第十七話 失われた者たち
ともかく、ジャッカルゴは都アガスプスから居城メレディーンに、妻子ともども無事に帰ってきたのだ。妻のヘミーチカも赤ちゃんのナタナエルも、その後、へんな病を発症したりする事はなかった。都に住む、それぞれの両親も健康であった、と。
それを考えれば、何の問題も無し、と私は解釈したのだが。
「どうも、アンディン様のご様子が少し変だったらしい」とセピイおばさんは話を続ける。
「ジャッカルゴ様ご一家が戻られて、何日か経った時にね。ふと気がつくと、オペイクス様が居なくなっていた。まあ、普段から目立たないお方だ。周りは誰も話題にしていなかったよ。私も、きっと何かの任務で外出されたんだろうと推測して、口には出さなかった。
それから、さらに何日かして。あれは、まだ陽も昇っていない早朝だったねえ。私が朝の水汲みとかしていたら、いつの間にかオペイクス様の姿が厩に見えるじゃないか。
私も考えたね。もしかしてオペイクス様は、あまり人に知られてはならないような任務で外出なさっていたのでは。普通にお声掛けして、他の女中や使用人たちの目を引いたら、まずいのかも。それで結論として、私は声を抑えて挨拶した。『よくお戻りになられました』と。
案の定、オペイクス様はちょっとバツが悪そうに苦笑なさってね。『見つかったのがセピイなら、大丈夫か』とか、頭をかきながら、おっしゃる。続けて、旅装をくるくるに丸めて寄越して、私に洗濯を頼んだ。
私は『朝食を用意しましょうか』ともお聞きしたんだが。オペイクス様は『先に、ジャッカルゴ様に報告する事があるから』と厩を出て行かれたっけねえ。
その時は、それで終わったんだけど。
その日の午後だったか、あるいは翌日の午後だったような。とにかくオペイクス様が、一人で外城壁の上から遠くを眺めておられた。
私は仕事の合間に、そこまで上がって、声を掛けてみた。『もしかして今回のお務めの疲れが、まだ取れていないのでは』とね。
オペイクス様は困ったような笑みを私に向けたものの、すぐには返答しなかった。それでも少し間を置いてから、周囲に人が居ないのを確かめて、こんなふうに前置きしたんだ。
『本来なら、あまり話さない方がいいのだろうけど。
聞いてくれないか、セピイ。できれば人に話すことで、肩の荷を少し減らしたい気分なんだ』
だからお答えしたよ。『私で良ければお聞かせください』と」
「やっぱり、おばさんも気になっていたんだね」
「そりゃ、そうだよ。流行り病の説を唱えたのは、他ならぬオペイクス様だ。そのオペイクス様が、また何かに気づいて、その上で外出なさっていたのかもしれないじゃないか。
もちろん、私も聞いた事をぺらぺら言いふらすつもりはないよ」
「おばさんのそういうところを信頼して、オペイクスは話す気になったのね。
それにしても、オペイクスも秘密と思いながらも、誰かに聞いてもらいたいなんて」
「だから私も、内心は身構えたよ。しかし、それでも、やはり気になる。そしてオペイクス様自身も、言ってしまいたい、吐き出したい、とおっしゃっている。
それで聞かせていただいたのが、アンディン様の話さ」
「もしかして、実はアンディンも体調を崩して、危篤だとか」と私も、つい先走ってしまう。
セピイおばさんは苦笑いを浮かべた。
「幸い、そういう具体的な問題じゃなかったよ。もし、そうだったら、秘密にするどころか、跡継ぎであるジャッカルゴ様が対応に追われている頃だろうし。
しかし危篤とかじゃないなら、ないで、アンディン様の心境をどういう言うべきか。
とにかく、アンディン様のお舅様の葬儀の後だよ。アンディン様は、息子であるジャッカルゴ様に頼んでいたんだ。『オペイクスを都に寄越してくれ』とね。しかも『ごく内密に』と来た。
それでジャッカルゴ様はメレディーン城に戻ってから、すぐオペイクス様に指示したよ。オペイクス様も、城詰めのみんなに気づかれないように城を出て、都に向かった。単騎で。しかも人の目につかないように、紋章衣も無しだ。
都アガスプスに着いたら、オペイクス様は、事前に指定されていた宿に入った。そこは、てっきりアンディン様たちのお屋敷の近くだろうと予想していたら、むしろ宮殿のすぐ裏手だったそうだ。
オペイクス様は、その宿の使用人の一人に小銭をつかませて、アンディン様たちのお屋敷に向かわせたよ。しばらくして、その使用人がアンディン様の伝言を持って帰った。二人で会うための場所と日時。場所が呑み屋というのは理解できたけど、日時の方は、その日すぐ、というわけにはいかなかった。たしかオペイクス様は、翌日か、さらにその次の日まで待った、とおっしゃっていたような」
「ず、随分と手が込んでいるわね」と私も思わず口を挟んでしまう。
「だからオペイクス様も、あまりいい予感がしなくて、やきもきしたそうだよ。その上、ただでさえ苦手な都で、じっとしていなきゃならなかったんだからね。
そして指定された、その日。アンディン様は平民の服装で、オペイクス様の前に現れたよ。
夕暮れ時でね。アンディン様は呑み屋のおやじに言って、店先に卓と椅子を並べさせた。オペイクス様がアンディン様に続いて、そこに腰掛けると、周りの店や家屋の向こうに、宮殿や教会堂の塔が何本か見えた。そんな位置だったと。
それら周りの建物の陰には、ほんのわずかだが人影もチラついて、アンディン様が密偵たちを護衛として潜ませている事も分かった。
状況が確認できて安心したオペイクス様は、改めてアンディン様と向かい合ったよ。見たところ、アンディン様の顔色は特別悪い、という感じでもない。しかし明るい表情とはお世辞にも言えない、とオペイクス様は思ったそうだ。
アンディン様がまずおっしゃったのは、こんなお言葉。『待たせたな、オペイクス。今日は奥が、馴染みのある女子修道院の院長に会いに行ったのでな。それで私も、やっと抜け出して来れた』
それでオペイクス様は、すかさず小声でお尋ねしたよ。『すると、奥方様は今日の我々の事をご存じないと』
対するアンディン様のご返事は、こうだ。『うむ。今日は私も気が緩んで、亡くなったばかりの舅殿を悪く言うかもしれん。我ながら心配になったゆえ、奥には黙っておいた』と」
「ええーっ」私は、とうとう我慢しきれずに声を上げてしまった。そのくせ言葉が続かない。何と言ったらいいのやら。まさかアンディンたちから、きな臭くなるなんて。
「私もオペイクス様から話を聞いた時は、思わず、のけぞったよ。ただでさえ流行り病だ何だと心配ごとが多いのに。でも、どんな人、どんな夫婦だって、ちょっとした隠し事くらいあるだろう、と私は思い直した。
オペイクス様は続けてお尋ねしたね。お父様を亡くしたキオッフィーヌ様は、やはり気落ちしているのでは、と。アンディン様は、うなずいた。アンディン様の話では、キオッフィーヌ様は取り乱したりはしていないが、静かに悲しんでおられたらしい。女子修道院に向かったのは、亡くなったお父様のためさ。祈祷なんかを頼むつもりだったんだよ。
とは言え、亡くなったキオッフィーヌ様のお父様、アンディン様のお舅様は、ナタナエル様という曾孫と会えたくらいの、いいお歳だったからね。オペイクス様は『老衰でしたか』とも尋ねたよ。しかし今度は、アンディン様は首を縦に振らない。小さく横に振る。
『安らかに、という最期ではなかった。舅殿の屋敷の使用人たちや親族がたが言うには、舅殿は夜中に胸の痛みを訴えたと。かなり激しい痛みだったようでな。舅殿は胸を掻きむしりながら何度も寝返りをうったそうだ。しかも頭痛まで。目が充血し、よだれが口から流れて止まらなかった、とも聞いている。(神のお迎えが、かくも乱暴なものとは)というのが舅殿の最期の言葉だ』
そう説明しながらアンディン様は、うつむいておられたそうだ。
話を聞いたオペイクス様は『しばらく絶句してしまった』とおっしゃっていたよ」
「た、たしかに」と私。やっぱり、まだ言葉が続かない。
「オペイクス様は、よくよく考えた上でアンディン様に告白したんだ。『宮殿でからかわれて以来、正直、私はあの方に良い印象を持っておりませんでした。しかし、だからと言って、それほどの事態を望んでいたつもりは、なかったのですが』
するとアンディン様も顔を上げて『私もだ』とお答えになる。
『党首としての権利と務めを息子に譲って、この都に住むと決めた時。王族がたの話し相手を務めると私は言ったが、そのほとんどは舅殿と想定しての事だ。何度、顔を合わせても、上辺だけの付き合いで、最後まで私に打ち解けてくださる事はあるまい。そう覚悟した上での決断だった。
要するに、私は力んでいたのだ。そなたも気づいていたであろうし、自分でも自覚していた。
しかし・・・当の舅殿が、まさか、これほど早く亡くなられるとは。私は、少なくとも五年から七年は健在だろうと見ていたよ。キオッフィーヌも、おそらく予想していなかっただろう。いや、それ以前に、舅殿本人が少しも予想していなかったのでは。時に世の人は、死期を悟る、などと口にする。しかし舅殿に、そんな素振りは一切無かった。最後にお会いした時など、むしろ、悠々自適の老後を自慢するかのように見えたほどよ。舅殿がご自分の死期に気づいていたとは、とても思えん』
というようなことをおっしゃってから、アンディン様は、しばらく黙り込んだそうだ」
