寝てしまったらしい。『それが、せめてもの救いだった』とオペイクス様は、おっしゃっていた」

 

 それからオペイクスの話は、翌日の事に移った。

 朝、パールをそっと起こすと、二人して昨夜の食べ物の残りを分け合ったそうだ。

 そしてオペイクスは、またボジェナさんを訪ねる。畑仕事などをパールに分けてもらって、オペイクス自身はペレガミ家の屋敷に急いだ。せっかくビナシス家の使者が来ても、すれ違いになれば、時間が無駄になるからだ。ビナシス家から見た印象も悪くなりかねない。

 だからオペイクスは焦っていた。一揆を起こし、騎士を派遣して、丸一日は経っている。コモドーン城との距離は分からないが、ビナシス家の使者が来るとしたら、今日あたりのはず。

 オペイクスがペレガミ家の屋敷に着くと、前日より人影が減って、時折り覗きに来る平民を見かけるくらい。ほぼオペイクス一人だった。

 オペイクスは、顔を出した平民に確認した。『貴族家の使者らしい騎馬の者を見かけなかったか』と。その平民は屋敷の近所に住んでいて、何度も屋敷を覗きに来たが『まだ、そのような方はお見かけしていません』と言う。

 オペイクスはホッとしたものの、へんに時間を持て余した。

 それでオペイクスは、玄関口に腰を下ろして、改めて中庭を見渡した。中央には、ペレガミの首を飾ったピッチフォークが立てられ、その下に首無しの体と、串刺しにされた人でなしが二人、転がっている。一揆勢との戦闘で死んだ兵士と、串刺し刑を見せられている途中に死んだ兵士も。

 さらにその隣で、昨日まで息をしていた兵士たちも動かなくなっていた。自分が居ない間に、腹立ちの収まらない平民がとどめを刺したのだろう。そう、オペイクスは推測した。斬り傷が増えていたのである。

 セピイおばさんは、オペイクスから聞いた話を、私に伝える。

「例によってオペイクス様は、その平民を探さなかった。『平民を責める気にもならない。むしろ共感を覚えた』と。『強烈に共感した』とオペイクス様は、おっしゃったよ。

 分かるだろ。オペイクス様は、前の夜に寝られずに考えたことを引きずっていたんだ。だから玄関口に座ったつもりが、やがて怒りに体が震えてきた。そして結局は、ペレガミたちの死体のそばに歩いていった。

 オペイクス様は、まず、首の無い元領主の体を蹴り上げた。その後も、執拗に踏みつけにしたよ。

 続けて、串刺しの二人にも報復しようと思ったんだが。不意に、オペイクス様の耳に、そいつの妄言がよみがえった。

『忘れんなよ。パールちゃんを一番喜ばせたのは俺だぜ』 

 声はピッチフォークの上からも聞こえた気がした。

『私が直々に手本を見せてやろう』

 さらには、別の言葉まで聞こえてきたそうだよ。人でなしどもが生前に言っていたわけでもない言葉。言っていたかもしれないが、オペイクス様が直には聞いていない言葉まで。

『お前の予想通り、パールを不生女にしたのは、この俺だよ。俺たちだよ』

『不生女になるまで、パールをたっぷり犯してやったぜ』

 とかね。まったく悪魔が囁いているのかって感じだよ。

『黙れっ』とオペイクス様は思わず叫んだ。『黙れ、黙れ、黙れ、黙れ』

 オペイクス様はピッチフォークの柄を掴んで、持ち上げた。そしてペレガミの首を地面に叩きつけようと振りかぶろうとしたよ。

 が、また別の声が耳に届いて、オペイクス様はハッとした。見回すと、いつの間にか平民たちが五、六人ほど、すぐそばに立っている。彼らは口々に問うた。

『だ、旦那。どうしたんですかい』

『誰と話していたんですか、オペイクス様。まさか、この死体どもが何か言ったんですか』

 オペイクス様はすぐに答えられず、逆に尋ねた。『もしかして私が声を荒げているのを聞いて、あなた方は駆けつけたのか』と。

 平民たちは、しきりにうなずく。

 オペイクス様はピッチフォークを下ろして、石突き部分を地面につけた。『騒がせて、すまなかったね。私は、どうかしていたよ』

 すると、平民の一人が言った。『もしかすると、幻聴ってやつでは』

『どうも、そうらしい』とオペイクス様は大人しく認めた。

『騎士様はお疲れなんですよ。少し休んでください』と、また別の者が言ってくれた。

 オペイクス様はピッチフォークを地面に立て直して、ふらふらと玄関口に戻ろうとした。とにかく死体のそばから離れよう、と判断したんだよ。

 平民たちも心配して、オペイクス様についてきた。オペイクス様が玄関口の段差に座って、頭を抱えていると、平民たちは少し離れて並んだよ。で、妙に、もじもじしている。オペイクス様は不思議に思って、尋ねた。

 すると、平民たちは互いに顔を見合わせてから、恐る恐る答えた。『林の中の小屋に置いてある物をいただきたいのですが』と。

 オペイクス様は、いつものように快諾しようとして、ふと考えた。

 平民たちに詳しく聞くと、小屋は両側の壁が抜けたままで、すでに結構、荒らされているらしい。その平民たち五、六人は、先に物色した連中と違って、まめにオペイクス様に断りを入れようと考えたわけだよ。

 オペイクス様は彼らに答えた。と言うより、頼んだ。『小屋から物を取るだけでなく、小屋そのものを徹底的に壊してくれ。板や柱は、幾らでも持っていっていい』とね。

 それで今度は、平民たちの方が不思議に思う番だ。彼らに尋ねられて、オペイクス様は答えた。『あの小屋には、いい思い出が無いんだ』とだけね。それで、彼らも察してくれたんだろう。それ以上は尋ねてこなかったそうだ。

 オペイクス様は『早速、実行してくれ』と急かした。一人になりたいと思ったんだよ。

 しかし気の良い連中で、平民たちは走り出したものの、すぐに立ち止まって、オペイクス様を振り返る。オペイクス様と死体だけにしていいのか、不安だったんだね。『ありがたい気づかいなのに、私は苛立ちを感じてしまった』とオペイクス様は告白したよ」

「でも平民たちには言わなかったんでしょ?」と私は確認する。

「ああ。そこでちゃんとこらえるところが、オペイクス様だからね。

 それは、ともかく。

 平民たちはオペイクス様に促されて、屋敷の外の林に向かおうとしたが、また立ち止まったよ。彼らが『あっ』とか声を上げて、オペイクス様も気づいた。屋敷の開け放した門の向こうに、騎馬の者が二人、見えたんだ。

『あの、使いに出した騎士だっ』とか平民たちは口々に騒いで、またオペイクス様のそばに戻って来た。『あ、あいつ、見た事も無い紋章衣を着てやがるぞ』と目ざとく指摘する者もいてね。

 その時にはオペイクス様も立ち上がっていただろう。門をくぐって来た騎馬の二人は、それぞれの馬をオペイクス様たちの前で止めた。

 オペイクス様によると、元領主ペレガミの紋章は、ほとんど黒に近い濃い青地に、蛇の鎌首なんだが。騎馬の二人の紋章衣は、白地に緑の大トカゲが描かれていた。ついに、ビナシス家の登場だよ」

「ちょっと待って、おばさん。お使いに行った騎士も、ビナシス家のトカゲの紋章衣を着ていたって事?それって、もうビナシス家に取り入ったんじゃない?」

 セピイおばさんはニヤリとする。

「当時の平民たちも、そう解釈して随分と、けなしたらしい。

 でもオペイクス様からすれば、それは後回しだ。まずはビナシス家のお方に、ご挨拶だよ。

 オペイクス様は平民たちを静めて、片膝を地面につけて、頭を下げた。そして名乗った。自分はエクテ家のオペイクスという者で、ここナクビーの町で領主であるペレガミ家にお仕えしていた、と。

 それに応えて、相手も名乗った。やはりビナシス家の者で、党首の代理ということだった。

 それでオペイクス様は、その代理に伝えた。コモドーン城に出頭して、一揆の首謀者として裁きを受けるつもりである事。首謀者は自分一人で、平民たちはあくまで自分に脅され、強要されて一揆に加わったに過ぎない事。

 しかし平民たちは、オペイクス様が言い終わる前から騒ぎ出した。

『オペイクス様、俺たちをかばわないでください』

『お役人様。逆なんです。俺らが一揆をやらかして、こちらのオペイクス様は助太刀してくださっただけなんです』

 とか何とか。オペイクス様も彼らの気持ちはありがたかったが、慌てて彼らをなだめた。ビナシス家の代理に断りも無しに、勝手に発言した事になるから、心配したんだよ。

 なのに平民たちは、なかなか大人しくならない。それどころか、使いに行って戻って来た騎士にからみ出した。

『おい、騎士っ。お前、お城に行って、オペイクス様を悪く言ったんじゃねえのか?』

 騎士は馬上で鞘入りの剣を持ち上げて、答えた。『こうして剣を返してもらった姿では、悪く言いようも無かろう』

 騎士は続けて、オペイクス様に手短かに礼を言った。家族ともどもビナシス家に受け入れられたんだ、と。

 それらの会話で平民たちも、やっと大人しくなり、オペイクス様は代理人に発言を促した。『失礼いたしました。どうぞ、ビナシス家ご党首様のご意見、ご意向をお聞かせください』と。

 代理人は答えた。

『我らがご党首様は、そなたらの一揆について文書を書き起こして、都に送った。早馬で行かせたから、今日あたり宮殿の王陛下の手に渡るだろう。

 ここナクビーに一番近い貴族家は、我らビナシス家だ。よって、今回の一揆の処分は当家に任されるはず。しかし、やはり王陛下の了承をいただかねばならん。

 それまで、そなたたちは、ここナクビーで謹慎しておくように』

 オペイクス様は即答した。『仰せの通りに。逃亡などせずに、ご党首様をお待ちしております』と。

 で、正直に付け加えるんだ。『どうか一日も早く、お越し願います。と言うのも、ご覧の通り、ペレガミたちの死体が、だいぶ損傷しております。私も先ほど、怒りに任せて、これらの死体を辱めてやりたい衝動に駆られていたところです』

 と、今度は代理人も即答した。『それは、ならん。我らがご党首様は、これらペレガミたちの死体を自分の目で確かめたい、との仰せだ。ご党首様が来られるまで、これらの死体はそのままにしておけ。これ以上、損傷させれば、お咎めがあると認識せよ』

 オペイクス様は改めて頭を下げたんで、平民たちも後に続いた。

 それからビナシス家の代理人は、屋敷の中庭を騎馬で軽く一周した。騎士もそれに続き、オペイクス様たちも走って後を追う。『だいぶ荒らしたようだな』と代理人が言うので、オペイクス様は『申し訳ありません』と率直に謝った。

 そのくせ代理人は、オペイクス様の謝罪を聞いたのか聞いてないのか、特に反応しない。それどころか、用が済んだとばかりに、馬首をめぐらせる。

 その時、屋敷の門をまた誰かがくぐって来たよ。オペイクス様の弟さんだ。弟さんはビナシス家の騎馬の二人を見て、慌てて門の片側に飛びのいて、道を開けた。

 ビナシス家の代理人は弟さんを一瞥しただけで、何も言わずに馬を進めて出て行った。おそらく弟さんを平民の一人と思ったんだろう。そう、オペイクス様は推測していたよ。

 ビナシス家に鞍替えした騎士も、代理人に続いて去った。

 結局、ビナシス家の代理人と騎士は、一度も下馬しないまま、そそくさと帰っていったわけさ」

 うーん、何とも、そっけない。早く党首本人が来て、オペイクスたちを認めてくれたらいいのに。でも、口をはさむほどではない。

 

 セピイおばさんから聞くオペイクスの物語は、今度は彼の弟に移った。弟は、また兄を呼びに来たのである。ということは。

「あんたも予想がついているだろうが、お父様が危ない、と。『おそらく明日の朝まで、もたない』と弟さんは嘆いたそうだ。

 オペイクス様は弟さんに、同行してご実家に向かう、と約束した。そして、そばに居た平民たちに、パールへの言伝を頼もうとしたんだが。

 それを見て、弟さんが口をはさんだ。『待った、兄さん。あの人は呼ばないでくれ』

 そう言われて、オペイクス様は一瞬、固まった。でも、もう弟さんに理由を尋ねたりはしなかった。ただ断言するだけ。『パールは私の花嫁だ。父さんにも、そう説明して、お前と母さんも聞いていたはずだ。だから彼女にも来てもらう。立ち会ってもらう』とね。

 すると弟さんの返事は、こんなだった。『なら、跡継ぎとして言わせてもらおう。あの人を兄さんの妻と認めているのは兄さんだけで、僕も母さんも認めていない。あの人は、ただの他人だ。こんな緊急時に、他人を割り込ませるべきじゃない』

 オペイクス様は、怒りを通り越して、失望したそうだ。弟さんにしろ、お母様にしろ、血のつながった家族なのに、もう二度と分かり合えないのだ、と。そう、私らに語ったよ。

 オペイクス様は先の約束を撤回して、ご実家に戻らない、と宣言した。お父様のことは諦めて、跡継ぎである弟さんに任せたわけさ。『父さんには、オペイクスが来られなくなった、と伝えてくれ』と弟さんに頼んで。

 居合わせた平民たちは、オペイクス様たち兄弟の仲を修復させようとオロオロしたが、無駄だよ。弟さんは彼らを無視して、屋敷の門から出て行った。オペイクス様も平民たちに『いいんだ』と答えた」

 私は、ふーっと息をついてしまう。

「分からず屋だなあ。弟さんもお母さんも、そんなに家柄が大事なの?言っちゃあ何だけど、貴族って言っても、別の貴族に仕える、ごく下っ端の方でしょ。平民より、ちょっと上なだけじゃない?」

「オペイクス様も、自分で同じ事をおっしゃっていたよ。合わせて説明してくださった。『だからこそ、なのだろう』と。だからこそ、お母様も弟さんも、少しでも上に行きたい、少しでも上位の貴族に仲間入りしたい、と考える。『それで、パールとの結婚を望む私が、結婚というせっかくの機会をふいにしようとしている、と不満だったんだろう』とね」

 うーん、と私は、また唸った。こっちこそ不満だ。私としては、オペイクスたちを祝福してやらない、あんたたち親子の方が不満だよ。

「その後、オペイクス様は平民たちを解散させて、パールを迎えに行った。そして一緒に自分たちの小屋に帰ったよ。

 きっと二人で慎ましい晩餐を済ませたんだろうね。

 その間オペイクス様は、ずっと悩んでいた。弟さんと仲違いした事をパールに話すべきか。悩んで結局、話すしかない、と結論した。おそらく、お父様は亡くなるだろう。死に目に会えないにしても、葬儀のミサには出席したい。一番後ろの席でも。パールを連れて。お母様と弟さんがパールを無視しても。

 オペイクス様は覚悟を決めて、パールに話したんだと思うよ。聞かされたパールは、オペイクス様に謝ったそうだ。小声で、消え入りそうな様子で。『私のせいでオペイクス様たち、ご家族に、亀裂が入ってしまった』とね。

 もちろん、オペイクス様はパールを慰めた。『悪いのは、あなたじゃない。あなたを受け入れない、あの二人の方だ。二人の親族として逆に私から、あなたに謝りたい。済まない、パール。私の親族が、あなたに対して礼を欠いて』

 なんて会話をしていた時は、もう、すっかり暗くなっていたらしい。その時だ。小屋の戸を叩く音がした。『気のせいか、遠慮がちな叩き方に聞こえた』とオペイクス様は、おっしゃっていたね。

 戸を叩いたのは、昼間の平民だった。

『騎士様、騎士様。こんな時間に、すみません。あなた様のお父様の件で、お耳に入れておいた方が良いと思われる事がありまして』

 オペイクス様が戸を開けると、平民が三人ほど、立っていた。彼らが言うには、交代でオペイクス様のご実家、エクテ家の様子を見に行っていた、と。

 で、三人めが行った時に、エクテ家は少々、騒がしくなった。弟さんが外に出てきたり、家の中に戻ったりをやたら繰り返す。その度に隣近所の平民たちと何か話していた。三人めの男は、その近所の平民たちに、そっと近づいて事情を尋ねた。で、オペイクス様のお父様が亡くなった事が判明した、と。それをオペイクス様に伝えようともしない弟さんの方針もね。

 弟さんは、近所の者を近くの教会に知らせに行かせたり、他の連中と葬儀の段取りを相談したりしていたのさ。

 話を聞き終えたオペイクス様は、三人と固く握手を交わして、感謝を伝えた『あなた方の気づかいが無ければ、いつ父の死に気づけたか分からない』と。そして三人を帰した」

「弟は、そこまで意固地になっていたの?」私は呆れて、声を上げてしまった。

「オペイクス様は、おっしゃったよ『一揆の首謀者を勘当にする、という意味では望むところだった』と」

「って、そんな意地の張り合いをしている場合じゃないと思うけど」

「そこはオペイクス様だって分かっていたさ。だから小屋の中で、またパールと向き合うと、改めて謝る、と言うか頼んだ。

『明日は葬儀のミサになるだろうから、私は、その末席にでも加わりたい。私の家族が嫌な接し方をするかもしれないが、どうか私に同行してほしい』

 パールは真剣な表情で、うなずいた。『あなた様に従います』と言ってね」

 うっ。私は、言葉に詰まった。口をはさむ以前に、詰まった。私が聞きたいのは、そんな言葉じゃない。オペイクスだって、聞きたくなかったはず。

 セピイおばさんは私の意見を聞きたいのか、話を中断して待っている。

「パールに悪気が無いのは、分かるんだけど」

「ああ、それどころか大真面目だったろう。悪いのは、そういう返事の仕方をパールに仕込んだ連中さ」

「分かっている」と私も即答する。

 その連中とは、もちろんペレガミを始めとする人でなしどもだ。神様が、ちゃんと、こいつらを地獄に堕として、報いを受けさせてくださいますように。

 

 オペイクスの物語は、さらに進む。翌日の事だ。彼は予定通り、パールを連れて実家、エクテ家に向かった。

 その道中、出くわした平民たちが『お供します』とか言って、ついて来た。『一揆の助太刀をしてくださった騎士様のお父様が亡くなったのなら、自分たちも手を合わせたい』と言うのである。オペイクスがいくら遠慮しても、一度は大人しく退き下がったように見えても、ついて来る。それが一人増え、二人増えして、結局オペイクスを先頭に、三十人ほどが列を成したらしい。

 オペイクスは実家のそばまで来ると、平民たちの列を止めて、様子をうかがった。人の気配が、ほとんど無い。

 そこでオペイクスは推測した。弟と母親は、父親の遺体を運んで、近所の教会に移動したんだろう、と。

 そちらへ行ってみると、予想通りだった。しかも葬儀のミサは、半ば辺りまで進んでいる。

 教会のお御堂は小さな建物だった。オペイクスたちは玄関の外に突っ立って、ミサに参加した。

「オペイクス様は『確かに見た』と、おっしゃったね。ご実家の隣りの中年夫婦が、お母様に耳打ちして、お母様が一度だけオペイクス様たちの方に振り向くのを。しかし、お母様の反応は、それだけ。ミサが済んでも、長男であるオペイクス様に話しかけようともしない。パールを見ようともしない。『ならば、こちらも勝手にするだけだ』と、オペイクス様は思ったそうだ。

 やがて、お御堂から人々が出てきた。神父を先頭に、棺を担いだ弟さんと近所の男たち。お母様と隣りの中年夫婦。お母様の親戚と、他の近所の者たちが十人足らずか。

 彼らが進んでくると、オペイクス様について来た平民たちは道を開けた。

 弟さんとお母様は、オペイクス様とすれ違ったが、一言も無し。

 彼らが通り過ぎると、オペイクス様はパールを連れて、彼らの後に続いた。で、平民たちもついて来る。行きがけの列の前方に、棺を担いだ者たちが加わった形だよ。その状態で郊外の墓地に向かったのさ。

 みんな、静かに歩いていたんだろう。ようやく墓地に入ろうというところで、列の前方がにわかに騒がしくなった。騎馬が一体、駆けてきて、人々に怒鳴ったからだよ。『コモドーンの領主、ビナシス様のお通りである。皆の者、道を開けよ』とね。

 オペイクス様はパールを平民の奥さん方に預けて、騎馬に駆け寄った。そして、その紋章衣の男に伝えたよ。父親が亡くなって、これから埋葬するので、続けさせてほしい事、ビナシス家の党首には自分がお会いして、裁きを受ける事とかを。

 これを聞いて、ビナシス家の騎馬は一旦、党首の元に引き返した。そして今度は、ビナシス家の党首本人が騎馬で、オペイクス様のところにやって来たよ。お供も二、三騎連れて。

 ビナシス家の党首はオペイクス様に、そのままお父様の埋葬を続けるように言った。『俺も参列して、手を合わせよう』と。

 と言うわけで、元々狭い墓地は、ぎゅう詰めになった。もちろん、お父様を埋葬する穴のそばには、弟さんたちがつく。それに加えて、ビナシス家の主だった者たちも来たから、平民たちも遠慮して距離を取るよ。しかし、その後ろには平民たちが詰めかけたもんで、墓地に入りきらない者も少なくなかったようだ。ビナシス家の兵士たちの一隊も、墓地の外で待機していた。

 オペイクス様は弟さんに近寄って、頼んだ。『父さんを一目、見たい』と。弟さんは、すぐに返事しなかった。オペイクス様をひたと見るだけ。オペイクス様は『睨んできた』とまではおっしゃらなかったが、おそらく冷たい目を向けてきたんだろう。

 でも弟さんは結局、棺を開けて見せてくれたよ。兄であるオペイクス様に続いて、ビナシス家の党首にもせがまれたんでね。『俺にも拝ませよ。俺も、それくらいの敬意は払うぞ』だとさ」

 ふむ、と私は、うなずく。ひとまずは安心かな、この貴族は。そう思って、私は肩の力を抜いた。

 セピイおばさんの話は続く。

「そこへ、平民の奥さん方に勧められたのか、パールが遠慮がちに野花を差し出した。近くの草むらから急いで摘んできたんだろう。オペイクス様は、それらの野花を受け取って、棺の中のお父様の胸元に置く。そしてパールに感謝した。

 それらのやり取りを、隣りでビナシス家の党首も見ていてね。それで言い出したんだ。『ならば俺は、これを手向けよう』と。

 ビナシス家の党首は自分の紋章衣の一部分をつまみ上げて、いじくった。居合わせた全員が不思議に思っていたら、ビナシス家党首は紋章衣から何かを引きちぎったよ。そして、その何かを一度、空にかざす。昼の陽光が、それに弾かれた。そうやって確かめてから、ビナシス家の党首は、それを棺の中に投げ入れた。

 オペイクス様は、ハッとした。それは金だったんだよ。金細工の小さな円盤。ビナシス家党首の紋章衣で、大トカゲのウロコを表す飾りの一つだったのさ。紋章衣の大トカゲの体には、きらきら光るウロコが幾つも散りばめられていたらしい。

 オペイクス様は慌てて、ビナシス家の党首に尋ねた。『よろしいのですか』と。

 ビナシス家の党首は『構わん』と言う。『むしろ、そなたの親父殿には、ぜひとも使ってもらいたい。天の国、主の御許なら、ミサもあろう。その時、そなたの親父殿が先ほどのウロコを献金として差し出すのだ。それで、主なる神も聖者の方々も、我らビナシス家を覚えてくださるだろうて』と来た。

 これを後ろで聞いた平民たちは、感嘆の声を上げたよ。『何て粋な計らいなんだろう』『ペレガミのどケチとは大違いだぜ』とか、興奮して、しばらく静まらなかったそうだ。

 もちろんオペイクス様も、そして弟さん、お母様も深く頭を下げて、このお偉いさんに感謝した。と言うか、びっくりしたんだろう」

 

ビナシス家の紋章 二色トカゲ

 

 セピイおばさんは、そこで話を区切って、私の顔を覗き込む。だったら、言っちゃおう。

「うーん。気前がいいようだけど、派手とも言えるわね」

 セピイおばさんは、くくっと笑った。「その調子だ、プルーデンス。ちゃんと私の講義について来ているようだね」

「それより。簡単に引きちぎったって事は、ビナシスは、簡単に直せると思っているんじゃないの?」

「うむ、そうだろうよ」

 セピイおばさんは、にやけ顔をやめない。どうやらビナシスも、くさい人物らしい。ついさっき安心した私は、考えを修正するべきか。どいつも、こいつも、期待させてくれないんだから。

「そんなこんなで、オペイクス様のお父様の埋葬は済んだわけさ。

 オペイクス様は、すぐにビナシス家の党首に断りを入れた。『弟と母は、葬儀の後片付けなど細々した用事が残っております。加えて、一揆に関しては私一人が関わっているだけで、弟と母は何も知りません。どうか、お裁きは場所を替えて、私一人にお下しください』とか。

 すると、ビナシス家の党首は『そなたも親族として、それらの用にあたるのではないか。それが済むまで、我らは、ゆるりと待つぞ』なんて言ってくれる。

 オペイクス様は、例によって遠慮したよ。『裁きを受ける立場でありながら、お待たせするのは、申し訳ない』と。そもそも、弟さんやお母様と仲違いして、ほとんど勘当されたようなものだから、手伝う事も無い。そんな説明も付け加えた。オペイクス様は恐縮して、片膝をついていたのかもしれないね。

 ビナシス家党首は『ああ』と声をもらした。『そなたが、なぜ、棺を開けるよう弟に頼んだのか、やっと分かったわ』

 納得したビナシス家党首は、お供の者たちに号令をかけたよ『早速、移動するぞ』と。

 続けてオペイクス様に道案内を命じた。『場所は決めておるな』

『はい。ペレガミ家の屋敷にお連れします』とオペイクス様も即答した。

 こうしてオペイクス様と平民たちは来た道を戻る形になった。オペイクス様はパールをロバか何かに乗せてあげようとしたが、本人は遠慮した。奥さん方が歩いていたから、自分だけ楽できない、と。

 そんなオペイクス様たちに、ビナシス家の一同は馬を駆け足にしたりせず、歩調を合わせて、ついて来てくれた。

 で、全員で、ペレガミ家の屋敷の門をくぐったんだ」

 

「ビナシス家の党首は、前日に代理人がしたように、屋敷を見て回った。騎乗して、軽く流すような走り方だよ。もちろん、お供の騎馬、五、六騎も続く。その中には、オペイクス様たちが派遣した、あの騎士、ペレガミの元部下も居たとさ。

 オペイクス様は、パールや平民たちを中庭に待たせて、自分だけ直に走って、ビナシス家の一団を追いかけたよ。

 話を聞いていたイリーデが心配していたね。『オペイクス様だけ馬が無くて、きつかったんじゃ』と。オペイクス様は笑って、大丈夫と答えていた。『いくらペレガミ家の屋敷が大きいと言っても、お城ほどじゃない。メレディーン城の曲輪一つにも満たないよ』と。ぐるりと一周するのに大して時間はかからないし、ビナシス家の党首は、じっくり見て回ったから、馬脚は速くならなかったそうだ。

 それどころか途中、物見櫓を見上げて、馬を止めるまでしたとか。『あれは、ほとんど傷んでおらんな。でかしたぞ、オペイクス』なんて褒めてくださる。オペイクス様は恐縮しながらも、内心ホッとしたそうだよ。

 とにかくビナシス家の党首は、オペイクス様が心配したほど、機嫌は悪くなかったわけさ」

 ふーん、と私は声が出てしまう。セピイおばさんは、やっぱりニヤリとしている。

「悪くないどころか、ご機嫌、麗しかったんじゃない?」

 私の生意気に、セピイおばさんは笑い出した。

「そこまで分かっているようなら、説明は要らないね。

 では、オペイクス様やビナシス家の騎馬が中庭に戻ったところから続けるか。

 オペイクス様は屋敷の玄関口に、ビナシス家のお偉方を誘導したよ。そこが上座で、中庭が下座。ペレガミたちの死体も玄関に近かったから、裁判を開くには、ちょうど、よかったわけさ。

 お供の者が椅子を運んできて、ビナシス家のご党首様がお座りになる。

 オペイクス様自身は平民たちの一番前。ペレガミたちの死体のそば。ビナシス家党首の少し前辺りに、膝をついた。

 ビナシス家の党首は言った。『では、そなたらの言い分を聞こうか』

 それでオペイクス様が話し出したら、ビナシス家党首は軽く手を上げて、止める。『そなたの言い分は、すでに代理から聞いた。それより俺は、平民たちの言い分を聞きたいのだ』

 平民たちは騒ついたよ。お互いの顔を見合わせたり、小声でオペイクス様に指示を求めたり。オペイクス様は彼らに、挙手して発言の許可をもらうよう、促した。

 途端に、平民たちの手が、あちこちで上がった。ビナシス家の党首のそばにいた従者が、その一人ひとりを当てていく。

 当てられた平民は『恐れながら申し上げます、トカゲのお殿様』『ビナシスのお館様、どうか、お聞きください』とか始めたよ。皆、内容は、ほとんど同じだった。元領主ペレガミから受けた酷い扱いの数々。それに対する怒りから、一揆を起こした事。そして必ずオペイクス様の事を言って、締めくくった。『オペイクス様は、わしらを脅しつけたりしてません。助太刀してくださったんです。それが無ければ、ペレガミ家を倒せませんでした』と。

 オペイクス様によると、発言を許された平民は七、八人。ビナシス家党首は、どの発言でも聞き入って、しきりにうなずいていたそうだ。

 そしてビナシス家の党首は、椅子から立ち上がって言った。

『では、今度は俺から言わせてもらおう。

 まだ正式な文書は届いていないが、いずれ王陛下は今回の件の処理を、我らビナシス家に一任してくださるだろう。王宮には、当家の者も常駐しておるのだ。その者から事前に情報を得ているから、ほぼ間違いない。

 正式に王陛下からご命令が下った場合、俺が注意しなければならない要点は、ただ一つ。そなたらが王陛下の施政に不満で一揆を起こしたのか、どうか、だ。

 改めて確認する。そなたらが憎いと思うのは、王陛下なのか。あるいは元領主のペレガミなのか』

 平民たちは途端に挙手した。ほとんど全員が手を上げたように、オペイクス様には見えたそうだ。しかも許可を待たずに、平民たちは口々に叫ぶ。『王様が憎いのではありません。ペレガミ家が憎いのです』と。

 ビナシス家の党首は勝手な発言と怒るどころか、目を細めて、うんうん、うなずく。『そうであろう。そうであろう。麗しく、寛大な王陛下の施政に何の不満があろうか』

 これを聞いて、オペイクス様も意を決して挙手した。ビナシス家党首も、今度こそ発言を許可したよ。オペイクス様の発言は、こんなだった。

『なればこそ、どうか、この者たちをご容赦ください。罰は、このオペイクス・エクテが承りますゆえ』

 ビナシス家党首は、また軽く手を上げて、オペイクス様の発言を止めた。そして、少し笑みを見せた。

『どうも、そなたは早合点しておるようだな。俺は、そなたらを罰したくて、ここに乗り込んで来たわけではないぞ。

 実はな、俺もペレガミが嫌いだった』

 この言葉に、屋敷の中庭がわき返った。歓声と安堵の声が入り混じって、しばらく収まらなかったそうだよ」

 私も、ホッとして、椅子の背もたれに体を預けた。

「もー、このお殿様、もったいつけたのね」

「ふふ、そういうこと。

 続けてビナシス家党首は、なぜペレガミを嫌ったのか、説明した。ペレガミの自分に対する態度が不遜だった、と。蛇の紋章をちらつかせて、王家との繋がりをやたら、ほのめかす。そのくせ断言はしない。王家から口止めされている、とか言い訳してね。時には、脅しめいた言葉もあったそうだ。要するに、親しくお付き合いがあったようで、上辺だけだったわけさ。

 ビナシスは腹を立てながら、慎重に行動したみたいだね。密かに、アガスプス宮殿の役人に問い合わせたそうだ。王族がペレガミ家に蛇の紋章を許可した経緯を。ところが、はっきりした返事が得られなかった。一揆の後でビナシスが推測するに、特に理由も無い、王族の気まぐれのようなもので、宮殿の役人も答えようが無かったんだろう、と。

 ペレガミの存命中は、それが分からなかったから、気をつけて上辺だけの付き合いを続けるしかなかったのさ。

 それでビナシス家の党首は、オペイクス様や一揆を起こした平民たちに謝った。と言っても、軽くだろうが。実はビナシス家でも、ナクビーの領民たちがペレガミ家の圧政に苦しんでいる事は把握していたらしい。やはり、部下とか使用人たちから報告を受けていたのさ。しかし行動に移せなかったのは、さっきも言った通りだよ」

「うーん。若干、言い訳がましいような」

「同じことをイリーデとブラウネンも言っていたよ。私は少し違ったが」

「えっ」

「私は、ヴィクトルカ姉さんの四弁の花を知っていたからね。ほら、前に話しただろ。あのモラハルトだって、ヴィクトルカ姉さんのジルフィネン家が四弁の花を下賜された事情を、詳しくは知らなかった。おそらく、下賜してくださった王様たちも覚えていないんだよ。

 ペレガミ家に蛇の紋章を許可したのも、似たようなもんさ。王様たちは、あげっぱなしで、お忘れになる。ペレガミ家と王家との繋がりなんて、所詮その程度だったんだよ」

「ああ〜、周りが過剰反応したのかあ」

「とは言え、ペレガミは、はっきり意図していたんだよ。ビナシス家のような、自分より上位の者たちも含めて、相手が遠慮すると見越して、紋章の権威を悪用したんだから。そりゃ、ビナシスも面白くなかっただろう」

 むうう。私は改めてペレガミに腹が立った。

「と言うわけで、ビナシス家のご党首様は、ありがたいお言葉をくださったよ。『今回の一揆に関しては、誰も罰しない方針だ』とね。

 オペイクス様はそれを聞いて、へなへなと座り込んだそうだ。一方、平民たちは、やんや喜びの声を上げる。『今度のお殿様は話の分かるお方だぞ』『トカゲのお殿様、万歳』『ビナシス家、万歳』ってな感じでね。

 オペイクス様は気を取り直して、ビナシス家党首にお礼申し上げた。感極まって、地面に額をつけて頭を下げたとか。ビナシスは、そんなオペイクス様に立つように言った。

『礼を言うなら、俺の方ぞ。そなたのおかげで、前々から気に食わなかったペレガミの正体がおおよそ分かったわ。しかも、彼奴を除いてくれるとはな。目覚ましい働きだぞ、オペイクス。いずれ相応の褒美を取らせるゆえ、期待しておれ』

 これを聞いて、一度立ったはずのオペイクス様は大慌てで、もう一度、平伏した。『でしたら、でしたら、ぜひともお願いしたき事がございます』オペイクス様は早口になって、唾が飛んだから、相手にかからなかったか心配したそうだ。

 幸い、そんな事態にはならず、ビナシス家の党首は願い事の内容を尋ねるだけでね。オペイクス様は、ここぞ、と意気込んだ。何をお願いしたのかと思えば、仲違いしたご家族、特に弟さんの事だよ。『エクテ家は弟が継ぎます。どうか弟を、ビナシス家の家臣団に加えてくださいませ。弟は誠心誠意、ビナシス家のために働くでしょう。なにとぞ』

 と、オペイクス様が必死で訴えている途中で、ビナシス家党首は、また遮った。

『待て、オペイクス。そなたの弟が当家に仕えてくれるなら、俺も嬉しいぞ。しかし、そなた自身は、どうする。そなたは当家に仕えてくれんのか』

 オペイクス様は答えた。『私は一揆の首謀者であります。しかも主君を殺めました。かくなる上は、責任を取って、平民に身を落とそうと』

 しかしビナシスは、またしても最後まで言わせなかった。『こら。俺は先ほど、誰の罪も問わない方針と言ったではないか。それに、平民に身を落とすなぞ、許さんぞ。そなたが生家を弟に譲るのは勝手だが、そなたは、これまで通り、貴族として生きるのだ』

 オペイクス様は唖然として、返事ができなかった。

 一方、ビナシス家のご党首様は、お構いなしに話を続ける。

『王陛下から正式のご命令を受け次第、この屋敷を建て直して、部下を常駐させる。そなたは、その者の補佐せよ。頼りにしておるぞ』

『よ、よろしいのですか』とオペイクス様は、やっと、お尋ねすることができた。

『良い、ではない。そうでなければならん。これは俺からの、最初の命令と思え』

 ビナシス家の党首はニヤリとしながら言ったんだろうよ。オペイクス様は泣けてきて、地面に額をつけようとした。で、またビナシスに止められた。

 しかも立ち上がる時に、パールが手を添えて支えてくれてね。彼女も泣いて喜んでくれたんだ。この場面を話しながら、オペイクス様は涙を浮かべていたよ。

 そして平民たちも。多分、平民たちは『オペイクス様、万歳』とか叫んだと思うよ。オペイクス様本人は、おっしゃらなかったけどね」

「うん。私も、そう思う」答えながら、私は拳を握りしめていた。体が熱くなってくる。

「やっぱり、こうでなくっちゃ。世の中が、ちゃんと機能する。そういう気に、やっとなれたわ」

 私の興奮とは裏腹に、今度はセピイおばさんが、うーん、と唸った。

「あんたがオペイクス様の事を喜んでくれるのは、私も嬉しいんだが。その喜びに水を差すような事を、話さなきゃならないね。

 ビナシス家ご党首様のありがたいお裁きは、最後に、ちょいとキツめのおまけがついた。

 ご党首は終始、気前のいい反応ばかりだったが、一つだけ要求したよ。ペレガミの首。ビナシス家の党首は、前日のオペイクス様と同じく、突き立てられたピッチフォークを引き抜いた。そしてオペイクス様や平民たちを見回して言った。『裁判の報酬と言うわけでもないが、これは俺が貰うぞ』と。

 もちろん、オペイクス様たちに異論は無い。もう少しペレガミを痛めつけたいという気持ちもあっただろうが、ありがたい判決のためなら、お安いご用さ。喜んでお譲りするよ。平民たちも『どうぞ、どうぞ』とお答えした。

 ビナシス家党首はそれを確認してから、ピッチフォークの先を地面に降ろした。そしてペレガミの首を足で押さえて、ピッチフォークを外す。ペレガミの首は、すでに変色していただろうよ。ピッチフォークは、そばに控えていた従者の一人が受け取った。

 ビナシス家の党首は数秒ほど、ペレガミの首に片足を乗せていた。と、不意に力を込めて、それを踏む。思い切り踏んだんだ。当然ペレガミの頭部は、ぐしゃぐしゃに潰れたよ。ビナシス家党首の足の下から、脳味噌とか中に入っていた物がはみ出した。オペイクス様は『それをしっかり見た』とおっしゃっていたね。

 それだけじゃ済まなかった。ビナシス家党首は、それら、はみ出した物をいちいち踏み潰して回る。目玉の片方なんか、ころころ転がっていったから、また別の従者に拾わせたよ。で、踏みみじる。ぐりぐりと、しつこく、全体重をかけて踏んだんだよ、きっと。

 そんなことをしながら、ビナシス家のご党首様は笑みを浮かべておられたそうな。おそらく目をぎらつかせて、口の端も耳元近くまで吊り上がっていたんじゃないかねえ。

 それで気が済んだら、とうとう本当に笑い出した。で、こんなお言葉を宣った。

『よし、これで彼奴も思い知ったであろう。この俺をコケにした者が、どんな末路を迎えるかをな』

 しばらく、ビナシス家ご党首の笑い声だけが、ペレガミ家の屋敷の中庭に響いた。オペイクス様が、そう、おっしゃったよ。もう、分かるだろう。オペイクス様も平民たちも黙り込んで、静まり返っていたんだよ。パールがオペイクス様の袖をつまんでいた手も震えていた。オペイクス様の影に隠れるように、身を寄せてきたそうだ」

 う、うーん。唸るのが、また私の番になった。

 

 セピイおばさんから伝え聞く、オペイクスの話によると、ビナシス家の党首はご機嫌麗しく引き上げたらしい。彼なりに、報復に満足したのだろう。

 二、三日して再びビナシス家の使者が、数名ほど、やって来た。で、何をするかと言うと、ペレガミ家の屋敷の門前に棒を立てて、一枚の文書を掲示したのである。羊皮紙ではなく、板に書いたもので、ビナシス家の大トカゲの紋章と党首の署名入り。そして、これが何より重要なのだが、ヨランドラ王家の蛇の紋章も目立つように加えてあった。もちろん、ビナシス家のそれよりも大きかったに違いない。

 オペイクスをはじめ、ナクビーの住民たちは入れ替わり立ち替わりやって来て、その文書を読んだ。字を読めない者には、読める者が音読してやって。

 その要点は、二つ。

 まずは、ペレガミ家の廃絶だ。領民を苦しめ、一揆を止められず、ヨランドラの社会に動揺をもたらした事に対する処罰である。

 次に、ナクビーの町を含むペレガミ家の旧領全ては、ビナシス家が預かる事。ビナシス家は王の忠実なしもべとして、旧領民の慰撫に務め、ヨランドラの発展に貢献するよう、はっきりと書かれていた。

 これは畏れ多くも、王陛下のご命令である。他家がペレガミ家の旧領で何か行動を起こしたら、それはビナシス家に対する攻撃どころか、王政に対する反抗、謀叛と見なされるのだ。そんな貴族家があったら、王様はその周辺の貴族たちに命じるだろう。『此奴を滅ぼせ』と。『此奴は我が治政を邪魔する者だ。此奴から好きなだけ奪うが良い』と。

 それが分かっているから、ビナシス家に文句をつけるような馬鹿な貴族家は無かった。

 ビナシス家のご党首様のご機嫌が麗しいわけだ。特に何もせずに、領土が転がり込んで来たのだから。戦争で自分の兵士たちが減ったわけでもない。予想外の経費は、ペレガミ家の屋敷の修理、改築費くらいじゃなかろうか。

 まあ、聞き手である私としては、ビナシス家党首の機嫌や嗜好など、興味は無いのだが。大事なのは、ペレガミ家みたいにならない事。元領主ペレガミみたいにオペイクスとパールをいじめない。領民を苦しめない。そこを気をつけながら、願いながら、私はセピイおばさんの話に聞き入る。

 話の中で、オペイクスは第二の人生に踏み出していた。党首に命じられた通り、ビナシス家に騎士の一人として仕えたのだ。

 最初の任務は、大工や使役夫たちの監督。ペレガミ家から押収した屋敷の破壊された箇所を修繕し、ビナシス家の好みに合わせて改築する。その大工たちを指導するのだが。オペイクスは、それでは飽きたらなかったのか、自分も一緒に木材などを運んだとか。それでビナシス家が派遣した上役から笑われる、と言うか、たしなめられたそうだ。聞きながら、オペイクスらしい、と私は思う。

 律儀な彼は、林の小屋の事も、上役を通してビナシス家党首に謝罪した。その時には、小屋は数本の木切れを残して、ほとんど無くなっていたのだが。

 むろんビナシス家は、そんな小屋一つに関心を持たない。むしろ林の木を切り出して、屋敷の修理に活用した。そのために林は、まばらに、みずぼらしくなったようだ。

 もっとも、ビナシス家はオペイクスとパールのために、仇討ちのように林を荒らしたわけではない。オペイクスも、ビナシス家の者たちに事件を話さなかった。『とにかく良い思い出が無い』とだけ言ったのである。ビナシス家側も追及はしなかった。ビナシス家の発展には関係の無い些事と見なしたのだろう。

 それなら、それでいい、か。私はセピイおばさんの話を聞きながら、そう思った。オペイクスとパールをそっとしてくれるなら。ビナシス家が二人に意地悪しなければいい。

 意地悪どころか、ビナシス家は家来としてのオペイクスに、定期的に報酬を支給したそうだ。ありがたい。でもオペイクスは、ちゃんと働いたんだから、当たり前か。ペレガミ家も支給していたはずだし。いや、パールのことを考えると、やはりビナシス家からの報酬は、ありがたい。二人の大切な生活の糧だ。

 二人は慎ましい生活を送ったんだろう、という意見で、私とセピイおばさんは一致した。小さな小さなオペイクス城。二人にとって、贅沢なんてものは意味が無い。本当に大切な存在が大切にされる。それ以外は余分なものに思えただろう。

 とは言え、気にかかることが全く無い、というわけにはいかなかったようだ。パールはオペイクスに言った。『私を抱いてください』と。『好きな時に好きなだけ。どうか遠慮しないでください』と。何度も。特に、夜に。

 正直なオペイクスは、それで『何度か彼女を抱いた』と告白したのだ。若き日のセピイおばさんやイリーデたち、聞き手に。

「もっとも、あのお方がパールを乱暴に扱う事なんか、無かっただろうよ」とセピイおばさんは言う。

「やっぱり自分が下になって、優しくしたんじゃないかねえ。

 オペイクス様は心配だったそうだ。パールの目に、自分がペレガミたちと同様のすけべ心だけの男に見えていないか。『辛いような、悔しいような、かつ自分の欲望が怖いような、へんな気分だった』とおっしゃっていたよ」

 話をそらすでもないだろうけど、その頃のオペイクスはパールに提案したそうだ。『ビナシス家にお仕えする仕事にも、じきに慣れる。蓄えもできて、生活も落ち着くだろう。そしたら二人して、近くの教会に行って結婚式を挙げよう。お互い親族を呼べず、二人だけの式になるが、それでも、ちゃんと神父さんに立ち会ってもらおう』と。

 オペイクスが尋ねると、パールは、うなずいた。言葉は無かったが、目に涙を浮かべて、例によって彼の胸板に顔を擦り付けるように、うなずいたそうだ。『従います』じゃないのだから、これで充分だ、と私は思う。

 それで、私も心から嬉しかった、のだが。

 セピイおばさんは言う。その場面を話していた時に、オペイクスが、こう付け加えたと。

『思えば、あの頃、あの時が私の人生で一番幸せな時期だったのかもしれない』

 このオペイクスの言葉を私に聞かせてから、セピイおばさんは黙り込む。

 私は嫌でも考えてしまう。その時が一番だとしたら、後は下がっていくだけってこと?坂道を下るように?

 でも私は考えるだけで言わない。言えない、二人のために。言いたくない。

 

 セピイおばさんは一度、息をついて話を再開した。

「それから二ヶ月くらい経ったか。たしかオペイクス様は、たしか、そうおっしゃっていた。

 それまでに屋敷の修理、改築も済んだ。ビナシス家が派遣した上役も、屋敷で生活するようになったよ。

 逆に、オペイクス様の弟さんがコモドーン城に住み込みになってね。城詰めの騎士の一人に従者として仕えながら、武者修行さ。ちなみにコモドーンとナクビーの距離は、馬で半日ほどだとか。それなら、お母様に何かあっても、充分、駆けつけられるだろう。もっとも、お母様は亡くなったお父様と違って健康で、しかも隣近所の平民たちが使用人のように世話してくれたんだがね。

 パールは、日中はボジェナさんとか、ご近所さんの畑仕事を手伝ったりして、過ごした。オペイクス様が帰宅すると、一緒に食事して。

 要するに、万事、落ち着いてきたわけだ。おそらくパールも、笑顔が増えたと思うよ。

 さて、そんな頃に、だ。オペイクス様の生活に、ちょいと変化があった。ビナシス家の党首に呼ばれて、コモドーン城に行ったんだよ。

 前にも言った通りツッジャム城やメレディーン城ほどではないが、地方の要衝にふさわしい大きさだったんだろう。『ナクビーの町に比べれば充分、都会だった』とオペイクス様は、おっしゃっていたねえ。

 上役に連れられてコモドーン城に入ったのは、日没後だったとか。オペイクス様は、そのままビナシス家の晩餐に招かれた。ご党首は、またまた上機嫌だったようでね。同席した部下たちにオペイクス様を紹介し、あれこれとご馳走を勧めた。

 では、なぜビナシス家の党首は機嫌が良かったのか。それは、党首がオペイクス様を呼んだ理由でもあるのだが。なんと、王陛下からお呼びがかかったんだよ。ほかならぬヨランドラ国王だ」

 えっ、と私は声が出てしまった。「お、王様が出てきたの?」

「ふふ、あの時の私らも、やっぱり驚いたもんだよ。王様なんて、話に聞くだけで、直にお見かけするなんて考えられないからね。

 ビナシス家党首が言うには、ペレガミ家打倒の一揆の話をお聞きになって、王陛下が感心しきりなんだとか。終いには『オペイクス本人から直に話を聞きたい』とおっしゃったらしい。で、王陛下からビナシス家党首に命令が下った。『オペイクスなる者をアガスプス宮殿に連れてまいれ』と。

 その辺りの事情を、ビナシス家党首は満面の笑みでオペイクス様に話したそうだ。党首本人は『何年かぶりの謁見が叶う』と浮き足立っていたらしい。

 その晩餐には、オペイクス様の弟さんも給仕役として出入りしていたんだが。ビナシス家党首はわざわざ呼び止めて、こんなことを言ったとか。『どうも、そなたは兄に反発しておるようだが、少しは見直してやれ。いや、誇りに思うが良い』

 その上で他の部下たちに向かっては、こんなふうに言うのさ。『そなたらも、オペイクスを見習って励むのだぞ』

 それで、妬みや恨みを買うのではないか、とオペイクス様は、ひやひやしたそうだ」

「オペイクス自身は嬉しかったのかな?」私は思わず聞いてしまう。

「そうやって聞くってことは、予想がついてんだろ。嬉しくなかったそうだ。パールを残して遠出しなきゃならないから、できれば遠慮したかった、と。宮殿で拘束されたら、パールを一人にする時間がどれくらいの長さになるのか、見当もつかないじゃないか。

 とは言え、そんな気持ちを顔に出すようなオペイクス様でもない。そんなんじゃ貴族家にお仕えなんて務まらないし、パールも養っていけないよ。

 オペイクス様は、とにかく恐縮して『身に余る光栄です』とビナシス家党首に頭を下げた。かつ、遠回しに遠慮してみた『私ごときが王宮に上がってよろしいのでしょうか』と。

 当然、無駄な抵抗でね。ビナシスは笑い出した。『良いも何も、ほかならぬ王陛下からのご命令ではないか。我らは喜んで、お応えするのみよ』とね」

「うーん、やっぱり逆らえないか。つくづく、ありがた迷惑よねえ」と私はオペイクスの代わりに、ぼやいてしまう。

 これに対して、セピイおばさんは、ため息をつく。私の反応を笑うのではなく、ため息。あまり良い予感がしない。

「これで晩餐は済んで、オペイクス様はナクビーに帰った、と言いたいところだが。その前に、余計なおまけがついた。ビナシス家の党首は、帰るオペイクス様を城門まで見送るのはいいんだが、その際にパールのことを尋ねたよ。

 オペイクス様はドキリとしたが、それを顔を出さないように気をつけて答えた。彼女はペレガミ家の屋敷で奉公していた元女中の一人で、一揆の際にオペイクス様が保護した事。ゆくゆくは妻として迎える、そのつもりで一緒に暮らしている事、など。そして、改めて主君であるビナシスに許可を求めた。

 聞き終えたビナシスは『ふーん』と言いながら、顎に手をやって、首をかしげた。

『許可するのは構わんが。オペイクスよ、あの女は平民であろう。あの程度の女なら、貴族の娘に幾らでも居るぞ。

 そなたさえ良ければ、俺が周辺の貴族たちに話をつけてやろう。どうだ、オペイクス』

 これを聞かされて、オペイクス様は泣きたい気持ちになったそうだ。

 しかし、それをこらえて、オペイクス様は主君であるビナシスの前にひざまずいた。

『平に、平にご容赦ください、ご党首様。私は生来の臆病者。その私がペレガミ家を打倒できたのは、あの人がいたからです。あの人が私に勇気を持たせてくれたのです。あの人なくしては、私はビナシス家のお役に立つ事もできません。何とぞ、何とぞお許しください』

 オペイクス様は必死でお願いしたんだろう。その甲斐あってか、ビナシス家の党首は折れてくれた。『そこまで言うなら、好きにするが良い』とね。

 で、オペイクス様はそそくさと帰ったが、もちろんパールに、この話は聞かせなかったそうだ」

 うーん、と私は思い切り唸った。予感が的中しても、嬉しくない。

「何が『あの程度』よ。逆に、ビナシスに『お前は、その程度か』って言ってやりたいわ」

 私の腹立ちに、セピイおばさんの反応は薄かった。「まあ、同感だね」という言葉に元気が無かった。

 

「さて、そのコモドーン城での晩餐から一週間くらいしてから、かねえ。ビナシス家党首の一行がオペイクス様を迎えに来たよ。コモドーン城からアガスプス宮殿に向かうと、ちょうど、その通路上にナクビーの町が在るんだとか。

 オペイクス様はパールを、例のボジェナさんの家族に預けた。事前に、その一家に頼んでいたんだろうよ。

 そしてオペイクス様自身は、ビナシス家から馬を借りて騎乗し、党首を中心とした隊列に加わった。で、集落や山谷を幾つも越えて、このヨランドラ国の都アガスプスに入った。

『さすがに都の街並みの方が、メレディーンの城下町よりも、やや広く感じた』とオペイクス様は思い出していたね。

 それまでナクビーとコモドーンしか知らなかったオペイクス様は、都の通りを騎馬で進みながら、やたらキョロキョロしてしまった、と。で、一緒に隊列を組んでいる騎士から注意されて、兵士たちから笑われたそうだ。

 しかし都の街並みで驚くくらいは、まだいい方かもしれないよ。宮殿の門をくぐって、建物に入ったら、進む度にお仲間が減っていくんだ。『そなたらは、ここで待て』『そなたはここに居よ』なんて、党首が部下たちを止めて。ついさっきオペイクス様を笑った連中が足止めを喰らって、オペイクス様はどんどん宮殿の奥に連れて行かれる。最後は、コモドーン城の騎士たちの代表格であるお偉いさんまでが、党首ビナシスとオペイクス様の剣を預かって、退がっていった。

 王の間の入り口で、とうとうオペイクス様と党首ビナシスの二人だけになったよ。このヨランドラ国の中心である都アガスプス。さらに、その中心とも言える、王の間。オペイクス様は『自分が石になって固まるんじゃないか』と心配したとか。

 オペイクス様より慣れているはずのビナシス家ご党首様は、何の助言もしてくれなかったようだし。まあ、澄ました顔して、本人も緊張していたのかもね」

 そこだけはいい気味だ、と私も思う。

「と言うわけで、ついに謁見だ。宮殿の兵士に促されて王の間に入ると、オペイクス様は『イッ』と声をもらして、立ち尽くしたそうだ。正面に王陛下らしき方が居られるだけでも緊張するのに、何と、両側に重臣たちも居並んでいたのさ。

 オペイクス様は自分の目を疑った。見た事も無い紋章衣のお偉方。しかし噂に聞いた紋章と一致していたから、ある程度は理解できた。

 玉座のそばの男が、武器に絡んだ蛇の紋章衣だったので、第一の名家シャンジャビの者と分かる。党首か幹部かまでは分からなくても、充分、驚きだよ。

 その反対側には、長すぎる蛇の紋章衣と、頭だけ大きな蛇の紋章衣。ナモネア家とマーチリンド家だ。どちらも旧名家だよ。もしかしたらマーチリンド家の方は、ビッサビア様のお父様かお兄様だったのかもしれないね。

 その他、色違いの二匹の蛇が絡み合っているのは、おなじみリブリュー家。

 そして、鎌首が何本も上がっているヒュドラの紋章が、ヌビ家。

 そう。この謁見の場には、当時のご党首様、後にオペイクス様の主君となるアンディン様も同席されていたのさ。もちろん、この時のオペイクス様は知る由も無かったがね」

「はー」私は思わず、声が出てしまった。「こうやって、関係が繋がっていくのね」

「ふふ、あんたを見て、今、思い出した。オペイクス様がこの謁見の場面を話した時に、シルヴィアさんがあんたと同じような反応をしたよ。そうだ、今のあんたより顔を輝かせていたねえ」

「えっ、何で」

「それが分からなくて、私も唐突な振る舞いに思えたよ。

 って、ちょいと脱線してしまったか。

 謁見の話に戻すと、王の間に居たのは、蛇の紋章衣だけじゃなかった。前に話したのを覚えているかい?二匹の蟹のビマー家。三つ首飛竜のチャレンツ家。のこぎり鮫がズエビ家、とか言ったかねえ。つまり、大トカゲのビナシス家と同等の中級貴族たちも、けっこう居たわけさ。

『いずれも雲の上の人と思っていた方々ばかりだった』とオペイクス様は、おっしゃっていたが。私らから見ても、そうだよ。

 オペイクス様は、そんな雲の上の方々に話をするよう、進行役の役人から命じられた。

 もう、話すしかないよ。オペイクス様は、ひざまずいてから話し出した。ペレガミ家に対して起こした一揆の話を。

 まずは、元領主ペレガミがオペイクス様や平民たちに行なった理不尽な振る舞い、暴力について。ただし、パールの名前は伏せた。『女中で妾にされた者が居たり、平民の妻や娘で乱暴された者が居たり』とだけ言って、ぼかした。

 続いて、オペイクス様がペレガミ家の屋敷を出入り禁止になって、痛めつけられた体の療養と剣の稽古に専念するしかなかった事。この辺りからペレガミ家に対する反乱を考えるようになり、同様の怒りを持つ平民たちと密かに話し合っていた、という事情にした。分かるだろ。オペイクス様は嘘をついたんだ。平民たちが主導して一揆を起こしたのではなく、自分を首謀者とするためにね。

 そうやって、あれこれ気を回して、気をつけながら、オペイクス様は話したんだが。聞いている王陛下の方は不意に、進行役の役人に何か小声で言いつけた。オペイクス様が話しながら不思議に思っていると、使用人や女中が五、六人ほど、足音もさせずに現れた。そして王陛下や重臣たちに盃を配って回る。王陛下はオペイクス様を見ながら早速、盃に口をつけた。

 これにはオペイクス様も『正直、嫌な気分になった』とおっしゃっていたよ。もちろん当時は顔に出さないように気をつけておられたんだろうけど。

 そして心の中で、自分に言い聞かせた。『これは自分の話し方が下手だからだ。王陛下は、そこを退屈に感じておられるのだろう。私や平民たちが受けた苦しみに関心が無い、わけではない』とね」

 う、うーん。私は、またしても唸る。この国の王様が・・・。期待したいのに。

 しかし私は口をはさまないでおいた。セピイおばさんも話を続ける。

「それから、いよいよ一揆の場面だ。オペイクス様は平民たちに一揆を起こさせ、自分自身は領主の救出に当たるふりをした。そうやって領主ペレガミを油断させて近づき、首をかく。ここでも多少の嘘が混ぜてあったんだが。

 オペイクス様がおっしゃるには『ようやく、ここで王陛下や重臣の方々が話に喰いついてきた』と。それまで反応が薄かった王陛下やお偉方が『ほお』とか声を出して。中には『やるではないか』なんて声も聞こえたとか。盃片手の姿とは言え、オペイクス様としては、やはり、ありがたい展開だよ。オペイクス様は胸を撫で下ろしたそうだ。

 その後、元領主ペレガミの首をピッチフォークに刺して掲げた事に話が及ぶと、オペイクス様とビナシスに近いところに居た重臣の一人が話に割り込んできた。『ビナシス殿。彼奴の晒し首を、わしも見たかったぞ』とか言って。同調する重臣が他にも一人、二人いて、ビナシスが適当に言葉を返す。

 捕まえた兵士二人を肛門から槍で串刺しにした話に至っては、はっきり笑い声が起こった。王陛下や重臣たちだけではないよ。王の間の隅に控えている使用人や女中たちも、忍び笑いになっていた。気がつくと、王の間で笑っていないのは自分だけ。自分の主君ビナシスも、隣りで笑い顔になっている。

 そこまで私らに話していて、オペイクス様は思い出した。『そうだ。あの時、アンディン様だけは笑っておられなかった。盃も持たず、私をじっと注視しておられた』と。それは、いいんだが。

 王陛下たちの様子に、オペイクス様は『冷めると言うか、心が寒々とするような思いだった』とおっしゃったよ。何が可笑しいんだ。何を笑っているんだ、この人たちは、と。オペイクス様は、腹が立つと言うより、全く理解できなかったそうだ。

 言っとくけど、オペイクス様は、べつにウケを狙って話していたわけじゃないよ。それどころか、自分や平民たちが、そしてパールのような女たちが受けた苦しみについて、知ってほしかった。酷い暴力に苛まれる者たちが存在するという事実を認識してほしかった。この国の政(まつりごと)を担う人間として。

 自分が兵士たちを串刺しにしたのは、面白半分にやったのではない。パールや平民たちを怯えさせてまで実行してみせるような、おふざけなんか無い。やらずにはいられない怒りがあったからだ。

 それが、それが・・・この人たちにとっては笑いの種に過ぎないのか。政(まつりごと)を司る、この人たちにとっては。

 気がつくと、主君ビナシスが注意してきた。『何を惚けておるのか。続きをお話ししろ』

 オペイクス様はハッとして、王陛下に向かって一度、頭を下げた。『失礼しました』と。

 それから一揆の話を再開した。やがてビナシス家が駆けつけて、自分を含む一揆勢をなだめて、寛大な処分を下した、という話だよ。その事に関して、目の前の王陛下と、すぐ隣りに居る自分の主君ビナシスに礼を言って、話を締めくくった」

「うーん」私は唸る。唸りたくないのに、唸ってしまう。さっきから、こればっかりだ。

「面白くない展開だねえ、プルーデンス。話を聞いていた私らも、面白くなかったよ。せっかくオペイクス様とパールが暮らし始めたってのにね。イリーデやブラウネンも、ぶつくさ言っていたっけ。

 でも、よく考えるんだよ、プルーデンス。これが、どういうことなのか。要するに、オペイクス様は伽を申しつけられたのさ」

「と、とぎ?」

「面白い話、興味深い話をする芸のこと。

 気の利いた道化師なんかだと、軽業だけでなく、そういう話術でも稼ぐんだ。

 下級の貴族が、主君とか上位の貴族に対して話すこともある。上手くいけば、そのお偉いさんに気に入られて、ご褒美を頂けたり、要職にありつけたりもするよ。ウケなければ、叱られるか、最低でも馬鹿にされて、赤っ恥だがね。

 他には、女が寝床で男の相手をすることを遠回しに言う場合にも、この言葉を使うねえ。夜伽って」

「で、オペイクスが伽を申しつけられたって、まっ、まさか、王様は退屈しのぎに話をさせたってこと?」

 私は途中から、声が裏返ってしまった。セピイおばさんは深く、うなずく。

「そ、そんな」私は、それっきり絶句してしまう。

「プルーデンス。驚くのは、まだ早いよ。

 その後、進行役の役人がオペイクス様に対する質問を受け付けたので、重臣たち何人かがそれぞれ気になった事を尋ねた。オペイクス様は、その一つひとつに真面目に答える。

 それが済むと、今度は王陛下から直々にお言葉があった『オペイクスとやら、大儀であった』とね。ありがたい事だが、そのやり取りの間もお偉方は、お酒を嗜んでおられたらしい。

 それでも、もうすぐお開きになって解放されるだろう、とオペイクス様は安心しかけたよ。その時だ。王陛下に『兄上』と呼びかけて近づく御仁が現れた。紋章衣の蛇の巻き方が違っていたから、王弟様の一人だろう、とオペイクス様も推測した。

 その王弟様は、兄である王陛下に断りを入れてから、オペイクス様に話しかけたんだ。

『実に興味深い話だったぞ、オペイクスとやら。しかも、よく戦った。わしは感心したゆえ、娘の一人をそなたにやろうと思う。どうだ、オペイクス。わしの娘婿にならんか』

 オペイクス様は自分の耳を疑った。王家の娘を自分の妻に?聞き間違いかと思って、答えられないでいたが、目の前の王弟様は笑みを浮かべて、オペイクス様を見ておられる。

 オペイクス様は慌てて平伏した。『お許しください、王弟様。私ごときでは、王弟様の娘婿など、とても務まりません。しかも、私めはご覧の通りの醜男。姫様を悲しませるだけであります。どうか、どうか、ご再考くださいませ』

 そして床に額をつけるまでした。オペイクス様はパールの存在を口走りそうになったのを、すんでのところで呑み込んで、こらえたのさ。

 それはいいが、相手は王族だ。お断りしようにも、さじ加減が難しいよ。それは、ビナシスどころじゃない。オペイクス様は『王弟様や王陛下の気分を害したかもしれない』と心配して、なかなか顔を上げられなかった。体も震えてきたとか。

 すると、だ。オペイクス様の頭上、周囲から、くすくす笑い声が聞こえてきた。と言うより、笑い声が王の間に充満したみたいになった、と。

 事態を理解できなかったオペイクス様は、思わず許可も待たずに、顔を上げた。そして王の間を見回す。王族も居並ぶ重臣たちも、役人や使用人たちまで笑っていた。

 笑っていないのは、やはりアンディン様。

 と、もう一人、すぐそばに居る、主君ビナシスだ。先ほどまで機嫌がよかったはずなのに、いつの間にか険しい顔になっている。

 そのうち、蛇ではない紋章衣の者から、こんな言葉が投げかけられた。『作法の指導が行き届いていないようですな、ビナシス殿』

 ビナシスはそれに返事しないで、代わりに舌打ちした。

 すっかり困惑したオペイクス様は、主君ビナシスから、指示とか、何らかの助け舟を出してもらえないか、と顔を覗く。しかし、当のビナシスは、オペイクス様と目を合わせようともしない。

『王弟陛下、ならびに王陛下。私めの家来が大変、失礼いたしました。ただ今、ズエビ殿がご指摘した通り、これ全て、主君たる私めの不手際にございます。申し訳ございませぬ。

 この者が王弟陛下の娘婿にふさわしくない事は、先ほどの言葉の拙さから、充分ご理解いただけたでしょう。どうぞ、姫様の婿には、弁舌の才も持ち合わせた者をお選びくださいませ』

 ビナシスは低い声で言い尽くして、王族たちに頭を下げた。

 対して王弟様は、にやけ顔のままだ。

『そう怒るな、ビナシス。無欲で謙虚、忠実な男ではないか。そのような者が自分の手勢に加わっている事を自慢に思うが良い』

 このありがたいお言葉にも、くすくす笑いが広がったとさ」

 

ズエビ家の紋章 のこぎり鮫

 

「お、おばさん」私は口をはさまずには、いられなかった。「オペイクスの返答のどこがまずかったの。私、全然分からないんだけど」

「私もオペイクス様からこの話を聞いた時は、分からなかったねえ。そしてオペイクス様自身も、当時は分からなかった。

 先にその問題だけ話すと、その後オペイクス様が模範解答を教わるには少々、時間がかかったよ。

 まず、主君ビナシスには聞けなかった。『そんなことも分からんのか』なんて余計に叱られかねないからね。

 そこでオペイクス様は、コモドーン城の騎士たちの代表格であるお偉いさんに目をつけた。都から帰って、少し日が経った頃だよ。オペイクス様は、党首ビナシスが居ない時を見計らって、恐る恐る教えを乞うた。オペイクス様も覚悟していた事だが、お偉いさんは憐れみと蔑みの混ざった眼差しを向けてきたよ。それでもオペイクス様は喰い下がって、お願いした。

 そこまでして得た模範解答は、大体こんな感じだったようだ。

『やっ、これは、ありがたきお言葉。されど姫様をお迎えするとなれば、私めには、まだまだ実績が足りませぬ。なお一層の武勲を立ててご覧に入れます。それゆえ、王弟陛下の娘婿の候補として、ぜひとも、この私めをご記憶にお留め置きくださいませ』

 お偉いさんとしては『俺がお前の立場なら、そう言う』と。

『そもそも、お前は自分を売り込んでいない。お前は王の間に通されていながら、自分が置かれた状況を分かっとらんのだ。王族の方々に主張できるという、せっかくの機会だぞ。それを得たのに、お前は遠慮するばかり。それでは王弟陛下は、お前に何も期待できんではないか。面白くも何ともない話よ』とか解説も付けて。

 おそらく、お偉いさんは、せせら笑っていたんだろうよ。オペイクス様は大人しく礼を言って、退がったそうだ」

 私は、まず絶句した。それでも、何とか考えをまとめて絞り出した。

「そ、そんなの、思いつくわけないじゃない。事前に答えを用意しておけってこと?だったらビナシスやお偉いさんが、それこそ事前にオペイクスに教えてあげないと。それとも、言われなくても気づかなければいけないの?そんなの、宮殿に行き慣れていないと無理よ」

「まあ、無理だね。王弟様が必ず娘婿の件を口にするとは限らないし。

 とは言え、このお偉いさんは解答を教えてくれただけ、まだいい方かもね。コモドーン城では、オペイクス様たちが王族に謁見した話が広まると、オペイクス様に対する陰口が増えたらしい。『卑屈な奴』とか『機転が効かない』とかね。同僚である騎士や兵士、使用人たちが好き勝手に評論したわけさ。当時はナクビーでビナシス家の役人を補佐していたオペイクス様にも、陰口が伝わってきたほどだよ」

 むうう。私は面白くないと思う。まったく、どいつもこいつも簡単に人を馬鹿にして。

 

「ちょいと先走ったが、話をアガスプスの宮殿に戻すよ。

 王弟様のありがたいお言葉の後、ようやく会はお開きになった。オペイクス様たちを好きなだけ揶揄い、適当にあしらって帰すのさ。

 オペイクス様は呆然としたまま、ふらふらとビナシス家党首について行くだけ。『その後、宮殿の方々とどんなやり取りをしてから宮殿を出たのか、よく覚えていない』とおっしゃっていたよ。

 それでもオペイクス様がはっきり覚えていたのが、宮殿を出た後の主君ビナシスの態度さ。中に入るまではご機嫌だったくせに、出てきた途端にオペイクス様を突き放したんだよ」

「突き放す?」

「ビナシスは、こう言ったんだ。『自分たちは先に帰る。そなたは、せっかく都に来たのだ。ゆっくり遊んでから帰って来るがいい』

 自分たちってのは、オペイクス様以外の全員だよ。ビナシス家の従者や兵士たちは馬を引いて来て、党首が騎乗するのを手伝う。行きがけにオペイクス様が借りた馬にも、兵士の一人が乗った。

 それを見てオペイクス様も、自分が置き去りにされる事に気づいた。愕然としながらも、オペイクス様は何とか主君ビナシスに尋ねた。『あ、遊ぶとは?自分は、どうやって帰ればよいのでしょう』

 すると、ビナシスは馬上から声を荒げたよ。オペイクス様も薄々覚悟していたんだがね。

『先ほど王弟陛下から褒美の金をいただいたではないか。それなら女郎屋で遊んでも、馬車を雇う分くらい残るわ。いちいち言わすな。世話の焼ける』

 その言葉に、オペイクス様はハッとして、懐を探って、それを取り出した。金貨か銀貨が数枚入っていそうな重みの小袋。そういえば、という気になりかけたが、オペイクス様は自分が王弟様にお礼申し上げたか、思い出せなかった。

