紋章のような

My name is Samataka. I made coats of arms in my own way. Please accept my apologies. I didn't understand heraldry. I made coats of arms in escutcheons.

自作小説「塔の上のセピイ  〜中世キリスト教社会の城女中の話」第十九話(全十九話の予定)

第十九話 区切りの三日月

 

 その後も、私はセピイおばさんに話をせがんだ。もちろん、しつこくではなく、おばさんの顔色をしっかり確認した上で。最低でも五日以上は間を空ける。

 父さんも母さんも、弟も近くに居ない、畑仕事や家の中でセピイおばさんと私だけの時を見計らって、小声で言ってみるのだ。「そういえば最近は、どう。私に話しておく事を思い出したりしない?」とか。

 するとセピイおばさんの返しは、大抵こんな感じだ。「さあねえ。思い出すような、出さないような。つまり大したことないんだろう」

 そこで私は食い下がる。「そんなこと言わないで、聞かせるだけ聞かせてよ。大事なことかもしれないじゃない。大したことないかどうかは、私も判断したいわ」と。

 オペイクスの話を聞く際に、オーカーに腐されたシルヴィアが返した言い回し。あれを応用したのである。おばさんから聞いた話をちゃんと覚えていますよ、という気持ちもこれで伝わる。実際、セピイおばさんは苦笑した。

 でも、私を適当にあしらうだけで、やはり、おばさんの講義は再開しない。私も、食い下がるのは一回だけに留めておいた。しつこさは厳禁なのだ。静かに粘り強く。時間がかかるのは仕方ない。

 冬が終わり、春になってセピイおばさんは帰ってきたのだ。そして今、少しずつ暑い日が増えている。

 近頃は、夜に離れの方を確認することが習慣になった。計五軒の離れのうち、一軒でも明かりが漏れているところはないか。寝る前に、遠目でも様子見するのである。時には、忍び足で近づいてみることもあった。しかし、セピイおばさんのいびきが漏れ聞こえるだけだった。

 

 そんな、ある夜。セピイおばさんは一度だけ講義を再開してくれた。雲が少なくて、三日月が煌々と輝く、セレン人が喜びそうな夜。

 セピイおばさんは五軒の離れのうち、我が家から一番遠い、端っこの離れに居た。その離れの戸の前に椅子を出して、座って月明かりを浴びていた。

 私が近づいていくと、セピイおばさんは言った。「他の離れから椅子を持ってきな」

 私は急いで、その通りにした。

 セピイおばさんは続けて言う。

「負けたよ。この耄碌した頭をしぼって、三つだけ話そう。はじめの二つは、私の情けない失敗談。男に関する事だよ。最後の一つは、あのグローツ王に関する、おっかない話。当然、誰にも聞かれてはならない」

 私は、しっかりうなずいて、小声で「お願いします」と頼んだ。

 

 セピイおばさんの男に関する失敗談。一人めは、メレディーン城の兵士で、名をヒレンクルトという。なんと、セピイおばさんより四つか五つ年下だったとか。何だかなあ、と思っていたら、セピイおばさんは認めた「正直、男に飢えていた」と。ソレイトナックを諦めようと決意した当時、セピイおばさんも辛かったのだ。自分に好意を持ってくれる男がそばに居ない淋しさ。早く誰かをつかまえなければ、という焦り。シルヴィアなど親しい同僚にも話さなかったが、セピイおばさんは内心、苦しんでいた。

 だから、近づいていったのは、セピイおばさんの方から。ノコの葬儀が済んで何ヶ月後か、おばさんも、もう覚えていなかったけど。祭りの時だった事は確かだ、と。

 祭り。ツッジャムの城下町で祭りがあったように、メレディーンの城下町でも、やはり祭りがあった。若き党首、兼城主であるジャッカルゴが、景気づけの意味で企画したのである。

 何しろヨランドラ全体が流行り病という暗い影に覆われていた時期だ。セピイおばさんのお父さん、つまり私たちのひいお爺ちゃんをはじめ、ノコなど、多くの人が亡くなった。

 加えてジャッカルゴの耳には、密偵たちにより、嫌な情報が入っていた。都、アガスプス宮殿で密かに囁かれていた噂。「アンディン・ヌビが移住して来てから、不幸事が増えた」

 おばさんからこの言葉を聞いた瞬間、私も予想がついた。さてはシャンジャビ家とかが陰で言いふらしているんだろう、と。

 当然ジャッカルゴもそれくらいは推測するわけで、すかさず父アンディンに使者を送り、状況を確認した。すると前党首アンディンは、息子ジャッカルゴに自重を促す返事をした。(今は下手に動かない方が良い)ヌビ家を貶めようとするシャンジャビ家などの動きを、グローツ王が黙認している可能性を案じたのである。

 そんな父の忠告を理解したジャッカルゴではあったが。言われっぱなしで何もしないのは面白くない、と思ったのだろう。それで、祭りで景気づけようと考えたわけだ。なるほど、萎れた様子を見せては、シャンジャビ家などを喜ばせるだけだ、と私も思う。

 祭りのそんな事情を、城女中であったセピイおばさんも多少は聞いていたのだが。若き日のおばさんは、それでも相手を探さずにはいられなかった。

 祭りで、メレディーン城の若い兵士たちも交代で城下町に繰り出す。他の兵士たちが町娘に声をかけて上手いこと成功する中、ヒレンクルトだけはなかなか成果を得られなかった。町娘たちから一向に相手にされず、いつしか仲間たちからもあぶれていた。そこへ、若き日のセピイおばさんは近づいて、声をかけたのだ。城詰めの者たちに気づかれないように、仮面で顔を隠した上で。

 一緒に祭り見物を楽しみ、呑み屋に彼を誘って、おしゃべり。話しているうちに、どうやらヒレンクルトには女と寝た経験が無い事が分かった。その事で同僚たちから笑われ、劣等感に苛まれていた。カーキフと同じ悩みである。で、セピイおばさんは言ってしまうのだ。「私が練習台になってあげる」と。

「セピイおばさん。この話、ベイジにはしてないよね」と私が確認すると

「もちろんだよ。私だって、ベイジから絶交されたくない」とセピイおばさんは即答した。視線を、夜空ではなく、すぐ手前の地面に落として。

 ともかく若き日のセピイおばさんは、ヒレンクルトという年下男をつかまえたのだ。はじめは恥ずかしがっていたヒレンクルトも、結局は男である。練習は一度では済まなかった。がっつかないように気をつけてはいたようだけど。

「あえて意地悪な言い方をすれば、私が付き合った男たちの中で一番楽な相手だったね」とセピイおばさんは語る。

 なぜならヒレンクルトが、おばさんから嫌われまいと必死になったからだ。自分の抱き方でセピイおばさんが痛がったりしないか。妊娠したりしないか。ヒレンクルトは何かにつけて、セピイおばさんを気づかったらしい。

「私に対して、あんまり遠慮するもんだから、よく言ってあげたよ。『今日は、あなたがしたいようにしていいよ』って。そしたら、恐る恐る近づいて、私にしがみついてきてね。私に抱きついて、首筋や胸元に顔をうずめるんだ。私の腕の中で、長いこと震えて。かわいい子だった」

「で、いい子いい子してあげた、と」

「そう」

「でも、その分、頼りなかったんじゃない?」

「ああ、自分でも薄々は分かっていたよ。子供扱いは良くない。そんな事している場合じゃない、と。実際、シルヴィアさんが口をはさもうかと思案顔になっていたよ」

 自覚しながらも、だらだらと関係を続けたのは、それだけセピイおばさんも淋しかった、人恋しかった、ということか。淋しさとは、なかなかの毒だな、と私も改めて認識する。

 若き日のセピイおばさんとヒレンクルトの関係は、こうして一年ほど続いた。心配したほど周りから冷やかされずに済んだのは、アズールとスカーレット夫妻のおかげである。ヒレンクルトが騎士アズールの従者を務めていて、事情を知った夫妻が応援してくれたのだ。

 この騎士夫婦は、セピイおばさんたちが城下町で逢い引きできるよう、何かと外出の口実を作ってやった。スカーレットが買い物などにセピイおばさんを誘い、アズールがヒレンクルトに用事を言いつけて出かけさせる、などなど。

 そこまでしてもらったセピイおばさんだが。『私は、あくまでも練習台なんだから。もっと歳の近い娘をつかまえなさい』とヒレンクルトに何回か言ったそうだ。練習を繰り返しながら。

 しかしヒレンクルトは従わなかった。『セピイさんじゃなきゃ嫌だ。セピイさんを他の男に取られたくない』と。

 実際、ヒレンクルトは一度だけ、城下町に住む両親にセピイおばさんを紹介した。が、結果は芳しくなかった。息子より年上のお嫁さん候補を、ヒレンクルトの両親は終始、苦い顔でもてなしたのだから。

 そんな二人の関係に終止符を打ったのは、戦だ。またしても賊が暴れ出したのである。この時は、ヨランドラ南西部、セレニアとの国境付近。前回と違って、王子が三人も出陣するほどでも、幾つもの貴族家から兵を募るほどでもなかった。

 後年、伝わってきた噂によると、宮殿でグローツ王の取り巻きを形成していたレザビ家やシャンジャビ家の者たちは、名乗り出るべきか様子見に終始していたらしい。そんな彼らの煮え切らない態度を叱りもせず、グローツ王は言うのだ。『案ずるには及ばぬ。いずれヌビ殿が駆けつけてくれる』と。

 ヌビ家の党首ジャッカルゴは、グローツ王のそんな計算を知ってか知らずか、計算通りに名乗りを上げた。貴重な活躍の場、ヌビ家を貶めようとする連中を黙らせる絶好の機会だからである。

 そしてヒレンクルトは、この戦に従軍した。上役アズールの従者として。アズールやジャッカルゴとしては、セピイおばさんとの交際を理解した上で、彼に実績を積ませ、手柄を立てさせようと配慮したわけである。ヒレンクルトの方でも『ゆくゆくはセピイさんを養っていくため』と意気込んでいたらしい。

 しかしヒレンクルトは、そのまま戻って来なかった。

「はじめ、私はヒレンクルトが戦死したと聞かされたよ。生還したアズールさんが私に謝ってくれたんだ。

 私は、しばらく泣き暮らしたね。よく塔や城壁に登って、だらだら涙を流していた。

 すると兵士の一人が、私に言い寄ってきたよ。ニーゴリといって、ヒレンクルトと同じく、アズールさんの従者だったんだが。そのくせヒレンクルトをいじめるというか、以前は童貞として馬鹿にしていた。たしか、私と同い年だ。

 城壁の上で、このニーゴリが抱きついてきたんだよ。私は必死で振り解いて、マルフトさんからもらったナイフを突きつけた。

 そしたらニーゴリは悔しまぎれなのか、言うのさ。『ヒレンクルトの野郎は、本当は死んでねえんだぞ。戦地で負傷して、現地の娘に手当てしてもらっているうちに、その娘と、わりない仲になりやがってな』と。しかも、その娘に月のものが来なくなって、娘の両親からヒレンクルトは散々に責められた。そして責任を取る形で、娘の家に婿入りして、現地に残ったとさ。

 ニーゴリはアズールさんから殴り飛ばされて、メレディーン城から追い出されたよ。私にした事もさることながら、ヒレンクルトの事情を秘密にしておこう、というアズールさんたちの方針に逆らったんだからね。そんな調子じゃ、戦闘での大事な機密も漏らしてしまうだろう、と。

 私は、嘘をついていたアズールさんやジャッカルゴ様たちに、改めて感謝したよ。そして思った。嘘の方が良かった、ヒレンクルトが戦死したと思い込んでいた方が良かった、とね」

 

 このセピイおばさんの失恋を見て、奥方ヘミーチカが心配してくれた。それが、もう一つの失敗談につながるのだから、何だか皮肉に思える。

 へミーチカは自分の生家リブリューに、その党首を務める実弟に打診した。城女中セピイに相応しい男はいないか、と。

 リブリュー家党首は騎士の一人を推薦した。イクスカーナインという少々変わった名前の、小貴族出身の青年である。

 奥方へミーチカは早速、このイクスカーナインをメレディーン城に呼び寄せ、若き日のセピイおばさんのためにお見合いの場を設けた。

 イクスカーナインは、そつがない男だったようだ。話し上手で、万事、相手の女を飽きさせない。はじめの印象は、あのオーカーを少し筋肉質にしたような感じだった、とセピイおばさんは言う。歳の頃も、オーカーやアズールと同じくらい。しかも、セピイおばさんが田舎の平民の出である事を正直に告白しても『それに何か問題があるのかな』と、屈託のない笑顔を見せてくれた、とか。

 若き日のセピイおばさんは、たちまち、この男に夢中になった。陽気で、終始、女を楽しませる気づかいができ、しかも騎士である。セピイおばさんが付き合った男たちの中で一番、身分が高い。

 順調に行けば、騎士の奥さんになれるかも。こういう展開を狙って、セピイおばさんは城女中になったと言っても過言ではないのだ。セピイおばさんに倣って城女中に憧れる私としては「ほら、だから私も諦めたくないのよ」と言わずにはいられなかった。

 しかしセピイおばさんは言うのだ。「まあ待ちな。話は最後まで、よく聞いて」と。

 奥方へミーチカからの後押しという強力な好条件に恵まれながらも、全く反対されなかったわけでもない。アズールである。セピイおばさんから見ると、イクスカーナインはオーカーを少し真面目にしたような、と思われたのだが。この見立てを、アズールは顔をしかめて否定した。『全然違う。あいつの方が、よっぽど責任感がある』と。そしてセピイおばさんに忠告するのだ。『あいつは、やめとけ。絶対、断った方がいい』

 とは言え、アズールも反対する根拠を明確に示すことまではできなかった。あくまでも勘。これまでの自分の恋愛遍歴や、オーカーなど男友達を思い出しながら、言うのである。『何となく嫌な予感がする。怪しい』アズール本人も偏見である事は認めていたのだが。

「反対されたら、かえってイクスカーナインに対する期待が強まったりして」と私は突っ込んでみる。

 すると、おばさんの答えは、こうだ。

「たしかに、そういう気持ちもあったね。そもそもヘミーチカ様の生家リブリューが推薦してくれたんだ。あまり悪くは言えないという遠慮、そしてお墨付きを得ているという安心感があった」

 だから若き日のセピイおばさんに、縁談を断ろうという考えは無かった。それでイクスカーナインの方も、ちょくちょくメレディーン城を訪れたのだが。

 ある時、この色男の騎士はセピイおばさんに提案した。『これからは、城下町で落ち合わないか』と。メレディーン城に上がって、セピイおばさんに会おうとすると、必ずアズールに絡まれるので、閉口したのである。