セピイおばさんの話に、うーん、と私は唸る。私はもちろん、オペイクスだけでなく、アンディンまでも絶句している。オペイクスを呼び出したのは、アンディンなのに。でも、絶句する気持ちも分かる。
「オペイクス様は、話をつなげる言葉を探そうと、頭を悩ませた。で、やっとこさ、ひねり出したんだ。『拍子抜け、でしたかな』とかね。
アンディン様は、たしかに反応してくださったよ。『うむ。まさしく、その通りだ』と。でも、それだけ。そこから話を広げようとか、なさらないんだ。
分かるだろ、プルーデンス。アンディン様は何もオペイクス様に不満を感じて会話を進めない、というわけじゃない。そもそもアンディン様はオペイクス様と語り合いたくて、メレディーンから呼び出したんだから。にも関わらず、言葉が出ない」
「と言うより、元気が無い」と私は確認するつもりで、あえて口をはさんだ。
セピイおばさんは、うなずいてくれた。
「その通りだよ。もっと言えば、そう、オペイクス様の表現を借りれば、アンディン様は明らかに弱っていた。『あんなに弱ったアンディン様は、初めて見た』とまでおっしゃった」
「それじゃ、どう言葉を掛けたらいいか、分からなくなるわね」
「そうなんだ。
しかし、しばらくしたら、さすがにアンディン様も気を使ったのか、アンディン様からオペイクス様に話しかけた。のろのろと、だけどね。
どんな話題かと言うと、昔の事だよ。
『私が初めて、そなたに声を掛けた時の事は、覚えているな。あの時、私は、そなたと都合が合えば、この店に連れてこようと考えていたのだ。若い頃から、よく息抜きに逃げ込んでいた店でな』とか何とか。
オペイクス様は、すかさず謝ったよ。あの時はパールさんに会いたい一心で、ナクビーへの帰り道を急いだんだからね」
私は口をはさまずに、うなずく。その場面の話も、パールの物語も全部、覚えている。
「対してアンディン様は『謝るには及ばん』とおっしゃった。それどころか『従者たちに任せず、私も一緒に、そなたをナクビーまで送るべきだった』なんて言い出してね。そうすれば、そのままナクビーで生前のパールさんにも会えたはず、とアンディン様はおっしゃるんだよ。『我ながら気が利かない。情けない』を繰り返して、弱々しく首を振る。
もちろんオペイクス様は『そんなことはありません』と否定したよ。『あの頃はジャッカルゴ様たちも、まだ幼かったはず。私が帰りを急いだように、アンディン様もご家族の元に帰らなければならなかった。それに党首であったアンディン様なら、その他にも、いろいろとご用事があったでしょう。ただ、ただ私たちは時間が合わなかった。仕方なかったのです』そう言って、オペイクス様はアンディン様を納得させようとしたんだけど。
アンディン様は首を横に振るのをやめてくださらなかった。『いや、仕方ない、では済まない。そなたの奥方は亡くなったのだから。本来なら、もっと違う結果にそなたたち夫婦を導くことができたはず。私が神なら、最後の審判の時に、このアンディン・ヌビに対して、そう言う』とまでおっしゃって。
オペイクス様は『おやめください』と遮ったよ。でも、あまりに悲しくて、言葉に力が入らなかったとか。
オペイクス様は、こんなふうに続けた。
『どうか、ご自分を責めるのは、おやめください。パールを埋葬する手立てが無くて、途方に暮れていた私に、あなた様は、おっしゃったじゃないですか。(自分を責めるな)と。失礼ですが、今そのお言葉をそっくりお返しします。ご自分を責めないでください。
私も、あなた様を責めません。あなた様を責めるくらいなら、ペレガミ家を責めます。それと、私とパールを応援してくれなかったビナシス家も。私があなた様を責めるなど、どう考えても筋違いです』
そこまでオペイクス様は断言したのに、アンディン様は、まだ首を横に振る。のろのろと。
『いや、そなたは私を責めるべきだ。私を責めてくれ、オペイクス。そなたが奥方を、大切な人を失った事には変わりないのだから』
アンディン様のこの言葉を聞いた途端、今度こそ『おやめくださいっ』とオペイクス様は叫んだよ。アンディン様に対して声を荒げたのは、後にも先にも、これ一回きりだそうだ。
オペイクス様はそれを、無礼でしたと、すぐに謝ろうか、とも思った。しかし当のアンディン様は驚きも怒りもせずに、オペイクス様をぼんやり見つめるだけで。
そうやってアンディン様と目が合っているうちに、オペイクス様には、ひらめくものがあった」
セピイおばさんは、そこまで話すと、私をひたと見つめた。ん?えっと、何があるんだっけ。おばさんの意図が汲めない。
「ひらめく、と言っても、素敵な考えを思いついた、とかじゃないよ。
よおく思い出しておくれ、プルーデンス。パールさんのお墓を確保できなくて悲しんでいたオペイクス様に、アンディン様は、おっしゃった。『自分も大切な人を失った事がある』と。
オペイクス様は会話の流れで、そのお言葉を思い出したんだ。
しかし、ここでよく考える、と言うか、もう一つ思い出すんだよ。アンディン様とオペイクス様が都で会話しているのは、アンディン様のお舅様が亡くなられた事がきっかけで、アンディン様が語らいたいと望んでオペイクス様を呼び出したからだ。
いつの間にか、話題がパールさんの事に替わっていたが、元はと言えば、アンディン様のお舅様について話していた、はず。
分かるかい、プルーデンス。オペイクス様の頭ん中で、アンディン様のお言葉とお舅様の存在が結びついたんだ。オペイクス様は自分が凍りつくかと思ったそうだよ」
「ええ〜、おばさん。私、まだ分かんないよ」私は首をひねった。
「奥さんのキオッフィーヌがいるのに、アンディンは『大切な人を失った事がある』って言った。その話は覚えているし、オペイクスもおばさんたちも、それが誰を指すのか、あまり詮索すべきじゃないって結論に達したんでしょ。
でも、その事と、アンディンのお舅さん、キオッフィーヌの父親が、どう関係して・・
あっ」
私は叫んでしまった。そしてセピイおばさんはそれを咎めない。
「結びついたね、プルーデンス。そう、オペイクス様も気がついたんだ。
かつてアンディン様が大切な人を失ったのは、お舅様、さらにはキオッフィーヌ様が関係しているのでは。もっと、はっきり、どぎつい言い方をすれば、その方がアンディン様の元から居なくなった、あるいは失われたのは、お舅様やキオッフィーヌ様が何らかの手を下したからじゃないか、と。
もっともオペイクス様が私に話してくださった時は、そんな、どぎつい言い方は、なさらなかったけどね」
私は固まった。言葉も出ない。オペイクスが凍りついたと言う意味が分かる。どぎつい言い方と説明しながら、セピイおばさんは、まだかなり手加減している。私は、もっと直接的な恐ろしい事を想像している。セピイおばさんも、オペイクスも似たような想像をしたに違いない。
「お、おばさん」私は何とか、そう声を絞り出したものの、全く続かなかった。
セピイおばさんは、のろのろした口調で話を再開した。
「詮索すべきではない。まさに、その通りだよ。だからオペイクス様も、自分が思いついた推測を、ぐっと呑み込んだ。『ほとんど、つばと一緒に呑み込んだ』とオペイクス様は、おっしゃっていたね。
そして何とかして、気をつけてお舅様に話題を戻そうと試みたんだ。オペイクス様が選んだ言葉は、こんな感じ。
『もしや、あの方が、亡くなられたお舅様が生前、アンディン様を責めておられたのですか』
アンディン様の反応は、まだ鈍かった。
『いや、そういうわけではない。はっきりと私を非難する言葉などは無いのだ。ただ、内心は私を拒んでおられるだろう、とは思った。その気配は、たしかにあった。
余談だが、今、宮殿に上がると、グローツ王陛下が同じ目で私を見なさる。生前の舅殿と、全く同じ眼差しでな。と言っても、グローツ王陛下と舅殿は、叔父と甥の関係か』
なんて、後の方は誰に向けるでもなく、つぶやくような言い方になって。
オペイクス様も、さすがにグローツ王についての言及は気になったが、それよりもアンディン様とお舅様の事を優先したよ。
『し、失礼ですが。そのように打ち解けてくださらないお舅様を、アンディン様から多少、責めてもよろしいのでは。そのような気持ちを抱いても当然なのでは。私には、そう思えてなりません。死者を鞭打つようで、あまり良くありませんが』
とか言ってね」
これには私も反応した。「だいぶ踏み込んだ、かなり大胆なカマ掛けね。オペイクスにしては珍しい」
「そうだよ。あえてオペイクス様は意見したんだ。『わざとだから緊張した』と本人もおっしゃっていたよ。
そのせいか、あるいは気にしすぎなのかもしれないけど。オペイクス様は言うには『一瞬、ほんの一瞬だけど、アンディン様の目の奥が光ったような気がした』と。
でもアンディン様の口調は、そのままでね。こんなことをおっしゃるんだ。
『オペイクスよ。そなたは本気で、そう思っているのか。私が舅殿を責めるべきだ、と。そなたは長年、私とヌビ家を見てきたではないか。そんな資格は私に無いことなど、とうに分かっておろう。
私が舅殿を責める。あり得ぬ。それこそ許されぬことだ』
アンディン様は、またしても、ゆっくり首を横に振った。