 そんなオペイクス様を放っておこうと、ビナシスは馬を走らせる。それでオペイクス様は慌てて呼び止めようと思った。

 が、別の声が飛んで来て、ビナシスを止めてくれたよ。『お待ちください、ビナシス様。我が主君、アンディン・ヌビが貴殿に一つ、お頼みしたい事があると申しております』

 オペイクス様が声の主に振り向くと、従者や兵士たちを引き連れたアンディン様が歩いて来られるところだった。

 続けてビナシスに目を戻すと、ビナシス家一行の馬の前に紋章衣の者が三、四人ほど飛び出して道を塞ぐ。ヒュドラの紋章衣。アンディン様の従者たちだよ。

 馬上でビナシス家党首の顔が引きつるのが、オペイクス様にも見えた。『ヌ、ヌビ様。何用ですかな』

 ビナシスは一応、馬から降りようと腰を浮かせたが、アンディン様はそれを止める。『ビナシス殿、どうぞ、そのままで。私は、そちらのオペイクス君をお借りしたいのだ』

 これに対して、ビナシスの返事は、こんな感じだ。『ああ、此奴ですか。ちょうど当家の用事が済んで、此奴には、都で少し遊んで来い、と勧めておったところです。どうぞ、存分にお使いください』

 そしてオペイクス様に目を向けて『聞いての通りだ。ヌビ様のお相手をしろ。くれぐれも失礼の無いようにな。これ以上、俺に恥をかかせるなよ』と来た。

 で『自分たちは帰路を急ぐから』とかアンディン様に言い訳して、ビナシスは部下たちと、そそくさと馬を進めて、居なくなった。

 ビナシス家一行が起こした土埃の中に取り残されて、オペイクス様は呆然としたとか。

 そんなオペイクス様に、アンディン様は和やかに声をかけてくださったよ。『さて、オペイクス君。場所を替えて、酒でも酌み交わそう。私は君の話を、もっと聞きたい』と。

 オペイクス様は恐縮した。当時のオペイクス様もヌビ家の評判を耳にしていたからね。旧名家のナモネアやマーチリンドを追い越して、シャンジャビ家に追いつかんばかりに、勢力を増していた。

 話を聞きたいとは、ありがたいお言葉だよ。しかしオペイクス様は緊張する、と言うよりも警戒した。つい先ほど、王弟様に揶揄われたばかりだ。この急成長した貴族家のご党首も、自分に悪意を持って近づいて来たのでは。そんなふうに身構えたのさ。

 そもそもオペイクス様は、早くナクビーに戻りたくて仕方なかった。残してきたパールが心配でね。

 そんなこんなでオペイクス様は、何とお答えすべきか分からず『あの、その』を小声で繰り返すばかりになった。

 そしたらアンディン様は、顔色も変えずに和やかなままで、こう、おっしゃったとか。

『どうも都合が悪かったようだな。では、君の話を聞かせてもらうのは、また次の機会に延期しようか』

 オペイクス様は、これを聞いて、もう正直に言うしかないと思った。一揆の際に保護した女性が居る事。彼女が心配で一刻も早く、住んでいるナクビーに戻りたい事をね。

 するとアンディン様は、オペイクス様に問うた。『足は、どうするつもりなのか』と。

 オペイクス様は、ついさっきビナシスから教わったやり方をお答えした。つまり、王弟様からいただいた褒美の金で馬車を雇うという計画だよ。

 対してアンディン様はオペイクス様に、少し待つように言った。そして従者たちと何やら相談していた。数秒して結論が出ると、アンディン様はそれをオペイクス様に話した。

『我が従者たちの中に、コモドーン城までの道を知る者が居る。君の住むナクビーとは、コモドーンの近郊じゃないのかね。ならば、王弟陛下からの報奨金をわざわざ使うこともない。我が従者たちに君を、そのナクビーまで送らせよう。馬車に乗りたまえ。ナクビーに近くなったら、君が道案内をしてやってくれ』

 オペイクス様は一瞬、この提案を理解できずに立ち尽くした。で、また『あの、その』となるのだが、アンディン様は、そんなオペイクス様にお構いなしに、従者たちにさらなる指示を出す。従者たちは馬車を一台、オペイクス様の前に寄せてきたよ」

 私は、ほーっと息をついた。「さすがアンディンね。頼りになるわ」

 セピイおばさんが、ククッと笑った。

「シルヴィアさんが似たようなことを言っていたねえ。もっとも、シルヴィアさんは敬語だったが。

 とにかくオペイクス様は、アンディン様の従者たちに促されて、馬車に乗った。

 と、乗り込む時に、御者がアンディン様に何か耳打ちするのが見えた。されたアンディン様の方もニヤリとする。『よろしい、許可する。オペイクス君を送り終えたら、馬車は打ち捨てても良い』なんてお言葉も聞こえた。

 オペイクス様としては、ありがた過ぎる展開だが、訳が分からない。それでも急いで馬車の窓を開けて、オペイクス様はアンディン様に礼を言ったよ。何度もね。

 アンディン様は、こう返したとか。『また会おう。その時こそ君の体験を聞かせてくれ』

 アンディン様が言い終わると、今度は御者台からの声が割り込んで来た。『お客様。馬車の中で、しっかり、おつかまりくだされ。たった今、ご党首様から『馬車を飛ばして良い』とのお許しをいただきました。相当、馬車が揺れますが、ご容赦願います』

 その御者も笑みを浮かべていた事が気になったが、オペイクス様は、とりあえず大人しく従って、馬車の中に戻った。

 そして馬車が動き出したよ。オペイクス様とアンディン様の出会いも、ここで一旦、お開きだ。

 事前に言われた通り、馬車は大いに揺れて、なかなか大変だったそうだ。オペイクス様は馬車の中で、自分の体を突っかい棒のように強ばらせてみたり、窓を開けて窓枠を掴んだり。

 そんな調子で小一時間ほどした頃か。馬車の外が、にわかに騒がしくなった。馬車を先導している従者が声を張り上げて、人払いしているらしい。『ヌビ家の馬車であるっ。道を開けよ』なんて怒鳴り声が、前の方から聞こえたとか。

 と、さらに数秒ほどして、今度は窓の向こうに別の従者が現れた。馬を寄せて来たんだよ。『お客様、どうぞ後ろをご覧あれ。先ほど、あなた様の主君一行を追い抜きましたぞ』

 オペイクス様は窓から顔を出して、見たよ。馬車の後方で、見覚えのある紋章衣の一団が小さくなっていた。白地に緑の生き物。ビナシス家の一行さ」

「ふふっ、そういういたずらだったのね。トカゲのお殿様も、いい気味だわ」

「ああ、私らも聞いていて嬉しかったねえ。イリーデやブラウネンも、はしゃいでいたし。シルヴィアさんも言っていたよ。『アンディン様が話の分かるお方って言うのは、こういう事なのよ』って。

 三人の反応を見て、オペイクス様も微笑んでいたよ。私は私で、そんなオペイクス様の様子に内心、ホッとしたもんさ。

 で、あんたも、もう予想がついているだろうが、馬車はぐんぐんナクビーに近づいた。オペイクス様も、事前にアンディン様から言われた通り、御者に道を教えた。

 そして元ペレガミ家の屋敷、その時はビナシス家の出先機関になっていた建物の前に、馬車は止まった。行く時は二泊になるか、三泊になるか、それすらも予想がつかなかったのに、オペイクス様は都から日帰りで戻って来られたんだよ。深夜になっていたとは言え、オペイクス様は『夢でも見ているんじゃないか』と開いた口が塞がらなかったとさ。

 屋敷からは、ビナシス家が派遣した上役が飛び出して来た。突然現れた馬車が掲げている紋章を使用人から知らされて、慌てたんだよ。

 驚いている役人をよそに、馬車の御者や従者たちはオペイクス様に言った。『では、これで私どもは失礼します。どうか、我らが主君との約束をお忘れなきよう』

 馬車から降りたオペイクス様は、すぐ、そのそばにひざまずいて、頭を下げた。『もちろんです。このご恩は忘れようにも、一生、忘れられません。何とかして、ヌビ家の城にお伺いする段取りをつけます。そしてヌビ家ご党首様にも直接、お礼申し上げます』

 すると、従者の一人が笑って答えた。『段取りの件は、ご心配なく。いずれ主君は我々に、あなた様をお迎えに上がるよう申しつけるでしょう。その時まで、どうぞ、お元気で』

 という感じで、ヌビ家の者たちは、何の屈託も無い笑みでオペイクス様に手を振って、帰って行った。

 ビナシス家の役人は口をぱくぱくさせて、オペイクス様に事情を尋ねるのに時間がかかったそうだよ」

「よかった。後はパールね」

「ああ。オペイクス様は役人に、都でのアンディン様たちとのやり取りを話し終えると、すぐさまパールを迎えに行った」

 そこでセピイおばさんの言葉が途切れた。ちょっとだけ。私は、ん?と思う。

 

「いつも世話になっているボジェナさんの家では、パールを含め、一家全員が寝床に着いていたらしい。

 オペイクス様の声を聞くと、パールは飛び出して来て、オペイクス様に抱きつきそうになったよ。でもボジェナさんの一家の手前、すんでのところで踏みとどまって、挨拶だけにした。『よく戻ってくださいました』と。

 オペイクス様は軽く抱き寄せてから、ボジェナさんたちに礼を言った。

 そして王弟様からいただいた褒美袋から貨幣を一枚、取り出して渡した。それが金貨だったもんだから、ボジェナさんたちは『ヒッ』と言ったっきり、固まってしまったんだと。

 オペイクス様は小声で言った。『どうか納めていただきたい。そして誰にも知られないように。しっかり保管して、ここぞという時に使ってください』

 ボジェナさんの一家の、孫たちはともかく、大人たちは震え出したよ。それでオペイクス様は彼らを安心させるために、王弟様からいただいた事を説明しなきゃならなかった。 

 散々遠慮するボジェナさんたちだったが、パールからも頼まれて、ようやく受け取ってくれたよ。もっとも、お返しのつもりか、二人にパンを持たせたりしてね。

 さて二人は小屋、じゃなかった、オペイクス城に戻った。パールだけ晩ご飯を済ませていたから、オペイクス様も貰ったパンで食事した。パールもオペイクス様のために、水差しから盃に水を注いであげたりしてね。

 オペイクス様も、やっと気持ちが落ち着いたよ。それをそのまま言葉にして、パールに伝えた。『やっぱり私は、あなたと居るのが一番だ』と。

 パールは頰を染めて、小声でオペイクス様に尋ねた。『でもオペイクス様は都に行って来られたのでしょう。私では、都や宮殿の方々には敵いませんわ』と。

 オペイクス様は笑って、首を横に振った。『あんなところ、緊張するだけで、ありがたくも何ともなかった。もう、こりごりだよ。

 それに比べて、あなたがどれほど私を幸せにしてくれている事か』

 オペイクス様は口説くとか、お世辞を言うとかじゃなく、本当に心からそう思って、言ってしまったそうだ。

 すると、パールはポロポロと涙をこぼして、オペイクス様にすがりついてきた」

 セピイおばさんの話が、また途切れた。それどころか、とうとう葡萄酒の皮袋を後ろの陰から引っぱり出して、自分で盃に注いだ。で、一気にあおる。

「おばさん」

 私が呼びかけても、セピイおばさんは答えずに首を横に振る。問うな、ということだろうか。

「オペイクス様は自分でおっしゃったよ。『いい気になっていた』と。パールは自分の言葉に感激して泣いているのだ。たまには私も、気の利いた事を言えるじゃないか。なんて得意になっていたと。照れ臭さがあってもね。

 しかし、そんな気持ちも、長くは続かなかった。続いたのは、パールの泣き声と涙。パールはオペイクス様の胸元に顔を埋めて、一向に泣き止まない。さすがに長すぎないか、とオペイクス様も気になり出したよ。そうなると、もう食事どころじゃない。

 オペイクス様は、できるだけ、そおっとパールに尋ねた。『ど、どうかしたのかな』

 パールは『何でもありません』と答える。でも、やっぱりまだ、しゃくり上げる。

 オペイクス様は喰い下がった。『何か、嫌なことがあった?私が居ない間に、誰か、あなたに嫌な思いをさせたのでは』

 オペイクス様が尋ねている途中で、パールは首を横に振った。激しく、何度も。

『何でもないんです。それより』

 パールはオペイクス様の手を取って、自分の乳房を触らせる。服の上からとは言え、自分で強く押しつけるんだよ。一瞬、痛みを感じたのか顔を歪めるまでして。

 オペイクス様は慌てて、自分の手を引き離した。そして『自分のスケベ心になんか合わせなくていい』と繰り返し説明したんだが。

 パールは、それでも首を横に振る。『あなたがそんな人じゃない事は分かってます。でも私にお返しできることは、これしか』

 オペイクス様は『待った』と、あえてパールの言葉を遮った。そして、そのお返しという考え方をやめるよう、パールに提案した。自分の方こそ、彼女に勇気をもらい、お返しすべきである、と。しかしパールは首を横に振る。

 そこでオペイクス様は、少し話をそらそうと考えた。『逆に、あなたから私にしたい事は?あなたから私に触れるとしたら』

 パールは、しばらくオペイクス様を見つめた。そして、またオペイクス様の胸元に顔をつけた。

 オペイクス様は彼女の髪を撫でる。

 パールは顔を上げて、オペイクス様の唇や首に口づけした。

 きっとオペイクス様は、優しく微笑んであげたんだろうね。『これは私も嬉しい。そうだ、こうしよう』とか言って、服を脱いで上半身裸になった。パールも慌てて服を脱ごうとしたが、オペイクス様はその手を止めて、寝床に連れていく。オペイクス様が先に横たわって、パールを乗せた。パールを受け止め、そっと抱きしめながら、彼女の髪を撫でた。

 パールはオペイクス様の上で顔を上げた。

『私は、こうしていても良いのですか』

 オペイクス様は即答した。『いい。むしろ、してほしい』そして聞き返した。『嫌かな?』と。

 パールは、また涙をポロポロこぼして、オペイクス様の胸元を濡らし、首を横に振った。

『こうしていたい。ずっと、こうして』

 その後パールは、はっきり声を上げて泣いた。泣きじゃくった。オペイクス様の腕の中で。しばらく、そうやってパールは泣き続けたんだ」

 セピイおばさんは、ため息をはさんだ。すごく重たいものに聞こえた。

 私も一言はさみたかった。と言うか、その場に居たら、二人に何か声をかけてあげたい、と思う。そう思って、気がついた。たとえ、その場に居たとしても、私は何も言えなかっただろう。泣いている二人に、私は何も言ってあげられない。そうだ。

「オペイクスも泣いていたのね」

「そうだよ。私らに話しながら、静かに泣いていた。そしてパールを慰めていた、その時も泣いていたに違いないよ。後で、そんな推測をシルヴィアさんとしたもんさ。

 オペイクス様は例によって、自嘲してねえ。『自分は馬鹿だった。調子に乗っている場合じゃなかった。パールがあんなに泣いて苦しんでいたのに。

 私は、いつだって、そうだ。彼女が泣いて、初めて気づく。彼女が泣かないと、私は気づかない』

 聞いていた私ら四人は、何も言えなかった。オペイクス様に声をかけられなかったんだよ」

 セピイおばさんは、また息をついた。

 

(後編に続く)

自作小説「塔の上のセピイ  〜中世キリスト教社会の城女中の話」第十二話(前編)(全十九話の予定)

第十二話 戦う理由、気づかう理由(前編)

 

「それは、オペイクス様が二十代に入ったばかりの頃。私らに話してくださった時にオペイクス様は三十代前半だったろうから、そこから十年以上、遡った時代だ。

 オペイクス様は、まずご自分の出身地を簡単に説明したよ。ナクビーという町で、ここツッジャムからも、メレディーンからも遠い地方だとか。どちらかと言えば、西の隣国セレニアに近いんじゃないかねえ。

 オペイクス様は、そこの小貴族エクテ家の長男でね。貴族といっても、大して領地や資産も無く、地元ナクビーの領主に仕えることで生活していたそうだ。つまり、その領主がオペイクス様の最初の主君だったわけさ。

 もちろんオペイクス様は、その最初の主君についても説明した。ペレガミ家という貴族でね。まあ、あんたも聞いた事は無いと思うが、一応、蛇の紋章を持つことを王家から許されていたそうだよ。蛇の鎌首を大きく強調して描かれているんだが、その口先から細い舌が伸びて、舌先に鍵をぶら下げている。そんな紋章だったと」

 

ペレガミ家の紋章 舌先に鍵を下げた蛇の鎌首

 

「う、う〜ん」口をはさまないつもりだったのに、私は我慢できず唸ってしまう。

「何だい。気になるかい?」とセピイおばさんはムッとするどころか、むしろ少しニヤリとする。

「気になる。それって、鍵を取ろうと手を伸ばしたら、ガブッてやられる、ていう意味じゃないの?」

「だろうね。戦の時なんかは盾や旗で、それを敵に見せつけようって段取りさ。オペイクス様が、そう解説してくださった。『紋章の中の蛇は毒を持っているはずだ』とも。

 ともかくペレガミ家は、このヨランドラで蛇を紋章にしていたんだ。当然、ヨランドラ王家の遠縁にあたるとか、噂はいろいろあったみたいだよ。でも結局は、オペイクス様も正確なことは分からなかった。その領主が明言しなかったんでね。そのくせ、噂も放ったらかし、と。私は聞きながら、ちょっと、きな臭い気がしたよ。

 オペイクス様も、おっしゃったねえ。『自分を含め、下々に対する当たりがキツい気がした』と。オペイクス様は他人の陰口を言いふらすような方じゃないから、だいぶ加減して話しておられたんだろうが。

 後でシルヴィアさんと推測をしたもんさ。周りに威張り散らして、人使いが荒い、田舎の典型的な小領主に違いない、とね。そんな奴が蛇の紋章を許されるんだ。その領主は図に乗るに決まっているよ。オペイクス様みたいな周りの人や領民たちは、たまったもんじゃなかったろう。

 でもオペイクス様は、こうも、おっしゃっるんだ。『こまごました不満が無かったわけではないが、とりあえず忠誠心を持ってお仕えしようと努めた』と。『相手は領主様。自分たち領民があるのは、この方のおかげなんだ。そういう認識でいた』と。

 ちなみに、ペレガミ家は蛇の紋章は許されたが、城を任されるほどではなかった。まあ、それでも大きめの屋敷を構えて、ナクビーの町と周辺の村々を睥睨していたんだろう。オペイクス様みたいにお仕えする者も多かったようだ」

 セピイおばさんは、ふーっと息をついた。私が口をはさんだわけでもないのに。

「やがてオペイクス様も、女を意識するようになった。二十代のはじめなら充分、年頃だからね。ペレガミ家の屋敷で働く女中の一人が、だんだん気になっていった、と。要するに、同僚だよ。パール・アビュークという名前で、物静かな、大人しい女性だったそうだ。

 私は、オペイクス様がこのパールさんの名前を初めて口にした時の顔を・・・今でも忘れられないよ。言った直後にオペイクス様は泣き笑いのような顔で、言葉を途切らせてしまったんだ。好きだった人の名を、せっかく言えたのにね。

 オペイクス様は、こう、おっしゃった。

『私は、つくづく卑屈で見苦しい男でね。自分でも、色男には程遠い、と分かっているつもりだ。認めるよ。私は、オーカー君たちが心底、羨ましい』

 そこでイリーデが口をはさもうとしたが、オペイクス様は静かに制して、話を続けた。

『だから私は、心のどこかで勝手に期待していたんだろう。優しいパールなら、私のような男でも、まともに接してくれるんじゃないか、と。つまり、自分に都合のいい解釈をしていたんだ。

 勇気を奮って、私はパールに話しかけるようにしたよ。とは言っても、今でも話が下手な私だ。面白くて楽しい話なんて、できやしない。何とか失敗談を探し出して、大げさに披露するのが精一杯だった。

 パールは・・・辛抱強く聞いてくれたなあ。ウケた、とはお世辞にも言えないが、いつも微笑んでくれて。今にして思えば、憐れみの笑みだったんだろうけどね。

 彼女の優しさに甘えて、私の身勝手な期待は膨らんでいった。自分を止められなかった。それで私なりに考えたよ。まずは、領主様に断りを入れようと。領主様の女中であるパールを好きになった。本人が良ければ、正式に妻として迎えたい。そう申し出ようと。

 私は意を決して、パールへの想いを領主様に告白した。すると領主様は一瞬、ほんの一瞬だけ顔をしかめた。まるで、針か何かで脇腹でも刺されたみたいに。

 しかし領主様は私を咎めなかった。むしろ応援しよう、とまで言ってくださったよ』

 オペイクス様はそんなふうに話しながら、当時を思い出すのか、遠くの空を見たねえ。西の空だ。だいぶ赤く染まっていた」

 セピイおばさんは、また息をついた。

 

 セピイおばさんを通して、オペイクスの話は続く。

 オペイクスは、領主の了承を得た事で背中を押された気になり、以前よりもパールと気軽に話せるようになったそうだ。地元の収穫祭なんかにも頻繁に誘って、一緒に過ごす時間を増やしたらしい。

 私も聞いていて、順調だと思った。オペイクスも自信がついたんだろう。ある時、人影のほとんど無い木陰にパールを誘って、ついに結婚を申し込んだ。

 パールは、すぐに返事をしなかった。寂しげに微笑んで、やっと口を開くと、こんな事を言ったのだ。

『とても、ありがたいお言葉です。私からお願いしたいくらいです。できることなら。

 でもオペイクス様。私は平民の女ですよ。家族と早く死に別れて、身寄りの無いところを、こちらペレガミ家の領主様に拾っていただいたんです。それだけの女なんです。何も持っていないのですよ。

 逆に、あなた様は貴族であり、騎士として修行中の身。ご家族が、あなた様と、あなた様の将来の奥様をお待ちしているはず。ちゃんと貴族の出身であり、あなた様の家柄に見合ったお嫁さんをお待ちしているはずです。

 私では、あなた様にふさわしくありません』

 オペイクスは『身分なんか関係ない』と必死で反論した。『自分の家も捨てれば、自分も平民になれる』とまで言ったようだ。

 しかし。パールは首を横に振った。『自分は、あなた様にふさわしくない』と。

 パールは、だいぶ迷ったようだが、オペイクスに、こう尋ねた。

『オペイクス様は、女を知っていますか。女を抱いた事がありますか』

 オペイクスは言葉に詰まった。当時のオペイクスは、まだ女を経験していなかったのである。その事で周囲から笑われている事にも気づいていた。

 おばさんの話を聞いていて、私はカーキフを思い出した。

 とは言え、パールは自分を笑おうとして尋ねたわけではなさそうだ。オペイクスは、そう判断したらしい。なぜなら、パールの笑みは何とも寂しげで、他人を笑う類には見えなかったのだ。

『私は・・・男を知っているんです。生娘ではないんです。だから、あなた様に、ふさわしくありません』そう言って、パールは弱々しく首を横に振る。

 オペイクスは動揺しながらも、必死に考えてパールに聞き返した。『相手の男を、まだ想っているのですか。まだ、その男との関係が続いているのですか』と。

 パールは、それにも首を横に振る。

『だったら』とオペイクスは声が大きくなってしまう。

『だったら、気にしないでください。私の家も、過去の事も。

 私は改めて、あなたに結婚を申し込みます』

 それでも、やはりパールは首を横に振るだけだった。

 オペイクスは、その後パールを領主の屋敷まで送ってやり、自分は郊外の家に帰った。

 そして翌日から、また二人とも領主の屋敷で働く生活に戻った。

 気まずかったが、できるだけ、これまで通りに接しようと、お互いに努めたのだろう。私は、セピイおばさんから聞くオペイクスの説明で、そう推測した。いくら若かったとは言え、自分を拒んだからと相手を恨むようなオペイクスでもないと思う。ぎこちなくても、世間話を試みるオペイクスと、それに応えるパール。会話は途切れがちになっても、お互いを悪く思ったりせず、微笑みを返し合ったりしたんじゃなかろうか。私が、この推測をセピイおばさんに話すと、おばさんも同意してくれた。

 そして、おばさんは、また息をつくのだ。すぐには話を続けない。葡萄酒で口を湿らせようか迷っている。私は勧めてみたが、セピイおばさんは首を横に振った。まるでパールみたい、と私は思ったが、おばさん自身は気づいているのだろうか。

 私が疑問を感じていると、おばさんは口を開いた。

「それから、しばらくして。オペイクス様は、結婚を申し込んで一ヶ月後くらいじゃないか、とおっしゃっていたが。今度はパールが、オペイクス様を散歩に誘ったそうだ。

 パールの方からなんて珍しいと思いながら、オペイクス様は言われるままに一緒に歩いた。領主の屋敷から少し離れた位置の林に入って、物置代わりに使っている小屋のそばまで来た。

 パールは例によって寂しげな笑みを見せて、オペイクス様に尋ねた。『まだ私を妻として望んでいますか』と。オペイクス様は『もちろん』と即答した。しかし。やっぱり、パールは首を横に振ったらしい。

 パールは言ったそうだ。『お気持ちはありがたいのですが、やはり私ではオペイクス様の妻にふさわしくない』と。『私のことは忘れて、どうか、ちゃんとした貴族の娘を妻として迎えてください。その方が、あなたの一族、エクテ家のためになるでしょう。主君であるペレガミ家に、縁組を斡旋してもらってください』とね。

 そして。そしてパールは言ったんだ。『私なんか、あなた様の練習台にしてください。私は、あなたのお嫁さんにはなれませんが、練習台にはなれます』と」

 セピイおばさんは、そこで話を中断した。で、私は気づく。これは、私に口をはさめってことなんだ。私の反応、意見を、おばさんは求めている。

「れ、練習台って、たしかベイジもカーキフに言っていたわね」私は思ったことを正直に言ってみる。

「そう。全く同じ台詞だよ。

 若き日のオペイクス様は、どう考えたらいいか分からず、頭が混乱して、答えられなかったそうだ。

 オペイクス様と来たら、馬鹿正直と言うか、自虐的と言うか。私らに『軽蔑してくれ』なんて頼むんだよ。なぜってオペイクス様は、まず最初の一瞬に、パールと抱き合うことを考えてしまった、と。『彼女を裸にして、初めて女を経験できるんだ、と心が浮き立ってしまった』と言うんだよ。言わなきゃ、誰にも気づかれないのに。

 だが、次の瞬間には、パールに対して怒りもわいたそうだ。ほんの少しだが、明らかに怒りが。当時、周囲の者たちはオペイクス様の経験の無さを嘲笑っていた。時に回りくどく、時に露骨に、オペイクス様を童貞だと馬鹿にしていた。パールも結局、そいつらと同じで、自分を笑う側なのでは。練習台とか言って、本当は自分をからかっているだけでは。そんなふうに疑ってしまったのさ。

 しかしオペイクス様はパールへの想いから、それらの怒り、疑いを急いで無視した。そんなはずはない。いや、たとえ、そうだったとしても、彼女を恨むまい。心の中で自分に、そう言い聞かせたそうだ。

 そうやって、いろんな感情に捕らわれていたら、オペイクス様も返事なんか、なかなかできないよ。

 すると、パールが言った『私は、練習台にもなれないのですか』とね。

 その悲しげな表情を見て、オペイクス様は思わず、パールを小屋の中に連れ込んでしまったとさ」

 セピイおばさんの話が、また途切れる。私が口をはさんだわけではない。二人そろって、ため息をついてしまう。私は考えてしまう。普通なら浮ついた話の展開で、私もおばさんも赤面しているはずなのに。

 今回は、顔が赤くなるどころか、なぜか、少し寒くなった気がする。

「小屋の中でパールと目が合ったオペイクス様は、慌てて謝ったそうだ。彼女の肩を掴んでいた手も離して。

 パールは何も言わずに、静かに服を脱ぎ始めた。オペイクス様はそれを止めるつもりで手を伸ばしたが、彼女と目が合うと、動けなくなった。気がつくと、パールは裸で立っていて。オペイクス様は慌てて、自分も服を脱いで裸になったそうだよ。『何だか、女が先に裸になるようにするなんて、男として卑怯と言うか、悪い気がした』とさ。

 小屋の中には、藁とか、荷車に掛ける粗布とかが山積みになっていた。荷車は小屋の外。パールは黙ってオペイクス様の手を引きながら、粗布の束の上に腰を下ろし、背を倒した。それに引っぱられる形で、オペイクス様はパールに覆い被さりそうになった。

 そこでオペイクス様は、ためらった、と。そのまま大柄な自分がのしかかるようでは、パールを押しつぶしてしまうのではないか。心配したオペイクス様は、自分の体を浮かせるようにして、パールと唇を重ねた。

 するとパールはオペイクス様の手を取って、自分の乳房を触らせたり、両腕でオペイクス様の頭を抱え込むようにして、胸元に引き寄せたりした。パールはオペイクス様に言ったそうだ。『もっと体を乗せていいのですよ』と。

 オペイクス様は言われた通りに自分の体を下ろそうとしたんだが、パールの体と触れ合ったところで、やっぱり怖くなった。で『パールを抱え上げて、自分が下になった』と。自分の胸板に彼女の顔を埋めさせて、髪を撫でて。

 パールは、その位置から這い上がってきて、オペイクス様の唇に自分の唇を合わせた」

 セピイおばさんは、またしても中断してしまう。息をつく。

「オペイクス様は、おっしゃったねえ。『スケベ心から、パールと肌を合わせているという状況に、天にも登る気持ちだった』と。『そのくせ、パールが痛がったり、嫌がったりしないか、怖くて仕方なかった』ともね。『自分と触れ合うことで、自分が好きになった相手が嫌な思いをするかもしれない。そんな可能性が少しでもあると思うと、怖ろしくて、怖ろしくて、たまらなかった』と、おっしゃったよ。

 でも、とにかく二人は契ったんだ。上になったパールがオペイクス様のあそこを自分の中に導いて。ただ、オペイクス様はパールを抱きしめながら、最後の直前にあそこを引き抜こうとした。まだパールが妊娠しないように、と考えたんだ。しかしパールはオペイクス様の胸板に顔を擦り付けるように、首を横に振ったそうだ。『そのままでいいんです』と。で、オペイクス様はパールの中に精を放った。オペイクス様は・・・『放ってしまった』という表現をしたよ」

 で、セピイおばさんは、また沈黙する。ほんの数秒なのに、すごく長い気がする。息が詰まるような。おばさんは男女の交わりの場面を外孫の私に語っているのに、全く赤面していない。じゃなくて青ざめている?

「オペイクス様は、しばらくパールを乗せたまま、抱きしめ、髪を撫でていた。そして考えていたそうだ。好きになった女性が自分の精を受け入れてくれた。これは、自分の子を産んでくれるという意思表示か。しかしパールは練習台と言っていた。あるいは、抱き合っているうちに気持ちが変わったのか。オペイクスの妻になってもいい、という気になってくれたのか。期待したい。しかし期待していいのか。

 そうやってオペイクス様が迷っていたら、だよ」

 セピイおばさんは急に顔を背けて、暗がりの方に顔を向けた。と思ったら、また私と向かい合って、しかし額に手を当てたり、頭を抱え込んだり。

 私は、おばさんに声をかけてあげたいと思うのに、声が出ない。

「突然、小屋の壁が倒れた。オペイクス様たち二人の両側の壁が無くなったんだ。そこから男どもが入ってきた。壁は、そいつらが引き倒したんだよ。領主ペレガミと、部下の兵士が三人。オペイクス様たちの左右に二人ずつ駆け寄ると、二人を見下ろし、指差してゲラゲラ笑い出した。

『おめでとう、オペイクス君。ついに童貞、卒業だなっ』

 そう叫んだのは、領主ペレガミだ。オペイクス様が言うには、笑った口が耳元まで届きそうに裂けて見えたとか。

 オペイクス様は事態が理解できなかったが、とにかくパールを、脱いだ服や粗布で覆い隠そうとした。しかし、その手を兵士たちが掴んで、動きを封じる。

 その兵士たちが言った。『領主様に感謝しろよ、オペイクス。パールちゃんを貸してくださったんだからなあ』

 オペイクス様は、この言葉の意味が理解できなかった。『か、貸す、とは、どういうことですかっ』と領主ペレガミに、必死に問いただした。

 ペレガミはオペイクス様に答えず、パールの手を取って立ち上がらせ、その全身を上から下まで、じっくり鑑賞した。パールは顔を背け、目を閉じて、その視線に耐える。

 別の兵士が領主ペレガミの代わりに答えた。『だから領主様は、お前に貸してくださったんだよ。妾の一人であるパールちゃんをよ』

 答えながら、兵士たちはオペイクス様を粗布の束から引きずり下ろした」

「め、妾って、またあ?」私は、つい声を上げてしまった。

「そう、まただよ。モラハルトと同じ。ペレガミも女中の何人かを妾にしていたのさ。

 裸のオペイクス様は引きずられて、パールから引き離された。大柄なオペイクス様も、不意打ちで腕を捩じ上げられて、抵抗できない。それどころか、後ろ手に縛られて、土の床に転がされた。

 その上で、さっきは答えなかった領主ペレガミが言うんだ。

『パールを大事に扱ってくれたなあ。褒めてやるぞ、オペイクス。しかし、これでは、お世話にも床上手とは言えん。まあ、初めてで仕方ないかもしれんが、見ていて笑いをこらえるのが大変だったぞ』

 これに合わせて、兵士たちが大笑いする。『まったく、俺だってパールちゃんを使いたいのに。お前と来たら、羨ましいどころか、見てられなかったぜ』とか言って。

 領主ペレガミは、それには即答した。『まあ、お前たちにも貸してやるから、待っておれ。その前に私が直々に手本を見せてやろう』

 言ったと思ったら、ペレガミはパールを粗布の束の上に押し倒した」

 セピイおばさんは、そこまで話したものの、続かなかった。私の目を見ず、視線を下げて、呼吸を荒くして。

「ペレガミは・・・パールを犯した。オペイクス様の目の前で。

 オペイクス様は、もがきまくって、叫びまくったそうだ。『やめてください』と。『パールを乱暴に扱わないでください』と。必死に、必死に止めようとしたんだよ、オペイクス様は。

 でも、そんなオペイクス様を、ペレガミも兵士たちも嘲笑って。終いには、うるさいだの、鬱陶しいだの罵って、殴る蹴る、したい放題に痛めつけた。

 しかも領主ペレガミは自分が済むと、兵士たちと交代したんだ。兵士たちは、かわるがわるパールを好き勝手に弄んだ。嘆き叫ぶオペイクス様を笑いながら。

 多分、連中は・・・とても口では言えないような酷い扱いも、パールにしたんじゃないかねえ。オペイクス様は連中の悪行のすべてを、私らに話していないだろう、と私は推測した。もちろん、オペイクス様にそれを確認したり、しなかったよ。オペイクス様が言いたくないなら、その気持ちを尊重するまで。

 とにかく、目を背けたくなるような悪夢の時間が過ぎた。オペイクス様は、永遠かと思うほど長く感じた、とおっしゃったよ。

 兵士三人ともが満足すると、領主ペレガミは兵士たちにオペイクス様の縄を解かせた。すかさずオペイクス様はペレガミに飛びかかろうとしたが、その時には兵士たちが剣の切っ先を突きつけていた。

 それでもオペイクス様は、それらの切っ先を払い除けるようにして、パールに駆け寄った。散々袋叩きにされて、オペイクス様も思うように走れなかったが、とにかくパールのそばに行った。パールは・・・男どもに何度ものし掛かられて、ぐったりしていた。黙って、目を閉じて泣いていた。そもそもパールは、男どもに犯される間、一言も発しなかったそうだ。

 こういう状況をね・・・オペイクス様は何度も何度も言葉に詰まりながら、話すんだ。もちろん泣いていたよ。ぼろぼろに泣いて・・・痛々しかった」

 セピイおばさんも、そこまで話して、先が続かなくなった。膝の上で服の裾を固く握りしめている。

 私は、その手を包もうと、自分の手を重ねた。そこに涙が落ちてきた。セピイおばさんの涙。私も泣いた。許せない、と思った。許せるもんかっ。

「オペイクス様は、パールにしてあげられることを必死に考えたそうだ。でも、なかなか思いつかなくて、とにかく、まずパールの体を隠してあげようと思ったそうだ。パールの服をかき集め、粗布を掛けてやり・・・

 そんな間も、人でなしどもは、ずっと笑っているわけさ。で、領主ペレガミが極めつけに、こう言った。『オペイクス。もう一回、練習したかったら、していいぞ。その後で、パールをちゃんと返せよ』

 で、人でなしどもは去っていった。

 オペイクス様は必死に考えた。これから、どうするべきなのか。パールを助けたい。でも、どうしたらいいのか、分からない。パールに声をかけたいが、彼女に返事する体力があるのかも分からない。ぐったりしている彼女を抱え上げたいが、痛がったりしないか、判断がつかなかったそうだ。

 しかし迷っている場合じゃないだろ。時間がどんどん過ぎて、日が暮れかかっている。意を決して、オペイクス様はパールを少しずつ起こし、服を着せてやった。そして、パールが休める場所に移動しようと考えた。

 そこでオペイクス様は愕然としたそうだ。パールには・・・帰る家が無かったんだよ。身寄りが無い、と本人が言っていた。彼女は領主ペレガミの屋敷に、女中として住み込みで働いていたんだ。つまり、彼女の帰る先は、ペレガミの屋敷だけ。そう思い至ったオペイクス様は、膝から崩れ落ちて、しばらく立ち上がれなかった、と」

「そんなっ」私は叫んでしまったが、続かなかった。

「オペイクス様は『自分が馬鹿だった』と自嘲していたよ。泣きながら。『冷静に考えれば、教会堂に駆け込むとか思いついたはずだ』って、おっしゃるんだ。

 でも、話を聞いていたシルヴィアさんは、その考えを否定したね。事件のあった小屋を含む林はペレガミ家の屋敷から少し離れているだけ、という話だったろ。林に近い教会堂を探しても、それは屋敷にも近いってことだ。屋敷の近くに教会堂があったとしたら、まずペレガミ家の息がかかっているよ。ペレガミ家になびかないような姿勢の教会堂なら、近くには無いはず。私らがオペイクス様に教会堂の位置を思い出してもらうと・・・やはり屋敷から遠いとは言いがたい、と。

 だから、そういうこと。教会も大して頼りにならなかったに違いないのさ。私らは、そういう理屈でオペイクス様を慰めたかったんだが。

 ・・・オペイクス様は弱々しく首を横に振るばかりでねえ」

 セピイおばさんの話が、また途切れる。先が言いにくいというより、内容が重すぎて疲れたような。

「おばさん」と私は声をかけた。でも続きを催促したいわけではない。パールが救われてほしい。オペイクスも自分を責めないでほしい。そんな気持ちを言葉にしたいのに。なぜか、声が続かない。

「オペイクス様は何とか立ち上がると、とにかくパールを小屋の外に連れ出そうと思ったそうだ。彼女が酷い目に遭った現場から、まず離れようと。

 するとパールが、やっと声を発してくれたそうだ。『オペイクス様、服を召してください』と。とても遅い口調で、小さな声だったそうだよ。

 その言葉で、オペイクス様は自分が裸だった事を思い出した。で、腰の周りだけ隠して、すぐにでも歩き出そうとした。そのために、パールにどこか行くあては無いか、改めて尋ねた。

 パールは、力の入っていない、か細い声で答えたらしい。『女中部屋で休みます』と。分かるだろ。ペレガミ家の屋敷の女中部屋だよ。

 オペイクス様は、また膝から崩れ落ちそうになるのを必死で踏ん張った。そりゃ、言いたいことは山ほどあるさ。でも、それをぶつける相手はパールじゃない。そんなことをしている場合じゃないんだ。パールが休みたいと言うなら、一分一秒でも早く、それを叶えてあげよう。今は、それに集中するべきだ。オペイクス様は、そう決心して、自分の太腿を叩いて喝を入れた。そして、やっと歩き出した。パールを支えながらね」

 セピイおばさんは息をついた。その隙間を埋めようというわけでもないが、私は強く言葉をはさんだ。「お、おばさん。私、悔しいっ」

 セピイおばさんは泣き濡れた目を、改めて私に向けた。

「私もだよ、プルーデンス。ペレガミの人でなしどもが憎くて憎くて仕方ないさ。

 でもね。ごめんよ、プルーデンス。オペイクス様とパールの苦難は、もうしばらく続くんだ」

 この言葉に、私は絶句した。か、神様はどこに居るの。何で二人を助けないの。そう叫んでしまうかと自分でも思ったのに、息が乱れるばかりで、声が出ない。

「オペイクス様とパールは、ペレガミ家の屋敷に向かって歩いたそうだ。ものすごく遅い足取りでね。

 二人とも、言葉は無かった。オペイクス様には、パールにかけてやりたい言葉が山ほどあったのに、だよ。

 しかし、オペイクス様は考え直したそうだ。酷い目に遭わされたパールに、それらの言葉が役に立つのか。返事だけでも、パールの体力を奪うのではないか。そう思うとオペイクス様には、パールに話しかけることがはばかられた。

 良いのか悪いのか、それで考える時間が、たっぷりできてしまった、とオペイクス様はおっしゃるんだよ。少しずつ近づいてくるペレガミ家の屋敷を睨みながら、ふと思ったそうだ。このままパールと駆け落ちするべきではないか。しかし良し悪し以前に、その体力が今の彼女には無いだろう。無理をさせたら、彼女を死に至らしめるのではないか。集中しろ。今は彼女に休息を与えるのだ。

 と、まあ、いろんな考えが浮かんでは消えていった、とオペイクス様はおっしゃって。

 そしたら、だ」

 セピイおばさんの目から、また涙がぼろぼろ、こぼれた。

「パールのか細い声が聞こえてきた、と。オペイクス様は、はじめ、それが聞き取れなくて、パールから発せられている事に気づかなかったそうだ。で、ハッとして、オペイクス様は聞き直した。

『ごめんなさい』

 パールは、そう言っていたんだ。オペイクス様は理解できなかった。なぜパールが謝るのか。辛い思いをしたのは、彼女だ。その彼女を助けられなかった自分こそ謝るべきで、彼女は謝罪を受ける側のはず。

 しかしパールは繰り返した。『騙して、ごめんなさい』と」

「な、何でっ」私は、やっと叫べた。

 セピイおばさんは答えた。

「私も理解できなかったよ。いや、一緒に聞いていたイリーデもブラウネンも、シルヴィアさんだって、理解できなかった。

 で、オペイクス様が説明した。

 当時のオペイクス様は混乱しながらも、慎重にパールに尋ねたそうだ。すると、パールは告白した。すべて、領主ペレガミが仕組んだことだ、と。つまり、ペレガミがオペイクスを辱めるために事前に計画して、段取りしたのさ」

「えっ」私は、まだ理解できない。

「ああ、混乱しているね。当然だよ。オペイクス様から話を聞いた私らも、頭が追いつかなかったんだ。そしてパールから聞かされた時のオペイクス様もね。

 しかし。パールはオペイクス様に言ったそうだ。『私は、あなた様が辱められることに、加担したのです』静かに、泣きながら、繰り返したそうだ」

 セピイおばさんの言葉が、また途切れる。私は、さっきから体の震えが止まらない。

「おばさん、それって。それって、パールは事前に、自分が犯されるのを分かっていたってこと?主人であるペレガミに命じられて、拒めなかったってことじゃないの?」

「そうだよ。これで理解できただろ。

 だからオペイクス様は、パールを非難しようなんて思いもしなかった。『そんなことをするようでは、文字通り、地獄行きだ』と頬を掻きむしっていたよ、私らに話しながら。

 やがて二人はペレガミ家の屋敷に着いた。オペイクス様はパールを裏口に連れていって、そこから他の女中を呼んだ。オペイクス様は、その女中に頼んだ。『とにかく騒がないでくれ。パールの体を拭いてやって、着替えさせ、寝かせてやってくれ。何も聞いてくれるな』と。

 その女中、ボジェナさんとかいう中年の女だったそうだが、オペイクス様の思いつめた目つきやパールの姿に驚きながらも、察してくれたんだろう。後でオペイクス様がパールから聞いた話だと、その通りにしてくれたらしい。パールはその女中ボジェナに連れて行かれる直前、振り返ってオペイクス様に言ったそうだ。

『オペイクス様も、どうか、お怪我の手当てをなさってください』

 オペイクス様は、また膝から崩れ落ちてそうになったが、必死にこらえたそうだ。そして、その気づかいに『ありがとう』と答えた」

 私は、私は、何と言ったらいいか、分からなくなった。悔しいとか、ペレガミが憎いとか、パールはこんなに優しいのにとか、言いたいことがあり過ぎる。それが喉につかえて出てこないような。自分でも訳も分からず、椅子の上で手足をばたつかせ、頭を抱える。

 セピイおばさんの手が、私の肩に置かれた。

「苦しいかい?プルーデンス。ごめんよ。私はとんでもない話を、あんたに聞かせているね。聞いているだけで苦しくなるような」

 私は急いで顔を上げて、おばさんと目を合わせた。苦しいのは事実だが、おばさんに謝らせたくない。おばさんが謝ることじゃないっ。

「聞きますっ。おばさん、聞かせてください。おばさんもオペイクスに頼んだんでしょ?聞くべきこと、知るべきことと思って、オペイクスに頼んだんでしょ?」

 セピイおばさんは頬を濡らしたまま、微笑んだ。

「ああ、その通りだよ。私ら四人は、改めてオペイクス様にお願いしたんだ。オペイクス様は頬を掻きむしったり、拳を胸壁に打ちつけたりして、そりゃあもう、苦しかっただろうに。それなのに、私らはお願いしたんだ。『どうか、続きを聞かせてください』と。

 ブラウネンなんか土下座せんばかりに泣いて言ったよ。『これまでの無礼を謝ります。心を入れ替えて、お聞きしますので。どうか、どうか、お願いします』とか舌がよく回っていなかったっけ。

 ブラウネンとイリーデが後で言うには、オペイクス様に話を続けさせるべきか、迷ったそうだ。話をやめさせた方が、苦しむオペイクス様のためじゃないか、と。なのに、私とシルヴィアさんは話させようとする。これは、オペイクス様に辛い記憶を吐き出させて、すっきりさせようという狙いなのか。半信半疑だったが、二人は、私らに合わせてみようと考えてくれたらしい。

 大柄なオペイクス様が自分自身を傷つけるのを止めるのは、なかなか大変だったねえ。しかし私らの声が届いたのか、ふっと止んだよ。『ああ、取り乱したりして、すまない』とか我に返って。

 オペイクス様は話を再開してくださった。

 パールを女中に預けた後、どうやって自分のエクテ家に戻ったかを、オペイクス様は覚えていなかった。『気がつくと、家で、父親の隣りに、寝床を並べて伏せっていた』と。当時、オペイクス様のお父様は病で動けなかったんだ。オペイクス様の手当ては、お母様と弟さんがしてくれていた。

 オペイクス様は弟さんに確認した。『自分が道に倒れて、気を失ったところを誰かが運んでくれたのか』と。しかし、この予想は外れた。弟さんが言うには、傷ついたオペイクス様は、黙って玄関口に立っていたそうだ。

 逆にお父様が体を起こして、オペイクス様に問うた。『何があったのか』と。

 オペイクス様は、しばらく考えて、やっと答えたそうだ。『領主様のご勘気をこうむって、折檻を受けた』と。それ以上のことを、オペイクス様は家族に話さなかった」

 セピイおばさんは深く、深く息をついた。

「ごめんなさい、おばさん。疲れさせて」

 私は、やっとこさ言ったが、おばさんは首を横に振った。

「いいんだよ。それより聞いておくれ。

 オペイクス様は翌日の夕方、ペレガミ家の屋敷に向かった。事件から、ちょうど丸一日だよ。もちろん、ご家族は止めようとした。でもオペイクス様は、居ても立っても居られなかった。横になっても眠れたもんじゃない。パールが心配で、心配でたまらないんだ。オペイクス様は剣に手をかけて、泣きながら家族に訴えた。『頼むから、行かせてくれ。何も聞かずに、とにかく行かせてくれ』と。

 オペイクス様は弟さんに同行することも許さず、全然治っていない体を引きずるように、一人でペレガミ家の屋敷に入った。

 敷地内では、前日の兵士をはじめ、男どもがオペイクス様を笑ったよ。『早速、パールを借りに来たか』とか冷やかして。

 悔しいのは山々だが、オペイクス様は領主ペレガミに会う方を優先した。そして、その書斎に入った。許可も無しに押しかけたオペイクス様を領主ペレガミは、にやけ顔で迎えたそうだよ。

 オペイクス様は、まず謝った。知らなかったとは言え、ペレガミの妾であるパールに想いを寄せたことを謝ったんだ。そして『パールを大事にしてください』と頼んだ。それこそ、床に両手をついて、額も擦りつけるまでしてね。

 領主ペレガミは、すぐに返事をしなかった。オペイクス様が気になって顔を上げると、まだ、にやけたまま。それで、オペイクス様に言ったそうだ。

『お前がパールと寝た事については、謝らなくていいぞ。いわゆる、同意の上、というやつだ。

 しかし、お前が本来、私に謝るべきなのは、今のその態度よ。むしろ、その態度こそ謝れ。分からぬか。今、お前は私に対して何をしている。そう、意見している。私に説教をしているのだ。あろう事か、家来の分際でありながら、主人である私に。しかも妾を貸してもらっておきながら』

 オペイクス様は、もう一度、頭を下げて、喰い下がった。

『気を悪くさせたのなら、謝ります。ですが、ですが私は、あなたに説教したいのではありません。お願いしているのです』

 これに領主ペレガミは、こう答えた。『それを口答えと言うのだ。そういう態度を改めよ』

 そしてオペイクス様の顎を蹴り上げた。オペイクス様は口の中が切れて、血を吐いたよ。

 領主ペレガミは、さらに言った。『もう失せろ。お前ごときの相手をしているほど、私は暇ではない。態度を改める気になるまで、顔を見せるな』

 で、床に転がるオペイクス様を放ったらかして、ペレガミは書斎を出て行った。

 オペイクス様は這いずるようにして、体を起こした。そして立ち上がると、パールの様子を確かめるべく、女中部屋へ向かった。幸い、その途中で、パールの介抱を頼んだ、中年女中のボジェナさんに会えたよ。

 ボジェナさんが言うには、パールは午前中まで寝込んでいた、と。それから洗い物などの仕事を少し手伝ったが、きつそうだったので、他の女中たちが休み休み仕事をするように忠告したとか。オペイクス様が女中部屋の扉の前まで来た時には、パールは横になっていた。

 オペイクス様はパールに声をかけるべきか迷って、結局しなかったそうだ。夕方の薄暗い部屋で、彼女の様子は、よく見えなかった。

 オペイクス様は改めて、そのボジェナさんにパールへの気づかいを頼んだよ。ボジェナさんも承知しながら、オペイクス様に『あなた様もしっかり静養してください』と返した。

 その日は、オペイクス様も大人しく引き上げるしかなかった。領主ペレガミに報復したくても、体が痛んで、使いものにならなかったからね。

 家に戻ったら、オペイクス様は寝込んでしまったらしい。それまで睡眠をまともに取れず、疲労も極限に達して、気を失ってしまったんだろう」

「そのボジェナさんって人が居てくれた事が、せめてもの救いね」私は口調が、のろくなっていた。

「まったくだよ。パールが事件をどこまで話したかは分からないが、同じ女の身だ。察してくれたと思うよ」

「お、おばさん。誰か他に、二人に味方してくれる人は居ないの?神様は何をしているの」

 思わず問い詰めてしまったが、セピイおばさんは私の手を取って、さすってくれた。

「お味方が来るのも、神様が重い腰を上げるのも、なかなか時間がかかったようでね。

 とにかくオペイクス様は自分の体を治す事に専念した。まず、体力を回復させようと。それをしないことには、領主ペレガミへの報復も何もできないだろ。パールを奴の屋敷に残して、気が気じゃなかったが、仕方ないよ。たとえ、パールがまた酷い目に遭わされている可能性があっても、だ。焦って屋敷に押し掛けても、同じ失敗の繰り返し。それじゃ、パールを助けられないからね。

 しばらくして何とか体を動かせるようになったオペイクス様は、剣を持って、林に入った。ペレガミ家の屋敷とは反対方向の、別の林だよ。分かるだろ。オペイクス様は誰にも見られないように、一人で剣の稽古をしたのさ。

 オペイクス様は剣を振り回しながら、いろんなことを考えた。その地域でペレガミ家に匹敵するような権勢を持っていて、自分とパールに味方してくれそうな存在。貴族でも、司教などの僧侶でもいい。しかし。オペイクス様には思いつかなかったそうだ。ペレガミ家と並ぶ、あるいは上回るような貴族も、居ないわけではなかった。だが、おめでたいもんで、そういうお偉方は必ずと言っていいほど、ペレガミ家と親交があったんだよ」

「自分より強い相手には、まめに取り入っていたんだわ、ペレガミは」

 私は、ツバを吐きかけてやりたい気分になった。

「どうも、その通りだったらしい。

 なら、オペイクス様は、自分と似たような小貴族を集めて、ペレガミ家に反旗をひるがえすか。これも、だめだ。自分に協力してくれるよう、説得して回るのに時間がかかる。その分、パールを助けるのが遅れるだろ。途中でペレガミ家に勘づかれる危険もある。

 オペイクス様は迷った。そして焦った。一刻も早く、パールを救い出したい、と。

 そうやって、林での剣の稽古を三日ほど続けた後だ。オペイクス様は、何もつかめていない気持ちになりながら、自分の家に戻っていると、近所が何やら騒がしくなっていた。

 ナクビーの路地という路地から平民たちが飛び出してきて、怒鳴り合いながら一方向に駆け出していたんだ。大人、特に男が多く、みんな必ず、手に道具を持っていた。大鎌にピッチフォーク、脱穀に使う唐棹、薪割り用の手斧、などなど。オペイクス様が平民たちを目で追うと、全員、血走った目でペレガミ家の屋敷を睨んでいる。『もう我慢ならねえ』『ぶっ殺してやるっ』『領主を捕まえろっ』とか口々に叫んで。

 オペイクス様はハッとして、家に戻らずに、それらの平民たちを追って、ペレガミ家の屋敷に急いだ。

 分かるね、プルーデンス。反撃開始だよ」

 セピイおばさんは途端に、私の手を持ったまま、強く振った。

「おばさん」

 私も、おばさんの手を握り返した。

 

「オペイクス様はもちろん、話を聞いている私らも待たされたが、いよいよ援軍到来さ。そう、一揆だよ。ペレガミの人でなしめ、パール以外の人たちにも散々悪さして、恨みをしこたま買っていたんだ。

 オペイクス様がペレガミ家の屋敷にたどり着くと、すでに平民たちが四方八方から押し寄せていた。屋敷の周りは一応、堀で囲ってあったが、一揆勢には通用しなかった。彼らは戸板を堀に渡すなどして、何ヶ所も丸木塀に取り付いていたからね。

 その丸木塀の尖った上部分の向こうに、物見櫓が見えた。兵士たちがそこから弓矢で射掛けるが、油断したのか、一揆勢の多さに追いついていないよ。一揆勢も塀の死角に入って、矢をしのぐことを覚えていたそうだ。

 物見櫓の兵士たちの後ろで、領主ペレガミが文字通り、右往左往していた。

 オペイクス様は、この状況をありがたいと思いながらも、焦りも感じた。一揆勢は屋敷を包囲しているようで、しょせん素人集団だ。包囲網に必ず弱いところがある。領主ペレガミは、それを探して見回しているに違いない。オペイクス様自身も当時、若くて実戦経験が乏しかった。このままでは領主ペレガミに逃げられてしまう。逃げたペレガミは、付き合いのある貴族を頼り、助力を得て、戻ってくるだろう。そんな事態になっては、パールを救い出す機会は二度と得られない。今、ここで、何とかして領主ペレガミを捕まえなければ。

 幸い、櫓の上の者たちは、まだオペイクス様に気づいていなかった。オペイクス様も稽古着であって、紋章衣は着ていない。

 オペイクス様は、すぐ近くにいた平民たちに忍び寄って、言い含めた。

『私は領主の家来だったが、今から裏切る。君たちは武器で私とニ、三回やり合ったら、適当に騒ぎながら逃げてくれ。その上で私が領主を誘い出すから、そこを狙え。私を一緒に斬りつけてもいい』

 この説明を何回したか。時には、取っ組み合いをしているふりをしながら、耳打ちしたりしたとか。

 オペイクス様は焦っていたが、気の利いた平民もいたようで、他の仲間たちに伝えてくれたり、オペイクス様に目配せしてきたりする者も出てきた。何とも心強かった、とオペイクス様は、おっしゃっていたよ。

 で、オペイクス様は屋敷の正門前に移動して、作戦を実行した。殺到していた一揆勢には話がついているから、オペイクス様の剣撃を何回か受けると、怯えたり、脚をもつれさせて転んだりしながら、散っていく。オペイクス様は正門の前で、剣の切っ先を向けながら、一揆勢に怒鳴りつけた。『近寄れば斬るっ』と。

 続けて、オペイクス様は物見櫓のペレガミに向かって叫んだ。『今のうちです、領主様っ。ここは私が食い止めますので、急いでお通りくださいっ』

『でかしたぞ、オペイクス』途端に領主ペレガミは、嬉々として櫓を降りていったそうだ。

 数秒ほどすると、正門が開いて、騎乗したペレガミが真っ先に飛び出して来た。オペイクス様は一瞬、しまった、と思ったそうだ。馬で、あっという間に通り抜けられてしまう、と予想したんだ。だからオペイクス様は、馬に蹴られてでも立ち塞がるつもりで、両腕を広げた。

 と、ペレガミはオペイクス様の前で馬を止めるじゃないか。馬にオペイクス様を蹴らせるどころか、目を輝かせ、体を屈めて顔を近づける。そしてオペイクス様に言った。

『褒美にパールをくれてやろう。奥に隠れているから迎えに行くがよい』

 その最後の一音と同時に、オペイクス様は跳び上がって、左手でペレガミの下顎を鷲掴みにした。そして、そのまま引きずり下ろして、右手の剣で喉を掻いた。頸動脈が裂けたらしく、血が吹き出して、オペイクス様にもかかったそうだよ」

「やったあっ」私は思わず椅子から立ち上がった。両手も打ち合わせた。「ペレガミは馬鹿だわ」

「ああ、大馬鹿だよ。一揆勢の不意打ちとは言え、素人と舐めてかかっていたのか、鎖帷子も着ていなかったんだ。兵士たちも、だよ。

 オペイクス様は最初から首を狙っていたんだ。胸を一突き、と言いたいところだが、服の下に鎖帷子を着込んでいるかもしれないからね。剥き出しの頭や首が狙い目だ、と。

 もっとも鎖の頭巾をされたら、それも難しくなるよ。だが、やっと神様が加勢してくださったのか、ペレガミは頭巾どころか帽子も被っていなかったとさ」

 う、嬉しいっ。聞いていて全身に力が戻ってきた。偉いぞ、オペイクスっ。

「しかし喜ぶのは、まだ早いよ。オペイクス様は、すかさず領主ペレガミを一揆勢の方に蹴り飛ばした。

 もちろん一揆勢はペレガミに飛びかかったが、オペイクス様自身はそれに加われない。パールのためにもっと報復したいところだが、兵士たちがすぐに殺到して来たんだ。

 オペイクス様は前後左右、無我夢中で剣を振り回して、応戦したよ。オペイクス様も体を何ヵ所か斬りつけられたが、お返しに兵士の目を刺し、肩から斜めに斬り下ろしたりしたとか。

 領主ペレガミ以外に騎乗していたのは、二人。いずれもオペイクス様の背に槍を突き立てようとしたが、その前に一揆勢に取り囲まれ、引きずり下ろされていた。

 領主ペレガミの兵士たちは一人、また一人と倒れ、あるいは縛り上げられた。ペレガミ自身は首だけにされて、ピッチフォークの先に飾られたよ。一揆勢は、それを天に突き上げて、勝ち鬨を上げた。

 オペイクス様は『それを見上げて、少し呆けてしまった』とおっしゃっていたねえ。できることならパールが受けた以上の苦しみを、生きているペレガミに味あわせたかった。でも、もう、それはできない。その機会を奪ったのは一揆勢だ。しかし彼らを責めるわけにもいかないよ。彼らもまた、パールと同じくらい苦しめられていたんだろうからね。

 実際、オペイクス様に一揆勢の者たちが何人も駆け寄り、礼を言ったが、泣きながら抱きついてきた者も少なくなかったそうだ」

 セピイおばさんは、そこで息をついた。私も気持ちが下がってしまう。せっかく上がっていたのに。何もかも、ペレガミのせいだ。

「しかしオペイクス様は、いつまでも呆けたりできなかった。一揆勢が略奪を始めたんでね。

 まず、騎馬の後に続こうとした馬車が狙われた。

 御者が引きずり下ろされたが、こいつが剣を抜き払って、抵抗し出した。オペイクス様が駆けつけて応戦する。御者を務めていた、その男は、騎士だったよ。近隣の小貴族で、ペレガミ家に仕えていた。つまり、オペイクス様と同じ立場。元同僚として仲間意識が少しわきそうなものだが、先程までの戦闘で感情が昂ぶっているオペイクス様は、そいつの剣をはたき落とした。で、続けて斬りつける代わりに蹴飛ばす。転がったところを、一揆勢が取り囲んで、縛り上げた。

 その時には馬車の扉がこじ開けられて、中に居た女たちが引きずり出されていた。領主ペレガミの妻と娘だよ。オペイクス様は一揆勢に怒鳴った。『女子供には手を出すなっ。逃げたい奴は、逃しておけ』

 そしてペレガミの妻と娘の手を掴んでいた平民たちを睨みつけた。相手は慌てて手を離して、女たちを馬車の中に戻したよ。

 オペイクス様は続けて、馬車の後ろで一揆勢に捕まっていた使用人を引っぱってくると、御者を務めるよう命じた。で、馬車を敷地から出させる。

 その後はもう、元同僚も馬車も、意識から外した。パールに意識を集中するためだよ。急いで正門をくぐって、屋敷に駆け込んだ。そこでは一揆勢の略奪がすでに始まっていたから、オペイクス様はもう一度、叫んだ。『いいか。物は取ってもいいが、女子供に危害を加えるなよ。加えた者は、私が斬るっ』

 オペイクス様は一揆勢を睨み回した。一揆の平民たちは、オペイクス様の剣幕に怖れをなして飛びのいたり、陰に隠れたりした。が、中には、オペイクス様の命令を伝えて回る者も出てきた。

 オペイクス様は屋敷の中を歩き回りながら、パールを呼び続けたよ。すると平民の一人が駆け寄って来て、言った。『奥の部屋に女が何人か閉じこもっているようです』と。

 オペイクス様がそいつに案内してもらうと、そこは女中部屋だった。どうやら扉を家具などで塞いでいるらしい。オペイクス様はパールに呼びかけた。

『パールっ。私だ、オペイクスだ。どうか聞いてくれ。ペレガミ家の者は、もう居ない。一揆の者たちには、あなた方に危害を加えないよう言いつけている。どうか信用して、出てきてほしい』

 オペイクス様は『同じ呼びかけを四、五回繰り返した』とおっしゃったね。それで、やっと扉が少し開いて、中の女中たちがオペイクス様と目を合わせてくれた。

 女中たちが五人ほど、出てきた。やはりパールと、パールを介抱してくれた、例のボジェナさんも居たよ。オペイクス様と一揆の者、数名で、静かに彼女たちを屋敷の外、つまり中庭に連れ出した。

 オペイクス様は今度は、一揆勢に呼びかけた。『誰か、この女性たちの親族は居ないか』と。

 すると、何人かが飛び出してきた。四組の家族が再会を果たしたよ。おばさん女中のボジェナさんにも、旦那さんと息子さんらしき若者が迎えに来た。

 パールだけが残って、オペイクス様の隣で立ち尽くした。オペイクス様は彼女を座らせてあげたいと思い、屋敷の玄関口に椅子を置こうかと考えかけたが、やめた。パールから、屋敷をできるだけ遠ざけたい気分になったんだ。そこで、玄関口とは逆に門の近くに椅子を運んできて、パールを座らせた。周りをうろうろしている一揆勢の平民たちに飲み水とか、ちょっとした食べ物を提供してもらってね。

 パールは、それらを少しずつ口にした。そしてオペイクス様に礼を言ったそうだ。『助けてくださって、ありがとうございます』と。遅い口調で、静かに涙をこぼしながらね。

 その様子を見てオペイクス様は、やはりパールをしっかり休ませなければ、と思った。しかし、そのための場所が無い。そこでオペイクス様は、例のボジェナさんの家族に頼ろうかと考えた。

 パールにその提案をすると、彼女は首を横に振る。『あの人は、ボジェナさんは良くしてくれたから、これ以上、迷惑をかけられません』と」

 うーん。私は唸ってしまった。オペイクスとパールが再会できたのは嬉しいんだけど。その先を考えると、何が最善なのか、見当がつかない。二人で暮らせたらいいのに。

「オペイクス様も、おそらく唸ったんだろうね。でも意を決して言った。『自分の家に来ないか』と。『父が床に伏せっていて、狭い家だが、自分の家と思って、しっかり休んでほしい』とね。パールは泣き濡れた顔のままオペイクス様を見上げて、うなずいた。そして『お願いします』と答えた」

 

「よかったあ。これで一安心よね」私は椅子の背もたれに体を預けた。どっと疲れが出た。

「うーん、気持ちは分かるが、まだ後始末が残っているよ。

 オペイクス様は家族を話に出したことで、新たな問題に気づいた。この一揆のことを家族にどう話すか。自分の生家、エクテ家を今後どうするのか。病床のお父様には衝撃が大きすぎるかもしれない。ただ領主が死んだんじゃないんだ。息子であるオペイクス様が関わっているんだよ、ほぼ首謀者並みに、ね。

 合わせて、この一揆勢、平民たちをどうするのか。本人たちも一揆が成功したはいいが、今後の計画が立てられずに、ちらちらとオペイクス様の顔を覗き込む。やがて一人、二人と、首謀者らしき男たちが、そろそろと近づいて来た。

『き、騎士様。たしか、エクテ家のオペイクス様、ですよね?この度は、助太刀してくださって、誠にありがとうございます。騎士様は、わしら全員の恩人です。

 つきましては、わしらの領主になっていただけませんか』

 とか口々に言い出す。

 オペイクス様は、すっと手を上げて止めさせた。

 その頃には、パールや平民の奥さん方が、オペイクス様の背や肩の斬り傷を手当てしてくれてね。オペイクス様は、されるに任せていた。

 手当てしてもらいながら、オペイクス様は考えたそうだ。

 一揆を成功させて、領主に収まる。なんてことは、お伽話でしかあり得ない。近隣の貴族が本気で乗り込んできたら、自分なぞ、ひとたまりもないだろう。それより、そのような貴族と話をつけて、敵ではないことを認識してもらわないと。一刻も早く。

 ペレガミ家亡き後、ナクビーの町を含む、この地方で勢力を持つ貴族は。オペイクス様は頭の中で、ある貴族に目星をつけた。会った事は無い。しかし、パールを助けるために一度は助力を期待した相手。そしてペレガミとの関係を考慮して、一度は諦めた相手だった。その貴族が自分と一揆勢にどんな反応を示すかは、未知数だよ。それでも賭けるしかない。

 決意したオペイクス様は、一揆勢の首謀者らしい男たちに頼んだ。『みんなを近くに集めてくれ。そして話をさせてほしい』と。

 男たちは一揆の仲間たちに呼びかけ、大勢の平民たちがオペイクス様の前に座り込んだ。屋敷の中庭が狭く見えたそうだよ。

 オペイクス様は、まず一揆勢の平民たちに詫びた。このような一揆を起こすほど、平民たちが虐げられていた事を、今までよく知らなかった事。自分も領主ペレガミとその兵士たちに恨みがあったが、なかなか行動に移せなかった、勇気が無かった事。

 すると座り込んだ平民たちのあちこちから声が上がった。『謝ったりしないでください』『それより、俺らの領主になってくれよ』とかね。

 オペイクス様は、また軽く手を上げて、平民たちを制した。そして続けた。

『私は、あなた方の領主にはなれない。この辺り一帯は今、ペレガミ家が居なくなって、権力の空白地帯になったんだ。いずれ、周辺の名のある貴族たちが触手を伸ばしてくるだろう。その時、私のような貴族の端くれは、まともに相手にされないよ。

 それより私は、あなた方の首謀者になりたいと思う。実際に様々な事案を決定するのは、あなた方でいい。ただし表向きは、つまり、よそからやって来る貴族たちに対しては、このオペイクスが首謀者、ということにしてくれ。あなた方の意見や事情は、私が必ず伝えるから』

 平民たちは、そこまで聞くと、少しざわつき始めた。ニ、三人の男が挙手してから、オペイクス様に尋ねた。『それは一体、どういうことでしょう』『まだ、よく分からんのですが』

 で、オペイクス様は答えた。

『この周辺地域、この地方で一番、力のありそうな貴族は、ビナシス家だ。私は今回の首謀者として、ビナシス家に出頭しようと思う』

 途端に、平民たちは動揺して、互いにささやき合ったりして、ざわついた。すぐ隣にいたパールも、小声でオペイクス様に声をかけてきたらしい。オペイクス様は『大丈夫』と返して、また平民たちに顔を向けた。

『もちろん、あなた方が止むに止まれぬ事情で一揆を起こした事も、ビナシス家のご党首様に説明する。それでもお咎めがあるようなら、あなた方は、このオペイクスに剣で脅されて、仕方なく一揆を起こした、と言い張りなさい。誰に聞かれても、だ』

 オペイクス様が言い終わると、ざわめきが一層ひどくなった。一揆の平民たちも、パールもオペイクス様を心配したんだよ。『その心づかいが嬉しかった』とオペイクス様は、おっしゃっていた」

 う、うーん。私はまた唸った。後始末とは、こういうことか。一揆が成功してお仕舞い、どころか、こんなにも、あれこれ考えておかなければならないなんて。

「と、ところで、そのビナシス家って大丈夫なの?城下町で、名前を聞いたような、聞いてなかったような」

 私が正直に言うと、セピイおばさんは少し微笑んだ。

「多分、一回くらいは、あんたも耳にしているよ。ほら、私がポロニュースにそそのかされて、マーチリンド家の密偵をしていた時の話をしただろ。あの頃メレディーン城に出入りする貴族を見張っていて、ビナシス家にも出くわしたんだ。

 蛇の紋章ではないが、ビナシス家は大トカゲを掲げていてね。道具や図形ではなくて、生き物の紋章なんだから、このヨランドラを支える中堅どころの貴族だよ。ツッジャムやメレディーンほどの大きさじゃないが、コモドーンという城も持っている。勢力だけで言えば、屋敷を構えただけのペレガミ家よりも確実に上だ」

「でもペレガミ家は、そのビナシス家に擦り寄ると言うか、お付き合いも欠かさなかったんでしょう?」

「そう。だからオペイクス様も、内心は半々だと予想していたそうだ。だめだったら、被害は自分一人で最小限に。そう願ったのさ。

 そのくせ、心配してくれるパールや平民たちには、こう付け加えてね。『ビナシス家は長年ご領地を守って、領主を務めておられる。それだけ領民の信頼を得ているという事だ。だからビナシス家は、今回の一揆に理解を示してくださるに違いない』とか。

 パールも平民たちも、ビナシス家をよく知らなかったらしく、この理屈を受け入れるしかなかった。本当は、オペイクス様自身がビナシス家をほとんど名前ぐらいしか知らなかったんだがね」