 一応、アズールとしては、遠回しの冷やかしなど、冗談混じりのさりげない絡み方のつもりだったようだが。それでも主君ジャッカルゴやオペイクスたちから必ずたしなめられた。どういう理由にせよ、客人に対して失礼である事には変わりないのだ。

 もちろんアズールも、さすがに党首に逆らうつもりはない。しかし『くれぐれも、あいつには油断なさいますな』と付け加えずにはいられなかったようだ。

 では、どうやって、この他家の騎士とセピイおばさんは城下町で逢い引きするのか。そこは男の方が、ちゃんと手を打っていた。奥方ヘミーチカが生家リブリューから連れてきた女中の一人、テマニーク。彼女に協力をあおいだのである。

 ヒレンクルトの時はアズール夫妻が応援してくれたが、この時は、このテマニークがイクスカーナインとセピイおばさんの手紙を取り次いだわけである。かつ、セピイおばさんが城下町に出るための口実も、テマニークが適当につくる。市場への買い出しだとか、何軒か在る教会堂へのお使いだとか。これならアズール夫妻どころか、他の城詰めの者たち、奥方ヘミーチカにさえも気づかれずに逢い引きすることもできた。

「で、彼に求められて、真っ昼間から一緒に宿屋にしけこんだよ」

 うーん、と私が唸ると、セピイおばさんは続けた。

「そりゃ私も、少しは不安になったさ。体目当てじゃないかって。それで『奥方様に隠し事するのは良くないから』とか、やんわり躱そうとしてみたんだ。

 そしたらイクスカーナインは、いろいろ言ったよ。『もちろん、へミーチカ様やリブリューのご党首様には、いずれ僕たちの事を報告するさ。その順が少し入れ替わるだけじゃないか』とか。『まだ僕を信じてくれないのかい。僕はもう、君以外の女性を探したくないのに』とか。『君には早く自覚をもってほしいんだよ。騎士の妻としての、僕の妻としての自覚を、ね』とも。で、結論として『君が欲しくてたまらない』って言うのさ」

「で、その勢いに流されちゃった、と」

「そう。私は私で、あれこれ心配したよ。彼を拒みすぎたら、彼が他の女に走って、私は騎士の奥さんになり損なうんじゃないか。あるいは、破談になったら、奔走してくださったへミーチカ様に申し訳ない、ってね」

 私はもう一度、唸りそうになったが、呑み込んだ。おばさんを責めても仕方がない。それより聞けることを聞こう。

「それで、そのイクス何とかは、少しは優しくしてくれたの?」

「イクスカーナイン。って、今では、どうでもいい名前だが。

 まあ、優しくなかったのでも、乱暴ってほどでもなかったよ。ただ、騎士らしいと言うか、軍人らしいと言うか。私にのしかかるやり方が、何だか力任せのような気もしてね。ニッジ・リオールほど、しつこくはないんだが。やっぱり受け止める方は疲れたよ。

 事が終わった後も、一応は気づかう言葉をかけてくれたけど。ソレイトナックだったら、もっと気づかってくれるのになあ。いや、騎士の奥さんになるためなんだから、我慢々々。なんて心ん中で、自分に言い聞かせていた」

「何だか、その前の、ヒレンクルトの時と真逆のような気がする」

「真逆は言い過ぎだよ。一応、気づかいはあったんだから」

 一度は、そう言ったセピイおばさんだったが、私と改めて目を合わせると、そらして首を横に振った。

「なんて、かばってやる場合じゃないか。足元を見られて、相手の顔色をうかがっていただけだからね。認めるよ。私が甘かった」

 セピイおばさんの記憶によると、この騎士との逢い引きは、六回か七回くらいという。使った宿屋には、かつてヒレンクルトと一緒に入ったところもあって、そこのおやじが余計なことを言わないか、ヒヤヒヤするような場面もあった、とか。

 そんな中、若き日のセピイおばさんはイクスカーナインに言った。『そろそろ田舎の親族に手紙で、あなたとの交際を報告しようと思う』と。対してイクスカーナインは『そうだね』と答えた。表情も変えずに。

 しかし、その逢い引きを最後に、彼からの手紙は全く来なくなった。

 当然、おばさんはテマニークに何度も尋ねたのだ。イクスカーナインから手紙が届いていないか、何か伝言を預かっていないか、と。そのいずれにも、テマニークは否と答えた。はじめは、いかにも済まなそうな顔で丁寧に。それが回を重ねるごとに次第に雑になって。終いには『同じこと、何回も言わせないで』と来た。それどころか『あなたが彼に、何か嫌な思いでもさせたんじゃないの』と問い返したほど。

 若き日のセピイおばさんは途方に暮れた。

 反対に、奥方のヘミーチカは、セピイおばさんとイクスカーナインの交際が順調に進み、健全に手紙のやり取りをしているものと思い込んでいた。そしてセピイおばさんのために、久しぶりにイクスカーナインをメレディーン城に呼び寄せようかと考えた矢先。リブリュー家の党首を務める弟が、使者を寄越してきた。

 弟からの伝言は、次のような内容だった。『急きょイクスカーナインを、リブリュー家領の小貴族の娘と結婚させることにした。したがって、ヌビ家メレディーン城の女中セピイとの縁談は取り下げる』と。

 この一方的な報告に、ヘミーチカは仰天。生家からの使者を問いただした。しかし、あまり効果は無かった。使者は下っ端の役人だったのか、党首やイクスカーナイン本人から詳しい事情を聞かされていなかったのである。

 続けてヘミーチカは手紙を送って、弟を責めたのだが。リブリュー家党首である弟は居直った。『歴とした貴族の一員であるイクスカーナインの嫁に、田舎の農家の娘など、やはり相応しくない』との主張を繰り返して。

 優しくて生真面目なへミーチカは、この件でセピイおばさんに謝ってくれるのだった。

「奥方様は、まるで自分が悪い事をしたみたいに凹んでおられてね。私は言ったよ。『どうか気になさらないでください。彼に相応しくない私が悪いのです』と。

 それで頭を下げて書斎から退出したら、シルヴィアさんが待ち構えていた。私を物陰に引っぱっていって、言うんだ。『あんた、もしかして、あの男と寝たんじゃないの』と。その一言で、私は泣き出してしまったよ。それで泣きじゃくりながら、これまでの事を洗いざらい話した。

 シルヴィアさんは言ったね。『奥方様に話すべきだ』と。『あんたが話さなければ、私が勝手に話す』とまで言ってくれてね。私は改めて、へミーチカ様に謝罪したよ。内緒で、城下町でイクスカーナインと逢い引きしていた事。それをいつまでも報告しなかった事を」

 セピイおばさんの告白に、へミーチカは叱るべきか迷ったようだ。しかし結局は、セピイおばさんを叱らなかった。シルヴィアがかばって、止めてくれたのである。『セピイは相手の男に嫌われないように必死だったのでしょう』と。

「以上、これが私の、もう一つの失敗談さ。恥ずかしい限りだが、せめて、あんたの教訓にしておくれ。あんたは、私みたいに間違えるんじゃないよ」

「間違い、なのかなあ」私としては、セピイおばさんが自分自身を否定しているようで悲しいのだが。

 おばさんは、すかさず言い切った。「ああ、明らかに間違いだよ」と。そして夜空に向かって並んで座っている私に、しっかりと体を向けた。

「自分を安売りしたり、嫌われるのを恐れて言いなりになったり、するべきじゃないのさ。正直に自分の気持ちを伝えてみて、それで離れていくような男なら、もう追うべきじゃない。その程度の男ってことだよ。

 それと、自分の家族に敬意を払って、尊重してくれないような男は、そういうところの方が本性ってこと。普段はどんなに優しくしてくれても、ね。

 お願いだから、間違えないでおくれよ、プルーデンス。わたしゃ今夜だけでなく、事あるごとに、あんたに言うからね。それこそ、今際の際までだ」

 そこまで念を押されたら、こちらも肝に銘じないわけにはいかない。「分かりました」と答えるしかなかった。

 

「ちなみに、この二つめの失敗には、なかなか厄介なおまけがついたよ」とセピイおばさんは続ける。

 まずは、おばさんとイクスカーナインの連絡を取り次いだ、テマニーク。奥方へミーチカは彼女を、リブリュー家領内にある実家に帰した。セピイおばさんとしては、彼女の態度の変化を恨まないでもなかったが、奥方の処置が厳しすぎるようで心配したらしい。しかしへミーチカは処置を緩めなかった。長年、信頼していたからこそ、期待してメレディーンまで連れてきたのに、裏切られた、と思ったのである。

「後でシルヴィアさんから言われたよ。『案外テマニークは、昔イクスカーナインと付き合っていた事があるんじゃないか』って。『さらに言えば、あんたとあの男の手紙を取り次ぎながら、あの男と寄りを戻したのかもしれない』とね。言われてみれば、テマニークは、やたら気を利かせてくれる人だと思ったよ。ただ単にイクスカーナインのかつての同僚だっただけ、にしては。

 その上で、シルヴィアさんは私に謝るんだ。もっと早く気づいて、私を止めるべきだった、とね。アズールさんとスカーレットさんから『だから言ったじゃないか』って責められたらしい。そもそも迂闊だった私が悪いのに」

 とにかくテマニークは追い出された。しかし奥方へミーチカは、それだけでは収まらなかった。リブリュー家から連れてきた他の女中も、次々に帰したのである。リブリュー家領出身の者たちがそばに居ると、何かと頼ってしまう。それでは、自分はいつまでもヌビ家の人間になりきれない。そう案じてのことだった。

 これに驚いたシルヴィアは、女中頭のカディッケンスだけでも残ってもらうべきだと主張。へミーチカの夫、ジャッカルゴも、妻に心細い思いをさせたくないと、シルヴィアの意見に賛成した。

 これで、ようやく奥方へミーチカの気も済んだと思われた。しかし、一つだけ長引いた。問題のイクスカーナインを問い詰めようともしない、生家の弟。姉弟の間に根強いしこりが残ったのである。

 へミーチカは、途端に里帰りを渋るようになった。それでも夫ジャッカルゴが気づかい、根気よく説得して、ごくたまにでも、妻へミーチカを生家に連れていった。

 しかし、行けば行ったで、義弟であるリブリュー家党首は上辺だけのもてなしに終始する。ジャッカルゴは妻と義弟の間で板挟みになるわけだが、その気まずさに耐え続けた。おかげでへミーチカの里帰りは一度だけじゃなく、回を重ねることができた。

「まったく、申し訳ないことだよ。私のせいで、ご夫妻に、すっかり嫌な思いをさせてしまった。でもお二人は、その事で私を責めないんだ。一度もね」

 セピイおばさんは、そこまで言うと、しばらく夜空の星や月を黙って見つめていた。

 

「では最後に、グローツ王の話で締めるか」

 セピイおばさんは、椅子の上で背筋を伸ばして、話を再開した。

「私がイクスカーナインから捨てられて、奥方ヘミーチカ様と、ご実弟のリブリュー家党首がもめ始めた頃。もう一つ、とても重大な事態が発生したよ。グローツ王のすぐ下の弟君、ラング殿下がお亡くなりになった」

「ええーっ」思わず、私は声を大きくしてしまった。

「まったく急な話だろ。ジャッカルゴ様は急ぎ、アガスプス宮殿に上がって、葬儀に参列しようとした。しかし断られたよ。ヌビ家だけじゃない。シャンジャビ家とか他の弔問も控えさせて、王族のみで葬儀を済ませる予定だ、と。そうすることで経費を抑える。国民に負担を掛けない。それが、心優しいラング殿下の遺言だってことでね。

 それでも、親交のあったジャノメイ様やオーデイショー様のご子息二人は都入りして、離れたところからでも葬列に手を合わせたそうだ。おかげで、党首ジャッカルゴ様の代理が果たされたよ。

 まあ、その時は、それで済んだんだが」

 セピイおばさんは話を中断して、大きなため息をはさんだ。何とも重たげに聞こえる。

「年月が過ぎて、赤ちゃんだったナタナエル様が、ようやく十歳になってからだ。いよいよ、オペイクス様がロミルチ城に転属することになった。

 見送りに、こちらツッジャムからベイジの一家も駆けつけたよ。私らは、イリーデの一家も加わって、昔話に花を咲かせた。

 そして、いつしか話題がジャノメイ様に移った。実は、その前の年に奥方のアン様が病気で亡くなっていてね。伝え聞いたジャノメイ様の様子は、そりゃあ可哀想だったよ。ほとんど気も狂わんばかりに泣きじゃくって、アン様のご両親に縋りついて訴えるんだ。『僕を殺してください。アンを長生きさせてやれなかった僕を殺してください』とね。当時はヨランドラで知らない者は居ないと言われたくらい、有名な話だよ。

 この、あまりの事態に、急きょ兄君のジャッカルゴ様がツッジャムに駆けつけた。弟君ジャノメイ様の横っ面を叩かなきゃならなかったんだ。

 ああ、アン様の葬儀には、私も参列させてもらったよ。

 でね。そうやってジャノメイ様とアン様の話をしているうちに、だ。ジャノメイ様つながりで、ラング殿下に話が及んだ。思い出話をしているベイジの家族とイリーデの家族から少し離れた位置で、ジャッカルゴ様がポツリとつぶやくんだ。『アン殿も、だが、ラング殿下も残念だったな』と。見送られるオペイクス様も『まったくです』とうなずいて。

 私と目が合ったお二人は、私に小声で教えてくださったよ。『ラング殿下は、どうやら実兄であるグローツ王陛下に毒を盛られたらしい』とね」

 今度は私も叫ぶどころか、息を呑んだ。

「ジャッカルゴ様がおっしゃるには、ラング殿下は亡くなる直前に密偵たちを走らせていたんだ。どこへかと言うと、生前親しかったジャノメイ様や、オーデイショー様のご子息二人のところさ。で、密偵たちが届けたラング殿下の手紙に書かれていたらしい。

 らしい、と私が言うのは、手紙を読んだジャノメイ様たちが、すぐに手紙を燃やして残っていないからだよ。分かるだろ。ラング殿下が文末に、そうするよう書き加えておられたんだ。兄で、犯人でもあるグローツ王の目に触れさせないためにね」

 私は絶句して、セピイおばさんの横顔に見入った。

「もちろんジャッカルゴ様は、私に口止めなさったよ。しかし『近い将来に女中頭を務める者として、頭に入れておいてほしい』とおっしゃるんだ。

 その上で、ジャッカルゴ様はご自分で見立てまで話してくださった。ご自分のお祖父様、つまりアンディン様のお舅様。グローツ王より前にヨランドラ国王を務めていた、アダム陛下。そして、あの人、ビッサビアの弟で、かつてのマーチリンド家党首も」