『責めるどころか、感謝せねばならぬ。今のヌビ家があるのは、舅殿のおかげぞ。舅殿が、ご自分の娘であるキオッフィーヌと私を娶せてくださった。
それにより、我がヌビ家は勢力を伸ばし、シャンジャビ家に追いすがる位置にまで辿り着いた。舅殿やキオッフィーヌとのつながりが無ければ、今頃ヌビ家は、ビナシスやチャレンツなど、中規模の連中との背比べに終始しておっただろう。それでもいい方よ。下手すれば没落し、潰されていても、おかしくない。
もちろん舅殿を含め、王家にも思惑があったろう。いつ何時ジャンジャビの者どもが冗長するとも限らん。その時のために、事前に対抗馬を用意しておきたい。ヌビ家をそれに当てがおう、とな。
それでもいい。むしろ贅沢ではないか。ヌビ家の現状を見よ。一族郎党も領地も増え、しかも比較的、落ち着いておる。そなたと、こうして語らうこともできる。贅沢そのものではないか』
なんて言いながらアンディン様の視線は、オペイクス様から外れて、通りの街並みに移っていったそうだ」
「でも」と私は、もらしてしまう。
「そう。オペイクス様も内心、でも、と思った。そう、おっしゃっていたよ。私だって、オペイクス様の話を聞きながら思ったんだ。
それらの繁栄のために、アンディン様は大切な誰かを失ったのか・・・」
セピイおばさんの言葉は、その疑問のところで途切れた。私も、何も言えない。
と思ったのだが。
「私たちがこうして村で暮らしているのも、私とセピイおばさんが今、こんな話をできているのも・・・もしかして、その誰かさんのおかげなのかな」
私は言ってしまった。何で、そんな疑問が浮かんだのか。自分でも不思議に・・・
いや、不思議でも何でもない。ごく自然なことだ。このアンディンの誰かさんだけじゃない。ひいお爺ちゃんやマルフトさんをはじめ、パールやボジェナさん、その他、多くの人たちのおかげで私は生きている。そうとしか思えない。
「よく考えてくれたね、プルーデンス。そうだよ。忘れてはならない、失くしてはならない考え方だよ」
同意してくれたものの、セピイおばさんの言葉は、また途切れた。葡萄酒の皮袋を引っぱり出すことさえ、しない。私も、何と話をつないだらいいのか。
セピイおばさんは、大きく息をついた。
「オペイクス様は、何と答えたらいいのか、分からなかったそうだ。ヌビ家が発展した事は百も承知さ。しかし、ただ、それを認めるだけでは、アンディン様に申し訳ないような。替わりにアンディン様が大切な誰かを失った事を、仕方ない、と片づけるような。自分だって、パールさんの死を仕方ない、なんて言いたくないのに。
オペイクス様は、いつの間にか椅子から腰を浮かせて立ち上がっていたよ。その事に自分でも内心、驚いたが、そんな場合じゃない。言わなければ。しかし、何を。オペイクス様は迷ったんだよ。もう少し踏み込むべきか。その誰かについて。アンディン様が失ったと言う、誰かについて。踏み込みたい。知りたい。しかし、踏み込んでいいのか。
おそらくオペイクス様は『あの、その』とか繰り返していたんだろうね。
その時さ。鐘が鳴ったんだ。通りの向かい側の街並み。その向こうの宮殿や教会堂。それらから伸びた細い塔が何本か、夕焼けの赤い空に喰い込んでいてね。鐘の音が、そこから聞こえてきた、と。
それに反応して、アンディン様が、ぼそりとおっしゃった。
『やれ、鐘が鳴ったか。そろそろ宮殿の門も、教会堂も閉まるだろう。今頃キオッフィーヌも、訪問した修道院で帰り支度を始めたはず。
となれば、我らの語らいも、ここまでだな。よくぞ付き合おうてくれた、オペイクス。感謝するぞ』
アンディン様は、ゆっくりと立ち上がって、店のおやじを呼んだ。で、呆然と立ち尽くすオペイクス様の前で、支払いを済ませた。と言っても、二人とも、ほとんど盃に口をつけていなかったんだけどね。
そして二人は別れた。オペイクス様は、アンディン様の背中が路地の暗がりに溶け込んでいくところを、最後まで見届けたそうだよ。ほんのわずかだが、アンディン様の周りで影が動いたんで、護衛の密偵たちも移動したことが分かった」
セピイおばさんは、また、ふーっと息をついた。
「その後、宿に戻ったオペイクス様は、夜のうちにそこを引き払って、メレディーンへの帰り道を急いだよ。
本当は『都を出たら、ナクビーやロミルチを回っていい』とジャッカルゴ様からお許しをもらっていたのに、だ。パールさんのお墓を参ったりしたいのは山々だが、なるべく早くジャッカルゴ様に報告した方が良かろう。そう、オペイクス様は考えたんだ。アンディン様のご様子とか、アンディン様から見たグローツ王陛下の事とかを。
そして、やっぱりと言うか、オペイクス様は考えた。馬を急がせながらも。それこそ冷えた星空の下でも、昼間の土ぼこりの中でもね。アンディン様が失ったと言う誰かの事を。アンディン様の気持ちを。
推測の域を出ないと分かっていながらも、オペイクス様は考えずにはいられなかった。自分がパールさんを失ったように、アンディン様も誰かを失った。
それは、奥方であるキオッフィーヌ様ではないけれども。そして、その事によってアンディン様とキオッフィーヌ様の政略結婚が成立し、ヌビ家は発展したのだけれど。
オペイクス様は、おっしゃったね。『自分が恥ずかしい』と。
『私は、いつの間にか、自分ばかりが辛い思いをしている、と思い込んでいた。パールへの気持ちを振りかざして、君やイリーデや周りの人たちに接していたんだな。今回、アンディン様の事情を垣間見て、私はその事に気づかされたよ』
とね」
私も息をついてから、口をはさんだ。
「オペイクスは、それをセピイおばさんに言いたかったのね。自分の気づきを知ってもらいたかった」
「それに、今回の秘め事は、一人で抱え込むには、あまりにも大きすぎるからね。誰かに話してしまいたい気持ちも分かるよ。
アンディン様でさえ、誰かに話さずにはいられなかった。それで、よくよく考えてオペイクス様を選んだわけさ。
そして私は、あんたに話した」
「私も、いつか誰かに話していいの?」
「まあ、ダメだとは言えないね。せめて、あんたの子どもとか、孫にしておくれ。もちろん、場所とか周りの状況をよく確かめてから、だ」
セピイおばさんが、やっと少し微笑んでくれた。
「はあい」と返事しながらも、しかし私は、ふと考えてしまう。
私の子どもや孫の頃には、ヌビ家は、どうなっているのだろう。シャンジャビ家を追い越すほどの勢力になっているのか。それとも、没落しているのか。それに伴って、この、山の案山子村はどうなっているのか。
とにもかくにも平穏であってほしい。私は、そう神様にお願いしたくなる。
「さて、話がややこしくて悪いんだが、よおく思い出しておくれ。私が、このアンディン様の話をオペイクス様から聞いたのは、メレディーン城の外城壁の上。のどかな午後だっただろ。
オペイクス様が『気づかされた』とおっしゃっていた時、私とオペイクスには、もう一つ気づいた事があったよ。城壁の下から、ノコさんの声が聞こえてきたんだ。
『オペイクス様。何の講義か存じませんが、そろそろセピイを返していただきますよ』
『や、これは済まない』と答えて、オペイクス様は私を送り出した。
私も慌てて城壁の階段を降りて、ノコさんと合流したよ。と、ノコさんが小声で素早く言った。
『シルヴィアがあんたたちの会話を気にしていたから、追っぱらっておいた。オペイクス様がアンディン様を話題にしていたのなら、誰にも言うんじゃないよ。後でシルヴィアから尋ねられても、しらばっくれること。いいね』
私は声を出さなかったが、ノコさんと目を合わせて、うなずいた。
そして思ったよ。シルヴィアさんのアンディン様への想いは叶わない。しかしアンディン様の誰かへの想いも、また叶わなかったんだな、と」
「セピイおばさん」私は、またしても口をはさんだ。「ノコなら、アンディンの事情を知っているんじゃない?」
セピイおばさんは一瞬、固まって、少し困ったような笑みを見せた。
「いい線だよ、プルーデンス。私も、そう勘ぐったさ。しかし、すぐその場でノコさんに踏み込むわけにはいかなかったねえ。城女中としての仕事が待っていた」
うーむ、一旦、保留か。しかし、ここまで来たら、もう焦ったりしない。私だって、辛抱を覚えたのだ。
セピイおばさんが盃に葡萄酒を注いでいる。何だか久しぶりな気になるが、もちろん私の勘違いで、今晩、何回めだろうか。私も少し、もらう。
「もしかして、さらに誰かが死んじゃう、とか」なんて私は警戒してしまったけど。
「ちょっと違うねえ。忙しくなるんだよ、私自身が」とセピイおばさんは答える。
若き日のおばさんが城壁の上でオペイクスから話を聞いてから、数日後の事。
「こちらツッジャム城から馬車や騎馬の一隊が、メレディーン城に到着してね。なんと、その代表はロンギノ様だった」
「ロンギノは治ったの?」と私の声は裏返った。
「ああ、ありがたい事だろ。私も心底ホッとしたよ」
「なんだ、おばさんったら、脅かさないでよ。ちゃんと、いい兆しが見えてきたじゃん」
「喜ぶのは、まだ早いよ。それだけじゃないんだ。懐かしい顔ぶれも連れて来てくださってね。ベイジ夫妻。しかも、子どもも一緒だった。私がベイジの子を抱っこしたのは、この時が初めてだよ」
セピイおばさんの表情が和らいでいる。良かった。でも、忙しくなるって?