 うーん。私は、また考えてしまう。

「ひどく悪い評判も聞かないけど、逆に良い評判も特に聞こえてこない。で、情報は、ペレガミ家も擦り寄っていただろうという噂だけ。期待したいけど、期待しすぎてはだめってところかしら」

 セピイおばさんは、今度こそ力強い笑みを見せた。

「正解だよ、プルーデンス。よく言った。

 シルヴィアさんも、あんたと同じような解釈をしていたっけ。

 それはともかく、一揆の話を続けるよ。

 オペイクス様は、平民たちが自分の説を受け入れて鎮まっていくのを確認して、安心した。

 と、今度は逆に、平民の男たちがオペイクス様に尋ねた『縛り上げた奴らは、どうしましょう』と。

 オペイクス様は改めて、彼らが指し示す方を見た。捕虜は六人。オペイクス様の元同僚だった騎士と、兵士たちだよ。その兵士たちの中には、あの時、林の小屋でパールを輪姦した奴も二人、混じっていた。

 平民たちは捕虜六人を小突いたりしながら、オペイクス様の前に連れて来た。

 領主ペレガミは首を落とされ、パールを汚した兵士の一人は一揆勢との戦闘で、すでに絶命していた。残り二人が縛られて、オペイクス様の前に居るんだよ。オペイクス様は当時の心境を、私らに、こう語った。『途端に、自分の心身が憎悪に染まるのが分かった』とね。

 しかもパールが、兵士たちの視線を避けようと、オペイクス様の後ろに隠れた。

 それに気づいた兵士の一人が縛られたまま、二人に絡んだ。『はっ。よかったな、オペイクス。やっと憧れのパールちゃんが手に入ったじゃねえか。でも、忘れんなよ。パールちゃんを一番喜ばせたのは俺だぜ。パールちゃんも、そう思うだろ。俺の』

 なんて、オペイクス様は、もちろん最後まで言わせなかったよ。顎を思い切り、蹴り上げてやったとさ」

「当然よ。そのまま、たっぷり痛めつけてやればいいんだわ」言いながら、私も拳を硬くしてしまう。

「ああ、オペイクス様は、そいつを散々踏みつけにしたそうだ。でも、一度パールのそばに戻って、彼女に小声で尋ねた。自分でも報復してみるか、と。パールは震えながらオペイクス様を見上げたが、答えられない。動揺して決められないんだよ。

 オペイクス様はパールに言った。『では、悪いけど、私が決めるよ。こいつは私がもらう。今から私がすることは、すべて私の責任だ』

 そしてパールをボジェナさんや平民の奥さん方に預けて、オペイクス様は槍を取りに行った。騎乗した兵士がオペイクス様に突き立てようとした時に、一揆勢が取り上げた槍だよ。それを平民たちから受け取ると、オペイクス様は全員を見回して言った。『私は今から、とても酷いことをする。だから女性や子供は、しばらく、よそを向いていなさい』

 そして問題の兵士を蹴り転がして、下履きをずり下げ、尻をむき出しにした。で、その肛門にズブリと突き刺したんだよ、槍を」

「えっ」私は言ったっきり、言葉が続かなかった。

「オペイクス様は、その槍を力任せに押し込んでいったそうだ。おそらく兵士の絶叫が辺りに響き渡っただろうよ。はじめは囃し立てていた平民たちも、すぐに静まり返った。

 オペイクス様は槍を押し続けて、その穂先が心臓あたりまで届いた頃か、兵士は絶命した。それでもオペイクス様は手を止めなかった。そのまま槍を押し続け、とうとう穂先が兵士の口まで突き抜けてきた。

 オペイクス様は、串刺しにした兵士を、その場に放り出したよ。そして残りの捕虜たちを振り返った。パールを嬲り者にした四人のうち、あと一人が残っている。

 そいつは、オペイクス様が近づくと、泣き出したそうだよ。そいつは泣きながら弁解した『領主様に脅されて、仕方なかったんだ』と。仕方なくパールに乱暴した、と大勢の前で言いかけたから、オペイクス様は蹴飛ばして黙らせた。で、平民たちが奪っていた、もう一本の槍で、やっぱり串刺しにしたのさ。

 オペイクス様が言うには、そいつはすでに平民たちに痛めつけられて、だいぶ出血していたそうだ。『串刺しにしなくても、三時間もすれば衰弱死していただろう』と。実際、別の捕虜の一人は、オペイクス様が報復をしている最中に事切れていた。『それでも』とオペイクス様は、おっしゃるんだ。『手が止まらなかった』と。『憎くて、憎くて、まだ飽き足りないくらいだった』とね」

 セピイおばさんはそこで話を区切って、私を見つめた。

「オペイクス様を残酷だと思うかい?」

 私は数秒、考えた。

「盗賊の脚と同じね。ちょっとやり過ぎかとも思ったけど、相手は、もう人じゃないんだし。人でなし。人の姿をした悪魔よ。パールがされた事を考えたら、オペイクスが『まだ報復が足りない』と言ったのも分かるわ」

「そうだね」とセピイおばさんは私から目をそらした。

「えっ、まさか、おばさんは残酷だと言いたいの?平民たちがオペイクスを残酷と見なした、とか?」

「そうじゃないよ。私だってオペイクス様の怒りは当然と思うし、ナクビーの平民たちもほぼ全員がオペイクス様に賛成だったろう。

 実際、オペイクス様が串刺しの兵士二人を、首無しペレガミのそばに転がしたら、結構な数の平民たちが駆け寄って来たそうだ。『自分たちも仕返しさせてくれ』とか言ってね。もちろんオペイクス様は、それを許可した。それどころか、先に自分だけ報復した事を謝ったらしい。それで平民たちは、遠慮なく串刺しの兵士二人を大鎌や手斧で切り刻んだ、とさ。

 おそらく彼らの奥さんや娘さんが、パールと似たような被害に遭っていたんだろう。話を聞いていた私ら四人とも、それくらいの予想はついた。だから私らも、オペイクス様に確認したりしなかったよ。

 それは、ともかく。オペイクス様は気づいたんだ。串刺しをする前と後では、平民たちの自分に対する目が明らかに変わってしまった事にね。自分を見る目に、明らかに恐怖の色がにじんでいた。それは、パールが自分を見る目も同じだったそうだ。オペイクス様は『その変化が胸にこたえた』とおっしゃっていたねえ。寂しそうに塔の床に視線を落として。

 だからと言って、平民たちやパールを責めるようなオペイクス様でもないよ。オペイクス様はできるだけ、そおっとパールに近づいた。串刺しにした兵士の返り血にまみれた状態でね。それで『怖がらせて、ごめん』と言うのが、やっとだったらしい」

 セピイおばさんは、顔を上げない。それどころか、葡萄酒に手を出そうと迷ったのか、かすかに首を横に振った。

 私は何も言えずにいる。

「と言うわけで、六人の捕虜のうち、二人が串刺しになって、一人がその間に勝手に死んでしまった。残るは、三人。

 オペイクス様は、そっとパールに尋ねた『この三人の中に、あなたに嫌な思いをさせた者はいますか』と。パールは黙って横に首を振ったんだが、オペイクス様には、その仕草が少し震えて見えた。やはり自分を怖がっているのか。あるいは残り三人をかばっているのか。

 気になるが、オペイクス様は、それ以上、聞けなかった。パールに問い質すなんて、できない。彼女が自分の意志で話し出すまで、無理に話させるなんて、したくないんだよ。

 そこでオペイクス様は、平民たちに同じ質問をした。途端に何人もの平民たちが挙手して、兵士二人の引き渡しを求めた。オペイクス様が許可すると、兵士二人は平民たちから袋叩きにされたそうだ。つまりは、それなりに恨みを買っていたってことだよ。

 さて、これで最後は、元同僚の騎士だ。縛られた騎士はオペイクス様と目が合うと、慌てて反論し出した。『ま、待て。私がどんな酷いことをしたと言うのか。私は領主様にお仕えしただけで、そこらの下衆な兵士たちとは違うぞ』

 この反論を受けて、オペイクス様は平民たちに尋ねた。『彼から、何か暴力を振るわれた事は?』

 平民たちは顔を見合わせてから、口々に答えた。

『そりゃ、まあ、特には無いですが』

『でも、こいつはオペイクス様と違って、身分を鼻にかけて、偉そうにしてましたぜ』

『領主に味方していたんだから、やっぱり懲らしめた方がいいですよ』

 とか何とか、平民たちから見た騎士の印象は、あまりよろしくなかったようだ。

 そしたら、オペイクス様の袖が軽く引っぱられた。パールだよ。彼女は、また首を横に振って、小声で言った。『どうか、許してあげてください。私がこの方と会話したのは、ほんの数回です。酷い事もされませんでした。罰するほどではないと思います』パールは、疲れからか、口調が遅かったそうだ。

 オペイクス様は『分かった』と小声で返して、元同僚の騎士に向き直った。

『君は、たしかペレガミに同行して、ビナシス家のコモドーン城に訪問した事が無かったか?有るなら、行って、今回の一揆の顛末を報告してくれ。そしてビナシス家のご党首様にお伝えするんだ。首謀者のオペイクスが裁きを受けるべく、ここでお待ちしている、と』

 これに対して騎士は『有るには有るが、たった二度ほどで、自力でコモドーンにたどり着けるか自信が無い』とか言い出した。

 それでもオペイクス様は諦めない。『すれ違う行商人や旅人に道を尋ねるとか、何とかして行ってくれ。そして必ず、ビナシス様にお会いするんだ。絶対だぞ。今ここには、君以外に、それをできる人間は居ない』

 続けてオペイクス様は、そばに居た平民に、騎士を縛る縄を解くように言いつけた。

 言いつけられた相手は、少し知恵が回る奴だったみたいでね。指示に従う前に、オペイクス様に念を押した。『行かせるんでしたら、こいつの家族を人質にしておきませんかい?』と。

 でも、もう分かっていると思うが、それをしないのが、オペイクス様だよ。平民の知恵をちょっと褒めただけで『今回は、そこまでしなくてもいいだろう』と。本当に人がいいもんで、縄を解くだけじゃなく、騎士に剣を返すまでしてやったらしい。

 私らに話しながら、オペイクス様は思い出していた。一瞬、パールの意見を聞こうかと思ったんだとさ。しかし、聞くまでもない、と思い直して段取りを進めた。騎士を急かしたんだ。『今すぐ家族と合流して、ビナシス家に向かえ』とね」

 私は、ふーっと息をついた。いつの間にか、固めたはずの拳も緩んでいた。

 

「で、騎士は指示通りに出発したのね。これで今度こそ、一段落ついたんじゃない?」

「まあ、ついたと言うか、また別の一悶着が持ち上がったと言うか」とセピイおばさんは、ため息をつく。

 えっ、と驚く私をよそに、おばさんは話を進めた。

「オペイクス様はペレガミたちの死体を、屋敷の中庭のど真ん中に転がした。縛られたまま袋叩きの兵士二人も、その隣に座らせて。オペイクス様がおっしゃるには、その二人は成り行きに任せることにしたそうだ。平民たちが時折り来て、報復するも良し。兵士二人が何とかして脱走するも良し。二人は散々痛めつけられていたから、大して遠くに逃げられずに、いずれ事切れるだろう、と。

 これで一揆も、ようやく区切りがついたわけだ。

 そこでオペイクス様は、一揆勢の平民たち全員を向けて言った。『今日は、これで解散しよう。それぞれ帰って、休むように』と。

 合わせて、手当てしてくれた奥さん方に礼を言いつつ、付け加えた。『こちらのパールさんの件で、今後いろいろと頼み事をすると思う。どうか、その時はご協力願いたい』

 奥さん方のすぐ後ろには、ボジェナさんの家族も来ていて、承知してくれた。

 さて、そんなやり取りをしていた時だよ。解散し始めた平民たちの間を縫うようにして、若い男が一人、近づいて来た。オペイクス様の弟さんだ。

『兄さん、これは、どういうことだ』

 周りを見て顔をこわばらせている弟さんとは逆に、オペイクス様は不思議と気持ちが落ち着いたそうだ。

 オペイクス様は答えた。『見ての通り、ペレガミ家に対して一揆を起こした。そして成功させた』

 弟さんは、しばらく絶句して立ち尽くしたが、すぐにオペイクス様に問い質したよ。『こ、こんな事をして、ただで済むと思ってんのか。これから、どうするつもりなんだよ』

 オペイクス様は答えた。『そのことで、お前や父さんに話がある』と。

 それを聞いて、弟さんはお父様のことを思い出したようだ。『その父さんの容態が悪化しているんだ。今すぐ家に戻ってくれ』

 言われて、オペイクス様はパールを見た。パールを連れて行くか、ボジェナさん一家に預けるか。パールの表情にも、遠慮の色が見える。

 しかし、とオペイクス様は思ったそうだ。お父様に、パールとの結婚を認めてもらいたい。そのためにも、まずはパールを紹介したいが、お父様に万が一のことがあったら、その機会すら失ってしまう。

 だからオペイクス様はパールに言った『一緒に来てほしい』と。そして近くにいた平民たちに『ロバを一頭、借りてきてくれ』と頼んだ。

 当然、弟さんはパールのことを尋ねたが、オペイクス様は『説明は家でする』と答えて、パールをロバに乗せて、家路を急いだ。平民も三人ほどが『お供したい、この際、オペイクス様のお家の場所を覚えたい』と言って、ついて来た。

 オペイクス様の家は、平民たちの家より少し大きいくらいだったそうでね。ペレガミみたいに屋敷というには小さすぎるわけだよ。

 隣りの中年夫婦が時々顔を出して、使用人として働いてくれていたそうだ。

 オペイクス様が弟さんに続いて家に入る時にパールも招き入れたんだが、その中年夫婦は彼女を見て、怪訝な顔をしたらしい。

 ついて来た平民たちは律儀なもんで『何かご用があったら、いつでも呼んでください』と外で待ってくれたのにね。

 オペイクス様は病床のお父様のそばに体を屈めながら、パールとお隣りの中年夫婦も部屋に入れた。枕元には、もちろんお母様と弟さんだよ。

 そしてオペイクス様は、その日起こった一揆について語った。息子が領主を殺したと聞かされて、病床のお父様より、お母様の方が驚いて興奮したそうだよ。

 オペイクス様は一旦それをなだめて、話を進めた。一揆のけじめとして、近隣の有力者、ビナシス家の指示をあおぐ予定である事。パールを保護した事。ビナシス家の判断の元、自分が許されて、かつパール本人が良ければ、彼女を妻として迎えたいという気持ち。貴族としてのエクテ家は、弟さんに継がせようという考え。それらをパール本人や、使用人としてのお隣さんにも聞かせようと思って、同席させたわけさ。

 お母様は一瞬だけ絶句したが、すかさず、と言おうか、息子であるオペイクス様に尋ねた。パールの素性を。オペイクス様は正直に話したよ。パールが平民で、身寄りが無い事を、ね。すると、お母様は、また黙り込んだそうだ。

 弟さんは『家は、やはり長男が継ぐべきだ』という主張だったみたいだが、お父様が病床から手を上げて、それを止めた。

 そしてお父様は、長男であるオペイクス様の考えを了承してくれたよ。潔く、有力者ビナシス家に頭を下げるのが得策だろう、と理解してくれたんだ。

 そしてオペイクス様の弟さん、次男に向かって『エクテ家はお前が継げ』とも言った。『自分は、もう長くないだろう。だから、ここで、はっきり明言しておく』とね。お父様は体を起こして、お母様や次男さんに羽筆とか羊皮紙とかを用意させて、遺言を遺した」

 セピイおばさんは、そこで話を区切って、深く息をついた。なので、私は口をはさませてもらう。

「別の一悶着って、家族のことなんだね」

「そういうこと」セピイおばさんは葡萄酒を一口だけ呑んだ。

「その日は、ついて来てくれた平民たちを帰して、オペイクス様はパールを家に泊めた。お隣りの中年夫婦に手伝ってもらって、パールのために一部屋を空けたんだよ。オペイクス様自身は、また、お父様と寝床を並べて療養だ。パールたちに手当てしてもらったとは言え、やはりオペイクス様の体は傷だらけだったからね。

 でもオペイクス様は『傷の痛みより、別のことが気になって、なかなか寝付けなかった』とおっしゃっていたよ。

 お母様と弟さんの様子。はっきり口に出したわけじゃないが、目を見れば分かる、と。まあ、血のつながった家族だからね。お母様と弟さんがパールを客人として歓迎していないのは、明らかだった。おそらく気持ちが顔に出ていたんだろう。だからオペイクス様は、パールが安心して寝起きできる場所を確保しなければ、と考えた。

 翌日、オペイクス様はパールを連れて、おばさん女中、ボジェナさんを訪ねた。そして彼女の実家の畑仕事などをパールに手伝わせてほしい、と頼んだ。後で、迎えに来るから、と。

 そうやってパールに一日を過ごさせている間、オペイクス様自身はペレガミ家の屋敷に入った。一揆勢の平民たちに散々荒らされた屋敷の玄関口に座って、ビナシス家の使者を待ったんだ。昨日の今日では、さすがに早すぎるか、と思いながらも、念のためにね。

 屋敷の敷地内には、だいぶ人数は減ったが、まだ平民たちがうろついていた。人でなしペレガミたちの死体に石を投げつけたり、おしっこをかけて辱めたり。そうかと思えば、屋敷の中で何か物を取って、律儀なのか、わざわざオペイクス様のところに来て、許可を求めたりする者も居たそうだ。オペイクス様も今さら、それらを咎めたりしないよ。

 逆に、オペイクス様も彼らと同じことをするか。なるほど、ペレガミたちがパールにした事を思えば、腹わたが煮えくり返って、たとえ死体でも怒りをぶつけたくなる。

 しかしオペイクス様は、しなかった。パールが住む場所、平民たちの将来を考えると、気が気じゃなくて、報復どころじゃなかったのさ。

 まだ生きていた兵士二人も虫の息で、大して動いていなかった。放っておいても、逃げるより先に衰弱死するだろう。

 そんなこんなを考えていると、昨日オペイクス様の家までついて来た、あの平民たち三人が顔を出した。彼らは『オペイクス様が何だか元気が無さそうだ』と心配した。そして、前日と同じようなことを言ったよ『わしらにできることがあったら、遠慮なく言ってください』とね。

 それを聞いて、オペイクス様は、ハッとして顔を上げたよ」

「あっ、パールのこと」と私もピンときた。

「そう。せっかくの味方だ。頼らない手は無いだろ。オペイクス様は、その平民たちに言ってみた『誰か、小屋を一つ、譲ってくれないか』と。

 そしたら、気持ちのいい連中でね。たった三人とは言え、全員が『うちの裏の小屋でよかったら』とか『いや、わしんとこの物置を』とか口々に言ってくれた。

 オペイクス様は彼らに案内してもらって、その三物件を確認したよ。その中でも、例のボジェナさんの家に一番近い小屋を譲ってもらうことにした。

 オペイクス様は『弟と遺産を分けたら、それから代金を支払う』と約束したんだが、相手は固辞する。オペイクス様も、それじゃ気が済まないよ。

 仕方がないんで、残りの平民二人が知恵を出した。『オペイクス様がお支払いしてくださる予定の金は、どうか取っといてくださいませ。それで飢饉とか、戦の時とかに、みんなのために使わせていただきましょう』とね。『何とも、ありがたい心づかいだった』とオペイクス様は私らに話しながら、目が潤んでいたよ。

 小屋の持ち主は早速、荷物を移動させて中を空にしてくれたそうだ。オペイクス様もエクテ家に戻って、寝具や衣類とか、とにかく使いそうな物をかき集める。それを荷車に積んで運んでいたら、また平民たちが手伝ってくれて。

 オペイクス様は出て行く時に、ご家族に簡単に説明したらしい。『自分は、これを機にここを出て、パールさんと小屋で暮らす』と。後事を弟さんに託して、お父様の容態が悪化したら知らせてもらえるよう、小屋の場所も伝えた。

 しかし弟さんもお母様も、オペイクス様を引き止めようと、ぶつくさ言ったみたいだね。でもオペイクス様も、聞かなかった。弟さんに向かって『エクテ家の跡継ぎはお前だ、と父さんも決めただろ』とか反論して、生家から去ったそうだ」

「うーん、仲違いはさせたくないけど、今回は正解でしょうね」と私。

「ああ、まったくだよ。お母様も弟さんもオペイクス様を説得しようとしながら、パールに関しては一言も無かったそうだ。悪口さえ無し。『まるでパールが存在しないかのような振る舞いだった』とオペイクス様も話しながら、うつむいていたもんさ」

 うーん。セピイおばさんの補足に私は、またしても唸る。が、言葉は出ない。せっかく、事態が好転したと思ったのに。

「とにかく、オペイクス様は引っ越しを手早く済ませた。で、続けてパールを迎えに行く。

 すると、ボジェナさんの家族はパールに、パンとか果物とか、食べ物を少し持たせてくれていたよ。『畑仕事を手伝ってくれたお礼に』とか言ってね。

 パールは遠慮したんだが、ボジェナさんたちは食べ物を引っ込めない。オペイクス様も家から持ってきた銀貨とかを渡そうとしたが、それも受け取らない。

 ボジェナさんは言った『そのお金は、二人の結婚生活にお使いください』と。

 ボジェナさんの旦那さんも言った『騎士様は、わしらのために傷だらけになって戦ってくださったじゃないですか。そのお返しに、こんなパンじゃ全然足りません。どうぞ遠慮なさらず、お持ち帰りください』とね」

「うーん、良い人たち。これならパールが『迷惑をかけられない』とか遠慮するわけだわ」

 聞いていて私も嬉しかったが、その分オペイクスの家族の反応が残念でならない。

「オペイクス様は感激で胸がいっぱいになりながら、パールを小屋に連れて帰った。

 そして二人で、それらの食べ物を分け合って食べた。パールはオペイクス様に、多めに取らせようとしたらしい。オペイクス様の方が体が大きいし、多く食べた方が傷の治りも早くなるだろう、と。オペイクス様はその心づかいに感謝したが、パールと同じ量で通したよ。少し残して、翌日に回したりしてね。

 で、後は床に入って、休むことになったんだが」

 セピイおばさんは、ちょっと言い淀んだ。私も、つい予想してしまう。

 

「オペイクス様は、自分が実家から運び込んだ寝床を、パールに使わせるつもりだったみたいだね。自分は、土間になっている部分に粗布とかを敷き詰めて、そこで寝ようと。で、二人の間に垂れ幕代わりの布も下げようとした。

 ところがパールは、そんなオペイクス様の手を、そっと止めたよ。まず、寝る場所を入れ替えるべき、とパールは主張した。『オペイクス様は、しっかり傷を治してください』と言うんだ。

 でもオペイクス様は断った『騎士たる者、土間で寝るぐらいが修行を兼ねて、ちょうどいい。この方が強くなれる』ってね。あの方のことだから、パールに微笑んであげたんだろうよ。とにかくオペイクス様は、パールを土間に寝かす事だけは認めなかった。

 すると、パールは少し考えてから言った。

『では、この寝床で私と一緒に寝てください』

 言いながら、パールは服を脱ぎ始めた。それを止めようと、オペイクス様が手を伸ばすと、パールは目に涙を浮かべながら、オペイクス様をひたと見つめる。オペイクス様は、彼女のそんな様子に気圧されて、動けなくなる。その間に、パールは裸になってしまった。

 立って自分の裸を晒すパールの姿に、オペイクス様は一瞬、林の小屋での領主ペレガミの振る舞いを思い出したよ。『胸がズキリとした』とオペイクス様は、おっしゃったね。ペレガミに腕を引っぱられて、裸を隠せず、目を閉じて、人でなしどもの視線に必死に耐えていたパールの姿。それと目の前の彼女が重なって見えた、と。

 しかし今はパールにだけ、裸にさせておけない。オペイクス様も慌てて服を全部、脱いだ。

 パールは、オペイクス様の手を引いた。自分は寝床に腰掛け、そして背も倒して仰向けになって。『どうぞ』と言って、オペイクス様の手を引き続けた。

 それにつられてオペイクス様はパールの上に覆い被さりそうになったが、逆にパールの背に腕を回して、そっと体を起こした。

『待って。待ってくれ、パール。たしかに私は今、あなたが欲しくてたまらない。正直、あなたを抱きたい。しかし、それは私の勝手な欲望なんだ。あなたが付き合わなければならない、というわけじゃない』

 とかオペイクス様なりに言い聞かせようとしたんだが。パールの指がそっと伸びてきて、オペイクス様の唇を軽く押さえた。

『あなた様のしたいようになさってください。私は、あなた様の役に立ちたいんです。恩返しをさせてください。お願いです』

 そう言ってパールは、またオペイクス様の手を引く。オペイクス様は、そんなパールの手をそっと引っぱり返した。

『だったら、気にしないで。あなたは、もうすでに、このオペイクスの役に立っている。

 私は、なかなかペレガミに立ち向かえなかった。勇気が無かったんだ。でも、あなたのおかげで私は奮い立つ事ができた。私に勇気をくれたのは、パール。あなただ。

 それに、恩返しだなんて、とんでもない。もっと早く駆けつけて、ペレガミに立ち向かわなければならなかったのに』

 なんて理屈を展開して、オペイクス様はパールを納得させようとしたんだ。服もかき集めて、パールに持たせてね。

 ところがパールは、ぽろぽろと涙をこぼして、服を抱えている手を濡らすじゃないか。

 オペイクス様が驚いていると、パールは泣きながら、言った。

『私が・・・あの人たちに弄ばれたからですか。あの人たちに汚されたから、オペイクス様は私を抱いてくださらないのですか』

『そんなんじゃないっ』

 オペイクス様は思わず声を荒げてしまったそうだ。

 もちろんオペイクス様は、その事をすぐに謝ったよ。そして言った。

『あなたは汚れてなんかいない。綺麗だ。だから私は今も、あなたを妻に望んでいる』

『だったら』とパールは泣き濡れたまま、すかさず反論した。『私に遠慮しないでください。あなたが望むままに、私を抱いてください』

 そこまで言われて、オペイクス様は数秒、固まったそうだ。で、考えてからパールに応えた。『分かった。では、こうしよう』

 オペイクス様は、まずパールに寝床から降りてもらって、自分が寝床に仰向けになった。その状態で、パールの手を引いて、自分の上に彼女を乗せる。自分の胸板に、パールの顔を埋めさせる。

『これが私の望みだ。これが、あなたに対して私がしたい事だ』そう言って、彼女の髪を撫でた。

 パールは泣いたよ。静かに泣いて、オペイクス様の胸板を濡らしたそうだ」

 セピイおばさんが、また深く息をつく。私も唸ってしまったが、言葉は出ない。パールの気持ちを考えると、簡単に発言なんてできない。

 セピイおばさんは話を続ける。

「オペイクス様は、パールが泣くのにまかせながら、力を加減して抱きしめ、髪を撫でる。そうしながら薄暗い天井を見上げた。そして少しずつパールに語りかけた。

 小屋を譲ってくれた平民が『この小屋はオペイクス様の城だ。あなた様にお城を差し上げたなんて、孫の、その孫にまで自慢できます』なんて言ってくれた事。本当は、その平民は『オペイクス様の屋敷』と言ったんだが、オペイクス様がペレガミ家の屋敷を連想して『やめてくれ』と頼んだらしい。そしたら『城』と言い換えたというわけなんだが。オペイクス様は、そんな経緯まではパールに聞かせなかったよ。

 それより、話をこんなふうに続けた。平民たちが『小屋が城なら、パールさんは城の奥方様だ』と言ってくれた事。オペイクス様は『それが嬉しかった』とパールに話した。

 そして言った。『だから、ここは、あなたの城。あなたの住まいだ。ここに在る物は、すべて、あなたの物』と。

 オペイクス様は、そこで話を中断して、少し体を起こした。パールを乗せたまま、自分の背の下に少し隙間をつくったわけさ。そこにパールの腕を回させる。

『そのまま私を抱きしめてくれるかい?』

 オペイクス様が頼むと、パールはオペイクス様の顔を見上げながら、細腕に力を込めたそうだ。

 その感触を確かめてから、オペイクス様は話を再開した。

『分かるかい?このオペイクスも、あなたの物だ。私は欲張りだから、あなたの夫にもなりたいが、あなたの騎士にもなりたい』

 パールは泣きながら、またオペイクス様の胸板に顔をうずめた。そして泣き声が大きくなった。パールは、いやいやする子どもみたいに、オペイクス様の胸板に顔を擦りつけんばかりに、首を横に振った。

『あなた様は、あなた様は私なんかの物になってはいけません。私があなたの物になります。私があなた様に従うのです』

 オペイクス様は・・・『このパールの言葉が痛かった』と、私らに話してくださったよ。『ペレガミの人でなしどもに殴る蹴るされるより、斬りつけられるより、この言葉の方がよほど痛かった』と」

 セピイおばさんがそこまで話すと、私たち二人は、また黙り込んだ。そうだ。きっと、オペイクスもパールに言われた瞬間、こんなふうに絶句したんだろう。

 セピイおばさんは、大きくため息をついてから、話を続けた。

「オペイクス様は、まずパールに謝った。『言い間違えた』と。『物という表現が間違いだった。でも夫と騎士は、やめないよ』とね。そして、できるだけ笑みをつくって、続けたのさ。『だから、あなたも物とは言わないで。あなたは私の物じゃない。大切な人だ』と。

 その後、パールはオペイクス様の胸で、しばらく泣いていたそうだ。オペイクス様は言わなかったし、私らも聞かなかったが、おそらくオペイクス様もその時、一緒に泣いていたはずだよ。

 そうやって二人して体を重ねていたら、だ。オペイクス様のあそこが元気になっちまったらしい。まあ、パールが服を脱いだ時から目覚めていたそうなんだが。オペイクス様は私らに言ったよ。『このスケベな男を笑ってくれ』とね」

「でも笑えないね」と私も苦笑いになる。

「ああ、私ら四人も、どんな顔をしたらいいのか、分からなかったよ。でもオペイクス様が続けた話では、ちょっと吹いちゃってね」

 セピイおばさんは、そこでニヤリとして見せた。

「パールが顔を赤らめながら、腰を浮かせたそうなんだよ。『このままじゃ、私がオペイクス様を、押し潰してしまいます』とか言って。その後、二人は顔を見合わせて、くすくす笑い出したとさ」

「オペイクスは、おちんちんを潰されずに済んだんだね」って私も、とうとう言ってしまう。

「ああ。それで私ら四人も笑い出して、オペイクス様も照れ笑いしていた。私らは笑いながら内心、ホッとしたよ。オペイクス様の笑顔を久しぶりに見た気がしたんだ」

 途端に、おばさんの笑みに翳りがさして見えた。

「話をパールとオペイクス様に戻すと、パールはそのまま、オペイクス様のあそこを自分の股に導いた。

 オペイクス様は『待った』と言ったが、パールは『いいんです』と言って続ける。それどころか、オペイクス様と交わった状態の自分の腰をオペイクス様につかませようとしたり、乳房を触らせようとしたりする。

 オペイクス様は正直、迷ったそうだ。すけべ心にまかせて、パールがさせてくれるようにするべきか。しかし、それは悪いことのような気がする。パールの表情を見ていると、何となく、そんな気がする。何か、パールは無理しているのでは。本当は嫌な気持ちを我慢して、このオペイクスに肌を触れさせているのでは。彼女に我慢など、させたくない。むしろ、男がすけべ心を我慢する方が当たり前じゃないか。オペイクス様は、そう言おうか、とも思ったんだが」

「だめだわ。さっきの問答の繰り返しになるだけ。パールは、また『遠慮しないで』って言うに決まっているよ」

「だからオペイクス様も、さっきと同じ事をしたよ。自分の上にパールを寝かせる。自分の胸板でパールの顔を受け止め、その髪、その背に腕を回して、そっと抱きしめる。撫でる。

 上になったパールは、そこから首を伸ばしてオペイクス様に何度も口づけした。

 やがてオペイクス様は達しそうになって、精を放つ前に陰茎を引き抜くべきか、パールに確認したよ。するとパールは慌てて首を横に振った。『抜かないで』と。『そのまま思い切り出してください』と。パールは、オペイクス様に顔をうずめたまま言ったよ。で、オペイクス様は果てた。パールの中に精を放ったんだ。

 しばらく二人は体を重ねたまま、荒れた息を整えた。

 と思ったらパールが、また泣き出した。声を上げて、泣いてオペイクス様の胸板を濡らす。オペイクス様は、パールが痛がって泣いたのでは、と心配したよ。

 しかしパールは、また首を横に振る。『嬉しいんです』と。『あなた様の精を受ける事ができて嬉しい』と言うんだよ。

 オペイクス様は感激した。ついにパールが自分の子を産んでくれる気になったんだ、と思ったのさ。前回は領主ペレガミに騙されたが、今回は自分を騙そうにも、奴は、もう居ない。パールは誰に強制されるでもなく、自分の意志で私の精を受け止めてくれたんだ。

 そう思い至ると、感極まってオペイクス様はパールに言った。『子どもが産まれたら、二人で大切に育てよう。私は、ビナシス家にお仕えして、今以上に働くよ』

 オペイクス様は、そんなふうに夢を描いてみせたんだが。なぜかパールの泣き声は、一層ひどくなる。オペイクス様は、パールのこの反応をどう解釈したらいいのか分からず、戸惑ったよ。自分は一体、何をやらかして彼女を悲しませてしまったのか。

 オペイクス様が恐る恐るパールに尋ねても、彼女は泣き続けて、しばらく答えなかった。やがて泣き顔を上げて、オペイクス様をひたと見つめて言った。

『私は・・・もう一つ、あなた様に謝らなければなりません。私は・・・不生女です。私は、あなた様の子を産めません』

 オペイクス様は驚いて、息をのんだよ。それでも気を取り直して、先ほどよりもさらに慎重にパールに尋ねた。『医者に言われたのか』と。

 パールは、またオペイクス様の胸板に顔を擦りつけて、首を横に振った。

『誰かに言われたわけじゃありません。でも。分かります。自分の体ですから』

 オペイクス様は、これに何と返すか、必死に考えた。

『気にしすぎ、じゃないかな?案外、今、子どもが授かっているのかもしれないよ』

 そう言ったが、パールは泣き止まない。

『仮にそうだったとしたら、どこかの孤児を引き取ろう。こんな世の中だ。不幸な子どもは、幾らでも居る。あなたは良いお母さんになるだろう。もしかしたら神様が私たち二人に、そういう役割を望んでおられるのかもしれないよ』

 オペイクス様は、そんな説まで組み立ててみたんだが、やはりパールは泣き止まない。

 この事について、オペイクス様は私らに、こんなふうに言うんだ。

『オーカー君やアズール君と違って、今でも女性の心理に疎い私だからね。どうも私は言い間違えて、パールを悲しませたらしい。でも、それがどこか、私には思いもつかないんだ。情けない男だと笑ってくれたまえ』

 これを聞いて、すかさずイリーデが口をはさんだ。『でも、オペイクス様に悪気は無かったはずです。パールさんを慰めてあげたかったんでしょ?』と。

『もちろん』とオペイクス様は力無く答えた。『しかし、つもり、では済まない。悪気は無かった、では済まない、ということだよ。パールを悲しませたのだから』

 すると、今度はシルヴィアさんが意見した。『オペイクス様には失礼ですが。

 否定してあげるべきだったんですよ。ひたすらに。パールさんの推測を否定してあげるべきだったんです。そんなことはない。あなたは不生女なんかじゃない、と。ただ、それだけ。それだけをパールさんは、あなたに望んでいた。

 孤児を引き取るの何のは、まだ、ずっと後でいいんです』

 オペイクス様はこれを聞いて、はじめは泣き笑いのような顔をして『やっぱり自分は情けないな』とか自嘲していたんだが。やがて、ぼろぼろと涙をこぼして、頭を抱えた。

 シルヴィアさんも、それを見て、謝ったよ。『すみません。言い過ぎました』と静かに、うつむいて。

 オペイクス様はそれに対して答えた。『いや、いいんだ。むしろ、よく言ってくださった。シルヴィアさんに加わってもらった甲斐があった』とね。

 まあ、例によって、イリーデはシルヴィアさんを睨んでいたが」

 

(中編に続く)

自作小説「塔の上のセピイ  〜中世キリスト教社会の城女中の話」第十一話(全十九話の予定)

第十一話 報告とか、事後の余波とか

 

 私は興奮していた。昼間、畑仕事などを手伝いながら、顔には出していないつもりだけど。内心は、セピイおばさんから聞いた話が気になって、仕方がなかったのだ。

 太陽が天辺をちょっと過ぎたくらいの時。私はセピイおばさんから、マルフトさんのお墓を教えてもらった。もちろん私は、マルフトさんに感謝の祈りを捧げた。そして(あなたの不在を埋めるように、オペイクスという人物を知ることができた)と報告した。心の中で。

 ふふ。セピイおばさんは、私が何の願掛けをしているのか、と不思議に思ったかも。

 美少女イリーデちゃんも傑作だし。

 何より嬉しかったのは、自分の祖先、家族の様子を詳しく聞けたこと。私は嬉しすぎて、昼間、勘違いしかけたくらいだ。お爺ちゃんやお婆ちゃんがまだ生きていて、セピイおばさんが「兄さん」とか「義姉さん」とか呼びかけそうに思えたのだ。しかも、ひいお爺ちゃんとひいお婆ちゃんも近くに住んでいたりして。

 もちろん、そんなはずはない。お爺ちゃんは七年前に亡くなっている。お婆ちゃんは、さらに、その前。

 あの時も、セピイおばさんは里帰りしてくれた。兄であるお爺ちゃんのために急きょ駆けつけたから、お土産とかは無かったけど。

 幼かった私でも覚えている。おばさんが到着したと知るや、お爺ちゃんは二人きりで話がしたいと言い出した。叔父さんたち家族はもちろん、私たち家族にも席を外させて。

 父さんは、盗み聞きのつもりはなかったが、壁越しに聞いてしまったそうだ。病床についたお爺ちゃんが、セピイおばさんに謝るのを。静かに泣きながら。

(自分たちは村のために、セピイを人身御供にした)

 お爺ちゃんは、そういうふうに気に病んでいたんだろう。それが父さんの見立てだった。父さんは去年、それを私に話してくれた。

 マルフトさんのお墓参りでは、セピイおばさんと二人きりだったから、私は父さんの見立てについて話してみた。

 セピイおばさんは、ほんの少しだけ笑った。

「どっちも考えすぎだよ。兄さんも。兄さんの息子である、あんたの父さんもね。

 昨日、話しただろ。兵士がブツクサ言っていたって。あの通りなんだよ。そりゃ、モラハルトの時みたいにひどく嫌な事も、たまにはあったさ。でも、私なりに、いろいろと好き勝手させてもらったんだし。贅沢なもんだよ」

 そう言いながら、セピイおばさんは遠くを見ていた。私の目を見て言ったわけではない。

 贅沢だった、と言うけど。女中になりたいという私の意見には、おばさんは、まだ反対なんだろうな。私は、そう推測した。

 

 また夜が来た。今夜は晴れて、月も星も瞬いている。

 私とセピイおばさんは、離れの一つで向かい合って座る。何番めの離れか、なんて、どうでもいいや。今は、おばさんの話を追いたい。

 話の舞台は、またメレディーンに戻った。

 城に帰還した、おばさんたち一行がするべき最重要課題。それは何と言っても、ヌビ家の党首アンディンへの報告である。もちろん報告はオペイクスがするのだが。若き日のセピイおばさんも同席した。

 オペイクスの報告は、前半は順調に進んだらしい。

 同席して、セピイおばさんにも、やっと事情が分かった。熟練の騎士ロンギノがヌビ家を去る寸前だったのだ。

 原因はツッジャム城の新城主パウアハルトである。このモラハルトの傲慢な息子は、年長者ロンギノの意見に耳を傾けるどころか、敬意も払わず、むしろ蔑ろにした。パウアハルトが大勢の前でロンギノを侮辱した事も、一度や二度ではなかったらしい。

 そんな事が重なって、ついに一度だけロンギノも剣を抜きかけた。この時は、同僚の騎士がパウアハルトより先に気づいて止めたので、事無きを得たが。ロンギノはその直後に『もうヌビ家から離れたい』とこぼしたのである。

 聞かされた同僚は急いで手紙を書いて、党首アンディンに事態を知らせた。そしてアンディンは、ロンギノを引き留めるべく、オペイクスを派遣したわけである。ただしパウアハルトに気づかれないように、セピイおばさんの里帰りを隠れ蓑にして。

 セピイおばさんの話を聞きながら、私は当時の党首アンディンに賛成だった。何しろ、ロンギノはオペイクスと並ぶ好人物なのだから。若き日のおばさんにとって貴重な味方だっただろうし、そこはヌビ家も同じはず。

 ゲスタスの無礼に耐え、マムーシュの無礼にも耐えて、さらにはパウアハルトの横暴さにも耐え続けて。なんて苦労性な騎士様だろう。

 これほどの功労者をみすみす他家に取られるとあっては、なるほど、党首としては断固阻止すべきである。

 幸いオペイクスには、かつてロンギノに部下として仕えていた時期があった。彼もロンギノを尊敬していたらしく、党首から与えられた任務に意欲が湧いたことだろう。

 党首アンディンはオペイクスを派遣するにあたって、手ぶらでは済まさなかった。ロンギノほどの人材に、ただ我慢しろ、では話にならない。ちゃんと希望を持たせなければ。アンディンがオペイクスを介して、ロンギノに届けさせた希望。それは要するに、ヌビ家の将来性。その後の予定である。

 党首アンディンの計画は、こんなだった。

 まず聞き分けの悪い甥のパウアハルトをツッジャム城から引き離す。そのために、自分の妻キオッフィーヌのつてを頼る。彼女の伯父は畏れ多くも、当時のヨランドラ国王だ。この国王もしくは王弟の一人に、パウアハルトを預けようというのである。

 王家直属の騎士。それが、パウアハルトに餌として与える肩書きだ。表向きは、いかにも派手な出世話である。

 しかし、その内実は。代わりにツッジャム城を取り上げて、ヌビ家には戻さない。もし戦争などで王族の指示通りに戦って死んだら、それまで。むしろ王族のために死んだ、という名誉を賜る。それだけである。

 パウアハルトが王族の元でどれだけ長く働けるかは、もう問題ではない。次はツッジャム城をどうするか、だ。もちろん、女狂いのモラハルトを城主に戻すわけにはいかない。ツッジャム城一帯の住民の心が旧城主の弟から離れている事は、党首アンディンも分かりきっていた。

 そこでアンディンが白羽の矢を立てたのは、自分の次男である。ただし次男は、都アガスプスで騎士として修行した長男に比べて、武術の練度が追いついているとは言い難かった。長男と違って、修道院で学んだ何ヶ月かが差し挟まったりするからだ。それを補うべく、党首アンディンは次男を、もう一人の弟オーデイショーが城主を務めるロミルチ城で修行させるなどした。

 その次男を、ツッジャム城の新城主として据える。その際に補佐役としてロンギノが居るか居ないかは、大違いなのだ。

 ちなみに、長男は父アンディンからメレディーン城を引き継ぐ予定。当然の事として、ヌビの家中でも領民たちの間でも、そう認識されていた。実際にそうなったのは、また少し後の話だが。

 私も、セピイおばさんの話を聞きながら思った。昔の事とは言え、お爺ちゃんお婆ちゃんたちをはじめ、領民の安寧を願えば、ロンギノのような人物にはツッジャム城に残ってほしいな、と。

 幸い、セピイおばさんの話は、私の願い通りに展開した。オペイクスが元上官ロンギノの説得に成功したのである。あまり感情を顔に出さないと言われた党首アンディンも、これには喜んだ。すぐさま妻キオッフィーヌに、国王への手紙を頼んだほどだった、とか。

 以上が、オペイクスの報告の前半である。これだけで済めば、オペイクスも気苦労が無かっただろうに。オペイクスには、しなければならない大事な報告が、もう一つあった。言うまでもなく、イリーデちゃんの暴挙だ。

「やっぱり報告しなきゃならないのかなあ」

 私はオペイクスに同情して、つい口をはさんでしまう。

「そりゃ、そうだよ。って、あんた、何でオペイクス様がイリーデのやった事を報告しなきゃならないか、分からないのかい?」

「イリーデとブラウネンの婚約が党首アンディンたちの肝入りだからでしょ」

「なんだ、分かっているじゃないか。話をつっかえさせないでおくれよ」

「でも、いかにも、へんな話だよ」

「まあ、分かりにくいという意味では、あんたの言う通りだね。私とイリーデという年頃の娘二人に自分の裸を見せて済ませました、だなんてねえ。オペイクス様も、さぞかし話しにくかっただろうよ。でも、報告するしかないさ。それがご党首様の方針なんだし、イリーデとブラウネンのためでもある」

 二人のため。たしかに私も、そう思う。いくらオペイクスが良い人でも、歳が離れ過ぎるのはなあ。私が現場に居たら、イリーデちゃんに勧める気にはならない。

 で、私は、ふと思った。「セピイおばさんは、オペイクスを好きになったりしなかったの?」

 セピイおばさんは微笑みながら、顔を横に振った。

「私から見ても、歳がねえ。お兄さんと言うより、叔父さんに近いような。

 そもそも私は、まだソレイトナックを諦めきれていなかった」

 と答えて、また私と目を合わさない。もしかして、こうして話している今もソレイトナックが忘れられないのかな?

「それよりオペイクス様の報告だが」

 セピイおばさんは話を戻した。

「急速に、ご党首アンディン様が様子が変わったよ。とは言え、怒鳴り散らしたりはしないし、顔色も変わらない。そんなアンディン様の姿を、私は結局、一度も見なかった気がするね。だが、この時は、アンディン様を包む空気のようなものが明らかに変わった。暗く、重たいものになったんだよ。私には、そう思えて仕方なかった。

 オペイクス様は平謝りだが、元よりオペイクス様が悪いわけじゃない。私も証人として弁護しようとしたが、アンディン様から途中で止められた。最後まで聞くまでもない、と。

 ため息混じりだったけど、アンディン様はオペイクス様におっしゃった。『そなたに任せて正解だった。オーカーやアズールだったら、今頃どうなっていた事やら』と。

 オペイクス様の二つ目の報告自体は、これで済んだよ。アンディン様が長引かせたりしなかったんでね。

 ただ、お話は少し続いた。ご党首アンディン様は、こんなことをおっしゃったんだ。

『これを機にセピイも覚えておいてくれ。私は欲張りなのだ。

 美貌のイリデッセンシアを身内に与えても、それはその者が喜ぶだけ。政略結婚としては効果が小さい。

 それより、イリデッセンシアとブラウネンの結婚を後押しすることで二人の親たちに恩を売り、ヌビ家への忠誠心を起こさせた方が得というもの。私は、そう思う。

 ならば、私が党首としてイリデッセンシアに頭ごなしに命じれば済む話、ではある。

 しかし、ただ命じるだけでは、だめだ。イリデッセンシアに自覚してもらわねば。ブラウネンと夫婦になることで、二人の親族が結びつきを深める。その上で、二人の親族はヌビ家に従う。それがイリデッセンシアに求められていることなのだ、と』

 この辺りまではオペイクス様にも聞かせているような話し方だったんだが。後は、はっきりと私だけに向けた言葉だった。

『よって、もう一働き、頼むぞ、セピイ。イリデッセンシアの教育は、もちろん我が奥に任せる。そなたは我が奥を補佐して、イリデッセンシアが結婚を自覚するよう促すのだ』

 私は『尽力します』とお答えしたよ」

 うーん。おばさんには悪いけど、私は、また口をはさみたくなった。

「たしか、ビッサビアも似たようなことを、おばさんに言いつけてなかったっけ?」

「そうだよ。その辺りまで、イリーデはヒーナ様に似てしまったんだ。

 しかし、ありがたいことに、夫は正反対だったよ」

 セピイおばさんは静かに微笑んだ。

 そうなるとブラウネンの人となりが知りたくなるし、早く登場してほしいのだが。

 物事には、しかし順番がある。ブラウネンの前に、キオッフィーヌだ。

 彼女は、夫アンディンとオペイクスを一度退室させると、セピイおばさんにイリーデを呼びに行かせた。それで改めて、報告と言うか、イリーデの言い分を聞くわけだが。

「奥方様は呆れながらも、優しく、粘り強くイリーデから話を引き出そうとしてくださった。しかし何度、確認しても、よく分からなかったねえ。イリーデが何でブラウネンを毛嫌いするようになったのか。奥方様は私にも同じ事をお尋ねになったが、私もイリーデ本人から聞かされていないんで、答えようもない。

 結局、奥方様はイリーデの心境を、こう解釈した。稀に見るお人好しのオペイクスが目の前に現れて、珍しかったんだろう、と」

 うーむ、と私は心の中でうなる。今回は、何とか声には出さなかった。半々だな、と思ったからだ。

 珍しい男に目が行くことは、私にもある。年に何回か、城下町の商人のお使いが何かの用事で、村長である父さんを訪ねて来る。大抵は父さんと似たような中年男だが、若い男が来る事も無いわけじゃない。そして私には、そういう男が垢抜けて、いかにも街の住人らしいと思えてしまうのだ。だから若き日のセピイおばさんがニッジ・リオールにほだされたのも、ちょっと分かる気がする。

 だからと言って、そんな心境を素直に認めるか。認めにくいなあ。特に、世馴れた年上のお姉さん方に言われた日には。その男が物珍しかっただけよ、なんて子供扱いにしか聞こえない。

 もっともキオッフィーヌほどの貴婦人がイリーデちゃんを子供扱いしてしまうのは、仕方ない事なのだが。

 イリーデは認めなかった。自分は真剣に相手を吟味して、その上で真に素晴らしい男性を見つけたのだ、と主張して憚らなかったのだ。セピイおばさんの話にまぎれて、キオッフィーヌのため息が聞こえてきそう。

 後世の聞き手である私は、イリーデを応援してあげたいけど、この気持ちは応援できない。そもそも相手、オペイクスの方は乗り気じゃないんだし。

 むしろ、私は奥方キオッフィーヌの方に同情してしまう。きっと、意固地になったイリーデを持て余したんだろうなあ。歳の近い美少女より、おそらく母さんと同じくらいの歳であったろう奥方様に共感するなんて、私は自分自身にびっくりだ。

 しかし、さすがは奥方様と言おうか。キオッフィーヌは手をこまねいてばかりではなく、ちゃんと方針を示してみせた。イリーデにブラウネンとの結婚を延期するよう、言い渡したのである。婚約破棄ではなく、延期。

『ブラウネンとの縁を切り捨てる前に、もう一度、彼をよく観察してみなさい。危うく、もったいない事をするところだった、と気づくかもしれませんよ』

 セピイおばさんが言うには、奥方キオッフィーヌはイリーデに、いたずらっぽく微笑みかけたそうだ。

 優しい命令だと思う。別れる方は、いつでもできる。しかし一度違えた仲を戻す方は、簡単には済まないのだ。て言うか、ほぼ無理。友達付き合いしか無い私でも分かる。

 と言うわけで、方針が定まったキオッフィーヌは、夫アンディンに報告して、了承を得ることにした。そのために今度は、セピイおばさんにアンディンを呼び戻しに行かせたのである。

 それは大して手間取らなかった、とセピイおばさんは言う。中庭、つまり党首の書斎から、そう離れていないところに、党首アンディンは居た。オペイクスを含め、五、六人と立ち話をしていたのである。その中に少年が一人、混じっていた。これがブラウネンだった。

『どうやら女同士の話は済んだようだな』

 アンディンはセピイおばさんを見るや、そう、つぶやいた。そしてブラウネンにも書斎に来るよう促した。話の流れを見越して、イリーデに会いに来たブラウネンをつかまえてくれていたわけである。

 生真面目なオペイクスは、改めて同席したいと主君アンディンに頼んだ。この時点でまだ事情を知らされていないブラウネンは、それを不思議に思ったことだろう。

 改めて、党首の書斎に一同が集まった。党首夫妻、婚約中の若い二人、彼らの関係者であるオペイクスとセピイおばさん。

「ブラウネンは、まあ、かわいそうだったよ」

 セピイおばさんは当時を思い出して、苦笑いを浮かべる。

 

ブラウネンの生家の紋章 七花弁の横帯

 

「まず奥方キオッフィーヌ様が、イリーデ本人に告白させたんだ。旅行中にどんな事をやらかしたのかを、ね。イリーデと来たら、ご党首夫妻の御前なのに、ふくれっ面で誰の目も見ないで告白したよ。一度オペイクス様を恨めしげに見たんだったかな。

 一方、ブラウネンは半泣きの顔で、愛しの婚約者と無実のオペイクス様を交互に見る。何度も、何度も、だよ。口は開きかけていたが、なかなか言葉を出せずにいた。

 それでオペイクス様は気の毒に思ったんだろう、ご党首夫妻から発言の許可をもらった。オペイクス様は、たしかブラウネンに、こんなことを言ったよ。

『気にするな、と言っても無理だろうが、それでも言わせてもらうぞ。今回のイリーデの振る舞いは、気の迷いのようなものだ。後々になって振り返れば、何で、このオペイクスなんぞに関心を持ったか、彼女自身も不思議に思うだろう』

 するとイリーデは、すかさず否定するんだ。『そんなこと、ありません。私は本気です』とか語気を強めて。

 私は長引くかと心配したが、キオッフィーヌ様が、やんわりと制した。

『そのあなたの本気を確かめるには、時間がかかるでしょう。だから延期という形を選んだのですよ。

 ブラウネンには、イリーデの保険になってもらいます。辛抱強くイリーデを待ってあげなさい。いいですね?』

 なんて言われて、ブラウネンも半泣き顔のまま、了承するしかない。元よりブラウネンだって、美少女イリーデを諦めたくなかっただろうからね」

「しかし、保険だなんて、露骨だね」

 私は例によって、口をはさまずにはいられなかった。貴婦人たるキオッフィーヌがそんな言い回しをするとは予想もしなかったのだ。

「わざとだよ。遠回しだが、キオッフィーヌ様はブラウネンに『しっかりしなさい』と促したのさ。『保険なんかじゃなくて、イリーデの本命になりなさい』とね」

 セピイおばさんは平然と言う。

「で、党首アンディンも、この奥さんの方針に同意したわけね」と私。

「ああ。これで、へんな報告会も、ようやく片付いた。

 ただし具体的な実行は、この後だ。

 まず女中頭であるノコさんが私と一緒に、キオッフィーヌ様に呼び出された。キオッフィーヌ様はノコさんにも事情を説明して、私と二人してイリーデをよく見張るように、とおっしゃったよ。ノコさんも、少しでも気になる様子があったら、キオッフィーヌ様に報告する、と約束していた。

 ノコさんも、さすがにキオッフィーヌ様の前では出さなかったが、退室した途端に苦い顔をしていたね。

 で、肝心のイリーデなんだが、修道院に通わされることになったよ。前に、ご党首夫妻の令嬢が修道院に居られるという話をしただろう。そう、ヒーナ様の従姉妹にあたるお方だ。馬車を仕立てて、その方の元に定期的に通うのさ。表向きは、キオッフィーヌ様とその姫様という親子間の手紙の配達。でも実際は配達のついでに、イリーデは修道院長様からありがたい講義を受ける。結婚に備えての心構えとか、貞操の大切さとか。姫様に見守られながらね。こちらが、イリーデに課せられた、本当の任務というわけさ。

 ご党首夫妻は、さらに気を利かせて、ブラウネンにイリーデを出迎えさせたり、護衛として同行させたり、したよ。イリーデが意固地にならないよう、加減もした上で、だ」

「手が混んでいるなあ」と私はつぶやいてしまう。

「それだけ肝入りの縁組みってことさ。

 一方、オペイクス様の方でも外出が多くなった」

「ふふーん。オペイクス自身が買って出たんでしょ。おばさんの里帰りを早めに切り上げた時と同じで」

「ご明察。メレディーン城内でイリーデと鉢合わせにならないよう、イリーデが修道院に行かない日は、ご党首様から何とか用事をもらって出かけていたらしい」

「ぷぷっ。せっかく騎士になったのに、美少女から逃げ回るなんて、おめでたいと言うか、贅沢な話ね」

「ちょっと。あんたは他人事と思って笑っているが、巻き込まれた私やオペイクス様は大変だったんだよ」

 セピイおばさんは顔をしかめた。

「でも、さすがにイリーデも、自分が避けられていることに気づいてね。自制心が効かなくて、城内のどこに居ても、ぼやくんだ。いくらご党首夫妻やオペイクス様が関係者に口止めしても、それじゃ、旅行中の一部始終が噂になっちまうよ」

「同行した兵隊さんや使用人さんたちは、ちゃんと黙っていたのかな?」と私は意地悪な質問をしてみる。

 途端にセピイおばさんは目と唇を細くして一度、私を睨んだ。

「予想がついているんなら、聞かなくてもいいじゃないか。

 もちろん連中も城内で言いふらしたりはしなかったさ。しかし、それでも、いつの間にか城詰めの全員に、イリーデの事件が知れ渡っていた。おそらく兵士たち、使用人たちが陰で、ごく一部の者にだけ内緒とか断ってから話したんだろう。しかし無駄な断りだよ。噂話の格好のネタなんだから。

 それに、兵士たちも使用人たちも男だ。ブラウネンみたいに婚約者になれないにしても、稀代の美少女には興味津々だったんだろう」

「言わずにはいられなかったんでしょうね」

 私は、ひひっと笑うのを止められなかった。

「こら。それくらいにしておきなさい。あんまり他人を笑っていたら、いつか泣きを見るよ。あんただって近い将来、必ず好きな男ができるはずだ。その時、周りから好き勝手に笑われたら嫌だろ」

 うぐっ、調子に乗りすぎた。私は大人しく謝って、話の続きをせがんだ。

 

「とにかくメレディーン城内は、イリーデの噂で持ちきりになった。もちろん、みんな、ご党首夫妻の御前では控えていたよ。叱責されるのが目に見えている。女中たちもノコさんの目を恐れて、場所と時を選んでいた。イリーデが修道院に行っている時とか。

 ついでに、と言おうか、オペイクス様を笑う者も少なくなかったねえ。私の里帰りに同行しなかった方の使用人たちが言っていたよ。『あの人も騎士のくせに意気地が無えな。気が知れねえよ』とか。要するに、この村の下世話な田舎者どもと同じ反応なのさ。メレディーンなんて都会に住んでるのに」

 セピイおばさんは呆れ顔で、ため息をつく。人間、やることは一緒だね、なんて口をはさみたくなったが、私は叱られたばかりなので我慢しておいた。

 セピイおばさんの話は続く。

「城内が浮ついたと言うか、へんな空気なったねえ。特に、ブラウネンが好奇の目に晒されていた。考えてみれば、男が振られそうになるなんて、笑い話には持ってこいだ。ブラウネンとイリーデの婚約を羨んでいた男どもも、ざま見ろ、とか思っていたんだろう。

 とは言えブラウネンも一応、貴族の一員だ。使用人たちも女中たちも面と向かっては、からかったりしなかったよ。

 ただし、騎士のオーカーさんなんかは違ってねえ。自分の方が目上と思って、遠慮無しなんだ。ある時、唇をかみしめて立ち尽くすブラウネンにわざわざ近寄ったと思ったら『オペイクスの旦那に感謝しろよ』と来た。一応、小声なんだが、顔がニヤついているから、忠告になっちゃいない」

「何だかんだ言って、オーカーもブラウネンが羨ましかったんじゃない?」と私は、すかさず割り込んだ。

「ああ、私もそう思って、オーカーさん本人に言ってやったよ。そうすることでブラウネンを応援できると期待してね。

 ところが、全く効き目が無かった。オーカーさんはムッとするどころか、逆に無駄口を増やすんだよ。

『そうなんだよ、セピイちゃん。俺は、イリーデちゃんみたいな超絶カワイコちゃんと婚約できたブラウネン君が羨ましくて羨ましくて、仕方ないんだ。

 ブラウネンも、イリーデちゃんを諦める時は俺に言ってくれよ。真っ先に立候補するから』

 とか何とか、話が長くなって。

 ブラウネンは顔を引きつらせながらも、やっとこさ『そんな予定はありません』とか返した。

 そしたらオーカーさん、今度は私に顔を向けるんだよ。『聞いたかい、セピイちゃん。こんなわけで俺は、さみしい独り身だぜ。俺の相手、してくれよ〜』だとさ」

「いい性格してるわねえ。悩みとか無いんじゃない?」

「ふっ。たしかに私も、あの人が悩んでいる姿なんか、見た事が無いよ。

 それに私としては、オーカーさんからもソレイトナックの存在を否定されたような気がして、腹も立った。『私だって婚約者がいるんですからねっ』なんて力んで言ったものの、ちょっと涙がにじんでしまったよ」

「もしかしてオーカーはその後も、おばさんにしつこく言い寄ったの?」

「そんな事は無いさ。色男さんにしてみれば、軽い冗談だよ。本気で言っているわけじゃない。

 だから、あんたも、この手の男の言うことなんか、真に受けるんじゃないよ、絶対に。

 実際オーカーさんは、城内の通路の先にご党首様の姿を見かけるや否や、そそくさと雲隠れしたんだ。私に対する関心も、その程度ってことさ」

 ふうむ。私は声を抑えて唸ってしまう。もちろん私だって、男どもの軽口なんか信じるつもりはない。でも、突っぱねてばかりも寂しいような。なんて本音は、まだ、おばさんには聞かせない方がいいだろうし。

「しかし困ったわね。オーカーとか、うるさい外野は放っておくにしても、肝心のイリーデちゃんはブラウネンと仲良くする気が無いんでしょ?」

「そこなんだよ。ブラウネンが一生懸命に話しかけても、あの子ったら、生返事ばかりでね。ブラウネンに対する接し方が、他の男どもに対する時と、なんら変わらないんだ。わたしゃ、二人を見ていられなかったよ」

「あちゃー」

 言ってしまって、私は思い出した。カーキフとベイジの話の時も、私は言ったんだった。

「大丈夫かな、ブラウネン。カーキフみたいなことにならない?」

「まあ、片想いって点は共通しているね。でも事情は、いろんなところで違っているよ。

 しかし、私が困り果てたというところも共通していたか。

 散々迷って、私はシルヴィアさんたち、姉さん女中にも相談してみたんだ。

 シルヴィアさんは『そうねえ』と言ったっきり、苦笑いしていたっけ。

 意地悪だったのが、スカーレットさんだ。私とシルヴィアさんの間に、わざわざ割り込んで来て言うんだよ『あら。だったら、私がブラウネン君と仲良しになっちゃおうかしら。あの子、かわいいじゃない』なんてね。

 私は慌ててスカーレットさんを止めたよ。そんな発言をイリーデとブラウネンに聞かれた日には、大ごとになっちまう」

「助け舟どころか、余計ややこしくしてるわね」

「それで私も心配をしたよ。

 でもシルヴィアさんが笑って、否定してくれた。冗談だから安心しなさい、と。シルヴィアさんが言うには、スカーレットさんの本命は、もう一人の美男の騎士、アズールさんだと。要するに、スカーレットさんはアズールさんにやきもちを焼かせたかっただけなんだ。ちょうど女中部屋の窓の下を、アズールさんが通りかかってね。シルヴィアさんは笑っていた。

『あいつ、涼しい顔をしていたけど、聞き耳を立てていたに決まっているわ。だからスカーレットの作戦も効果有りよ』

 私は、それを聞いて、ホッとするやら、呆れるやら、へんな気分だったねえ」

「でも、本当に大丈夫かなあ?」

 私は思わず言ってしまった。セピイおばさんはキョトンとした。

「おや。まさかスカーレットさんが本当にブラウネンを誘惑するなんて思ったのかい?」

「さすがに、そうは思わないけど」

 私は一度、言い淀んだ。言い出しておきながら、ちょっと迷ったのだ。そのくせ、言わずにはいられそうにない、と自分でも思う。セピイおばさんが再び尋ねるので、正直に言ってしまおう。

「その、スカーレットさんって、胸、大きくなかった?」

 セピイおばさんは一瞬、固まってから、苦笑した。

「やれやれ、何を邪推しているかと思えば、そんなことかい。あんたも年頃だねえ。

 まあ、たしかに姉さんたち三人の中では、スカーレットさんが一番張り出していたかもね。ビッサビア様ほどじゃなかったが」

「でも、冗談にしたって、ブラウネン少年が聞いたら、結構な揺さぶりだと思うよ。スカーレットが近づいただけで、目が泳いだりして」

「ふふ、よく分かっているじゃないか。だから私も、ブラウネンにスカーレットさんの言葉を教えたりしなかったよ」

 セピイおばさんが笑いをこらえている間、私は、つい想像してしまう。少年と年上のお姉様が並んでいる姿。もちろん、おばさんには言えない。

「じゃあ三人目、ヴァイオレットさんは、どんな意見だったの」

「ヴァイオレットさんはね、少し、ひねってきたよ。一芝居、打ったらどうかって言うんだ。アズールさんかオーカーさんが悪党に変装して、イリーデを襲う。そこをブラウネンに救出させたらいいんじゃないか、と。

 早速、シルヴィアさんが賛成したよ。特にオーカーさんがやるべきだ、って。ブラウネンを冷やかした罪滅ぼしになるってわけさ。

 オーカーさん本人は『そんなの、やってられるかよ』とか、顔をしかめていたがね」

「それ、実行したら忙しくなるでしょうね」私も笑いながら言ってしまう。

「あんた、また分かっていて、言っているね」

 セピイおばさんは、ちょっと睨むような、笑うような、複雑な顔を見せた。

「たしかに実行は、しなかったよ。私が念のためと思って、オペイクス様に意見を求めたら、止められたんだ。『かえって、ブラウネンとイリーデのためにならない』と。嘘や芝居では、いずれイリーデを失望させるし、ブラウネンも自信が持てない。オペイクス様は慌ててシルヴィアさんたちのところに飛んできて、同じ説明をしていたよ」

「あら。色男さんたちは悪役にならずに済んだのね」

「ああ。オーカーさんが言っていた。『やっぱ、オペイクスの旦那は人がいいな。おかげで助かったぜ』なんてね」

 私を注意しておきながら、セピイおばさんもニヤニヤしている。

 何だかんだ言って、この手の話は、やっぱり楽しい。いつの間にか、浮かれてしまう。

 しかし、さすがに当事者たちは楽しむどころではなかったようだ。セピイおばさんは言う。特にオペイクスが苦労していた、と。

「あの方の見立てでは、ブラウネンがイリーデを諦める事態も充分あり得る、とのことだった。大人しくて、イリーデに対して遠慮がちなブラウネンの性格を考えれば、なるほど、と私も思ったよ。

 オペイクス様は私に、こっそり言い含めていた。イリーデだけじゃなく、ブラウネンの様子にも気をつけてくれ、と。そして、少しでも変わった事があれば、すぐ教えてほしい、とね。

 そんなふうに気づかってくれるオペイクス様を、ブラウネンは逆恨みするんだよ。剣の稽古なんかでオペイクス様に相手してもらっている時に、明らかに感情的になっていた。武術に詳しくない私から見ても、剣の打ち込み方が激しい、と言うか、やけに乱暴だったね。目も吊り上げて、オペイクス様を焼き尽くさんばかりに睨みつけて」

「うーん。どうせなら、オーカーとかに怒ればいいのに」と私。

「もちろんオーカーさんも恨んでいたよ。アズールさんが陰で笑っていた事も、ブラウネンは気づいていたし。二人それぞれに手合わせしてもらうこともあるから、やっぱり剣の打ち込み方が荒れていた。それで二人とも、ニヤつきながらブラウネンの木剣を受け止めたり、受けきれなくて体に当たった時は怒ったりして。

 でもブラウネンが一番激しくなるのは、やっぱりオペイクス様に対する時だったね。私にはそう見えたし、事情を知っている全員がそう思っただろう。

 幸いオペイクス様の方が、さすがに年季があって、オーカーさんたちより剣の受け方が上手かったようだ。

 それでも稽古中に痛い思いをする事は多少あっただろうに。オーカーさんたちと違って、オペイクス様は怒ったりしないんだ。メレディーン城の代表格の騎士様が見かねてブラウネンを注意しようとして、オペイクス様が止めたほどだよ」

「でも、そうやってブラウネンに遠慮してばかりで、いいのかなあ?」

「うむ。あんたの言う通りだよ。実際オペイクス様も、言うべきことは言わねば、と考えておられた。

 ある時、剣や槍の練習をした後で、オペイクス様の方からブラウネンに歩み寄ったよ。そして、おっしゃった。

『ブラウネン、念のため、言わせてくれ。私の言葉など聞きたくないと思うかもしれないが、こらえて聞いてくれ。

 まさかと思うが、イリーデを恨んだり責めたりするんじゃないぞ。イリーデに怒りを向けるんじゃない。私を憎んでもいいから、イリーデを憎むんじゃない。憎むなら、私や他の男どもにしなさい。

 そうすれば君とイリーデは必ず結ばれる。少し時間はかかるが、君とイリーデは寄り添い合える』

 また弓の稽古だったか、こんなこともおっしゃった。『女性は、結婚や出産の前後に、何かと不安にかられるらしい。イリーデも、そうなんだよ』とかね。

 でも、いずれの場合も、ブラウネンはオペイクス様を睨むように視線を返すだけで、返事もしないんだ。聞いてはいるんだろうが、はた目には無視しているようにしか見えない。私は、ますます心配になった」

 セピイおばさんは、そこまで話して、重いため息をついた。

「とにかく、そんなやり取りがしばらく続いた。

 そして、ある時、ついにブラウネンがオペイクス様に返事したよ。やっと、と思ったら、こんな言い草だった。『もう、ほっといてください。あなたに僕の気持ちなんか分かるもんか』だと」

「うーん、ブラウネンは当たる相手を間違えているわね」と私も言わずにはいられない。

「その時は、たまたま私も居合わせたんで、さすがにオペイクス様もお怒りになるんじゃないか、止めに入るべきか、と緊張したよ。

 でもオペイクス様は違った。ブラウネンが顔を背けるのにも構わず、その背に言うんだ。少し大きめの声で。

『なるほど。人の気持ちが分かる、などと簡単に言うべきではないだろう。

 しかし今回は、少し事情が違うぞ。私は、かつて、好きになった女性を他の男に奪われた事がある。だから今回の君の気持ちは分かるつもりだ』

 これを聞いて、ブラウネンも振り向いた」

 えっ、と私も思った。でも声は出ない。なぜか、口をはさむべきではないという気がした。

「その場が一瞬、止まったように、私には思えたよ。いや、居合わせた全員が思ったはずだ。

 ブラウネンは、しばらく何も言えずにいた。

 で、やっと口を開いたと思ったら、こんなことを言い出したよ。

『逆のことは考えなかったのですか。オペイクス様は逆の発想をしなかったのですか。自分は、かつて好きな人を奪われた。だから、このブラウネンも同じ目に遭えばいい。こいつも婚約者を奪われればいい。こいつの婚約者を奪ってやろう。そんな気に、ならなかったのですか』

 普段は大人しいはずのブラウネンが目をギラつかせて、オペイクス様を睨みながら言うんだよ。

 それを受けて、オペイクス様は数秒、立ち尽くした。

 そしたら、どこで様子を見ていたのか、イリーデがすっ飛んできて、二人の間に入った。『ブラウネン、やめてっ。やめなさいっ』とか喚いて。

 イリーデはブラウネンに向かって平手を振り上げるまでしたが、その手をオペイクス様が掴んで止めた。

 イリーデは、それでもブラウネンに『オペイクス様に失礼じゃないっ。謝って』なんて言ったが、オペイクス様は、それをも止める。

 オペイクス様は青ざめた、と言うか、悲しげな顔でおっしゃった。

『いや、いいんだ。それより二人とも、よく聞いて。

 ブラウネン、いい質問だぞ。正しい疑問の持ち方だ。そういう、気をつける姿勢、警戒心が大切なんだよ。君がこのイリデッセンシア嬢を守っていくために、欠かせない要点だ。どうか忘れないでくれ。