「まさかっ」私は思わず口をはさんだ。

「そう。そのまさかを、ジャッカルゴ様は考えたんだよ。おそらくラング殿下と同じように殺された。グローツ王が密偵たちを放って、毒などを使わせたんだろう、と。

 どちらが先か分からないが、ちょうど国中に病が流行っていたから、周囲の者たちは誤解した。それも、グローツ王の計算のうちだったんだろう、とね。

 さらに言えば、あの頃、急死した都の要人の何人かも、同じ手口でやられたのかもしれない。そう、ジャッカルゴ様もオペイクス様も推測しておられた」

 そこまで話してから、セピイおばさんは、ため息をはさんだ。そして言った。

「だから私は、やっぱり、あんたが城女中になるというのは反対だねえ。城詰めになれば、それだけ貴族に近づく事になる。そして、いつ何時、貴族たちの軋轢に巻き込まれるかもしれない。

 このセピイが親戚であるって事だけでも、もうすでに気をつけるべきなんだよ」

 私は絶句して、返す言葉も無かった。唸る事も、「でも」とか、ぐずぐず口答えする事もできなかった。

 

「というわけで」とセピイおばさんは月明かりの下で、苦笑いを見せた。

「何とか、しぼり出しても、これくらいだね。

 まあ、また思い出したら、あんたに話すよ。後は、もう、そんなにドギツい話は残っていないはずだから、安心しな」

 そして椅子から立ち上がって、私にも部屋に戻るように促した。

 

 実際、セピイおばさんは、その後も私に話を聞かせてくれた。何ヶ月かに一度とか、ごくたまに。しかも手短に、だが。

 ヒレンクルトが出征した戦で、実は熟練の騎士ロンギノが戦死していた事とか。

 妻アンを失って、すっかり意気消沈したジャノメイが、ロミルチ城の従兄弟、オーデイショーの下の息子に頼んで、ツッジャム城の城主になってもらった事も。ジャノメイ自身は騎士の一人として治政に協力したが、普段は郊外に隠居したそうだ。

 そして、かつてのヌビ家党首、アンディンの死。葬儀を取り仕切りために、ジャッカルゴの一家が都に上り、それをセピイおばさんとシルヴィアは見送った。

 その後で、おばさんはシルヴィアに告白したのだ。ノコに言われて、密かにシルヴィアを見張っていた事を。シルヴィアは苦笑した。『さすがノコさんね。オーカー以外には気づかれていないと思っていたのに」

 セピイおばさんは、その時ちょっと失敗したと言う。シルヴィアに尋ねてしまったのだ。アンディンではなく、キオッフィーヌが先に死んでいたら、アンディンに会いに行ったか、と。途端にシルヴィアは、涙をぼろぼろこぼした。『ええ、文字通り、飛んで行くわ。って、もう、できないけどね』シルヴィアは泣きながら、舌を出してみせた。

 

 私は今日も、マルフトさんのお墓の前に座る。そして考える。

 私はセピイおばさんは話を通して、いろんな人を知った気になっている。しかし、向こうは私のことを知らない。ちょっと悔しいような、残念な気もするが、贅沢は言っていられない。私は彼らから教わったのだから。感謝しなくちゃ。

 これから先、私も大人になる。その過程で出会う人々は、話の中の登場人物ではなく、実在する人間だ。その出会いを期待したいような、ちょっと恐いような。

 でも、それを言うと、セピイおばさんに叱られた。

「こら。私に散々恥ずかしい話をさせといて、結論がそれかい?そんなの、認めないからね。しっかりするんだよ」

 そう言って、セピイおばさんは私のお尻を叩いた。

(了)

自作小説「塔の上のセピイ  〜中世キリスト教社会の城女中の話」第十八話(全十九話の予定)

第十八話 お邪魔虫の居場所

 

 次の日、私は畑仕事もそこそこに、マルフトさんのお墓の前で座り込んだ。もう両親や友達から、どう思われたっていい。断固として座り込む。もちろん、セピイおばさんに対しての意思表示だ。

 しかも天気はいい。長話には最適だ。

「やれ、夜まで待てないってわけかい」

 セピイおばさんの声が頭上から降ってきた。私は、うなずく。ちょっと、ふくれっ面になっているかも、と自覚はあるが、直せない。

 セピイおばさんも私の隣りに座って、マルフトさんのお墓に向かって手を合わせた。

「では、いつの間にか、この村に戻っていたところから、話を続けるよ」

「待って、おばさん。その前に質問させて」

「何だい」

「おばさんは二人を、ソレイトナックとネマを恨まないの?もしかして許しているの?」

 セピイおばさんは首を横に振った。

「恨むも許すもないよ。よく考えてごらん。二人の方が、つきあいが長いんだ。それこそツッジャム城で苦楽を共にしていた、と言っていいだろう。私は、そんな二人の間に後から割り込んでしまっただけ。お邪魔虫は私だよ」

「で、でも、だったらソレイトナックは、何でセピイおばさんを口説いたのよ?それじゃあ結局、あのニッジ・リオールと同じじゃない」

 私も言いたくなかったのだが、言わせてもらった。一番気になったところだから。

 セピイおばさんは答えた。

「これは、甘ちゃんの希望的観測なんだけどね。

 彼なりに、私に本気になってくれたんだろうと思うんだよ。私だけじゃなく、彼も本気になってくれた。そして、それをネマは黙って見てくれていたんだろう。

 しかし、そこにモラハルトの陰謀が迫ってきて。気づいたネマは、ソレイトナックに知らせた。羊皮紙の切れ端に書いたのか、どんな手を使ったのかは分からないけど、とにかく彼に知らせて、逃した。そして私に対しても『今は焦らないで』とか、なだめてくれて。

 でも。逃した先でソレイトナックと会っているうちに、自分の想いを抑えられなくなったんじゃないかねえ。おそらくネマは、ずっと、こらえてきた。あのモラハルトの相手をさせられながら、同様にソレイトナックがビッサビアの相手をさせられるのを横目で見ながら。その上、私とソレイトナックが浮かれ舞い上がっている様子にも、ソレイトナックのためと思ったのか、割って入ろうともしないで。

 しかしソレイトナックの潜伏先で、どうしても彼と二人きりになっているうちに、ネマは思い出したんだろう。私やモラハルトやビッサビアと関わる前の、双子のお姉さんを亡くしたばかりの、彼と二人きりだった頃のことを。

 きっとネマは、それまでソレイトナックに告白した事は無かった、と私は思うよ。ネマはそこで、ついに自分の想いをソレイトナックに伝えた。そして彼は彼女を受け入れた」

「だ、だったら何でソレイトナックはネマを受け入れるの。ソレイトナックだって、セピイおばさんと婚約中だった事は忘れていなかったはずよ。も、もしかしてネマに同情したから?モラハルトの陰謀から助けてもらったから?」

「かもしれないね」セピイおばさんは微笑んで答えた。

「あんたの言う通り、ソレイトナックも本当は私のことを好いていて、婚約した事も覚えていたけど、ネマに押し切られてしまっただけ。私が自分本位に希望的観測をすれば、そう解釈したくもなるよ。 

 でも、もういいじゃないか。彼は生きのびて、そこで彼なりの決断をした。その流れで私とはもう会わないという結論に達したのなら、その彼の決断を尊重しよう。私は、そう思った」

「彼が好きだから?」

「そう」

「だからって、セピイおばさんが我慢させられるなんて。譲ってやらなきゃならないなんて。そんな」

「譲るとかじゃないよ。私が元々、お邪魔虫だったの」

 セピイおばさんの微笑みは変わらなかった。

 

 私が納得できていないまま、セピイおばさんの話は再開された。

 若き日のお爺ちゃん、つまり、おばさんのお兄さんはベイジ夫婦から事情を聞いただけでなく、伝言も預かっていた。ツッジャム城の若き城主で、セピイおばさんと同い年らしい、ジャノメイからの伝言である。『しばらくしてベイジの夫たちを迎えに寄越す。それまで実家で休養するといい』

 この場面で、私はセピイおばさんから釘を刺された。

「絶対に勘違いするんじゃないよ。こんなふうに気づかって、里帰りまで手配していただけるなんて、ほとんど、この方たちだけだからね。ジャノメイ様やジャッカルゴ様たちだけ。他の貴族家だったら、まず無いよ」

 そして他家の例として、ビナシスを挙げた。この頃、ロンギノとオペイクスがすれ違いになったように、オペイクスはパールの墓参りに出かけていた。行き先は、もちろんロミルチ城郊外の墓地と、もう一つ、ナクビー。こちらは、オペイクスの話にあったように、ビナシス家の領地に組み込まれている。

 後日、帰還したオペイクスは、セピイおばさんや主君ジャッカルゴたちにナクビーの様子を語ったのだが。

 オペイクスは訪問にあたって、事前にメレディーンの城下町で薬や薬草の類を買い集めた。自分の所持金をはたいて、仕入れたのである。ナクビーの仲間たちに配るために。

 しかし、実際に現地に着いたら、すぐに配るかというと、彼は配らなかった。配りたいのは山々だが、すぐにはしない。オペイクスはビナシス家のコモドーン城に出向いて、先に断りを入れようと考えたのである。

 セピイおばさんは、その部分を私に語りながら、またも付け加える。「そういう発想、注意力をあんたも持ちなさい」と。

 そうしてオペイクスは、コモドーン城の門を叩いた。門番や兵士たちから彼の訪問を聞いて、出てきたのは、前の主君であるビナシス本人である。

 実はビナシス家も代替りが進んで、この時の党首は、もう息子が務めていたのだが。父ビナシスの方は隠居して、悠々自適の生活をしていた。にもかかわらずオペイクスの名を聞くや、自分が応対すると言い張ったらしい。

 オペイクスは、かつての主君に挨拶し、自分の計画、ナクビーで薬類を配布する事の許可を求めた。

 すると、ビナシスの反応は、こうだ。

『それは、ご苦労だったな。

 だが案ずるには及ばぬ。そなたが持ってきた薬は当家が預かろう。ヌビ家の人間となった、そなたの手を煩わす事もない。当家の役人たちに命じて、ナクビーで配っておく。ヌビ殿にも、そのように説明しておけ。

 そなたは遠慮なく、次の目的地に行くがよい』

 ここで、セピイおばさんからの問題である。「プルーデンス。あんた、このビナシスの言葉を信じるかい?」

「信じるわけないじゃない」と私は即答した。おばさんからの出題にしては、簡単すぎる。

「まあ、そうだよね。

 だからオペイクス様も、事前に手を打っておいた。持参した薬類の三分の二ほどを、自分が泊まる宿に残して、三分の一だけを差し出したのさ」

「う、うーん。その三分の一も惜しい気がするけど」

「仕方ないよ。三分の二を守るためさ。通行税みたいなもんだよ」

 セピイおばさんがそういう表現をするということは、当時ジャッカルゴたちも同じような解釈をした、ということだろうか。

 ともかくオペイクスは、自分の計画を実現した。彼とナクビーの人々の関係を思えば、そこは私も喜ばしいけれど。

 三分の一ほどの薬類を受け取って、ビナシスは相変わらずの言い草だった。『なんだ、たったのこれだけか』と、のたまわったのである。

 しかも予想通り、ナクビーの人々に、その三分の一が配られる事は無かった。後にオペイクス自身がナクビーを再訪し、ヌビ家の密偵たちも散々走り回って確認した結果である。

「徹底したもんね」と私も思わず皮肉を言ってしまう。ほんとはセピイおばさんに聞かせるのじゃなく、ビナシス本人にぶつけてやりたいのに。

 対してセピイおばさんは言う。

「腹が立つのは、私も同じさ。

 でも繰り返しになるが、よおく覚えといておくれ。貴族というものは、このビナシスみたいな奴らがほとんどなんだよ。

 ビナシスだったら、私の里帰りを禁じこそすれ、他の何の世話もしてくれなかったろう。馬車の手配なんて、どれほど贅沢なことか」

 というわけで、セピイおばさんを迎えに来たのは、この村に戻った時と同じ。ベイジの旦那さんが御者を務める馬車と護衛の兵士たちである。

 セピイおばさんが言うには、この村での休養は五日ほどだった、とか。

 メレディーン城を出る前、ノコは、セピイおばさんが親族から引き止められるのでは、と予想していたけど。おばさんのお兄ちゃん、若き日のお爺ちゃんは、もう引き止めたりはしなかった。逆に若き日のお婆ちゃんが、お爺ちゃんの袖を何度か引っぱって促しても、お爺ちゃんは黙って、首を横に振るだけ。

 それでお婆ちゃんは、馬車に乗り込んだセピイおばさんに言った。『いつでも戻ってきてね』と。お爺ちゃんの代わりに言ってくれたのだ。

 セピイおばさんは答えた。『ありがとう。でも、行きます』と。城女中を続けます、と答えたのだ。

 

 この村を出た馬車は、一旦、ツッジャム城に立ち寄った。城主ジャノメイがセピイおばさんに書簡を託したかったからである。おばさんがメレディーンに戻るついでに、自分の兄であり、党首であるジャッカルゴ宛ての書簡を届けてもらう。里帰りを手配してもらったセピイおばさんとしては、お安い御用だった。「恩返しを兼ねて、しっかりお届けしようと思ったよ」と、セピイおばさんは言う。

 ビッサビアが去ったツッジャム城では、ジャノメイの妻、アン・ダッピアをはじめ、皆が傷心のおばさんを気づかってくれた。ネマなどの細かい事情は分からなくても、である。

 その会話の、どういう流れだろうか。セピイおばさんは、また新たな情報を得たというか、知らされた。オーカーの出奔。ビッサビアに付き従って、ヌビ家からマーチリンド家に移ったはずのオーカーが、さらに、そのマーチリンド家を出て行ったのである。おばさんがこの村で休養していた、わずか五日間中の出来事。

「もともとアン様と生家マーチリンドの間を、定期的に伝令が行き来していてね。その伝令が予定より早く現れて、アン様とジャノメイ様に報告したのさ。

 で、こういう場合、普通ならマーチリンド家からヌビ家に苦情が来ても、おかしくないんだよ。(そちらが寄越した騎士が、何の貢献もせずに勝手に出て行ったぞ。この埋め合わせをどうしてくれる)とかね。

 しかし、その伝令は単に報告しただけ。アン様のお父様をはじめ、マーチリンド家の幹部たちから多少の嫌味を言付かっているかと思われたが、そんなのは一切無し。

 そのわけを、ツッジャム城の人たちは、こんなふうに噂していたよ。『表向きは騎士という立場でも、オーカーさんはビッサビア様の愛人にすぎない。マーチリンド家にとっては、やはり好ましくない存在だったのでは』『醜聞が広がる前に当事者が居なくなってよかった、ぐらいにしかマーチリンド家も思っていないのだろう』とか。もちろん小声でね」