「ベイジったら、メレディーン城に入れた事に興奮してねえ。『メレディーン。私、今、メレディーンに居るのねっ』なんて、旦那さんや私に唾を飛ばして。せっかく再会したのに、私なんか、そっちのけさ。
しかし、そんな間にも子どもの手はしっかり握って、それがダメなら旦那さんに預けたりしてね。母親の務めは忘れていないんだ。私は感心したよ」
「ベイジ一家を全員連れて来てくれるなんて、ロンギノも随分、気前がいいわね。あっ、気前がいいのは、ジャノメイかな?」と私は確認したが。
「まあ、そこは、やっぱり事情と言うか、役目があったんだけど。
でも、その前に、党首ジャッカルゴ様への挨拶が先だ。ロンギノ様は、ベイジの旦那さんを連れて、のしのし書斎に向かって行った。
その間、私とベイジ母子は中庭でお待ちしてね。そのうち、私の里帰りに同行した使用人の一人が、気を利かせてブラウネンに声をかけてくれた。それでブラウネンは、大慌てで城下町に飛び出して行ったよ。そして、奥さんのイリーデと子どもを連れて戻って来た。
私の里帰り以来だから、イリーデとベイジは二年ぶりだったかね。それとも三年か。お互いの結婚や出産を祝福し合って、子ども同士も対面させたよ。イリーデの子どもは、まだ抱っこだったが。
そのうち、ヘミーチカ様もナタナエル様を連れて加わって。
のどかだったねえ。よく晴れた、気持ちのいい日だった」
よ、よかったね、と合いの手を入れたけど、私の声は小さくなってしまった。内心、驚いていたのだ。直前に聞いた、アンディンの弱りっぷりが嘘みたい。落差が大きすぎる。
しかし、アンディンついでに、私はオペイクスを思い出した。
「そういえば、オペイクスは?オペイクスも、ベイジの一家に会ったの?」
「おおっと、そうだった。言い忘れるところだったよ。オペイクス様は、ちょうど外出なさっていて、居合わせなかったんだ。そう、今度こそナクビーと、ロミルチにあるパールさんのお墓参りに出かけたのさ。ジャッカルゴ様への報告が済んだからね。
って、ロンギノ様もジャッカルゴ様の書斎から出て来られたら、あんたと同じ質問をなさったよ。何でも、オペイクス様に証人になってもらうつもりだったと。療養中に、ロミルチ城のオーデイショー様から手紙でお叱りを受けたんだとさ。『わしも必ずや全快してみせるから、そなたも、しっかりせいっ』とか何とか書かれていたって」
「えっ、てことは、オーデイショーも寝込んでいたの?」
「そうなんだよ。ロミルチ周辺でも、人が急に亡くなったりする事態が結構あったそうだ。私も後で知って、びっくりした」
「うーん、やっぱりヨランドラ全体の問題だわ、これは」
「あの頃は、見えない病魔がうろついているみたいな気がして、落ち着かなかったねえ。
しかも、いつまた、そんな事態になるか、分かったもんじゃない。
と、将来の心配は一旦、置いといて」
セピイおばさんは、自分の椅子の位置を直した。
「中庭に入って来られたロンギノ様は、私におっしゃるんだ。『セピイよ。せっかくだから、メレディーンの眺めを見せてくれ。若のお許しも得たでな』と。
そして私たちは外城郭に移った。私がロンギノ様を案内するだけかと思ったら、ベイジ一家も見たいとか言い出して。
後から出て来られたジャッカルゴ様も、ヘミーチカ様たちに合流して『我らも行こう』と、ブラウネンの一家も誘っていた。
つまり三家族以上の者たちが、ぞろぞろと階段を登って、外城壁の上に出たわけさ。
たしか、まずロンギノ様が胸壁から街並みの方を向いて『あいかわらず見事な景色よなあ』とか、おっしゃったんだったか。
それを聞いたベイジの子が、塔の一つを指差して言うんだ。『でも、おじちゃん、あっちの方が高い。僕、あっちに行きたい』って。
ベイジはすぐに、たしなめた。『ちょっと待ってて。ママは、お友達のお姉さんと大事な話があるから。お願いは、その後よ』と」
「大事な話」私は思わず繰り返してしまった。
「そう。
そしたら、ジャッカルゴ様が提案してくださった。ベイジと私が話している間、自分たちが連れて行ってやろう、と。で、ベイジの旦那さんが子どもと一緒について行った。イリーデとブラウネンたちも、ジャッカルゴ様に誘われていたよ。
その塔は、ちょうど外城壁と内城壁のつなぎ目にあってね。外城壁の上の通路から辿って行けるんだ。ちなみに、その塔の中ほどには、ジャッカルゴ様がお父上アンディン様から譲り受けた書斎がある。
五分ほど経ったら、塔の上にジャッカルゴ様とナタナエル様が顔を出した。と言っても、ジャッカルゴ様とヘミーチカ様、イリーデとブラウネン、そしてベイジの旦那さんの、大人が計五人で、さすがに狭かったんだろう。眺めを楽しむのも、交代しながらさ。あんたも、ついでに覚えておくといい。背の高い塔ほど、細くて狭いんだよ。
ベイジの旦那さんが抱っこしてやって、男の子は胸壁の凹みから手を振りながら、母親であるベイジに声をかけた。それに、ベイジも手を振り返して。
ジャッカルゴ様ご夫妻もイリーデ夫婦も気を使って、ベイジの子に長めに交代してあげていたよ。ナタナエル様も居たのに、ね。イリーデの子どもには、ちょっと早かったのかな」
「の、のどかね」と私。
「ああ、そこだけ見れば、贅沢なくらいに平和なんだ。しかし。
残ったベイジとロンギノ様の表情が、いつの間にか固くなっていた。
まず、ロンギノ様から話し始めた。『セピイよ。実は、今回、我々がここを訪れたのは、そなたを説得するためだ』と。つまり、党首であるジャッカルゴ様への報告とか、細々した用事は他にもあったけど、一番の目的は私だ、とおっしゃるのさ。
ベイジも待ちきれないように、ロンギノ様に続いた。『セピイ。これから私たちは、あんたにとんでもない事を要求するから、断ってね。絶対に断ってほしいの』なんて。
ベイジにしては、へんな言い方で不思議に思ったけど。要求の中身を聞かされたら、私も、あっと声が出たよ。他でもない、ビッサビア様が、私を呼んでいたんだ。マーチリンド家に帰る前に、ツッジャム城で私と会いたい、と」
「ええええっ」驚きのあまり、私の口は塞がらなかった。「だ、だめじゃん。ベイジもロンギノも、何を言い出すのかと思えば。ビッサビアだなんて、ダメに決まってるでしょ」
私は、つばを飛ばすまでした。
しかしセピイおばさんは、首を横に振る。
「えっ、おばさん、まさか」
「ああ、断らなかった。ロンギノ様にお答えしたよ。『私からもお願いします』と」
「な、なんで」
「そりゃあ、ビッサビア様に会うのは怖いさ。でも、ソレイトナックに関して、何か分かるかもしれない。ひどい言葉を投げつけられるだろうけど、それでも知りたかったんだよ。あの人のことを。少しでも」
で、でも、と言いかけて、私は、そのまま絶句してしまった。おばさんに何か言ってあげたいけど。おばさんを応援したいけど。何と言ったらいいのか。
「私の返事を聞いて、ベイジもロンギノ様も、しばらく黙っていたねえ。
で、ロンギノ様が、ぼそぼそと会話を再開しなさった。
『正直に言うとだな、セピイよ。俺は、そなたに会って説得を試みた、というふりだけにしようと思っておった。とりあえずツッジャムを出る。しかし、ここには来ない。そなたにも会わない。その上で、ビッサビア様にお答えするつもりだった。そなたを説得したが、断られた、とな』
これに対して私の口からは、すらっと、ごく自然に、反論が出たよ。『でもビッサビア様なら、勘づかれるかもしれません』
『そうだ。だから、ふりではなくて、本当にそなたを説得するしかない、と結論した』とロンギノ様の返しも、なめらかで穏やかだった。
そして今度はベイジだ。
『ロンギノ様はね。あんたに会う前に、私の意見を聞こうと、うちの店に立ち寄ってくださったの。
もちろん私は、あんたをビッサビア様に会わせない方がいい、と思った。それで同行させていただいたのよ。直に会って、あんたと話したかったから。
改めて言うよ。セピイ。今回、あんたはツッジャムに来ない方がいい。ビッサビア様には、もう二度と会うべきじゃないわ』
ってね。
私は、ベイジが真剣に心配してくれている事が分かって、心の中で感謝したよ」
「だったら」私は声を大きくしてしまう。そのくせ、なぜか続かない。
セピイおばさんは私の次の言葉を待ってくれた。そして、それが来ないと気づくと、遅い口調で話を再開した。
「私は、こう答えたんだ。
『ありがとう、ベイジ。でも私は、改めてビッサビア様に会いたいと思う。昔の、つまり私がツッジャム城に上がったばかりの頃のあの人とは、すっかり変わっているんでしょうけど。だからこそ、お会いして確かめたいと思う』
ベイジは私の考えを、しっかり聞いてくれたよ。その上で、喰い下がるんだ。『セピイ。あんた、意地、張ってんじゃないでしょうね?相手から逃げちゃいけない、とか』