 それに、君が謝ることは無いぞ。実際、私の中にも、君が指摘したような悪意がわいてきたことはあった。だから君の言う通りなんだ。私は君たちを羨んでいた。君たちが仲違いすれば、あわよくば自分が、という気持ち。そんな気持ちが、何度も起こった。それはイリーデのためでも、君のためでもない。ただただ、私の身勝手に過ぎないんだ。

 だから君たち二人は、私を疑いなさい。警戒しなさい。そして二人で助け合い、支え合うんだ。いいね。

 さあ、もう行きなさい』

 オペイクス様は二人の背中を押した。

 ブラウネンとイリーデの二人は、絶句するやら、お互いの顔を見合わせるやらして、のろのろと、その場を離れたよ」

 聞かせてもらった私も、言葉が出なかった。言いたいことが無いわけではない。むしろ尋ねたいことだらけ。でも。なぜか、口にしてはいけない気がする。まだ、その時じゃないような。

 私は、セピイおばさんの話の続きを待つ。

「二人が見えなくなった後も、その場は静まりかえっていた。

 居合わせた男どもの反応は、半々ってところかね。

 少し離れたところで、オーカーさんやアズールさんたちがニヤニヤしながら、オペイクス様をチラ見していた。一応、声をひそめて。

 逆に、私の里帰りに同行した兵士、例の、うちの兄さんにからんだ兵士なんかは、その眼差しから真剣に聞いていた事が分かったよ。

 私はオペイクス様に近づいた。あんたも気になっているだろうが、私もオペイクス様の事情を知りたくて仕方がなかったんだ。しかし、何と声をかけたら良いのやら。

 オペイクス様は私と目が合うと、頭をかきながら、おっしゃった。

『私の拙い経験談は、いずれ二人に聞いてもらおうと思うんだ』

 私は、すかさず言ったよ。『そ、その時は私も同席させていただけませんか。私も聞きたいです』と。私と来たら、声がうわずって早口になっちまったよ。

 オペイクス様は私を不思議そうに見ていた。そして、こう、おっしゃった。

『そうだな。なるべくなら、セピイとソレイトナック君が揃った時に聞いてもらいたいが。それではイリーデとブラウネンまで待たせることになる。せめてセピイだけ先に、二人と一緒に聞いて、ソレイトナック君と再会した時の話題の一つにしてくれ。

 そもそも私はソレイトナック君と言葉を交わした事が無くてね。見知ってはいるんだが』

 この言葉に私は、すぐに返事できなかった。一瞬、オペイクス様の憐れみが、悲しいような気がしたんだ。しかしオペイクス様が私とソレイトナックの関係を認めてくれている証拠と思えば、嬉しくもある。私は内心、感謝して、改めてお願いしたよ。イリーデとブラウネンに話す時は、私もぜひ、と」

 私は、ふーっと息をついた。もう予想がついている。オペイクスの話は明るいものでも、楽しいものでもないだろう。決して。それでも知りたい。セピイおばさんから見抜かれた通り、私は知りたい。若き日のセピイおばさんと同じく、私も知りたい。私はオペイクスを知るべきなんだ。

 セピイおばさんは話の続きをする前に、葡萄酒を少し呑んだ。私も黙って、同じくらいもらう。おばさんが私を焦らしているわけではない事は分かっているし、私も急かさない。

 セピイおばさんは改めて背筋を伸ばした。

 

「さて、その日は、すぐに来なかった。私も早めにあんたに話したいが、時間の流れを振り返ると、その前に話しておく事があってね。

 見たところ、オペイクス様自身も迷うと言うか、分からない様子だった。自分の経験を話す機会を、どう設けたら良いのか。そりゃ、目上の立場で頭ごなしに、イリーデたちと私に召集をかければ済むことだよ。でも、それをするようなオペイクス様でもないし。

 そうやってオペイクス様がもじもじしている間に、私も考えた。イリーデとブラウネンの関係が少しでも改善すれば。なんて、私は勝手に期待したんだが。

 甘かったね。イリーデとブラウネン、二人してオペイクス様の事情をいろいろと推測したようだが、結局イリーデは、ブラウネンがオペイクス様に対して失礼だったという結論に達したらしい。つまりイリーデから見て、ブラウネンの評価は低いまま。

 そんな経緯もあってか、ブラウネンが、とうとう、こんなことを言い出した。

『婚約解消した方が、彼女を解放してあげられるのかも。きっと僕はイリーデを想っているつもりで、彼女を自分のそばに引き留めようと、縛りつけようとしているだけなんだ』

 これを聞いた時、私は焦ったよ。何とかしてブラウネンを励ましたいんだが、こういう時に限って、すぐに気の利いた言葉が浮かんで来ない。

 何か材料は無いかと周りを見回したら、離れたところで談笑しているオーカーさん、アズールさんたちが見えた。私は声を抑えながら言ったよ。

『そんなことしたら、オーカーさんとか、イリーデに言い寄りたがっている人たちの思う壺じゃない?そういう人たちがイリーデの将来や幸せを真剣に考えると思う?』

 つまり私は、婚約解消が必ずしもイリーデの為になるとは言えない、という主張でブラウネンをなだめることを思いついたんだよ。やっとこさで。

『奥方様がおっしゃっていたように、結論を急がないで。もう少し時間をかけて考えて』と念を押して、その場はブラウネンを帰した。

 で、すぐさま報告したよ。ご党首夫妻やオペイクス様に。

 聞いた途端に、オペイクス様は苦しそうな表情になった。『ああ、何か、きっかけが欲しいなあ。イリーデがブラウネンを見直すような何かが』とか、つぶやくんだが」

「でも一芝居打つのは反対なんでしょ、オペイクスは」と私は合いの手を入れてみる。

「そうなんだ。で、これまた、代案が思いつかない。

 それより悩ましい反応だったが、ご党首アンディン様だ。『二人には少々、荒療治が必要のようだな。そのためにもブラウネンに、そろそろ戦を経験させよう』なんて、さらりとおっしゃる。私はドキリとして、硬直してしまったよ。

 ただし、ご党首様は同じ頃、別の手も打ってくださっていた。イリーデとブラウネンのそれぞれの両親を呼び戻して、争わないよう釘を刺していたんだ。二人より先にそっちがこじれたら、もっと面倒だろ」

「たしかに。と言うか、貴族家のご党首様ともなると、さすがに頼もしいわね」

 私は本気で感心した。こういう領主なら、なるほど、税を納めようという気になる。

 セピイおばさんも私の相づちに深くうなずいてから、話を続けた。

「ご党首様は、私とオペイクス様を退がらせたよ。イリーデたちに動きがあったら、また報告するように、と念を押して。おそらく、後は奥方様と話し合ったりしたんだろう。

 私はオペイクス様と別れて、自分の仕事に戻った。あの時は、たしかノコさんやロッテンロープさんに指示を仰いで、外城郭の隅に行ったんだ。そこで洗濯物を伸ばして、干したりする作業があってね。私より先にやっていたのは、シルヴィアさんたち、三人。他の女中たちは、それぞれ他の仕事に回っていた。イリーデも、彼女と同年代の娘たちも。

 だから私は、ちょっと考えたんだ。会話の流れによっては、ブラウネンのことをもう一度シルヴィアさんたちに相談してみようか、と」

「でも、またスカーレットさんが茶化したりしない?」と私。

「たしかに、その心配はあったが、その時は深刻さを強調するつもりだったよ。ご党首様に報告したばかりだ、と。

 でも、余計な気回しだった。シルヴィアさんたちとの会話は、すぐに別の方に流れてね。ブラウネン以前に、オペイクス様の噂だよ。やっぱりオペイクス様がブラウネンたちに話をすると予告した時、オーカーさんたちは聞き耳を立てていたんだ。で、オーカーさんたちは、その足でシルヴィアさんたちのところに寄って、ぺらぺらしゃべったわけ。それで事態を聞きかじった姉さん方は私から、もっと詳しく聞きたがってね。

 だからって問い詰められても、私も大したことは知らないよ。かつて好きになった相手を奪われた、とオペイクス様本人が言った事。オペイクス様は、その詳しい事情をイリーデたちに話そうと考えている事。それだけ。

 私が正直に降参したら、早速ぼやかれた。『ええ〜。つまんないわねえ』だって。たしかスカーレットさんだったか。

 あの時は、三人揃って、妙にそわそわしていた。会話しているうちに、私も予想がついたよ。姉さん方の心境は、おそらく、こんな感じだろう、と。オペイクス様は稀に見る堅物だ。そのオペイクス様が好きになった女とは、どんな者なのか。とんでもなく美しいのか、あるいは、それほどでもないのか。二人が結ばれなかった原因は、二人のどちらにあるのか。そうやって気になる疑問が次々わいてくる感じ」

「うーん。気持ちは分かるけど。洗濯物干しは、はかどらなかったでしょうね」と私は、ちょっと茶化してみる。場をほぐそうと思って。

「ああ、その通りだよ」セピイおばさんは、ニヤリとしてくれた。

「あんまり、おしゃべりが続くから、ノコさんか誰かに見つかるかも、と私は少し心配になった。

 それで周りに気をつけていたら、色男さんたちがやって来るじゃないか。

『何だ、なんだあ。仕事、ほっぽり出して、随分と楽しそうじゃねえか。俺らも交ぜろ』とか言ったのは、アズールさんだったかねえ。

『何だよ。またオペイクスの旦那が話題になっていたのか』とアズールさんが尋ねると、

『だって、どんな事情か気になるじゃない。よりによって、あのオペイクスさんなのよ』とかスカーレットさんが答えた。

 そしたら今度はオーカーさんだ。

『ふん。どうしたも、こうしたも、惚れた女を他の男に取られただけだろ。いかにも旦那らしいじゃねえか』

 なんて一度、笑ってから、こんなことを言い出した。『それより、もっと気の利いた、ど派手な話題があるぜ』

 途端にヴァイオレットさんだったか、『え、何、なあに』とか食いついたよ。

 オーカーさんはすぐに答えないで、手を空にかざして、顔もそちらに向けた」

 セピイおばさんは言いながら、その仕草をやってみせる。

「で、感極まったように目を閉じて、やっと言うんだ。『祝え、メレディーンの乙女たちよ。これを聞いて、安堵の日が来た、と喜ぶがいいっ』

 それを見て、シルヴィアさんが軽く笑って、突っ込みを入れた。『何それ。あんた、役者にでもなるつもり?』とかね」

「うん。私も、そう思った」

 私の反応が確かめられると、セピイおばさんは、もう一度ニヤリとした。

「そしたらオーカーさんは、してやったり、と言わんばかりの得意げな顔になってね。

『聞いて驚け。かの悪漢、マムーシュ・シャンジャビは死んだ』

 と来た」

 その名を聞いて、私は、あっと声が出てしまった。

「ふふ。私も、あんたみたいな反応になったよ。シルヴィアさんたちも、色男の騎士二人も、マムーシュの悪評は知っていたようだが、奴を直に見た事があるのは、私だけだったからね。

 私が身を乗り出してオーカーさんに聞き直したら、その事でも姉さん方は驚いていた。だから私はヒーナ様との関係や、マムーシュの屋敷に行った時の話を手短に説明したよ。

 そのうち、アズールさんがオーカーさんに釘を刺した。『おいおい、いいのかよ。まだ、ご党首様に口止めされていただろ』

 でも、オーカーさんは意を介さない。『なーに、ご理解いただけるさ。いずれ、みんなも知ることになるんだ。時間の問題だぜ』だって」

「でも、どうしてマムーシュは死んだの。さらに悪い事をして、縛り首にでもなったの?」私も興奮して、早口になってしまった。

 セピイおばさんは首を横に振った。緩い動作だった。

「刑死じゃなかったよ。まあ、それを私も願ったが、そこまで神様も合わせてくださらなかった。

 オーカーさんが聞いた噂だと、マムーシュは親族に殺されたそうだ。なぜって、生家のシャンジャビが割れちまったのさ。そう。ヨランドラきっての大貴族シャンジャビ家が、この時、分裂したんだ」

「ぶ、分裂?」私は、まだ話が呑み込めない。

「シャンジャビ家は今でも大所帯だろ。でも人数が多いって事は、それだけ不満分子も多いって事さ。

 で、その連中がシャンジャビ家から独立しようと動いた。元のシャンジャビ家にとっては、由々しき事態だよ。自分たちの勢力が、みすみす削られるんだからね。そこで本家は独立派を止めようとした。抑え込みにかかった。

 マムーシュは、その諍いに巻き込まれて、斬り殺されたのさ。オーカーさんが言うには、独立派に首領格の一人として担がれて、いい気になっていたらしい」

「うーん。天罰と言いたいけど、物足りないなあ」と私は言わずにはいられない。

「そりゃあ、私もマムーシュをもっと苦しめてやりたかったよ。でも、どうすることもできないだろ」

「たしかに、そうだけど。

 あっ。ちなみにシャンジャビ家は、その後どうなったの」

「いい質問だよ、プルーデンス。王家が仲裁に入ったんだ。結論から言うと、王様たちは独立派の主張を認めてやった。この時だよ、シャンジャビ家の分家、レザビ家が興ったのは」

「レザビ家。名前だけなら、城下町でも聞いた事があるわね」

「ま、分家と言っても、紋章の蛇は、ほとんど見分けがつかないし。今では本家シャンジャビと、だいぶ仲直りしたようだがね。

 では、ここで、逆に私から問題を出すよ、プルーデンス。シャンジャビ家から分家が出ることを、王家は、なぜ許したと思う?」

 私は急いで、当時の王様たちの気持ちを推測してみる。

「シャンジャビ家が強くなりすぎないようにするためね。そりゃ、シャンジャビ家もヨランドラ王家に忠誠心を持っているでしょうけど。貴族の頂点である王様たちが完全に信じきるわけないもの」

「正解だよ、プルーデンス。適切な解釈だ。あんたに少しずつ話して聞かせた甲斐があった。これからも、そういう、ものの見方を忘れるんじゃないよ。

 そう。王家はこの事件を活用して、シャンジャビ家の力を削ぐことにしたのさ。何しろタリンの他の四カ国は、シャンジャビ家の紋章(武器を持つ蛇)を見て、ヨランドラの一般兵士の紋章と思い込むくらいだからね。それぐらいタリン人の意識に浸透しているんだ、シャンジャビ家の存在は。

 そしてヨランドラ王家としては、そんなシャンジャビ家を重臣として頼もしく思いつつも、同時に怪しむと言うか、だんだん面白くなくなってきたんだろうよ」

「だったらシャンジャビ家の分裂は、ヌビ家やリブリュー家みたいな他の貴族たちには、願ったり叶ったりね」と私も握りしめた手に力が入ってしまう。

「そういうこと。まあ、他人の不幸を喜ぶようで、褒められた振る舞いじゃないがね。

 てなわけで、この話題も盛り上がったよ。

 オーカーさんと来たら、芝居口調が気に入ったのか、その後も演説をぶってね。『これこそ、神が公平な目で、この地上をご覧になっておられる証拠よ』とか何とか。もちろん声も大きくなっているから、ご党首様が通りかかったりしないか、私は心配して、止めようとしたんだよ。

 シルヴィアさんなんか、心配どころか、怒っていたくらいだ。『あんた、だめじゃないっ。ご党首様の指示を軽んじるなんて』と、きつく睨んでいた。

 オーカーさんは、それでも懲りずに『でも、ご党首様は話が分かるお方だぜ』なんて屁理屈を返していたが」

「え〜、大丈夫なの?オーカーはオペイクスどころか、党首のアンディンまで舐めてんじゃない?」と私も呆れてしまう。

「まあ、そう言われても仕方ないね。幸い、ご党首様はお出かけなさったのか、見かけなかったよ。

 代わりに、ご党首様の書斎で別れたばかりのオペイクス様の姿が、内城郭への入り口辺りに見えた。

 そしたら、シルヴィアさんが私に言うんだ。『オペイクス様がイリーデたちに話をする時、私も同席できないかしら』と」

「えっ、何でシルヴィアが」私は、ちょっと声が裏返ってしまった。

「私も不思議に思ったよ。

 だが、私が尋ねる前に、オーカーさんが割り込んできた。『おいおい、旦那の話なんか聞いて、どうすんだよ。どうせ面白くないぜ』とか、けなして。

 それに対してシルヴィアさんは、ニヤリとして、こう返した。『面白くないかどうかは、私が話を聞いて判断することよ。あんたには、関係ないわ』とね。

 オーカーさんは口元をひん曲げて『あー、そうですかい』なんて、いじけていたっけ。

 そんなやり取りの途中で、私は、あっと声が出そうになったよ。私と目が合ったオペイクス様が小走りでこちらに向かって来るのが、見えたんだ。

 スカーレットさんも気づいて、声を抑えた。『ちょっと。聞こえたんじゃないの?あの人、こっちに来るわよ』って。みんな、途端に苦笑いのまま、口数が激減した。

 代表するつもりか、それとも観念したのか、アズールさんがオペイクス様に声をかけた。

『これはこれは、オペイクスの兄さん。どうなさったんですかい。ちょうど兄さんも話題になっていたところですよ』

 スカーレットさんが、すかさずアズールさんの袖を叩いた。もっとも、スカーレットさんだってニヤけていたんだが。

『私が話題?君たちにウケるようなネタがあったかな』なんてオペイクス様は大真面目に首を傾げる。

 私は何だか、アズールさんたちとオペイクス様をそれ以上、会話させたくない気がした。それで私からもお尋ねしたんだ、何かあったのか、と。

 オペイクス様は私に目を戻して、ハッとしたよ。『そうだった。セピイに頼みたかったんだ。もうブラウネンとイリーデに話を聞いてもらおうと思う。ブラウネンは私が呼んでくるから、セピイはイリーデの方をお願いできないかな』とおっしゃる。

 私はノコさんたちから、イリーデがどこで仕事をしているか聞いていたので、快諾したよ。

 で、続けて、シルヴィアさんに目配せしてみた。シルヴィアさんは、ちょっと照れ笑いと言うか、おずおずとオペイクス様に話しかけた。あの人にしては珍しいことなんだが。

『あの、オペイクス様。できれば私も同席して、お話を聞かせていただきたいのですが。よろしいでしょうか』

 案の定、オペイクス様はキョトンとした。オペイクス様が答えられないでいたら、オーカーさんの『やめときゃいいのに』なんて小声が聞こえた」

「いやらしいわね。小声といっても、オーカーは本人に聞かせるつもりで言ったんでしょ」

 私は苛立ちをおぼえて、言ってしまった。

 逆に、セピイおばさんは、いつしか笑みを浮かべている。

「ま、その通りだろう。でも、ちゃんとバチが当たったから、安心しな。

 オペイクス様が返事したら、こんなだった。『ん、もしかしてオーカー君と一緒に、私の話を聞くのかい?』

 オーカーさんは途端に、ずっこけていた」

 これには私もニンマリした。おばさんの笑みは、こういう意味だったのね。

「ふふ、いい気味だわ」

「でも、喜んでばかりもいられなかったよ。この頃のオーカーさんは、たしかヴァイオレットさんと付き合っていたはずだと思ってね。私とシルヴィアさんは慌てて否定するやら、取り繕うやら、忙しかったよ」

 セピイおばさんは、まだ笑みを見せている。

「どうもオペイクスは、男女の組に聞かせたいと思っていたようね」と私も予想した。

「そうなんだ。だからこそシルヴィアさんが話を聞きたがることを、オペイクス様には理解できなかったんだろう。もっとも私にも、シルヴィアさんの胸の内が全然、読めなかったが」

「シルヴィアもオペイクスに気がある、かなあ?」尋ねておきながら、私は自分の問いに首をかしげた。

「ふふ、あんたも微妙なところだと思うだろ。私も最後まで、本人の口から聞けなかったからねえ。

 それはともかく、オペイクス様はシルヴィアさんの同席を了承してくださったよ。

 で、他の姉さん方と色男さんたちは、ご遠慮していた。

 オペイクス様と私は、メレディーン城の塔の一つを選んで、そこに落ち合うことにした。塔の中でも太めで、頂上部が一番広い塔だよ。

 オペイクス様は『自分の決心が鈍らないうちに話したいから』とブラウネンの方に急いだ。もう日が暮れ出して、ブラウネンが城下の自分の屋敷に戻るかもしれなかったんだ。

 そして私とシルヴィアさんはイリーデを呼びに行くんだが。近くまで来て、イリーデの姿が見えたところで、シルヴィアさんは立ち止まって、苦笑いになった」

「ははーん。さすがにお姉様だけあって、自分が敬遠されていると自覚しているのね」

「だから私は気を使って、シルヴィアさんに言ったよ。『先に塔の上に行って、待っててください』と。シルヴィアさんは『恩に着るわ』とか言ってくれたっけ」

「うーん。そんなことをしてまで、オペイクスの話を聞きたかったのかなあ」

 私はシルヴィアが、どんどん分からなくなってきた。

「まあ、シルヴィアさんの心境はさっぱりだが、それよりイリーデだ。私はイリーデを連れて、待ち合わせの塔に向かったが、その道すがら、シルヴィアさんのことは言えないと思った。

 実際、塔の天辺に着いて、シルヴィアさんを見るや、イリーデはすごい顔になってねえ。しかも私を睨むんだ」

「おばさんも大変だね」と私も、悪いけどニヤけてしまう。

「ああ、私は必死で、しらばっくれたよ。

 シルヴィアさんも笑顔をつくろった。『ごめんね、割り込んで。私も拝聴させていただくわ』とか、イリーデに断りを入れて。

 イリーデは『シルヴィアさんには関係ないはずです』なんて尖った声を出した。

 ところが肝心のオペイクス様が『いや、一人でも多く聞いてもらえて、ありがたいよ』とか言うもんだから、それ以上シルヴィアさんにからんだりせずに、大人しくなったけどね」

 私は、ふくれっ面の美少女を想像して、ぷぷっと吹きそうになった。

 セピイおばさんは、それに構わず、話を続ける。

「オペイクス様は気を利かせて、私たち女連中が座れるようにと、椅子を持参してくださったよ。ブラウネンにも一つ、持たせていた。

 それで、私たち女はそれらの椅子にありがたく座らせていただいて、オペイクス様とブラウネンは突っ立ったまま。

 これで、いよいよ、オペイクス様のお話だ」

 セピイおばさんは改めて背筋を伸ばして、深めに息を吸った。

自作小説「塔の上のセピイ  〜中世キリスト教社会の城女中の話」第十話(全十九話の予定)

第十話 交わされた言葉の数々

 

「昨日は、なんだかんだ言って結局、秘密めいた、際どい話も多かったね。でも今度こそ、それほどでもないはずだよ」

 セピイおばさんは、そう言いながら、椅子の下にロウソクを置いた。私とセピイおばさんの間の椅子。強かった明かりが、ほのかな柔らかい光に収まる。

「気にしないで、おばさん。全部、大事な話だったわ」

 今夜は五軒中、家から四番目の離れ。またしても小雨だ。もし、どこかの貴族家の密偵が近くに潜んでいるなら、雨音が私たちの会話を掻き消してくれるといいけど。

「ありがとうよ、プルーデンス。

 では、始めるか。里帰りでベイジの商家に泊めてもらった翌朝だ。私はイリーデより先に目覚めてね。

 イリーデがまだ寝ていたんで、起こさないように、そっと店先の方を見ると、ベイジと旦那さんが馬たちに草を与えていた。私も駆け寄って、手伝ったよ。馬たちの半数は、まだ寝ていた。御者さんのいびきも、馬車の中から聞こえていた。

 やがて、オペイクス様が兵士たちを連れて、やって来たよ。朝日の中、現れたオペイクス様は開口一番、ベイジ夫婦に礼を言った。私らが世話になった、と。

 しばらくして、宿屋に泊まった使用人たちも現れた。そろそろ一同を揃えようと、私はイリーデを起こした。イリーデは、みんなと顔を合わせるや、少し赤面していたね。『オペイクス様をお出迎えしたかったのに』とか小声でつぶやいていたっけ。

 馬車から起きてきた御者さんの方は、朝の挨拶もそこそこに、ベイジの旦那さん、お舅さんに捕まって話し出したよ。どうも前の晩の酒宴で、御者さんはお舅さんたちから、しきりにお願いされたらしい。『メレディーン城に品物を売り込みに行きたい』と。

 そこで、御者さんはオペイクス様に話を振った。オペイクス様は何の屈託もなく、快諾なさったよ。

『品物のやり取りを継続できるかは約束できないが、まずは私があなた方をご党首様に紹介しよう。

 我々がメレディーンに戻る前に、また、こちらに立ち寄る。その際に、この店から誰か一人、我々に同行させるといい。それでメレディーンへの道を覚えられるだろう』

 これを聞いてベイジの旦那さんたちは、やっと安心して、うちの御者さんを解放してくれたよ。御者さんと握手したり、抱き合ったりしていた。

 そんな時に、不意にベイジが小声で私を呼んでね。私を建物の陰に連れて行くんだ。ベイジは他の人たちが自分たちの方を見ていない事を確認してから、小声のままで、こんなふうに言った。

『セピイ。気を悪くするでしょうけど、こらえて聞いて。お願いだから。

 あのね。私も、あの後、寝ながら考えたの。あんたとソレイトナックのことを。あんたを羨んで応援しないとか、もう、そんな場合じゃない。それ以前よ。ソレイトナックが生きているか、どうかの問題。私は、もうだめだと思う。

 だからセピイ。嫌かもしれないけど、あんたは、もう別の人を探すべきだと思うよ』

 私はベイジに礼を言った。『心配してくれてありがとう』と。そしてマルフトさんからも同じ忠告を受けた事を話した。

 その後ベイジ一家は、私たち一同に軽い朝食を振る舞ってくれたよ。で、私たちは店の開店前に、この山の案山子村に向かって出発した。ぐずぐずして、ベイジの店の商売を邪魔しちゃいけないからね」

 セピイおばさんは、そこまで話して、小さく息をついた。忠告の中身は苦いが、甘い嘘よりは、はるかにありがたい。だから私も安堵する。ベイジが居てくれてよかった。

 実は、前のお別れの場面では、私はベイジにあまりいい印象を持たなかった。でも今は違う。外孫の私からもお礼を言いたいくらい。

 セピイおばさんの話は続く。

「というわけでツッジャムの城下町から、いよいよ、この山の案山子村だよ。もちろんメレディーンからツッジャムへの道のりに比べれば、距離は格段に近い。ちなみに兵士たちも、荷車に付いている使用人たちも、前の日に賊どもから受けた傷を気にしてね。それでも馬の脚は大して遅くならなかった。正午前には村の家並みが、そして、この家が見えてきた。

 私は、窓から先頭の兵士たちに呼びかけて、うちの畑のそばで止まってもらったよ。ちょうど仕事をしていた父さんと母さん、そして兄さんと叔父さんたち家族が、一斉に顔を上げた。急に騎馬と馬車、荷車の列がやって来たんだから、まあ当然の反応さ。

 私は馬車の扉を開けて、降りた。そして母さんを呼んだ。母さんは私を見るや叫んだよ。

『セピイっ、セピイなのかい?』

 もちろん、そうだと私は答えたんだが、母さんは私の返事も待たずに、持っていた鎌を放り捨てて、私に駆け寄った。母さんは、私をきつく抱きしめて泣き出したよ。泣きながら何度も私の名を呼ぶだけで、会話にならなかった。

 気がつくと、父さんも駆けつけて。両腕を大きく広げて、私と母さんを包み込んだ。父さんも涙を流していた。

 我ながら・・・ずいぶん心配をかけたもんだよ」

 セピイおばさんは話しながら、うなだれた。

「ひいお婆ちゃんも、ひいお爺ちゃんも、ずっとセピイおばさんのことを思っていたんだね」

 私は何と言っていいのか分からず、やっと絞り出せたのは、そんな言葉だけだった。

「まったくだ。そんな両親を持たせてくれた神様に感謝しよう。

 続いて、兄さんと叔父さんたち家族も集まってきた。兄さんは初っ端から目を吊り上げて言うんだよ。

『セピイ、ソレイトナックは?奴は居ないのか』

 私が首を横に振ると、兄さんと来たら、何とオペイクス様に絡み出したよ。ちょうどオペイクス様が下馬して、近づいていたんだ。

 オペイクス様は『ソレイトナックを連れて来られなくて申し訳ない』なんて謝った。もちろんオペイクス様は何も悪くないんだがね。

 叔父さんたちが慌てて、兄さんを取り押さえていた」

「えっ、お爺ちゃん、そんなこと、したの?」

「まあ兄さんは元々ソレイトナックを良く思っていなかったからね。

 そのうち、叔父さんの一人が父さんに声をかけた。とりあえず、私たち一行を家にお迎えしよう、と。それで全員、ぞろぞろと移動したよ。

 馬車と荷車二台は、我が家の前。馬たちは、そこらの草むらに連れて行ってもらって、やっと本当の一休みさ。

 オペイクス様は私に『みんなと外で待っている』とおっしゃった。『まずは家族で話しなさい。場合によって、私から説明した方がいいようなら、いつでも呼ぶように』とね。

 お言葉に甘えて、私たち一家だけでテーブルについた。家の外では叔父さんたちが、盃に水を注いでオペイクス様たちに出したりしていた。

 さて、やっと家族四人が顔を合わせたわけだが、私は一瞬、言葉に詰まった。話すことがありすぎて、一体何から、という気分になったんだよ。父さんたちも何から尋ねようか迷っている顔だった。

 とりあえず私は、モラハルトの事件から話を始めた。ビッサビア様に助けられて、何とか犯されずに済んだ、と。母さんが私の手を握って、また泣いた。父さんは『あの方をすっかり見損なった』と吐き捨てるように言って、テーブルを叩いた。

 兄さんは、すぐにでもソレイトナックの事を聞きたかったんだろうが、腕組みをしたまま黙って待っていたよ。それで私は、メレディーン城で辿った経過を話した。ご党首様たちにモラハルトの事件を報告して、メレディーン城で女中として働かせてもらえるようになった事。合わせてソレイトナックの捜索をお願いしたが、ご党首様たちの協力があっても、行方不明である事。

 ただし、ビッサビア様とポロニュースの暗躍については、話さなかった。それがご党首様からの指示だったし、話しても母さんたちの心配を増やすだけだからね。それと、里帰りの本当の目的とか、ツッジャム城の地下道についても、やっぱり秘密だ。

 ソレイトナックが行方知れずと聞いたら、兄さんは呆れて、ぶつくさ嘆いた。それで私が、ロミルチ城のオーデイショー様にも確認した事も付け加えたが、効果は無かったよ。終いには、マルフトさんや元同僚のベイジからもソレイトナックを諦めるよう言われた事まで、話さなきゃならなくなった。

 三人とも、マルフトさんから事前に聞いていた内容と私の話がほぼ一致していることは、分かってくれたよ。でもソレイトナックの件は何も解決していない。そのせいか、兄さんが言ったんだ。

『今度は、あの鈍そうな騎士が言い寄って来たなんて言うんじゃねえだろうな』

 とかね。もちろん私は、オペイクス様は別の用事で同行してくださっただけと説明したよ。でも兄さんは、とてもじゃないが、納得した顔じゃなかった」

 うーん、お爺ちゃんったら、機嫌が悪いなあ。そう思いながら、私は言わずに話の続きを聞く。

「とは言え、いつまでも家族会議、と言うか報告会をしている場合でもないよ。私に同行してくれたお客さんたちが待ってんだ。父さんも気にして、窓の外のオペイクス様たちに何度も視線を飛ばしていた。私も見たら、村人たちが少しずつ集まっているように思えた。

 私が今回も土産物を頂いた事を報告すると、兄さんが言ったよ。『さっさと配っちまおう』とね。

 それで家族四人で外に出て、オペイクス様にお待たせした事を詫びた。『ん、思ったより、早かったな』とか、オペイクス様はキョトンとしていたよ。

 あと、イリーデを見て、村の若い男どもがやたら視線を送って、兵士たちから追い払われていたっけ。小さい子たちが『お姫様みたい』なんてはしゃぐのは、いいんだがねえ。

 私はオペイクス様に、土産物を村人たちに配るための了承を求めた。ご党首様から頂いた物ということで怒られるかも、と少し不安だったんだ。でもオペイクス様は、あっさり快諾してくださったよ。

『うむ。ここの人たちがご党首様を知るきっかけになって良いだろう。ただ、私から一言、付け加えた方が良さそうだな』

 集まった村人たちを見回しながらオペイクス様は、そう、おっしゃった。

 やがて我が家の前に村人たちが集結し終わった事を、父さんがオペイクス様に報告した。そこでオペイクス様が、みんなに呼びかけたよ。

 まず、自分がメレディーン城に駐在する騎士である事。今回、女中セピイの里帰りに同行した事。今からヌビ家ご党首様から頂いた土産物を配るが、あまり公言しないように。自分たちメレディーンの者が来ている事も言いふらさないように、とね。

 これを聞いても、やっぱり呑み込みの悪い連中が居るんだよ。何人かの大人たちがひそひそ話し合うのが、私のところからも見えた。

 そのうちの一人、近所のおじさんが挙手してね。『騎士様。わしらもお言いつけには従う所存なんですが、理由、と言うか事情を教えていただけませんかね』とか尋ねたんだったかな。

 それにオペイクス様が答えた。『実は今回のことは、モラハルト様にもパウアハルト様にも内緒なんだ』

 途端に、ひそひそ話どころか、村の大人全員がどよめいたよ」

「うん。まあ、そうなるよねえ」と私。

 地元の領主親子に秘密だなんて、しがない領民は動揺するに決まっている。

「私もちょっと心配になったが、オペイクス様は相変わらず淡々と話すんだ。

『やはりお二人の名が出ると、皆は気が引けるか。ならば、ついででもないが、もうお一方、名を使わせていただこう。ヌビ家のご党首、アンディン様。私は今回、アンディン様から采配を任された。

 こうして、計三人のお方のお名前を口にしたからには、私にも、それなりの覚悟があるつもりだ。今回、皆が土産物を受け取って、役人などから咎め立てが来るようなら、その時は私の名を出しなさい。メレディーン城のオペイクスが許可した、と。

 それでもまだ心配なら、よし、私が一筆、残そう』

 オペイクス様はそこまで言って、父さんたちに羽筆や羊皮紙を頼んだ。で、父さんや叔父さんたちは慌てて、それぞれの家から、それらを持ち寄って、オペイクス様に渡したよ。オペイクス様は、うちのテーブルを借りて、断り書きを書いてくださった。同時に、私ら一家に土産物を配らせながらね。

 それはそれで村の連中は喜ぶ、と言うか、そわそわするんだが、まだ恐る恐る品定めをしていたねえ」

「おばさん、ちょっと待って」私は、つい、いつものように話に割り込んでしまった。

「もしかして、そのオペイクスの断り書きって、まだ、うちにある?」

「ふふ、いい質問だが、さすがに無いよ。兄さん、つまり、あんたたちのお爺さんが言うには、それから十年間くらいは念のために取っておいたらしい。でも、ありがたいことに、お役人たちに突きつけなきゃいけないような事態は一度も無かった。結局、何事も無く済んだんだとさ」

「うーん、心配しすぎたのかな?」

「いいんだよ、それくらいで。逆に心配していない時に限って、お役人とか兵隊とかが押しかけてくる、と思っていなさい」と、セピイおばさんは私を諭した。

「それより、土産物配りに話を戻そう。

 メレディーンから連れてきた使用人たちが荷車の覆いを取り除けてくれたんだが、品物は食べ物より、食器とか衣服とか実用品の方が多かったねえ。その事を、どっかの男の子がぼやいて、父親から拳骨を落とされていたっけ。

 他には小さめの酒樽が幾つかと、薬の小袋や瓶とか。使用人の一人が酒樽を村人に手渡しながら言ったもんさ。

『お前ら、これを大事に分け合って呑めよ。間違っても、こぼしたり、独り占めしたり、すんじゃねえ。俺らだって、呑んだ事ねえんだからな。て言うか、俺にも一口、味見させろ』

 言われた村の男は、独り占めの当てが外れたんだろう。その小さい酒樽を抱えたまま、周りの連中と目を合わせて、固まっていたもんさ」

「お菓子は?」私は笑われるのを覚悟して、聞いてみた。気になるのだから、仕方がない。

「ああ、たしか、小さい焼き菓子があったはずだ。イリーデが配ってくれたんだが、若い男どもが途端に群がろうとしたんで、父さんが注意しなきゃならなくなった。『菓子は子どもだけだ』ってね。兵士たちも怒鳴ったりしていたよ。

 まあ、そんなこんなで土産物が大方、行き渡った頃だ。今度は、村人たちがまめに礼を言いに来た。そのまま大人しく引き下がる気が無いんだよ。いつまでも近くをうろうろしてね。特に男どもが。

 気を利かせたつもりか、土産物の酒を盃に注いで、オペイクス様に持ってきたおっさんも居たねえ。オペイクス様も気前がいいもんで、まだ呑んだ事が無いとぼやいた使用人に譲ってやっていたよ。

 また、どこかのわんぱく小僧が木の棒を持って、オペイクス様に向かって構えてみせたりした。本物の騎士と聞いて、ちびっ子たちは興味津々だったんだろう。大柄なオペイクス様は、その子たちを高い高いしてやっていたよ。それをイリーデちゃんが、うっとりと見つめて。私は内心、嫌な予感がしたんだ。

 そうかと思えば、私の袖を引く者もいたよ。村の同世代の娘たちさ。私が女中になって村を出て以来、前の里帰りでも話しかけて来なかったくせにね。どうやらイリーデの美貌にビビったらしい。案外、ヌビ家の令嬢じゃないか、とか私に聞いてきた。要するに村娘たちは、イリーデに話しかけるために、私に仲介させたいわけさ。で、三つ四つ質問したら、後はもう私を飛び越してイリーデに直接、話しかけていた。まあ、そうやって歳の近い同性と接すれば、イリーデも退屈しないだろう、と私も成り行きにまかせたよ。

 イリーデも、根はいい子でね。一応、貴族の一員なのに、それを自慢したりしないんだ。貴族と言っても下級で、紋章も蛇ではなく、細い十字架だ、と村の娘たちに答えていた」

 

イリデッセンシアの生家の紋章 細い十字架

 

「ふむ、謙虚ね。てっきり都会育ちで、こんな片田舎じゃ物足りないだろうって、聞きながら心配していたわ」

「まあ、内心はそうだったんだろうけど、メレディーン城で女中を務めただけあって、顔に出さなかった。まだ若かったのに、偉いよ」

「ふふ、オペイクスが居たから、だったりして」

 セピイおばさんもニヤリと笑った。

「そういうところばっかり気がつくなんて、あんたも年頃だね。

 それで思い出した。村娘たちが集まってきたんで、同年代の男連中も、そろそろと近づいて来たんだよ。兵士たちの目を気にしながらね。若い男どもがイリーデに話しかけたがっているのは、見え見えだった。それに気づいた私は思ったんだ。ここにベイジが居たら、イリーデに婚約者がいる事を言いふらして、男どもを追っ払うだろうな、と。

 んだもんで、私はイリーデに耳打ちしようとした。でも、ブラウネンと言いかけただけで、イリーデは私を睨んだよ」

 ぷくくっ、かわいそうなブラウネン。他人事と思って、私も笑ってしまう。

「後は、イリーデを村に案内したよ。と言っても、ほんの少しだが。こっちが、うちの畑。あっちは、お隣さんの。村共同の井戸は林の中にあって、水車は小川のそば、とかね。分かるだろ。大して見せるもんなんか無いのさ。

 私はイリーデを連れて、この家に戻ることにした。その方が村の連中を引き離せると思ってね。

 すると、家の前でオペイクス様が待っていた。で、頭をかきながら言うんだ。昨夜はあまり寝ていないから、どこか横になれる場所を提供してほしい、と。オペイクス様に同行した兵士二人も同様だった。

 それで父さんたちが、離れや納屋に急ごしらえの床を用意した。父さんたちはオペイクス様から感謝されていたよ。

 イリーデが心配そうに見ていたからか、オペイクス様は横になる前に、私とイリーデに事情を話してくれた。もちろん小声で。前の晩は私らと別れた後、ツッジャム城に忍び込んでロンギノ様に接触した、と。そして今夜も城下の店で会う予定だ、とね。イリーデはロンギノ様を知らなかったから、私の補足説明が必要になった。

 オペイクス様とロンギノ様は相当、話し込んだのかねえ。オペイクス様は、うちのすぐ隣りの離れで体を横たえるや、グウグウいびきをかいた。ちびっ子たちが覗きに来て、くすくす笑っていたよ」

「やっぱり地下道を使ったのかな?」

「そうらしい。もちろん、そこは察するだけで、私もオペイクス様も口にするわけにはいかないがね。

 後で兵士たちが言っていたが、地下道の中でよその密偵とかと鉢合わせにならないよう、随分と神経をすり減らしたそうだ」

「うーん。村では、のどかなのに、やっぱり任務となると、緊張するんだね」

 セピイおばさんが離れを四つも増やした気持ちが、改めて分かる。私もドキドキしてくる。「ま、そんな感じで、きな臭い事情もあるんだが、私ら一行が居たのは、この村だ。あの日は何事も無く済んだ。

 うちには御者さんとイリーデが泊まって、使用人二人は叔父さんの一人に引き受けてもらった。で、オペイクス様と兵士たちは、日が暮れてから起き出して、またツッジャムの城下町に向かったわけさ。

 これも後で聞いた話だが、使用人たちは叔父さん一家から、メレディーンについて質問責めにあったそうだよ。まあ、我が家でもイリーデと御者さんが、たくさん質問に答えていた。

 でね」

 セピイおばさんが不意に話を区切って、私の目を覗き込んだ。少し笑っている。

「この時の晩餐に、兄さんがお客を一人、加えたんだ。誰か分かるかい、プルーデンス」

 私はセピイおばさんの意図が読めずに答えに迷った。が、おばさんの笑みを見ているうちに、ひらめくものがあった。

「も、もしかして、お婆ちゃん?」

「そう。その時点から近い将来、あんたたちのお婆さんになる人さ。兄さんはお嫁さんを連れてきて、私に会わせてくれたんだよ。厳密には、まだ花嫁候補だったか。結婚式は私がメレディーン城に戻って三ヶ月後くらいだったかねえ。その時はさすがに、もう一度、里帰りというわけにもいかなかったよ。義姉さんの家族も、いつまでも待たせられないからね。

 プルーデンス。あんたもお爺さんを覚えているだろ。色男でもなけりゃ、明るくもない。はっきり言って、気難しい方だ。その兄さんがよその娘さんと並んだ姿なんて、私は生まれて初めて見たよ。

 兄さんたら、照れくさいのか、あさっての方向に顔が向いたり、チラチラとしか義姉さんと顔を合わせられなかったりしてね。ああ、神様に頼んで、あの時の兄さんをあんたたち孫一同に見せてやりたいよ」

 へえー。孫の一人として、私もニヤニヤしてしまう。

「セピイおばさんから見た、お婆ちゃんの第一印象って、どんなだった?」

「うーん。正直、義姉さんを初めて見た時は、だいぶ大人しい、気の弱そうな人と思ったよ。私はべつに、義姉さんを馬鹿にしたいわけじゃないよ。義姉さんが、気難しい兄さんをきつく感じたりするんじゃないかと、ちょっと心配になったんだ。

 だから私は兄さんに釘を刺しておいた。義姉さんに優しくしなさい、自分で思っている以上に優しくしなさいって。あんた、分かるかい。要するに私は、スネーシカ姉さんの真似をしたんだ。

 兄さんは『それくらい言われなくても分かっている』とか言い返してきたよ。それに続けて、義姉さんも言ってくれた。『その点は、私も安心しきっています』と。言った後で、少し赤らめた顔で兄さんを見つめて。兄さんはそれに気づいて、真っ赤になって、よそを向いた。

 母さんが涙ぐみながら『良い人が来てくれた』と義姉さんの手を握ったもんさ。父さんも義姉さんに言ったんだ。『神様とご両親に感謝する』とね。

 御者さんが両手を叩いて祝福してくれて、イリーデは、うっとりしていた。素敵だとか、理想の結婚だとか、二人を褒めてくれたよ。あら、あなたの婚約者の方がよっぽど素敵よ、とか、こちらからも言ってやろうかと思ったんだが。イリーデが機嫌を悪くしても面倒だから、そこは私も我慢した」

「ぷくくっ。おばさんの話を聞いていたら、若い頃のお爺さんたちだけじゃなくて、イリーデにも会いたくなってきたわ」

「そうだろ。とにかく、あれはいい夜だった。イリーデや御者さんが加わってくれたおかげでね。それと義姉さんも。あれで、うちの家族だけだったら、わたしゃ、どれだけ絞られていたことか。特に兄さんから。

 しかし、まあ、楽しい時間に限って、早く過ぎるもんだ。そのうち兄さんが、義姉さんを家に送ると言い出した。私は、イリーデと御者さんを母さんたちに任せて、兄さんたちを追いかけたよ。

 暗い夜道を歩く二人を、私は呼び止めた。そして義姉さんに改めて頼んだんだ。

『偏屈で、扱いづらい兄ですが、よろしくお願いします。うちの父と母も、よろしくお願いします。

 兄と暮らすようになったら、私の事に巻き込まれる形で、ときどき嫌な目に遭うかもしれません。ですが、どうか許してください。私を許さなくてもいいから、兄と父、母は許してやってください。やらかしたのは、私なんです。隙があった私が悪いんですから』

 その辺りまで言ったところで、義姉さんから止められた。『セピイさん』と呼びかけて、義姉さんが私の手を取ったんだ。

 義姉さんは・・・。何か悲しそうな顔をしたように見えたねえ。暗い中で、よく見えたとは言い難いが、一瞬そんな気がしたんだ。

『そんなことは気にしないで。そして、いつでも帰ってきて。みんなで、この村で、のんびり暮らしましょう。これは私一人の意見じゃないんですよ。私の父と母も同じ意見です』

 義姉さんがそこまで言ってくれた時、義姉さんの後ろで、兄さんと別の影が動いた。迎えに来た、義姉さんの親父さんだった。

『そうなんだ、セピイさん。わしらも、そう思うとるんだよ。

 正直、わしはセピイさんの悪い噂を真に受けたクチだから、言えた義理じゃない。だが、わしみたいな奴のことは気にせず、堂々と戻ってきておくれ。その方がセピイさんのためにも、ご家族のためにも、良い気がする。

 それに何たって、山の案山子村のセピイさんじゃないか。すぐに結婚の申し込みが殺到するよ』

 私は絶句してしまった。で、代わりに、兄さんが二人に礼を言ってくれたよ。

 兄さんは私に言った。『家はまだ、すぐそこだから、一人で帰れるな。俺は親父さんたちを送ってから戻る』と。兄さんが義姉さんの親父さんと歩き出すと、肝心の義姉さんだけ、さっと私に近寄って、耳打ちした。

『あなたのお兄さんは、あなたが思っている以上に、あなたのことを気にかけていますからね』

 前よりも強く私の手を握ってから、義姉さんは自分の父親と花婿のところに戻っていった。

 私は、しばらく、そのまま立ち尽くしたよ。三人が暗がりに溶け込んでいくのを、ただただ見ていた・・・

 これまで噂の件で、私に直に謝ってくれたのは、義姉さんの親父さんだけだったねえ」

 セピイおばさんは、そこで話を区切って、盃を持ち出した。そして葡萄酒。少しではなく、一杯分をしっかり注いで、おばさんは呑み干した。

 私は何も言えずに、それを見ている。若き日のセピイおばさんとお婆ちゃんが、そういう会話ができた事。もう一人のひいお爺ちゃんの誠意。それら自体は私も嬉しいし、神様に感謝してもいいと思う。

 でも何だろう。ちょっと泣きたい気分。

「少し、しんみりさせちまったね」

 セピイおばさんが話を再開した。

「でも安心おし。家に戻ったら、真逆の問題が待ち構えていたよ。

 何って、またしてもイリーデちゃんさ。寝室で二人きりになったら、大事な相談事がある、と真剣な顔を向けてきてね。それから、とんでもないことを言い出したよ。『オペイクス様に自分の初めてを捧げたい』と来た」

 私は椅子から転げ落ちそうになって、ガタつかせてしまった。直前のお爺ちゃん、お婆ちゃんたちと交わした言葉のやり取りと、落差があり過ぎるじゃないか。

 セピイおばさんは私の様子を見て、くくっと笑った。

「まあ、あんたが呆れるのも当然だ」

「もしかしてイリーデちゃんは、ヒーナの話を聞いて、自分もやってみようと思ったんじゃ」

「だろうよ。それで、私に見張りを頼もうってわけさ。そこまでヒーナ様を真似するつもりだったんだからねえ。もっとも前回は馬車で、この時はオペイクス様が泊まる離れが舞台になるんだが」

「ええ〜。おばさんは、それでイリーデに協力してあげたの?」

「するわけにはいかないと、まず思ったよ」

「そうよね。イリーデは婚約者がいるんだし、こんな片田舎で無茶なことをしたら、たちまち噂が広まっちゃうわ」

「だから私はイリーデをなだめすかして、その夜は寝かせたよ。オペイクス様たちが出かけていて良かったと思ったもんさ。

 私は困ったことになった、と横になりながら頭を抱えたよ。義姉さんたちがせっかく言ってくれた言葉が、消し飛ぶかと思った」

 私も何だか、頭を抱えたい気分になった。だから私も葡萄酒を呑むことにした。もちろん、少しなんかじゃ足りない。ちゃんと一杯分をもらった。

 そんな私の振る舞いに、セピイおばさんはニヤニヤしていた。

 

「次の日はね、午後から兄さんたちに、マルフトさんのお墓まで案内してもらったよ」

 セピイおばさんの言葉に、私は、あっと声を上げた。

「そうだった。あんたに、まだ教えていなかったね。まあ、今度ちゃんと教えるから、慌てないでおくれ。お墓は逃げないよ。

 私はお墓に手を合わせて、マルフトさんの人となりをイリーデたちに説明した。イリーデも御者さんも使用人たちも、みんな手を合わせてくれたよ。早朝の暗いうちに村に戻ってきて、午前中は寝ていた、オペイクス様と兵士たちもね。

 私はそれがありがたくて、泣けてきた。父さんたちも叔父さんたちも鼻をすすっていたっけねえ。

 そうそう、義姉さんも居たんだ。やっぱり兄さんの隣りで、手を合わせくれた」

「よかった。マルフトさんの親戚の代わりじゃないけど、これでマルフトさんも報われるわ」

「そうなんだよ。こうしてマルフトさんと知り合えたのも、神様に何かお考えがあってのことだろう。だったら、この縁を大事にするまでさ」

「でも、おばさん。マルフトさんのお墓参りができたんなら、ヒーナのお墓もお参りしたかったんじゃない?」

「鋭いね、プルーデンス。その通りだよ。だから、これもオペイクス様に相談した。

 するとオペイクス様は、またしても気前良く賛成してくれてね。メレディーンから来た自分たちだけでもヒーナ様のお墓にお参りしよう、と。イリーデや御者さん、兵士たちと使用人たちにも声をかけてくれた。

 ただし。ただし、とオペイクス様は付け加えたね。長居はできない。しかも、ごく少人数でお参りしなければならない。直にお参りするのは私とイリーデ、兵士たちの四人だけにする、と言うんだよ。

 あんた、こっちの方は分かるかい?」

 セピイおばさんに問われて、私はうなずいた。

「ビッサビア、モラハルト、パウアハルトに秘密だから」

「正解。どこで手の者が見ているか分からないからね。それでオペイクス様は、自分自身も外したのさ。考えてみりゃ、大柄なオペイクス様じゃ目立つよ。

 みんなで、この家の前まで戻ったら、御者さんたちが馬車に馬たちを繋いだ。荷車二つは、すでに村人に譲っていてね。使用人二人も残った馬に乗って、同行することになった。

 水を少し飲んだりしてから、私らは出発したよ。ほら、城下町から、ほんのちょっと離れたところに小さな丘があるだろ。あそこの墓地に歴代のツッジャム城城主とその家族が葬られているんだ。オペイクス様は、ご党首様から事前に教えられていたようだ。墓地の場所も、そして、その中にあるヒーナ様のお墓の位置も。

 私とイリーデが馬車の窓を開けていると、ツッジャムの城下町が見えてくるのに、大して時間がかからなかった。墓地のある丘も、すぐに分かった。

 先頭の兵士たちは、墓地の入り口から距離を取って、止まったよ。元々オペイクス様から、そう指示されていたらしい。

 私とイリーデが馬車から降りると、付き添いとして、兵士二人が私らの両側に並んだ。それぞれ馬を引きながらね。二人とも、剣の類を外套の中にしっかり隠していたよ」

「それもオペイクスの指示?」

「そういうこと。オペイクス様は私とイリーデにも、外套の頭巾を目深に被るように言いつけた。

 で、ご自身は馬車の陰に隠れるようにしながら、御者さんたちと一緒に、こちらを見守っていた」

「随分と念入りね」

「オペイクス様の予想では、墓守くらいはすれ違うだろう、と。ずっと真面目に墓地についているわけじゃないだろうが、ちょっとした見回りなら充分あり得る、と私も推測したよ。

 それに賊が現れたとしても、兵士たちが居るし、しかも武器と馬も揃っている。もちろんオペイクス様も駆けつけてくれるだろうさ」

「な、なるほど」

 と私は唸った。用意周到とは、こういうことか、と改めて理解した。

「私とイリーデは兵士二人に守られながら、墓地の入り口を通った。

 墓守らしき姿は、たしかに在ったよ。ただ遠くに居ただけで、私らに気づいても特に変化は無かった。駆け寄ってきて、こちらを確認したりは、一切ない。墓守らしき初老の男は、そのまま、どこかに歩き去った。近郊の住人とか思われたのかもしれないね。

 私らはオペイクス様から事前に教わった通りに、ヒーナ様のお墓を探した。墓地の真ん中の小道を進んで何列目で、左に幾つ目のお墓って数え方だよ。

 こうして私らは、ヒーナ様のお墓にたどり着いた。私は一度、振り返ってオペイクス様たちの方を見たよ。手を振ったりしたら、オペイクス様たちが隠れているのがバレるから、目で合図を送るだけ。それでもオペイクス様は充分気づいてくれて、こちらに向かって手を合わせていた。

 私は改めてヒーナ様のお墓を見た。そして墓石に彫られていた、ヒーナ様の名前を読み取った。それで、やっぱりヒーナ様は亡くなったんだ、と思い知らされたよ。

 私は、いろんなことを思い出して考えた。ヒーナ様との付き合いは短くとも、濃密だった。ベイジを含めて三人揃って、ソレイトナックを追いかけて。それがために仲違いまでして。やがてマムーシュに嫁がなければならなかったヒーナ様は、辛い最期を迎えた。

 私は記憶をたどっているうちに思い出したと言うか、気がついたよ。ヒーナ様が私に向けた最後の言葉は、私をなじるものだった、とね。

『私もツッジャムに帰って、あの人に会いたい。何でセピイには、それが許されて、私には許されないの。

 卑怯よっ。セピイ、降りなさい。馬車から降りて、ここに残りなさい』

 このヒーナ様の叫びはね、すぐに耳の奥に蘇るんだ。このお墓参りの時だけじゃない。今でも。いつでも。

 そして私は認めたんだ。ヒーナ様を助けられなかった事。そのくせ、ちゃっかりソレイトナックと結ばれていた事」

「おばさん」私は強めに呼んで、話を遮った。「おばさん、やめようよ、そういう言い方」

 セピイおばさんは、私の声で我に返ったらしく、ノロノロと頬を拭いた。やっぱり。おばさんは泣いている自分に気づいてなかったんだ。

「悪いのはマムーシュでしょ。おばさんじゃないわ」

 セピイおばさんは、しかし、答えずに、やはり鈍い動作で首を横に振った。

 そして話を続けた。

「そうやって物思いにふけって、時間がかかったんだろうね。イリーデから呼びかけられている事に、私はすぐに気づかなかった。私がハッとすると、兵士二人も私の顔を覗き込んでいたよ。

『セピイ。そろそろ戻らねえと。オペイクス様から言われただろ』

 とか片方の兵士から言われて、私は立ち上がった。いつの間にか私は、膝をついて泣いていたんだ。

 イリーデも兵士たちも、もうお参りが済んでいた。ご党首様やオペイクス様から頼まれていた通りに、祈りを捧げた、と。

 私も踏ん切りがつくと言うか。心の中で(また、いつか、ここに来させて)とヒーナ様にお願いしてから、お墓から離れた。

 兵士たちは騎乗して、それぞれ私とイリーデを後ろに乗せて、帰りを急いだ。

 馬車のそばで合流すると、オペイクス様からお礼を言われたよ。『四人とも、ありがとう。私はヒーナ様に直接お会いした事は無いが、ご党首様と奥方様は姪にあたるヒーナ様をとても案じておられた。お墓を参る事ができたと報告すれば、お二人も満足してくださるだろう』と。

 それから私らは揃って、また、この村に戻った」

 私は、うーん、と唸った。

「お参りできて、ひとまず安心って言いたかったけど。ついつい二つのお墓参りを比較しちゃうなあ。身寄りの無いマルフトさんが大勢にお参りしてもらえたのに、ツッジャム城のお姫様だったヒーナが堂々とお参りしてもらえないなんて。おかしいし、理不尽よ。

 まあ、どれもこれも、人でなしの夫と身勝手な父親のせいだけど」

 私のぼやきに、セピイおばさんも同意のため息をついた。

「それでも一応、モラハルトもヒーナ様の親だったよ。後で聞いた話では、ビッサビア様と息子のパウアハルトと揃って、何回かお墓参りをしていたらしい」

 と、セピイおばさんは付け加えたけど。それって実の家族なんだから当たり前じゃない、と内心思いつつ、言わなかった。おばさんにぶつける言葉でもないだろうから。

 

 セピイおばさんは話を続けた。

「さて、村に戻ってから一悶着じゃないが、あんたにも聞いてもらいたい出来事があってね。

 私らは、ぶらぶらしていた。私がちょっと畑仕事を手伝ったら、イリーデや使用人たちも付き合ってくれて。兵士たちは、そんなイリーデに男どもが近づかないよう、付かず離れずで目を光らせていた。御者さんは馬たちの世話をしながら、同じように牛や馬を連れた村人たちとおしゃべりしていた。

 オペイクス様は木陰で横になっていたよ。前の晩は城下町の店で、密かにロンギノ様と会合していたんだ。それこそが、この里帰りの一番の目的だったわけだが。その分、気疲れしたんだろうね。すぐに、いびきが聞こえてきたよ。直前に『とにかくロンギノ様は分かってくださった』とか小さくつぶやいていたのを、私は聞き逃さなかったよ。

 で、私らの畑仕事の手伝いは、ほんのちょっとで済んだ。お墓参りの後だから、日が傾き出すのに、大して時間がかからなかったのさ。

 私らも畑のそばで、しばらく、おしゃべりした。うちの家族や村人たちを交えて。それに何だかんだ言って、結局、兵士たちも使用人たちもイリーデと言葉を交わしたがってね。村の若い男女も少なくなかったから、話題があちこちに飛んだ。

 で、肝心のイリーデは、木の根元で寝ているオペイクス様を何度も気にするんだよ。それに何人かが気づいて、いつしか話題はオペイクス様に移った。

 そのうち村の若い男が『あの騎士さんは本当に強いのか』なんて言ったもんで、兵士の一人に胸ぐらを掴まれた。

 意外なことにイリーデが、その兵士を止めるじゃないか。私が不思議に思っていたら、イリーデはその村男の頬を思い切り、平手打ちにしたよ」

 ぶふっ。私は吹き出した。「何、イリーデちゃんったら結局、それ?」

「そう。べつに男を助けたんじゃない。他人にさせるのが嫌で、自分で直に一発お見舞いしたかっただけなんだ」とセピイおばさんも笑っている。

「それからイリーデは、結構な演説をぶった。オペイクス様の武勇伝をみんなに聞かせて、オペイクス様の名誉を回復しようってわけさ。それには、行きがけの賊退治がちょうどいいネタだろ。イリーデが話せば、兵士たちや使用人たちも合いの手と言うか、補足説明を加えてね。

 兵士たちが調子づいたのか、その延長で、賊ども全員の脚を折った話になった。途端に、村人側はざわついたよ。『あんな、おっとりしているのに、そんな残酷な事もするのか』なんて驚きの声が上がった。

 で、すかさずイリーデが反論だ。『何が残酷なもんですかっ。あんな悪魔たちには当然の報いよ。オペイクス様は間違ってないわ』とか何とか。

 そうやって少し騒ぎ過ぎたのか、とうとうオペイクス様は目を覚ましたよ。で、のろのろと、こちらに歩いて来た。

 イリーデは、オペイクス様を起こしてしまった事を詫びながら、事情を説明しようとした。兵士の一人も、ついさっき胸ぐらを掴んだ村人に向かって、オペイクス様に謝罪するよう言いつけたりして。

 村人側は、オペイクス様が怒り出すと思い込んで、すっかり沈黙だよ。うちの父さんもオペイクス様の前に飛び出そうと構えていた。その気配が、私にも分かった。

 でもオペイクス様は、ぼんやりとした表情で私らも村人たちも見回してね。イリーデや兵士たちをなだめた。

『べつに私のことは気にしないでいい。

 それより、我々が行きがけに遭遇した賊の話をしていたのか?』

 私は正直に、話したと告白し、話さない方がよかったでしょうか、と問い返した。

 すると、オペイクス様の答えは、こうだ。

『いや、話していい。それに関連して、皆に聞いてもらいたいと思っていた事があるんだ。できるだけ多くの人に知ってもらいたい。

 ただし、楽しい話じゃない。それこそ残酷で、とても辛い話だから、どうか心して聞いてほしい』

 オペイクス様はみんなに、そう呼びかけた。オペイクス様の顔がその言葉通りに、辛そうに見えた」

 そう話すセピイおばさんの表情も陰った。今ここが、もともと薄暗い部屋だから、というわけではない。これは。私は嫌な予感がした。

「『言い訳じみた話になるかもしれないが』とオペイクス様は前置きして話し出したよ。

 十年近く前。その頃のオペイクス様は、まだ二十代半ばだ。オペイクス様は、もっと人数の多い山賊を討伐する戦いに加勢した事があった、と。私らが遭遇した賊どもの倍以上だったとか。

 で、この山賊どもが、とんでもなく、むごたらしい事をやらかしたんだ。若い娘を捕まえて輪姦する際に、娘に逃げられないよう、脚のすねを折ったんだよ。ひど過ぎるだろ。イリーデの言葉を借りて言えば、なるほど悪魔だ。もう人間じゃない。

 そんな経験があるオペイクス様が、ツッジャムに来る途中で賊どもを捕まえたわけだ。それで、しかも頭目のあのせりふだろ。オペイクス様は『山賊どもの事件を思い出して、カッとなってしまった』と言っていたよ」

「で、同じ目に遭わせてやったってわけね。当然よ。昨日、話を聞いた時は、ちょっとやり過ぎかもって思ったけど、それなら納得だわ。

 ひいお爺ちゃんたちや村の連中だって、理解したはずよ」

「ああ。ほとんどの顔が、なるほど、とうなずいていた。

 それでオペイクス様は付け加えた。『だから、みんなも賊には気をつけてくれ。それを伝えたくて、この嫌な話をしたんだ。どうか頼むから、忘れないで。そして今ここに居合わせない者にも、みんなから教えてやってほしい』

 そこまで言って、オペイクス様は頭を下げるんだよ。村人たちは慌てて、おっしゃる通りにします、とか口々に返事した。中には、涙ぐむ村娘も居たっけねえ」

 セピイおばさんの話を聞いているうちに、私は、ほおっと感嘆のため息が出た。

「いい人だね、オペイクスって。何だかマルフトさんが生まれ変わって、騎士になって現れたみたい」

「あんたも上手いこと言うね。ただ、生まれ変わりは、付けない方がいいかもね。特に教会の前では。

 ま、それはともかく。そんな人の良いオペイクス様に、あんたたちのお爺さんは絡むんだから、驚きだよ」

「えっ、セピイおばさん、何言ってんの。それって本当なの?」

「本当だよ。あの時、あんたたちのお爺さんは騎士様に絡んだんだ。それも、肩書きだけの威張りんぼで乱暴な騎士じゃない。よりによってオペイクス様みたいな、本当の意味での騎士様にね。

 今のあんたと同様、うちの父さんや叔父さんたちも、村の連中も、みんなオペイクス様に感心して静かになっていた。そんな中、兄さんだけがオペイクス様に近づいてきたんだよ。私は兄さんの顔を見て、嫌な予感がしたし、父さんたちも、そっと兄さんの背後に回っていた。

 兄さんは、こんなことを言い出した。

『騎士様よ。賊についての教訓は、ありがたく戴いておこう。

 ただし、もう一つ戴きたいものがある。賊を退治する仕方の説明だ。そこの兵隊さんやお姫様の話だと、あんたは、うちのセピイを含めて仲間全員を囮にしたように聞こえたんだが、俺の勘違いか』

 途端に、父さんや叔父さんたちが兄さんに飛びかかった。でも、その父さんたちを、オペイクス様は止めたよ。しかも、ほぼ同時に兵士たちに向かって手をかざして。兵士二人はその場で動けなくなった。私も思わず、立ち上がったものの、なぜか脚が進まない。

『いや、勘違いじゃない。君の言う通り、私は君の妹さんも仲間たちも囮にした。はっきり意図して、危険に晒したのだ。許されない行ないだと自覚している。

 ただ、さらに言えば』

 オペイクス様は一度、話し続けるのをためらった。

『この戦い方は、実は、よくやる手なんだ。君やご家族には悪いが、セピイには、また囮になってもらうかもしれない。それは充分あり得る』

 オペイクス様の告白に村の連中は、ざわめいたよ。叔父さんたちも唖然としていた。『い、居直るのかよ』とか、兄さんが唸るのも聞こえた。

 そしたら兵士の一人、村男の胸ぐらを掴んだ方の兵士が手を挙げた。『オペイクス様っ、お願いです。俺にも発言させてください。俺からも、ここの全員に言いたいことがあります』とか言ってね。

 オペイクス様は『発言を許すが、ここの人たちにきつい言い方をしないように』と条件をつけた。

 で、兵士は言ったよ。

『セピイのお兄さんよ。お怒りは、ごもっともだ。だから、俺らを許してくれなくたって構わねえぜ。

 ただ俺ら本職から言わせると、あの手の奴らを引っ捕まえるには、囮が一番、手っ取り早いんだよ。

 それに、お前らは知らねえかもしれんが、ここに居られるオペイクス様は、ただの騎士じゃねえんだ。ヨランドラどころか、タリンで一番のお人好しと言ってもいい騎士様なんだよ。そのオペイクス様が、仲間を見捨てるわけねえだろうが。

 そもそもオペイクス様自身が囮役を何回もこなしてんだ。

 十年前も、そうでしょう、オペイクス様』

 兵士が問いかけると、オペイクス様は『実は』と返事しながら頭をかいた。

 兵士はオペイクス様に向かって話し続けた。

『お人好し呼ばわりして、すみません。でも、馬鹿にしたいわけじゃないんです。お人好し呼ばわりされるくらいだからこそ、あんたはご党首様の信頼を勝ち得た。俺はあんたについて行くことで、あんたみたいに強くなって、のしあがりてえんだ。そのためなら囮役でも何でも、喜んで買って出ますぜ』

 この言葉に、村人たちは、しんと静まった。オペイクス様は『うーん、買いかぶりだと思うが』とか、つぶやいたっけ。

 でも兄さんが、また余計なことを言うんだ。

『兵隊さんよ。あんたの意気込みがご立派なことは、俺も認めよう。だが、それに俺の妹が巻き込まれる筋合いが、どこにあるっ』

 これには兵士が目を吊り上げて、兄さんに詰め寄ろうとしたんで、オペイクス様がきつく叱りつけて止めた。

 兄さんも父さんや叔父さんたちに捕まって、後ろに引きずられていた。それでも何か喚いていたから、私も叫んだよ『兄さんも、もうやめて』と。

 その時、気づいた。義姉さんが叔父さんたちのすぐ後ろで、オロオロしながら泣いていたんだ。

 オペイクス様も義姉さんに気づいたのか、父さんや叔父さんたちに呼びかけた。

『お待ちください。どうか彼を解放してください。悪いのは、彼の言う通り、私です。彼が悪いのではない』

 それで父さんも叔父さんたちも、兄さんを捕まえていた腕を緩めた。

 解放された兄さんは立ち尽くしながらも、まだオペイクス様を睨んでいた。そんな兄さんの腕を、叔父さんたちに代わって、義姉さんが掴んだよ。静かに泣きながら。心配をかけた義姉さんには悪いが、これで兄さんの動きを封じることができる、と私は思った。いくら兄さんでも、義姉さんの手を無理に振り解いてまで、オペイクス様に食ってかかったりはできないからね」

 ひーっ。私は心配のあまり、声を漏らしてしまった。

「大丈夫。あんたたちのお爺さんは、お婆さんを泣かしたりはしないよ。

 動けない兄さんに向かって、オペイクス様は言った。『済まないが、妹さんを、セピイをもうしばらく貸してほしい。ヌビ家には、セピイの力が必要なんだ』

 これを聞いて、私はオペイクス様に礼を言った。ありがたいお言葉だと。そして『これからもよろしくお願いします』と私からも頼んだ。

 兄さんは黙って、それを聞いていた。すると父さんが兄さんの後ろで、サッと動いた。何かと思えば、義姉さんの親父さんを義姉さんのそばまで引っぱって来たんだよ。で、父さんは小声で、親父さんや義姉さんに何か頼んでいた。私は予想がついた。兄さんをその夜だけ、義姉さんの家に泊めてもらいたかったんだ。

 了承してくれたらしく、義姉さんの親父さんがうなずくのが見えた。

 そこまで段取りしてから、父さんはオペイクス様に言った。

『騎士様、うちのせがれが大変失礼しました。どうか、お許しください。

 ついでではないですが、おしゃべりもそろそろお開きにしましょう。ご覧の通り、だいぶ日が傾いてきました』

 オペイクス様は父さんに『気にしないように』と言ってくれたよ。

 父さんは今度は、みんなに呼びかけた。

『みんなも帰って、夕食の支度をするといい。使用人さんたちや兵隊さんたちを受け持つ家も、よろしく頼むぞ』

 これで、ようやく村人たちは解散して、ぞろぞろと帰り出した。使用人たちも兵士たちも、受け持ちの村人に連れられて行った。御者さんも前の晩とは違って、お隣さんに泊めてもらうことになっていた。我が家の離れを空けて、今度はオペイクス様を泊めるためさ」