「おばさん」私は、ここで、ふと口をはさみたくなった。

「たしかオーカーは、自分はビッサビアに連れて行ってもらえないだろう、と予想していなかったっけ。せっかく、いい意味で予想が外れたのに、結局、その予想に合わせるみたいに、自分から出て行くなんて。オーカーは意地を張ったのかしら」

「うーん、意地とは、ちょっと違うねえ。

 実は、マーチリンド家の伝令は、オーカーさんから私宛ての手紙も届けていたんだ。と言っても、その伝令もどうやらオーカーさんを快く思っていなかったらしくてね。その辺を自覚していたオーカーさんは、一計を案じた。まず、アン様とジャノメイ様宛てに、自分の出奔を謝罪する手紙を書く。それとは別に私宛ての手紙も書いて、アン様たち宛ての手紙の中に紛れさせる。するとアン様たちは、自分たち宛ての手紙を開いた際に、私宛てのものを見つけるだろう。後は、アン様たちから私に、その手紙が手渡されるって段取りさ。

 ただし、このやり方だと、私宛ての手紙をアン様とジャノメイ様に読まれる危険性がある。そこは分かるね。

 オーカーさんも、その危険を半ば覚悟して、半ばアン様たちを信頼した上で実行したよ。と言うのも、私宛ての手紙には、あの人、ビッサビアに対する批判も含まれていたんだ。

 手紙の中で、オーカーさんが言うには・・・あの人、ビッサビアは私の事を笑っていたそうだ。ツッジャム城からスボウ城に向かう道中、それこそ声と表情に出して、私を笑っていたとさ。

 そして、その姿にすっかり幻滅して、オーカーさんは出奔を決意した。結構きつい書き方をしていたよ。『所詮、あのパウアハルトのおっかさんか、と思い知らされた』とかね。

 もちろんアン様たち宛ての謝罪文には、オーカーさんも、そこまで書いてないよ。同族のアン様に気をつかって、ビッサビアの事には触れず、あくまで一身上の都合とか、ぼかしてあったようだ。

 と言うのも、私が手紙を読み終えると、ジャノメイ様から尋ねられたんでね。『そちらの手紙には、オーカーが出奔した理由や行き先を書いていないか』って」

「てことは、ジャノメイもアンも、おばさん宛ての手紙を事前に覗いたりしなかったんだわ」

「そう。お二人とも真面目なんだ。

 何度も言うけど、他の並の貴族だったら、手紙を覗かれて当たり前だよ。私に手渡してもくれなかっただろう」

「で、おばさんも、アンには言わなかった」

「ああ。まだお会いして日も浅い私に味方してくださるアン様に、わざわざ嫌な思いをさせるなんて、私も楽しくないし、恥ずかしいくらいだからね。それに、手紙を書いたオーカーさんだって、私がそこまで話さない事を期待していたはずだよ」

「私も、そう思う。手紙の内容を分けていたくらいだもの」

「分かってくれて、ありがとうよ、プルーデンス。

 でもね。オーカーさんだって、なにも、愚痴混じりに動機だけを伝えたかったわけじゃないんだ。その後に、ちゃんと本題が書かれてあった。

『セピイちゃん。俺を振ってもいいから、最後に一つだけ言わせてくれ。ソレイトナックなんか、早く忘れろ。そして、もっといい奴をつかまえろ』

 と」

「それを伝えたいがために、オーカーは二通も手紙をこしらえたのか。アンとジャノメイにも読まれる事も多少、覚悟しながら」と私。

「それでも書かずにはいられなかった。私に伝えようとしてくれた。そう思うと、やっぱり、ありがたかったよ。

 そして、そんなオーカーさんが去っていくのは残念だった」

 セピイおばさんは、ため息混じりに視線を遠くに飛ばした。マルフトさんの墓石を通り越して、林や、さらにその向こう。

 私も内心、オーカーをちょっと見直している。

 そんなオーカーに対する、ツッジャム城の者たちの反応は様々だった。

 セピイおばさんによると、まず分かりやすかったのは、ロンギノである。オーカーの行動を勝手な振る舞いと怒りながらも、彼の騎士としての技量を惜しんだのだ。『あ奴のことだ。二、三年もすれば、ひょっこりメレディーンに顔を出すかもしれん。その時は、セピイ、こらえて、若党首に取り次いでやってくれ』などと、おばさんに頼んで。

 若き日のセピイおばさんは快諾したものの、ロンギノに指摘する事は控えておいた。オーカーは、むしろ現れない。シルヴィアから彼の人となりを聞いていたセピイおばさんは、そう推測した。そして、それをロンギノに言っても、状況は変わらないのだ。

 その他の、兵士や使用人、女中たちも、それぞれ自分たちの説を展開した。(ヌビ家、マーチリンド家と続いて、オーカーは、さらに他家の門を叩く)あるいは(国境をまたいで、他国で仕官する)(いや、それでは、このヨランドラに弓を引く事になるぞ。さすがに、それはないんじゃないか)などなど。

 終いには、もっと大げさな説が飛び出した。なんと、オーカーは船に乗って、ヨーロッパに渡ったのでは、というのである。しかも、この説が後日、メレディーン城でも囁かれるようになった。もちろん、誰が確かめたわけでもない。

 そうなると、私としては、やはりシルヴィアの反応が気になるところだが。

「そりゃ、笑っていたよ。『それはそれで、あいつらしいわね』とか言って」

「でも、なんか、もったいないような」

「シルヴィアさんとオーカーさんかい?私もよく、そんなふうに思ったよ。

 それで、私がオーカーさんからもらった手紙を、シルヴィアさんにも見せようか、とまで考えた。こんな気づかいができる人だと、言ってあげたくて。

 でも、やめておいたね。出過ぎた真似だし。こちらもロンギノ様の時と似たようなもんで、結果は変わらないよ」

 セピイおばさんの視線は、遠くに飛んだままだった。

 

「オーカーさんの話をしているうちに、また先走ってしまったね。自分の話に戻そう。

 ジャノメイ様たちから話を聞き終わると、私は改めてメレディーンに向けて出発したよ。ジャッカルゴ様が配下の役人に命じて、迎えの馬車をツッジャムまで寄越してくれていたんだ。

 だからベイジ一家とも、ツッジャム城でお別れさ。ベイジの旦那さんばかり働かせては悪かろうと、ジャッカルゴ様とジャノメイ様が伝令たちを行き来させて、話し合った結果だったよ。

 私は馬車の中で、ジャノメイ様から託された書簡を膝の上に乗せて、次の目的地を目指した」

「ノコを引き取ってもらった修道院ね」と私。

「そう。メレディーンの城下に入る手前。

 行きと違って、今度は馬車の中で私一人だろ。どうしてもソレイトナックやネマの事が頭に浮かんで、悲しくなったよ。

 でも、もう泣いてばかりもいられない。それまでツッジャム城や、この実家で散々泣いたんだし。

 しかも、預かった書簡や、ノコさんとの合流とか、次のお役目が待っていた。やる事があるだけ、私は恵まれていたよ」

 セピイおばさんを乗せた帰りの馬車は、行きよりも速かった。ロンギノの休憩を考えなくていい分、先に進めるし、セピイおばさん自身が御者やお迎えの役人に「飛ばしてください」と頼んだからだ。

「早く戻りたかった」と当時を思い出して、セピイおばさんは言う。ノコを拾って、メレディーン城に帰還し、仕事に没頭する。普段の生活に戻る。そうすることで、少しでもソレイトナックの事を忘れたかったのである。

修道院に着いたのは、夕暮れ時だったね。そこまで来れば、メレディーン城へは、あと少しだ。

 私とお役人は、修道女に案内されて、ノコさんの病室を訪ねたよ。

 私が『お加減は』と聞くと、ノコさんの答えは、こんなだった。『予想したよりも悪いね。あんたが来る頃には持ち直している、と思っていたんだが。仕方ないから、あんただけ先に戻りな。奥方様には、もう二、三日お休みをいただきたい、と頼んでおいてくれ』

 私は承知して、そこを後にしたけど、心配だったねえ。何だかノコさんが、会話をするのも億劫なくらいに疲労しているように見えて。

 メレディーン城に着いたら、ジャッカルゴ様に書簡を渡すだけじゃなく、その辺りを報告したよ。もちろん、あの人が大人しくマーチリンド家に引き上げた事もね」

 セピイおばさんは、もうビッサビアという名前を口にしなかった。昨夜から少しずつ敬語が減っている事には気づいていたけど。ついに、あの人だ。それでいい、と私も思う。つながりを絶ったのは向こうなのだから。

 セピイおばさんは話を続ける。

「さてジャッカルゴ様の次は、ヘミーチカ様だよ。私は書斎を出たら、ヘミーチカ様のところに飛んでいって、ノコさんの状況報告と休暇延長のお願いをした。もちろん、ヘミーチカ様はノコさんを心配して、了承してくださった。『明日、私も見舞いに行ってみましょう』とまで言い出して。

 それで安心した私は早速、洗い物とかに加わろうとしたんだけど。ヘミーチカ様は『帰って来たばかりなんだから、少し休んだら』なんて気づかってくださる」

「でも、おばさんとしては、早く手仕事に没頭したかった」

「そう。それで遠慮する私とヘミーチカ様で、へんな押し問答になった。

 でも、長引いたりしなかったよ。すかさず、シルヴィアさんが提案してくれたんだ。『セピイには私と組んでもらって、休み休み働いてもらいましょう』とね。

 おかげでヘミーチカ様が、やっと折れてくださった。『無理しないで、区切りがついたら、すぐに休むのよ』なんて最後までお優しいんだ。

 それで私は一瞬、思ったよ。ああ、あの人も昔は、こんなふうに私に接してくれていたのにな、と」

「うーん。セピイおばさんは、もうソレイトナックだけじゃなく、ビッサビアも忘れた方がいいわね」と私。言った後で、生意気だったかも、と後悔がわいてくる。

 セピイおばさんは、しかし、笑ってくれた。ちらと睨む事さえしなかった。

「全くだね。あんたに参考にしてもらえるように話し終えたら、思い出す必要も無い。今後は、そうしよう」

 とは言え、彼らについては、あともう少し言及しなければならなかった。若き日のセピイおばさんとシルヴィア。手仕事をしながら、やはり彼らに触れないわけにはいかない。聞かれる前に、セピイおばさんの方から話し出したそうだ。

修道院に着いたのが夕方で、ヘミーチカ様たちと話がついた時には、もう夜さ。

 私とシルヴィアさんは、しばらく炊事場で食材を切り分けたり、食器を洗ったりしたよ。晩餐と片づけが進むと、他の女中たちがその場を離れて、二人だけになる時間も増えた。

 私はシルヴィアさんに、小声で報告したよ。『負け惜しみのように聞こえるかもしれませんが、私たちの対決に勝者は居ませんでした。私は勝者になれなかった。でも、あの人も勝者ではない』

 こんな言い方だから、当然シルヴィアさんは首をかしげた。で、私はネマの説明もしたよ。ネマがメレディーン城に来た事は無かったのか、シルヴィアさんも彼女を知らなかった。

 私の説明を聞いて、おそらくシルヴィアさんも、モラハルトやあの人のやり方に呆れていただろうけど。シルヴィアさんは、長々と感想を述べたりはしなかった。代わりに、こんなふうに言うんだ。

『情報という収穫は有ったわけね』

 それで私も答えた。『ええ。少なくとも、彼が生きている事は分かりました』

 シルヴィアさんは続けて言ったよ。『私ったら、言い過ぎたわ。時間の無駄だなんて』

 もちろん、私はシルヴィアさんを責めなかった。そんなの、見苦しい八つ当たりに過ぎない。『気にしないでください』と返しておいた」

 うーん、と私は小さくうなる。私だって、おばさんの努力を時間の無駄とか言いたくない。けど、それに見合った収穫とは言いがたいと思う。

「で、シルヴィアさんは質問もしてきたよ。『そのネマって人に譲って、セピイは彼のことを忘れられそう?』と。

 私は、もう正直に答えるしかないと思った。『自信は無いです。だから仕事に専念して、なるべく思い出さないように心がけます』

 すると、シルヴィアさんは、こう言って微笑んでくれたよ。『よっし、じゃあ仕事をどしどし振るから、覚悟しといてね』って」

 ふふっ。これには私も微笑むことができた。きっと、マルフトさんだって微笑んでくれているはず。

 それからシルヴィアは、気を使ったのか、話題を変えた。オペイクスがセピイおばさんより一日早く帰還していたのである。ビナシスの横柄な振るまいは、こうしてメレディーン城の人たちに知れ渡ることとなった。

 その夜のセピイおばさんとシルヴィアの会話は、それで済んだ。つまり、シルヴィアへの報告は、そこまで。オーカーがセピイおばさんを心配して書いた手紙の件は、出さずじまいである。

 

 それから、セピイおばさんの話の軸は、病床のノコに移った。

 奥方ヘミーチカは有言実行で、翌日ノコを見舞ったのである。リブリュー家から連れてきた女中たちのうち二人ほど、お供にして。

 修道院に入ってきたヘミーチカたちを見て、ノコは、自分に近づかないよう頼んだ。何歩か間をあけて声も大きめにして話そう、と言うのである。それくらい、ノコは自分の病気が主人たちに移ることを恐れたわけだ。女中頭としての責任感か。自分も女中になった時のために覚えておこう。

 わざわざ来てくれた奥方様に、ノコは恐縮して詫びた。その際に床から体を起こそうとしたのだが、ヘミーチカは止めた。そのまま話すように、と。そして『あなたが戻ってくる日を、待っていますからね』と励ました。

 しかしノコの返事は。

『ありがたいお言葉ですが、おそらく私は戻れないでしょう。いえ、奥方様、どうかお聞きください。自分の体は、自分が一番分かっているつもりです。私は半ば、いえ七割がた厳しいと見ております。

 とは言え、私も、せっかくおいでくださった奥方様に泣き言をお聞かせしたり、同情を買いたいわけではないのです。もう、そんな場合ではありません。私の後のことを考えておきませんと』

 そしてノコは言った。自分の死後、女中頭の代理としてシルヴィアに任せつつ、リブリュー家から来た女中の一人、カディッケンスを補佐役で付けること。ヘミーチカが連れてきた二人のうちの年上の方で、ノコやロッテンロープほどの歳ではないが、中年の女中である。

 ちなみに年下の方、当時のセピイおばさんと、ヘミーチカやシルヴィア世代の中間くらいだった、若い女中がテマニーク。どちらも小貴族出身なのか、変わった名前である。

 カディッケンス本人は急に自分が取り沙汰されて驚いたが、ノコは『ぜひともお願いしたい』と引かなかった。カディッケンスが『自分は他家から来た立場だから』と不安を口にしても、ノコは『大丈夫』と請け合った。