私は『そんなんじゃない』と首を振った。『意地を張ろうにも、あの人に対する怖さの方が上回っている。でも、その怖さよりも、知りたい、確かめたいという気持ちが、さらに上回っているの。あの人、ビッサビア様の本当の姿とか、ソレイトナックの状況とか』
私が、そう説明すると、ロンギノ様が念を押した。『収穫は無いかもしれんぞ』と。
私は、それにも首を横に振ったよ。『少なくとも、ビッサビア様の私に対する態度を確認することができます』とね」
「おばさん」私は、たまらなくなって口をはさんだ。
「おばさんには悪いけど、収穫って、その程度なの?私は、そう思うよ。おばさんにとっては、ソレイトナックと再会できる事以外、収穫とは呼べないはずでしょ。それなのに」
セピイおばさんは実際に首を振った、ゆっくりと。話の中だけでなく、私の目の前で。
「たしかに、その程度だよ。それと引き換えにビッサビア様から受けるだろう酷い仕打ちや、ベイジやロンギノ様たちにかける迷惑を考えれば、なるほど、少しも吊り合わない。
でもね。とにもかくにも、つかまないと。つかまないことには、分かりようもないんだ。いいのか、悪いのか。収穫と呼べるほどのものか、それほどでもないか。動かないことには、後悔もできないんじゃないかい?そりゃあ動いてみたら、後悔することもあるさ。でも動かないで、それを後で悔やむなんて・・・
それじゃあ、ソレイトナックに会えるわけがない。
私は、そう思ったんだ」
セピイおばさんは言い切って、私を見つめる。同意を求めてもいない、怒ってもいない、柔らかい表情。
私だって、おばさんを否定したいわけじゃない。ソレイトナックと再会してほしいと思う。
でも。おばさんが、そんな罠みたいなところに自分から飛び込んでいくなんて。いいとは思えない。ベイジやロンギノと同様に、おばさんを止めたいと思う。
ん?待って、私。今こうしてセピイおばさんが話しているってことは、当時、ロンギノたちはセピイおばさんを止められなかったの?ロンギノなんて、騎士で、ヌビ家の幹部で、権限もあるのに。
私が考えをめぐらせていると、セピイおばさんは話を続けた。ある意味、それが、私が抱いた疑問の答えだった。
「ロンギノ様は、私の言い分をじっくり聞いてくださったよ。その上で、頭ごなしに命令したりしないんだ。
『若党首は我々に、一晩泊まっていけ、とおっしゃってくださった。よって我々がツッジャムに帰るのは、明日の午前だ。それまで何度も、よく考えるがよい。そなたの答えは明日、改めて聞こう』
そう言って、ロンギノ様は一旦、話し合いを中断した。軽く手を挙げて、塔の上におられるジャッカルゴ様に合図して。
それでベイジの旦那さんと子ども、イリーデ夫婦と、順番に降りてきて、私たちと合流したよ。ベイジの子が顔を輝かせて、ベイジに駆け寄っていた」
セピイおばさんは、そこまで話して、ため息をついた。
さすがに私も予想できた。セピイおばさんは考え直さなかったんだわ。
そしてセピイおばさんは、その夜の晩餐会に話を移したのだが。その説明は短かった。問題の当事者として事情を知っているおばさんの目には、晩餐会が手放しで盛り上がったようには見えなかったのである。もちろん、誰かが誰かに意地悪を言ったりするわけではないのだけれど。気まずい、微妙な空気だったのだろう。
それを救った、と言うか、和ませてくれたのは、やはり小さな子どもたちだ。年上であるベイジの子が、大人たちの間をちょこまか動き回る。ジャッカルゴの子は、つかまり立ちで、それを追いかけたがって、あうあう声を出す。イリーデの娘も抱っこされながら、目で追う。それでベイジの子は、年下の子どもたちのところに、ちょっと戻って、あやしては、またお出かけの繰り返し。時々お父さんから叱られる事もあったが、ベイジの子は明るさを振りまき続けて、大人たちも微笑ましく思ったようだ。
セピイおばさんの話を聞きながら、まるでビッサビアの存在を忘れたみたい、と私は思わないでもない。でも、言わないでおく。
そう自制していたら、別の影がさすと言うか、事態が発生した。ノコが体調不良をうったえたのである。ノコは、奥方ヘミーチカ付きの女中に事情を話して、女中部屋へ引っ込んだ。ヘミーチカには彼女から伝えてもらう。
女中部屋までは、セピイおばさんとシルヴィアが付き添った、という。二人に支えられながら、ノコは二人に指示を出した。『子どもたちを自分に近づけないように』と。
ロッテンロープも駆けつけたようだが、セピイおばさんの話だと、取り乱すばかりで、役に立ったのか、どうか。
それにしても、さすがに女中頭である。頼りにされていて、しばらくすると、ジャッカルゴとロンギノも、ノコの症状を確認しようと女中部屋を訪れた。
それでノコは、子どもたちに対する気づかいを、彼らにも向けなければならなくなった。私に近づいてはなりませぬ。ヌビ家の党首と幹部に病を移してしまっては申し訳ない。自分だけでなく、ヌビ家と領民たちに迷惑がかかる、と言うのである。
「ロンギノ様が扉越しに励ましておられたよ。『ノコよ、安心して休め。俺も、この通り、持ち直したでな』と。
そしたらノコさんの返しは、こんなだった。『ええ、言われなくとも分かっております。そう、大声を出さんでください』なんて、寝床で顔をしかめて」
「せっかく心配してもらったのに」と私は、ロンギノに同情する。
「まあ、ノコさんとロンギノ様がそんなやり取りをできる間柄ってことさ。まだノコさんに気力があるという証拠でもある。
ノコさんはロンギノ様に言い返した続きで、ジャッカルゴ様にもお願いしたよ。自分をメレディーン城から出して、別の場所で療養させてほしい、と。なんでも、メイプロニー様が幼い頃に学んでおられた女子修道院が、メレディーンの郊外にあるとか。修道女の皆さんには悪いが、そこで看病してもらえば、ジャッカルゴ様たちにも城詰めの者たちにも、病を移さずに済むってわけさ。
それでジャッカルゴ様は早馬を走らせた。使者を務めた兵士は、夜のうちに修道院長の了承をもらって帰って来たよ」
ほほお、と私は感心してしまう。自分の体調が悪くても、そこまで気を回せるなんて。セピイおばさんが後々、女中頭になれたのも、こんなお手本を身近に見られたから、かも。私もこのまま、おばさんから学び続ければ、いつか女中頭になれるかなあ。
などと勝手な夢想をしている間も、セピイおばさんの話は続く。
「女中部屋で、ノコさんの寝床は元々、隅の方だったけど。その夜は、他所から持ってきたカーテンを天井から下げて、仕切りにしていたよ。
食器洗いだ何だ、と仕事が終わったら、私も横になろうと思って、女中部屋を覗いた。ノコさんと同様に、先に寝ている人もいれば、まだ針仕事か何かで戻っていない人もいる。後は篝火のそばとかで、兵士か使用人とおしゃべりしている人ね。女中も人それぞれだよ。
私は覗くだけで、部屋には入らなかった。昼間ロンギノ様たちと上がった外城壁に、もう一度、行ってみたんだ。一応、ロンギノ様から言われた通り、考えてみようと。
でも、考えられなかったよ。このままロンギノ様とベイジ一家だけを帰して、自分は動かないなんて。あの人の、ビッサビア様の本当の姿を確かめないなんて。
何度も言うが、ビッサビア様は怖い。でも、向こうから会いたいと意思表示してきたんだ。この機会を逃したら、二度と確かめられないだろう。そうとしか思えなかった。
とか何とか考えながら、メレディーンの街並みをぼんやり見ていた。ところどころで明かりが揺れていて、綺麗でね。昼間ベイジが興奮したのも無理はない、と思ったよ。
しばらくして城壁の下から、シルヴィアさんの声が聞こえてきた。途中ですれ違う他の女中とか、兵士なんかを適当にあしらっている声だよ。
シルヴィアさんは階段を上がってきて、私の隣りに並びながら、こう言った。
『あんたのお友達、ベイジさん、だっけ。あの人もここに来て、あんたと話したがっていたけど、私が引き止めたわ。ベイジさんにはお子さんがいて、寝かさなきゃならないでしょ。で、代わりに伝言を引き受けたの』
私はシルヴィアさんに尋ねた。『私のツッジャム行きに反対するよう、ベイジに頼まれたんですね』
シルヴィアさんは、うなずいたよ。
私は、もう一つ尋ねた。『シルヴィアさんも、ベイジやロンギノ様みたいに反対ですか』
シルヴィアさんの答えは、こんなだった。『ええ、大反対ね。恋敵と対決なんて、時間の無駄にしかならないわよ。経験者の私が言うんだから、やめときなさい』
シルヴィアさんは微笑んでいたね。その相手がスカーレットさんかヴァイオレットさんか、はたまた全く別の人か、説明は無かったけど。
そのくせ、こう続けるんだ。
『と、普通なら返すところだけど。あんたとしては、行かずにはいられないんでしょ?