「それで、お爺ちゃんをお婆ちゃんの家族に預けたのね」と私。

「そういうこと。夕食とかで、また兄さんがオペイクス様に絡み出したら、困るだろ」

「うーん、たしかに話を聞いていると、お爺ちゃんはそこまでやりかねない気がする。でもお爺ちゃんが、それだけセピイおばさんのことを心配していたって事でしょ」

「そうだね」

 セピイおばさんは、それだけ言って、すぐには言葉を続けなかった。私からも目をそらしている。

「兄さんに、あんな一面があるなんて、私も知らなかったよ。そりゃあ小さい頃から多少の兄弟げんかもしたが、大体そっけない、情の薄い人だと思っていた。そんな兄さんが騎士様に食ってかかったりするなんて。

 まあ、相手がオペイクス様だったから良かったが」

 セピイおばさんは葡萄酒をあおった。

 

「長い一日だったね」

 私は思わず言ってしまった。お墓参りが二件。しかもヒーナの分は、かなり特殊なお参りの仕方になった。そして村に戻ってからの一悶着。と言うか、結構な大騒動だ。その主要人物が私のお爺ちゃんだなんて、びっくり。

 だから私は話が翌日の事に移ると思い込んでいたのだが。セピイおばさんは、首を横に振った。

「まだだよ。夕食も済んで、もうお休みしようって時に、また、なかなかの騒ぎが起こったんだ」

 セピイおばさんは、そこまで言っておきながら、私の顔をちらちら見る。ちょっと話すのにためらいがあって、私の反応から判断したいらしい。

 そんなおばさんの様子に、私もピンと来た。

「も、もしかして、イリーデちゃん?」

「そ。前の晩と違って、今度はオペイクス様もお泊まりだろ。だから、離れが舞台になるって言ったのさ」

 ひえーっ。私は、また小さく叫んだ。

「まさか、おばさん、手伝ったの?」

「手伝うわけないじゃないか。ブラウネンはマムーシュとは違うんだし、オペイクス様も、その気があるとは思えなかった。イリーデを止める意味で、ついて行ったんだよ。

  イリーデときたら、私の寝室に入っても、寝床に腰掛けたまま、しばらく黙り込んでね。と思ったら、私が聞いてもないのに、ぶつぶつ言い出すんだ。

『私、ヒーナ様にお祈りしたんです。力を貸してください。応援してくださいって』

 私は意味が分かっているから、頭がクラクラしたよ。

 でも、そんな暇は無い。イリーデは私に見張りを頼もうとする。私は断って、オペイクス様に迫ること自体をやめなさい、と忠告した。

 そしたら、あの子は、私を睨みながら反論してきた。部屋が薄暗くても、目に涙がたまっているのが分かったよ。

『嫌です。私は、自分をオペイクス様に捧げます。私だって、ヒーナ様やベイジさんやセピイさんみたいに、自分の初めてを納得のいく相手に捧げたいんですっ』

 言い切るや否や、寝室を飛び出して、うちの離れに向かうじゃないか。もちろん、私も慌てて追いかけたよ」

 ひーっ。

「離れに着くまでの短い道で何とか捕まえたんだが、あの子ったら、暴れてねえ。ご近所に気づかれないように、静かにしなさい、と何回注意しても、大人しくならない。

 早くイリーデを落ち着かせようと焦っていたら、離れの扉が開いて、明かりが広がった。オペイクス様の影も伸びた。

 当然オペイクス様は、どうしたのか、と聞いてきたよ。しかしイリーデは、それに答えもせずに、私の手を振り解いてオペイクス様に抱きついた。

『二人っきりでお話したいんです。

 セピイさんは邪魔しないでっ』

 なんて、オペイクス様のみぞおち辺りに顔を埋めながら、叫んでねえ。

 でもオペイクス様は言った。

『いや、二人きりは、いかん。君は嫁入り前だ。

 とにかく、二人とも入りなさい。騒いだら、近所の人に見られる。セピイも同席して、私とイリーデが二人きりじゃなかったという証人になってくれ』

 私が、この言葉を聞いて、どれだけホッとしたことか」

 おお、と私も感心しかけた。が、すぐに思い直した。美少女のイリーデちゃんから迫られたら、いくらタリン一のお人好しのオペイクスでもスケベ心を出すかも。用心は女のたしなみである、と母さんから私も教わっているのだ。

「オペイクス様は自分だけ突っ立って、私とイリーデを寝床に腰掛けさせた。今と違って、あの時は離れに椅子とか置いてなかったんだよ。

 オペイクス様がイリーデに話すよう促すと、イリーデは口元を震わせて、何とも恨めしげに私を睨む。それに気づいて、オペイクス様は言った。

『イリーデ。同僚のセピイにも聞かせられないような話なら、やめなさい。そして、もう休みなさい』

 すると、イリーデは涙をポロポロこぼしながら叫ぶように言ったよ。『オペイクス様を好きになったから、自分の初めてを捧げたい』とね。

 あの時のオペイクス様の顔は、まあ、見ものだったよ。もともと細いはずの目をまん丸く見開いて、口をぱくぱくさせていた。

『ま、待て。今、何と言ったんだ。君は本気で言っているのか』

 なんて聞き直したが、イリーデは泣きながら同じ主張を繰り返すだけだ。

 オペイクス様は続けて、ブラウネンのことを聞いた。ブラウネンと喧嘩でもしたのか、と。

 イリーデは『していない』と答えた。『でも婚約は解消する』と言い出したよ。

 それでオペイクス様は、さらに尋ねた。

『なぜ婚約を解消するのか。ブラウネンはいい奴だし、私の知る限り、君の花婿に一番ふさわしいのは、彼だぞ』

 これに対して、イリーデは首をぶんぶん横に振って、答えた。

『私はオペイクス様のお嫁さんになりたいんですっ』

 オペイクス様は、また口をぱくぱくさせた。

『正気か。私は君のご両親をお見かけした事があるが、私と君のご両親の歳は大して変わらない。私が少し年下というだけだ』

 そしたらイリーデは『歳なんか関係ない』と叫んだよ。しかしオペイクス様は、ゆっくり首を横に振ったね。

『いいや、ある。年齢は結婚に、大いに関係する。歳が離れ過ぎていたら、当然、年寄りの方が先に死んで、その分、残された連れ合いが一人で生きる時間が長くなる。

 仮に私が君の夫になったとしても、君のご両親が亡くなる前後に、私も死ぬだろう。むしろ騎士として、もっと早く死んでも、おかしくない。私より、ブラウネンなら間違いなく、君を長く守れる。

 それに、私では世代が違い過ぎて、君の気持ちを汲んでやれないだろう。同じ世代のブラウネンの方が断然、君に寄り添えるよ』

 するとイリーデは、また叫んだ。『ブラウネンは経験を積んでいないから、頼りになりません』

 で、オペイクス様は、こう返した。『それは君も同じだ。お互い許し合いながら、二人で経験を重ねていきなさい。夫婦とは、そういうものだよ』

 という感じで、要するに平行線だったわけさ」

「うーん。オペイクスに良識があって、ホッとしたような。イリーデちゃんに聞き分けが無いような」

「そうだね。聞き分けが有ったとは、とてもじゃないが、言えないね。どうしてもオペイクス様が受け入れてくれないと悟ったのか、イリーデは、わあわあ泣きじゃくった。

 おかげで、オペイクス様も私も大弱りだよ。絶対、近所に聞こえていると思ったね。こちらはイリーデを早くなだめようと焦るんだが、イリーデと来たら、私やオペイクス様を叩いてまで抵抗した」

「セピイおばさん」私は、あえて話に割り込んだ。

「ん、何だい」

「これは、ちょっと意地悪な推測かもしれないんだけど。イリーデは美少女の自分がふられるわけない、とか思っていたんじゃない?」

 セピイおばさんは数秒、動かずに私をひたと見る。

「ああ、そこが気になったか。まあ正直、私もそれは思ったよ。でも、そんなこと言っている場合じゃないだろ。

 オペイクス様はイリーデが振り上げた片手を捉えて、静かに話し出した。

『分かった、イリーデ。君の好意は、すごくありがたい。しかしと言うか、だからこそ私は君の好意を、安易に受け取るわけにはいかない。

 私が君の好意に感謝するなら、どうすれば一番、君のためになるのかを考えるべきだ。すると、気をつけて君に接しなければならない、という結論になる。本当に君に感謝するなら、私が君の貞操に触れるなんてことは、もっての外だ。それは、私という男が、君の好意につけ込んでいるだけなのだから。

 そして、そういうずるい男が世の中に多い事を、君も頭に入れて、気をつけなければならない』

 その辺りまで聞くと、イリーデも少し落ち着いたのか、オペイクス様の話に聞き入った。まあ、まだメソメソしていたが。

『そして君が気をつけるべきことが、もう一つある。君は自分を捧げると言ったが、君自身はその言葉の意味を、まだ分かっていない。少しきつい言い方になるが、私には君が理解して発言したとは思えない』

 これに、またイリーデが反発した。

『そんなこと、ありません。私だって、男女の契りくらい知っています。子供扱いしないで』

 で、オペイクス様は、すかさず問い返した。『それは、経験した、という意味なのか』

 イリーデは、ぐっと詰まって、涙をポロポロ流した。『だからオペイクス様と経験したいって言ってるのにぃ』とかブツブツこぼしたりしてね」

 うーむ、と私は唸った。受け入れてもらえないイリーデの気持ちを考えると、さすがに同情してしまう。

「オペイクス様はイリーデの顔を覗き込んで、話を続けた。

『イリーデ。私は君を馬鹿にしたり、子供扱いしたり、したいわけじゃない。むしろ、まだ経験していない君に安心したし、改めて君を美しいと思った。それでいい。君は、そのままでいいんだ。

 これは時期の問題なんかじゃないぞ。君とブラウネンには時間がたっぷりあるんだ。どういう契りの仕方がいいか、二人で、ゆっくり話し合いなさい。

 ブラウネンは必ずや、君との話し合いに応じるだろう。ブラウネンは、そういう奴だ。これは君たち女が男を選ぶ時に、一番と言っていいほど大事なことだよ。

 君を怖がらせたくないが、世の男たちのほとんどは、美しい君を脅しつけて服従させようと近づいてくる。あるいは、話し合いに応じているような顔をして、君を騙すか。そんな接し方が関の山だ。これがどういうことか、分かるだろ。男たちは君の外見を褒めそやしても、君の内面、君の気持ちに配慮しない、ということなんだ。

 だから君たち女は、よくよく男を見極めなければならない。そりゃあ、男の私が言えた義理じゃないよ。でもイリーデ、君には、よく考えて行動してほしい。

 君は幸い、環境に恵まれているんだ。ここにいるセピイや、城に戻ればシルヴィアさんたちに教わることができる。ましてや婚約者のブラウネンは、君を思いやれる。自分を優先したりしないで、君を待つことができる』

 と、ここでイリーデが口をはさんだ。『彼は、私に嫌われないように必死になっているだけです』

 すると、だよ。今でも、はっきり覚えているが、オペイクス様は、ふっと笑った。『それは悪いことかい?』

 イリーデは、また言葉に詰まっていた」

 う。聞いている私も、唸ることもできず、詰まってしまった。

 セピイおばさんも、少し笑ったような。

「オペイクス様は続けて、とても優しい口調で言った。

『君に嫌われるのが怖い。つまり、それぐらいブラウネンは、君が好きってことじゃないか。

 君に嫌われまいとするブラウネンの振る舞いが、君には、媚びへつらいのように見えて苛立ちを感じるのかもしれない。

 たしかに、そういう負の部分もあるだろう。だが今は、ちょっと許すと言うか、様子を見てやってくれないか。

 なるほど、男は女を抱きたいという魂胆をひた隠しにして、女にへつらう。ブラウネンにも、そんな気持ちが全く無い、とは言い切れないだろう。でも、そんな気持ちばかりと決めつけるのも、それはそれで言い過ぎなんじゃないかな。

 私の見たところ、ブラウネンは君に嫌われることを恐れながら、君の気持ちを考えている。そうやって君に配慮する、君を思いやるクセが付きつつある。

 これが、どういうことか分かるかい。ブラウネンは君から学びつつあるんだ。思いやりだとか、相手の気持ちを察することを』

 オペイクス様はそこで話を区切って、イリーデをしばらく見つめたよ」

 そういうセピイおばさんも今、私を見つめている。そうか、と私は悟った。おばさんは、この人を私に教えたかったんだ。このオペイクスという男を。そしてオペイクスの言葉を。

「イリーデは、オペイクス様に見つめられたまま、しばらく何も言えないでいた。何と返したらいいか、考えつかなかったんだろう。だからオペイクス様は、もう一度、言った。

『もう少し、ブラウネンを様子見してごらん。今まで気づかなかった彼の一面が見えてくるはずだ。婚約を解消するのは、それからでも遅くない』

 イリーデは、これにも答えられなかった。

 かと思ったら、数秒して、こんなことを言ったよ。『で、でも、お話を聞いて、オペイクス様をますます好きになりました』ってね」

 私は、椅子から滑り落ちそうになった。それで、また椅子がガタついた。

 セピイおばさんは、そんな私に少しニヤリとしながら言った。

「オペイクス様も、今のあんたみたいな顔をしていたよ。ちょっと頭をかいて、どう返すべきか考えていた。

『ありがとう、イリーデ。君ほどの美しい娘から、そんなふうに言ってもらえるなんて、光栄だ。神様と君のご両親に感謝しよう。

 しかし戴くのは、その気持ちだけだ。君の体に、私が触れるわけにはいかない。それこそ罰当たりだ。

 話がブラウネンのことにずれていったが、やはり君は、自分を捧げると言った意味を理解しているとは、私には思えないな。

 それを今から教えよう。よく見ていなさい』

 そう言っておきながら、オペイクス様は私をチラッと見た。何ともバツが悪いって顔でね。私はオペイクス様が何をためらっているのか分からなかった。でも、そのためらいも、ほんの一、二秒だよ。オペイクス様は、すぐに行動に移った。何をするかって、服を脱ぎ出したんだよ。

 イリーデはハッとして、自分も服を脱ごうとした。でもオペイクス様はすぐに止めた『だめだ。見るだけだ』と。そして私にも、イリーデを止めるように、頼んだ。

 なんて、ちょっと揉めている間に、オペイクス様は、とうとう裸になってしまったよ。イリーデは顔を真っ赤にしながらも『セピイさんは見ちゃだめっ』と来た。

 オペイクス様も言った。

『巻き込んでおいて悪いが、たしかにセピイに見られるのは恥ずかしいな。

 もっともイリーデにも見せるつもりはなかったんだが』

 それからオペイクス様は、ため息をついた。バツの悪そうな顔のまま、自分の股間を見下ろしているんだよ。『どう考えても、見てくれのいいもんじゃないよなあ』なんて、ぼやきながら」

「な、なんか、へんなことになったね」などと私まで、相づちに困ってしまう。

「そうなんだよ。私は、自分が男の裸を見るのがソレイトナック以来だと気づいて、なお恥ずかしくなった。

 とは言え、私もオペイクス様も恥ずかしがっている場合じゃなかった。イリーデを説得しないと。

『イリーデ、分かるかい?私と君が契るということは、君も裸にして、この裸の私が君にのしかかるということなんだよ。そして君の脚を開かせて、私のこの醜い陰茎を君の中にねじ込むんだ。

 イリーデ、これを見て、よく考えなさい』

 イリーデは、やっぱり何も答えられなかったよ。顔は真っ赤。目は、やり場に困って、散々泳ぎまくっている。オペイクス様のおちんちんをチラチラとしか見られない」

 あー、セピイおばさんが、ついに言っちゃった、と私は思った。

「そして、ついにイリーデは両の手で顔を覆いかけた。すかさずオペイクス様は言ったよ。

『だめだ、ちゃんと見なさい。これは君が言い出したことだ。

 まあ、見るに耐えないものだとは、自分でも思うが』

 私は、このオペイクス様の一言を笑うべきか分からなかったよ」

「おばさん、ちょっと、ずるい」私は吹き出しながら抗議した。

 セピイおばさんはニヤリとしている。

「ま、冗談は、ともかくとして。

 言い返せないイリーデは、膝のところで服の裾を握りしめて、また泣きそうになっていたよ。

 オペイクス様は、ちょっと頭をかいて、話を続けた。

『本当は、こいつがおっ立っているところも見せるべきか、とも思ったが。さすがに、この状況では無理だな。

 二人どちらかの太ももか、胸の谷間でも少し覗かせてもらうという手もあるが、それもおかしな話だし』

 私は、えっ、と驚いたが、先にイリーデが叫んだ。

『だめっ、セピイさんのは見ないでっ。私のを見てください』

 で、また服を脱ぎかけた。もちろん私とオペイクス様は止めたよ。

 『もう、やめておこう。今回の授業は、ここまで。

 これで分かったね、イリーデ。君は男に慣れていないんだ。それは悪いことじゃない。当然のことだよ。

 だから、少しずつブラウネンに慣れていけばいい。二人で、じっくり、何度も話し合いなさい。次の授業は二人でやるんだ。

 さあ、もう休みなさい。

 へんなものを見せてしまったね』

 オペイクス様は、そこまで言って、やっと腰に布を巻いてくれた。で、イリーデと私を急き立てて、扉に向かわせる。

 かと思ったら、オペイクス様は先に自分で扉を開いて、外に向かって叫んだ。

『さあ、君らも、もう家に帰るんだ。そして、このオペイクスが、こちらのイリデッセンシア嬢に不埒な真似をしなかった事を忘れてくれるなよ。あとあと、証人になってもらうからな』

 途端に、近くの暗がりでうごめく影が幾つか見えて、そのあちこちで声も起こった。あわあわ言う声と、転んだり、互いにぶつかったりして痛がる声だよ」

「えっ、やっぱり覗かれていたの?」

「覗くと言うか、離れの壁に貼り付いて、聞き耳を立てていたんだろうね。招かれざる近所の男どもだよ。それに、土産物の荷車を引いてくれた使用人たちも混じっていた。

『す、すみません、オペイクス様』

『なんだ、君たちもいたのか。だったら、村人たちをメレディーンに連れて行く必要も無い。ご党首様には、君たちが証言してくれ』

 なんて、やり取りしている間に私は、そおっとイリーデを寝室に連れて行った。やっと連れ戻せたんだよ。

『とにかく、もう寝よう』と私は促した。そしたら、あの子ったら私の目も見ないで、毛布を頭から被って、横になったよ」

 そう話すセピイおばさんは、イリーデの態度に怒るより、少し笑っている。正直、私も同じ気分だ。

「大変だったね」

「ああ、人騒がせな子だったよ、まったく。まあ今となっては、いい思い出だが」

「恋人でもない男の人の裸を見た事が?」と私も思わず突っ込んでしまった。

 セピイおばさんは大笑いした。

「そう言えば、そうだった。あんたも、少しは手加減しておくれな」

 おばさんと私は、密偵の心配も忘れて、心から笑った。

 

 さて今度こそ、翌日の話である。セピイおばさんは、その前に葡萄酒を少し呑んで、喉を湿らせ、私にも勧めた。

 ツッジャムの城下町、ベイジの家で一泊。この山の案山子村の、我が家で二泊。三泊目は果たして、どんな珍事件が起きるのやら。なんて思いながら、おばさんの話を聞いていたのだが。

 セピイおばさんたち一行は、三泊はしなかったそうだ。オペイクスがセピイおばさんに頼んだのである。メレディーン城に戻ろう、と。党首アンディンからは、一週間くらい過ごしていいと許可をもらっていたはずなのに。

 原因はイリーデちゃんだ。オペイクスは密かに、セピイおばさんに理由を明かした。もう一泊して、またイリーデに迫らせたら困る、と。

 なるほど、妥当な判断だ、と私も聞きながら思う。それとも、もう一回、誘われたら、今度は理性を保てない、という意味だろうか。この少し意地悪な見立てをセピイおばさんに話したら、またウケた。

 でも、おばさんはその後すぐに訂正した。「いや、あの人は、やっぱり、あの子に手を出さなかっただろうね。あの人は、そういう人だ」

 これを聞いて私は、すごい信用だな、と思った。そんな人がこのヨランドラの男だなんて。誇らしいし、嬉しい。

 そして、そんな話を大叔母と共有できた事を、外孫の私も嬉しく思う、のだが。

 気のせいか、話しているセピイおばさんの声に、だんだん張りがなくなってきたような。

 話は、おばさんたち一行が村を出発する直前の、みんなの様子に移った。

「帰りには、ツッジャムの城下町でもう一度ベイジの商家にも立ち寄る予定だったからね。オペイクス様は御者さんや使用人たちを急かした。

 イリーデは、早々と馬車の中に引きこもったよ。まともにオペイクス様の顔を見られなかったんだろう。まあ、私が同じ立場でもそうすると思って、好きにさせておいた。

 しかし、そんなイリーデを離れたところから見ていたのか。近所の男どもが、わざわざオペイクス様に近づいて、話しかけるんだ。

『騎士様、あんた、ほんとにいい人だな。昨夜は、すっかり感心したよ。あんだけのべっぴんさんが誘ってくれてんのに、自分の裸を見せるだけで済ますなんて』

 オペイクス様は村人の無礼を叱りもせずに、軽く笑って言った。

『ああ、あなた方には醜いものを見せてしまったな。せめて、雑談のネタにでも活用するといい』

 これを聞いて、村の男どもが調子づいてね。『いやいや、俺のより何倍もご立派でしたぜ』なんて言って、下卑た笑いが起きたりした。

 他にも『できれば、あのお姫様の方も拝見したかったなあ』なんて言う奴も居て。

 その辺りから、さすがにオペイクス様の調子も少し変わってきた。

『それは見せられないな。あなた方があの子のそんな姿を見た日には、私はあなた方を斬らねばならなくなる』

 オペイクス様がさらっと発した一言に、男どもは、ヒッと声をもらして詰まった。

 それで連中も大人しくなる、と私も期待したんだが。やっぱり、この村の男どもだね。食い下がるつもりでもなかろうに、余計なことを言う馬鹿が、まだ居たんだよ。

『それにしても騎士様。あんた、すげえや。俺があんたの立場だったら、とっくに、あのお姫様にむしゃぶりついて』

 馬鹿の無駄口は、そこまでだった。オペイクス様の手がすばやく動いて、男の両の唇を掴んだんだ。ほんのちょっと瞬きした間の出来事だよ。もちろん男はしゃべれないし、他の男どもも固まった。

 オペイクス様はあいかわらずの口調で、穏やかに馬鹿男を叱った。

『いけないな、そんな言葉を使っては。女性に対して失礼だ』

 続けてオペイクス様は、他の男どもに呼びかけた。

『誰か、この人の奥さんか、家族を連れてきてくれないか。村の女性陣からも、叱ってもらおう』

 これが聞こえたんだろう。少し離れた所から、こちらの様子をうかがっていた、ご婦人方の一人が飛び出して来た。そして馬鹿男の頰を思い切り、つねった。

『あんたってば、ほんっとに恥さらしなんだから。これ以上、村の評判を落とすんじゃないよっ』

 とか叱ってから、オペイクス様に謝ったよ。奥さんは、そのまま自分の旦那さんを引きずっていった。

 それに合わせて他の男どもも、足音を立てずに、すごすごと引き下がった」

「また、とんだ一悶着だったね。しかも、この村らしい、と言うか。思ったことを全部言わないと、気が済まないのかしら』

「まったくだよ。恥ずかしいったら、ありゃしない。オペイクス様には、私からも謝ったんだよ。田舎者の振る舞いと思って、多めに見てください、と。オペイクス様は笑って許してくれたけどね。

 そうこうしているうちに、馬車や兵士たち、使用人たちの準備も整った。あとは出発するだけ。うちの家族と叔父さんたちの家族も、私を見送ろうと集まってきた。

 ここで、さらに一悶着と言うか、前日の続きと言うか」

 セピイおばさんは、はっきりと、ため息をついた。

「父さん母さんをはじめ、親戚筋まで一通り挨拶が済んだと思ったら、兄さんが最後に残っていた。

 サッと私の前に立つや、兄さんは言ったよ。

『セピイ。あの騎士が悪い奴じゃない事は、俺も認める。なるほど、人が良すぎるくらいだ。

 だが、そんなことは俺ら家族には、何の関係も無い。

 はっきり言うぞ、セピイ。お前は村に残れ。

 そして、こいつらと縁を切れ。もう、こんな連中と付き合うんじゃない。いくら田舎もんの俺でも気づいたぞ。お前の里帰りは表向きで、本当は何か、ヌビ家の都合、貴族たちの都合があったんだろう。俺は親族の一人として、お前が貴族たちの軋轢なんかに巻き込まれてもいいとは思わんぞ』

 ここで、例の兵士の片方が割り込んできた。

『おうおう、あいかわらず人聞きが悪いな、お兄さんよ。もうすでにヌビ家が陰謀めいた動きをしている、みたいな決めつけ方じゃねえか。証拠でも有んのかよ?」

 兄さんは、これに詰まるどころか、すぐに言い返した。

『証拠は無い。しかし俺には、そう見える。俺のこの見立てが不満なら、あのノッポ野郎、ソレイトナックを連れて来て、今すぐ俺に会わせろ。でなければ、うちの妹もいずれ、あいつみたいに行方知れずになるんじゃないのか。そうならないと、お前たちは保証できるのか」

 兄さんと兵士は、きつく睨み合った。でも兄さんも兵士も互いに詰め寄ったりは、できなかったよ。とっくに父さんや叔父さんたちが兄さんの腕を掴んでいたし、兵士も同僚に同じことをされていた。オペイクス様も目で、兵士に注意を促していたしね。

 逆にオペイクス様の方から、音も無く、兄さんに歩み寄って、頭を下げた」

「えっ」

 私は思わず声をはさんでしまった。聞き間違いかと思ったのだ。

「頭を下げたんだよ。騎士であるオペイクス様が、平民に過ぎない、うちの兄さんに。

 兄さんのすぐ後ろで、叔父さんたちが口をぱくぱくさせていたっけ。

 オペイクス様は言った。

『すべて、君の言う通りだ。我々は君の妹さんを危険なことに巻き込んでいる。そして今後もあるだろう。昨日の繰り返しになるが、それでも、やはりセピイの、妹さんの協力が我々には必要なんだ。申し訳ない』

 私も、たまらなくなって叫んだよ。兄さんもオペイクス様も、すぐそばに居るのに。

『兄さん、もうやめてっ。

 オペイクス様も、どうか頭を下げないでください。私は自分の意志でヌビ家にお仕えしているんです。私から改めてお願いします。どうか女中を続けさせてください』

 すると、兄さんは私の言葉を遮った。

『それは、ヌビ家にソレイトナックを探してもらうためだろ。だから奴のことは諦めろ。マルフトさんからも、そう勧められたんだろうが』

 これには私が詰まってしまったよ。図星だったからね。

 でも、返事に悩む暇は大して無かった。兄さんの後ろから、叔父さんの一人が進み出て、話に入ってきたんだよ。

『ちょ、ちょっと待ってくれ。みんな。

 騎士様。一つ、お尋ねしたいことがあります。仮にセピイを村に引き止めた場合、私どもは、いただいた物をお返しした方がよろしいのでは?』

 オペイクス様は『いや、そうとは限らない』と言ってくれたが、兵士が、またしても割り込んだ。

『オペイクス様、こいつらに遠慮することはないですよ。文句があるんだったら、呑み食いしたもんを吐いてでも返せって、言ってやりましょうぜ』

 オペイクス様は、これも叱りつけた。でも兵士は、しばらく小声でブツブツ言っていたよ。私には、ちゃんと聞こえたんだ。『平民のくせして、誰のおかげで、こんないい目を見られたと思ってんだ』とかね」

「ヌビ家のおかげって言いたかったのかな?」

「まあ、そんなとこだろう」

 うーん、と私は唸った。聞けば聞くほど、若き日のお爺ちゃんに賛成だからだ。セピイおばさんは女中を続けて良かったのか、と考えてしまう。って、私も女中になりたがっていたはずなのだが。

 セピイおばさんの話は続く。

「オペイクス様は『気にしないように』と言ってくれたんだけど。

 今度は父さんが『私からも』と、オペイクス様に質問した。

『正直、私は娘の件で、村がモラハルト様から何か嫌がらせを受けるのではないか、と恐れておりました。しかし今日まで、そのような事は一度もありません。

 もしや、ヌビ家のご党首様が、何らかの配慮をしてくださったのでは?』

 これにはオペイクス様も少し、返事に困っていた。その辺りはオペイクス様も、ご党首様から聞かされていなかったんだ。オペイクス様がそう答えると、兵士が手を挙げた。

『オペイクス様、お怒りでしょうが、あと一つだけ発言させてください。

 俺は、ご党首様の配慮があった、と断言していいと思います。たとえ、ご党首様が実際に何かしたわけじゃなかったとしても、です。

 モラハルトだって、セピイがご党首様に事件ついて話したと察していたはずだ。ご党首様を意識して、下手な行動に出なかった事は充分、考えられますぜ』

 オペイクス様は、また少し考えていた。

『うむ。君のその意見は、たしかに一理ある』

 続けてオペイクス様は、父さんに問い返した。『しかし、セピイのお父さん。今なぜ、それを気にするのです?』

 父さんは何か言いたげな顔をしているのに、すぐには答えなかった。そんな父さんを見て、兄さんが目を見開いたよ。『親父、まさか』と呻いた。

『ああ、そのまさかだ。私は、やっと頭の整理がついた。

 セピイよ。父さんは改めて、お前に頼む。済まないが、村のためにヌビ家の女中を続けてくれ』

 父さんがそう言うと、兄さんが『親父っ』と叫んだ。でも、やっぱり叔父さんたちが捕まえていたんで、兄さんは父さんに近づけなかったよ。

 オペイクス様は父さんに言った。『失礼ですが、それは気の回し過ぎです。たとえセピイが女中を辞めたとしても、ヌビ家には領主として、この村の安全を守る義務がある』

 しかし父さんは黙って、オペイクス様を見つめるだけだった。

 私も言ったよ。『父さん、気にしないで。元から、私は女中を続けるつもりだから』

 すると兄さんが、私やオペイクス様に背を向けて、家に戻ろうとした。それで父さんは兄さんに、私に対して別れの挨拶をしろ、と言いつけた。兄さんは、もう充分、私と話した、と言い返した。父さんは兄さんを叱った。みんなの前で。

 それで兄さんは、ゆっくり振り向いて言ったんだ。

『じゃあ騎士様に、あと一言だけ言わせてもらおう。卑怯だぞっ』

 これで今度は、叔父さんたちが父さんを止める事になった。父さんが兄さんを殴るつもりだったのが、私にも分かった。オペイクス様もサッと手振りで、兵士たちを制していた。

 私は泣きたかったが、まだ早かったよ。兄さんに、義姉さんが駆け寄ったからね。私は義姉さんに向かって叫んだ。『兄を頼みます』と。義姉さんは力強くうなずいてくれた。

 そして父さんが、青い顔をしたまま、オペイクス様に言った。

『せがれが、たびたび失礼しました。

 どうぞ、もう出発してください。おかげさまで、私たち家族は充分、話せました』

 これに答えて、オペイクス様は父さんと母さんに約束した。メレディーンから定期的に私の手紙を届けさせる、と。

 そして私に、馬車に乗るよう促した。馬車の窓からは、イリーデが心配そうな顔を出していたよ。

 で、ようやく馬車が動き出した。馬車の窓からは、泣いている母さんを支える父さんの姿が見えた。私は窓を閉めた」

 セピイおばさんは、そこで話を区切って、頰の涙をぬぐった。それを見て、今度は気づいていたか、と私は思った。セピイおばさんは、静かに涙を流していたのである。

 おばさんは付け加えた。忘れない、と。この時のひいお爺ちゃんとひいお婆ちゃんの様子。若き日のお爺ちゃんとお婆ちゃんの振る舞い。セピイおばさんは、一生忘れない、と繰り返した。

 私にも、その意図は分かった。外孫の私にも忘れないでほしい、知っていてほしい、とセピイおばさんは願っているのだ。もちろん私も同感である。おばさんの期待に応えたい、と思った。

 

「やれやれ今夜も長くなっちまったか。後ちょっと続きを話して、今夜はお開きにしよう」

 そう言うとセピイおばさんは、メレディーンまでの帰途を手短かにまとめて、説明した。

 山の案山子村を出て、すぐツッジャム城の城下町に入り、ベイジの商家に立ち寄った事。メレディーンまでは、ベイジの旦那さんと使用人の一人が同行した。行く先々で、ベイジの旦那さんは地名や目印になる教会堂なんかを、羊皮紙に書き留めていた。

 それに付き合って隊列を止めて休憩している時に、セピイおばさんはオペイクスから言われたそうだ。

『君のお兄さんは立派だった。私は、すっかり感服したし、妬ましいくらいだよ。親兄弟と絶縁している私なんかより、はるかに偉い』

 これを聞いて、セピイおばさんもイリーデも驚くばかりで、何も言えなかったそうだ。セピイおばさんが言うには、オペイクスに表情がとても悲痛なものに見えた、とも。

 聞いていて、私も不思議に思った。お人好しと言われるほどのオペイクスが家族と絶縁?でも私は、セピイおばさんに尋ねるのを我慢した。おばさんは話に区切りをつけようとしているのだ。私も今さら、話の腰を折ったりしない。

 おばさんたち一行は、その後、賊に襲撃された地域の村長と、役人のところにも立ち寄ったそうだ。賊の頭目を含め、悪人どもの半数は衰弱死していた。オペイクスは被害者の家族に再会して、被害に遭った娘さんの様子を尋ねた。娘さんは人を怖がるようになって、家に閉じこもっている、とのことだった。賊への報復も家族に任せて。

「ヴィクトルカと同じだね」

 私が思わずつぶやくと、セピイおばさんは「そうなんだよ」と相づちを打った。とても小さな声で。

 そしてセピイおばさんたち一行は、メレディーン城に帰還した。もう太陽も沈んで、山の端に隠れていたそうだ。

 党首アンディンは内心、一行の早すぎる帰還を驚いていただろうが、すぐにセピイおばさんたちを問い質したりはしなかった。オペイクスからの報告も急かしたりせず、ベイジの旦那さんたちに会ってくれたそうだ。

 ベイジの旦那さんと使用人は、さぞかし緊張しただろう。でも、その甲斐あって、党首アンディンから許可をもらった。月に一度、メレディーン城での品物の売り込みを許されたのだ。

 もちろん党首アンディンは、ベイジの旦那さんからツッジャム城下の情報を、庶民の声を収集するつもりだったに違いない。

 ついでと言おうか、セピイおばさんがお爺ちゃんたちに宛てる手紙は、これ以降、ベイジの旦那さんたちが届けてくれることになった。

 その夜、ベイジの旦那さんたちはメレディーン城に一泊して、翌朝ツッジャムに帰っていった。

 こうして、ようやくセピイおばさんの里帰りの話に区切りがついたのだ。

 セピイおばさんは、離れから私を送り出しながら、言った。

「イリーデとオペイクス様の一悶着で、もっと浮いた話になる、と思っていたんだがねえ。

 こんなに話すことがあるとは、自分でも驚きだ」

 そして、しっかり休むように、と言い足しながら、私の背を押した。

自作小説「塔の上のセピイ  〜中世キリスト教社会の城女中の話」第九話(全十九話の予定)

第九話 郷里への道のり

 

 翌日は午後から雨になった。夜も降り続き、すれ違いざまにセピイおばさんから小声で言われた。「今夜は、やめておこう。また明日だ」と。

 そして、さらに翌日。雨は止んだ。夕方からまた降り出したが、小雨程度。時には霧雨と言っていいくらいに弱まった。

 だから、セピイおばさんのお許しも出た。五軒中、家から二番目に近い離れ。うちの家族が所有する離れの、すぐ隣。

「今夜の話はキツいってほどでもないし、大貴族の絶対に知られてはならない秘密、というわけでもない。まあ、強いて言うなら、ちょいとお馬鹿な話かねえ。いや、やっぱり少しは秘密もあるかも。

 まあ、とにかく、肩の力を抜いて聞いておくれ」

 セピイおばさんは、柔らかい笑みを浮かべてみせた。しかし、いよいよ本格的なメレディーン時代の話である。抜けと言われても、私は肩に力が入ってしまう。

 セピイおばさんは話し始めた。

「さて、話は、ご党首様夫妻に私の拙い密偵ごっこを告白したところまでだったね。

 それから一月くらい経ったか。ついに、ご党首アンディン様からお呼びがかかった。ご党首様がおっしゃっていた、具体的なことが決まったわけだよ。で、何をするかと言うと」

 セピイおばさんは一度、区切って、少し笑った。私は予想がつかない。

「里帰りだよ。メレディーンから、ここ、山の案山子村に一旦、戻りなさい、と。『一週間くらい、ゆっくり過ごしてきてもいい』とまで、ご党首様は、おっしゃってくださった」

「ずいぶん恵まれたご命令ね」ありがたいのを通り越して、私は内心、驚いた。

「もちろん表向きだけだよ。私の里帰りを聞きつけて、ビッサビア様の手下や、他の貴族の密偵たちが私に注目する。私を監視する。その間に、ご党首様の手の者たちが、陰で奔走するってわけさ」

「何だか、おばさんが囮みたい」

「まさに、その通りだよ。私は、他家に対する目くらまし、賑やかし。それが、ご党首様が私に課した役回りだった。

 そして、そのためには多少の派手さも必要、とご党首様は考えなさった。と言っても、さすがに私を乗せる馬車にヌビ家の紋章を掲げさせたりはしなかったよ。でも、土産物をしこたま持たせてくださってねえ。荷車が、たしか二台だったか」

「あれっ。そういえば前の里帰りの時も、モラハルトとビッサビアが同じような手配をしてくれたような」

「よく覚えていたね。実は私も、ご党首様がちょっと気味悪かったんだ。所詮モラハルトの兄弟なのか、と再認識させられるようで。もちろん、口に出しては言わなかったよ。

 それに厳密には、土産物は前の時より若干、少なかった。しかし、その一つ一つがメレディーンの品だと思えば、田舎出身の私にとっては、とんでもない贅沢である事に変わりなかった」

「おばさん。そんな大荷物を運びながら、ツッジャム城に立ち寄ったの?」

「おや、プルーデンス。私は、ツッジャム城に立ち寄る、なんて一言も言ってないよ」

「えっ、でも、おばさんもご党首様も、ツッジャム城の状況やビッサビアの様子を確認したいんでしょ?」

「そりゃ、したいのは山々さ。でも、だからと言って、ビッサビア様と直接対決する度胸なんか、さすがに無いよ。がんばって対面して問い詰めたところで、あの人がソレイトナックの事を話してくれると思うかい?お互い、恋敵の立場なんだよ」

「うっ、たしかに」

 私ったら迂闊だった。自分がそんな事態にさらされても、金縛りにあって、何も言えないと思う。

「ちなみに、そこはパウアハルトも同じでね。私なんかがご挨拶したところで、まともに接してくれるわけがないんだ。門前払いだって、充分あり得る。

 かと言って、ご党首様がわざわざツッジャム城に出向くわけにもいかないだろ。名家の党首として当然、お忙しいんだ」

「ええーっ。じゃあ一体どうやって、ツッジャム城を調べるの?」

「だから、そこは本職の密偵たちの出番さ。彼らが、何とかしてツッジャム城に忍び込むしかない。

 それで、私は思い出したよ。ソレイトナックから教わった地下の通路を」

 私は息を呑んだ。

「お、おばさん。それ、アンディンに話したの?」

「ああ、話したよ。話さなければならないと思った。そして、話した方が密偵たちの役に立てると期待した。

 問題は、ご党首アンディン様にどう話すか、だ。

 その前の告白で、ビッサビア様のための密偵を務めていた事はお話ししたが、ツッジャム城の地下道の方はすっかり忘れて、言いそびれていた。

 一刻も早く、お話ししなきゃ、なんて焦ったが、はたと困ったよ。ご党首様の近くには大抵、誰かが居合わせていたんだ。奥方のキオッフィーヌ様をはじめ、騎士様とか。あるいは執事とか、お役人とかね。

 城内でキオッフィーヌ様をお見かけした時、私は思った。はたして、奥方様も同席しているところで、お話しするべきか。あるいは、奥方様も他家から嫁いで来られた方と見なして、同席しないところでお話しした方が、ご党首様に都合がいいのか。私が抱えている情報は、ツッジャム城の、ごく一部の者しか知らない地下通路、というもの。私は考えれば考えるほど怖くなったし、迷いに迷った」

 ひーっ。聞いているうちに、私も思わず声を漏らしてしまった。

「おばさん、それって」

「だめだよ、プルーデンス。言わないで済まそうなんて、かえって罰が厳しくなる。それに、ご党首様の密偵たちも動きにくくて、ソレイトナックの情報が得られないだろ」

 セピイおばさんは、すかさず私の甘い考えを封じた。

「とにもかくにも冷静にならなきゃ、と思ったんだが、とてもじゃないが落ち着かないよ。私は心の中で降参した。ノコさんに相談することにしたんだ」

 えっ、と私の声が裏返る。

「そりゃ、もちろん内容までは話せないよ。そこで私は、ある夜ノコさんが一人の時に、こっそり近づいて尋ねた。

『前の告白でご党首様に報告し忘れていた事を思い出しました。それは、下手すると奥方様にもノコさんにも聞かせられない事かもしれません。少なくとも、ご党首様にだけは、ご報告しなければならないと思います。でも、どこでお話ししたらいいのか、が分かりません』と。

 暗い部屋の中で、ノコさんが私を睨んだのが分かった。で、ため息に続けて、ぼやくんだ。『手間のかかる娘だねえ』と。

 それでもノコさんは私に知恵を貸してくれたよ。『羊皮紙の切れっ端と羽筆を用意して、内容を手短かに書きなさい』

 そう言われて、私は急いで、その部屋から飛び出した。

 私がよその部屋から羊皮紙とかを持って来る間、ノコさんは待っていてくれたよ。私がツッジャム城の地下道の報告を書いている間も、ノコさんは背を向けて、待っていてくれた。

 ノコさんは、そのまま私に言いつけた。書き終わったら、小さく小さく折り畳みなさい、と。私がそこまでできたと報告すると、ノコさんは私の手を引いて、城内の通路に出た。で、早歩きで、ご党首様の書斎に向かう。

 ご党首様は通路が交差する箇所で、役人たちと立ち話をしていた。ちょうど何かの指示を出したりしていたのかもしれない。

 ノコさんは数歩離れた位置に私を待たせた。そして役人たちが立ち去るのを見計らって、ご党首様に近づいた。で、耳打ちしながら、私に視線を飛ばす。ご党首様も私を見る。ノコさんが、ほんの少しだけ手招きした。私は足音を立てないよう気をつけながら、おそばに急いだ。ご党首様の片方の手のひらが軽く浮いて開く。私はそこに、小さく折り畳んだ羊皮紙を押し込んだ。ご党首様の手も閉じられた。と、ノコさんが私の背中を押したよ。私にその場を通過させるためだ。

 私は黙って、そのまま通路を進んで、二人から離れた。すぐに振り返って、ご党首様の様子を確かめたりはしないよ。通路の曲がり角に自分を隠してから、やっとノコさんを振り返った。ご党首様は、もう居なかった。ノコさんがこちらの方に来るところだった。

『これで、ご党首様は読んでくださるだろうし、私が内容までは知らない事もご理解いただけたはず。あとは沙汰を待つしかないね』

 ノコさんは、そう説明すると、さっさと歩き出した。もう女中部屋へ戻って休むよ、という意味だった」

 そこまで話すと、セピイおばさんは一息ついた。私も、いつの間にか息を殺して聞いていた自分に気づかされた。

「ふう。手に汗握るって、この事だね」

「ああ、我ながらヒヤヒヤしたよ。報告なんて一回で済ませれば良かった、とも思ったが。前回は奥方様も同席されていたからねえ。

 実際ご党首様は、奥方様にもノコさんにも、ツッジャム城の地下道の存在を話さなかったようだ。羊皮紙で報告した次の日から、私は密かにノコさんの様子を注視していたんだ。そしたら結局、視線に気づかれたよ。あの時は、二人だけで針仕事をしていたんだったか。ノコさんから言われた。

『こないだ、あんたが羊皮紙に書いた報告の内容は、私は知らないよ。私が見たところ、奥方様もご存じないだろう。つまり、ご党首様はそのように判断なさった、という事。あんたが持ってきた情報は、それくらい、とんでもないもんだったわけか。

 だったら、私も知りたくないよ。あんたも、もう二度、話題にしないでおくれ』

 とね。

『また後から、言い忘れていた事が他にもあるなんて言わないだろうね』

 とも釘を刺されたよ」

「うーん。さすがに厳しいね」私は、叱られた当時のおばさんに同情してしまう。

「まあ、事が事だからね。

 それはともかく、ご党首様の手に報告の羊皮紙を押し込んだ夜から、一週間くらいしたか。真昼間、仕事中にノコさんから、こっそり言われた『ご党首様がお呼びだ』と。

 指定された場所は、メレディーン城に幾つかある塔の一つで、外城壁と内城壁が繋がる辺りにあった。メレディーン城の塔の中でも、一番高い塔、と聞いていたよ。

 その塔に登るのは、私も初めてでね。さすがに他の塔より、ちょっと時間がかかった。塔の中の細い階段を登り続けて、ようやく天辺に出ようとした時に、声が飛んできた。

『おっ、来たな、セピイ。では、そこで止まって』

 その通りに、階段の出口付近で立ち止まると、声の主が見えた。常駐の騎士の一人、オペイクス様だった。ご党首様は、そのオペイクス様の向こう。胸壁の凹みから遠くを眺めておられていた」

 ふむふむ、とうなずきながら、私は安心する。まさか党首アンディンも弟のモラハルトみたいに塔の上でおばさんに襲いかかったりしないか、チラと不安がよぎったのだ。しかし、その距離感なら大丈夫だろう。

「ご党首アンディン様は、まず、そのままの姿勢で、私の里帰りを少し延期する、と静かに宣言なさった。その上で、私に幾つか、お尋ねになったよ。私も出口付近からお答えした。つまり、よそからは私の姿は見えないってわけさ」

「念を入れているなあ」と私。

「ああ、私も改めて緊張したね。ご党首様は穏やかなお顔だったが、お尋ねの内容は、こんなだった。

『セピイよ。ツッジャム城の地下道を、なぜ知った』

 私は正直に、ソレイトナックから教わった事を話した。もちろん、逢引きの事なんかは言わないよ。でも、ご党首様がため息をつくのが見えたね。さすがに事情を推測して、私ら二人に呆れなさったんだろう。

 私は念のために付け加えた。ツッジャム城には他の地下道があるかもしれないが、それについては二人とも知らない、と。ソレイトナックから教わった見立てだよ。ご党首様からすれば、しょうもない言い訳だったろうがね。

 ご党首様は私を咎めたりせずに、次の質問に移った。

『ツッジャム城の地下道が、城下のどの辺りに通じているのか。セピイは、その場所を地図にして描けるか』

 私は、まともに描ける自信は無かったが『描きます』と即答した。

『では、この場で描け』

 ご党首様が静かにおっしゃると、おそばに居たオペイクス様が懐から何か取り出して、私に差し出した。それは羊皮紙や羽筆とかだった。一通り揃っていたよ。

 私は階段の段差を机代わりに活用して、床にしがみつくような格好で、羊皮紙の上に筆を走らせた。途中でオペイクス様が『簡単でいいんだ。焦らないで』と言ってくれたよ。

 ありがたいお言葉だったが、私は、地図を描きながら、ちょっと別のことを考えていた。ご党首様は、ツッジャム城の地下道について、奥方様やノコさんには話さないが、この騎士様には話したわけだ。よほど信用のあるお方なんだろう。騎士様たちの中でも、ご党首様が教えたのは、この方だけに違いない。とね」

「そんなにすごい人なの?そのオペイクスさんって」

 私の問いに、セピイおばさんは微笑んだ。

「実はね。その頃は私もまだ、この騎士様のことをよく知らなかったんだ。と言うのも、ほとんど会話した事が無かったからね。離れたところから、時々お見かけするだけだった。

 だからオペイクス様本人と直接話す前に、オペイクス様の評判を耳にする方が先になった。他の女中や兵士とか、周りの連中からね。もっとも、その評判、と言うか噂話も、しょっちゅうやっていたわけじゃないよ。ごくたまに。分かるだろ。要するに、目立たない方だったんだよ。

 歳も確か、三十を過ぎていた。アズールさんやオーカーさんが、シルヴィアさんたちと同じく二十代半ばで、明らかにお二人の方がメレディーン城の花形だったね。お二人は、目鼻立ちの整って、女受けしやすい、いかにもな色男。一方、オペイクス様は、ぼんやりとした表情で、残念ながらお世辞にも色男とは言えない。陰で笑われている事が多かったよ。

 一応、副官だったんだが」

「副?」

「そう。メレディーン城に駐在する騎士様たちにも当然、まとめ役、つまり隊長格の騎士様が居られた。オペイクス様は、その方を補佐する立場だったのさ」

「その割には、周りから、なめられているように聞こえるけど」

「その通りだよ。下っ端の兵士から女中とか、使用人たちまで、オペイクス様をなめてかかっていた。もちろん、面と向かって馬鹿にしたりはしないよ。しかし私の目には充分、不遜に映った。

 おそらく、本人も気づいていただろう。それなのに、諦めていたのか、何か考えがあったのか。結局、オペイクス様が兵士や女中を怒鳴るところなんか、一度も見かけなかった」

 そう説明する、おばさんの笑みが優しく見える。

「だからこそ、ご党首様が信頼したって事?」

「私は、そう解釈したよ」とセピイおばさんも同意してくれた。

「とにかく、私は地図を仕上げた。立ち上がって、羊皮紙や羽筆とかをオペイクス様に返したよ。お役人たちが描く地図に比べれば、お粗末だったろうに、オペイクス様はじっくり見て、うなずいた。

 当然、ご党首様は『行けそうか』とお尋ねになる。

 オペイクス様は『大丈夫です』と即答した。

『セピイは目印になる建物も描いてくれています。地図の意義や使い方を充分、理解した描き方です』

 なんて誉め言葉まで添えてくれてね。おかげで、ご党首様のお顔に、やっと少し笑みが浮かんだよ。私もツッジャム城で、ほんのわずかでも地図の類を見る機会が有って良かった、と思ったもんさ。

 続けて、ご党首様がオペイクス様におっしゃった。『これで、そなたや密偵たちの仕事が楽になろう』と。

 つまり、私に里帰りをさせながら、地下道を使って、オペイクス様たちがツッジャム城に忍び込むってわけさ。

 もちろん、ご党首様の密偵たちは事前に、ツッジャムの城下町に行って、地下道の入り口を確かめるんだがね」

 なるほど、と私も感心した。

「というわけで、段取りがだいぶ具体的になってきただろ。私も頼もしく思えたよ。

 でも油断せず、気を引き締めなければ、とも思った。私は改めて、ご党首様とオペイクス様にソレイトナックの捜索をお願いしたよ。彼がビッサビア様に囚われているのかもしれない、という私の推論も付け加えて。

 つまり私が調子に乗って、勝手に発言した形だよ。しかし、ご党首様は咎めもせずに、こんなふうに答えてくださった。

『我々もできるだけのことはするから、そなたも堂々と帰郷するのだぞ。そうやって目立つことで、ビッサビア殿の注意を引くのだ。その方がビッサビア殿に、何か動きがあるかもしれん。たとえば、セピイの推論通り、ビッサビア殿がソレイトナックを拘束しているとしたら、その拘束場所を替える、とかな。

 とにかく今回の帰郷で、そなたの存在をチラつかせることが、ビッサビア殿に対する揺さぶりになる、と思うがよい』

 なんてね。ありがたくて私は思わず、身震いしたもんだよ」

 ほお、と私も声が漏れてしまう。党首アンディンがそのように認識してくれていたのなら、たしかに心強い。

「ご党首様も結構、考えてくださったんだね。

 あ、だったら、馬車にヌビ家の紋章を掲げた方が目立っていいんじゃないの?」

「それは、やり過ぎだね。ご党首様たちがこのセピイを後押ししている、と世間に言いふらしているようなもんだ。そしてビッサビア様も、そう解釈して、私だけでなく、ご党首様たちに対しても警戒するだろう。

 それ以前に、私はパウアハルトに捕まって、尋問されてしまうよ。命を取られなくても、拘束されて、大いに時間を無駄にすることになる」

「そ、そっか。加減も気をつけないといけないのね」

 私は、自分の考えが浅かったことを思い知らされて、恥ずかしくなった。

「でも、ソレイトナックのことを念押しできて、よかったわね」なんて、ごまかしてみる。

 セピイおばさんは声も立てずに、また笑みを浮かべた。見抜かれたかも。

「ほんと、安心したよ。ソレイトナックのことを押さえておかなきゃ、何のためにご党首様たちにあれこれ告白したのか、分からないからね。

 それで、この塔の上での作戦会議もお開きに近づいた、と私は思った。

 そしたら私の背後、と言うか階段の下の方から人の声が聞こえてくるじゃないか。私は慌ててご党首様やオペイクス様を見た。

 ご党首様は私と目を合わせながら、黙って、立てた指を口に当ててみせたよ。それで私も口をつぐんだ。

 声は二人分。どちらも女だと思ったら、まずイリーデが階段を登ってきた。

『セピイさん。今、オペイクス様とお話ししているんですか』

 問いかけておきながらイリーデは、すぐに黙り込んだ。ご党首様と目が合って、自分が会合を邪魔してしまった事に気づいたんだよ。

『し、失礼しました、ご党首様。

 セピイさんが向かった塔にオペイクス様のお姿が見えたものだから』

 とか何とか、イリーデは言い訳になっていない説明を始めて、しかも続かなかった。

 その後ろから、やっとノコさんが現れたよ。イリーデを追いかけてきていたんだね。息を切らしながら、ご党首様にイリーデの不始末をお詫びした。

 で、ノコさんは、すぐさまイリーデを引っぱって退がろうとした。私も二人について行くべきかと思って、ご党首様を見たら、ご党首様は軽く手を上げて、私に制止を促す。続けて、ご党首様はノコさんとイリーデも呼び止めた。

 ご党首様は二人にお尋ねになったよ。自分たちの会話をどこまで聞いたか、を。イリーデは緊張しながら、お答えした。

『階段を上がってきたばかりで、ご党首様たちのお話は何も聞いていません』

 この答えに、ご党首様は満足そうに微笑んでおられた」

「って、当たり前じゃないの?」と私は思わず言ってしまった。

「そりゃ、ご党首様だって分かりきっておられただろうさ。でも事が事だから、念を押す、と言うか、ちょっと釘を刺したんだよ。こういう会話に聞き耳を立てるもんじゃない、とね。イリーデも分かっただろう」

「それにしてもイリーデちゃんって、ちょくちょく、やらかすわね。悪い子じゃなさそうなのに」

 私は、せっかくの美少女がもったいない、と思って言う。

 セピイおばさんから、少し笑いがもれた。

「それだけ若かったんだよ。誰だって、やりかねない失敗さ。

 それはともかく、ご党首様はイリーデとノコさんに、逆に話し出した。私を含め三人で、どんな話をしていたか、を」

「えっ。それって聞かせたらいけないんじゃ」唖然として、私は言葉を途切らせてしまった。

「もちろん、ツッジャム城の地下道や密偵たちの存在は内緒だよ。話したのは、私の里帰りのことだけさ。

 その上で、ご党首様はイリーデにおっしゃったんだ。その私の里帰りに同行してみないか、とね」

「えっ、何でそうなるの」私は、さっきよりも、さらに驚いた。

「私も、はじめは分からなかったよ。

 ご党首様は『城下町育ちのイリーデに、農村の生活を体験させるのも良かろう』なんておっしゃったんだが、その笑みに何か含みがあるように私は感じた。

 で、気がついたよ。イリーデも目くらましなんだ、と。ご党首様は、彼女も目くらましとして活用することを思いついたのさ」

「それって、イリーデが美少女だから?紋章は使えないけど、美少女をチラつかせようってこと?」

「そういうこと。私だけでツッジャムの城下町をうろつくより、イリーデが居てくれた方が、格段にビッサビア様の手の者たちを引きつけられるからね」

「でも、肝心のイリーデ本人は、こんな田舎に来たがるかしら?」

「そこなんだが」

 セピイおばさんは言いかけて、また笑いをもらした。今夜のおばさんは、よく笑う。いい兆しだ。

「イリーデも最初の数秒は迷っているように見えた。ところが、ハッとした顔で、逆にご党首様にお尋ねしたんだ。

『も、もしかしてオペイクス様も同行なさるんですか?』

 これに対して、ご党首様は、また立てた指を口に当ててみせた。

『心して聞くのだ、イリーデ。オペイクスがセピイの帰郷に同行することは秘密だ。私からオペイクスに特別な任務を課している。セピイの帰郷は、オペイクスを紛れさせるための手段に過ぎない。このことは、イリーデもノコも、決して口外しないように。

 もし、このことが他の者たちにも知れ渡るようなら、セピイの帰郷は取り止め。そなたたちにも、女中を辞めてもらわねばならん』

 このご党首様のお言葉に、イリーデは大いに狼狽えたよ。言いません、言いません、と慌てて繰り返して、ノコさんから声を小さくするように注意された」

「それでイリーデちゃんは、この片田舎に来る気になった、と」

「まあね。ただ彼女としては、この田舎よりオペイクス様が目当てだったろうけど」

「イリーデちゃんも、なかなか人を見る目があるようね。私、感心しちゃったわ。おばさんは、イリーデちゃんとオペイクスさんを応援したの?」

 セピイおばさんは、とうとう声を出して笑った。

「あんた、話を飛ばしすぎだよ。そこは追い追い話すさ。

 その前に、ご党首様とのやり取りの続きを話しておこう」

 セピイおばさんがニヤリとする。

「ご党首アンディン様は、イリーデが協力してくれることを喜んだのか、こんなこともおっしゃったんだ。

『そうだ、イリーデよ。ついでにブラウネンも同行させるか』

 途端にイリーデは大反対だよ。『彼はまだ若くて、未熟だから秘密をもらしてしまうかもしれません』とか、ぎゃあぎゃあ騒いで、またノコさんに注意されていた。

 で、ご党首様はブラウネンにこだわらずに、あっさりと案を下げなさった」

 今度は、私が笑う番だった。「ご党首様も気が効くのか、効かないのか、分からないわね」

「そうかい?私は逆に、ご党首様はわざとブラウネンを持ち出したんだろう、と読んだよ。イリーデがブラウネンとの婚約を忘れないよう、釘を刺すため。あるいは、イリーデがブラウネンとの婚約をどのように認識しているか、確かめるため、とかね」

「だとしたら、そのご党首様の意図は、イリーデにあまり伝わってない気がする」

「ふふっ、そうだね。あの子は、たしかに分かっていなかった」

 セピイおばさんは思い出話を心底、楽しんでいた。

 

「さて、塔の上でご党首様たちと作戦会議をして、たしか二週間くらい経ったか。ご党首様の密偵たちがツッジャムの城下町に先行して、地下道の入り口を確認、調査できた。それで、ご党首様は作戦決行の日を決めなさったよ。こまごま準備や微調整に時間をかけて、さらに二週間後。作戦会議から、だいたい一ヶ月後ってところか。

 そして私とイリーデが乗る馬車や、土産物を積み込む荷車などを手配してくださった。話がすっかり前後してしまったが、馬車や荷車の様子はさっき話した通りだよ。馬車にヌビ家の紋章は掲げなくて、土産物はメレディーンの城下町で仕入れた品物ばかり。程よく目立つことができるってわけさ。

 出発は早朝でね。ノコさんをはじめ、他の女中たちもまだ寝ていたよ。私も事情が事情だから見送りなんて期待していなかったけど、一人だけ、招かれざる見送りが現れた」

「招かれざる客じゃなくて?」

 私は、おばさんのひねった表現に気づいて、ニヤリとしてしまう。おばさんもニヤニヤしている。

「そう、客じゃなくて見送りなのさ。あの朝、外城壁の門に集まっていたのは、私とイリーデ、オペイクス様と部下の兵士たち。その他は、馬車の御者と、荷車を引く馬を扱う使用人たちだよ。本当の意味での見送りは、ご党首様夫妻だけだった」

「あれっ。結局、党首アンディンは奥方キオッフィーヌに話しちゃったの?」

「話すって言っても、おそらく私の里帰りだけだったと思うよ。合わせて、キオッフィーヌ様の方でも詮索しない。居合わせたオペイクス様を見て、思うところもあったろうけど、キオッフィーヌ様ほどの方になれば、そこはもう追求したりしないよ。

 あるいは、ご党首様が、奥方様にだけは話したのかもしれないけどね」

「ふーむ。

 で、そのご党首様たち以外の見送りが現れた、と」

 口をはさんでしまった手前、私は責任を持って、話を戻す。

「誰かと思えば、騎士のオーカーさんだったよ。ソレイトナックほど背は高くないが、何度も言うように、明るい色男さんでね。要するに普段から目立つ人なんだが、この時はいつの間にか私たちの中に紛れていた。馬車に荷物を積み込んでいた私とイリーデの間に割り込んで、こんなことを言い出した。

『何だよ。オペイクスの旦那、両手に花じゃねえか。羨ましいなあ』

 オペイクス様は外套の頭巾をしっかり被っていたのに、オーカーさんは目ざとく見つけたわけだよ。

 オペイクス様は『やれやれ、見つかってしまったか』なんて頭をかいて、イリーデは『私、誰にも話してません』とか叫んだ。

 オーカーさんは続けて言うんだ。

『旦那には悪いが、お嬢さん方の付き添いは、俺の方が格段に上手いぜ。代わってやるよ、旦那』

『うむ、君の方が上手いのは認めるが、これもご党首様のお達しだ。勝手に代わるわけには、いかん』

 とオペイクス様は普通に答えていた」

「うーん、たしかにオーカーの態度は不遜ね」と私は、また口をはさんでしまう。

「分かるだろ。万事こんな調子だったんだ。オペイクス様に対して、他の連中もね。私には、オーカーさんが一番ひどく見えたが。

 で、ご党首様の登場だよ。

『戯言は、それぐらいにしておけ、オーカー。私は今、そなたの発言を聞いて、逆に任せられんと認識したぞ』

 このお叱りに、さすがの花形騎士様も首を縮めたよ。そ、そんなあ、なんて掠れた声を出すのが精一杯らしかった。

 一方、イリーデは急いでご党首様夫妻に駆け寄って、弁明を繰り返した。少し泣きかけていたかねえ。お二人は彼女を、優しくなだめてくださった。

『分かっている。オーカーが勝手に嗅ぎつけただけだ。その能力も、別の場面でなら、評価しよう。安心しなさい、イリーデ。セピイの帰郷は続行する』

 ご党首様のお言葉に、イリーデはパッと顔を輝かせて、お礼を言っていたよ。逆にオーカーさんに対しては、すれ違いざまに睨んでいた。

 その様子に気づいたのか、気づかなかったのか、ご党首アンディン様は再びオーカーさんに声をかけた。

『オーカーよ。今回はオペイクスに任せるが、いつかツッジャム城のビッサビア殿に使いを出す場合は、そなたに行ってもらうぞ。それなら良かろう』

 このお言葉で、今度はオーカーさんが顔を輝かせる番だよ。色男の騎士様は、ご党首様夫妻のそばに大げさに跪いた。

『さすが、ご党首様っ。話が早い。もう明日あさってどころか、今すぐにでも出発したい気持ちですぜ。日程が決まったあかつきには、このオーカー、必ずや、お役目を果たして見せまする』

 だってさ。

 ご党首様は『いつかという話であって、具体的に予定があるわけでは無い』と付け加えたんだが、オーカーさんは聞いていなかった。もうビッサビア様を目の前にしたみたいに、ぶつぶつ言うんだ。

『あちらの奥方様を拝めるなんて、こんな贅沢なお役目は、他にありませんよ。あー、早く行きてえなあ。何年ぶりだろ。前だって、遠くから拝んだだけなんだ。ああ早く、おそばに行きてえ。さすがにお年を召しただろうが、あの方なら充分いけるからな』

 これに対して、メレディーン城の奥方、キオッフィーヌ様が、ちくりと釘を刺した。

『まあ、オーカーさんときたら。ビッサビアさんがそのような言われようなら、あなたには私がどのように映っているのでしょうね』

 これで、自他共に認める色男さんは、大慌てだ。

『も、もちろん、類い稀なる美しさに映っておりますとも』

『私はビッサビアさんよりも年を召しましたよ』

 とまあ、キオッフィーヌ様には下手なお世辞なんか通じなかったわけさ。こうなると、いかにオーカーさんが陽気な伊達男でも、平謝りするしかなかった。

『騎士に相応しからぬ言動だったな、オーカーよ。これで、また一つ、学んだと思うが良い』

 と、ご党首様も手短かにお説教していた」

「て言っても、だいぶ手加減してあげた方じゃない?」

 私が思わず言ってしまうと、セピイおばさんは、また声を出して笑った。

「何だかんだ言って、ご党首様だって男だからね。男同士と思って、見逃してやったのかもしれないよ」

 

 今夜の話は、ほとんど楽しいおしゃべりだ。これまでの話との落差に、私は内心、愕然としているけど、セピイおばさんには言わないでおこう。

 私とおばさんは、また二人して葡萄酒を少し呑んだ。でも、辛い内容を乗り越えるためじゃない。のどを潤して、舌がよく回るようにするため。わざわざ、そう明言しなくても、安心して呑めた。

 セピイおばさんは話を再開した。

「ご党首様は、おっしゃったよ『オーカーは放っておいて、もう出発しなさい』と。

 すっかり前置きが長くなってしまったが、私たちはそれで、ようやく出発したんだ。まだ朝日が顔を出していなかったかねえ。

 オペイクス様の部下である兵士二人を先頭に、私とイリーデを乗せた馬車、荷車と続いて、最後尾がオペイクス様。いわゆる殿(しんがり)ってやつだ。

 兵士たちも騎乗していたから、徒歩の者は居なかったんだが、それでも一行の進み具合は、のんびりとしたもんだった。まあ、荷車もあるから、速度が上がらなくて当然なんだが。

 逆に、私は気がついた。と言うか、思い知った。メレディーン城に初めて来た時に、マルフトさんが、いかに飛ばしてくれたか、を。馬車の中でイリーデとおしゃべりしながら、私は内心、マルフトさんに感謝していた」

 私も、ふうん、とうなずく。マルフトさんが久しぶりに話題に上ると、どうしても少し、しんみりしてしまう。

「で、馬車の中でイリーデと話す時間がたっぷりできたわけだが」

 セピイおばさんの言葉に、あっ、と私は声をもらしてしまった。そうだ、そっちがあったんだ。

「分かるだろ。城で誰かに聞かれないか心配しながら話すより、はるかに安心して話せるわけさ。兵士たちも御者たちも、オペイクス様に遠慮してか、ほとんど話しかけてこなかったからね。

 イリーデは意気込んで、私に頼むんだ。改めて、女と男について教えてほしい、と。

 私は観念して話したよ。ニッジ・リオールに騙された事。ソレイトナックとの出会い。ベイジやヒーナ様との日々も。

 私としては、ごく簡単に、と言うか、ぼかせるところは極力ぼかしたかったんだが、イリーデと来たら、詳しく知りたがってねえ。男と一緒に裸になって、どういうふうにお互いの体を合わせるのか。男からお乳を触られるのか。男が女の脚を開かせたら、どんなことをしてくるのか。あれもこれも細かく質問してきたのさ。

 そりゃ、かつては私もイリーデと同じだったよ。男のことを知らなくて不安だった時期は私にもあるから、イリーデの気持ちは分かる。だから彼女のためを思って、できるだけ話してやりたくもあったが、何とも恥ずかしいじゃないか。

 ごめんよ、プルーデンス。あんたも聞いていて恥ずかしいだろうが、こらえて聞いとくれ」

「はい、分かってます」と返事しながら、私は苦笑いになった。

「まあ、この辺りは笑い話で済むが」

 話が弾んだと思ったら、不意にセピイおばさんが言い淀んだ。

「中には、言いにくい話もあった。ヴィクトルカ姉さんの事とか、ヒーナ様の亡くなり方とか。私もイリーデを怯えさせたくはないんだが、警戒心と言うか、注意力も養ってもらわないと。

 話しながら考えて、ヴィクトルカ姉さんの件は名前をぼかすことにした。前にも言った通り、ヴィクトルカ姉さん自身は、自分の事件をスネーシカ姉さんや私に知られているという状況を知らないんだ。イリーデのためには、そこら辺で妥協するしかなかった。

 イリーデは、やっぱり驚いていたね。そして怖がっていた。でも、ヴィクトルカ姉さんが結婚して、どこかで暮らしている、と話したら、少し安心してくれたよ」

 セピイおばさんの目は私から離れて、宙をさまよった。遠いところ、ヴィクトルカの住むところに、思いを馳せているような。

「ヒーナ様の件も悩ましかった。もう、マムーシュを話に登場させるとかいう以前の問題でね。馬車を使ってヒーナ様がソレイトナックに初めてを捧げた事とか、私としては、なるべく思い出したくなかった。その後の、ベイジとヒーナ様が険悪になった事とかも。

 でも、ちょっと特殊な事情と言おうか、実はイリーデに、ベイジについて話しておきたい、という気持ちもあった。と言うのも、ツッジャムの城下町に入ったら、ベイジの生家を探す予定だったのさ。私は事前に、ご党首様に許可をもらっていた。城下に住むベイジが、ビッサビア様やツッジャム城について、何か噂を耳にしているんじゃないか。そこを、私もご党首様も知りたかったんだよ」

「そうか。それも、おばさんの任務なんだね」

「そういうこと。そんな調子で、イリーデに話すことはいっぱいあった。二人で話している間に、馬車が峠や集落を幾つも通過した事に気づかなかったくらいさ。

 で、途中で、ヒヤリとする事があった。たしか正午だったか。太陽が一番高い位置に来ていた」

 セピイおばさんは、そこで息をついた。重たそうな息に聞こえた。

「不意に馬車の窓が叩かれて、私が開けたら、兵士の一人が馬車のそばに自分の馬を寄せていた。

『二人とも、馬車の中で、どこかにしっかり、つかまっていろ。一騒ぎありそうだ。俺らが声をかけるまで、扉も窓も開けるなよ』

 その兵士は言うが早いか、私の返事を待たずに窓を閉めようとした。私は『どうしたの』と、急いで尋ねた。

『賊につけられているらしい。オペイクス様が、警戒体制に入れ、とおっしゃった』

 兵士はそれ以上、答えてくれず、私とイリーデは仕方なく、馬車の真ん中で体を寄せ合って震えたよ。

 それでもイリーデは気になるのか、一度だけ窓をほんの少し開けて、後方を確認した。

『オ、オペイクス様が居ない』

 イリーデが泣きそうな声でつぶやいたと思ったら、すかさず『ばか、開けるな』と外の兵士から怒鳴られた。

 ま、まさかオペイクス様が私たちを見捨てるなんて。イリーデも私も、言葉には出さなかったが、お互いの顔を見合わせて、同じ不安を抱いた事が分かった。しかし確かめたくても、もう窓を開けるわけにはいかない。私とイリーデは、もう一度、体を寄せ合うしかなかった。

 私が『きっと大丈夫よ』なんてイリーデを慰めていたら、馬車の外で男たちの大声が響いた。

『お前らっ。命が惜しかったら、その荷物を置いて立ち去れ』

『ふざけるなっ、誰が渡すか』

 途端に、金属のぶつかり合う甲高い音や、叫び声、罵り合う声が、辺りに充満した。馬車の側面に何かが当たる、鈍い音も時々あった。

 私は、馬車のどちら側にも賊が迫っているんだと思って、怖くてたまらなかったよ。聞き覚えのある、こちらの兵士が痛がる声も聞こえた。私もイリーデも、それだけで悲鳴を上げそうになった。