『カディッケさんも、テマニークも、こちらの者たちと充分打ち解けてくれました。誰も、カディッケさんに反発したりしませんよ。

 シルヴィアには、何事もカディッケさんに相談するように奥方様から言って、いや、シルヴィアなら言われなくても、あなたの意見を聞くでしょう。

 そうやって、しばらくシルヴィアと一緒に、城の家事を切り盛りしてくださいな。

 その後は、奥方様が頃合いを見計らって、シルヴィアと交代させて、正式にカディッケさんを女中頭に据えてください。なあに、一年もすれば充分でしょう。時期の判断は、奥方様にお任せします。シルヴィアが異議をはさむ事は、まず、ありません。

 そして、いつかカディッケさんとテマニークが、それぞれリブリュー家領のご実家に帰る時が来たら、その時はシルヴィアを今度こそ本当に女中頭にしてください。その頃には、あの人も、役職にふさわしい年齢になっているでしょう』

 これに対し、奥方ヘミーチカもカディッケンスも、一つ質問した。シルヴィアの仕事ぶりなどは信頼しているが、その前に女中頭として頼るべき人物がいるのではないか。ロッテンロープ。女中たちの中では、彼女が最年長だったのである。

 ノコは首を横に振った。

『あの人は老いました。私も、です。本当は、前のご党首様が引退なさった時に、私どもはお暇をいただくべきでした。しかもロッタの場合は、息子さん夫婦が一緒に暮らそうと言ってくれているのに。お嫁さんに遠慮してか、死ぬまで女中を続けるなんて言い出して。

 でも私が居なくなったら、あの人も、さすがに引退した方がいいでしょう。

 いいえ、奥方様、今のうちに備えておかなければならないのです。明日にでもロッタを、ここに寄越してください。もう息子さん夫婦のところへ行くよう、私から説得します。

 ああ、こんなことなら、セピイが来た時に言付けておけばよかった。後で気がついて、奥方様を煩わせるなんて。やはり私も耄碌しました』

 そんなこと言わないで、とヘミーチカたちはノコを元気づけようとしたのだが。ノコは考えを変えなかった。

 それどころか付け加えた。シルヴィアの、さらにその後。セピイおばさんの登場だ。

『おそらくシルヴィアは、ある程度、歳をとったら引退するでしょう。修道院で下働きがどうの、とか言っていたそうで。彼女の後は、セピイを据えてください。

 奥方様もご党首様からお聞きでしょうが、あれは、なかなか危なっかしい娘です。しかし、あの娘の経験も、ヌビ家にとっては貴重な教訓と言いましょうか、資料と言いましょうか。いつか役に立つでしょう。ナタナエル様に妹君や従姉妹ができたり、さらにはナタナエル様が娘親になられた時は、特に。いや、それ以前に、若い女中が新しく加わる時などは、セピイがよく気を配ってくれるはずです。奥方様からも、そのように言い含めてくださいまし。本人も励みますから』

 これが、ノコの考えた備え、メレディーン城で働く女中たちについての計画だった。

「ノコさんが、そんなふうに私を見てくれていたなんて。私は、その気持ちが嬉しかった。

 ノコさんの計画は、だいぶ後になって、ヘミーチカ様が話してくださったよ。ヘミーチカ様としても、私の件は大賛成だったそうだ。賊討伐でご主人のジャッカルゴ様たちが出陣する際に、私がヘミーチカ様とイリーデに言った事。あれで私を評価してくださっていたらしい。

 ノコさんも、ヘミーチカ様も、得難い方々だった」

 セピイおばさんは付け加えて、微笑んだ。親族として私も嬉しい。かつ、羨ましくもある。

 

 さて、ノコの要望を聞いたヘミーチカたちだが、大人しくメレディーン城に引き上げた。それ以上ノコを励ますことはできない、と判断したのだろう。

 もちろんヘミーチカは、ロッテンロープに声をかけ、翌日ノコを見舞うよう、馬車などの手配もしてやった。

 こうして老いた女中二人は再会を果たす。そしてノコは予定通り、長年の同僚を説得しようと努めたのである。『息子さんのところで居心地が悪い時は、お城に顔を出して、女中たちを手伝えばいい』

 対してロッテンロープは『だったら、わたしゃ毎日通うからね』と返したとか。

 『それでいい』とノコも言った。イリーデが子育てを優先して、城に上がる機会がすっかり減っていたのである。イリーデだけではない。他の若い女中も一人、また一人と結婚などで城を去り、別の娘が新たに加わる事が何度かあった。新人が育つにも時間がかかる。働き手はまだまだ必要で、ロッテンロープも働けないわけではない。彼女を案じて、親族の元に帰すだけだ。

 二人の話がまとまった頃、雨が本降りになった。そもそもロッテンロープを乗せた馬車がメレディーン城を出た直後から、小雨が降り出していたのだ。

 雨粒が地面や修道院の屋根を濡らして、空気が冷え出した。それに気づき、ノコはロッテンロープに、城に戻るよう促す。ロッテンロープは『もう少し、あんたとおしゃべりしたい』とか言ったようだけど、ノコとしては彼女が風邪をひいたり、ノコの病いをもらってしまっては、元も子もない。待たせている馬車に早く乗るように、長年の同僚を急き立てた。

 そのくせノコは、こうも言うのだ。

『明日はセピイに来るように言っておくれ。奥方様には、もう一度、馬車を手配してほしい、とあんたから頼むんだよ。

 いや、あんたは、もう来ちゃダメさ。今だって、病気を移さないために帰ってもらうんだから。もし奥方様が見舞いに来るとかおっしゃっても、あんたが止めておくれ。私への見舞いは、できるだけ少人数で。あとは、もうセピイと話せればいい。

 言っとくけど、明日、雨がどんなにひどくなっていても、必ずセピイだけを寄越しておくれよ。大事な説教があるんだ。奥方様やあんたが付き合う必要は無いけど、これをやっておかないと、わたしゃ死んでも死にきれない』

 長年の同僚の頼みとあって、ロッテンロープはノコの手を強く握り、うなずいてから、修道院を後にした。

 そしてメレディーン城の門をくぐった時には、ロッテンロープの皺の多い顔は濡れていた。雨は馬車で防げていたはずなのに。

 もちろん、老女たちの約束は果たされた。ロッテンロープから頼まれて、奥方ヘミーチカも快諾したので、セピイおばさんの移動手段の心配も無い。

 というわけで、三組めの見舞い客として、おばさんもノコを訪問できるようになったのだが。

 翌日、雨は止んでいなかった。むしろ雨脚が強まっていたほど。メレディーン城の門の内側も、滝のように水を流していた、とセピイおばさんは語る。

 この、あまりの土砂降りに、奥方ヘミーチカと老女中ロッテンロープは顔を見合わせた。

『セピイ。お見舞いは延期しましょう』とヘミーチカが言い出したのは、当然だろう。しかしセピイおばさんは改めて彼女に頼んだ。

『奥方様。どうか行かせてください。ロッテンロープさんの話では、ノコさんは、必ず、と念を押しています。よほど大事なお話がおありなんでしょう。私も、しっかりと教わって参りますので、どうか馬車を出してください。御者さんたちには、お手数ですけど』

 ヘミーチカは少し迷いながらも、結局は『そこまで言うなら』と了承してくれた。

 となると、御者を務める使用人も、奥方様相手にぶつくさ言ったりはしない。ただ、現地に着いたら長引きそうだ、とセピイおばさんから聞かされて、少々苦い顔をしたようだけど。

 

 とにかく若き日のセピイおばさんは、土砂降りも物ともせず、メレディーン郊外の女子修道院に向かったのだった。

 修道院の敷地内に入って、馬車を降りていると、ノコが体を揺すりながら現れた。

「ノコさん本人は走っているつもりかもしれないけど、何とも頼りない足さばきでね。足をもつれさせて転ぶんじゃないかと心配して、私からも駆け寄ったよ。修道女も険しい顔で追っかけてきた。

『よく来た、セピイ。あんたに話しておかなきゃならない事があるんだ』なんて、息を整えながら言ったと思ったら、ノコさんは私の腕をぐいぐい引っぱる。続けて、修道女たちに『椅子は用意してくださいましたね』なんて確認したりして。

 どこに行くのかと思ったら、修道院の奥の方だ。広い中庭に面した回廊の途中に、ぽつんと椅子が二脚、並べられていたよ。

『後は、こちらでいいようにしますんで』と修道女たちを追っぱらうと、ノコさんは、そのうちの一つに座って、顔を中庭の方に向ける。私にも残りの椅子を使うよう促した。

 私はノコさんに倣って、体を中庭に向けた。二人して並んで中庭を眺めている形だ。

 一度引っこんだ修道女の一人が、ノコさんが体を冷やすのを心配して、毛布を持ってきてくれたよ。膝掛けとかに活用しなさいって」

「な、何で中庭を眺めるの。晴れた日でもなかったんでしょ?」と私は首をひねる。

「ふふ、修道女さんたちも、そうやって不思議に思っただろうね。でも、いいんだ。ノコさんとしては、庭を眺めながら会話しているふりができればよかったのさ。

 しかもノコさんは言ったよ。『大雨が好都合だ』とね」

「えっ、どういうこと。雨が何かに利用できるの?」

「できるよ。正確には、利用するのは雨音だけだが。その雨音が大きければ大きいほどいい。そうすれば修道女さんたちも、ノコさんと私の会話を聞き取れない」

「あっ。ということは」

「そう。ノコさんは、ほかの人に聞かれたら困るような秘め事を私に話すつもりだったんだ。それこそ長年の同僚であるロッテンロープさんにも、奥方ヘミーチカ様にも聞かせられないような話を。

 そこまで言ったら、あんたも大方、予想がつくだろ」

 私は、つばを呑み込んだ。もう、あのことしか考えられない。アンディンが失ったと言う誰かのこと。

「と言っても、ノコさんは、まず私に状況を確認したよ。

 ツッジャム城で私とあの人がどういうやり取りをしたか、は前回、修道院に立ち寄った時に報告している。ツッジャム城の様子。ジャノメイ様ご夫妻やロンギノ様、城詰めの者たちの様子もね。

 今回はメレディーン城の様子だ。党首ジャッカルゴ様やオペイクス様、騎士たちが忙しそうか。城詰めの者で、自分以外に病気で寝込んでいる者はいないか。まだ幼いナタナエル様は元気か。豪商など、ご党首さんに表敬訪問に来る連中の顔ぶれは、どうか。ロミルチ城から悪い報せが来ていないか、とかね。

 それらを私が報告すると、次の話題は、ノコさんの計画についてだ。私は続けて言ったよ。ヘミーチカ様から伝え聞いて、私もシルヴィアさんも異存は無い、と。ただし、あくまでもノコさんに万が一のことがあった場合の話であって、皆はノコさんが回復して戻ってくることを願っている、とも付け加えた。

 そしたらノコさんに遮られた。

『それは、もういいんだ。お気持ちはありがたいが、分かるんだよ。神様からお呼びがかかっているのが。

 そりゃ死ぬのは怖いし、神様が恨めしくもある。でも今はそれよりも、やり残してしまうことの方が怖い。幸い、そのための時間を神様はくださった。そこは感謝しよう』

 と。

 私としては、すっかり覚悟しているノコさんが悲しかったが、反論したところでノコさんの病気は治らない。聞き役に徹して、一言も忘れまい、と思ったよ。ノコさんがやり残さないで済むように。ノコさんがやろうとしていること。それは、私に伝えるということ。ノコさんは私に伝えたがっている。そのために、この状況を整えたんだ、と」

 セピイおばさんの言葉に、私もうなずいた。まったく、その通りだと思う。

「さて、肝心のノコさんの話なんだが。『始める前に、もう一つ確認しておきたい』とノコさんが言い出した。予想しているかい?オペイクス様の事だよ。オペイクス様が、アンディン様に呼ばれて都へ行き、帰ってきてから私に話した内容。

 私は、それをノコさんに洗いざらい話した。オペイクス様としては他の人に話さないでほしいと思っていただろうけど、ノコさんなら良かろう。私は勝手ながら、そう判断した。あんたが推測したように、私もノコさんが何か知っていると思ったからね。

 実際、ノコさんはご存知だったよ。オペイクス様と私の見立て。アンディン様が大切な誰かを失ったのは、奥方のキオッフィーヌ様とお舅様が関与しているからではないか。これを聞いて、ノコさんは認めたね。『もう、ほとんど見破ったも同然だ』と。

 その上で『だからこそ』とノコさんは続けるんだ。

『だからこそ、あの人には、オペイクス様には話せない。あの人は、もう、この件に関わるべきではないんだ。

 なぜか分かるかい、セピイ。オペイクス様は、またアンディン様に呼ばれるかもしれない。アンディン様のところに行って、キオッフィーヌ様と顔を合わせる事も充分あり得る。その時、オペイクス様が顔に出してしまったら。オペイクス様の顔に動揺が走ったら。キオッフィーヌ様はお気づきになるだろう。あの方は、間違いなく気づく。見破ったも同然の今の時点でオペイクス様は、もうキオッフィーヌ様に会わない方がいいんだ』

 そこまで言われて、私はどんどん怖くなっていったよ。ノコさんが『大雨で好都合』と言った意味が、やっと分かった気がした」

 私は口をはさむのも忘れて、セピイおばさんを凝視する。

「ノコさんは言った。私だけに話す、と。

 本来なら、アンディン様たちのお子であるジャッカルゴ様、メイプロニー様、ジャノメイ様が知るべきかもしれない。あるいは、まったく知らない方が、ヌビ家の子孫の安寧につながるのかもしれない。いずれも迷うところだが、少なくともノコさんが直接ジャッカルゴ様たちに話し伝える時間までは無さそうだ。ノコさんは自分の状況を、そう捉えた。

 そこでノコさんは、私に話を預ける、と言うんだよ。アンディン様とキオッフィーヌ様の間にあった秘め事。それを一旦、私を預ける。そして時が経って、私からジャッカルゴ様たちに伝えるかどうかは、私が判断していい。逆に、最後まで伝えないという判断でも構わない。このセピイが真剣にヌビ家の将来、領民たちの将来を考えた上でのことなら、ってね。

 私は、雨音も修道女さんたちの存在も忘れて、体が硬直する気分だった」

 セピイおばさんの話を聞きながら、私だって今こわばってんですけど、と思う。

「ノコさんが言うには、もともとアンディン様には、おつき合いしていた女性が居たらしい。キオッフィーヌ様との縁談が持ち上がる前から。小貴族の娘で、ヌビ家の発展にはあまり寄与しないであろうお人でね。

 ヌビ家自体も、今ほど羽振りは良くなかったよ。ヨランドラの貴族社会では、まだまだ中流だったようだ。

 それでも、いや、だからこそアンディン様のお父様、初代のご党首様は奔走した。そして、その甲斐あって、跡継ぎであるアンディン様と王族の娘との縁談にこぎつけた。それが、当時の王様の姪にあたるキオッフィーヌ様だ。