なんて言い出したら、依頼主のベイジさんを裏切っちゃうわね。
でも、私も思ったのよねえ。私があんたの立場でも、結局、行かずにはいられないだろうなって』
この言葉に私は、すぐに返事できなかった。気持ちを分かってくれる人がやっと現れた、とありがたい反面、ちょっと怖い想像をしてしまったんだ。
もしもキオッフィーヌ様が、シルヴィアさんのアンディン様に対する気持ちを知った上で、会いたいと伝えてきたら。そして、そんな事情を自分が耳にしたら。なるほど私は、シルヴィアさんをキオッフィーヌ様に会わせたくない、と思うだろう。シルヴィアさんは都に行くべきではない、と反対するだろう。
そう考えると、改めてベイジやロンギノ様の気づかいが身にしみた」
う、うーん、と唸って、私は絶句する。当時のセピイおばさんも絶句したのだろう。
「何も言えない私に、シルヴィアさんは、さらに続けたよ、こんなふうに。
『だから私も、もう、あんたを止めない。ベイジさんには明日、謝るわ。元々、彼女には、あまり期待しないでって断っておいたし。
でもね、セピイ。あんたも期待しちゃダメよ。あんたは、たしかに向こうの奥方様の嫌味に耐えられるでしょう。と言っても、前の奥方様か。
だけど、それに耐え抜いたからと言って、肝心の彼氏に再会できると思う?』
私は首を横に振った。
『その上で行くのなら、覚悟はできているわけね』とシルヴィアさんが重ねて聞いた。
今度は、私も首を縦に振った。
『分かったわ。
となれば、そろそろ寝ましょう。対決に備えて』
シルヴィアさんは私の背中を軽く押して、女中部屋に戻るよう促した。
そして女中部屋に入って、私が毛布をかぶると、もう一つ、シルヴィアさんは言ってくれたよ。『寝つけなくてもいいから。とにかく目をつぶって、横になりなさい』とね」
そう話されると、私も聞かずにはいられなかった。「やっぱり眠れなかった?」
「それがね、よく覚えていないんだ。私も、あれこれ考えていた、と思うんだけど」とセピイおばさんは微笑む。「つまり結局、眠れたんだろう。図太いつもりはないんだが。それとも無神経なのか。恥ずかしい話さ」
「いいのよ、それくらい。むしろ、対決の前に英気を養っておかなきゃ」
私としては少しでもおばさんを応援したい気分だった。
翌朝の話は、こんなだった。
セピイおばさんが支度を済ませて、城門に向かうと、二台の馬車が待っていた。一台は、ツッジャムに帰るベイジ一家を乗せるもの。もう一台は、ノコをメレディーン郊外の女子修道院に連れて行くためのもの。
セピイおばさんは改めて、ベイジとロンギノに宣言した。一緒にツッジャムに戻って、ビッサビアに会う、と。それで二人とも了承した。おそらくシルヴィアから、前の晩の結果を聞いていたのだろう。
出発の前にセピイおばさんは、もう一台の馬車に駆け寄った。ノコの症状を確認しておきたかったのである。
セピイおばさんが声をかけると、ノコは馬車の窓をほんの少しだけ開けて、こんなふうに言ったとか。
『問題のビッサビア様との話が済んだら、おそらく、あんたは里帰りを許されるだろう。ジャノメイ様もロンギノ様もお優しいからね。
ところで、あんたは以前、里帰りの時に家族から引き止められたんだろ。今度も引き止められて、そのまま女中を辞めるんだったら、それでもいいよ。
しかし、もし女中を続けるべく、このメレディーンに戻る気があったら。その時は、私が居る修道院に寄っておくれ。私の体調が良くなっていたら、拾ってほしいんだ。
逆に、私の体調がまだ厳しかったら、若党首様と奥方様への伝言を、あんたに頼まなきゃならない』
これに対し、若き日のセピイおばさんは『必ず修道院に立ち寄ります』と答えた。
そして二台の馬車と、騎乗したロンギノや兵士たちなどが列を成して、城門を出た。
ロンギノも兵士たちも紋章衣を着ていたし、馬車の側面には、ヌビ家の紋章、ヒュドラが一斉に鎌首を上げていた。
セピイおばさんとベイジ母子を乗せた馬車の御者は、ベイジの旦那さんである。今回は紋章衣を借りるまではなかったけど。二人の子どもは、はしゃいで、窓から何度も自分の父親に声をかけたそうだ。
一行はメレディーンの大通りを通過して、街並みを離れた。道は、まばらな林や畑の間に続いている。半時間ほどで女子修道院の石造りの建物が見えてきた。出発したばかりだったはずのセピイおばさんたち一行は、そこで一旦停止する。
ノコだけが馬車から降りた。そして、その馬車の御者を務めていた、メレディーン城の使用人に付き添われながら、修道院の門に向かう。熱っぽいとの事で、その足取りは遅かったらしい。修道女たちは窓から見ていたのか、ノコが門に入る前に出迎えてくれた。
それらの様子を確認してから、ロンギノが手で合図を出した。再出発である。御者が戻ったので、ノコを降ろした馬車も反転して、セピイおばさんたちと逆方向に進み出した。メレディーン城に帰るのである。
ベイジの子は、その馬車にも手を振った。
馬車の中で、ベイジとセピイおばさんの会話は、大して弾まなかった。もちろん、若き日のおばさんが親友の反対を押し切ったからといって、仲違いしたわけじゃない。これから自分たちが立ち向かう事態を予想して、自然と口数が減ったのである。
ベイジは、それこそ子どもをそっちのけで、セピイおばさんに念を押した。『こうなったらセピイも、しっかり気を引き締めてね。相手はミアンカとか、アキーラたちなんかじゃない。なんたって、あのビッサビア様なんだから』と。
これに対して、セピイおばさんは『分かってる』と答えたのだが。
「今にして思えば」とセピイおばさんは補足する。
「本当に分かっていた、とは言い難いねえ。何しろ、ビッサビア様に直にお会いするのは、三年ぶり。いや四年ぶりだったろうか。そりゃポロニュースやオーカーさんから聞いた話で、あの人が私にいい感情を持っていない事は分かっていたよ。でも、あの人から、面と向かって嫌な事を言われたわけじゃない。
だから、つい自分に都合がいい展開を空想してしまったんだよ。
あの人、ビッサビア様が、にこやかに私を迎えてくれる。まるで、モラハルトの事件もポロニュースとのやり取りも、全く無かったかのように。つまり、ツッジャム城で私とあの人が共に生活していた頃と何の変わりも無く、だよ。
しかも、あの人が声をかけると、奥からソレイトナックが出てきたりして。そしたら、私は喜んで彼に駆け寄る。それまで手紙を寄越してくれなかった事なんかを責めたりしない。まずは、彼をしっかりと抱きしめて、彼の存在を実感するんだ。
なんて。我ながら、とんだ甘ちゃんだった」
セピイおばさんは、そこで言葉を途切らせて、窓の方を見た。例によって、物音も人の気配も無い。ただ私から目をそらしただけ。
私も私で、何も言えない。
メレディーンからツッジャムへの道中については、あと少し説明があった。
峠の高台など見晴らしが良い所、空気が澄んでいる所で、セピイおばさんたち一行は、しばしば休憩したのだ。病み上がりで騎乗したロンギノは、まだ疲れやすかったからである。道端の大きめの石や切り株などを椅子代わりにして、ロンギノは頻繁に息を整えた。
見かねたセピイおばさんとベイジが、馬車を譲ろうと何度も申し出たのだが。ロンギノは意地を張って、断った。
小まめな休憩を喜んだのは、ベイジの子だ。その度に、止めた馬車の周囲を走り回って、遊んだそうである。もちろん事情は理解していかなかっただろう。
そんな調子だから、セピイおばさんたちは結局、途中で一泊する事になった。セピイおばさんの記憶によると、比較的、民家が多そうな村だったらしい。
しかも、各人が泊めてもらう家を決めて、入った途端に、雨まで降り出したとか。「あの時は、ロンギノ様を濡らさずに済んで良かった、と心底思ったよ」とセピイおばさんは付け加えた。
若き日のセピイおばさんたちがツッジャムの城下町に入ったのは、その翌日の午前。
「城下町の通りを進んで、だんだんツッジャム城が近づいてくると、私も緊張してきたよ。ビッサビア様に会うなんて言ったのは、間違いだったのかも。そんな後悔が何回、頭をよぎった事か。今さら、だよ。ベイジも感づいたのか『いよいよだからね』と睨みながらも、私の手を握ってくれた。
そして城門をくぐったんだ。
兵士たちやロンギノ様が先に入城して、私たちはその後ろで馬車を降りたのに、オーカーさんが私を見つけて、飛び出してきた。『セピイちゃん、何で来たんだよ!』って。
私は自分の決意を話そうとしたが、オーカーさんはそれも聞かずに、すぐにロンギノ様に喰ってかかるんだ。『何だよ、おっさん。普段は偉そうに人に説教するくせに、セピイちゃんを説得できなかったのかよ』なんて。
途端に、近くに居た他の騎士や兵士たちが二人の間に割って入った。もちろんロンギノ様は目を吊り上げて、お怒りだよ。私もオーカーさんをなだめようと、腕を引っぱりながら必死に喚いた。『違うの。ロンギノ様が悪いんじゃなくて、聞き分けのない私が悪いの』と何回も繰り返したんだけど。
一番効果があったのは、やはり、あの人だった。ビッサビア様。足音もなく、ゆっくり歩いてこられて。微笑んでおられた。で、おっしゃるんだ。『あら、オーカー、何を怒っているの』
オーカーさんもロンギノ様も、ばつの悪い顔をして『何でもありません』と答えるのが、やっとだったよ。
続けて、あの人は私にも微笑みを向けた。『よく来てくれましたね、セピイ。遠路はるばる、ご苦労です』
私は、すぐに返事できなかった。あの人と目が合って、固まってしまったんだ。ベイジが何度も肘で突っついてきても、なかなか動けなかったよ。それでも私は、何とか声を絞り出した。『お久しぶりです』と。つっかえつっかえだったけどね」
セピイおばさんは、そこで一度、ふーっと息をついた。
私は思わず聞いてしまった。「そ、そんなに怖かったの?」
セピイおばさんの答えは、なんとも、へんなものだった。
「ある意味、怖かった、とも言えるし、怖くなかった、とも言える。
ぱっと見は、怖いというより、美しいという感想が真っ先に思い浮かんだよ。肌や髪のつやと言い、瞳の輝きと言い、身につけておられる宝石の類が本当にお飾りにすぎないんだ。もしかしたら、この人は歳を取らないのか、とさえ思ったよ。
ところが、だ。かつてのあの人とは、確実に違うところがあった。あの人の周りの空気。あの人にまとわりつくような、あの人から滲み出ているような空気。薄暗い煙のようにも、影のようにも感じられる。空気に色がついているわけでもないのに、だよ。
かつて、あの人は、こんな空気を出してはいなかった。もっと柔らかい、暖かい空気。あの人が姿を現す度に、そんな空気が周りに広がったんだけどねえ」