 と、賊らしい声で、こんな言葉が聞こえた。

『げっ、騎士が居やがった』

 馬の蹄の音が忙しなくなって、物を叩くような鈍い音と、男たちの悲鳴が増えた。こちらの兵士たちじゃない。聞き慣れない、賊たちの声だ。私と向かい合ったイリーデの顔に、喜びの色が走った。

『オペイクス様、左ですっ』

 なんて、こちらの兵士の声に続いて、賊の悲鳴が、また上がった。

『ち、ちくしょう』

『ひいっ、命だけはお助けを』

 賊たちの声と、またゴツゴツと物を叩く鈍い音。違う、賊が殴られているんだ、と私は思った。

 イリーデがまた窓を開けようとしたんで、私は黙って、止めた。『手こずらせやがって。大人しくしろ』なんて兵士たちの声が聞こえたからね。

 しばらく馬車の外で騒ぎが続いたが、私とイリーデは辛抱強く、その時を待った。

 そして、その時が来た。

『もう大丈夫だぜ、お嬢ちゃんたち』

 兵士のその一言を聞くや、イリーデは馬車の扉を開け放った。縛り上げた賊七人ほどのそばに、兵士たちとオペイクス様が立っているのが、馬車の中からも見えた。

 イリーデと来たら、私なんか初めから居なかったかのように馬車から飛び出して、オペイクス様にすがりついて泣き出したよ」

「うーん。ここぞとばかりに、と思えますなあ」

 私が茶化すと、セピイおばさんは笑い出した。この夜で一番大きな笑い声かも。誰かに聞かれないか、私の方が心配してしまう。

「あんたも言ってくれるねえ。でも、まあ、その通りだよ。

 ただ、イリーデには悪いんだが」

 セピイおばさんは、話している途中でも笑っている。「私には親子に見えたよ、二人が」

「えっ、そんなに歳が離れていたの?」

「さっきも話した通り、この時のオペイクス様は三十過ぎ。半ばだったかな。イリーデは、たしか十七だった気がする。年の差は、十以上は確実に開いていただろう。父親と娘という見方も充分有り得る、と私は思った」

 うーん、と私は、うなってしまう。広い世の中には、たしかに、そんな夫婦もあるだろうけど。私個人は、せめて八歳違いまでが許容範囲かな。友達のルチアたちだって、十以上なんて想定していないと思う。

「まあ、イリーデの好みはともかく、問題は賊どもの処分だよ。オペイクス様は『ツッジャムに行く前に、付近の役人を訪ねて、賊どもを引き渡すしかない』とおっしゃった。

 そしたら、兵士たちが叫んだ。

『オペイクス様。どうか、その前に、こいつらをニ、三発、殴らせてください。お願いしますっ』

 オペイクス様は『斬りつけたり、骨を折ったりしないなら、いい』と許した。

 途端に、兵士たちは賊どもを蹴ったり殴ったりしたよ。『よくも、やってくれやがったな。てめえに斬られたところが、まだ痛えんだぞ』なんて怒鳴りつけながら。縛られて抵抗しようのない賊どもには、泣いている奴もいたっけ。

 そんな興奮した兵士たちの手当ては、もちろん、私とイリーデがした。馬車の御者や荷車の使用人二人も、怪我していたよ。賊どもに斬りつけられたらしく、震えていた。

 よく見ると、馬車そのものにも投げ斧が二つだったか、突き刺さっていたよ。

 イリーデはオペイクス様の手当てもしようとしたが、本人は遠慮なさった。『かすり傷で、手当てするほどじゃない。まだ包帯を温存しておきなさい』と」

「なかなか、かっこいいじゃん。イリーデちゃんの気持ちが、ちょっと分かるわ。

 ちなみに、盗賊たちの手当ては、してやったの?」

「ああ、そっちの方は放ったらかしさ。オペイクス様に斬られたのか、連中の服もだいぶ血が滲んでいたけど、役人のところまでは充分もつだろう、と。それがオペイクス様や兵士たちの見立てだった。

 そうやって味方側の手当てが済んだら、使用人の一人が怪我の痛みをこらえながら、近くの農夫を二人ほど、引っぱってきたよ。役人のところに案内してもらうためだ。

 農夫たちは、縛られた賊どもや、私ら一行の様子を見て驚いたが、役人については賛成しなかったね。その地域の役人のところまで行くには、近くの町まで出るしかなかったんだ。それより村長の家の方が断然近い、と。農夫二人は急いで、村長を呼びに行ってくれたよ。

 何分待ったかねえ。たしか半時間もしてないと思うんだが。やがて農夫たちと村長らしき老人、さらに別の農夫も四、五人、小走りでやって来た。

 一番年老いた男は、やはり村長だったね。オペイクス様に挨拶して、事情を聞いていた。そして、賊どもを役人のところに連行する役目を引き受けてくれたよ。

 村長や農夫たちが口々に言うには、賊どもはここニ、三ヶ月ほど周辺を荒らし回っている連中だろう、と。農夫の一人は、娘を輪姦されたと言って、縛られた賊に飛びかかろうとして、兵士に止められていた。

 すると、その農夫を見て、賊の頭目らしき男が言うんだ。『おう、ご想像の通り、たっぷり犯してやったぜ。金目のもんを持ってねえんなら、体で払わせて当然だろうが』

 農夫は、もちろん激怒したよ。だが、すぐには動けなかった。頭目が犯行を堂々と自供し終えた瞬間、オペイクス様が頭目をひっくり返したんだ。みんな、オペイクス様は何をしているのかと思っただろうよ。オペイクス様は何も言わずに、頭目のすねを踏み折った」

「えっ、すね?」私は聞き直した。

「そう。両脚のすねだよ。思い切り体重をかけて踏みつけて、折ったのさ、両方とも。途端に頭目の絶叫が、辺りに響き渡った。私もイリーデも、思わず耳を塞いだよ。

 頭目はその場でのたうち回りそうになったんだが、オペイクス様が農夫の足元まで引きずって行ったんで、それすら、できなかった。オペイクス様は、その農夫に言ったよ。

『殴る蹴るはいいが、刃物を使ったり、絶命させたりするのは、どうか我慢してください。少なくとも役人が事情聴取するまでは生かしておかなければならない』

 それで農夫は泣きながら、頭目を踏みつけにした。そんな農夫、つまり被害者の父親に、オペイクス様がそっとささやいた。

『家族も呼んで、一緒に報復するといい。できるなら、傷つけられた娘さん本人に一番させてやりたいが。あくまでも本人の意志を尊重して、無理強いはしないように』

 父親が頭目を踏む足が止まって、泣き声が一層、大きくなったよ。父親は泣きながら家族を呼びに行った。それを見送るオペイクス様のお顔も、何とも悲しげでねえ。まるでオペイクス様も被害者の親族かと思えたくらいだ。

 でもオペイクス様には、しょんぼりしている時間は無かったよ。その父親を見送ったのは、わずか数秒で、すぐに振り返って兵士たちに、こう言った。

『さっき、骨はダメだと言ったが、少し変更しよう。今から、手下たちのすねも折る。君たちも、やっていいぞ』

 兵士たちは歓声を上げて、賊の手下たちは悲鳴を上げたね。『お、お頭が余計なことを言うから』なんて仲間割れを始めたが、縛られて動けないから、無駄な労力さ。兵士たちは怪我させられた御者さんや使用人たち、地元の農夫たちも誘って、報復に勤しんでいた。

 それで気を利かせた別の農夫が、荷車を取りに戻っていったよ。役人のところに賊どもを連行しようにも、連中はもう歩けない。荷車に乗せるしかないからね。

 兵士の一人は『これで逃げられるもんなら、逃げてみろや』なんて罵りながら、頭目の脇腹に蹴りを一つ、追加していた。

 一方、オペイクス様はその間にも、村長に念を押していた。

『くれぐれも被害者である娘とその家族を慰め、いろいろと助けてやってください。間違っても、責めたり、いじめたりしないように。

 我々はツッジャムに向かう途中だから、そろそろ出発します。ですが、帰り道に必ず立ち寄りますので。その際には被害者家族の処遇を確認させてもらいますぞ』

 村長は、しきりにうなずいていた。そして改めてオペイクス様に礼を述べて、オペイクス様の名を知りたがったよ。オペイクス様は名乗らなかった。

『私は事件に間に合わず、事件の後でここを通りかかっただけだ。娘さんを救えていない。よって、私に名乗る資格は無い。

 それより、今回の加害者である賊どもに対する処置は、この地域一帯の領主様の意向に沿うものと認識していただきたい』

 村長や近くで聞いていた農夫は、ハッとして、それ以上は何も言わなかった」

 そこまで話して、セピイおばさんは息をついた。またしても重く、深いため息。うーん、今夜はキツい話は無さそうと思ったんだが。

「その村人たちは地域の領主様と聞いて、ヌビ家と分かったよね」

「そりゃ、そうだよ。自分たちが直接関わる役人や、そこら辺の小貴族とは、わけが違う相手だと。

 しかしオペイクス様は、くどくど説明したりしなかったね。元々、秘密の任務で私の里帰りに同行してんだから。

 村人たちとのやり取りはそれくらいにして、私たちはツッジャムに向けて再出発したよ。

 今度は私もイリーデも、ちょくちょく窓を開けて、周りを見た。

 馬車のすぐ後ろについた荷車の使用人は『揺れが傷にひびく』とか言って、ちょっと辛そうだったねえ。

 馬車の前を行く兵士の一人は『まったく、盗賊どものせいで、とんだ寄り道になったぜ』とぼやいていた」

「おばさん。これは聞いてもしょうがない質問かもしれないけど。馬車にヌビ家の紋章を掲げていたら、盗賊に狙われなかったかな?」

「ああ、それは、あり得るね。こっちがいくら少人数だからと言って、ヌビ家の紋章があったら、それなりの立場の者じゃないと、近づいて来ないだろう。

 しかし紋章を掲げられないのは、前に話した通りさ。オペイクス様も兵士たちも、頭巾を目深に被って、紋章衣は着ていなかった」

「それにしても、初日から大ごとだったね。ツッジャム城からの里帰りの時と、大違いだわ」

「そりゃ、距離が違いすぎるよ。その分、こんな余計な事件にも巻き込まれやすいってわけさ。まあ正直に言えば、私もヌビ家の紋章を使わせてもらいたかったけどね」

 セピイおばさんは話し疲れたのか、そこで少し葡萄酒を注いだ。

「イリーデちゃんも、さぞかし驚いたんじゃない?」

「そうなんだよ。イリーデと来たら、すぐに泣き止んだのはいいが、馬車の中で興奮しっぱなしでねえ。オペイクス様の賊どもに対する振る舞いをしきりに弁護するのさ。『オペイクス様は、やり過ぎたわけじゃない。当然のことをなさったのよ。それこそ正義だわっ』とか。

 私は、まだ何も言っていなかったのに、だよ」

 セピイおばさんは苦笑した。

「そのうち、他の人たちまで槍玉に上げてね。『オーカーさんやアズールさんだったら、こうは行かなかったと思う。もっと怪我人が出るか、賊を取り逃しているに違いないわ。ブラウネンなんか居たって、今頃、足手まといよ』だとさ。手厳しいだろ」

「色男さんたちはともかく、ブラウネンまで責めるのは、かわいそうよ」

 私も苦笑しながらブラウネン君に同情してしまう。

 

 セピイおばさんが言うには、へんに火がついてしまったイリーデちゃんは、なかなか収まらなかったらしい。血生臭い事件の直後だから仕方ないさ、とセピイおばさんは加減してあげたけど。

 でもなあ、と私は内心、思う。勝手に欠席裁判を始めて、無闇に矛先を広げるなんて。いや、イリーデは何かを決めたんじゃなくて陰口を言っただけだから、裁判でもないか。

 イリーデは、色男さんたちだけでは飽き足らず、彼らと関係の深いお姉様方まで非難し出したらしい。シルヴィア、スカーレット、ヴァイオレット。三人は、べつにイリーデをいじめていたわけではない。そんな、かっこ悪いことをするような人たちではない、とおばさんも証言した。ただイリーデとしては、子供扱いが面白くなかったのだろう、と。

 若かりし頃のセピイおばさんに、イリーデちゃんが言うには、たまたまブラウネンと立ち話していたところをお姉様方から冷やかされたそうな。

『何だか、おままごとみたい』

 これは嫌だ、と私も思う。あんまりだ。微笑ましい、とか言いたかったのかもしれないが。いや、やっぱり確信犯としか思えない。

 とにもかくにも、お姉様方は大人の女だったんだろう。男を知っている、男に肌をさらした経験のある、大人の女。そんなお姉様方からすれば、清らか過ぎるイリーデちゃんが、いかにも幼く見えて、少し苛立ちを覚えたのかも。

 村の年上の女たちも、私をそんな目で見ているのかなあ。何だか悔しい。かと言って、焦るのは嫌だし。私だって、相手はしっかり選びたいのだ。

 冷やかされた一件で恨んだのか、イリーデは三人のお姉様方を悪く評してばかりだった。特に、二人の色男さんとの関わり方が、イリーデには受け入れ難かったようだ。

 最初の組み合わせは、シルヴィアとオーカー、そしてヴァイオレットとアズールの二組だった。二回目は、シルヴィアとアズールが、スカーレットとオーカーがくっついた。それで三回目には、スカーレットとアズール、ヴァイオレットとオーカーが、それぞれ仲良くなった。

 いずれも、イリーデがメレディーン城で女中として働いている間に、聞くとはなしに仕入れてしまった噂話。

 お互いに取っ替え引っ替えとは、なるほど、おめでたい。それぞれ、どれくらいの交際期間があったことやら。その都度、体の関係があったと推測すべきなのか。すべきよねえ、大人のお姉様方なんだから。それならそれで、組み合わせが変わる際に、取った取られたの喧嘩をしそうなもんだけど。

 里帰りの後日、セピイおばさんがシルヴィアさん本人から聞かされた話によると、実際、喧嘩は、よくあったらしい。

「『でもね』とシルヴィアさんは言うんだよ。『いつまでも、いがみ合っていたも仕方ない』と。『誰が誰の気持ちを踏みにじった、と責めたって、お互い様よ。友達を裏切った、出し抜いたなんて、私ら三人とも、やっちゃっていたんだから。その回数の多い少ないをほじくり返しても、今さらでしょ。それで、そのうち怒り疲れて、お互いに顔を見合わせて笑い出す。その繰り返しだった。馬鹿みたいでしょ』だとさ。

 ちなみに、男二人の方でも似たような展開だったみたいだ」

 でしたか。セピイおばさんの説明に、私は曖昧な相づちしか打てない。

 当人たちは、それでよかっただろう。でも、イリーデちゃんには理解できなかったに違いない。セピイおばさんから話を聞いた私も、理解したわけじゃない。お姉様三人から取り合いっこされるほど、騎士二人が色男だった。私に理解できたのは、そこだけ。もう、その時点で、この二人に共感できないんだけど。むしろイリーデちゃんに激しく同情、同意してしまう。

「イリーデは五人まとめて、散々くさしていたよ。『ふしだら』だとか『節操がない』とか繰り返してね。ツッジャムに着くまで、馬車の中で、ずっとそんな調子だったと想像しておくれな。私は、相づちを打つだけで疲れたよ」

 私は、おばさんにつられて、苦笑してしまった。

 おばさんは、また遠くを見る目になって、こんなふうにも付け加えた。

「しかもね。この付き合い方で、姉さんたち三人とも、赤ちゃんができたりはしなかった。まあ、たまたまだろうが、それで良いのか悪いのか分からないよ」

 運良く妊娠しなかったと見るべきか。それとも妊娠していた方が、ころころ組み合わせが変わらずに、早く結婚が成立していたのか。なるほど、神様の思し召しは分からない。

「セピイおばさんは、里帰りの後でイリーデが言ったことを、お姉様三人に話したりはしてないんでしょ?」

 私が念のためと思って聞くと、おばさんは、また笑った。

「そりゃ、言えるわけないじゃないか。私まで無駄に睨まれちまう。それに、言わなくたって、三人とも感づいていたよ。それで三人の方から私に問わず語りを始めて、さっきのシルヴィアさんのせりふが出てきたってわけさ」

「ふふっ、お姉様たちなりの言い訳だったりして」

 セピイおばさんは、げらげら笑い出した。やった、ウケた、と私は、ほくそ笑む。

「はあ、神様が奇跡を起こしてくださらないかねえ。それで、あんたをあの頃のシルヴィアさんたちに引き合わせたいよ」

「ひーっ、それは勘弁」

 神様がなかなか見えない存在で良かった。今回だけは私も心から、そう思った。

 

「さて、私たち一行がツッジャムの城下町に入った時には、もう太陽が隠れかかっていた。西の空が真っ赤に染まって、影という影が長くなって。

 私は焦ったよ。もう少し明るい時間に城下町に入って、ベイジの商家を探したかったんだ。まったく、盗賊どものおかげで、いい迷惑さ。

 私にとっては、ベイジから聞かされていた通りの名前だけが頼りでね。私が先頭の兵士たちと馬車の御者にその名前を教えて、兵士たちが通りかかった町人たちに道を尋ねて回った。私もツッジャム城に居た時は、頻繁に城下町に出かけたわけじゃないんだよ」

「そうねえ。私たち村の人間が城下町に行くのも、たまにだし。父さんたちなら、だいぶ道を覚えただろうけど。私とか村の連中のほとんどは、城下町の道を把握できてないわ」

「やっぱり、そうかい。私の若い頃と大して変わってないねえ。

 そもそも、ベイジの商家が在る通りは、ツッジャム城からは結構、離れていた。城下町の端っこ、というほどでもないんだが。

 私たち一行は、町人に道を教わって、少し進み、また別の町人に道を教わる。それを三回くらい繰り返したと思うよ。城下町に入ったところから、ツッジャム城の向こう側にぐるっと回り込む形になった。その分、時間がかかって、私は気が気じゃなかった。

 でも、いいこともあってね。暮れかけて、店という店が片付けを始めて、人の出入りが活発になっていたんだ。通り側に出していた品物を店内に取り込んだり、壁に付け足して伸ばした日除けを畳んだり。商売人たちが、みんな忙しそうにしていた。

 私は馬車の窓から身を乗り出して、そんな商売人たちを喰い入るように見回したよ。そしたら、やっぱり居た。とある店先に、懐かしい顔を見つけたんだ。

 私はすぐに、ベイジの名を叫んだ。ベイジも顔を上げて、私と目が合ったよ。

『セピイっ。セピイなの?』ってベイジは目を丸くしてね。

『そうよ』と答えて、私も手を大きく振った。そして御者に、馬車を止めてもらった。

 それを見て、ベイジも通りに飛び出そうとしたんだ。そしたら途端に『ベイジ、走るなっ』と男の声が響いた。同い年くらいの男が店の奥から走り出てきて、ベイジを捕まえた。

 私は、その二人の様子にハッとして、もう一度、叫んだよ。『私の方から行くので、そこで待っていて』と」

「ん、どういうこと」

「ベイジのお腹に赤ちゃんがいると予想したんだよ。で、男は旦那さんだろう、とね」

「あ、なるほど。だから走っちゃいけなかったんだ」

「私が急いでベイジに駆け寄ってみると、やっぱり、予想通りだった。

 私とベイジは、久しぶりと言って抱き合ったり、私から赤ちゃんのことで、おめでとうと言ったり。それと、ベイジから旦那さんに、私を紹介してもらったり、もね。感激しながら、やること盛りだくさんだったから、二人とも混乱して、泣き笑いになったよ」

 セピイおばさんは話しながら、微笑んでいた。当時の喜びを再び感じているんだわ。

「とは言え、長々と立ち話している場合じゃないね。私は、ベイジと旦那さんに頼んでみた。いきなり押しかけて悪いが、私たち一行を泊めてくれないか、と。

 続けて私は、兵士たちや御者に声を掛けて、店の前に馬車と荷車を誘導してもらった。私ら一行の人数を見て、ベイジも旦那さんも言葉を失くしていたよ。そりゃ、仕方ないよね。兵士と使用人が二人ずつ。それと、馬車の御者とオペイクス様。あと、イリーデと私だ。急に八人も泊めるだなんて、誰だって困るよ」

 セピイおばさんは、ククッと忍び笑いをはさんだ。

「でも、そこで、またオペイクス様の登場さ。オペイクス様は兵士の一人に馬を預けて、こちらに駆け寄ったよ。

 オペイクス様は、まずベイジと旦那さんに挨拶して、簡単な自己紹介をした。旦那さんなんか、オペイクス様がメレディーン城の騎士と知って、驚いて恐縮したよ。オペイクス様が『あまり大声を出さないように』と頼まなきゃいけなくなったほどさ。

 オペイクス様はベイジ夫婦に説明した。

『まず自分と兵士二人には今夜、行くところがある。よって、こちらにご厄介にはならないから、安心していただきたい。使用人二人と馬車の御者にも、近くの宿屋を探すよう、私から言っておこう。

 あとは、こちらのセピイと、同僚の女中が残っているのだが。この計二名だけ、どうか泊めてやってください。

 それと、馬車と荷車を預かってくれる場所があると、ありがたいのだが』

 オペイクス様の丁寧な口調と内容に、ベイジ夫婦も少しは安堵した様子だった。しかし、まだ問題がある。馬車と二台の荷車だ。

 ベイジの旦那さんは自分の両親や店の使用人に声をかけて、店内の物を片側に寄せようと、品物やら棚やらを動かそうとした。

 品物は油が入った壺や樽が主で、その他は染料や薬液。酒樽とお酢の樽も少々あったね。もちろん、それらの大小は様々だよ。つまりベイジの商家では、油類を中心に売り買いをしていたのさ。

 私ら一行も、それらの壺や樽の移動を手伝おうとした。すると、ベイジ夫妻と親たちは慌てて遠慮してね。騎士であるオペイクス様に、そんなことはさせられない、と言うわけさ。まあ平民なら普通、そう反応するところだよ。

 しかし、オペイクス様は手伝った。『厄介をかけるのは我々なのだから、当然だ』と答えてね。

 で、しばらくして、何とか荷車を二台、店内に収容することができた」

「うーん。となると、残るは馬車」

 その対処の仕方を予想できなかった私は、つい口をはさんでしまう。

「それと、荷車を引いてきた馬たちも居るよ。

 これが最後の難問だったねえ。ベイジの旦那さんやお舅さんは『商人仲間に頼もうか』とか何とか言っていたが、適任者がいないのか、答えが出ない。

 そしたら、こちらの御者さんが言い出した。

『もう、しょうがない。馬車は店の前に置かせてもらって、馬たちは馬車に繋いで、路上に寝かそう。聞くところによると、セピイのお里は農村らしいじゃないか。明日、農村でゆっくり休めるんなら、馬たちも一晩くらいなら我慢できるって。

 オペイクス様。見張りを兼ねて、俺が馬車の中で寝ますんで、ご安心を。

 旦那さん、俺には晩飯だけ、厄介にならせてくれ』

 これには、みんな賛成したよ。もう、他に手は無い、と分かっていたからね。

 オペイクス様は改めてベイジ夫婦に、私とイリーデ、御者さんのことを頼んだよ。そして私らの宿代と馬の餌代として、金の入った小袋をベイジの旦那さんに受け取らせた。

 その上でオペイクス様は、宿屋で泊まる予定の使用人二人に、明朝、店に戻ってくるよう言いつけた。

 で、ご自分は、また馬上に戻った。兵士二人も同じだよ。揃って夕闇の中へ、ツッジャム城に向かって馬を走らせた。

 こちらの使用人たちも、ベイジのお舅さんに宿屋を教えてもらって、そちらに向かった。

 それを見送って、私とイリーデと御者さんは、ベイジの家族の晩餐にお呼ばれした」

 そこまで話すと、セピイおばさんは大きく息をついた。私も一緒に息をついてしまう。まるで二人とも、ベイジの店に居るみたい。

「私ら三人はベイジから、椅子に座ってゆっくり待つように言われた。奥でお舅さんの声が聞こえたよ。『せっかくのお客さんだ。いい肉と酒を奮発しろ』とかね。ベイジとお姑さんは食卓からお皿がはみ出そうなくらい、ご馳走を出してくれたよ。

 賑やかな晩餐だったねえ。みんなで改めて挨拶を交わして、乾杯した。ベイジの旦那さんもお舅さんも、私らからメレディーンの話を聞きたがって、話が弾んだ。

 で、やっぱりベイジの家族は、イリーデの美貌を誉めたよ。ヌビ家の娘ではない、と本人も説明したんだが、ベイジたちは、なかなか信じられないでいた。

 そのうち、ベイジの両親も駆けつけてね。近くに住んでいて、店の使用人が呼びに行ってくれたらしい。私はベイジの両親にも挨拶できて、よかったよ。

 そうやって盛り上がったはいいが、ベイジと積もる話をできる状況ではなかった。そこは我慢しながら、今度はこちらからツッジャムの様子を尋ねてみたよ。

 途端にベイジの両親も旦那さんの両親も、ぼやき出した。何って、新城主パウアハルトに対する不満さ。内容は、以前マルフトさんから聞いていた事とほぼ同じ。と言うより酷くなった感じか。ベイジのお舅さんがたしか、こんなふうに嘆いたよ。

『ああ、何でモラハルト様が引退なさったのか。今からでも戻っていただきたいよ。

 なあ、あんた方、メレディーンのお城に戻ったら、ヌビ家のご党首様にお願いしてくれんかね』

 私らは困ってしまった。確約なんて、できないからね。

 イリーデも言っていた。パウアハルトがメレディーン城に居た時は、怖くて近づかなかった、と。ベイジの旦那さんも親父さんも、それを聞いて『そうだろ、そうだろ』と仕切りにうなずいていた」

「うーん、パウアハルトは、ともかく。

 その口調だと、ベイジの家族は、モラハルトがセピイおばさんにどんなことをしたか、知らなかったみたいね」

「そうなんだよ。少なくともベイジは、かつての女中仲間から噂を聞いているだろう、と私も推測した。あとは、ベイジが旦那さんに話したかどうか、が半々くらいか」

「ますます、混み合った話が、できなさそう」

「だから私は内心、焦りながらも、晩餐がお開きになるのを待ったよ。

 で、みんなが食べ終わると、ベイジやお姑さんは片付けを始めた。ベイジのお袋さんも手伝っていたから、私とイリーデも加わろうとしたが、遠慮されてね。『お客なんだから、くつろいでおくれ』なんて、お姑さんが言ってくれるんだよ。

 それで、私とイリーデは手持ち無沙汰になった。と思ったら、お舅さんから声がかかった。何でも、こちらの御者さんと、馬たちを寝かしつけながら呑み直すから、ちょっと付き合ってほしい、と。すかさず、ベイジが言ってくれたよ、お皿を洗いながら。

『お義父さん、だめですよー。この後、女同士で大事な話があるんですからね』

 お舅さんは、いたずらを見つかった男の子みたいに舌を出して、首をすくめていたよ」

「ふむ、その様子なら、ベイジは旦那さんの両親と上手くやっているんだわ」

 私は感心しつつ、自分も将来こんなふうになれたらいいな、と羨んでしまう。

「ふふ、正しい推測だよ、プルーデンス。

 ただ私とイリーデは、それでも少しはお相手せねばなるまい、と気を使った。

 店先の路上では、旦那さんやお舅さん、ベイジの親父さん、こちらの御者さんが、何かを運んだりしていてね。何かと思えば、藁の束や大きめの粗布だった。それらを馬たちの脚元に敷いてやっていたんだよ。ベイジの旦那さんたちが急いで、かき集めてくれたらしい。

 私とイリーデは、それらを敷く作業を手伝ったのさ。馬の一頭なんか、イリーデが藁を撒いて広げた途端に、その上に寝転がったよ。それを見て、お舅さんも、こちらの御者さんも『現金な奴だ』と笑っていた。

 そうやって、馬車の周りに馬たちが一頭、また一頭と脚を屈めていった。ベイジの親父さんが『馬たちも、お疲れなんだろう』とそばに座って、撫でた。ベイジの旦那さんが、その隣にこちらの御者さんを誘導する。その時には、旦那さんの手に、盃が幾つかと、酒の皮袋があったよ。これに、ベイジのお舅さんも加わって、路上の酒盛りが始まった。

 私はイリーデと顔を見合わせて、一杯だけは付き合おうか、と迷った。でも結局、しなかった。皿を洗い終わったベイジが、呼びに来たんでね。

 ベイジは、ついでに塗り薬の入った小さな壺を持ってきていたよ。それを旦那さんに手渡して、御者さんの顔に塗ってやるように言った。昼間、盗賊が投げつけた棍棒のせいで、御者さんのおでこに染みができていたんだ」

「うーん、なかなか大変だったね。やっぱり賊の類は怖いわ」

「まったくだよ。だから遠出は悩ましいんだ。出ないと世の中が分からないし、出たら出たで危険と隣り合わせだからね」

 セピイおばさんは、その憂さを晴らそうと思ったのか、葡萄酒を一口あおった。

 

「さて、それからベイジは、私とイリーデを部屋に案内した。私ら二人のために寝床をこしらえてくれた部屋だよ。

 寝床はそれぞれ壁に寄せてあって、間が通路のように空いていた。私とベイジは、その二つの寝床に分かれて、向かい合って腰掛けた。イリーデは私の隣さ。低い棚の上で、小さなロウソクの灯りが周囲を照らしていた。

 ベイジが改めて言ったよ。『一年。丸一年、経ったんだよ、セピイ』

 ベイジは私の手を握りながら、目を潤ませていた。

 その上で、ベイジは私に確認したんだ。これからする話をイリーデにも聞かせていいのか、と。

 私は答えた。あえて聞かせたい、と。なぜならイリーデは、結婚前のヒーナ様と同じで、女と男について知りたがっている。そのために、ご党首様の許可も得ている、とね。

『分かった。じゃあ、イリーデちゃんも、しっかり聞いてね。あまり大きな声で話せない事が多いから』

 イリーデは『はいっ』と生真面目に答えた。

 ベイジは、まずモラハルトの事件について、私に尋ねた。私が『ビッサビア様のおかげで、何とか無事で済んだ』と答えると、ベイジは泣き出して、私を抱きしめてくれたよ。

『心配したんだよ。ずっと心配だったんだからね』

 そう、ベイジは繰り返した。私も、その気持ちがありがたくて泣けたもんさ。

 すぐそばでは、イリーデが目を白黒させていた。私がツッジャム城からメレディーン城に移ってきた事情を初めて知って、愕然としていたんだよ。『私、何でセピイさんがツッジャム城に立ち寄らないのか、不思議に思っていたんです。こ、こんな事情だったんですね』とまで言って、後は絶句していた。

 ちなみに、ベイジにモラハルトと私の事件を教えたのは、マルフトさんだった。マルフトさんがこの村に来て、私の家族に私の状況を伝えてくれた事は、前に話しただろ。マルフトさんは、それに合わせてベイジにも知らせてくれていたんだよ。もちろん気をつけて、口外しないように念を押してね。

 その頃のベイジは、まだモラハルトを信用していて、半信半疑だったそうだ。

 ベイジはマルフトさんの忠告通り、誰にも話さなかった。迷って結局、旦那さんと親父さんたちにも話さなかった、と。

 そしてベイジは、城下町の様子を注視していたんだ。ベイジが見たところ、私らが泊まりに来た時点でも、城下町で事件を知る者はほとんど居なさそうだ、と。それとも、噂などで事件を知りながら、口をつぐんでいたのか。

 とにかく、ベイジの見立ては、こんな感じだった。ある日突然、息子のパウアハルトがメレディーンから戻ってきた。そして父親であるモラハルトは、息子にツッジャム城を譲って、引退。城下町とここら一帯の住民は、その程度の認識だろう、と。だから噂も知らないベイジのお舅さんたちからすれば、モラハルトが急に引退したようにしか見えなくて、不思議で仕方ないのさ」

「な、なんか、悩ましいね。モラハルトの悪行がもう少し知れ渡るべき、とも思うけど。だからって、セピイおばさんがあれこれ噂されるのは良くないし」

「そうなんだよ。それでもモラハルトの犯行は未遂で、私は無事で済んだんだから、ありがたいと思っておくべきなのか。後になって、よく思い返したもんさ」

 セピイおばさんは、また、ため息をはさんだ。

「で、モラハルトの話はそれくらいにして、私はソレイトナックに話題を移した。そう、私からソレイトナックとの件を告白して、ベイジに謝ったんだよ。ベイジはびっくりして、私を問い詰めた。私は恨まれるのを覚悟して、できるだけ正直に話した。城下町のお祭りの日にソレイトナックと結ばれた事、結婚も約束した事。もちろん、ツッジャム城の地下道については言わないよ」

「ベイジは怒った?」

「怒った、と言うか。『なにー、ずるいっ。私がカーキフのお相手をしてやっていた時に』だってさ」

 ぷくくっ。私は吹き出してしまった。

「ベイジも偉いじゃない。ちゃんとカーキフの事、覚えてあげていたんだね。別の人と結婚したのに」

「まあ、旦那さんには聞かせられない話だよ」

「でも、そのカーキフの事とかも、イリーデちゃんに聞かせたの?」

「聞かせたよ。潔癖な娘だから、後でブツクサ言われるだろうと覚悟しながらね。

 でもカーキフの事は、まだよかった。私じゃなくて、ベイジが当事者だから。それより問題なのは、私が当事者の話さ。ベイジったら、仕返しのつもりなのか、私とソレイトナックがどんなふうに抱き合ったか、細かく追求してきてねえ。『せっかくだから、イリーデちゃんの学びのために、正直に話しなさいっ』だなんて。わたしゃ、恥ずかしかったよ」

「ふふふ、随分いじめられたわね」

 茶化しながら、ベイジは羨ましがっていたんだろうなあ、と私は推測する。

「簡単に言わないでおくれよ。私も辛かったんだからね。話しているうちに、恥ずかしいだけじゃなく、ソレイトナックに会いたくなって、たまらなくて、たまらなくて。私と来たら、ベイジとイリーデの前で、しくしく泣き出してしまったんだよ。

 ベイジは、やり過ぎたと慌てて私に謝ったけど、べつに私はベイジを責めて泣いたんじゃない。一刻も早くソレイトナックと再会して、もう一度きつく抱きしめてもらいたかった。

 はしたないと思うかい?でも、泣いた瞬間、私は、それしか考えられなかったんだよ。二人にも正直に話した。二人から、どう思われても構わない、と。とにかく、そんな気持ちだと知ってもらいたかったんだ」

 セピイおばさんが微かに微笑んだように、私には見えた。

 私は何も答えられなかった。相づちも打てない。もちろんニヤけるのも、やめていた。

「ついでに、と言おうか、ベイジはヒーナ様の事も尋ねてきたね。『今ここで泣くくらいなら、ヒーナ様とソレイトナックの逢引きを手伝うのも辛かったんじゃないの?』と。そう、ヒーナ様がマムーシュに嫁いでいく直前の、馬車を使った逢引きの事だよ。

 私は、それも二人に話した。馬車の外で待っていたら、ヒーナ様のすすり泣くような声が聞こえてきて、逃げ出したい気持ちを必死でこらえた事とかね。イリーデは赤面していたようだし、ベイジからは謝られた。自分だけ逃げて悪かった、と」

 セピイおばさんが遠くを見る目になった。視線が私を通り越して、どこかに飛んでいる。ツッジャムの城下町、ベイジの家の方かも。

「さて、そんな感じで私ばっかりしゃべったから、今度は私からベイジの近況を尋ねたよ。

 旦那さんは、ベイジの最初の彼氏だった。ベイジがツッジャム城の女中をやめて、実家に戻ってから、しばらくして、また頻繁に会うようになったそうだ。話が進んで、ベイジと旦那さんは、そのまま結婚したんだよ。私らが押しかけて泊めてもらったのは、そのちょうど半年後だったとさ」

「赤ちゃんができたから、結婚に踏み切ったのかな?」

 と、私は少々、生意気な質問をしてしまう。気になったのだ。

「それにしちゃ、お腹はまだ、そこまで膨らんでいなかったよ。つわりが始まって、一月ほどだ、とベイジは言っていた。それで赤ちゃんに気づいた、と。

 ベイジは、私とイリーデの手を取って、お腹に触らせたよ。私もイリーデも、手が震えてねえ。赤ちゃんの鼓動は分からなかったが、ベイジのこの体温は実は二人分なんだ、と思うと感慨深いじゃないか。よく見たら、隣でイリーデが、もう赤ちゃんと対面したみたいに、目を潤ませていたよ」

「なるほど。これは、たしかにイリーデにも聞かせて、体験させるべきことだわ」

 と言うことで、私もセピイおばさんに賛意を伝える。そして感謝も。私も聞くべき話だから。

「あの時は私も、イリーデを連れてきて良かった、と思ったよ」

 セピイおばさんの顔が柔らかい笑みに包まれた。

「そうだ、思い出した。その後、ベイジがイリーデに尋問を始めたんだよ。

『人に話させてばかりで、ずるいでしょ。少しは自分のことも話しなさい。ほら、お姉さんたちが聞いてあげるから』

 なんて、肘で小突いたりして。

 だもんで、イリーデはブラウネンと婚約中である事を白状しなきゃならなくなった。ベイジったら、最初の質問がブラウネンの容姿についてでね。イリーデは、まあまあみたいな答え方をしたんだが、私から『あら、充分かっこいいわよ』と訂正しておいた。イリーデは途端に私を睨んだね。余計なことを言うなって言いたかったんだろう。でもベイジから『照れなくったっていいじゃない』とか、さらに冷やかされていたっけ。

 その後、イリーデはブラウネンの欠点をくどくど並べ立てようとしたんで、ベイジと私は、それをやんわりと遮った。『はいはい。馬車の旅で疲れたろうから、もう寝なさい』なんて言い聞かせてね。

 イリーデは、ふて寝気味に、仕方なく横になったよ」

「ふふっ、いじめすぎたんじゃない?」

「かもね。でも、イリーデが疲れていたのも事実で、すぐに寝入った。私とベイジは、ちょっと驚いて、顔を見合わせたもんさ」

 セピイおばさんも、ふふっ、と笑い声をもらした。

「楽しい夜だったんだね」私は嬉しくて言ったのだが。

 セピイおばさんの表情が不意に寂しげに変わった。「と言いたいところだけどねえ。この夜には、まだ、ちょいと続きがあるんだ」

 

 セピイおばさんは、また葡萄酒を少し、盃に注いで呑んだ。

「イリーデが寝た後で、店先の馬車の方を見ると、そちらもお開きになろうとしていた。ベイジのお姑さんがお舅さんに、そうしろと声をかけたんだ。ベイジの親父さんもお袋さんに引っぱられて、ベイジのところに来たよ。お休みを言って、帰っていった。で、締めは旦那さんだ。一度ベイジを抱きしめてから、同じようにお休みを言って、引き上げていった。

『いい家族だわ』と私は思わず、つぶやいてしまった。

 そしたら、ベイジが『何言ってんのよ。セピイだって、明日は家族に会えるじゃない』なんて言いながら、私の背を軽く叩いた。

『でも、あれやこれやで、たっぷり絞られるのよ』って私が答えたら、笑っていたわ」

 そう話すセピイおばさんも笑みを浮かべているが、なんだか元気が無くなったような。

「ベイジは、さらに言ってくれたっけ。『それはそれで、家族が元気な証拠と思って、神様に感謝しなさい』とか何とか。

 でも軽口はそれくらいにして、私は、いよいよ本題、一番尋ねたかったことに話を移そうと思った。もう一度、イリーデが寝入っていることを確かめてからね」

 一番尋ねたかったこと?となると、ソレイトナックに関連することかな。

「よくよく顔を覗き込んでも、イリーデが寝ていることは確実だった。もっとも、聞き耳立てても、得する話なんか一つも無いんだが。

 声量をさらに下げて、私はベイジに話しかけた。

『どうしても聞きたいことがある。ビッサビア様を悪く言うことにもなるから、ご党首様からは口止めされていたんだけど、それでも知りたいの。お願いだから、知っている限りでいいから教えて』

 ご党首様から口止めと聞くや、ベイジが目をひん剥いたのが分かったよ。薄暗い寝室でも。そりゃ、そうだろう。モラハルトどころか、ご党首様だもの。ベイジは、うろたえた。

『待って、セピイ。あんた、自分が何を言っているのか分かってんの?』

 とまで言われたけど、私は謝りながら食い下がった。ベイジの手を握って、頭を下げたよ。そして泣けてきた。

 ベイジは困惑しながらも『手短に、ね』と言ってくれた。

 私は声を抑えつつ、意を決して、ついに話したよ。ポロニュースから聞かされた、ビッサビア様とソレイトナックの関係を。

 ベイジは目も口も大きく開け放して、絶句した。私は、彼女が裏返った声を上げるんじゃないかと心配して、彼女の口を塞ごうとしてね。それで我に返ったベイジは、こう言った。

『セピイ。今、何て言ったの。本気で言ってるの?』

 私はベイジに詳しく説明したよ。ポロニュースの存在と、まだ他にもマーチリンド家の密偵たちが暗躍しているだろうという見立て。それがビッサビア様の差し金である事。そして私自身が、その手伝いをしてしまったという事実。それらを全部ひっくるめて、ご党首様に告白した事もね。

 ベイジは聞いてくれたものの、顔をしかめたまま、なかなか返事してくれない。私が何回も謝っても。やっと口を開いたと思ったら、こんな返事だった。

『セピイ〜。聞かせないでよ、そんな話。ヌビ家とマーチリンド家なんて、貴族家が二つも出ばってきてんのよ。怖すぎるじゃない。シャレになんないわよ』

 私は、もう一度、謝るしかなかった。

『でも、これで分かったわ。ビッサビア様が何であんたを猫かわいがりしていたのか。手懐けて、あとあと密偵の手伝いをさせるつもりだったのね。

 それにしても、ソレイトナックがビッサビア様のお相手だなんて。私たち、それも知らずに彼を追いかけ回していたの?ビッサビア様が、どんな目で私たちを見ていたことやら』

 ベイジは、そこまで言って、身震いしていたよ。

 彼女には本当に申し訳なかったねえ。でも私としては、状況を理解してもらう必要があった。そうしないと、こちらが質問できないんだよ。だからこそ、ご党首様に逆らうことになるのを覚悟してまで、私は話したのさ。

 まあ質問と言うか、要するに、ベイジの意見を聞きたかっただけなんだがね」

「意見?」

「そう、私の推測に対して。私はベイジに、自分の推測を披露したよ。ビッサビア様がソレイトナックを拘束しているのではないか、という推測。

 それを聞いてベイジは唸った。数秒考えていたが、結局しかめた顔のまま、ゆっくり横に振った。ベイジの意見は否だった。

『事情を考えれば、そういう発想になるセピイの気持ちは分かるけど。

 ソレイトナックはビッサビア様のところにも居ないと思う』

 そう言って、ベイジは理由を説明してくれたよ。ベイジは、まず、ビッサビア様の機嫌が非常に悪くて、城下町でも噂になっている事を教えてくれた。ツッジャム城を息子パウアハルトに譲って、屋敷に移った夫モラハルトが、堂々と女中などに手を出しまくっている事が原因だろう、と。城下の町人たちは黙っていても、そう考えているはず。そしてベイジも、私から話を聞くまでは、そう推測していたそうだ。

 しかし、そのうちベイジの耳に、別の噂も入ってくるようになったらしい。ビッサビア様がツッジャム城に若い男を連れ込んでいる、と。その手の男は、ずっとかわいがられて、いい思いをしている、とか。逆に、まったく姿を見せなくなって、亡き者にされたんじゃないか、という噂もあったそうだ。要するに、町人たちの間では、散々な噂が飛び交っていたわけだよ。もちろん声を潜めながら、ね。

 ベイジは付け加えた。『私は、この噂もあながち嘘じゃない、少なくとも半分くらいは事実だろう、と思っている。それでいくと、ビッサビア様がソレイトナックを捕まえているとは思えないの。彼を確保しているなら、他の男を連れ込む必要なんか無いでしょ』と。

 なるほど、と今度は私が唸る番だった。

 ベイジは、さらに、こうも言った。

『私はてっきり、あんたがまだビッサビア様を崇拝していると思っていたから、この手の噂については言わないつもりだったのよ。でも、状況がすっかり変わってしまったわね』

 私には、ベイジの眼差しが、ちょっと憐れみを含んでいるように感じたよ」

 セピイおばさんは、大きく息をついた。

「う、うーん。収穫無し、か」と私は思わず、ぼやいてしまう。

「贅沢を言えば、ね。たしかにソレイトナックの行方は相変わらず不明。でも、ビッサビア様の状況は分かったんだ。それだけでも私はベイジに礼を言ったし、ご党首様の意向に反した甲斐があったと思ったもんさ」

 ううーむ、と私は唸るしかない。そして内心、思っている。私だったら焦るけどなあ、と。もちろん、おばさんも辛かったろう。

「ベイジは少し考えて、もう一つ話せる事があると言い出したよ。あんまり面白くない話だけど、こらえて聞いてほしい、と逆に頼まれた。私は知っておいた方がいい、と。

 ベイジは、先月の事かと言っていたね。旦那さんと知り合いの商家に顔を出して、大通りを戻るところだったそうだ。そしたら、離れたところから呼び止める声がする。誰かと振り返れば、ミアンカだよ。あんた、覚えているかい?私が城下町のお屋敷でリオールと逢引きしていた時に、絡んできた女中。リオールと関係があっただろう、と噂されていた女さ。

 しかも、ミアンカには連れの男が居た。それがなんと、モラハルトその人さ。ミアンカはモラハルトと腕を組んだまま、ベイジに手を振ったらしい。大通りの反対側から。お伴も二、三人、そばに立っていた、とか。

 ベイジは唖然として、目が合ったものの、返事をすべきか分からなかったそうだ。旦那さんも、たまたま近くに居合わせた町人たちも、ミアンカの方を見た後で、すぐに目をそらした。きっと、そうするしかなかったんだろうよ。ミアンカとモラハルトじゃ、親子もいいところだからねえ。それが公衆の面前で、堂々と腕を絡ませるなんて。みんな、気づかないふりをするのが、やっとだよ。

 しかも、だ。ミアンカと来たら、わざわざ大通りを跨いで、ベイジに駆け寄ってきた。モラハルトをお伴に預けたままで。ベイジは、逃げ出そうかと迷ったらしい。

 ミアンカは、さも親しげにベイジに話しかけた。そしてベイジと旦那さんの関係を聞き出すや『あら、おめでとう』と微笑んだとさ。

 そのくせミアンカは、聞かれてもないのに、モラハルトとの関係を滔々と語った。屋敷で一緒に暮らしている、寝食を共にしている、と」

「寝食」私は思わず、口をはさんでしまった。

「そう。寝ることと食べること。あんたと同様、誰だって、ミアンカはモラハルトの寝床でのお相手をしている、と解釈するさ。そんなことを自分から言いふらすんだからねえ。

 ミアンカは自分の生活を、優雅で満ち足りたものだ、と言ったそうだ。食べ物も衣類も、いつでも望んだ時に手にして、かつて同僚だった女中たちや使用人たちが自分にかしずくんだ。なるほど、優雅なもんだろうよ。

 さらにミアンカは、こんなことも言った。

『もう、ニッジ・リオールもソレイトナックも目じゃないわ。だって、城主様が私の旦那様なんだもん。ああ、私を小物狙いなんて言ってくれた、ネマに見せてやりたい。あいつ、途端に姿を見せなくなったでしょ。私にやり返されると分かっているから、出てこられないのよ、きっと。

 でも、まあ、ネマみたいな小物、どうでもいいわ。それより見てなさい。私はビッサビアを追い出すわよ。ネマどころか、私はもうビッサビアにも勝てるの。なんてったって、私にはモラハルト様がついているんだからね。あの人ったら、私にぞっこんで、私無しでは生きられないみたい。

 だから、ゆくゆくは、あのおっぱいが大きいだけのおばさんには引退してもらって、威張りん坊で嫌われ者の息子にもお城を返してもらうわよ。あのどら息子には、豪商たちの誰もついて来ていないんだから、うちの人が返り咲いたら、感謝されるわ。みんな、幸せになれるってね』

 ベイジが言うには、ミアンカは、その後、話題を私に移したそうだ。私を馬鹿呼ばわりしていた、と。要するに、私がモラハルトに犯されそうになった、あの時、そのまま抱かれておけば良かった、と彼女は言うのさ。そうすれば、お妾という彼女の地位に、このセピイが立っていたはずだ、と。優雅な暮らしを得られたのは彼女ではなく、私だっただろう、とね。

 だからミアンカは、私に感謝していたそうだ。ベイジに、私と再会することがあったら、礼を言っておいて、なんて頼んで、モラハルトのところに帰っていったとさ」

「って、ベイジってば、だからって、わざわざミアンカの嫌味な伝言をおばさんに伝えたの?」

「そんなんじゃないよ。ベイジは、そんなことが言いたかったんじゃないのさ。そこからが、ベイジの本題だよ。彼女は言った。

『私も、ミアンカがあそこまで馬鹿だとは思わなかったわ。城主夫人に成り代われると思っていたみたいだけど、なれるわけないじゃない。モラハルト様に弄ばれて、飽きられたら捨てられるだけ。それに、あんたの話だと、アキーラとかメロエも妾なんでしょ。まだモラハルト様と関係が続いているに決まっているわ。何で、そんなことが分からないのかしら。

 そもそも、ビッサビア様はそんな甘ちゃんじゃないわよ。今、セピイから密偵たちの話を聞いて、恐ろしくなったくらいだわ。

 それなのに、あいつったら、周りに町人たちとか、私の亭主とか居るのに、べらべらしゃべりまくって。ビッサビア様やパウアハルトについてまで言及するもんだから、みんな硬直して、必死で聞こえないふりをしていたわ』

 そしてベイジは、こうも言ってくれた。

『セピイ、嫌なことを聞かせて悪かったけど、私は逆だと思うの。あんたはモラハルト様の無理強いを拒んで正解だった。

 だってメレディーンで、ご党首様からビッサビア様の事を口止めされたんでしょ。事情はともかく、ヌビ家のご党首様と直接、言葉を交わしたって事じゃない。このツッジャムに、そんなお偉方と直接、会話した人間がどれほど居ると思う。それどころか、メレディーンに行った事も無い者の方が、ほとんどだわ。私だって、そうだし。あんたは、そのごくわずかの人たちの方に食い込んだのよ。

 もし神様から、セピイとミアンカのどちらかの道を選んでいいと言われたら、私は間違いなく、あんたの方を選ぶわ』

 そこまで言ってくれた時のベイジの真剣な顔を、私は今でも思い出せるよ。私は、いい友達を持った。ご党首様に逆らってまで話した甲斐があった」

 セピイおばさんは、また葡萄酒で、のどを少し湿らせた。

「その後は、念のため、ヴィクトルカ姉さんとスネーシカ姉さんの消息もベイジに尋ねた。

 ヴィクトルカ姉さんの方は、旦那さんの生家に移った事は、私も前に聞いていたんだ。しかしベイジの話だと、その行き先はツッジャムから少し離れているようでね。

 スネーシカ姉さんの方は、さっぱり。もしかして姉さんはツッジャムに戻っていないんじゃないか、というのが、ベイジの推測だった」

 私は聞きながら、またしても、うーん、とうなってしまう。個人的には、また二人に登場してほしい。そして、セピイおばさんと再会してほしいんだけどなあ。

 

「と、まあ、こんなわけで、すっかり長話になったからね。さすがに私とベイジも、もう休むことにしたよ。

 でも一応、私はもう一度、謝ったんだ。『赤ちゃんに悪そうな話ばかりで申し訳なかった』と。『まったくだわ』とベイジも笑っていた。

 ベイジはお休みと言って、自分の寝室に戻りかけた。が、振り返って、思い切り、ため息をついたよ。

『それにしても、ビッサビア様とソレイトナックかぁ。そりゃ、みんなが彼から振り向いてもらえないわけだわ。て言うか、あんたもよくソレイトナックと結ばれたわね。いい女だよ』

 なんて私の尻を叩いて、部屋から出て行った。それを見送って、私も横になったよ。イリーデも静かに寝息を立てていた。

 これで里帰りの初日は、やっと終いさ」

 そこまで聞いて私も、ふう、と息をつく。私からすれば、もうすでに大冒険だ。

 セピイおばさんは、私との間にある小机のような椅子を持ち上げた。その下に置かれていたロウソクの明かりが、パッと広がる。

「プルーデンス。ちょうどいい区切りだ。ロウソクも、ほれ、この通り。だいぶ減ったよ。今夜は、この辺りにしておこう。翌日からの話は、また明日だ。あんたも、そろそろお休み」

 セピイおばさんから、そう送り出されて、私は外に出た。離れに入った時と同じ霧雨。それに包まれながら、私は部屋に戻った。

自作小説「塔の上のセピイ  〜中世キリスト教社会の城女中の話」第八話(全十九話の予定)

第八話 裏の事情

 

 私は焦っていた。すぐにでもセピイおばさんから話の続きを聞きたかったが、おばさんだって疲れているだろう。そろそろ、一日お預け、とか言われてもおかしくない。むやみに催促するわけにもいかないし。

 そのくせ、セピイおばさんは昼間、何食わぬ顔して家畜や番犬の相手をしていた。弟は、おばさんからお小言を喰らったらしい。そんな間にも、おばさんは離れを行ったり来たり。

 午後、ルチアたちとおしゃべりしたが、正直、気もそぞろだった。何人かが親に連れられて市場に行ってきたらしいのだが、特に驚くような話は一つも無かった。まあ、本人たちは興奮気味に話しているので、適当に合わせておいたが。自分が白けているからと言って、仲間たちまで白けさせる、なんてことは許されない。今後の付き合いも考えて、こまめに相づちを打ち、気持ちよく帰っていただく。

 しかし、セピイおばさんの話に比べたら。雲泥の差だ。あまりにも平和的で、内容が有って無いようなものばかり。

 昨夜のセピイおばさんの話は、内容が濃かった。濃いすぎた、と言っていい。まさか、おばさんが当時の城主様に強姦されそうになっていたなんて。未遂だったとは言え、あまりにも危険だった。未遂で済んだのは、運が良かっただけ。相手がその時の気分で引き下がってくれただけだ。

『まあ、いいわい。他の女を使えば済む』

 モラハルトのそんな声が聞こえてきそう。最低だ。考えただけで、腹が立ってくる。昨夜セピイおばさんが、こいつの名前を言うのを何回も、ためらったわけだわ。

 しかし、こいつがもっと酷い悪党だったら。たとえばゲスタスとか。その時はセピイおばさんは心身ともに深く傷つけられ、打ち捨てられていただろう。ヴィクトルカみたいに。

 悔しいし、面白くない。

 とは言え、希望が無いわけではない。

 メレディーン。ついに、メレディーンだ。麗しの大都会、メレディーン。ツッジャムも目じゃない華やかさの街。私も、いつか行ってみたい。そのためにも、おばさんの話を聞いておきたい。是非とも。

 ありがたいことに、この願いは、心配したより早く叶えられた。夕方、厩から部屋に戻る途中で、おばさんから呼び止められたのだ。今夜も離れに来てほしい、と。おばさんの方から言ってくれるなんて、幸先がいいぞ。

 私は、家族が寝静まるのが、待ち遠しかった。

 

 夜は、曇り空だった。昨夜は威勢の良かった月が、何回も雲に隠されていた。

 セピイおばさんが指定したのは、一番端っこにある離れ。五軒ある離れの互いの間は、そんなに広くない。五、六歩ずつ空けたくらいか。一番端の離れにたどり着くまで、大して時間がかからないようでも、やっぱり手間取るし、暗い中ちょっと怖い気もする。

 中では、いつも通り、二人して向かい合って座る。私たちの間には、小机のような役割を果たす椅子。その下のロウソクが光を滲ませて、椅子を縁取る。

「昨日のナイフは持ってきているね」

 セピイおばさんに言われて、私は強く頷いた。そして服の中から、それを取り出して見せる。

「よろしい。ちょっとでも出歩く時は必ず、それを持ち歩くんだよ」

「分かった」私はもう一度、頷いた。

「では、本題に入ろう」

「お、おばさん。今回もキツい話になるの?」

 私は少し怖気づいて、構えてしまった。

「安心おし。昨日が特別だったんだよ。今日は、その後日譚。キツいと言うより、呆れると言うか、情けないと言うか。そんな内容だよ。

 昨日ほど、お酒にも頼らないで済むと思う。

 ただし他人に聞かれてはいけない事にかけては、昨日以上かもしれないね。それで、この一番端の離れにした」

「ごめん、おばさん。しっかり聞くって約束したのに」

「何言ってんだい。今こうして聞きに来てくれたじゃないか。

 それより話の続き」

 セピイおばさんが背筋を伸ばしたので、私も合わせた。

 

「馬車は、飛ばしに飛ばした。御したマルフトさんが言うには、集落や峠を幾つも超えたらしい。馬車が散々、揺れたのを覚えているよ。

 それでもメレディーン城に着いた時には、やっぱり真夜中だった。城壁の上に篝火が焚かれ、月も結構、高い位置にあった。

 さすがに私も泣き止んでいたが、また別の不安に襲われたよ。メレディーン城の門番や衛兵たちが、まともに相手してくれるか、どうか。マルフトさんも同じ心配をしていた。

 しかし杞憂だったね。門番は、馬車の側面に彫られたツッジャム城の紋章を確認するや、慌てて跳ね橋を降ろしてくれたし。衛兵たちも飛び出してきて、私の話を聞いてくれた。

 衛兵の一人は報告のために城内に走っていったが、すぐに戻って来た。メレディーンの城主様、つまりヌビ家のご党首様が会ってくださる、と。私は感激して、また泣きそうになりながら、急いで衛兵について行った」

 聞いている私も安心して、ほっと息をついた。

「効果絶大だね」

「全くだよ。普通の馬車だったら、まず相手にされなかっただろう。

 しかも向こうの人たちは、意外と親切でね。マルフトさんは、兵士たちから『休んでいけ』と食事を出されたりして、びっくりしていた。私を送り終えたら、すぐにツッジャムに引き返して当たり前と覚悟していたんだ。それが寝床と食事まで用意してもらえたんだからね。おかげでマルフトさんとは、そのままお別れとならずに済んだ。

 私は私で、あまりにも順調に、ご党首様にお会いできた。夢でも見ているのかと思ったよ。ついさっきまで馬車の中で失くさないように気が気じゃなかった紹介状が、ご党首様の手に握られたんだ。私のすぐ目の前で。

 ご党首様は、おっしゃった。

『ふむ。封蝋も欠けとらんな。ご苦労』

 私は一瞬、ご党首様が何を言われたのか分からなかった。我に返ったら、慌てて頭を下げまくったよ。

 ご党首様と奥方様は、ビッサビア様が書いてくださった紹介状に目を通しておられた。時々お二人で顔を見合わせたりしながら。

 お二人とも、モラハルトやビッサビア様より少しお年を召して、それでいて細身だったよ。

 やがて奥方様が兵士の一人に、女中を呼んでくるよう言いつけなさった。

 程なく、中年の女中が一人、部屋に入ってきた。いくら当時の私が小娘でも、一目で分かったよ。このおばさんが、メレディーン城の女中たちの長なんだろう、と。女中たちの中で一番長く勤めていて、一番の物知り。そして、この時みたいに何か騒動があっても、対処の仕方を知っているわけさ。

 ご党首様は、このおばさん女中におっしゃった。私に食事をとらせ、女中部屋に連れて行って、休ませるように、と。

『そなたも疲れていようから、詳しい話は、また明日、聞かせてもらおう』

 ご党首様のそのお言葉、感情を表さないお顔に、私は、ハッと気がついたよ。私という存在が、ご党首様には喜ばしくない、どころか迷惑な存在であることに。

 私を暴行しようとした、あの人は、ご党首様の実弟だ。私がへんに騒いだら、ヌビ家の醜聞を世間に広めることになる。ご党首様たちが、それを快く思うはずがない。

 私だって、むやみに悪口を言いに来たわけじゃない。しかし、あの人が私に襲いかかってきた事は本当だ。だからこそ、あの人が城主を務めるツッジャム城には戻りたくないし。

 ビッサビア様も紹介状に、事件のことを書いておられたはずだ。

 そして、その紹介状の封蝋が、ツッジャム城の紋章ではなく、ビッサビア様の生家マーチリンドの紋章だった事。ご党首様ご夫妻も気づいておられただろう。ビッサビア様は間違いなく、怒っておられた。私からあの人を誘惑したわけじゃない事を、理解してくださっているといいけど。

 そういう、いろんな事に、よりによってメレディーン城に着いてから気づいてしまったんだよ。しかも、ご党首様の御前でね。

 だから、また目に涙がにじんできて、震えながら、私は必死に言葉を選んだ。

『ご、ご党首様。お気づかい、ありがとうございます。

 で、ですが、ご好意にあずかる前に少々、発言を、お、お許しいただきたいのです』

 私は床に膝をついて、頭を深く下げた。

『セピイとやら。そんなこと、せずとも良い。立って話しなさい』

 ご党首様が即答してくださったので、私は慌てて立ち上がったよ。

『お、恐れながら申し上げます、ご党首様、奥方様。こうして私めが押しかけて参りました事が、こちらにご迷惑をおかけしている、と私も理解しております。ビ、ビッサビア様が書いてくださった紹介状に、気を悪くなさったかもしれません。

 で、ですが、どうかお許しください。私はヌビ家を悪く言いたいのではないのです。あの方からされそうになった事も、口外しません。

 ただ、あの方が。父のように、尊敬しておりましたのに。

 お、お許し、ください』

 言いながら涙が止められなくて、せっかく立たせていただいたのに、また膝から崩れそうになった。すぐ隣に来ていた女中頭のおばさんが、私を支えてくれた。

『そなたが謝ることは無いぞ、セピイ。そなたは被害者であって、加害者ではない。悪いのは、我が不肖の弟だ。私こそ謝罪しよう。すまなかった』

『心配しないで、セピイ。此度の件で、あなたには何の落ち度もありませんよ。今は安心して休みなさい』

 ご党首様と奥方様は、口々におっしゃった。奥方様なんか、わざわざ歩み寄って、私の肩をさすってくださって。

 でもビッサビア様だったら、ここで抱きしめてくださっただろうに。なんて、贅沢な考えも浮かばないわけじゃなかったがね」

「でも、お二人が理解を示してくださったのは、大きいわ」私も素直に嬉しい。

「ああ、ありがたい事さ。こんなに、とんとん拍子で事が運ぶなんて。

 その後は、女中頭のおばさんに従って退室した。

 そのおばさんの背中を見ながら、私はツッジャム城でご挨拶した時の事を思い出したよ。あの時はベイジが私を案内してくれたが、今回は中年のおばさん。城によって違うんだな、なんて考えていたら、当の女中頭さんが不意に立ち止まって振り向いた。

 女中頭さんは少し笑い顔だった。

『セピイと言ったね。もしかして私みたいな、おばさん女中が珍しいのかい?』

 私は、気に障ったのだろうと思って、すぐに謝った。

『別に怒っちゃいないさ。

 逆に、もう一つ質問するよ。ツッジャム城には、私くらいの中年女中は居ないのかい?』

 私は一生懸命に考えたが、該当する者が思い浮かばなかった。ツッジャム城の姉さん女中たちは、一番年上でも三十にとどいていない。その前に大体、結婚などして去っていく。やはり正直に答えるしかない、と心の中で結論した。

『い、居ません』

『では、なぜだか分かるかい』

 私は答えられずに立ち尽くした。この地域一帯の中心地であるメレディーン城の、通路の途中で。女中頭さんの問いの意味を理解できていなかった。

『考えた事が無かったか』女中頭さんは、たしか小さく、ため息をついた。

『それが、あちらの城主、モラハルト様の趣味なのさ。ご党首様の弟君だから、あまり、とやかくは言えないけどね。噂には聞いていたが、まさか本当だとは、ねえ』

 私は愕然として、なおのこと、動けなくなったよ。あうあう声が漏れるだけで、返事が思い浮かばなかった。

『驚かせて悪いが、ここで突っ立っていても埒があかないよ。行こう』と女中頭さんに促されて、私も、やっと歩き出したよ」

「しゅ、趣味、ですか」

 話の途中でも、私は口をはさまずには、いられなかった。

「そう。あの人の好みだったんだよ。私も、はじめは親切な方だと思っていただけに、がっかりした。しかもメレディーンの人たちからは、すっかり見抜かれていたんだからね。人に言われて、後から気づく私も私だよ」

 セピイおばさんは深く息をついた。

「でも、おばさんも、それだけ仕事に集中していたって事でしょ。気づいても城主様相手に、とやかくは言えないし。

 それで、その夜は休めたの?」

「その後は、ご党首様のお言いつけ通りにした。食堂で食べ物をいただいて、女中部屋で休ませてもらったんだ。

 もう時間が時間だから、メレディーンの女中さんたちは、みんな寝入っていたよ。彼女たちを起こさないように、そおっと中に入って、空いている場所を女中頭さんに教えてもらった。女中頭さんも自分の寝床に戻った。

 私も毛布をかぶって、暗い天井を見上げた。だが、眠れるか自信は無かったねえ。その日は夕方から、あまりにも状況が変わりすぎていた。

 まさか、尊敬していたあの人が、あんなことをしてくるなんて。思い出したら怖くなって、私は毛布の中で縮こまったよ。

 こんな時にベイジが居てくれたら、小声でおしゃべりして気を紛らわせるのだけど。ツッジャム城では、それでよく姉さん女中たちから叱られたもんさ。

 スネーシカ姉さんや、ヴィクトルカ姉さんは今頃、どんな思いで休んでいるのだろう。平穏な暮らしをしているといいけど。

 それよりビッサビア様だ。あの人と喧嘩している頃だろうか。いくらカトリックで離婚が認められないと言っても、ご夫妻の心の溝は二度と埋まるまい。私がビッサビア様でも嫌だ。それを考えれば、ツッジャム城はこれから、どうなるのやら。

 なんて、誰も答えてくれないようなことで、頭ん中をぐるぐるさせていたら、私も、いつのまにか寝てしまっていた」

 当時の気持ちがよみがえったのか、セピイおばさんは椅子の背もたれに体を預けた。

「大変だったね。おばさんは相当、気を張っていたと思う」私は心から同情して言った。

「それにしても、モラハルトはデタラメだわ。自分の娘が酷い亡くなり方して、まだ間もなかったでしょうに」

「そうだね。たしか半年も経ってなかったはずだよ」

 ええーっ。私は声が大きくなりかけたが、何とかこらえた。

「ひどいっ。おばさんも可哀想だけど、ヒーナ様も救われないわ」

「ああ、その意味でも私は、あの人を恨んでいるよ。

 しかし繰り返しになるが、そう簡単に口にするわけにはいかないだろ。次の日、改めてご党首様たちに事件を説明した時も、その辺りは、やっぱり言えなかった」

 セピイおばさんは、ため息をつきかけたが。

「おおっと、その前に朝の事だ。

 私がまだ寝ている間に、女中部屋は、ちょっとした騒ぎになったらしい。まあ何しろ、よく知らない娘が、いつのまにか割り込んで寝ているんだからね。誰この子って話さ。だが、そこは女中頭さんが上手いこと説明してくれた。もちろん事件については、ぼかしていたんだろう。

 新入りの私は、そんなざわめきの中で目を覚ました。メレディーンの姉さん女中たちの視線が、自分に集中していたよ。

 私は、なかなか挨拶の言葉が出てこなかった。あの、その、ばかり繰り返して。しかも、体がだんだん震えてきた。

 すると女中の一人が、振り返って言ったよ。『ノコさん。まさか、この子、しゃべれないの?』

『何言ってんだい。昨日の夜は、ちゃんと会話したよ』と女中頭さんが答えた。

 そしたら別の女中も、からんできた。

『だったら何でこんなに怯えているの?私たちのことを化け物みたいな目で見て。失礼ね』

 なんて眉をひそめる。私は慌てて、首を左右に振りまくった。

『ち、違うんです。皆さんがお綺麗だから。こんな綺麗な人たちに囲まれるなんて、今までなかったから。それに私は逆に、田舎の、農家の娘だし』

 やっと返事ができたと思ったのに、みんなから、くすくす笑われたよ。

『あらまあ、早速おべっかだなんて、ありがとう』

 と、私にからんできた姉さん女中が言った。

『そ、そんなつもりじゃないです』

 と私は否定したんだが、その姉さん女中の答えは、こうだった。

『いいのよ。むしろ、そんなつもり、おべっかってことにしておきなさい。私たちくらいで、いちいち本気で褒めていたら、切りがないわよ』

 私は唖然として、口をぱくぱくさせてしまった。

 そしたら、また笑われた。『シルヴィアったら、脅かしすぎなんじゃない?この子、またしゃべれなくなったわよ』なんてね」

「お、おばさん」 私は口をはさまずには、いられなかった。「それくらい綺麗どころが揃っていたってこと?」

「そうなんだよ。ツッジャム城に初めて上がった時も驚いたが、その上を行っていた。ツッジャムの姉さん女中たちだって、負けていないはずなんだが。しかし確実に美貌で勝てるとしたら、ビッサビア様だけかも。そんなふうに思ったら、愕然としたのさ。おそらくメレディーン城の女中たちはみんな、中小の貴族の出身なんだろうと推測した」

「でも、そのシルヴィアさんに言わせると『私たちくらい』になるの?」

「そこなんだがねえ。シルヴィアさんたちに言わせれば、メレディーンの城下町にも自分たちくらいの女は、いくらでも居ると。そして都の女たちの方が格段に美人なんだとさ。私は想像がつかなかったよ」

「わ、私も想像がつかない」そう答えるのが、やっとだった。

 実は正直、私も自惚れていた。そりゃ街の女の子たちには敵わないだろうけど、この辺りじゃ、けっこう可愛い方じゃないか、いや大丈夫なはず、と思っていたのだ。お城に上がる機会があっても、絶対に言えないな、と肝に銘じる。

「まあ、それはともかく」絶句する私をよそに、セピイおばさんは話を続けた。

「その後、私は改めて挨拶と自己紹介をした。みんなも、それぞれの名前を教えてくれたよ。

 ノコさんは、やっぱり女中頭でね。最年長かと予想したが、もう一人おられた。ロッテンロープさんといって、たしかノコさんより一つ、二つ年上だったはずだ。『もう物忘れがひどくなったからね。私じゃ頭なんて務まらないよ』とか言っていたっけ。

 ロッテンロープさんはノコさんと、スージー、ロッタなんて呼び合っていたよ。ノコさんの本名がスザンナ・ノコだったのさ。

 その他、私にからんできた姉さん女中が、さっき言った通り、シルヴィアさん。彼女のお仲間がスカーレットさんと、ヴァイオレットさんと来た」

「おばさん、それ本当?」

「本当だよ、信じとくれ。まあ、疑いたくなる気持ちも分かるがね。三人とも、自分たちの名前をよく冗談のネタにしていたが、本当に偶然なんだ。初めて顔を合わせた時は、お互いに驚いたそうだよ。