 お父様は当然、長男のアンディン様に娘と別れて、王族のキオッフィーヌ様と結婚するよう命じた。アンディン様も、それに従った。

 かに見えたんだが。

 アンディン様は別れられなかったよ。お父様や親族、そして婚約者のキオッフィーヌ様と婚家である王家に、相手の存在をひた隠しにした。周囲の人々の監視の目をかいくぐって、娘と交際を続けたんだ」

「うーん、アンディンにしては、優柔不断なような」

「まだ若かったから、なのかねえ。

 さて、結婚前のアンディン様には、のちのご子息であるジャッカルゴ様たちと同じように、戦に出る機会があった。国内の賊どもをやっつけるためか、国境に押しかけて来た他国人どもを追っぱらう戦いか。詳しい内容までは、ノコさんもご存知なかったよ。ノコさんの推測では、花婿であるアンディン様に手柄を立てさせてやろうと、お舅様や王様が計画したんじゃないか、とのことだった。

 とにかくアンディン様は出陣したのさ。その間の事だよ。お相手の娘さんはご家族と共に、都アガスプスにある教会堂の一つにお参りしたんだ。傍目には敬虔な信者としての振る舞いだけど、実際はアンディン様の無事を祈るためでね。まあ、その願いを神様は聞き入れてくださって、アンディン様は後日、生還なさった。それはいいんだが。

 その娘さん一家がお御堂で手を合わせていると、知り合いから声を掛けられた。同格の小貴族の人たちで、娘さん一家と親交があり、かつヌビ家にも出入りしていた。

 そんな知り合いと娘さん一家は、しばらく世間話で和んでいたようだけど。どういう話の流れかねえ。その時ちょうど改修中だった釣り鐘を皆で見に行くことになった。そして二家族ほどの人数で鐘楼を登って、釣り鐘を間近で見たのさ。釣り鐘の内側にも寄進者の名前とか、聖書の一文とかが彫られている、なんて事も話題になったりしてね。娘さん一家と知り合いは交代で、少し屈んで釣り鐘の中に入ってみたそうだ。

 すると、だよ。娘さんの時。ちょうど娘さんが一人だけで釣り鐘の中に入った瞬間だ。釣り鐘が落ちた。どすんと落ちて、娘さんを閉じ込めてしまったんだ」

 セピイおばさんは一度、話を区切って、私の目を覗き込んだ。私は動けない。

「途端に、ご家族と知り合いたちは大騒ぎさ。教会堂の神父や、改修を請け負った大工たちが彼らに呼ばれて、鐘楼に駆け上がったよ。そして男連中は釣り鐘を持ち上げようと焦るけど、釣り鐘の縁と床の間に隙間がほとんど無くて、指を差し込めない。そこで大工たちが急いで、釘とかで石の床を削って、その隙間を作る。それでもダメだった。釣り鐘が重すぎて、持ち上げようにも、びくともしないんだ。

 その間にも当然、中から娘さんの悲鳴が聞こえてきてね。釣り鐘の縁と床の間に足を挟まれたりはしなかったようだが、泣き叫んでいる。

 そうやって鐘楼で人々が取り乱していると、だ。さらに別の問題が発生した。火事だよ。祭壇のロウソクが倒れて、掛けてある布や飾ってある花、椅子なんかに引火したとかで、お御堂が大変なことになっていた。

 娘さんの家族や知り合い、神父たちが騒いでいた鐘楼は、お御堂のちょうど真上。石畳みの床にも隙間があるのか、足元から煙がわいてくる。しかし釣り鐘は、どうやっても持ち上がらない。人々の怒号や悲鳴がいくら飛び交っても、時間が過ぎるばかりだ。

 そのうち、お御堂から鐘楼に慌てて上がって来た人が叫んだ。『火が教会堂全体に回ろうとしている。早く降りろ。ここから逃げろ』と。この言葉に、娘さんの両親が他の者たちによって、釣り鐘から引き離されそうになった。しかし母親が髪を振り乱して抵抗し、釣り鐘にしがみつく。神父や大工たちは、仕方なく父親だけでも助けようと、無理矢理担ぎ上げるなどして階段を降りた。

 そうして神父たち、娘さんの父親とお供の従者が教会堂から転がり出たところで、とうとう教会堂が炎にすっかり包まれてしまった。

 父親は泣き叫んで教会堂の中に戻ろうとしたよ。しかし大工たちが、羽交締めにして必死にそれを止める。

 近所の者たちが、彼らと入れ替わるように割り込んできて、手にした桶とかで、しきりに水を放った。そんな人が一人、また一人と増えていったんだが。

 火の勢いは一向に衰えなかった。むしろ時間と共に、ますます強まるような。

 結局、火がおさまったのは翌日だったとさ」

 セピイおばさんは、ふーっと重たい息をついた。

「当然、都の役人や警邏が大勢やって来たよ。彼らと神父、大工たち、娘さんの父親と従者は、黒焦げの教会堂に恐る恐る入った。

 そのところどころは焼け崩れていたけど、鐘楼は何とか崩れずに済んだ。重い釣り鐘を据え付けるだけあって、頑丈に建てられていたようで。しかし、下から炎であぶられた事は確かだ。釣り鐘のそばに、母親の焼死体が残っていた。

 釣り鐘そのものは、すぐには触れなかった。炎で散々熱せられたんで、冷めるのに時間がかかったんだよ。

 もう、中から娘さんの声は聞こえてこない。父親に急かされて、男たちは桶に水を汲んできては、釣り鐘にかけた。それを何度も繰り返して、釣り鐘に触れるようになったのは、夕刻だったかねえ。たしかノコさんは、そう言っていたような。

 とにかく男たちは工具を駆使したり、縄で引っぱり上げたりして、やっと釣り鐘を横倒しにしたよ。中から、すっかり炭になって、縮んでしまった娘さんの真っ黒な遺体が出てきた」

 私はセピイおばさんを見つめたまま、先ほどから固まっている。口も半開きのまま。こんな、こんな話だったなんて。

 一方、セピイおばさんは淡々と話し続ける。

「プルーデンス。あんた、私が見てきたように話していると思っていないかい?当時、私もノコさんから話を聞きながら、驚いて硬直しながら、疑問に思っていたよ。

 種明かしは、こうだ。ノコさん自身は、その事件の話を自分の前の女中頭さんから聞かされたのさ。その人が亡くなる直前に、ね。

 そもそも、その先代の女中頭さんが、結婚前のアンディン様と娘さんの交際を手伝っていたんだ。手紙での連絡を取り次いだりして。

 だから、交際相手である娘さんたちの一家が教会堂に行った事も、その後の火事についても、知ることができた。火事で生き残った、娘さん一家のお供が、彼女に話したんだ。

 ちなみに、そのお供、従者が娘さん側の窓口だよ。アンディン様が手紙を書いて女中頭さんに渡し、女中頭さんは娘さんの従者に渡す。そういう寸法さ。もちろん、アンディン様の親族や、時折り見かける王家からの伝令なんかの目に気をつけながら」

「お、おばさん」私は、やっと声が出た。

「お待ち。先代の女中頭さんの説明をすると、また話が先走るから一旦、置いといて。

 とにかく火事の現場に居た人の証言を、ノコさんは人伝てに聞いたわけだよ。

 そしてアンディン様の交際相手である娘さんは亡くなった。まあ、尋常じゃない亡くなり方だ。

 ノコさんは言っていたねえ。『アンディン様が、いつの時点でお相手の死を知ったのか。そこまでは、前の女中頭さんにも分からなかった』と。アンディン様が戦から戻られると、前の女中頭さんは秘かに近づいて、娘さんの死を報告しようとしたんだ。しかしアンディン様は、それを遮った。言わせなかったそうだ。以来、アンディン様がその小貴族の娘について言及すること、彼女の死について前の女中頭さんに尋ねることは一切、無かった。

 念のため言っておくと、アンディン様は火事の現場に通りかかっているんだよ。戦の後の凱旋行列さ。自分の手勢ともども、王様たちから招かれてね。

 実は、この凱旋行列の時に、娘さんとこの従者は観衆に混ざって、アンディン様を見送っていたんだ。再建中の教会堂の前に突っ立って。アンディン様の手勢の者たち、他家の兵士たちがその建築現場を奇異の目でチラ見する中、アンディン様だけは前を向いて、教会堂を少しも見ようとしなかった。その従者とも目を合わせなかった」

「見られなかった」と私は思わずつぶやいた。

「そうだね。お相手の死が悲しかったからこそ、なのか」

「あるいは、王族の目がある中で、そんな素振りもできなかった」

「うん、いい見立てだよ、プルーデンス。それも充分、考えられる」

 セピイおばさんが誉めてくれるのは、ありがたいのだが。内容が、あまりにも酷い。

「その後、アンディンはキオッフィーヌと結婚したのね。何事も無かったかのように」と私は先を促す。

「きつい言い方をすれば、ね」とセピイおばさん。

「でも火事の原因究明は、どうなったの。役人や警邏が押しかけて、調べたんでしょ?」

「調べたよ。でも、それで判明すると思うかい?」セピイおばさんは、また私の目を覗き込む。

 私は言葉に詰まった。

「予想は、ついているだろ。よく分からない不審火として片付けられたよ」

「な、何だか、ヒーナが死んだ時みたい」

「言われてみれば、たしかに結末が少し似ているかもね。

 しかし、今回の黒幕がマムーシュどころじゃないことは分かるだろ」

 私は、うなずくしかなかった。

「さらに言うとね。ノコさんが聞いた話だと、娘さん一家を鐘楼に誘った、知り合いの連中は、火事以来、見かけなくなったそうだ。行方知れずになった、と」

「逃げたのかな」

「かもしれないが。

 ノコさんは『消されたんだろう』と言っていた」

 イッ、と私は声を漏らした。

「け、消すって。キオッフィーヌや王家としては、その連中を使って、娘さん一家を誘い出したんでしょ?こき使っておきながら?」

 セピイおばさんの指が、久しぶりに飛んできて、私の唇を押さえた。

「お名前が頭に浮かんでも、言うもんじゃないよ、こういう時は。

 私もノコさんも、そしてノコさんの前の女中頭さんも、黒幕を確かめたわけじゃないんだ。と言うより、確かめようもない。こちらの推測が正しければ、相手が大きすぎる。

 そう、あくまでも推測に過ぎないんだ。あの方の、あの方のお父様、親族が手を回したのだろう。密偵たちを走らせ、娘さん一家の知り合いである小貴族に一働きさせて。下手すればアンディン様のお父様だって、一枚かんでいるのかもしれない。

 しかし。そう考えるのが妥当だろう、と私たちは思うだけ。私たち臣民に確かめる力は無いよ。無いけど、考えないわけにはいかない。考えて、推測して、用心しなければならない」

 セピイおばさんの言葉に、私は、また絶句する。そんな私にお構いなしに、セピイおばさんは話を続ける。

「脅かして悪いんだが、よく聞いて、心に留めておいとくれ。私もノコさんから、そう言われたんだ。

 娘さん一家は、その後、断絶したよ。もう王家やヌビ家が、取り潰しにしようなんて乗り出してくる必要も無かった。生き残った父親は気が触れてね。しかも跡継ぎになる男子が居なかった。親戚も少しは居たのかもしれないけど、もうダメだよ。お仕えしていた従者も、ノコさんの前の女中頭さんに火事の状況を話してから、どこかへ去っていった。もちろん、アンディン様が何らかの救いの手を差し伸べることも不可能だ」

 うーん、と私は唸る。

「な、なんか、やり方が極端じゃないかな?キオッフィーヌが怒る気持ちは、分からないでもないよ。同じ女として。

 でも、どうせならキオッフィーヌは、アンディンに怒るべきじゃないかしら。その娘さんはキオッフィーヌの存在を知っていた上で、アンディンとつき合い始めたわけじゃないんだし。つき合っていた男に後から婚約者ができて、その婚約者から恨まれる。最後は命まで奪われて。迷惑どころじゃない、とんでもない話だわ」

「そこなんだよ、要点は」

 セピイおばさんは、またも指を飛ばしてくるかと思いきや、私の目を覗き込むだけで済ませた。

「あんたの指摘した通り、キオッフィーヌ様も内心は、アンディン様に怒りを覚えていただろう。しかし、だ。キオッフィーヌ様は、その怒りをアンディン様にはぶつけなかった。ヌビ家にも、だよ。アンディン様もヌビ家も、それまで通り。ただ、ある時、どこかの小貴族の一家が消滅しただけ。

 でもプルーデンス、ここで、よおく考えるんだ。逆にキオッフィーヌ様がアンディン様に怒りをぶつけたとしたら。あるいは、王家がヌビ家に対して怒ったとしたら」

「あっ」私は、また固まった。

「なにせ、火事と見せかけて、人を焼き殺すくらいだからね。家同士の対決ともなれば、もう内戦だ。王家は、反乱の疑いだとか、有る事無い事でっち上げて、ヌビ家討伐をヨランドラ中の貴族たちに呼びかけるだろう。シャンジャビ家なんかは大喜びさ。そうやって王家側の貴族家がどんどん増えて、逆にヌビ家と親交のある貴族家は少しずつ離れていく。そして王家に靡く。

 これで分かっただろ。キオッフィーヌ様が本気でご自分のお父様、当時は王弟の立場であったお父様、そして伯父である当時の王様や親族に訴えれば、とっくにヌビ家は滅ぼされていたんだ。領民たちも大勢、焼け出されて、ね」

 私は絶句しかけたが、何とか搾り出した。「その時は、この山の案山子村も」

「ああ、ただじゃ済まないよ。ここもヌビ家領なんだから」

 事も無げなピイおばさんの口調に、私は、へなへなと力が抜けそうな気がした。

「しかしキオッフィーヌ様は、そんな事は望まないでくださったらしい。そんな手段は使わず、娘さん一家を抹殺しただけ。おかげで、私ら領民は助かった。娘さん一家には悪いが」

「そ、そんな」

 私は言いかけたけど、続かない。とてもじやないけど、続きが出ない。

「プルーデンス。まだまだ、だよ。まだまだ考えるべき要点があるんだ。

 よおく状況を思い出してごらん。私はノコさんから話を聞いたけど、ノコさん自身は前の女中頭さんから聞いたんだ。前の女中頭さんは、次の女中頭となるノコさんに話した。つまり話すことで、ノコさんに託したんだ。アンディン様とキオッフィーヌ様の問題を。