セピイおばさんは顔をしかめて、ほんの少しだけ首を横に振った。それほど落胆するような変化だったわけか。
「しかし、愕然としている暇なんか無かった。あの人が、さらに歩み寄って、私の顔に向けて手を伸ばすんだ。『オーカーから話は聞いていましたが、私の予想以上に、すっかり女らしくなったわね。ソレイトナックがあなたを見たら、きっと喜ぶわ』なんて言いながら。
すぐ隣りで、ベイジが『イッ』と声をもらして固まるのが分かった。私もだよ。彼の名前を聞いて、期待が胸にこみ上げてきたんだけど、目の前の手が私に何をするのか、予測がつかない。振り払うか、逃げるか。あるいは、もっと別のかわし方があるのか、冷静に考えられなかった」
ひえええっ。聞いている私も、椅子の上でこわばってしまう。何とか声を押し殺したけど。
「しかし、ありがたい事に、直前で助け舟が入ったよ。ジャノメイ様だ。
『ビッサビア様。中庭で立ち話など、疲れましょう。ロンギノも病から回復したばかりなので、休ませたいと思います。広間か食堂にでも、場所を替えませんか』
このお言葉が、あの人の手を止めてくれた。あの人は伸ばした腕を下ろして、振り向いてジャノメイ様に、こう答えた。
『でも、ジャノメイさん。私の出発の準備ができている事は、あなたもご存じでしょ。安心して。もともと手短かに済ませるつもりだったんだから』
で、また前に向き直って、私をひたと見る。一応、微笑んでおられるけど、私は飛び上がるというか、口から心臓が飛び出しそうな気分になった。
あの人は、私の次の言葉なんか待たずに、おっとりした口調で話し出したよ。
『よく聞いてね、セピイ。あなたに教えてあげられる事が、やっと一つ出てきました。もちろん、ソレイトナックの事です。喜んで。彼は生きています。これも神様のお計らいだわ。神様が、あなたとソレイトナックをしっかりと見ていてくださったのよ』
私は、これを聞いただけで、嬉しくて泣きそうになった。ああ、と声をもらしたけど、後が続かなかったよ。彼がどこにいるのか、いつ会えるのか、とか聞きたい事があり過ぎて、のどにつかえるみたいで。
その間にも、あの人の説明が続いた。
『うちの人、あなたにひどい事をしようとしたモラハルトが、ようやく白状したのです。修道院の懺悔室で院長様から、きつく搾られて。
真実は、こうでした。モラハルトは嘘をついて、ソレイトナックをロミルチに向かわせ、その道中で彼を亡き者にするつもりだった。でも安心なさい。そこで、神様が助けてくださいました。協力者をソレイトナックのもとに遣わして、事前に危機を知らせたのです。ソレイトナックは難を逃れ、モラハルトの邪悪な試みは失敗に終わりました。
おかげでソレイトナックだけでなく、私の情けない夫、モラハルトも救われたのですよ。罪を増やさずに済みましたからね』
あの人がそこで一度、大きく、ため息をついたんで、いかにも自分の夫モラハルトを恥じているように見えたよ」
「か、神様が、協力者を遣わしたぁ?」驚きというか、あまりの理解しづらさに、私の声は裏返った。
「ベイジも同じようにつぶやいていたね。私も同感だったんだが、まだ硬直していて、聞き返す事ができない。
私たちの疑問に、あの人の説明の続きは、ほとんど答えになっていなかった。
『そう、協力者です。ただし誰なのか、よく分からないの。だから、まるで神様から遣わされたように思えるでしょ。
でも、とにかく、この協力者がソレイトナックを守ってくれている。いつか、その人のところから、あなたのところに、ソレイトナックが帰って来るかもしれませんね』
そう言って、あの人、ビッサビア様は改めて私に微笑んだ」
「って、おばさん」私は、たまらず口をはさんだ。「それ、ソレイトナックがどこにいるのか、結局ビッサビアも分かっていなかったって事?」
セピイおばさんは、片方の手のひらをかざして、私を落ち着かせた。
「あんたと話していると、ほんと、あの時のベイジを思い出すよ。動けない私の代わりに、その質問をしてくれようとしたんだ。
でも、私は止めた。直感したんだ。聞いてはダメ。ビッサビア様に教えてもらわなくても、自分で気づかなくてはならない。でないと、この人には勝てない。なぜか、そんな気がして、慌ててベイジを止めたんだ。
この人から目をそらしても、いけない。私に微笑む、この人から目をそらさずに考えなければ。
では一体、ソレイトナックは、どこにいるのか。いるとすれば、その協力者のところだろう。何となく、そう思う。その協力者が自分にとって敵なのか味方なのか分からないけれど、とにかく、そうとしか思えない。協力者とは誰なのか。なぜソレイトナックを助けて、彼と共にいるのか。
そうやって黙って頭を悩ませたら、また直感があった。そうだ、協力者が要点なんだわ。協力者。協力者が誰か分かれば、ソレイトナックの居場所も分かるはず。
そして目の前の、ビッサビアと目が合っている事を改めて思い出して、ハッとした。この人は、ビッサビアは、協力者が誰か、本当は知っているんだわ。知っていて、わざと私に教えない。ビッサビアが知っている人物。いや、もしかして、私も知っている人物なのかも。
ビッサビアも私も知っていて、ソレイトナックを助けそうな人。ソレイトナックの部下だった男たちは、モラハルトについて行ったりして、とっくにいなくなっている。マルフトさんは、すでに亡くなった。
誰か。他に誰か、いるのか。私も知っている、じゃなくて、本当は私が知らない人なのでは。そしてビッサビアは知っている。微笑んでいるのは、そういう意味かも。
いや、違う。この微笑みは、もっと別の意味だ。協力者は、やはり私も知っている誰かで、それにいつ気づくのかしら、と私を笑っているんだ。
そこで、さらに直感が来たよ。私は、とても重要な人を忘れていた事に気がついたんだ。それこそ雷に打たれたような気分だった。
ネマだよ」
えっ?私は、その名前を聞いて、すぐに反応できなかった。
「ああ、やっぱり忘れていたか。もう長いこと、私の話に出てこなかったからねえ。でも、よく思い出しておくれ」
「ええっと、ネマって、たしかソレイトナックの亡くなった奥さんと双子で・・・
あっ」
私は椅子から腰を浮かせてしまった。
「そ、それぞれモラハルトとビッサビアの直属の部下みたいに働いていたけど。実際は、入れ替えた組み合わせで、夜の相手をさせられて」私は、自分の説明で口の中が苦くなった気がした。
「そう。その、ネマだよ」
「も、もしかして、ネマも、ソレイトナックのことを」おばさんの気持ちを考えると、私もそれ以上、言えない。
「奥さんと双子だから、ね。
あの人、ビッサビアの前で、やっと、その事に気づくなんて・・・よりによって、あの人に気づかされるなんて・・・私も情けないよ」
セピイおばさんは、そう言って、うつむいて自分の手を見つめる。私は、何か言ってあげたいと思いながらも、その言葉が思いつかない。
「もう、目の前のビッサビアが気にならなくなった。怖いとか怖くないとか、それどころじゃない。私の目には、並んで立つソレイトナックとネマの姿が浮かんでいた。
『ネマ、なんですね』
私の言葉に、ビッサビアの目が一瞬だけ、ほんの一瞬だけど尖った気がした。
その場も少し騒ついたよ。居合わせた何人かが『ネマって誰』と、つぶやいた。私の後でツッジャム城詰めになった兵士や使用人なんかは、彼女を知らなかったんだ。
ジャノメイ様も同様で、後ろからアン様に尋ねられて、困っていた。
いつの間にか周りに集まっていた女中たちも、ささやいていたね。『そういえば、あの女、もう長いこと見ていないわね』なんて。
ベイジも、また肘で私を突つくんだ。『何でネマが出てくるの』と小声で。
私がベイジにどう説明しようかと迷う間も無く、あの人、ビッサビアが先に口を開いた。
『もう気づくなんて。メレディーンで知恵がついたようね、セピイ。それとも私より、キオッフィーヌ様の教育がいいって事かしら。
とは言え、これは推測に過ぎないのですよ。密偵たちでさえ、二人の行方をつかめていないんですもの。
でも、おそらくネマでしょうね。今のあなたと同様、私も、そう確信しています。
来てくれて、本当に良かったわ、セピイ。ここを去る前に、これだけはあなたに教えてあげなければ、と気を揉んでいたのです』
それから、あの人は私から視線を離して、周りを見回すようにして宣言した。
『これで、心置きなくスボウに帰れます。
ツッジャムの皆さん、今まで、ありがとう。皆さんのおかげで、私、ビッサビアは幸せに過ごせました。
ジャノメイさん。アンを可愛がって、と言う必要は、もうありませんね。たまには叱りなさい。いいですね。
アンも、ジャノメイさんの言いつけをよく聞くこと。
ロンギノ。あなたには、何度も迷惑をかけました。そして、その度に粘り強く動いてくれましたね。感謝しています。どうか今は、しっかり休んで』
最後は、オーカーさんだった。
『では、オーカー、行きますよ。
そして、今のうちから気を引き締めておきなさい。スボウの騎士たちの長は、ロンギノほど優しくありませんからね』
この冗句に、使用人や女中が笑ったよ。ほんの少しだけど」
セピイおばさんは一度、大きく息をついた。
「そうやって言いたいことを言って満足したのか、あの人は中庭を出ていこうと歩き出した。
途端に、私のすぐ隣りからベイジの鋭い声が飛んだよ。『待って!ネマは、どこなの!セピイは、どうやってネマに会えばいいの』と敬語もそっちのけで。呆然としている私の代わりに聞いてくれたんだ。
あの人は、ゆっくり振り向いた。まだ微笑んでいたよ。
『ベイジは友達思いね。そんなに怖い顔をしないで。さっき言ったでしょ。私にも、二人の行方は分からないの。
でも、心配は要らないわ。あの二人が、このツッジャム城を忘れるはずがないんですもの。セピイがメレディーン城に移っている事を、たとえ二人が知らなくても、ここに手紙を送りさえすれば、すぐに送り直してもらえるわ。
そうですよね、ジャノメイさん。そして、ロンギノ。その時は頼みますよ』
あの人は私に背中を向けた。
と、いつの間にか、厩から別の馬車が出てきていて、あの人を待っていた。側面に、頭の大きな、へんな蛇の紋章が掲げられていた。マーチリンド家の主城、スボウに帰るための馬車」
セピイおばさんは、また息をつく。
「実は、この後の事は、途切れ途切れにしか覚えていなくてね。
覚えているのは、こんな事。
ベイジがあの人に追いすがるように、叫ぶように、大声で問い続けた。そこで私は、もう一度ベイジを止めた。当然、ベイジは私に抗議したよ。『何で止めるのっ。何で、あの人を問い詰めないの』と。