 ちなみにメレディーン城に駐在していた騎士様には、オーカーさんとアズールさんが居た。

 賑やかなもんだろ」

「ふふ、色が豊富だなんて、さすがメレディーンね。当時のご党首様の趣味だったりして」

 私が茶化すと、セピイおばさんは声を出して笑った。

「あんたも言ってくれるじゃないか。まあ、ご党首様がわざわざ、そんな手間をとるわけはないが」

「でも、おばさん。女中頭さんたちや、お姉様方は分かったけど、逆に、おばさんより年下の子も居たの?」

「ああ、何人か居たね。女中としての経験も、まだ一、二年って子たちが。

 中でも印象深かったのが、イリデッセンシアという、ちょっと難しい、珍しい名前の子でね。この子がまた、ハッと息をのむような美少女だったんだよ。私は思ったね、この子ならヒーナ様に匹敵する、と。みんなは、イリーデちゃんとか呼んでいた」

 それもメレディーンらしい、なんて相づちをうちながら、私は安堵していた。メレディーンでも、おばさんにお仲間ができたんだ。ありがたい事だし、私も嬉しい。

 とか考えていたら、セピイおばさんは、また気を引き締めた話し方に戻した。

「そんな感じで、手短かにお互いを紹介し合ったのさ。それからは仕事を教わろうと、みんなについて回ったよ。一日でも早く慣れようと、焦ってね。

 しかし、そんな時に限って、ちょこちょこ邪魔が入るもんだ。その日の晩餐の後、またご党首様の部屋に呼ばれた。『明日、聞こう』が結局、そんな時間になっちまったのさ。ご党首様たちも、何かとお忙しいからねえ。やる気満々だった食卓の後片付けとかが、それで免除されてしまった。

 ノコさんは私をご党首様の部屋へ連れていくと、自分だけ戻っていったよ。私は、ご党首様の部屋に入って、ちょっと驚いた。ご夫妻以外に、見知らぬ男が一人、同席していたんだ。

 男は振り返って私に気づくと、ご夫妻に向かって軽く手をかざした。お二人が話し出すのを止めるためだった。

『この者がセピイですな、伯父上。ならば、お気づかいは無用。自分で名乗りますゆえ』

 男は椅子から立ち上がって、体を私に向けた。ソレイトナックと同じく二十代半ばだろうか。しかし彼よりちょっと背が低いだけで、むしろ彼より横幅があった。太っているのではなく、筋肉で膨らんでいる感じ。私は、この男がご党首様を伯父と呼んだところで、予想がついたよ。

『俺の名はパウアハルト。要するに、お前を犯そうとした、ひひ親父の息子だ』

 男から言われて、私は『セピイと申します』と答えるのが、やっとだった。

 前にも言ったが、あの人のご子息がメレディーン城で修行中である事は、私も以前から聞いていたからね。でも本人を見たのは、この時が初めてだった」

「えっ、ご党首様がわざわざ、そいつを呼んだの?」

 私としては、ご党首様をおばさんの味方だと期待していただけに、がっかりしたが。

「そうじゃなくて、本人が押しかけてきたんだよ。ご党首様も一応、教えたのさ。お前の父親が、女中の一人に酷い事をやらかしたぞ、と。それで、どうするかはともかく、まずは頭に入れておけ、と。

 そしたらパウアハルトは自分も立ち合いたいと言って、聞かなかったそうだ。

 彼は私に言ったよ。

『俺は、伯父上に無理を言って、同席させてもらっている身だ。俺からお前に、とやかく言うつもりはない。俺のことは気にせず、伯父上と伯母上にだけ報告するつもりで話せ。

 俺としては、自分の親父が何をしたのか、知りたいだけだ。

 ここでだけなら、親父に対する批判になっても構わんから、遠慮なく話せ』

 とか何とか。

 もちろん私は、ためらったよ。すぐに話し出せなかった。明らかにパウアハルトは不機嫌だったしね。

 奥方様も、心配しなくていい、とおっしゃってくださったんだが。私は横目でパウアハルトの顔色をうかがうと、どうしても怖気づいてしまって。

 すると本人が、また先にしゃべった。

『伯母上も言ってくれているではないか。何度も同じことを言わすな。遠慮なく話せ。

 それに、俺はお前の話を聞いたら、すぐツッジャムに帰るから、ここには残らん。それなら安心だろうが』

 私は思わず聞き返してしまったよ。『ツッジャムに、お戻りになるのですか』

 するとパウアハルトは、とうとう私を怒鳴りつけた。『同じことを言わすな、と言ったばかりではないかっ』

 私は慌てて、頭を下げまくった。『申し訳ありません、申し訳ありません』とね。

 それで、ついにご党首様も口をはさみなさった。『パウアハルトよ、落ち着け。そうやって声を荒げたら、セピイがますます話しにくくなるではないか』

 続けて、ご党首様夫妻が説明してくださった。ビッサビア様が書かれた私の紹介状には、ご自分の息子であるパウアハルトへの指示も書かれていた、と。それが、ツッジャムに戻るように、とのことだったのさ。ちょうどメレディーンに着いたばかりの私とは、入れ替わる形だよ。

 これを聞いて私も、やっと話し出せた。

 しかし話してみて、自分でも内心、驚いていたね。つい前日の、しかも午後の五、六時間ほどの出来事なのに、話してみたら、事前に説明しておかなければならない部分が結構、多かった。何で私がツッジャム城の塔に登っていたのか、とか。ソレイトナックとの関係とか。

 パウアハルトは、私とソレイトナックが婚約していたと知るや、目を丸くしていた。『あいつが婚約?』とか、声が裏返って。私は話の腰を折られると思ったが、パウアハルトはご党首様と目が合ったのか、それ以上は口をはさんでこなかった。

 さらに、そのソレイトナックの処遇をめぐって、モラハルトとロミルチ城の城主様がもめていた事に話が及ぶと、今度はご党首様と奥方様までが驚いておられたよ。お二人はさすがに声を出さなかったが、目を見開いて固まった。つまり、明らかに反応していたんだよ。

 一瞬、奥方様がご党首様に何か話しかけようとなさったが、ご党首様は軽く手をかざして、それを制した。二人とも、それ以上、言及してこない。むしろ私に話の続きを促した」

「なんか、ちょっと変ね。城持ちの弟二人がもめるくらいなんだから、とっくにご党首様の耳に入ってそうなものなのに」と私。

「私も内心は、そう思ったさ。しかし、その疑問をそのまま、ご党首様たちにぶつけている場合でもない。言われた通りに、話を再開する方が先だ。

 で、いよいよ、あの人、モラハルトが私にどんなことをしたかを、私は話したよ。しかし話しにくいったら、なかった。話しながら、あの人の怖さや気持ち悪さが思い出されるんだよ。鳥肌が立つわ、脚が震えるわ。仕舞いには、やっぱり涙も、にじんできた。

 私は、つっかえつっかえ話しながら、パウアハルトの様子に気をつけていた。父がそんな事をするはずがない、この者は嘘をついている、なんて激昂してくるんじゃないか、と心配したんだよ。しかしパウアハルトは、もう私の話を邪魔したりしなかった。椅子の上で腕も脚も組んで、窓の外を睨んだまま、耳だけ、こちらに傾けていた。たまに『ふん』なんて吐き捨てながら。

 奥方様も、すごく険しい顔をなさって。夫であるご党首様が居なかったら、とっくに私を止めていたんだろう。

 そのご党首様は、表情が動かなかったが、視線が冷ややかで。やっぱり聞いていて、気分は良くなかったんだろうね。身内の不始末を指摘されるんだから。

 私もできるだけ早く話を切り上げたかった。ビッサビア様が駆けつけてくださった場面に差し掛かった時は、心底ホッとしたよ。

 やがて、紹介状と一緒に馬車で、ツッジャムからメレディーンまで送っていただいたところで、話を終えた。

 すぐに奥方様が声をかけてくださったよ『辛い思いをしましたね』と。

 私は横目でパウアハルトをチラッと見て、こう、お答えした。

『こちらの、パウアハルト様のお母様が助けてくださいました』

 つまりは、おべっか。ケチな作戦さ。朝シルヴィアさんから言われた事を思い出して、私なりに必死に考えたんだよ。まあ、効かなかったけどね。パウアハルトは、また『ふん』と一蹴するだけだった。

 そして椅子から立ち上がると、言ったよ。

『邪魔しましたな、伯父上、伯母上。失礼いたしました。

 俺は、その母の言いつけに従って、今からツッジャムに戻ります。今日までお世話になりました。

 今後、火急の事態には喜んで駆けつけますゆえ、いつでも遠慮のう呼びつけてくだされ』

 パウアハルトはご党首様、奥方様と簡単な抱擁をしてから『では』と体をひるがえした。

 その時には私も椅子から立ち上がっていて、すれ違う直前のパウアハルトに頭を下げたよ。

 すると今度は、あの人の息子も『ふん』は無しにして、ちゃんと答えてくれた。『セピイとやら。好きなだけ、我が父モラハルトを恨むがいい。ついでに俺も憎んでいいぞ』なんてね。

 で、部屋から出ていった。

 もちろん、私は何も答えられなかった」

 あーあ、と私も声が出てしまった。腹が立つより、呆れるし、幻滅する。

「随分な言い捨て方ね。謝る気が、かけらも無いんだわ。教会の懺悔室に入った事なんか、無いんじゃないかしら」

 セピイおばさんは、くすりと笑った。

「かもね。でも、まあ、聞かされて気分のいい話じゃないから、仕方ないんだろうよ。

 とにかくパウアハルトは自分の従者数名を連れて、メレディーン城下の夜の大通りに飛び出していった。ご党首様のお話だと、見送りは断ったらしい。

 残った私に、奥方様は優しく微笑んでおっしゃった。

『では、セピイ。改めて聞きます。ビッサビアさんが推薦してくれた通り、このメレディーンで働いてくれますね』

『お願いしますっ』私は思わず声を大きくして即答したよ。

 ご党首様も、おっしゃった。『よろしい、セピイ。これからは我が奥や、女中頭のノコの指示に従って行動するように』

 私は、これにも力んで同じ返事をした。

 ご党首様は、うむ、とうなずいて、思い出したように、こう続けた。

『それと、私のことは、弟ほど愚かではなかろう、と考えてくれると、ありがたいな』

 私は、びっくりして顔を左右に振りまくった。

『わ、私からご党首様を悪く見なしたり、言及したり、は決してしません。今こうして助けていただいた事を感謝しております』

 とか何とか、唾を飛ばすようにして、一生懸命に言ったんだが。

 ご党首様はまた、ゆっくりと手をかざして私の発言を止めた。『とにかく、そなたに指示を出すのは、ノコや我が奥だ。私からそなたに、直接あれこれ言うことはほとんど無い、と思って安心するがよい』とのことだった。

 話は以上で『下がってよい』と言われたよ。奥方様からも『今日は、もう休みなさい』と促されて、部屋を出た」

「ご党首様も、少しは嫌味を言わないと、気が済まなかったのかな?」と私。

「仕方ないよ。このヨランドラを代表する名家だからね。面目ってもんがあるんだ。それを揺るがす醜聞なんて、喜ぶはずがない。ご党首様としては、事件そのものが無いのが一番だったろうし。

 ビッサビア様の紹介状が無かったら、私も泣き寝入りさせられていたのかもしれないよ」

「場合によっては、ご党首様も事件を揉み消していたってこと?」

「場合によっては、ね。後でノコさんが教えてくれたんだが、当時のご党首様はあまり、そういう手を使いなさるお方じゃなかった。それは私ら臣民としては良いこと、ありがたいことだよ。しかし、皆無ではない、と。ノコさんが言うには、ご党首様が身内の不始末を揉み消すような事が、一、二回だけあったそうだ。それはもう、善悪の問題じゃない。ただひたすらにヌビ家の名誉のためなのさ」

 私は、うーんと唸ってしまう。「なかなか期待させてくれない人だなあ、当時のご党首様も」

「逆だよ、プルーデンス。人ってもんは、つい勝手に期待しすぎるんだよ。そして願っていた結果にならなかったら、裏切られたとか言って嘆く。しかし嘆いたって、誰かをなじったって、現実は変わらないさ。だったら、はじめから期待しすぎない方がいい。

 これは大事なことだからね、プルーデンス。よく覚えといてくれ」

 私は、はい、と答えたが。

 私が一番期待しているのは、おばさんです、なんて言ったら、否定されるだろうか。やめときな、とか返されるかな。今は警戒して、呑み込んでおこう。

 

 セピイおばさんは話を続ける。

「というわけで、私は正式にメレディーン城の女中となった。

 繰り返して言うが、最初は焦っていたよ。早く新しい職場に馴染まなければ。ツッジャムとは違う、メレディーンのしきたりがあるなら、覚えなくては。とかね。

 しかし幸いなことに、この私にも少し強みがある事が分かった。家畜の世話とか、土いじりとか、汚れやすい仕事だよ。他の女中たちだって、もちろんやっていたんだが、他の仕事に比べて、明らかに熱が入っていなかった。若い人ほど、顔に出ていたねえ」

「逆に、この村で育ったおばさんとしては、その手の仕事は慣れっこだもんね」と私は先回りして言う。

 セピイおばさんもニヤリとする。

「そういうこと。だったら、使わない手は無いだろ。だから自分から率先して、やったんだ。調理した後の残飯の片付けとか、馬の糞の運び出しなんか、兵士たちに混じってでもやったもんさ。あと、花に付いていた芋虫をつまみ上げて、よそに持って行ったり、とかね。

 そのうちスカーレットさんとか、姉さん女中の何人かが時々、私に頼みに来るようになったよ。私は、しめたと思った。

 姉さん女中たちと来たら、そっと私に忍び寄って、私を拝むみたいに両手を合わせるんだ。ほら、教会で花瓶とか壊したら、告げ口しないよう、友達に頼むじゃないか。そんな顔だよ。

 それと言うのも、そうやって汚れ仕事を敬遠しているところを、目上の人たちに見つかるとまずかったのさ。ノコさんやロッテンロープさん、とか。やっぱり、お小言を喰らうのは嫌だろ。替わってやった私まで叱られるんだから、油断できなかった。

 スカーレットさんたちから頼まれると、私は問題の現場に飛んでいったね。で、急いで片付けて、また元の仕事場に戻る。途中でノコさんたちと鉢合わせにならないよう、気をつけたもんだ」

「でも、ずるい人とか居なかった?おばさんに頼んでばかりで、自分は楽する人とか」

「そうさせないために、ノコさんたちが目を光らせてくれていたんだよ。

 まあ、たしかに、そんな人も少し居たがね。

 でも、少なくとも私が名前を挙げた人たちは、そんなじゃなかったよ。

 ヴァイオレットさんなんか律儀なもんで、お返しと言って、よく針仕事で助けてくれた。しかも、びっくりするくらい刺繍が綺麗でね。それを奥方様がよく観に来られた。たまたま居合わせただけの私も、奥方様から声をかけていただいたりして。お返しどころか、それ以上のことをしてもらったようなもんだよ」

「シルヴィアさんとは?」

 私の質問に、おばさんは笑い出した。

「心配してくれて、ありがとよ。大丈夫さ。シルヴィアさんは生真面目なだけで、意地悪じゃなかった。

 それどころか、私を褒めてくれたね。メレディーンで働くようになって、二、三週くらい経った頃だったか。

『向こうで辛い思いをした、あんたには悪いんだけど。あんたが来てくれたおかげで、私たちメレディーン城の女中は、かなり助かったの。何しろ、あのパウアハルトを追い出せたんだからね。

 あいつ、私たちにやたら絡んできて、しつこかったのよ。そのくせ、私たちの誰かとちゃんと結婚して、将来のツッジャム城の奥方にする気なんて、さらさら無かったんだ。勝手なもんでしょ。大嫌いだった、あのスケベ』

 とか何とか。

 私としては自分を守るのに必死だっただけで、自分のことで手一杯だったはずが、思わぬところでお役に立てたらしい。

 シルヴィアさんは、こんなことも言ったよ。

『セピイ。あんたが向こうの城主様を拒んだのは、本当に良いこと、正しいことなのよ。

 なぜって、あんたも考えてごらん、逆の場合を。女中の一人である、あんたが城主様に身体をゆるす。考えるのも嫌だろうけど、こらえて落ち着いて、広く考えてみて。このヨランドラには、ヌビ家以外にも大小さまざまな貴族家があるわ。そして、それぞれが城や屋敷を構えている。それらのどこかで、似たような事態が起きているとしたら、と考えてみて。皆無だなんて言い切れないでしょ。どう甘く見積もっても、一、二件はあるはずだわ。タリンの他の国でも、同じことよ。

 そして、ここからが特に問題なんだけど。

 一つは、あんたの時みたいに相手から迫られて、しかも拒めなかった場合。その後、相手は図に乗って、女を苦しめ続けるか、あるいは他の女にまで被害を及ぼすか。つまり男が繰り返す可能性が高い。しかも女からすれば、相手が怖かったり、身分の違いから断れなかったりするから、この場合が一番ありがちだわ。

 もう一つは、女の方から誘った場合。あんたも、向こうの奥方様に睨まれるんじゃないか、とか心配したでしょ。でも、これも広く考えれば、女から誘う場合だって何件かはあるはずなの。城主様やお偉方に身体をゆるして、その奥さんに成り代わろうとする。離婚が認められなくても、相手の男が自分に夢中になりさえすれば、事足りるからね。あるいは、ただ単にスケベ心から、だけか。いずれにせよ、男は女をそんなものだと勘違いするわ。そして無責任な男が増えるでしょう。

 だからね、セピイ。あんたが向こうの城主様を拒んでくれたのは、すごく大事なことなの。

 あんたとしては、怖くてたまらなくて、勇気を振り絞るのも大変だったでしょう。私が他人事で言っている、と怒っても構わないわ。そういう怒りは当然なんだもの。

 でも、悪いけど、お願いだから言わせて。あんたが騒いでくれたおかげで、向こうの城主、モラハルトも自分の行動に気をつけるはずよ。何たって家長から、ご党首様から注意されたんだから。聞かないわけにはいかない。それで、どれだけの女たちが救われると思う?一人、二人じゃないはずだわ』

 とね。

 そうやって真剣に褒めてもらえるのはありがたいんだが。私には、もったいなく思えた」

 セピイおばさんは小さくため息をついた。

「え、おばさんとしては、シルヴィアさんの意見に引っかかるところがあったの?」

「あったね。モラハルトが必ず自制するとは言えないかもしれない、と思ったんだよ。たとえばアキーラやメロエとか」

 これには「ああ」と私も落胆の声を出してしまった。

「だから私はシルヴィアさんに、二人のことも話したよ。私が居なくなっても彼女たちに欲望を向けて、モラハルトは懲りないかもしれない、と。

 そしたらシルヴィアさんも、今のあんたみたいに声を漏らして、私の意見にも同意してくれたよ。『充分あり得る』と。

 その上で、シルヴィアさんは言った。

『その人たちが拒まなかったから、モラハルトは調子に乗って、あんたにも手を出そうとしたのかもしれない。でも、どちらが先かなんて議論しても、仕方がないわね。私としては、多少の効果はあったと願いたいわ』

 とか。せっかく褒めてくれたのに、最後は、しんみりしてしまった」

「話が話だから、しょうがないよ。

 それより、シルヴィアさんがそういう話もできる人で良かったわ」

 ちょっと生意気かもしれないけど、私も言わずにはいられなかった。セピイおばさんは、ふふっ、と笑ってくれた。

「まったく、得がたい人だったよ。私は神様に感謝したもんさ」

「じゃあ、女中頭のノコさんは、どう?厳しかった?」

 セピイおばさんは、やっぱり笑った。

「あんたも、なかなか心配性だねえ。まあ、厳しいと言えば厳しかったけど、悪い人じゃなかったよ。

 ノコさんが、よく言っていた。

『何にせよ、ここの女中は、あんたの敵じゃないよ。特別、味方ってわけでもないがね。味方でもないが、敵でもない』

 と。つまり、期待しすぎないで、それくらいに認識しておけばいいってことさ。

 そうそう、ノコさんには、後で気になって私の方から尋ねたんだ。ご党首様ご夫妻への挨拶や報告に落ち度が無かったか、どうか。それこそ大事な、心配すべきことだからね。

 ノコさんは答えてくれたよ。『とりあえず及第点だろう』と。

『あんたは、ちゃんと分をわきまえて、気をつけて挨拶できたからね。次の日の報告の後も、お二人は、あんたについて特に何もおっしゃっていなかった。褒めてもいないが、悪くもおっしゃらない。それで充分さ。お二人とも、ご機嫌は悪くない。あんたの印象が悪くなかった証拠だ。

 世の中には、あういう場面で勘違いする輩も居るからねえ。被害者として感情的になって、聞き手を非難するんだ。聞き手は加害者本人じゃなくて、あくまでも関係者ってだけなんだが。

 そりゃあ、感情的になる気持ちも分からなくはないよ。誰だって悔しいし、辛い。しかし、この世は貴族と平民に分かれた社会だ。立場ってもんがある。

 今回あんたの訴えを受け止めてくださったのは、このヨランドラを代表する名家のご党首様たちだ。たとえ、あんたを手込めにしようとした、あのお方がご党首様の親族でも、そこは覆らないよ。戦争なんかでヌビ家が余程の大打撃を受けない限りは、ね。そして、そんな事態にならない方が、私らみたいな下級臣民も食いっぱぐれずに済むのさ。

 あと、今回の件について、あんたの対処を『騒ぎすぎだ』とか『大げさ』とか言う者を見かけるかもしれない。特に男どもがそうやって、モラハルト様の肩を持とうとするに決まっているんだ。私くらいの年の女たちでも、似たような発想の者が結構いるしねえ。

 でも気にするんじゃないよ。全て無視しなさい。聞き捨てにしなさい。あんたは、もう対処したんだ。そしてご党首様も、それに応えてくださった。第三者がとやかく言ったって、それは変わらないよ。だから気にしなくていい』

 ノコさんは私と、衣服の洗濯をしながら、そんなふうに話してくれたんだ。あれには大いに救われたねえ」

 セピイおばさんは、そこで大きく息をついた。そして暗がりから皮袋と盃を引っぱり出して、ほんの少しだけ呑む。それは、のどを潤すためだけなのだ、と私にもすぐに分かった。昨夜みたいに話の展開を心配しなくてもいいだろう。

 

「おばさんのメレディーンでの生活が長くなったわけだわ」と、また生意気を言ってみる。

「ああ。たしかに居心地は悪くなかったよ。ただ、最初の頃は、なかなか落ち着かなかった」

「えっ、シルヴィアさんやノコさんがいい人でも?」

「ああ、あの人たちとは関係ないところで、私は気もそぞろだったんだよ」

「あ、そっか。ソレイトナックね」

「そう。一刻も早く彼の消息をつかみたくて、気が気じゃなかった。

 女中として働きながら、よく厩を覗きに行ったよ。メレディーンとロミルチの間を行き来する使者や商人が居るかも、とか期待してね。

 それで何人か目ぼしい相手を見つけたが、じゃあ、すぐに言伝や手紙を頼むかというと、これが悩ましかった。来たばっかりの私じゃ、御者や使者の人たちに気軽に話しかけるほど、馴染んでないだろ。無理に頼もうなんて気も起こしかけたが、できなかった。相手も忙しかろうし、そもそも信用していいのかも分からない。

 私は観念して、ノコさんに相談した。本当は奥方様に頼りたかったが、そうするにも、まずは上役のノコさんを通さないと。私がノコさんにソレイトナックとの関係を説明すると、ノコさんは彼を覚えていた。ソレイトナックはツッジャム城からの使者として、何回かメレディーン城に来ていたんだよ。

 ノコさんは、すぐに動いてくれたんだが、その前に私に忠告した。

『焦らず気長に待つんだよ。とにかく、この件はご党首様たちにおすがりするしかない。しかし、お二人が何かとお忙しいことは、あんたも想像がつくだろ。報告の時と同じさ。態度や物言いを間違えるんじゃないよ。いいね?』

 私は、もちろん承諾した。焦るなと言われても無理だと内心は思ったが、従うしかなかったよ。私は仕事に専念することで、必死に気を紛らわした」

「うーん、辛いところだね。やっぱり時間がかかった?」

「まあ、かかるにはかかったが、その前に、もう一つ話しておくことがある。ソレイトナックとは別に、気になったことがもう一つ、あったのさ。この村、この家のことだよ」

 私は、あっと声が出てしまった。

「あの頃の私は、心配で心配で、たまらなかった。私から拒まれたあの人、モラハルトが逆恨みするんじゃないか。嫌がらせに、この家や村に酷いことをしないか。考えただけでも泣けてきたもんだよ。仕事中でもね。

 そもそも父さん母さんたちは、私がツッジャム城からメレディーン城に移ったことをまだ知らないはずだ。その事も知らせたい。

 だから、これもノコさんに相談したよ。ノコさんが言うには、こちらの方が早く確認できるだろう、と。そして、ご党首様たちから、いつお声が掛かってもいいよう、家族宛ての手紙を事前に用意しておくことを勧められたんだ。それで羊皮紙の余りを分けてもらって、言われた通りにした。

 懐に、この家宛ての手紙を忍ばせながら働いて、何日経ったかねえ。五日もしなかったと思うんだが、ついに奥方様に呼ばれたよ。

 ご夫妻のお部屋にすっ飛んでいくと、何と、マルフトさんが居た。久しぶりの知った顔で、しかもマルフトさんだから、私は安心して泣けてきたよ。マルフトさんも、私が元気そうで良かった、と言ってくれた。

 二人して、改めてご夫妻に感謝を申し上げた。

 ご党首様は『礼はよい。それより、マルフトからツッジャムの状況を聞こう』とおっしゃった。

 マルフトさんは戸惑って、すぐにはしゃべれなかったね。そもそもマルフトさんはツッジャム城で、モラハルトともビッサビア様とも、ほんの数回しか言葉を交わしたことが無かったそうだ。それが、メレディーン城でいきなり、ご党首様たちを相手に長々と話さなきゃならないんだから、緊張するはずだよ。

 マルフトさんは、まず断りを入れた。『お聞き苦しいところが多々あるでしょうが、何卒ご容赦くださいませ』と。

 これに対して奥方様が、気にしないように、とおっしゃってくださった。で、マルフトさんも、ようやく話し出したよ。

 話は、やはりツッジャム城の城主一家の事がほとんどだった。一番大きな変化は、あの人、モラハルトがツッジャム城を出た事さ。長男で跡継ぎのパウアハルトが帰還すると、あの人は城下町の屋敷で生活するようになった、と。そう、私がリオールと過ごした、あの曰く付きのお屋敷だよ」

 あー、と私も、つい声を出してしまった。「おばさん、もしかして」

「予想がついたかい。当たりだよ。あの人は屋敷に女中を何人か引っぱり込んでいたらしい。マルフトさんはその女中たちの名前までは知らなかったが、私も予想がついた。アキーラとメロエの二人は確実だろう、と。ほかに何人居たかは分からないが」

「ついに夫婦別居かあ。帰ってきた息子が母親と結託して、父親を追い出したのかな?」

「私も聞きながら、そんな推測をしたが、正確な事はよく分からなかった。マルフトさんなりにツッジャム城の使用人や女中の噂話に気をつけていたが、彼ら自身がよく分かっていなかった、と。特に夫婦喧嘩、親子喧嘩の騒ぎも無いまま、ある日突然そんな事になったそうだ。城詰めの騎士様たちをはじめ、ツッジャム城で寝起きする全員が驚いていたらしい」

「全然、喧嘩していない、とも思えないんだけどなあ」

「周囲に気づかれないように家族会議をなさったんだろうさ。

 で、この話でちょいと特殊なことは、あの人、モラハルトがはっきり引退して、息子のパウアハルトが跡を継いだ、というわけではなかったんだよ。傍目には親子で交代したも同然なんだが、正式な宣言は無かった。

 だからかねえ、メレディーン城のご党首様にも、ツッジャム城の状況が報告されていなかった」

「モラハルトは、ちゃんと代替わりしてから報告するつもりだったのかな」

「そんなところだろうよ。当然ご党首様は、もう少し詳しく知りたがった。ツッジャム城に詰めている人たちや、城下町の反応とかをね。

 すると、催促されたマルフトさんは、またちょっと言い淀んだ。

『ご党首様には申し訳ございませんが、報告のためにはモラハルト様に続いて、パウアハルト様についても少々、失礼なことを言わねばなりません』と、またしても断りだ。

 聞くや否や、ご党首様は天井を仰ぐように嘆息なされた。

『その言葉である程度、予想がついた。気にせず、率直に話してくれ』

 はい、と大人しく返事して、マルフトさんは話を続けた。

 私も内心、ご党首様と同意見だったんだが、やはりパウアハルトの評判が悪かった。まず、城詰めの騎士様たちに親しまなかった、と。

 騎士様たちは将来の城主であろうパウアハルトを盛り立てようと、あれこれと助言なさった。つまり、自分たちの務めを真面目に果たそうとしただけなんだよ。

 それなのにパウアハルトは、騎士様たちに感謝するどころか、迷惑がってね。露骨に。女中や使用人たちが見ていて、ハラハラするくらいだ。しかも、母親であるビッサビア様がたしなめても聞かない有り様だった、と」

「あちゃー。母と子でもダメだったか。てっきり、男の子は母親に懐くもの、と思ったんだけど」

「パウアハルトも、もうそんな歳じゃなかったのさ。とにもかくにも、自分の方針を押し通さないと気が済まなかったのかもね。

 私はビッサビア様のことも心配になったが、さらに悪いことがあった。ロンギノ様だよ。ツッジャム城詰めの騎士様たちの代表格であるロンギノ様とも険悪になったんだ。

 ロンギノ様の名前が出ると、ご党首様は、また顔をしかめなさった。

『あ奴も、せめてロンギノにだけは慎むだろうと期待したが、甘かったか。ロンギノほどの長年の功労者がそのような扱いでは、誰もあ奴に心から従うまい。あ奴がここに居た時に、注意したのだが。

 分かった。後で手紙を書いて、もう一度、叱っておこう』

 ご党首様は、そうお決めになって、マルフトさんに続きを促した。

 次は、ツッジャムの城下町の様子だよ。

 町人たちははじめ、突然帰ってきた御曹司のパウアハルトを歓迎する雰囲気で、にわかに盛り上がったそうだ。ある程度、名の通った商人たちとか、パウアハルトに挨拶しようとツッジャム城に上がる者が、しばらく続いた。

 しかし城主であるモラハルトが屋敷に移った事が次第に知れ渡ると、それもだんだん収まった。

 加えて、パウアハルトは自分が領主となった暁には、税率を上げる、とか宣言したらしい。『父はお前たちを甘やかしたようだが、俺は違うからな』なんて言い方で。

 これじゃあ盛り上がるどころか、むしろ盛り下がるよ。商人たちはパウアハルトに睨まれないよう、途端に口数が少なくなり、市場や人通りの多い所も活気が失われた。少なくともマルフトさんには、そう見えた、と。

 マルフトさんは付け加えた。

『モラハルト様がこちらのセピイさんになさった事は、城下には知れ渡ってはおりません。なので、町人たちは皆、城主様ご一家の変化に驚いております。

 そしてパウアハルト様には、警戒の目を向けているようです』

 話を聞き終えたご党首様は、マルフトさんを労った。そして、またメレディーンに来ることがあれば、今回のようにツッジャムの状況を教えてほしい、とおっしゃった。

 ところが、だよ。肝心のマルフトさんは弱々しく顔を横に振って、椅子から降りて跪こうとした。ご党首様たちに止められたが、マルフトさんの返事は、こんなだった。

『も、申し訳ありません、ご党首様。私自身、そうさせていただきたい気持ちなのですが。何しろ、この歳です。お役目を果たせるか、自信がございません。

 この度、ツッジャムから、こちらメレディーンまでの道を覚えたものの、正直、幾つもの峠を越えるのは、この老いた身にはこたえます。あと何回できることやら。

 しかもです、ご党首様。先ほどビッサビア様からのお手紙をお渡ししましたように、私はこの度、ビッサビア様のお使いとして参りました。つまり、パウアハルト様の使いではないのです。今後、パウアハルト様が母君様と同じように私を使ってくださるか、どうか。・・・おそらく無いでしょう。

 パウアハルト様も私の存在には気づいておられます。何度か目も合いました。ですが、お声掛けくださった事は一度もございません。これからもあるとは思われません。こちらメレディーンへのお使いは、私よりもっと若い者を使うおつもりでしょう。ソレイトナックさんの元部下だった若者たち、とか。

 したがって、ご党首様。申し訳ございませんが、このマルフト、とても役に立てそうにありません。お許しくださいませ』

 マルフトさんが深々と頭を下げると、ご党首様ご夫妻はとても残念がっておられた。

 その後マルフトさんは退室したんだが、私は奥方様に断ってから、マルフトさんを見送ろうと、厩までついて行った」

「おばさん」私はまた、つい口をはさんだ。「まだ、この村の状況を教えてもらっていないんじゃないの?」

「おや、慌てるじゃないか。そのためもあって、マルフトさんを見送るんだよ。ご党首様たちはこの村のことなんか興味も無いだろうし、モラハルトが酷いことをするかも、なんて疑うのも、兄弟であるご党首様が気を悪くするだろ。そんなこんなで、ご夫妻の前では聞けなかったのさ。

 で、厩で人の目を気にしながら、私はマルフトさんに確認した。

 ありがたいことにマルフトさんと来たら、馬車を借りて、この村の様子を見に行ってくれていたんだよ。そして、この山の案山子村に変わりは無かった。村人たちがヌビ家の兵隊を見かけた事も、モラハルトの噂を聞いた事も無かったそうだ。私は、マルフトさんが居てくれて本当に良かったと感激して、つい抱きつきそうになったよ。マルフトさんは真っ赤になって遠慮したけどね。

 マルフトさんは続けて話してくれた。父さんと兄さんにも会って、私がメレディーンに移った事を伝えた、と。

 ただしモラハルトとの件まで話すかは、すごく迷ったそうだ。でも結局、マルフトさんは話した。理由は二つ。一つは兄さん、つまり、若い頃のあんたたちのお爺さんがソレイトナックの事とかをしつこく聞いたんで、話すしかなかったんだと。もう一つは、私がした心配をマルフトさんもしたからさ。いつ何時、モラハルトが村に嫌がらせをするかもしれない。自分を拒んだ女の家族がいる、この村に。だからマルフトさんは、私の父さんと兄さんも知っておくべきだと考えてくれたんだ。

 もちろん父さんたちは口外しないと、マルフトさんに約束したよ。そして驚いて、絶句していた、と。父さんもマルフトさん自身も、モラハルトを名君と信じきっていたからねえ。

 私は改めてマルフトさんに感謝して、父さんたち宛ての手紙を届けてほしいと頼んだ。マルフトさんは快く引き受けてくれたよ。

 私が書いた手紙を懐にしまうと、マルフトさんは私の手をしっかり握った。握りながら、私の手の中に何か小さい物を押し込んでいた。

 マルフトさんは周囲を気にしながら、小声で言った。

『セピイさん。ご党首様たちにお話しした通り、私がこちらに来られるのは、これが最後だろう。本来なら何回も手紙を届けてやりたかったが、できるのは今回だけで、申し訳ない。

 でも一つ、朗報があるよ。ビッサビア様が協力してくださるそうだ。詳しいことはよく分からないが、とにかく、ここに書かれた指示通りにすれば、ビッサビア様と定期的に連絡が取れるらしい。ビッサビア様にお願いすれば、村のご家族の様子もその都度、確認できると思う。

 ただ、ビッサビア様がおっしゃるには、この方法を、こちらの誰にも気づかれてはならないそうだ。絶対に気づかれてはならない。ご党首様にも、こちらの奥方様にも、セピイさんの上役の方にも。私にもよく分からないが、そうじゃないとビッサビア様は、セピイさんのために協力できないらしい。私はもう、ビッサビア様に合わせるしかないと思う。

 これをよく読んで、誰にも気づかれないように」

 私も、手の中の物を急いで懐にしまった。

 それを見て安心したマルフトさんは、お別れ前にあと一つ言わせてほしい、と言い出した。

「セピイさん。どうか幸せになっておくれ。

 私は力が足りなくて、妻や子どもたちを早く亡くしてしまった。それで勝手に、あんたを自分の娘のように思っていた。あんたには、是非とも幸せになってほしい。

 ソレイトナックさんのことがどうなるかは、私も予想がつかないが・・・セピイさん。場合によっては、早く見切りをつけて他の人を探した方がいいかもしれない。ソレイトナックさんには私も助けてもらったから、私もセピイさんとソレイトナックさんのことを応援したい。しかし今、あの人がどこに居るのか・・・

 セピイさんがあの人を待ち続けて、人生を棒に振るのも、良くないと思う。

 最後の最後に気分を悪くさせて、ごめんよ。この年寄りの余計なお節介と笑っとくれ。

 手紙は必ずご家族に届けるから。

 いいかい。自分を大事に、きっと幸せになるんだよ』

 マルフトさんは私を一度、軽く抱きしめてから馬車の御者台に上がった。

 そして『忘れるところだった』と言って、鞘入りのナイフを私に差し出した。モラハルトにはたき落とされたナイフを、ツッジャム城の塔で見つけて拾ってくれたんだよ。私は感謝して、今度こそ失くすない、とマルフトさんに約束した。

 マルフトさんはそれで安心して、ツッジャムに帰っていった」

 おばさんはそこまで話すと、深く息をついた。私も、そうなった。それから二人して、葡萄酒をほんの少しだけ呑んだ。二人とも何も言わなかったけど、マルフトさんのために乾杯したつもりだった。

 

「人が良すぎるわ、マルフトさんって。親戚でもないのに、親戚のおじさん並みに助けてくれて」

 私は思わず、つぶやいていた。マルフトさんが回収してくれたナイフは今、私が保持している。

「よほど、ご家族のことで辛い事があったんだろう。マルフトさんも、詳しいことは最後まで話さなかった。戦争か何かだろうか、と私も推測していたが。そうやって推測することも良くないのかもしれないね。マルフトさんが言いたくないと思っているなら、その気持ちをくんであげないと。そっとしてあげないとね。

 プルーデンス、これもよく覚えといてくれ。あんたもこれから、いろんな人に出会うだろう。中には、自分が辛い目に遭ったからと言って、周りに辛く当たるような人も出てくる。これはもう絶対と言っていい、残念ながら。どちらかと言えば、その手の人の方が圧倒的に多いんだよ。

 でも、ごく稀にマルフトさんみたいな人も居るのさ。自分が辛い思いをしたから、他の人にそんな思いをさせたくない、と考える人。そんな人も、この世には全くいないわけじゃないんだ。世間は、そんな人をお人好しと笑いがちだがね。できれば、あんたには、そういう人と接して、よく見て、学んでほしい。

 そんな人が、あんたの前に現れるよう、私は神様にお祈りするよ」

「ありがとう、おばさん。私もそういう人をしっかり探すよ」と誓うのが、精一杯だった。

「さて、話を進めると」セピイおばさんは言いながら一旦、葡萄酒の皮袋と盃を背後の暗がりに戻した。

「気になるのは、やっぱり、マルフトさんが私に握らせた物だ。羊皮紙の切れっ端を小さく畳んだ物だったよ。

 私はそれを文字通り肌身離さず持って、一人になれる場所と機会を探した。ご党首様たちにも女中頭のノコさんにも気づかれてはならないなんて、考えただけでドキドキしたよ。私は心ん中で自分に言い聞かせた。落ち着け、落ち着け。慌てるんじゃない。よく考えるんだ。

 それで思いついたのが、晩餐の時だよ。配膳の手伝いをして、ご党首様や奥方様、騎士様たちが食事し出したのを確認して、私は城内の物陰に潜り込んだ。そこで切れっ端を開いたんだが、暗すぎて文字が読めないから、場所を変えた。もちろん誰にも見つからないように気をつけてね。

 切れっ端には、小さな文字がびっしり書いてあった。見覚えのあるビッサビア様の字だ。それは、こんな指示だった。

『メレディーン城の近くに、雑貨商の古くて小さな店がある。何とか時間を作って、そこに行きなさい。他の者から理由を尋ねられたら、マルフトの遠縁の者がそこに居る、と答えなさい。そこで自分の親族の知らせを受け取れるから、と答えなさい』

 そして店の名前、店主らしい人の名前が添えてあった。

 読み終えたら、また小さく畳んで、懐にしまったよ。

 さあ、それから数日間は悩ましかったねえ。できることなら、すぐにでも城下町に出て、問題の店を探したいところだ。だからって、外出します、なんてノコさんたちに断りを入れるかい?私を怪しんでください、と頼んでいるようなもんだよ」

「で、でも、せっかくの機会を逃したらダメだし」

「それで私も焦ったさ。仕事をしながら、気持ちが顔に出ないように必死だったよ。

 そしたら、向こうから動いてくれたね。マルフトさんから切れっ端をもらって一週間くらい経ったろうか。商人が一人、メレディーン城にやって来て、私を呼んでほしい、と門番に頼んだのさ。

 私が行くと、小太りの老人が待っていた。この男が私や門番たちに説明するには、自分はお使いで来た、と。

『私は、城下の雑貨商の店で働く使用人であります。店の主人が、以前ここに上がったマルフトという方と、古くからの知り合いでして。先日、私の主人が取引で何年かぶりにツッジャムを訪れて、そのマルフトさんと再会しました。そして、こちらのセピイさんを紹介していただいた次第です』

 そう言って、使用人は私に手紙を渡した。そして、これからも時々、マルフトさんや村の家族からの手紙を届けられるだろう、と。かつ、それに伴って、城の方々に店の品を紹介したい、と言い出した。

 その言葉で門番たちが、たちまち渋い顔をした。そうやって、いちいち商人を上げてやっていたら、切りがないからね。ツッジャムでもメレディーンでも、城に上がれるのは豪商たちに限られていた。つまり商人の中でも、城主様とかお偉方としっかり顔見知りになれた、裕福な者たちだけ。あんたも分かっているだろうが、これはどの城でも普通だよ。

 私はまず、門番たちが声を荒げないよう、なだめて、自分の上役であるノコさんを呼んでくると約束した。内心迷ったが、ノコさんを通さないわけにはいかない、通すしかないと結論したんだ。

 ノコさんは使用人に会ってくれたよ。しかしと言おうか、やはりと言おうか、門番たちと同じ反応で、あまりいい顔はしなかった。私からマルフトさんの説明をしても、うーんと唸る。

 ノコさんが口を開きかけると、老年の使用人が先にしゃべった。

『分かりました。商いの方は諦めます。

 ただ、こちらのセピイさんが私どもの店を定期的に訪れることをお許しくだされ。そうすれば、店を通して、セピイさんとツッジャムのご家族が手紙のやり取りをできるでしょう。我が主人も、これをきっかけに、頻繁にツッジャムまで商売を広げたいと申しております』

 これを聞いて、ノコさんは了承してくれた。その方が話が早いだろう、と。

 使用人は早速、私を店まで案内したい、と言い出して、ノコさんもこれを許してくれた。

 急きょ、私はその使用人の荷車に乗せてもらって、城下町の大通りに出たよ。店は城から、そう遠くなかった。ロバが引っぱって、のろのろ進む荷車に乗って、道順を覚えることもすぐにできた。何しろ、大通りを進んで、一回曲がるだけだったんだからね。

 大通りからちょっと路地に入って、荷車は小さな店の前に止まった。日陰になりやすい、地味な店だったよ。そして、これまた小さな看板が下がっていて、文字がかろうじて読めた。まさにビッサビア様の手紙に書かれていた店の名だった。

 使用人が先に店に入って確認すると、肝心の店主は急用で出かけていたよ。そして、私に一週間後にまた来るよう、店番に伝言していた。

 私はお預けをくらった形だが、手紙を受け取れた事もあって、今度は焦らなかった。使用人がまた荷車で送ろうかと言ってくれたが、私は遠慮したよ。城まで小一時間もかからない距離だったし、自分で歩いて道を覚えたかったんでね。

 あとは仕事に戻って、いつも通りさ」

 聞いていた私も安心して、ほっと息をついた。

「これで目処がついたね。よかった」

「まあね」

 セピイおばさんは、その一言だけで、私から一度、目をそらした。あれっ?と思う間に、セピイおばさんは話を続けた。

「使用人が届けてくれた手紙は父さんからだった。私からの手紙をマルフトさんから受け取って、急いで返事を書いてくれたらしい。

 村のことは心配しなくていい、と。パウアハルトの悪評は村にも伝わったようだが、兵隊たちを見かけたりした事は一度も無い、と書いていた。

 読みながら、山の案山子村はパウアハルトの眼中にないのだろう、と私は推測したよ。良くも悪くも。で、父親のモラハルトの方はお屋敷で女たちに夢中で、これまた、この村のことなんか思い出しもしない。私は、とりあえず神様に感謝した。

 父さんは、あと、ビッサビア様について書いていた。とにもかくにもビッサビア様の指示に従え、と。ソレイトナックの消息をつかみたいのは山々だが、そのためにもビッサビア様におすがりするしかない、とね。そこは私も分かりきっていたし、私からの手紙でも書いていたつもりだったんだが。何で父さんが、わざわざ念を押してきたのか。そう疑問に思って、はたと予想がついた。さては、ソレイトナックの件で母さんが悲しんで、兄さんが怒っているんだろう、とね」

「やっぱり怒っていたかな?お爺ちゃん」

 私も、おばさんのお兄さんの孫として気になるから、聞いてしまった。

「怒っていたに決まっているじゃないか。手紙を読みながら『それ見た事か』って兄さんの声が聞こえてきそうだったよ。

 でも、まあ、それも兄さんたちが元気な証拠だけどね。これも感謝しなきゃ、と自分に言い聞かせるしかなかった」

「そして、また新たな問題が発生したわけね。城下町のお店という問題が」

「ああ、晴れて堂々と外出する口実もできたんだが、不安も感じていた。一週間が経つのを待ちながら、考えたよ。ビッサビア様は何で、こんな手間の込んだやり方をなさるのか。ヌビ家から隠すような段取りにする必要があるのか。答えは出なくて、嫌な予感ばかりが湧いてきた。

 そして待ちに待った一週間後、私は雑貨商の店に急いだよ。例の小太りの老いた使用人が迎え入れてくれた。

 店の中は昼間でも薄暗くて、いい気はしなかったね。念のためと思って、私は服の中のナイフを確かめた。わざわざ届けてくれたマルフトさんには、ほんと感謝だよ。

 私をテーブルに着かせると、使用人が奥に入って、店の主人を呼んだ。そして使用人はそのまま引っ込んで、店の主人が私の前に座った。

『お前がセピイちゃんか』

 主人と言うか、その男は椅子の背に持たれながら、私に声をかけた。口の端は少しつり上がって、笑っているようにも見えたが、こちらを見る目が鋭いような、粘りつくように重たいような。私は、目つきだけならゲスタスに似ていると思ったよ。商人と言うよりも、兵隊に混じっていそうな中年男だった。

 私が『そうです』と答えると、男の口調は、こんなだった。

『俺の名はポロニュース。以後、お見知り置きを、なんてな。

 警戒しているようだが、まあ安心しろや。俺は、モラハルトみたいに襲いかかったりしねえよ。娼館に行くくらいの金は、いつも持ってんだ。

 ま、あのひひ親父もここ最近は、ずっと女中たちに手を出しまくって、そこまで不自由してないらしいけどな』

 私は驚いて、何と返したらいいのか思いつかなかった」

「と、とんだご挨拶だね」私も、つい言ってしまう。

「ああ、まったくだよ。だがポロニュースは、そんな私に構わず、話を続けた。

『お前も少しは気づいたと思うが、俺はこの店の主人でも、マルフトの知り合いでもねえ。ビッサビア様の使いだ。ビッサビア様がお前と連絡をとるために、俺を指名したのさ。

 本当の店主は、さっきの爺さんだよ。俺はこの店を使いたかったんで、金をつかませた。表向きだけ俺が店主ってことにしてな。ここなら城から遠くなくて、しかも目立たねえだろ。待ち合わせには、もってこいだ』

 私は、うなずくしかなかった。ポロニュースは、それに満足したのか、しなかったのか、やはり話を続ける。

『しかし、だからって長居はできねえぞ。お前の帰りが遅いなんて、お前の上役なんかが騒ぎ出したら、元も子もねえからな』

 私は、もう思い切って尋ねた。

『なぜ、こんな段取りにするんですか。ヌビ家に知られてはいけないんですか』

『ああ、知られちゃいけないねえ。なぜかと言えば、それをビッサビア様がお望みだからさ』

 というのが、ポロニュースの答えだった。もちろん、それだけじゃ、まだ話が見えない。私は続けて聞いた。

『ビ、ビッサビア様は一体、何をお望みなんです』

 そしたら、たしかポロニュースは声を殺して笑い出したよ。

『さあ、何をお望みなんでしょうかねえ。って、どうだっていいじゃねえか。俺やお前ごときが、あんな高貴なお方のお考えを根掘り葉掘り聞けるわけがねえだろ。ま、お前が馬鹿じゃなかったら、いちいち聞かなくても、そのうちピンと来そうなもんだがな。

 それより』

 ポロニュースは不意に振り向いた。奥に引っ込んだはずの、本物の店主が少しだけ顔を出していたんだ。ポロニュースに睨まれて、老いた店主は震えながら扉の向こうに消えたよ。

 ポロニュースは舌打ちしてから、私に向き直った。

『まず確認するが。セピイよ、お前はビッサビア様に感謝しているよな』

『もちろんです』と私は即答した。『今こうしてメレディーンに移り住む事ができたのは、ビッサビア様のおかげですから』

『だったら、当然ビッサビア様に恩返ししてくれるよなあ』

 そう言ったポロニュースの眼差しは冷たかった。

『わ、私にもできることでしたら』と、こちらは少し返事をぼかすのが精一杯だった。

 ポロニュースは、もう一度振り向いて、店主が覗き見していない事を確かめた。そして向き直ると、テーブルに少し身を乗り出した。

『あの爺さんにも言ったんだが。

 セピイよ。お前はビッサビア様側の人間になれ。表向きはメレディーン城の、ヌビ家の女中でもいい。しかし本当はビッサビア様のしもべ、マーチリンド家の人間になるんだ』

 私は、このポロニュースの言葉が、意味が分からなかった。私がそれを正直に言うと、ポロニュースは、また舌打ちしたよ。

『やっぱ、田舎娘だと、のみ込みが悪いな。さっさと本題に入るか。

 いいか。お前は、とりあえずメレディーン城の女中としての仕事を続けろ。ただし女中の仕事をしながら、周りの様子に気をつけるんだ。特に客が来た時にな。

 その客が誰なのか。王族か、もしくは、その使いか。はたまたシャンジャビとかリブリューみたいに、ある程度、名家の関係者ってこともあるだろう。あるいは、噂で名前を聞いた事があるような豪商とか。そういうのを逐一、覚えておけ。

 で、二週間おきくらいに、ここに来て、俺に報告しろ。いいか。紙とかに書いて覚えようなんて、すんなよ。間違っても、跡を残すじゃねえ。分かったか』

 なんて言うんだが。こっちは聞いている途中から怖くなったから、確認した。

『ヌビ家の動向を探れ、とおっしゃるんですか』

 するとポロニュースは顔を歪めて、ぼやいたよ。

『それくらい、いちいち聞かなくても、察しろや。それがビッサビア様のお望みなんだろうがよ。恩返しと思って、しっかり情報を集めてこい』

 私は食い下がってみた。

『ビッサビア様はヌビ家の情報を集めて、どうなさるんですか。まさかヌビ家とマーチリンド家が戦争になるんですか』

 私の質問に、ポロニュースは露骨に、ため息をついた。

『あほか。店の爺さんでも、そこまで言わなかったぞ。

 ビッサビア様ほどのお方が情報を持っていてくれりゃあ、戦争を回避するように活用してくださる事だってあるんだぞ。相手だって弱みを握られたら、そう簡単に攻めて来られねえだろ。

 あー所詮は、田舎の姉ちゃんだな。いくらビッサビア様のご命令とは言え、先が思いやられるぜ』

 なんて、明らかに私を蔑んでいた。

 私は悔しいやら、怖いやら、いろんな気持ちになりながらも、気を引き締めて受け答えしなければ、と思ったよ。

 そこで私は改めて言った。

『ポロニュースさん。お願いですから、少し待ってください。ビッサビア様に恩返ししたいのは山々ですが、だからと言って、ヌビ家に対して、そんなことをするのは・・・

 たしかに私はビッサビア様に何度もお世話になり、助けていただきました。ですが、今回はヌビ家のご党首様たちからも良くしていただいたんです』

 そしたらポロニュースは、私が話している途中で遮ったよ。

『だからヌビ家にも恩返ししなきゃあ、てか。お前を犯そうとしたモラハルトは、そのヌビ家のもんだろうがよ。アンディンやキオッフィーヌちゃんがお前に良くしてやるのは、スケベな親族がやらかした事に対する罪滅ぼしかもしれねえんだぜ。だったら、気兼ねなんかしなくてもいいじゃねえか』

 というのが、ポロニュースの理屈だった」

「アンディンとキオッフィーヌって?」

「ああ、ごめんよ。当時のヌビ家のご党首様と奥方様さ」とセピイおばさんが教えてくれた。

「うーん。罪滅ぼしっていう理屈は通らないわけじゃないけど」と私は唸った。

「だから気兼ねしなくていい、なんて気にはなれないだろ。アンディン様たちが私のために、あれこれと手配してくださった事に変わりはないんだから。

 しかも、だ。お二人は名家の党首夫妻というお立場。田舎娘の私からすれば、はるか雲の上の存在だよ。私なんかがこそこそ嗅ぎ回っている、なんて勘づかれた日には、どんなお咎めを受けることか。私は想像するだけでも恐ろしかったよ」

 それも分かる、と私は同意した。

「そんな私の様子に、ポロニュースは薄ら笑いを浮かべて、こう言ったんだ。

『分かったよ、セピイお嬢ちゃん。今日は、これくらいで帰れや。お前の上役とかから怪しまれる前にな。帰って、ゆっくり考えろ。

 一応、言っておくが、この話は断ってもいいんだぜ。ポロニュースって怪しい奴がヌビ家を嗅ぎ回っている、とか上役たちにタレ込んでもいい』

 私は耳を疑ったよ。もちろん、すぐに問い質した。『そんなことしたら、あなたは追われるし、ヌビ家とマーチリンド家の関係もまずくなります』

 すると、ポロニュースの答えは、こんなだった。

『それは、俺がヌビ家に捕まったら、の話だろ。俺がそんなヘマするかよ。この店は爺さんに返して、雲隠れするだけさ。お前も上役たちから叱られるだろうが、まあ、その程度だ。心配すんな』

『私の村は、家族は、どうなるんですか』と、私は続け様に質問した。

 それで今度は、ポロニュースの方が鈍い反応をする番になったよ。何で私がそんな質問をしたのか、不思議がっていたんだ。

 それで私は理由を説明しようとした。『だって、私が断った場合、それに対する報復があるんじゃ』

 それを、またしてもポロニュースが途中で遮った。

『お前の里はヌビ家の領内だろ。マーチリンド家のもんじゃねえ。たとえ、そうだったとしても、そんな七面倒くさいことはしねえけどな。労力の無駄だ』

 私は、それを聞いて、安心と言えば、安心だったんだが」

 セピイおばさんは、ため息をついた。

「随分と余裕綽々だね、ポロニュースって。どういうつもりだろ。おばさんが怪しむのも当然だわ。

 あっ、ソレイトナックっ」

 私はつい声を上げてしまった。が、おばさんはそれを咎めるのも忘れて、話を進めた。

「そう。そこだよ。私が彼の消息をつかむためには、ビッサビア様の協力が欠かせない。ビッサビア様への協力を拒めば。そう思い至った私は、もうポロニュースに尋ねていた。

『私が断った後も、ビッサビア様と手紙のやり取りができますでしょうか』

 ポロニュースは途端に笑い顔を見せた。声は出さないが、思い切り私を蔑んで、歪んだ笑みだった。

『おいおい、それで俺が、できると答えると思ってんのか。随分、厚かましいじゃねえか。そういうところだぞ、田舎もんの嫌われるところは。できるわけねえだろうが。ビッサビア様がお暇じゃない事は、お前も知ってんだろ。わざわざ、お前なんぞに構ってやる暇も義理も無えよ』

 私は、それを聞いて、へたり込みそうになった。椅子に支えられて、そうならなかったけどね。

 そんな私を見捨てるように、ポロニュースは立ち上がって、こちらを見ないで言ったよ。

『ま、せいぜい、頭悩ませて、結論出せや』

 私は大慌てで身を乗り出して、答えた。

『ごめんなさい。謝りますから、どうかビッサビア様に協力させてくださいっ』

 そしたらポロニュースは振り向きながら『だーから返事は急がなくてもいいって』と来た」

 ああっ、と私は思わず声が出てしまった。「確信犯ね。ポロニュースは、おばさんが断れないことを見越して、言っている」

「そうなんだよ。私は猫や犬が自分より小さい生き物を痛ぶって遊ぶ姿を連想したよ。私は、この男には敵わないんだと悟った。

 ポロニュースは、私に帰るよう急き立てた。にやけながらね。

 私は店の外に出されながら、最後にこれだけは、と思って、ソレイトナックのことを尋ねた。何か知らないか、と。

『あー、あのノッポ野郎か。会話した事は無えが、覚えてはいるよ。ただ、最近どうなのかは知らねえぞ。見かけねえんだから。

 まあ今度、ビッサビア様にお聞きしてみるわ』

 と言うのが、ポロニュースの答えだった」

「ほんとは、何か知っているんじゃないかな」と私。

「たしかに私も、そんな推測をしたよ。しかし食い下がっても、ポロニュースがはぐらかすのは目に見えているだろ。

 私は仕方なく、城に戻った」

 うーん、と私は、またしても唸ってしまう。

「しかし私は二週間も待てなかったね。何とか一週間はメレディーン城内で聞き耳を立てて、頭にため込んだ。そして、それらの情報を手土産に、ポロニュースの店へ急いだんだ。

『おいおい、頻繁に外出したら怪しまれるだろうが。加減を考えろ』なんて、ポロニュースから早速、釘を刺されたよ。

 でも、とにかく私は奴に報告して、ビッサビア様への恭順の気持ちを示したかったのさ。

 と言っても、実はこの一回目は、大したネタが無くてね。本当は、手土産と言えるほどじゃなかったんだ。

 たしか、アガスプス宮殿からの使者がメレディーン城を訪れた事があったような。しかし応対したのは、ご党首様じゃなくて、お役人。つまり、その程度の内容だったってことさ。

 他に話せそうなのは、どこかの貴族が城詰めの騎士様に会いに来た事とかが、幾つか。

 少しはポロニュースが興味を示してくれるかと期待したんだが、甘かったよ。『じゃあ、そいつらの紋章を言ってみろ』と突っ込まれて、すぐに返事できなかった」

「えっ、何で。少なくとも貴族が接触して来たんだから、立派な情報じゃないの?」と私。

「残念ながら、そこまで重要じゃなかった。たしか、その客人たちの紋章は、大きなS字とか図形のものばかりで、良くて十字架が描かれているくらいだったんだよ。蛇はもちろん、蛇以外の生き物すら見かけなかった」

S字の紋章

十字架の紋章の一種


「となると、まあ、たしかに上級とは言えないか。このヨランドラで一番自慢になる紋章は、蛇の類だもんね」

「そう。ポロニュースからは『そんな小物どもの話は要らねえんだよ』と腐された。ビッサビア様にお伝えするほどじゃない、とね。

 それで『今度こそ二週間以上、間をあけてから顔を出せ』と帰らされた」

「で、ソレイトナックのことは?」

「ビッサビア様が調べてくださっている最中だから待て、とのことだった」

 ああ、と私は声を漏らしてしまった。もしかしたらセピイおばさんは、もうソレイトナックに会えなくなったのかも。脳内には、そんな疑念も湧いてくる。

 セピイおばさんは話を続ける。

「とにかく私は焦りに耐えながら、二週間ずつを過ごしたよ。はじめの頃は、なかなかいい情報がつかめなくてねえ。どっかの豪商が品物の売り込みにやって来たり、楽士たちが城内で演奏したり、くらいじゃなかったかな。目立った出来事なんて無かったんだ。メレディーンは平和なりって感じさ。

 だから二回目、三回目も、大した紋章を見かけなかった。図形じゃなくても、花など植物の紋章、あるいはリュートとか楽器類を載せた紋章とか、だったような。

 ポロニュースにそれらを報告しても、露骨なため息をつくし、ソレイトナックに関しては進展が無い。

 ポロニュースが言うには、ビッサビア様も手こずっているんだ、と。ロミルチの城主様に何度も手紙を送っているが、ビッサビア様を赤の他人として、まともに返信をしてこない。そこでビッサビア様は、喧嘩中の夫モラハルトの尻を散々叩いて手紙を書かせたが、やはり効果が見られないんだとか。

『もう、あのノッポ野郎も、お前のことなんか忘れて、新婚生活を楽しんでんじゃねえのか』

 なんて、ポロニュースは簡単に言ってくれる。私は泣きたいのをこらえて、引き続きビッサビア様のご協力をお願いするしかなかった」

「で、でも、その間も、ひいお爺ちゃんやひいお婆ちゃんとの手紙のやり取りは、できたんでしょ?」

 私は少しでも肯定できる事を探して、そちらに話を振ってみた。

「ああ、そっちはポロニュースも、ちゃんと取り次いでくれたよ。

 ただし、実際に私からの手紙を父さんたちに届けたのは、ソレイトナックの元部下たちだったけどね。彼らも、ソレイトナックの後は、ポロニュースやビッサビア様の指示で動いていたらしい。若い連中がマルフトさんの替わりに、この村とメレディーンの間を往復してくれたのさ」

「なら、あとはソレイトナックが見つかれば、完璧なんだけどなあ」

「あの頃は、父さん母さんたちとの手紙のやりが、せめてもの慰めだったよ」

 そう言ったものの、セピイおばさんは数秒、沈黙した。

「どうしたの、おばさん」

 セピイおばさんは私から目をそらして、うつむいた。

「父さんたちの手紙は、たしかにありがたかったが。三通目くらいだったかねえ。・・・マルフトさんが亡くなった事を伝えてきたよ」

 私は絶句した。今度は私が数秒、沈黙する番だった。

「そんな」

「メレディーンからツッジャムに戻ってすぐ、体調を崩したらしい。で、そのまま起き上がれなくなった、と。つまりは、私のせいさ」

「おばさん」私は思わず声が大きくなった。「やめようよ、そういう言い方。おばさんが悪いんじゃない。強いて言うなら、原因をつくったモラハルトのせいでしょ」

「ありがとよ、プルーデンス。そうしておくかねえ」

「いいのよ、それで。

 それより、マルフトさんの遺族は集まったの?」

「そこなんだが。一向に現れなかったそうだ。

 ツッジャム城の女中や兵士たちは仕方なく神父さんを呼んで、簡単な葬儀をしてもらったんだ、と。それを伝え聞いた父さん、つまり、あんたらのひいお爺さんがマルフトさんの遺体を引き取った。ビッサビア様に断りを入れて、この村の墓地に埋葬したのさ」

「えっ。てことは、マルフトさんのお墓は、この村にあるの?」

「ああ。今度、場所を教えるよ。あんたも手を合わせておくれ」

「ぜひ、そうさせてもらうわ。

 でもマルフトさんって、本当に身寄りが無かったの?」

「どうも、そうらしい。私としては、誰か一人くらい、この村に尋ねて来てほしかったんだがねえ。今日の今日まで、一度もそんなことは無かった。

 あんたのひいお爺ちゃんたちも、城下町の市場に行く時は、何度もツッジャム城に立ち寄って、確かめたんだよ。だけど門番たちも、やはり首を横に振るばかりだったとさ」

 セピイおばさんと私、二人して、ため息が重なった。

「よりによって、マルフトさんみたいな人がそんな扱いだなんて」

「嘆きたいのは山々だが、世間様は聞いちゃくれないよ。せめて私たちだけでも、この村でお墓を守ってあげないとね」

 セピイおばさんは、うつむいたままだ。

「もちろん、私も手伝うわ。弟にも、そして私に子どもができたら、その子たちにも私が教えるから」

 セピイおばさんは「ありがとう」と言いながら、やっと顔を上げてくれた。

 

「それにしても、ポロニュースは手強いわね。何とかしてデカい情報をつかんで、ポロニュースに認めさせたいけど」

「私も、そう思ったさ」

 セピイおばさんは、ふふっと笑った。

「でも実は、そんなに心配しなくてもよかったんだよ。何たって、名家ヌビのメレディーン城だからね」

 あっと私も思わず声が出てしまった。

「さすがは、大貴族の本拠地だったよ。来客は、ツッジャム城よりメレディーン城の方が、明らかに多かった。ヌビ家に取り入ろうと、大小あらゆる貴族たちが押しかけて来るんだ。それに、アガスプス宮殿とも、定期的に使者が行き来していたからね。

 マルフトさんの件は悲しかったが、そのうち、ついに上客に出会えたよ。しかもヴィクトルカ姉さんが、きっかけだった。

 あれは夜、もう寝ようという時間に、スカーレットさんか誰かから頼み事をされた時だ。用事そのものは難なく済んで、私は城内の通路を急いで戻るところだった。

 そしたら視界の先に、メレディーン城の騎士様の一人が入った。騎士様たちの中でも、代表格の年配の方でね。その方を見かけるくらいは珍しくないんだが、その方の後ろから、別の見慣れない騎士様が現れた。複雑な絵柄の服で、明らかに紋章衣だよ。と思ったら、そこに描かれているのは、ヌビ家のヒュドラじゃなくて、二匹の蛇じゃないか。左右どちらだったか忘れたが、片側で二匹の蛇が縄のように絡み合っているんだよ」

「リブリューだわ」私は、すかさず言った。

「覚えていたかい。そう、リブリュー家さ。ついに、蛇の紋章を掲げる上級貴族を見つける事ができたのさ。

 私は声が出そうになるのをこらえて、すれ違いざまに、二人に会釈した。

 で、すぐに壁の陰とかに隠れて、二人の跡をつけるつもりだった。ところが、また声が出そうになったよ。

 リブリュー家の騎士様の紋章衣には、二匹の蛇と並んで、もう片側に、たくさんの線が寄り集まって描かれていた。こっちも覚えているかい?竜巻の線だよ」

リブリュー家の騎士の一人が使う紋章 竜巻と二匹の蛇

「ヴィクトルカのっ」私は声が大きくなってしまった。

「そうだよ。何と、ヴィクトルカ姉さんの生家ジルフィネンの紋章にあったものとそっくりの竜巻が描かれていたんだ。

 私は思わず、そのリブリュー家の騎士様に話しかけてしまった。本来なら、ノコさんか誰かに事前に相談してからの方がいいだろうに、興奮して頭からすっかり抜けちまったんだよ。

『騎士様、もしやジルフィネン家の方と、お知り合いですか』

 私の問いを聞くや、リブリュー家の騎士様は目を丸くして驚いた。

『ジルフィネン。そなたは今、ジルフィネンと申したか。懐かしくも嬉しい響きよ。

 いかにも、ジルフィネン家の紋章に竜巻を加えさせたのは、何を隠そう、この俺よ』

 と、その騎士様は答えてくださった。

 何でも、ジルフィネン家が王弟様から四弁の花を賜った時に、このリブリュー家の騎士様も居合わせたんだ、と。

『あの時、俺は王弟様にいいところを見せようと、奴らに竜巻をくれてやったのだ。

 何とも真面目な一家でな。俺は今でも竜巻をやった甲斐があったと思っておるぞ。

 王弟様もその場でジルフィネン家の紋章を、花嵐とか名付けておられた。

 しかし最近は、あの一家の名を聞いてなかったな』

 そこで、まずメレディーン城のヌビ家の騎士様が、手短に私を紹介した。この女中は数ヶ月前にツッジャム城から移って来たばかりだと。それに続けて私も、ヴィクトルカ姉さんが結婚した事をお伝えした。

『そうか、娘が嫁いだか。それは、めでたい』

 なんてリブリュー家の騎士様は始終、上機嫌だ。

『そなたが、またジルフィネン家の者たちに会う時は、この竜巻の騎士も結婚を祝福しておったと伝えてくれ』

 とか付け足して、ガハハと笑っておられた。

 その騎士様はちょうど帰るところだったらしく、会話自体はそれで終わったよ。

 でも翌日、メレディーン城の代表格の騎士様から褒められた。リブリュー家の騎士様は、思わぬ土産話ができた、と喜んでいたそうだ」

「やったじゃん。蛇の紋章なんだから、間違いなく大収穫だね。

 それにリブリュー家って、ヒーナお嬢さんのはじめの縁談で、ヌビ家とは疎遠になってはずでしょ。それが騎士同士で談笑するくらいになるなんて」

「おお、それも覚えていたかい。そうなんだ。ポロニュースも同じ指摘をしていたよ。

『ほほう、面白くなってきたじゃねえか。これからも、よく注意して周りを見てろよ。そのうち夜どころか、白昼堂々、リブリュー家の幹部がアンディンに挨拶にやって来るぜ。

 何だよ。やればできるじゃねえか、セピイちゃん』

 なんて珍しく褒めてくれたもんでね。私は迂闊にも、リブリュー家の騎士様と会話できた事まで話してしまった。そしたら、ポロニュースは私を憐れむような目で見たよ。

『おいおい、仲良しこよしになれたって自慢してんのか。そいつを含め、周りの連中がお前に注目してしまうだろうがよ。この仕事は目立ったらダメなんだぞ。しっかりしてくれや』

 だとさ。

 私は赤面しながら、その日は大人しく帰るしかなかった」

「うーん、一進一退だなあ」と私。

「でも、この四度目の報告以降は立て続けに収穫があったよ。

 細やかな模様をしたトカゲの紋章が、ビナシス家。三匹の蛇が踊るように並んでいる紋章がア・ヤ・ベイン家、とかね。中でも大物だったのが、長い蛇の紋章、ナモネア家だ。あそこは今でこそ勢いが衰えているが、ヨランドラ王家が興る以前から在る貴族家だからね。歴史があって、馬鹿にならないんだ。

 あと、他家じゃないが、ゲスタスが死んだという情報も入った。相変わらず揉め事を起こし続けて、とうとうご党首のアンディン様から見捨てられたのさ。表向きは、王弟様の一人がゲスタスを直属の部下にするべく引き取ってくださった、と言われていたんだが。奴は、すぐに東部のフィッツランドとの国境付近に送られたよ。で、その道中で暗殺された、と。暗がりで滅多刺しだった、とさ」

ビナシス家の紋章 二色トカゲ

 

ア・ヤ・ベイン家の紋章 三匹の踊る蛇

 

ナモネア家の紋章 長蛇

「当然の報いだわ」

「メレディーン城の女中たちも、同じことを言っていたねえ。

 ちなみに犯人は分からず終い。ご党首アンディン様も王弟様も、もう、調査のために人手や時間を割こうとはなさらなかった。おそらくゲスタスを恨む他家の者がやったんだろう。メレディーン城では、女中も兵士たちも、そんな推測をしていたよ。