 戦が終わって、お二人が結婚して、キオッフィーヌ様はメレディーン城に来られた。前の女中頭さんは、キオッフィーヌ様が怖くて怖くてたまらなかったそうだよ。

 幸い、何事も無かった。キオッフィーヌ様から意地悪される事も無かった。むしろ親切なくらいだった、と。念のため、女中頭さんは秘かに親戚たちに確認したそうだ。何か嫌がらせめいた事は無かったか、と。もちろん火事の件とかは言わずに。しかし一切、無かった。何も無く、それまで通り。まるで、女中頭さんがアンディン様の秘密の交際を手伝っていたという事を、キオッフィーヌ様が全くご存知ないかのように。

 しかしプルーデンス。キオッフィーヌ様が本当に知らなかったと思うかい?」

「思うわけない」私は、ぶんぶん首をよこに振った。「逆に、知っていたとしか思えないわ」

「だよね。その女中頭さんも、そう思った。もちろん、キオッフィーヌ様に確かめたわけでもないよ。確かめられるわけがない。話題にすらできないさ。ただ、ご存知なのだ、と考えるべき。女中頭さんは、そう肝に銘じながら、キオッフィーヌ様にお仕えし続けた。

 そして結論に達した。今度は、お二人の仲を取り持とう、と。それは言い換えれば、ヌビ家と王家の仲を取り持つ事でもある。無闇に怖がっている場合じゃない。自分なりに世のためヨランドラのためと思うなら、アンディン様とキオッフィーヌ様が仲違いするような事態を見逃してはならない。ヌビ家と王家の関係が割れるような事態を防がなければならない。何としても。ヌビ家の女中頭として、そう心がけるべきなのだ、と。

 やがて老いて、誰かにこの課題を託さなければ、と女中頭さんは考えた。そして郊外の女子修道院に目をつけたのさ。とは言っても、修道院もキオッフィーヌ様と交流が無いわけではない。ただし、キオッフィーヌ様が毎日、通っておられるわけでもない。距離は取れる。病気の療養を口実にして、その女中頭さんはメレディーン城から、つまりキオッフィーヌ様から一旦、離れた。そして見舞いとか、引き継ぎとかの名目で、まだ若かったノコさんを呼び出したんだ。

 女中頭さんは、ノコさんに語った。アンディン様の秘密の交際。その恐ろしい結果と、推測されるキオッフィーヌ様や王家の暗躍。それら全てを語って、ノコさんに託した」

「そしてノコ自身は」私は思わず口にした。「同じように、セピイおばさんに託した」

「そう」

「シルヴィアの心配があったから」

「その通りだよ」

 セピイおばさんは、そこまで言って、私から視線を外し、また遠くを眺めた。

 

「ノコさんは言ったよ。『おそらくキオッフィーヌ様は、シルヴィアの気持ちに気づいていただろう』と。『当のシルヴィア本人は、気づかれているという事に、気づいていないようだけど』とね」

 セピイおばさんは、また私に視線を戻した。

「それらしい言動が実際にあった、とノコさんは言うんだ。キオッフィーヌ様に。

 それは、まだジャッカルゴ様が都で修行中で、戻って来られる直前か。それこそ私がツッジャム城からメレディーン城に移った後かねえ。

 詳しい会話の流れは、ノコさんも忘れていたよ。おそらくヨーロッパの十字軍の動向とか、勇ましく、きな臭い話題だったんだろう。単純な男どもだったら、威勢の良さそうな、景気の良さそうな意見ばかり出しそうな話題さ。

 でもシルヴィアさんが、そんなのを真に受けるはずがない。ちゃんと考えてから意見したに違いないよ。ノコさんが言うには、いまいち分かりにくい、とにかく楽観論だけじゃない、下手すれば敵方サラセン人たちの肩を持つようにも取られかねない意見だったらしい。

 実際、オペイクス様やオーカーさんたちの上役にあたる騎士様が居合わせて、ぶつくさ言ったとか。

 しかしアンディン様は騎士様を止めて、シルヴィアさんを誉めた。ノコさんは、アンディン様が顔を輝かせた、と言っていたね。

 シルヴィアさんは頬を赤らめて、その場を離れた。私も、シルヴィアさんが赤くなるなんて珍しい、と聞きながら思ったよ。

 そんなシルヴィアさんを見送りながら、キオッフィーヌ様がおっしゃったんだ。『まあ、うちの人が教師なら、一番の教え子はシルヴィアね。メイプロニーよりも熱心に学んでいるわ』と。

 ノコさんは『キオッフィーヌ様のこの言葉を、はっきり覚えている』と言うんだ。『会話の前後とか、細かい状況とかは忘れても、言葉は覚えている』と。

 さらにはキオッフィーヌ様の表情も。いたって普段通りで、尖った気配など全く無い微笑みだったそうだ。

 あんた、これを、ノコさんの気にしすぎ、考えすぎと思うかい?」

「うーん、普通なら、考えすぎって言うけど。火事の件を知った後じゃ、普通とは、もう言えないし。

 そうだ。逆に、隙が無い。無さすぎるんだわ」

「よく気がついたよ、プルーデンス。そうなんだ。あまりにも見事に、感情を隠しきっておられたんだ。

 それでノコさんは戦慄した。これはまずい、と。たとえアンディン様にシルヴィアさんへの関心が無くても、キオッフィーヌ様がシルヴィアさんを見る目は変わったはずだ。確実に。

 以来、ノコさんはシルヴィアさんを、秘かに見張るようになった。キオッフィーヌ様から命じられなくても、ね。

 そして同時に、キオッフィーヌ様にも気をつけていた。その一挙手一投足に目を配り、耳をそば立てて。

 お二人が直接、衝突したりすることは、まず無いよ。それは私も思う。しかしノコさんとしては、注意を払わずにはいられなかったんだ。前の女中頭さんから託されたからには」

「そして、しばらくしてアンディンとキオッフィーヌが、都に移り住むことになった」と私。

「そう。お二人は、シルヴィアさんとは別の場所で生活を始めたんだ。ありがたいことに」

 セピイおばさんの視線は、いつの間にか、また前方に、遠くに伸びていた。

「ノコさんも一瞬、迷ったそうだよ。シルヴィアさんに火事の話をするべきか。あえて話すことで、シルヴィアさんにアンディン様への気持ちを諦めさせることができるのではないか、と。

 でも、ノコさんは取り止めた。私に話しても、シルヴィアさんには話さないことに決めたんだ。シルヴィアさんが意固地になるというか、かえって気持ちを募らせる場合を恐れて」

「そ、そうだね。周囲から駆け落ちを反対されたのに、逆に走ってしまう男女とか、世間話で聞いたことあるし。って、シルヴィアの場合は片想いだけど」

 セピイおばさんは、ふふっと小さく笑った。ちょっと違ったかな。

「私も、シルヴィアさんは知らない方がいい、と思ったよ。自分だけ話を聞かせてもらって悪いけど。

 シルヴィアさんが事実を知ったところで、どうにもならない。亡くなった娘さんを羨むか。キオッフィーヌ様を恐れるか、憎むか。私がシルヴィアさんの立場で火事の件を知ったとしたら、そのいずれか。いずれでも、良いことは一つも無いよ。

 だからアンディン様たちの問題は、私が預からせてもらったんだ。ノコさんから託された通りに。シルヴィアさんには、ずっと内緒で」

 そこまで言ったセピイおばさんの表情は、穏やかだった。ノコから託されたものをしっかり受け止めた証拠である。ノコは、やり残さないで済んだ。

 

 こうして話を伝え終えて安心したノコは、セピイおばさんをメレディーン城に帰した。おばさんを最後の見舞客として、もう誰も見舞いに来ないように、念を押した上で。

 その時も雨は、まだ降り続いていた。雨音の大きさも、そのまま。修道女も、たまに回廊の端に現れる事があっても、話し込むノコとセピイおばさんに怪訝な顔をするだけで、すぐにいなくなったとか。

 そんな状況なら大丈夫だろう、と私も思う。修道女たちはもちろん、回廊のどこかに密偵が潜んでいたとしても。

 そして実際、何事も無かった。セピイおばさんは、次の日から耳をそば立てるようにして、城下町で流行る噂話に気をつけた、と言う。しかしアンディンとキオッフィーヌの名前は聞こえてこなかった。領民たちにとって、先代の党首夫妻は、すでに過去の人だったのである。

 

「そうだ、思い出したよ。翌朝、大雨は止んでいたんだ。いつまで続くのかって心配したくらいなのに、止む時はあっさりでね。もしかしたら神様がノコさんの作戦に合わせてくださったのか、なんて考えたりもしたっけ。

 おかげでメレディーン城のみんなは、ロッテンロープさんを気持ちよく送り出すことができた。息子さんが家族連れでお迎えに来たんだ。ロッテンロープさん本人と荷物を二頭のロバに分乗させていたよ。お孫さんがはしゃいで、その周りを走り回っていた。

 空が晴れ渡ってね。大通りは水たまりが陽の光を反射させて、キラキラしていた。角を曲がるまで、ロッテンロープさんの一家は何度も振り返って、こちらに手を振って。城門から出ていた私らも手を振り返して。そんな見送りをしてもらったロッテンロープさんが羨ましいくらいだった。

 と言っても、次の日もロッテンロープさんは通いで城に来てくれたんだけどね」

 セピイおばさんは説明に、私も安堵した。セピイおばさんに続いて、ロッテンロープについても、ノコの考えた通りに事が進んでいる。

 そこまでは順調と言えるのだが。

「ロッテンロープさんが住み込みじゃなくなって、二週間ほどだったかねえ。女子修道院から早馬が来た。院長様から遣わされた使用人は、ジャッカルゴ様に伝えたよ、ノコさんが亡くなった事を。ジャッカルゴ様は、ノコさんを世話してくれた修道女さんたち一同への御礼を、その使用人に言付けて、送り返した。

 と同時にジャッカルゴ様は、ノコさんの葬儀などの手配に乗り出したよ」

 セピイおばさんによると、彼は妻ヘミーチカを修道院に派遣することにした。メレディーン城の女中たちに関することは全て、彼女に任せてあるのだ。

 翌日ヘミーチカは女中数名をお供に、馬車で出発した。リブリュー家から来たカディッケンスとテマニークは、前回の見舞いと同様。それにシルヴィアと、若き日のセピイおばさんが加わる。護衛の兵士たちも付き添って、彼らを束ねる役がオペイクスだった。

 ヘミーチカたち一行は城門を出てすぐ、足止めをくらった。ちょうど、通いのロッテンロープがやって来たのである。ヘミーチカは彼女も拾って、再出発した。

 馬車の中で、ロッテンロープは泣きっぱなしだったらしい。『奥方様、どうか嘘だとおっしゃってくださいまし』とまで言ったとか。

「そんなロッテンロープさんを見て、テマニークさんなんかは、ちょっと苦い顔をしてねえ。抑えていたつもりだったかもしれないが、当時の私より少し年上ってだけだ。感情を顔に出さないようにするのが、まだ下手だったんだろう。取り乱したロッテンロープさんを修道院に連れて行っても、大して役に立たないんじゃないか、って顔に書いてあった。

 ロッテンロープさんには悪いけど、私も半分くらいは、そんな考えだったねえ」

 しかし、とセピイおばさんは話をつなぐ。

「女子修道院に着くや、院長様がヘミーチカ様を出迎えた。そしてノコさんの遺体がある病室に案内しながら言うんだ。ノコさんの遺族がどこに住んでいるのか教えてほしい、と。

 これを聞いて、ヘミーチカ様も私らも、目を丸くしたよ。てっきり、ノコさんがその辺りのことを修道女さんたちに話しているものと想像していたんだ。ところが院長様は、聞いていないと言う。修道女たちも。

 では、彼女たちはノコさんと、どんなやり取りをしたのか。ヘミーチカ様がそれを院長様に尋ねると、答えは、こんなだった。なんとノコさんは生前『自分が死んだら、引き取り手の無い者たちの墓に入れてほしい』と言い続けていたんだよ。

 ありがたいことに、修道女さんたちは『そんなわけにはいかない』と反対してくれてね。『どこに親戚が居るの』と何度も尋ねたが、ノコさんは『自分は天涯孤独の身で、そんな者は居ない』と言い張ったらしい。で、最後まで聞き出せず、修道女さんたちは困っていた、というわけ」

「ええーっ。居ないはずないでしょうに」私は首をかしげた。「誰か聞いていないのかしら。あっ」

「そ。ここでロッテンロープさんの出番だよ。ロッテンロープさんが手を上げて、ヘミーチカ様と院長様の会話に割って入った。『私が聞いております』と。ロッテンロープさんが言うには、たしかにノコさんは、ご家族の話をあまりしなかったそうだ。でも、その数少ない機会をロッテンロープさんは覚えてくれていた。

 ノコさんが生まれ育ったところは、メレディーンの城下町の郊外でね。幾つか点在している部落の一つだった。女子修道院からは、メレディーン城を挟んで、ぐるっと反対側に回らなきゃ行けなかった。

 ヘミーチカ様から相談を受けたオペイクス様は『護衛の兵士を一人、二人、現地に向かわせましょう』と言ってくださったよ。

 するとロッテンロープさんが、自分も行きたい、と言い出した。自分が現地でノコさんの生家を尋ねて回る、と。これには、居合わせた全員が賛成して、ヘミーチカ様も改めてロッテンロープさんに頼んだよ。もう、この人の記憶だけが頼りだって、みんな分かっていたからね」

「ふーむ。結果、一番役に立ったのは、ロッテンロープだったのね」

「そういうこと。おかげで方針が決まったよ。

 兵士をすぐに行かせるではなく、まずノコさんの遺体を引き取る。てっきりノコさんの遺族が来るものと思っていたから、こちらは棺とか何も用意していなかったよ。そこで急きょ、テマニークさんと私が、騎乗する兵士の後ろに乗せてもらうことになった。すると、シルヴィアさんも『オペイクス様の後ろに乗せてもらう』とか言い出して。オペイクス様が、ちょっと恥ずかしがっていたっけ。とにかく三人分の空きを馬車の中に確保して、そこにノコさんを寝かせたんだ。

 で、みんなで一旦、メレディーン城に戻る。いつまでも修道院でノコさんの遺体を預かってもらうわけにもいかないし、メレディーン城に運んだ方がノコさんの生家に近くなるだろ。その分、遺族も引き取りに来やすくなるはずさ。

 メレディーン城に着いたら、ヘミーチカ様が城内の礼拝室を開放してくださって、女中たちがそこにノコさんを安置した。その際に女中たちを取り仕切ったのは、シルヴィアさんとカディッケンスさんだよ。

 その様子を途中まで見て、私はロッテンロープさんと一緒に、空になった馬車に戻った。私から、お手伝いを申し出たんだよ。ヘミーチカ様も『頼みますよ』と言ってくださった」