私は、もう泣きながらベイジに答えた。『言えない。言えないの。仮にネマの居場所が分かっても。ネマに会えたとしても。彼を、ソレイトナックを返して、なんて彼女には言えない。言うわけにはいかないの』とね」
「何でっ」ベイジだけじゃなく、私まで声を荒げてしまった。「何で、そうなるの。何でネマに言わないの」
セピイおばさんは、ぼんやりとした目で私を見上げる。あ、椅子から立ち上がっていたのか、私。
「プルーデンス。私が話したネマの事情をよく思い出して、考えてごらん。
ネマは、モラハルトの相手をさせられたんだ。同じようにソレイトナックがビッサビアの相手をさせられている事を知りながら、ね。
さらに言えば、ネマは双子の姉のそばで、ソレイトナックを見てきた。モラハルト夫婦に拾われる前から。それこそ私なんかがツッジャム城に上がる、ずっと前から、彼を見てきた。きっと・・・死んだお姉さんと同じ想いで彼を見ていたんだろう。双子だから、ね。
そんな想いを秘めながら、ソレイトナックと共にツッジャム城に居た。ネマが彼に告白した事があったか、どうかは分からないよ。
でも・・・ネマは辛かったろう、と私は思った。自分の気持ちを押し殺して、あいつの、モラハルトの相手を務めるなんて。生きていくため、ソレイトナックのそばに居続けるためとは言え、そうしなければならなかったなんて。
私は、そう思い至ったんだ。そうとしか思えなかった」
「だ、だ、だから、だから言えないって言うの?ネマに言うべきじゃない、ソレイトナックを返してもらうべきじゃないって言うの?」
セピイおばさんは、うなずいた。
「そんな」私は反論しようとした。おばさんに反論することで、おばさんの本心を応援してあげたかった。
なのに、できない。絶句して、言葉が出ない。
セピイおばさんは話し続ける。
「その次に覚えているのは、ツッジャム城の外城壁の上に居た事。中庭に居たはずなのに、いつの間にか、ね。
これは、後でベイジ夫婦から状況を教えてもらったんだけど。
とにかく私は取り乱して、泣き止まなかったらしい。ベイジ夫婦にも、ジャノメイ様とアン様にも随分、心配をかけてしまったよ。
アン様なんか、たしかこの時が初対面だったのに、もらい泣きというか、私と一緒に泣き出して。何かと思ったら、私に謝るんだ。『事情はよく分からないけど、自分の父の従姉妹があなたに意地悪をした事くらいは分かる』と。
私は泣きながら、何度も首を横に振って、アン様に言ったそうだ。『あなた様が謝る事ではありません。あなた様は何も悪くない。私が、あの人の機嫌を損ねただけです』
それでもアン様は納得してくれなくて。私と泣き続けて。
だからジャノメイ様は相当、お困りだったろうよ。そのうち、ツッジャム城の使用人や女中たちが、口々にジャノメイ様に提案したんだ。
『セピイは塔の上が好きだから、そこへ連れて行って、落ち着かせましょう』
『馬鹿っ。万が一、そこからセピイが飛び降りたら、どうするのよ』
とか何とか、みんなで頭を悩ませてくれたらしい。
結論として、私は外城壁に上がったのさ。外城壁なら、まだ低い方だし。誰か、そばについていれば大丈夫だろう、と。
それでジャノメイ様、アン様が自ら、私に付き添ってくださった。そしてベイジ一家も。
ロンギノ様も私を心配してくださったが、ジャノメイ様から休むよう言われていた。
兵士や女中も何人か来て、女中の一人は、ベイジの代わりに子どもの相手をしてくれたよ。ベイジは私にかかりっきりだったから。旦那さんは、私とジャノメイ様の近くでおろおろして、子どもが疎かになって、後でベイジに怒られたんだと。
この時に、特に覚えているのは、アン様のお顔、だね。ビッサビアの親族ということで、自分を無関係とは思わず、私に対して気に病んでくださるんだ。だから私は、アン様に言ってあげたかった。『どうか気になさらないでください』と。実際、何回も言った。でも、アン様は泣き濡れた顔を横に振る。
そしたら私は思わず、こう言っていたよ。別の言葉が出てきたんだ。
『あなた様は、あの方とは違います。あの方とは、全く違う』
私はアン様を見て、思った事をそのまま言ったんだ。
見た目は、なるほど親戚というだけあって、かなり似ておられたよ。でも明らかに違っていた。空気が。アン様の周りの空気。アン様から醸し出される空気。仄暗い煙とか冷たい影とか、微塵にも感じられない。柔らかく、温かみのある空気だった。
かつては、あの人も、私には、そう見えていた。あの人も、そうだったはずなのに。
アン様の気づかいがありがたかった分、私はあの人との決別が悲しかったね」
セピイおばさんは、閉じている窓の方に目をやった。そうだ。その先はツッジャム城だ。
「ジャノメイ様についても、覚えている事があるよ。あの方は、私に、こんなことをおっしゃった。
『セピイよ。アンを責めないでくれる事に感謝する。
しかし、僕のことは恨んでくれ。遠慮なく恨んでほしい。恨んでもいい、どころの話じゃない。君は、このジャノメイ・ヌビを恨むべきなんだ。
なぜか分かるか。正直、僕も兄上も、君に来てほしいと思った。こういう良くない結果になると、ある程度、予想しながら、それでも君がビッサビア様に会ってくれる事を望んでいたんだ。君は、きっと嫌な思いをするだろう。しかし来てほしい。僕たち兄弟は、そう思った。
なぜか。アンには、あまり聞かせたくない話だが、要するに、ビッサビア様に気持ちよく帰っていただくためだ。君に会えば、ビッサビア様は君に八つ当たりすることができる。憂さ晴らしができる。ビッサビア様がマーチリンド家へ滞りなく帰還するために、それを促すために、僕と兄上は君を矢面に立たせた。ヌビ家は君を犠牲にしたんだ』
なんて。
それを聞いて、アン様は私だけじゃなく、夫であるジャノメイ様にも謝ろうとする。『あの人と同じ、マーチリンド家の出身である事が恥ずかしい』と。ジャノメイ様からも『君の生家を悪く言ってしまった』と謝る。
私は、自分ではよく覚えていないんだが。ベイジが言うには、そんなお二人の手を取って、首を横に振ったんだそうだ。
『お二人は何も悪くありません。家柄の問題でもありません。ただ、ただ、私がビッサビア様のご機嫌を損ねて、お怒りを買っただけ。そして遠回しにですが、お小言をいただいた。贅沢な処分です』
とか言ったらしいんだが。
ベイジから後で教えてもらった時は、びっくりしたよ。自分が、そんなふうに落ち着いて、丁寧にお答えできたなんて。『本当はベイジが私の代わりに言ってくれたんじゃないの』と何回も確認したんだけど。『そんなわけない』とベイジは否定するし。
とにかく、お二人に当たるような、ひどい振る舞いをしないで済んだようでね。私は神様に感謝したよ。マルフトさんやパールさんも応援してくれていたんじゃないか、と勝手な想像もしていた」
「ジャ、ジャノメイとアンがおばさんを思いやってくれたのは、ありがたいんだけど」私が、やっと言えたのは、それだけだった。
本当は、ジャノメイの告白通り、彼ら党首兄弟の態度がずるく思えてならない。
でも今は、セピイおばさんに、すっかり吐き出させてあげる方を優先する。
「城壁の上での、ジャノメイ様たちとのやり取り、ベイジ夫婦がしきりに話しかけてくれた事なんかは、ぼんやりと思い出したりもするんだけどねえ。
その後がすっかり抜け落ちて、次に思い出せるのは、何と、この、山の案山子村。この家の寝床だよ。
目が覚めて、この家の天井だと気づいた時、私は一瞬、これまでの何もかもが夢だったのかと勘違いしかけた。ヌビ家の女中になった事、ソレイトナックを好きになった事、そして、そのために、あの人と対決した事も、全て夢まぼろし。寝床で体を起こしたまま、呆然としたけど、私は、すぐに正気に戻った。服が前日のままだったんだ。
私は自分の実家を確認するべく、食卓を覗いた。途端に義姉さんが。つまり、あんたたちのお婆さんの若い頃だよ。義姉さんが飛び出してきて、私を捕まえた。疲れていないか、とか、眠れたか、とか根掘り葉掘り聞いて。
私は『大丈夫です』と答えた。まだ、ぼーっとしていたけどね。
すると、兄さんから。くどいようだけど、あんたたちのお爺さんから、とりあえず座るように促された。
あんたたちのお父さんは、まだ赤ちゃんで、兄さんの脚につかまって立っていたよ。不思議そうに私を見ていたっけ。
あんたは、もう予想がついているかね?要するに、私は実家まで送ってもらっていたのさ。兄さんの話によると、ベイジ一家に馬車で。護衛として、ロンギノ様の部下である兵士も、二人付いて。
兄さんはベイジ夫婦から、私とあの人のやり取りをあらかた聞いたらしい。なぜネマが話題に上がったのか、などの事情はベイジもよく分かっていなかったから、兄さんも理解しようもなかったろうけど。
兄さんは、しばらく私をじっと見て、と言うか、どう話を進めるか考えていたんだろう。その上で、こんなふうに言ったよ。静かな、遅い喋り方だった。
『前の奥方様のお言葉は、ともかく。要するに奴は、ソレイトナックは、もう現れないんだな。奴は、お前を迎えに来ない。俺は、そう認識したぞ。そうなんだな、セピイ』
私は、うなずいた。
そして兄妹二人して数秒、黙りこくった。
やがて兄さんが私に『何か食べるか』と聞いて。私は義姉さんからパンを一切れもらって、小さく千切りながら食べた。
赤ちゃんがよちよち歩きで私のところに来たんで、一口、二口、分けてやったよ」
セピイおばさんの話は、そこで途切れた。
私は何も言えない。本当は口をはさみたい。おばさんに何か言ってあげたい。なのに、なのに言葉が浮かんでこない。
セピイおばさんも、私の言葉を待って黙っているわけではない。話し疲れている。セピイおばさんは、私との間に置いた椅子を少し持ち上げた。ロウソクの光が、離れの中に広がる。
「やれやれ、すっかり長引いたねえ。切りが悪いのは百も承知だが、今夜はこれくらいにしておこう。
ほれ、そんな顔しないで。質問は明日うけたまわろうじゃないか」
「でも、おばさん」私は思わず、抗議の声を上げてしまう。「このままじゃ、気になって眠れないわよ」
「それは、話の続きを聞いても同じだよ。
それより明日に備えなさい。すぐに寝つけなくてもいいんだよ。とにかく寝床で入って、目をつぶること。いいね」
「それ、シルヴィアの真似?」
「そうだよ。
さあ、行った、行った。私だって、あんたにしっかり聞いてもらいたいんだ。そのつもりで休んでおくれ。頼んだよ」
そこまで言われては、引き退るしかない。しなければ、おばさんを困らせるだけで、文字通り悪あがきだ。
私は離れを出た。納得のいかない事ばかりだけれど。