 とにかく、この事件も貴重な情報だった。何せ、ビッサビア様はゲスタスを嫌っておられたからね。朗報として喜ばれること間違いなし、と確信できた」

 セピイおばさんは当時の気持ちに戻ったのか、声の調子が上がっているようだ。私の勘ぐり過ぎだろうか。

 そのくせ、私は聞かずにはいられない。恐る恐る、かつ、しつこく。

「だ、だったら、見返りにソレイトナックの情報も、もらえそうだね」

「ああ・・・もらえたよ。伝言という形でね。ロミルチ城でソレイトナックは監視下に置かれているのか、なかなか手紙を書けない状況らしい。そう推測したポロニュースは、ロミルチ城にソレイトナックの元部下の若者を派遣しながら、指示を出していたよ。手紙ではなく伝言を受けてこい、と。

 で、その元部下がロミルチ城を離れてから、伝言を忘れないうちに、羊皮紙に書きとめておいてくれたのさ。

 と言うのが、ポロニュースの説明で、私にその羊皮紙をくれたよ。

 そこでソレイトナックは、こう言っていた。

『セピイ。済まないが、結婚の約束を守れそうにない。こちらの城主様に拘束されて、手紙もまともに書けない。どうか俺のことは忘れて、メレディーンで新たな人生を歩んでくれ』とね。

 頭の中が真っ白になるっていう言い回しは、こういう時に使うのかねえ。私は泣くどころか、ポロニュースの前で、しばらく動けなくなったよ。何をどう考えたらいいのか、分からなかった。

 ポロニュースは『まあ城に戻って、じっくり考えろや』なんて、私を追い返そうとする。

 私は慌てて、もう一度ソレイトナックから伝言をもらってきて、と頼むのが精一杯だった」

 私は黙って、つばを呑み込んだ。しつこく質問した事を後悔した。

 セピイおばさんは、それに気づかないのか、話を続ける。

「皮肉なことと言おうか、次の報告までに、また結構なネタが入ってきてね。こっちが躍起になって耳をそば立てたわけでもないのに。こっちは何一つ、頭の中が整理できていなかったのに、だよ。

 たしか、紋章の中で二匹の蟹が取っ組み合いをしているのが、ビマー家だろ。脚はないけど首は三本もある飛竜の紋章が、チャレンツ家。どちらも蛇ではないが、なかなかの勢力さ。

 それより何より大きな出来事は、ご党首様夫妻のお嬢様がメレディーン城に立ち寄られた事だ」

 

ビマー家の紋章 二匹の蟹

 

チャレンツ家の紋章 三つ首の飛竜

 

「てことは、ヒーナ様の従姉妹」

「そう。同じ女子修道院に入っておられたんだ。年下のヒーナ様が先に嫁ぐ形になったが、この姫様も近々結婚なさる、という話だった。

 姫様は修道院長を連れて、久々に里帰りしたわけだよ。

 私は、この姫様から呼ばれた。ヒーナ様について知っている事を話すように、と。この方は従姉妹とは言え、実の妹のようにヒーナ様に接しておられたんだ。

 ご所望の通り、私は、できるだけお話ししたよ。ただし修道院長が同席しているから、馬車での密会なんかは伏せておいた。マムーシュの屋敷での事件なんかも、どこまで話したものか悩ましかったねえ。

 でも、ご党首様のお嬢様は私を褒めてくださったよ。『ヒーナをよく支えてくれました。あなたが居てくれて良かった』とまで言ってくださったんだが。

 私はお答えした『私はヒーナ様をお守りできませんでした』と。言わなきゃならない、と思った。

 ヒーナ様の従姉妹の姫様は、私と一緒に泣いてくださったよ。

 それはいいんだが、私と来たら、泣きながら考えていた。この姫様にも、ソレイトナックの件でご協力いただけないか、と。しかし姫様は修道院に戻られる身だ。自由に動ける、とは言いがたい。それに、私は何となく、隣りの修道院長が怖かった。無言で、私とソレイトナックの関係を責めているように思えたのさ」

 セピイおばさんは、そこで話を区切って、深く息をついた。これは、この流れは、と私は思う。話が嫌な展開になる前ぶれ。

 ちょっと怖気づいた私は、少し話をそらしてみる。

「当時のご党首様のお嬢様は分かったけど、息子さんは?跡取りはメレディーン城で一緒に住んでいたの?」

「一緒じゃなかった。跡取りの若様は、その頃アガスプス宮殿で王陛下にお仕えしながらの修行中だった。ちょうどパウアハルトがメレディーン城に来ていたのと同じやり方さ。

 だから宮殿とメレディーン城の間を、定期的に使者や手紙が行き来していたんだよ」

 なるほど、などと私は相槌を打つ。ほんの数秒の時間稼ぎにしかならなかった。

 セピイおばさんは話を進める。

「ビマー家なんかは私の記憶違いかもしれないが、ご党首様のお嬢様の件は確かだよ。私はそれらの情報を引っ提げて、ポロニュースの店に急いだ。事前にソレイトナック宛ての伝言を書いた羊皮紙の切れっ端も持ってね。

 ポロニュースは、ご党首様のお嬢様や修道院長の話を聞くと、目を光らせた。で、私は安心して、ソレイトナックからの伝言をもらってないか、と尋ねた。

『おお、もらっているぞ。要るか』

 なんて、ポロニュースは聞き返してきた。要るに決まっているじゃないか。

 私はそれをもらって、その場ですぐに読んだよ。ポロニュースがそばで見ていようが、いまいが、気にするゆとりなんて無かった。ソレイトナックの主張は、前回とほぼ同じ。言い回しがちょっと変わって、繰り返されているだけだった。

 私は嘆きたいのをこらえながら、自分が用意した伝言の羊皮紙をポロニュースに差し出したよ。

 ポロニュースは、それを受け取ってくれたんだが・・・数秒、動かなくなった。私が渡した羊皮紙の切れっ端を持った手が、テーブルの上で浮いたまま。私を睨むわけでもなく、じっと見るんだよ。

『セピイよ。次も、これをするつもりか』

 私は『もちろん』と即答した。そして、ソレイトナックからの伝言をもらって来て、と改めて頼んだ。

『いつまで、こんなことをするんだ?埒があかねえ、と思わねえのか』

 ポロニュースの二つめの質問に、私は『いつまでも』と答えた。『ソレイトナックと再会できるまで、いつまでも』と。

 ポロニュースは首を横に振りながら『だめだ』と、つぶやくように言った。

『無駄なんだよ。さっき渡した、ノッポ野郎からの伝言の切れっ端だって、偽物だ。俺が適当に書いただけだよ。いちいち言われなくても、大概で気づけてくれや』

 私は・・・何も答えられなかった」

 セピイおばさんは、うつむいた。

「おばさん」私は声をかけたが、後が続かない。

「大丈夫だよ、プルーデンス。

 それに、話はここから、すごく大事な、同時にものすごく情けない内容になるんだ。お願いだから、しっかり聞いておくれ。

 ポロニュースは、こんなふうに言ったんだ。

『俺は前々からビッサビア様に忠告していたんだぞ。このセピイとかいう田舎娘は大してお役に立ちませんぜ、って。

 俺もマーチリンド家にお仕えするようになって大分経つが、意見したのは、おそらく今回が初めてだよ。でも俺はあえて粘って、ビッサビア様に忠告し続けたんだ。ビッサビア様としては、時間をかけて手懐けたお前を、もっと働かせたかったようだが。

 しかし、さすがに、もう潮時だわ。ビッサビア様からは一応、お許しをいただいてんだ。どうしても糞づまった場合は俺が判断していい、と。てなわけで、この際、はっきり言わせてもらうぜ。

 ソレイトナックはなあ、ビッサビア様のイロだったんだよ』

 私はポロニュースの言っていることが理解できなかった。このイロという言葉を、まだ知らなかったのさ」

「私も知らないわ。何その、イロって」

「情夫、愛人ってこと。ソレイトナックはビッサビア様の愛人だったんだよ」

 へ。私はセピイおばさんが口にした単語をすぐに咀嚼できなかった。脳内で単語を繰り返して、やっと気づいた。

「ま、待って、おばさん。何言ってるの」

「ソレイトナックは、ビッサビア様のお相手をしていたのさ。寝床でね」

「おばさん、本気で言っているの?」

「プルーデンス。私だって、言いたくて言っているわけじゃないんだ。そもそも、ポロニュースの話を鵜呑みにしないという手もある。でもね。これだと辻褄が合うんだよ。馬鹿みたいに」

 セピイおばさんがため息混じりに話したポロニュースの解説は、こんなだった。

 まず、ビッサビアは夫モラハルトに愛情を持たなかった。自分たち夫婦の関係はあくまでヌビ家とマーチリンド家の政略結婚であって、ビッサビアは跡継ぎを産む役割を果たしただけ。パウアハルトやヒーナが産まれた後は、モラハルトに抱かれる義理は無い、という考えだったらしい。

 しかしモラハルトの方では、いかにも女らしい体つきのビッサビアを離したくなかった。何としても、自分に繋ぎ止めたい。カトリック教会が離婚を認めないことなど、何の慰めにもならない。妻は明らかに自分を拒絶しているのだから。仕方なくモラハルトは、自分の美貌の妻に若い男をあてがうことにした。それがソレイトナックだったわけである。

 ソレイトナックの方でも、モラハルト夫妻に従わざるを得ない事情があった。もともとソレイトナックは、どこかの小貴族の落とし胤らしく、実父から捨てられて、親戚筋を転々として成人したのだとか。

「ポロニュースのお仲間は冗談で言っていたそうだよ。案外、ソレイトナックは王族の隠し子かもしれない、とかね。いくら何でも、それはないだろう、とポロニュース自身はニヤけていたけど。

 ただ、父親をはじめ親族が世間体を気にする人たちで、ソレイトナックが望まれない存在だった事は確かなようだ」

 セピイおばさんは、そう付け加えた。

 そして、その転々とした先で、ソレイトナックは結婚の相手を見つけたわけだが。

 相手にも少し、事情があった。母親が双子を産んだ際に、亡くなったのである。のちにソレイトナックの妻となる娘と、その妹であるネマを産んで。

 運が悪いことに、なぜか、その地域では、双子はあまり縁起が良くない存在と考えられていた。そのせいで肩身の狭い思いをしながら、二人の娘は成長したことだろう。

 そこへソレイトナックがやって来て、姉妹と出会った。やがて姉の方とソレイトナックが結婚を決意した。

「プルーデンス、覚えているかい。私がソレイトナックにネマのことを尋ねた時に、彼が何と答えたのか」

「えっと、たしか従姉妹なんでしょ。

 あっ」

 私は、声が裏返った。

「気がついたかい」

「ネマが従姉妹って事は、ソレイトナックの結婚相手も従姉妹。ネマと双子なんだから。つまり、ソレイトナックは従姉妹と結婚したの?」

「そうだよ。そういう事だったのさ」

「で、でも血が近すぎるわ。教会がそれを許したの?」

「許したか、どうか。いや多分、許してなかったんだろう。しかし、応援してくれる人も少なからずいて、二人は押し通したようだ。もちろん反対する人たちの方が多かったろうけど」

 とにかくソレイトナックと、その従姉妹は夫婦として生活を始めたのだ。しかし、それは一年ほどしか続かなかった。ソレイトナックの奥さんがしばらくして病気で亡くなったからだ。

 この事態に、地元の教会をはじめ、二人の結婚に反対していた連中が騒ぎ立てた。そら見たことか。教会の忠告に従わないから、バチが当たったのだ。まさに天罰。やはり双子は良くない、とか。

「この騒動を、あの人、モラハルトがどこで聞きつけたのかねえ。モラハルトはソレイトナックをツッジャム城に引き取った。ネマも一緒に。

 そしてソレイトナックを自分の従者に、ネマを城住みの女中にした。というのは表向き。実際は、ソレイトナックを愛人としてビッサビア様にあてがい、ネマを自分の妾にしたわけさ」

「ア、アキーラやメロエは?」

「彼女たちも同じだよ。昼間は女中、ときどき夜に城主様のお相手。そういう女が、他にも何人か居たらしい。ツッジャム城の内か外かは、分からないけど。

 ただポロニュースが言うには、モラハルトのお気に入りは、やはりネマだろう、と。ポロニュースは日頃の鬱憤なのか、汚い言葉をたくさん吐いたよ。

『ネマは、たしかにいい女だよなあ。俺は、ああいう背の高い、すらっとした姉ちゃんが大好きなんだ。認めたくはねえが、モラハルトの気持ちが分からなくもねえぜ』とか。『ビッサビア様も男が欲しいんなら、この俺をご指名してくれればいいのによ』とかね。

 だからと言おうか、ポロニュースはソレイトナックを忌み嫌っていた。

『あのひょろ長野郎め。美人の母親と娘を両方とも、しっかり堪能しやがって。あー、考えただけで腹が立つ。

 お前も馬鹿だぞ、セピイ。知らなかったとは言え、わざわざヒーナ様をあいつに差し出すなんてな。いくらヒーナ様に同情したって、お前はあいつに惚れてんだろ。おかげで、随分と面倒くさくなったんだぞ』

 私は馬鹿にされても、もう言い返す気力も無く、泣いていたよ」

 おばさんの話を聞きながら、私も思い出していた。自分の娘ヒーナとソレイトナックの件で、モラハルトはセピイおばさんに、こう話していた。『自分だったら、妻を譲りたくない。たとえ本人が望んだとしても』

 そう言いながら、妻ビッサビアの相手をソレイトナックにさせたのは、そして妻と他の男の関係を黙認したのは、どういう心境だろう。どう考えたって、穏やかなはずがない。それは、まだ小娘の私にだって分かる。妻ビッサビアを繋ぎ止めたい一心で、モラハルトは歯軋りするような思いで耐えていたに違いない。

「だから、とポロニュースは話を続けた。

『ソレイトナックは、おそらく生きてねえぞ。事情はともかく、モラハルトとしては、妻も娘も、まんまと喰われちまったんだ。あのむっつりスケベだって、腹わたが煮えくり返っているに決まってんだろ。まあ、それを顔に出さなかった事だけは、この俺も褒めてやるがな。

 と言うわけで、奴がソレイトナックをそのまま無事に済ますわけがねえ。どうせロミルチへの道中に刺客を放って、闇に葬っているぜ。だから、お前の愛しいノッポ野郎は、すっかり行方不明さ』

 これを聞いて、私はもう、何をどう考えたらいいのか分からなかった」

 セピイおばさんは、話しながら、いつの間にか涙を流していた。

「それで、ついにポロニュースは結論を下したよ。私に『もう帰れ』と。『もう、密偵ごっこは終いにしようや。お前は元々、向いていなかったんだよ』とね。

 私は、自分が何を言い渡されたのか理解できなかった。ひたすら混乱していたんだ。

 それでもソレイトナックのことだけは忘れなかったよ。私は、ほとんど喚くように頼んだ。『ソレイトナックに会わせて』と。とにかく彼だけは、と必死に頼んだ。

 しかしポロニュースの答えは、こんなだった。

『おお、おお、かわいそうなセピイちゃん。悪いが、してやりたくても、できねえよ。もう一度言うが、あいつは行方知れずなんだぜ。別に意地悪して言ってんじゃねえ。ビッサビア様だって、あいつの消息をつかめてねえんだ。諦めな。どうせ、あいつは生きてねえよ』

 私はすぐに言い返した。『彼は死んでません。きっと、どこかで生きています』思わず、そう叫んでいた。

 そしたら、だよ。ポロニュースは椅子から立ち上がったまま、私をぼんやり見下ろした。反論できずに黙っていたんじゃない。蔑みを通り越して、私を憐んでいる目だった。

『だとしたら、セピイよ。お前、あいつと別れて、どれくらい経つ?最後に、あのノッポ野郎を見て、何ヶ月が過ぎた?』

 分かるかい、プルーデンス。反論できなくなったのは、私の方だったんだよ。もう、その時点で半年以上が過ぎていた。メレディーン城に移ってからも、そうだねえ、四ヶ月は経っていただろう。

 ポロニュースは、静かに畳みかけてきたよ。

『生きているって言うんなら、あいつは今、どこで何をしてんだ。許嫁のお前を放ったらかして』

『き、きっと何か事情があるんです』と私は、もう一度、言い返したんだが。

『きっと、きっと、ばかりだな。

 しかし、いくら何でも、手紙の一つくらいは寄越せるだろう。俺はあいつが嫌いだが、あいつの能力まで馬鹿にするつもりはないぜ。生きているんだったら、書けるはずだ。

 なのに、手紙は来ない。って事は、あいつが死んだか、何か意図があって書かないか、だろ』

 なんて、ポロニュースは淡々と私に解説した。

 私は食い下がった。『い、意図って何ですか』

 ポロニュースは露骨に、ため息をついた。

『お前を捨てることに決まってんだろ。分かっていて聞くなよ。言わせないと気が済まねえのか』

 私は泣きながら反論した。『ソレイトナックは私との将来を誓ってくれた』と。

『だったら、死に物狂いでお前に会いに来るか、手紙だけでも寄越すはずだろ。あいつが本気なら。

 でも、あいつは現れねえ。手紙も来ねえ。

 あのな、セピイ。短い付き合いだったが、最後に一つ、忠告しておいてやるぞ。こういう時は予想とか推測とか、幾らしても意味、無えんだ。結果、事実だけを見ろや。あいつは現れねえ。それが事実だ。それだけ。事情の有る無しなんて関係無えぞ』

 ポロニュースは言い終わると、私に背を向けて、店の入り口に向かって歩き出した。途中で振り返って『じゃあな』とか付け足して。

 私は、どこへ行くのか尋ねた。

『どこへって、さあ、どこでしょうかねえ。とりあえず俺は、ずらかるぜ』

 そう答えたかと思ったら、ポロニュースは奥に引っ込んでいた店主の老人に声を飛ばした。

『と言うわけで、爺さん、お前に店を返すぜ。世話んなったな』

 店主は慌てて姿を現して、事前に受け取った店の代金について尋ねた。ポロニュースは要らないと答えた。

 そのやり取りに割り込むように、私はポロニュースに聞いたよ。これから、どうしたらいいのか、と。ポロニュースの返事は、こんなだった。

『そんなもん、自分で考えろや。って、そのまま女中を続けてもいいんじゃねえのか。前にも言ったように、俺のことを上役たちにタレ込んでもいいんだぜ』

『ソレイトナックは?』と私はもう一度、聞いた。

『しつこいぞ。無理だって言ってんだろ』

 ポロニュースは、泣いている私を見捨てて、店から出ようとした。

『おおっと、俺としたことが、忘れるところだったぜ。最後にもう一つ、付け加えておくぞ。

 セピイよ、間違ってもビッサビア様を恨んだりするなよ。あの方のおかげで、お前も散々いい思いをさせてもらったんだからな。

 逆に、あの方は、お気に入りのソレイトナックをお前に横取りされたんだぜ。お怒りのところを我慢してくださったんだ。ありがてえじゃねえか。あの方の度量に感謝しろよ。

 と言うわけで、分かったな、泥棒猫ちゃん。忘れんなよ』

 なんて吐き捨ててね。とうとう、ポロニュースの姿が店の外に紛れた。私はポロニュースの最後の嫌味のせいか、後を追えずに立ち尽くしていた」

 セピイおばさんは、そこで一度、話を区切った。そして深く息をつく。

 

 二人して数秒、沈黙する。散々口をはさんできた私も、さすがに言葉が出ない。頭が混乱して、少しも整理できないのだ。おばさんに何と言葉をかけたら良いのやら。

 セピイおばさんは静かに、だらだらと涙を流し続ける。と思ったら、おばさんは不意に顔を上げた。

「ああ、話し疲れている場合じゃないね。これじゃ、区切りが悪すぎる。せめて、もう少し話さないと。

 ポロニュースが居なくなると、店主の老人が一人で騒ぎ出したよ。店主が言うには、ポロニュースのせいで、いつヌビ家の兵士たちに取り囲まれてもおかしくない、と。恐れおののきながら、薄暗い店内を行ったり来たりして、荷物をまとめていた。

 一方、私は、ただただ茫然としてしまって。何をどうするべきか、少しも思いつかないんだ。何も分からなかった。

 やがて老人は荷造りを終えると、私のそばに来た。

『お嬢さん、いつまで、ぼーっとしとるんだ?わしは、もう出るぞ。あんたも一刻も早く、ここを離れた方がいい』

 私は老人の忠告が空虚に聞こえて、返事をする意欲が湧かなかった。

『それとも、もしかして行くところが無いのか?だったら、わしと一緒に行こう。わしは年寄りだが、貯えはあるぞ』

 途端に、老人はニタリと笑みを浮かべた。そして私の肩に手を伸ばしてくるじゃないか。その笑みは明らかに、モラハルトに似ていたよ。

 それで私は、その手を強く払い除けて、外に飛び出した。背後で、老人の声が聞こえたが、もう内容まで聞こうとは思わなかった」

「また、そんな奴だったの?男ってのは、どうして、こう、どいつもこいつも」

 しまった。また口をはさんじゃった。

「まったくだね。だから、あんたも男には気をつけるんだよ」

 セピイおばさんに言われて、私は、はい、と答えるしかない。

 おばさんは、そのまま話を続ける。

「で、気がついたら、と言うか、あっという間に、メレディーン城の門の前にたどり着いていた。

 そこでまた、私は立ち尽くしたよ。門番の一人が『おお、戻ったか』なんて声をかけてくれたが、私は返事できなかった。考えがまとまらないままだったから。

『どうした?早く入れ。ノコばあさんが、針仕事で人手が足りないとか騒いでいたぞ』

 なんて門番に言われたんで、私は、ようやく城内に戻ったよ。そうするしかない、と思ったんだ。

 私は、まず井戸へ走って行って、顔を洗った。涙で顔がぐしゃぐしゃになっている事を思い出したんでね。それから改めて、ノコさんを探そうと急いだ。今はとにかく仕事をしよう、と。

 ノコさんは城内の一室に、イリデッセンシアを含め、女中五、六人と車座になっていた。手にした針を布地に刺して、引っぱり上げて、を全員で忙しなく繰り返していたよ。他の女中たちは調理場とかで、離れられなかったのだろう。

 私はノコさんたちの輪に割り込ませてもらいながら、作業に加わった。まずは仕事に没頭して、気持ちを落ち着けよう。その後で、いろいろなことを考えるんだ。心の中で、自分にそう言い聞かせた。

 しかし、だよ、プルーデンス。あんただったら、仕事を集中するかい?」

 う、うーん。私は唸った。

「だめだと思う。どうしても考えてしまうから。考えたくなくても、ポロニュースの話が頭をよぎってしまうと思う」

「そうか。あんたでもだめか。私もだめだったよ。あんたが予想した通りさ。黙って針を動かしているつもりでも、頭ん中ではポロニュースの声、というか言い草が次々とよみがえってきてねえ。気がつくと、針を持つ手が震えていたんだ。

 とどめは、他の女中たちのおしゃべりさ。自慢しているのか、彼氏と城下町のどの辺りで遊んだ、とか話していた。一応ノコさんから叱られないように警戒の目を時々走らせながら、声を抑えていたが、まあ無理だよ。年頃の女たちだからね。一度その手の話で盛り上がったら、雷でも落とされない限り、やめない。

 しかもノコさんだって、いちいち注意できるわけじゃないんだ。ロッテンロープさんが仕事の段取りを聞きに来たり、奥方様の指示を使用人が伝えに来たりして、どうしても場を離れる事が多い。

 それで若い姉さん女中たちは、調子に乗るわけさ。お御堂で神父さんがお説教している時に、娘たちが隅の方でヒソヒソ話を止められないのと同じだよ。

 しかも会話の内容が、なかなか際どくてねえ。宿屋にしけ込んだ時に、彼氏が自分のどこを触ってきたか、だの、彼氏のあそこがどれくらいの大きさか、だの。

 居合わせたイリーデちゃんとか、年下の子は顔を真っ赤にして、黙ってうつむいていたよ」

 セピイおばさんは話しながら、当時の同僚に呆れたらしく、ため息をはさんだ。

 私は私で、黙って言わない事があった。似たような話を、知り合いの女の子二人ほどがしていたのだ。つまり、その二人は経験済み、ということ。その二人の話を聞いて以来、自分が遅れていると焦るような、でも怖いような。未だに悩ましいのだ。

 セピイおばさんは私の心境を読めているのか、いないのか、そのまま話を続ける。

「運が悪いことに、この彼氏の話で盛り上がっている女中たちは、ソレイトナックを覚えていた。ソレイトナックが使者としてメレディーン城に訪れた時に見かけた、と。それで私を会話に巻き込みたいのか、話を振ってきたんだよ。

『セピイさん。あなた、あのソレイトナックの婚約者なんでしょう。あんな、すらっとした、かっこいい人と婚約なんて、羨ましいわ』とか。

『あの人がここに来た時、私も気になったのよねえ。私が散々、視線を送って、話しかけたのに、彼ったら随分と素っ気なかったわよ。あなたが原因なのね』とか、何とか。

 もう、これだけでも、私としては泣きたい気分だったよ。愛想のいい返しなんて、一つも思いつかない。黙っているのが精一杯だった。なのに、私の反応が無いのが不満なのか、ついに耳元で言われたよ。

『ねえ、ソレイトナックって寝床では、どんななの?』なんて。

 私はね、プルーデンス、その時、思い浮かべてしまったんだ。裸のソレイトナックがビッサビア様と並んでいる姿を。そして、並んだ二人の体が重なって。途端に私は大声で叫んだ。『いやっ』て」

 セピイおばさんは大きく息をついた。私は、もちろん何も言えない。

「何で自分がそうしたのか、今でも分からないよ。思わずしてしまった、としか言いようがない。想像したくない事をわざわざ想像して、大声を出すべきところじゃない場所で出すなんて。

 当然、他の女中たちは大騒ぎになったよ。ただし私の大声だけが原因じゃなくて。叫んだ拍子に、私は針で自分の指を刺していたんだ。深く入って、けっこう血が流れていた。

 私の耳元で囁いた女中は謝るし、イリーデちゃんは止血しようと傷口を拭いてくれた。

 でも私は茫然としていた。されるがままになっていた。自分の血を見ながら、痛くないわけじゃないんだが、そんな痛み、どうでもよかった。自分が思い浮かべてしまった事に比べれば。

 反応が無い私を心配して、女中たちはあれこれ声をかけてくれたよ。それこそ肩を揺さぶられたりもしたんだが。

 私は別のことで頭がいっぱいだった。何でソレイトナックとビッサビア様を一緒に思い浮かべたんだろう。分からない。分からないどころか、嫌悪感が足元から背筋を駆け昇るような気がした。尊敬していたビッサビア様が、そして恋しくてたまらないはずのソレイトナックが、何だか急に穢れた存在に思えたんだよ。そんな気持ちを抱いてしまった自分自身も嫌だった。そんな自分を許せなかった。

 だからね、プルーデンス。私は、また泣いたんだ。周りに居合わせた女中たちがいくら騒いでも、涙を止められなかった。

 そこへノコさんが戻って来たんだよ。ノコさんは部屋に入るなり、叫んだ。『セピイっ。しっかりしなさいっ』

 ノコさんに両肩をつかまれて、私は目が覚めたような気がした」

 セピイおばさんは、そこで話を区切って、葡萄酒をほんの少しだけついで、呑んだ。私も同じようにしようかとも思ったけど、言葉が出なかった。何だろう。今は、どんな相づちでも、おばさんに対して悪いような。

 おばさんは改めて私の目を見て、話を再開した。

「ノコさんは私の指の手当てができている事を確認すると、私に針仕事から外れるよう言いつけた。私の血で、大切な布地が汚れてはいけないからね。

 で、別の仕事に加勢に行くように言いかけていたんだが、ノコさんはその言葉を途中で飲み込んだよ。ノコさんが言うには、私は顔が真っ青になっていたらしい。で、ノコさんは私に言った。『とりあえず女中部屋で休んでいなさい』と。

 私は立ち上がって、その部屋を出たんだが。動作が自分でも呆れるほど鈍かった。イリーデちゃんが心配して、女中部屋まで付き添うと申し出てくれたよ」

「い、いい子だね、イリーデちゃんって。美少女である上に、気づかってくれるなんて」

 少し間ができた気がしたので、私はイリーデちゃんを出汁にして、合いの手を入れてみた。今は、これくらいがやっとだ。

「まったくだよ。と言いたいところだが。私と来たら、そんなイリーデちゃんに当たってしまったよ。

 女中部屋に着いて、私が寝床の上に座ると、イリーデちゃんが、こんなふうに言うんだ。

『私、セピイさんとソレイトナックさんのこと、応援してます。落ち着いたら、お二人のことを聞かせてくださいね。参考にしたいんで』

 つまり、大真面目に言っただけなんだよ。でも、私はソレイトナックの名前を他人の口から聞いただけで、無性に腹が立ってしまった。

『うるさいわねっ。知りもしないくせに、勝手なこと、言わないで』

 なんて怒鳴っちまったんだよ」

「あちゃー」と私。

「やらかしたもんだろ。イリーデちゃんは一瞬びっくりして固まったと思ったら、泣きながら部屋を飛び出して行ったよ。

 もちろん私は後悔した。そのくせ、追いかける気力も無かった。寝床に座り込んだまま、横になる気にもなれず、ただ膝の上に置いた自分の拳を見ていて。

 みんなが働いているのに、しかもイリーデちゃんを泣かせておいて、自分だけ寝転がるのが悪いことに思えた。いや、それ以前にソレイトナックのことや、今後のことを考えなければ。寝ている場合でも、泣いている場合でもない。

 しかし、そうやって焦っても考えがまとまるわけがないよ。そうだ。思い出した。そんなふうに思ったら、また苛立ってしまったんだ。イリーデだって、何も泣かなくたっていいじゃない。こっちは泣くに泣けないのに。とかね。

 そして、また他人に当たりたがっている自分に気がついて、嫌気がさした。で、ふらふらと女中部屋を抜け出したよ。行き先は塔の上。こうなったらメレディーン城でも、塔の上のセピイになってやろう、と思ったのさ。途中で、兵士とか他の女中とすれ違っているはずなんだが、そこも覚えてない」

 セピイおばさんはそこまで話すと、一息ついて、また葡萄酒に手を伸ばしかけた。でも、すぐに首を横に振った。

「だめだね。まだ区切りが悪い。

 メレディーン城の城壁にある、幾つかの塔のうち、どれでもよかった。とにかく天辺まで行って、一人になりたかった。もちろん景色なんて楽しめないよ。私は胸壁の陰に隠れるように、うずくまった。

 そして思い出したんだ。そういえばスネーシカ姉さんが似たようなことをしていたな、と。あの時、スネーシカ姉さんは親友であるヴィクトルカ姉さんのために泣いていた。

 二人の顔が思い浮かんだ途端、私は声を上げて、涙を流したよ。猛烈に淋しいと思った。二人に会いたくてたまらなかった。会って、話を聞いてもらいたい。ソレイトナックを思って、私が苦しくて悲しい気持ちになっている事を分かってもらいたい。私をぎゅっと抱きしめて、ポロニュースの言うことなんか信じるな、と言ってほしい。どうすれば二人に会えるのだろうか。二人のうち、どちらかにでも話を聞いてもらえたら。その方法が全然分からなくて、私は尚更、泣けてきた。

 泣きながらベイジの顔も思い浮かんだよ。ヒーナ様の顔も。二人が今の私を知ったら、何と言うだろうか。恋敵として、ざま見ろ、とか言うだろうか。それとも親友として一緒に泣いてくれるだろうか。

 そんなことを考えて、はたと気づいた。ヒーナ様は、自分の母親、ビッサビア様とソレイトナックの関係を知らなかったんだろう。知らないまま死んでしまった。それは良いことなのか。知らずに済むなら、私も知りたくはなかった。ビッサビア様とソレイトナックの関係なんて。ヒーナ様は知らずに済んだ。ただし死んでしまった。その代わりでもなかろうに。そう思うと、さらに悲しいような悔しいような。私は泣きながら混乱していた」

 セピイおばさんは話しながら、頬を濡らしている。きっと当時も、こんなだったんだろう。

 セピイおばさんは不意に、ふっと笑った。頰は濡れたままで。何を、誰を笑ったのか、と思えば、どうやら自分自身らしい。

「笑っとくれ、プルーデンス。私はね、気づいてなかったんだよ。いつの間にか声を出していた事にね。後で知らされたが、私は結構、大きな声で言っていたそうだ。『ソレイトナックに会いたい。あなたは、なぜ迎えに来てくれないの?どこに居るの?ソレイトナックっ』とか何とか、いつまでも繰り返していたんだと。私としては、頭の中で思っているだけで、口から発していないつもりだったのに。

 ところが、自分の言葉に混じって、誰かのか細い声が聞こえるじゃないか。『セピイさん』とか、泣きそうな声が頭の中に響いて。

 で、ハッとした。頭の中じゃない。実際に耳で聞いていたんだ。

 気がつくと、塔の階段の辺りに人の気配がした。声の主はイリーデちゃんだった。そのそばに、シルヴィアさんとノコさんもいた。

 イリーデは言ったよ。『セピイさん。元気を出してください』少し泣いているようだった。

 逆に私は、涙が引っこんだ。自分は声を出していたのかと私から問うと、三人は黙ってうなずく。私は愕然として、動けなかったよ。

 と、シルヴィアさんがサッと近づいてきて、私を抱きしめた。私は、久しぶりだな、と思った。マルフトさんは亡くなったし、ビッサビア様に抱きしめてもらったのがいつだったか、思い出せなかった。

 シルヴィアさんはビッサビア様と違って痩せ気味で骨ばっていて、抱きしめられると、少し痛いような。でも暖かい、ありがたいと思った。

 ぼんやり、そんなことを考えていると、シルヴィアさんはさらに力を込めた。そして、少し私の体を引っぱるんだ。ずるずると。私はシルヴィアさんの意図が分からなかった。黙っていたシルヴィアさんが、不意に口を開いた。

『行かせないからね』

 それで私は、やっと理解したよ。シルヴィアさんは私を捕まえて、胸壁から引き離そうとしていたんだ」

「シ、シルヴィアたちは、おばさんが塔から飛び降りると思ったの?」私は念のため確認した。

「どうやら、そうらしい。本人は、そんなこと全然、考えてもいなかったんだがね。塔の上で我も忘れて、ぶつくさ言っていたから、そう見えたんだろう。

 シルヴィアさんの後ろで、イリーデも言ったよ。『セピイさん、ごめんなさい。セピイさんがこんなに辛い時に、私ったら気が利かなくて。謝ります。謝りますから、どうか無茶なことはしないで』泣きじゃくりながら、私の服を引っぱっていた。

 私はシルヴィアさんに『大丈夫です』と答えて、その腕をそっとほどいた。

 そしてイリーデにも答えた。『イリーデ、謝らないで。私があなたに八つ当たりしたのよ。謝るのは、私の方だわ』私は改めてイリーデに謝った。

 彼女やシルヴィアさんのおかげで、私も落ち着きを取り戻せたよ。そして気がついた。もう辺りは暗くなっていたんだ。夕食の時間になっても私が戻って来ないんで、シルヴィアさんたちが探し回ってくれたのさ。

『まったく、もう。へんな心配させないで』

 シルヴィアさんは声を抑えていたけど、さすがに表情がキツくなっていた。私は『お騒がせして、すみません』と頭を下げた。ノコさんにも。

 すると、ノコさんは淡々と、こう言った。

『セピイ。私は前に言ったね、敵でも味方でもない、と。だから私は、あんたがここから飛び降りようが、気にしないよ。そりゃあ騒ぎにはなるだろうが、代わりに女中になりたがる娘なんか、街に出れば、いくらでも居るんだ。

 でもね、セピイ。飛び降りるにしても、あと一週間ほど待った方がいいね。来週、オーデイショー様がお見えになる。私が言っている意味が分かるね、セピイ』

 私はその言葉で、はっきりと目が覚めた気になった」

「オ、オーデイショー?」

「ご党首アンディン様の何番目かの弟で、モラハルトのすぐ上の兄。当時のロミルチ城の城主様だよ」

 おばさんの説明に、私は、あっと声を上げてしまった。

「つ、ついにソレイトナックがロミルチ城でどうしているのか、確認できるのね」

「そう。もっとも、オーデイショー様は私みたいな女中一人のためだけにメレディーンに来てくださるわけじゃないよ。あくまでも他のいろんな問題で、ご党首様と話し合うために来られるんだ。でも、ノコさんが言うには、奥方キオッフィーヌ様が私のために一席設けてくれるよう、取り計らってくださったそうだ。

 私は驚きながらも、慌ててノコさんにお礼を言った。

『礼は奥方様に言いなさい。分かったら、さっさと夕食を済ませて寝るんだよ。明日は今日の分まで働いてもらうからね』

 言い終わると、ノコさんは階段を降りていった。ノコさんが見えなくなると、私はその場にへなへなと座り込んでしまったよ。

 シルヴィアさんが早口で言った。

『ノコさんにお礼を言って、正解よ。ノコさんから奥方様にお願いしてくれたに決まってんだから』

 私も、その通りだと思ったよ。

 そして思わず、つぶやいていた。『これで少なくともロミルチ城の状況が分かる』とかね。

 そしたら、イリーデも口をはさんでね。『よかったですね、セピイさん』とか。

 私は立たせてもらいながら『ありがとう』と答えたよ。でも本当は内心、ちょっと苛立ちを感じていた」

「えっ、何で、また」私は驚いて尋ねた。

「結果が見えていたからね。良い結果は期待できない。悪い状況を確認するだけさ。でも淡い期待にすがって時間を無駄にするより、辛くても事実を把握できた方がいいだろ。

 そう落ち着いて考えることができたんで、もうイリーデに当たったりしなくて済んだよ。とにもかくにも、あの子には悪気は無かったんだから。

 シルヴィアさんとイリーデに促されて、私もやっと塔を降りた。階段の途中でスカーレットさん、ヴァイオレットさんとも合流したよ。私は改めて申し訳なく思った。こんなにも心配かけていたんだなって」

「で、でも、それだけ、おばさんにとっては大変な出来事だったんだよ」

 私は、やっと、まともな相づちを打てた気がした。

 

 セピイおばさんも区切りがついた気になったのか、葡萄酒を少し呑んで、私にも回してくれた。

「さてと」セピイおばさんは話を再開した。

「その夜から、オーデイショー様がお見えになる日まで、私なりに、とにかく考えた。と言いながら結局、何一つ決められなかったが。

 私はまず、自分が持っている情報を頭の中で並べてみたよ。

 モラハルトは言った。ソレイトナックはロミルチ城の城主様に見込まれて、私以外の嫁を持たされた、と。

 ポロニュースは推測した。モラハルトに恨まれているソレイトナックは、ロミルチへの道中で暗殺されただろう、と。

 そしてご党首様夫妻、アンディン様とキオッフィーヌ様の反応。私がお二人にソレイトナックの話をした時の、驚きの表情。

 もう、この時点であまりいい予感はしないんだが、情報が足りていない事にも気づいた」

「ロミルチの城主様の人となりね」

「そう。だから私は、できるだけオーデイショー様がどんな方か、聞いて回った。シルヴィアさんたちやノコさんはもちろん、イリーデちゃんみたいな年下の子たちにまで。

 そしたら、また、大した収穫が無かった。分かったのは、兄君であるアンディン様より大柄で、どちらかと言えば、ロンギノ様みたいな体格であること。特に悪い評判は無いこと。

 もっとも悪い評判が無かったのはモラハルトも同じで、後で実は、なんてこともあるかもしれない。ただしモラハルトの場合は、息子パウアハルトのメレディーン城での態度が悪すぎた。それでシルヴィアさんたちは、もしかして父親も、と思うことがあったそうだ。

 オーデイショー様の場合は、ご子息などにも悪い噂は無くてね。そのわずかな違いが、貴重な判断材料だったよ」

「少なくとも、悪い人では無さそうね」と私。

「私も、そう予想したよ。

 そして、モラハルトが嘘をついているんだろう、と。

 そこまでは良いとしても、その先が何一つ分からない。

 自分は、このままメレディーン城で女中を続けるべきなのか。ポロニュースに協力した事がバレないか。バレてお咎めがあるとしたら、どれほどなのか。今さら、この山の案山子村には戻りたくないし。

 それ以前に、本当にポロニュースの言う通りに、ソレイトナックとは、もう二度と会えないのか。彼がどこかで生き延びている可能性は無いか。しかし、生き延びているとしたら、なぜ会いにきてくれないのか。それには何か訳があるのかも。

 そこまで考えが及んだ途端に、ポロニュースの言葉が耳によみがえった。事実だけを見ろ。その発想に従うと、当時の私の状況は、こんなだった。ソレイトナックは私のそばに居ない。将来はともかく、今は居ない。私が悩み苦しんでいる時に、彼は居ない。

 ポロニュースの言う通り、それを認めるべきだ、受け止めるべきだ、という自分が居る。同時に、それを拒む自分も居る。強く、断固として拒む。認めたくない、受け止めたくない。なぜならソレイトナック本人に聞いたわけじゃないのだから。理由を、事情を。彼の言い分をまだ聞いていない。まだ確認していない。確認していないだけ。

 分かるだろ、プルーデンス。こんな調子で、考えているつもりが、一向に考えが進まなかったんだ。とてもじゃないが、決断なんて出来ないよ。覚悟なんて出来なかった。自分に言い訳して、先延ばしにしていたんだからね。将来のこととか、決めるべき、いろんなことを」

 セピイおばさんは、そこで小さなため息をはさんだ。

「そして、あっという間に一週間が過ぎた。忘れもしない、何とも来客の多い日でね。オーデイショー様をはじめロミルチ城からの一行も朝から到着していたし、その後も近郊の司教様とか、何組か入城した。

 当然、メレディーン城の人々は皆、忙しなく動き回った。門の辺りも厩の方も騒がしかったし、下っ端の兵士たちだけでなく、幹部格である騎士様たちでさえ、やれお出迎えだ何だと、落ち着きがなかった。

 もちろん、私ら女中も大忙しさ。お客様が多い分、ご馳走だとかお酒だとか、用意する物も格段に増えるからね。

 私はノコさんから言いつけられて、日中は、ずっと厨房で働いていた。途中、休憩している時に、厩を覗きに行きたくもなったが、ノコさんに相談すると、やめておけ、と言われたよ。奥方様からお声がかかるまで我慢しろ、と。

 私は大人しく従った。元より逆らいようもないし、止められてよかったという気持ちも半分あった。早くオーデイショー様に確認したいと焦りながら、同時に、確認するのが怖かったんだ。

 そして晩餐の後。食器洗いなどに加わろうとしたら、ノコさんから呼ばれたよ。仕事は他の者たちに任せて、ご党首様の書斎に来い、と。しかも、ノコさんは自分も同席すると言い出した」

「えっ、何で。あくまでもセピイおばさんの個人的な要件でしょ」

「落ち着いて考えてごらん、プルーデンス。ノコさんからすれば、私は一度騒ぎを起こした前科者だよ。ご党首様やオーデイショー様の前でまた私が取り乱したりしないか、ノコさんは警戒したのさ」

 あー、と私は声を漏らしてしまう。なるほど、と続けそうになったが、呑み込んだ。

「私たちがご党首様の部屋に入ると、ご党首夫妻と大柄な男の人が待っていた。ご党首様がその方を紹介してくださった。『我が弟の一人、ロミルチ城の城主を務めるオーデイショーだ』と。

 私からも頭を下げて名乗った。と、体が少し震えてきたよ。べつにオーデイショー様から睨まれたわけじゃない。むしろ柔らかい眼差しを私に向けてくださっているように思えたくらいだ。そう、私を見る目に憐れみが感じられたんだよ。噂と言うか、予想通りの悪い人じゃない事が分かった。

 そして明らかに困っておられた。オーデイショー様は頭をかきながら、大体こんなふうに私に話しかけた。

『事情は兄者から聞いたが、一応そなたの口からも改めて聞かせてくれんか。特に、我らが弟のモラハルトがそなたに何と話したのか、ソレイトナックの処遇について、どんな説明をしたのか、を』

 私はお言いつけ通り、話してみた。まず、ソレイトナックの処遇について、モラハルトがご党首様に相談するべく、何度もお手紙のやり取りをした事。そして、ロミルチ城への転属、つまりオーデイショー様の元でソレイトナックを働かせるという決定。その指示に従って、ソレイトナックがロミルチ城に向かった事。その後ソレイトナックからの連絡が滞り、オーデイショー様がソレイトナックを小貴族の娘と結婚させようとしておられるという噂。それをモラハルトから聞かされた事、など。

 私が話している間、ご党首夫妻もオーデイショー様も微妙な表情のままだった。どう反応すべきか決めかねているお顔だよ。

 私が、以上です、と話を終えると、ご党首アンディン様が軽く片手を上げた。

『まず私から言わせてもらうぞ、セピイ。モラハルトはソレイトナックの処遇について私の意見を求めた、との事だが。実は、そのような相談は一度も受けていない。手紙でも、直に会った時でも、だ』

 私は何も答えられなかった。そんな私の反応を確かめるおつもりだったのか、少し間を置いてからオーデイショー様も口を開いた。

『同じく、わしもモラハルトから、そのような話は聞いておらん。

 ソレイトナックなら、使者として何度かロミルチに来た事がある。会った時の印象から、有能な男だとは、わしも思っていた。しかし、だからと言って、わしのところに転属させるなどとモラハルトに打診した事は無いぞ。ましてや貴族の娘を娶らせるような事も、わしは、しとらん。そもそもソレイトナックはロミルチに来ておらんのだからな』

 私は力の入らない声で、そうですか、と相づちを打つのがやっとだった。

 最後は奥方キオッフィーヌ様だ。

『ここであなたの話を聞いて以来、私たちもビッサビアさんと何度も手紙のやり取りをしました。しかしビッサビアさんも、ツッジャム城周辺でソレイトナックの消息をつかめていない。そしてオーデイショーさんが先ほどおっしゃったように、ロミルチ城にも来ていない。ここメレディーン城にも現れない。

 逆にビッサビアさんからは、ソレイトナックを見つけたら自分にも教えてほしい、と頼まれたくらいです。

 もちろん私たちからも同じことをお願いしているのですが、何度も言うように、進展はありません。

 セピイ。今あなたに話せるのは、これが全てです』

 私は、ビッサビア様もソレイトナックの行方を知りたがっているという箇所だけで心がざわついて、すぐに返事ができなかった。で、隣にいたノコさんから肘で突かれたよ。私はハッとして、お三方にお礼申し上げた『ご協力ありがとうございます』と。

 ついで、でもないが、私は続けて質問の許可を求めた。ご党首様がお許しくださったので、私は、とうとう口にしてしまった。聞かずにはいられなかった。

『どうか、失礼なお尋ねをすることをお許しください。もしかしてモラハルト様がソレイトナックを殺めたということはないでしょうか』

 私が言った途端、ご党首様の目がほんの少し尖ったように見えた。そりゃ、気にしすぎかもしれないよ。しかし、一瞬だけそんな気がしたのを、今でも覚えているんだ。

 ご党首様は、いい質問だ、とおっしゃった。

『たしかに有り得ない話ではない。経緯はともかく、ソレイトナックは結婚前のヒーナと関係をもったのだ。しかも、その後のヒーナの嫁入りは、お世辞にも成功したとは言えぬ。モラハルトが密かにソレイトナックを恨んでいても、おかしくはない。

 しかしモラハルトがそれを素直に認めるかと言うと』

 ご党首様は思い切り、ため息をついて、首を横に振った。

『何一つ認めようとはせぬ。我ら兄弟に嘘、隠し事をした事さえ認めぬ。あくまで伝え遅れただけ、順番が替わっただけだ、と。たしかにソレイトナックをロミルチへ送り出したが、刺客に追わせるような真似はしていない。何度問い質しても、モラハルトからの手紙には、そのようにしか書かれていなかった』

 ご党首様が言い終わると、部屋に居た全員が沈黙した」

 セピイおばさんも、そこで一息ついた。当時のご党首様たちに合わせたわけでもないだろうに。

「プルーデンス。あんたは、このご党首様の話を信じるかい。あるいはモラハルトの答えを。

 私は信じたかったよ。刺客なんて居ない、ソレイトナックが、なぜか行方不明になっただけ。そう思いたかった。それならソレイトナックはまだ、どこかで生きている。

 そう思いたかったが・・・プルーデンス、そう思っていいのかねえ」

 セピイおばさんは私に問いかけておきながら、私から目をそらしていた。

 私は「分からない」としか答えられなかった。

「そうだね。あの時の私も分からなかった。今も、どうだか。

 今でも、あの時のアンディン様のお顔を思い出せるよ。怒っておられるのか、私を憐れに思われたのか。それでいて何の感情も無いようにも取れる。あの、つかみどころの無いお顔。

 そのくせアンディン様の心の声は、こんなじゃなかろうか、と推測もした。『セピイよ、信じるも疑うも好きにするが良い。しかし我らとしては、これ以上、答えようもない』とかね。

 私は文字通り、途方に暮れた。ご党首様たちのような高貴な方々を前にしているのに、何も言えず、立ち尽くしていたんだ。アンディン様にご返事することすら思いつかなかった。

 そんな私を見かねたのか、キオッフィーヌ様が先におっしゃった。

『ソレイトナックについて、何か知らせが入ったら、あなたに必ず教えます。

 今日はもう疲れたでしょうから、そろそろ部屋に戻りなさい』

 そのお言葉を潮に、ノコさんが私の腕を引いたよ」

 そこで、セピイおばさんの話が、また途切れた。

 

「す、すっかり分からなくなっちゃったね、ソレイトナックの行方」

 どう話の続きを促したらいいのか迷って、私からやっとこさ出たのは、そんな言葉だった。

「まったくだよ。雲隠れと言うか、夢から覚めたみたいな。そのまま惰性で女中の仕事を続けたが、日中ふと仕事の手を止めると、まるでソレイトナックが元から存在しなかったかのような錯覚に陥いる事もあって、私はその度に首を横に振ったよ。何も言わずに突然、首を激しく振るもんだから、周りに居合わせた他の女中たちから怪しまれたり、心配されたりした。

 私とあの人は確かに結ばれたのに。結婚の約束までしたのに。一瞬でもソレイトナックを夢まぼろしのように思ってしまった自分を認めたくなかった。

 先のことなんて全然、考えられなかったよ。考えなきゃいけない、と頭では分かっていたんだが。

 それよりソレイトナックを探したい。でもビッサビア様の協力は、もう得られない。それどころか恋敵だったなんて。もしビッサビア様が私より先に彼の消息をつかんだら。私に教えてくださるとは、とても思えない。

 そんなことに思い至ったら、ついでと言おうか、こんな推測も浮かんだよ。ビッサビア様がモラハルトと結託していたら。自分のお気に入りの男がいつの間にか、女中の一人と結婚を誓う。怒ったビッサビア様は、自分に惚れ込んで言いなりになる夫に、その女中を襲わせる。同時に主従の立場を利用して、ソレイトナックを一旦、別の場所に移動させて。ソレイトナックを離さないのは、ロミルチ城のオーデイショー様じゃない。ビッサビア様が彼を離さないんだ。彼はビッサビア様に囚われているのでは。

 そう考えただけで、私は居ても立っても居られない気分だった。できることなら、ツッジャム城に戻って、直接ビッサビア様を問い詰めたいくらい。でも、もちろん、そんなこと、できないよ。ツッジャム城に行く馬車に乗せてくれ、なんて頼めないし、たとえ連れて行ってもらったとしても、ビッサビア様が私に本当の事を話してくれるわけがない。

 何か手は無いか。自分なりに知恵を絞ったつもりでも、大したことは思いつかなかった。やっと思いついたのは・・・城下町のポロニュースの店に行ってみること。分かるだろ。ただの悪あがきだよ」

「で、でも、おばさん。もう、ポロニュースもスケベな店主も居なくなっているはずじゃ」私は語尾を途切らせてしまった。

「その通りだよ。どちらも居なかった。私も馬鹿だねえ。分かりきっていたのに。だから悪あがきなんだ。

 店は取り壊されている途中だった。大工たちがウロウロしていてね。彼らが言うには、土地の新しい所有者が全く別の店を構える予定なんだ、と。折れた木材とか砕けた煉瓦とかが、幾つかの小山を成していた。私は、そのうちの一つに羊皮紙の切れっ端を見つけたよ。廃材の下に埋もれて、端っこが出ていたんだ。

 私はそれを拾った。予想通り、私がソレイトナックに宛てた手紙だよ。ポロニュースが放り捨てていたんだね。私はそれを握りしめて、城に戻った」

「おばさん」私は意を決して尋ねた。「もしかして、その手紙をまだ持ってる?」

 セピイおばさんは軽く笑い出した。

「いくら私がケチだからって、そこまでしないよ。お城のかまどに放り込んださ」

 答えはともかく、私は久々におばさんの笑い声を聞いた気がして、安心した。昨日や一昨日だって聞いていたはずなのに。

「そうだ、プルーデンス。それで思い出した」

 セピイおばさんは話を続けた。

「私はメレディーン城に戻って、一度、それを読み返した。当然そこには私の言葉ばかりで、ソレイトナックからの言葉は無い。それで、もう焼いてしまおうと、厨房に行ったのさ。で、かまどの火に、小さく丸めた手紙を放り込んだ。

 それで私は、ようやく決心がついたよ。ご党首様夫妻に全てを話そう、と。ビッサビア様とソレイトナックの関係も、ポロニュースの存在も。それに伴って、自分も罰を受ける可能性があるが、仕方ない。ビッサビア様は味方じゃなくて、敵なんだ。そう認識し直して、対抗する手立てを考えたら、とにかく味方を探すしかないだろ。ビッサビア様やモラハルト、ポロニュースに引けを取らないほどの影響力を持つ味方。それは、どう考えたって、ご党首様夫妻、アンディン様とキオッフィーヌ様しか居ない。しかし味方になってもらえなかったら。その時はソレイトナックを、人生を諦めるしかない、とね。

 へんなもんで、そうやって結論に達したら、心の整理がついたと言うか、自分でも気持ちが落ち着くのが分かったよ。

 そしたら、だ。誰か人の気配がするじゃないか。振り返ったらイリーデが、もじもじしながら立っていた。私はそれを見て、相変わらずお姫様みたいな姿だと、ぼんやり感心したもんさ。

 イリーデは、たしか、こんなふうに言ったねえ。『セピイさん。どうか私の頼みを聞いてくれませんか』と。続けて、イリーデは頭を下げた。『セピイさんがいろいろと大変な時に、相談なんか持ちかけて、ごめんなさい』とか付け足して。

 私は、ぽかんとしたよ。イリーデほどの器量良しに、悩みや問題があるなんて想像もつかなかった。しかも一度やらかした私に、相談を求めるなんて、どれほどの問題なのか。

 私は念を押した。『私でいいの?他の人には聞かせられない話ってこと?』

 イリーデは思いつめた顔で、深くうなずく。

 それで私も、ちょっと考えて答えた。

『仕事の合間、都合のいい時間と場所を決めておいて。それとも今がいいなら、どこかに移動しよう』

 その時は二人とも忙しいと言うほどではなかったので、イリーデは私を連れて城内を歩き回った。で、結局、塔の上に行ったよ。私が騒ぎを起こした塔とは、別のところでね。

 たしか、まだ夕暮れ前で、天気も良かった。かつてポロニュースの店があった場所が、埃っぽかったのを思い出したくらいだよ。

 イリーデは大して景色を楽しんだりせずに、こわばった顔を私に向けて言った。『私、許嫁がいるんです』と。

 続けて、彼女は事情を説明した。メレディーン近郊の小貴族の息子とゆくゆくは結婚する予定なのだ、と。親同士が旧知の仲で、決めたそうだ。

 聞きながら私も、そう言えば、と思い出した。よくメレディーン城に上がって、イリーデにやたら話しかける少年がいるな、と。その少年は、ご党首様夫妻へのあいさつはもちろん、城詰めの騎士様たちに剣術などの稽古をつけてもらうなど、忙しなく城内を回っていた。少なくとも週に一回は見かける、お馴染みの光景だったよ。名をブラウネンと言い、イリーデと同い年だと聞いていた。

 当然のことながら、ブラウネンはメレディーン城に顔を出すと、必ずイリーデのところに立ち寄った。そしてイリーデの健康を気づかったり、たわい無い世間話をしたり。

 ただし私が見かけた時は、イリーデはいかにもつまらなそうに、興味無さげに会話しているのが常だった。

 逆にブラウネンは美少女を前に緊張してか、強ばった笑みに汗を浮かべてね。話題が途切れるのを恐れて必死に話しているのが、遠目でも分かったよ。

 意地悪なオーカー様なんか、わざと通りかかって、からかったもんさ」

「てことは、ブラウネンは不細工だったの?」

 私がつい口をはさむと、セピイおばさんは、また笑った。

「そこが気になるかい。まあ若過ぎて頼りない少年だったが、一応、貴族の息子だけあって、充分見られる顔だったよ。ここみたいな田舎だったら、結構な美少年として、もてはやされただろう」

「うーん、それなのに、そいつとの結婚が嫌だったのかな、イリーデちゃんは」

「さあ、私も彼女によくよく聞いたが、ブラウネンから特に意地悪されたわけでもなかった。だから若くて、結婚そのものがまだ早いとか思いたかったんだろう。私は、そう解釈したよ」

「なんか聞けば聞くほど、ヒーナ様みたい」

「そこまで分かっているなら、イリーデが何の相談を持ってきたのか、想像がつくだろ」

「えっ、ヒーナ様と同じで、イリーデもおばさんの体験談を聞きに来たの?」

「そう。しかも、私が耳にした他の人の例も聞きたい、なんてね。とにかく女と男のこと、寝床のことに関して、私が知っていることを全て教えてほしい、なんて言い出したのさ」

「前におばさんとソレイトナックの話を聞きたいとか言ったのは、そういう意味だったのね。ちょっとしつこい気がしていたけど、やっと理由が分かったわ。

 で、それでおばさんは、イリーデに話してあげたの?」

「それなんだが」セピイおばさんは一息ついた。

「私としては、イリーデとブラウネンの結婚を応援してやりたい、と思ったよ。

 しかし、そのために私の体験談が有益と言えるのか。私の経験は、お世辞にも成功例とは言えないだろ。良くない事例として注意を促すことなら、できるかもしれない。しかし、かえって結婚に対する不安や心配をあおるようじゃ、考えもんじゃないか。

 それに、話がヒーナ様やビッサビア様に及ぶようなら、どこまで話していいか考えないと。

 それを踏まえて、私はイリーデに、こんなふうに答えた。

『実はね、私には、ご党首様夫妻に謝らなければならない事があるの。それで今夜、お話しさせていただこうと思っている。お二人から下される判決によっては、あなたに話を聞かせる機会が無くなるかもしれない。お二人からお許しが出て、この城に残れたら、あなたに私の話せる事を話すわ。どれだけ、あなたの参考になるか分からないけど』

 その時点では、それが精一杯の返事だった。イリーデは、突然ご党首様たちが話題に上がったので、驚いて絶句していたよ。彼女なりに、私がご党首様たちに謝罪しようとしている事の内容までは聞いてはならない、と分かってくれたんだろう」

「そうね。イリーデには悪いけど、ビッサビアの件とかを片付けるのが先だもんね」

「その夜、私は晩餐の支度を手伝いながら、頃合いを見計らって、ノコさんに小声で話しかけた。相談事がある、と。

 ノコさんは黙って、私を暗がりまで引っぱっていった。私は周りに他の人が居ないことを確認してから、ノコさんに改めて頼んだ。ご党首様夫妻にお話ししたいことがある。お二人に時間を割いてくれるよう、ノコさんから頼んでほしい、と。

 ノコさんの反応は、こんなだった。『私には聞かせられない、ご党首様夫妻にだけお話しするような内容かい』

 私は答えた。『モラハルト様の奥方であるビッサビア様や、ビッサビア様の生家マーチリンドに関する事です。ご党首様たちがノコさんも聞くべきと判断なさるなら、ノコさんにもお話しします』

 私が言い終わるや、ノコさんの指が音もなく飛んできて、私の唇を押さえた。分かったから、もう言うな、と。私はそう解釈した。

 実際、ノコさんは私から離れると、足音も立てずに、ご党首様の書斎に向かったよ。

 しばらくして、ご党首様夫妻や騎士様たちの晩餐も、私ら女中や兵士たちの食事も済んだ。

 そして私は他の女中何人かと食器を洗ったりした。その女中たちが何かの拍子で、私から離れた。すると、すぐ後ろから、ノコさんの抑えた声が耳に入った。『お許しが出たよ』

 私が振り返ると、ノコさんが体を割り込ませるようにして、炊事場に立った。で、私と交代して洗い物を始める。

 私はご党首様の書斎に行きかけて、一度ノコさんを見たよ。ノコさんは、ついて来なかったね。つまりは、まず、ご党首様夫妻にだけお話ししろ、ということさ。

 ご党首様の書斎に行く間、私の中で緊張が急速に高まった。扉を軽く叩き、お許しをもらってから中に入る。すぐに、ご党首様の冷ややかな視線が飛んできたよ。奥方様も心配そうなお顔で、そばに座って居られた。

『セピイよ。ビッサビア殿のことで話があるそうだな。他の者たちに聞かれぬよう、もっと近くに寄って、小声で話しなさい』

 私は言われた通り、ご党首様の机のすぐ前に椅子を寄せて座った。

 私は一度、お二人に頭を下げてから話した。ビッサビア様からヌビ家の動向を探るように命じられていた事。ビッサビア様と私の間を仲介した、ポロニュースという男の存在。そして、そのポロニュースから密偵として失格を言い渡された事。その際に聞かされた、ビッサビア様とソレイトナックの関係。最後に、私はお二人に謝罪して『罰をお受けします』と付け加えた。

 アンディン様は、ふう、と息をついて、こんなふうにおっしゃった。

『罰とは、ちと大げさだな。

 まあ、リブリュー家の竜巻き殿やナモネア家の事は、まだ隠しておきたかったが。ビッサビア殿にもマーチリンド家にも』

 マーチリンド家と聞くや、私はお許しも得ないで、思わず尋ねてしまったよ。『マーチリンド家とヌビ家は事を構えるのですか』

 アンディン様は私を咎めもせず、少し笑みを浮かべて、首を横に振った。

『そうならないように、お互いが腹の探り合いをしている、と言っておこう。たしかにモラハルトとビッサビア殿の結婚で、ヌビ家とマーチリンド家は同盟関係になった。しかし、だからと言って、私は油断するつもりはないぞ。そして、それは向こう、マーチリンド側も同じだ。それでビッサビア殿は、こちらに探りを入れてきた。貴族とは、そういうものだ、と覚えておきなさい』

 私は一瞬ホッとしたものの、本当に安心していいのか分からなくなって、返事ができなかった」

「おばさん、質問」私は手を上げた。

「ヌビ家とマーチリンド家が探り合いするのなら、キオッフィーヌ様の生家とも、探り合いになるんじゃないの?」

 セピイおばさんは、ふふっと笑いをはさんだ。

「いい質問だよ、プルーデンス。私もアンディン様のお話を聞きながら、同じことを考えた。もちろん口にするわけにはいかなかったがね。

 でも、やはり、やっていただろうよ。腹の探り合いを。なぜって、あの時、奥方キオッフィーヌ様が褒めてくださったんだ。『それにしてもセピイは、よく正直に話してくれましたね。私は嬉しいですよ』なんてね。

 私はありがたいお言葉と思いながらも、キオッフィーヌ様が話題をそらしたんだ、と勘ぐった。

 ちなみに、キオッフィーヌ様の生家は」

 セピイおばさんは、わざと言葉を切って、私の顔を覗き込んだ。目が笑っている。

 シャンジャビか、リブリューか。あるいはナモネア。私には予想がつかない。

「王家だよ。キオッフィーヌ様は、当時の王陛下の姪にあたるお方だった」

 あー。私はつい、間の抜けた声をもらしてしまった。なるほどである。

「それはともかく、話を戻そう。

 私は処罰の内容をお尋ねした。またしても、お許しを得ずにアンディン様に向かって発言してしまった形さ。アンディン様は、とうとう声に出して笑いなさった。『そこまで罰を望むなら、セピイに一役買ってもらおうかな』

 そう、おっしゃったアンディン様は、私が部屋に入った時と違って、表情が大分ほぐれていた」

 そう話すセピイおばさんも、顔が緩んだように見える。これなら、しばらくキツい展開は無いかも。

「アンディン様が私に何をさせたいのか。その時はまだ細かく決まっていなかったが、要するにビッサビア様が私にさせたような動きを、今度はヌビ家、アンディン様たちのためにしろ、とのことだった。

 アンディン様としてはツッジャムの状況を確認したかったのさ。何しろ、ツッジャム一帯を任せた弟のモラハルトは、勝手なことばかりして、まともな報告を寄越さない。その奥さんであるビッサビア様は、メレディーンに探りを入れてくる始末だ。二人の息子、パウアハルトはツッジャムで評判が悪いだろ。ヌビ家のご党首様にとっては、どれも由々しき事態だよ。アンディン様が改めてツッジャムの状況を把握し直したいと考えるのも、当然さ。

 そのためには、密偵たちを何人も動かす必要がある。私がアンディン様から求められたのは、その手伝い。会ったこともない密偵たちが陰で動きやすくなるように、私は私で別の行動をとれ、とね。

『具体的なことは、また追って説明する』それが、アンディン様が一旦、下した判決だった」

「つまり、お咎めは無しってこと?」

「ああ、おかげさまでね。キオッフィーヌ様が『これからもよろしく頼みますよ』と微笑んでくださった。私は安心しすぎて、椅子からヘナヘナとずり落ちたくらいさ。

 もちろん、急いでお二人にお礼申し上げたがね」

「よかった」私も、やっと安心できた。

「まったくだよ。お二人が度量の広いお方で、助かった。

 これがアンディン様とキオッフィーヌ様じゃなかったら、どんなお咎めを受けていたことやら。今思い出しても、ヒヤリとするよ。あんたも、そこは勘違いしないでおくれ」

 うん、と私もうなずいた。貴族がそんなに甘い人種ではないことを、肝に銘じておく。アンディンも、セピイおばさんを利用したいと言っただけ。しかし、正直さはある、と私は思う。モラハルトとビッサビアは善人ぶって、それを表明しなかったのだ。

「そうだ。これでイリーデちゃんのお願いも聞いてあげられるわね」

「ああ、お二人に確認したさ。イリーデから相談を受けていて、そのためにヒーナ様の事なども話すべきか迷っている、とね。

 アンディン様の答えは、こんなだった。

『ヒーナやモラハルトなど、ヌビ家の者については、どのように話しても良い。悪く言っても良い。遠慮せず、セピイが思うように話してやりなさい。私が許す。

 ただし、ビッサビア殿については言及しないように。どこで漏れるか分かったものではないからな』

 アンディン様は、ビッサビア様のところだけ目を鋭くなったが、後は、また表情を緩めた。『イリーデの不安を、できるだけ軽くしてやりなさい』とか付け加えて。

 そもそも、ご党首様夫妻はイリーデとブラウネンの縁談を後押ししていたんだよ」

 それからセピイおばさんは、あと少し補足した。

 ヌビ家内でも、美少女のイリーデちゃんをお嫁さんにしたいと望む者は、何人か居たらしい。しかし政略結婚として考えると、イリーデの生家はそこまで力のある、同盟し甲斐のある貴族とは言い難かった。あくまでも、ヌビ家に頼って成り立つ小貴族だったのだろう。そこでアンディンはヌビ家の党首として、イリーデをヌビ家に迎えないことに決めた。そして鬱陶しい親族たちを黙らせ、イリーデの両親の意向を尊重することにしたのである。

 これを受けて、イリーデの両親は、家族ぐるみの付き合いをしている同等の貴族の息子、ブラウネンを娘婿に選んだ。

「ここで大事なのは、イリーデの両親が、ヌビ家以外の勢力のある貴族に、自慢の娘を売り込まなかった事さ」

 と、セピイおばさんは念を押した。イリーデの両親は、ヌビ家以外の大貴族にすり寄ったりは、しなかった。もちろん、ヌビ家の目を恐れての判断である。

「ふふ、ブラウネン君は運が良かったわね」

 私がちょっと意地悪を言うと、セピイおばさんも笑ってくれた。

「そうさ。政治上の駆け引きが、程よくブラウネンの都合と合致したんだよ。

 幼なじみとして、ブラウネンはイリーデを誰かに取られるんじゃないかと、気が気じゃなかったろうからねえ」

 イリーデの件はそこまでにして、私は、もう一つ気になることを尋ねた。「ところで、当時のご党首様たちは、おばさんの動きに気づいていたの?」

 それもいい質問だ、とセピイおばさんは言ってくれた。

「気づいていたね。私としては一生懸命、隠していたつもりだったんだが。城下の店に行くところを尾けられていたらしい。後で聞かされたが、ノコさんも私に目を光らせていたそうだ。

 アンディン様がおっしゃるには、ポロニュースがマーチリンド家の屋敷に出入りする姿も確認した、と。ポロニュースの奴、偉そうなことを言っていた割には、あっさり尻尾をつかまれていたのさ」

 尋ねておきながら、私はため息をついてしまった。「貴族って、そういうもんなんだね」

「そう。だから離れを四つも建て増して、撹乱しなきゃならない」

 セピイおばさんは特に力みもせず、つぶやく。私はドキリとして、相づちが打てなかった。

 セピイおばさんは、そんな私に構わず、話を続けた。

「こうして謝罪も済んで、イリーデの件も要点を押さえることができたわけさ。すると奥方キオッフィーヌ様がおっしゃった。『もう休みなさい』と。

 私は頭を下げて退室した。そしてノコさんのところに戻った。ノコさんは洗い物を終えて、炊事場の椅子に腰掛けて、一息ついていたよ。他の女中たちは居なかった。

 私はノコさんに報告した。話の内容までは明かせなかったが、とにかくご党首様夫妻に謝罪を受け入れてもらえた、と。

 ノコさんは数秒、私を見つめた。と、思ったら、静かに、こんな質問を投げてきた。

『セピイ。それは、あんたが向こうの奥方様、ビッサビア様と決別できたって事じゃないのかい?』

 私は、ハッとしたよ。まさしく、その通りだと気づかされた。私は意気込んで、はい、と答えた。

 するとノコさんは、さらに言った。

『つまり今、あんたのツッジャムの時代が終わったのさ。そしてこれから、あんたのメレディーンの時代が始まるんだよ』

 ノコさんは一度、席を立って、葡萄酒の皮袋と小さな盃を二つ持ってきた」

 セピイおばさんは当時を再現するつもりなのか、私の目の前でも、盃に葡萄酒を注いだ。そして、それを軽く持ち上げる。

「ノコさんは片方の盃を私に取らせて、もう片方を自分で持った。そして二人して、盃をカチンとやった。

『改めて言うよ。メレディーン城へようこそ。しっかり働いておくれ』

 そう言ったノコさんは少しニヤリとしたように見えた。私は、また意気込んで快諾した。あとは二人で呑み干して、その夜は休んだよ」

 

 話をそこで区切ると、セピイおばさんは手元の盃を空にした。

 続けて、また少し注いで、今度は私に寄越す。私も一気に呑んだ。そんな私に、セピイおばさんは微笑んでくれた。

「よっし、やっと話の区切りがついた。今夜は、ここまでにしよう。思っていた以上に長くなって、自分でも、びっくりだよ。

 あんたも、もう寝なさい」

 セピイおばさんは小机代わりの椅子の下から灯りを回収し、私を立たせた。

 灯りを消してから扉を開けて外を確認する。家までの地面を、月明かりがまばらに照らしていた。

「今夜も話を聞いてくれて、ありがとよ」

 セピイおばさんは、そう言って、私の背中を押した。