「それにしても、へんなことになったわね。余計な手間が発生している」と私。

「ノコさんには悪いけど、私もちょっと、そう思ったよ。しかも、これが手際よく、というわけにはいかなくて」とセピイおばさんも眉をひそめる。

「郊外の部落を回って、ノコという苗字の一家を探すこと自体は難しくなかったんだ。そう多くない苗字で、地元の住人たちに何回か尋ねたら、家まで案内してくれたからね。

 で、その家から中年のおじさんが一人、出てきた。私らは、ついに遺族に会えたと思ったよ。

 でも、ロッテンロープさんと私が事情を説明しても、そのおじさんは目を丸くするだけ。挙げ句に『スージー?うちの女連中にスザンナなんて名前の者はおらんですよ』と来た。『自分の父親の姉妹、母親の姉妹にも居ない』とまで言い張るんだ」

 え?私は、ますます首をかしげる

「もちろん、私らは食い下がったさ。ロッテンロープさんは、そのおじさんに、親戚を集めるよう、特に昔の事を知ってそうな年寄りを呼んで来るよう頼んだ。

 そしたら、おじさんは面倒臭そうな顔をしてねえ。『まだ畑仕事で、それぞれ家に戻っていないだろうから』とか、ぐずぐず言うんだ。

 それを見て、イライラしたんだろう。私らの後ろで待っていた兵士の一人が、ツカツカ歩み寄って、怒鳴りつけた。『いいから、とっとと連れて来やがれ。間違えるなよ。お前らが待たせてんのは、俺じゃねえ。城のご党首様をお待たせしてんだぞ』

 それで、おじさんは慌てて走り出した。こんな若造にって顔が、一瞬だけ見えたけど。相手がご党首様と聞けば、一城の主以上という事くらいは分かっただろう。

 こういう脅しめいた事は、なるべくしたくなかったんだがねえ。何しろ、相手はノコさんの遺族だ。

 とにかく、この気の毒なおじさんは、部落を右に左に走り回ってくれたよ。私らの前も一、二回ほど往復したっけ。大人だけでなく子どもにも言いつけて、手分けして親戚を集めていた。

 その甲斐あって、やっとノコさんを知る人が現れた。ノコさんやロッテンロープさんと同じくらいのお婆さんで、明らかに、遺族の中で一番の年長者だ。走り回ってくれたおじさんの伯母にあたるらしい。

 そのお婆さんが思い出して言うんだ。『そう言えば、小さい頃に一緒に遊んだ従姉妹に、スザンナって子が居たねえ。でも顔を合わせたのは、ほんの何回かだよ。物心つく頃には、すっかり名前も聞かなくなった』と。

 それでも貴重な証言には変わりないさ。私らは、このおじさんとお婆さんを含め、大人を六人ほど連れて行くことにした。お婆さんとかは馬車に乗せて、おじさんとか男連中はロバとかでついて来てもらう。

 そんな行列だから、進みが速いとは言えないよ。私らがメレディーン城に戻った時には、陽が沈みかかっていたね。午前中に修道院からノコさんの遺体を引き取って、午後に遺族探しをした事になる」

「長い一日だったね」と私。

 セピイおばさんは、ちょっと首を横に振った。

「たしかに日中も忙しかったけど、まだまだだよ。遺族たちを党首ご夫妻に会わせなきゃ。

 もちろん彼らも、お二人にご挨拶したさ。でも礼拝室に通されて、寝かされたノコさんの顔を覗き込んだら、お互いの顔を見合わせるんだ。『誰だ、この人』って小声と、ひそひそ話し合う声が聞こえたよ。彼らは一番年長のお婆さんに尋ねたけど、お婆さん本人は首をひねる。『こんな顔だったかねえ。何しろ六十年以上前だ。しかし、うちの一族でスザンナは、あの従姉妹だけだし』とか、ぶつぶつ言って」

「前途多難か」

「そうだよ。

 それでも、もう陽が暮れたってことで、ヘミーチカ様の指示で、女中たちが彼らを食堂に呼んだ。ご夫妻の気前の良さもあるが、長年働いてくれたノコさんへの感謝の現れでもある。

 その晩餐の席で、ジャッカルゴ様が気軽に声をかけた。葬儀の日取りや、執り行なう教会が決まったら、知らせてほしい、と。自分たちも手を合わせたいから、とかね。

 そしたら遺族のおじさん、おばさんたちは、また顔を見合わせるんだ。『お前が言え』『いや、あんたから』なんて小声でなすり合ってから、最初のおじさんが、やっと答えた。『わ、若殿様。私らは、あの亡き骸を引き取らなきゃならんのでしょうか』

 これにはジャッカルゴ様も目を剥いて固まったよ。そしてオペイクス様を呼んで『後ろから肩を押さえてくれ』とか頼むまでした」

 なかなかの怒りっぷり、いや正直な自制ぶりである。「ジャッカルゴにしては珍しいんじゃないの?」と私が聞くと、セピイおばさんも「そうなんだよ」と答える。

 なんでもジャッカルゴは、豪商とか司教などのような偉い立場の者に声を荒げることはあっても、自分より低い立場の相手には穏やかに話すよう心がけていたそうだ。ましてやノコの遺族でもある平民に、怒鳴るわけにもいかない。

 しかし、そんな気づかいも分からず、ノコの遺族としての自覚の無い彼らは、のうのうと言ってしまうのだ。『遺体を引き取りたくない』と。

 たちまちジャッカルゴの目が吊り上がったので、すかさずオペイクスが声をかけた。『ご党首様、しばし、こちらへ』

 そうして食堂の隣りに誘導して、オペイクスは小声で意見した。

『ご党首様。私もノコさんが彼らの手によって、同族の墓に葬られるべきと思っています。

 しかし、もしかしたら、ノコさん自身がそれを望んでいなかったのかもしれません』

 続けて、こう推測した。

『何らかの理由で、ご両親や兄弟姉妹と縁を切っていたものと思われます。それで、従姉妹とその子孫である彼らも、ノコさんの存在を知らなかった。彼らにしてみれば、赤の他人がいきなり遺体となって現れたようなものなのでしょう』

 母、弟と絶縁しているオペイクスならではの推測と言える。

 対してジャッカルゴの意見は、こうだ。『だからと言って、俺は、引き取り手の無い者たちの墓なんぞに頼るつもりはないぞ。たとえノコ自身が望んでいたとしても、だ。そんなことをするくらいなら、ヌビ家の墓地に一画、空ければよい』

 小声ながら、ジャッカルゴの語気が強くなるのを、セピイおばさんは覚えていた。

 いつの間にか、二人のそばに来ていたロッテンロープも、口をはさんだ。『いいえ、若様。若様たちを煩わせる必要はありません。私どもロッテンロープ家の墓に、スージーを入れてあげれば、よろしいのです』

 それはそれで、ちょっと変な話だ、と私は聞きながら思った。当時ジャッカルゴも同じことを彼女に言ったらしい。

 結果、オペイクスが提案した。『ここは一旦、遺族を帰らせて、考えさせましょう』と。

 ジャッカルゴは、これを了承した。ただし『明日には返事するように』と遺族たちに念を押して。『ここまで来るのが手間なら、地元の役人に申し出るでも良い。役人には、事前にこちらから話しておく』

 と言うのも、彼らを部落に送り返す際に、ジャッカルゴは、また馬車や護衛の兵士を使うつもりだったのである。そのついでに、近くの役人のところに立ち寄って、言い含めておく。本当に気前の良い若殿様で、他家ではあり得ない気配りだ。

 それだけではない。遺族たちに食事を提供しながら、彼は同時に、領民の台帳を持って来るよう使用人に言いつけた。城詰めの役人やオペイクスと共に、それを開いてみる。

 遺族たちの部落を含め、周辺地域にノコという苗字は、たしかに何軒か在った。遺族たちにその一つ一つを確認すると、どれも親戚と答えた。全く別のノコ家は、やはり存在しなかったのである。

 これには遺族たちも認めざるを得なかった。どうやら、亡くなった人の関係者は自分たちだけらしい。その辺りから、ようやく自覚が芽生えたのだろう。帰りの馬車に乗せてもらう段になって彼らは、また顔を寄せ合った。そして、こう言った。

『私らは決心しました。明日までお待たせするまでもありません。若殿様へのご返事は、今、ここでさせてくださいませ。

 亡き骸を受け取ります。なので、どうか馬車に乗せていただけんでしょうか?部落に着きましたら、小さいところですが、近くの教会堂に案内しますので、そこまで運んでいただきたいのです』

 もう、そのまま地元の教会に直行して、夜のうちに神父に話をつけておこう、というわけである。

 当然、ジャッカルゴは快諾した。そして護衛の兵士たちと共に、ロッテンロープとセピイおばさんも再び同行を申し出た。ノコの遺体に付き添い、神父が預かるところを見届けるためである。

「で翌日、葬儀のミサが執り行われて、党首ご夫妻も約束通り出席した。私も同行させていただいて、手を合わせたよ。ロッテンロープさんとカディッケンスさん、シルヴィアさんもね。

 シルヴィアさんは、はじめ躊躇していたよ。『私はノコさんから、あまりよく思われていなかったはずなんだけど、いいのかなあ』なんて頭をかいて。でもカディッケンスさんが説得してくれた。『そんなこと言わないで。大丈夫。ノコさんは、ちゃんと分かってくれていますから』とね。ヘミーチカ様もシルヴィアさんの背中を押してくださった」

「うーん。それはいいんだけど、おばさんも大変だったわね。ノコの生家まで何回も往復して。

 ノコも変だわ。女中頭としての仕事をやり残さないように、あれこれ神経を使ったのに、自分自身のことは疎かだなんて。何だか、ノコらしくない気がする」

 私が言うと、セピイおばさんは少し微笑んだように見えた。

「葬儀から帰る馬車の中で、シルヴィアさんが同じ指摘をしたよ。私は、そんなシルヴィアさんを見て、あっと声が出そうになった。で、慌ててこらえた」

「えっ、シルヴィアのせいなの?」

「じゃなくて、アンディン様。正確に言えばキオッフィーヌ様のせいだよ、きっと」

 あっ。私まで声が出そうになった。

「ノコさんは、アンディン様とキオッフィーヌ様の問題を知っている。アンディン様が失った交際相手。その人の死に、キオッフィーヌ様が関係しているであろうということ。

 それらを踏まえて、ノコさんは考えたんだ。自分は、親族との関わりを断とう、と。自分とつながりがあるために、いつかキオッフィーヌ様や王家から自分の親族が睨まれるような事態を怖れて。

 と言っても、前の女中頭さんのように、心配した割には何事も無かった、という場合もあるだろう。

 でも、それに期待していいのか。ノコさんは期待しないよ。そんな人じゃない。油断に過ぎないんだから。そんな甘い考えの人じゃなかった」

 セピイおばさんは、また前を向いて遠くを見る。

「と、まあ、私は推測したのさ。あくまでも推測であって、ノコさん本人に確かめたわけでもない。オペイクス様の時みたいに、もともと何らかの理由で親族と疎遠になっていたという場合も考えられる。

 後で知ったけど、シルヴィアさんも似たようなもんだったよ。オーカーさんやアズールさんとのつき合いがご両親の耳に入って、けっこう搾られたとさ。で、シルヴィアさんも意固地になって、生家に寄りつかない。手紙のやり取りもしなかった、ってね。

 そうした、他の人の事例を考えれば、ノコさんが生家の墓に入ろうとしなかった事も、そのまま本心なのかもしれない。私らが遺族を探し出して、遺体を引き取らせた事は、余計なお節介かもしれない。

 しかし、ねえ」

「うん。引き取り手の無い墓は、あんまりよ。そんなこと、するわけにはいかないわ。親族のお墓に入れて、正解」

 私が言い切ると、セピイおばさんは今度こそ、はっきりと微笑んだ。「ありがとう、プルーデンス」

 

「ところで、セピイおばさん」私は前から気になっていた事を尋ねてみた。「ノコって、ずっと独身だったの?」

「そうみたいだね。ロッテンロープさんみたいに子どもがいるとか、聞いた事が無かった」

「それもキオッフィーヌ対策とか」

「さあねえ。私がノコさん本人から聞いたのは、別の理由だったよ。『自分は子どもの時からずんぐりしていて、醜女。言い寄ってくる男なんか一人も居なかった』って。だからシルヴィアさんたち五人組の騒ぎとか、私がいつまでもソレイトナックのことを引きずっている様子とか、大嫌いだったとさ」

「えっ。それってセピイおばさん本人に言ったの?」

「そうだよ。何かの話の流れで、そう言われたんだ。

 でも、安心おし。それだけだよ。嫌いと言っただけ。私やシルヴィアさんが嫌いだからと言って、仕事上で意地悪するわけでも、仕事を回してくれないわけでもない。

 同僚として、女中としては認めてくれていたのさ」

 ふうむ、私情をはさまない、ということか。その点も、ノコに感謝しよう。

 私が感心していると、隣りでセピイおばさんが立ち上がった。

「さあて、そろそろ帰るかねえ。すっかり長話になってしまった。もう、陽も暮れかかっているよ」

 私も立ち上がって、二人して服の裾から埃を払う。

 そして、改めてマルフトさんのお墓に一礼してから、私たちは歩き出した。

 それで気がついたのだが、いつの間にか、周りの草木が夕陽をあびて、赤みがかっていた。

 それらをぼんやり眺めながら、家路をセピイおばさんと並んで歩く。言葉は無い。会話せずに並ぶだけなんて、おばさんに対してよそよそしいようで、あまり良い気がしないのだが。何だか、言うことが見つからない。話しすぎたのかな?

「プルーデンス」

 私が心配していたら、セピイおばさんの方から声がかかった。

「なあに、セピイおばさん」

「あんたへの講義は、しばらくお休みしようと思う」

「えっ、もう話してくれないの?」私はセピイおばさんの横顔を注視した。

「話さないわけじゃないよ。ただ、話が大きな山を越えたのは、確かだ。これからも時々、あんたに話したい事、話すべき事を思い出すだろう。それまで焦らなくてもいいと思ってね」

「ええーっ。もしかして、ネタ切れ?」

「ある意味、そんなとこだね。ネタが無いというわけでもないが、これまで話した事ほど重要とも言えない気がするんだよ。

 重要なところは、あらかた、あんたに伝えられた。私は安心したよ」

「ノコの前の女中頭さんはノコに伝えて、ノコはセピイおばさんに伝えた。そしてセピイおばさんは私に伝えた。

 でも私は、まだ城女中になっていないよ。

 あっ。これって、セピイおばさんは賛成してくれるってこと?」

「いいや。賛成はしないね。城女中なんて、やめときな。ノコさんが家族を巻き込みたくなかったように、私だって、できるだけ、あんたたちを巻き込みたくないんだよ。

 私が教えたことは、あんたの人生や家族のために役立てておくれ。城女中にならなくても、それはできる」

「そうは言っても」

 私は、反論の言葉を探したけど、思い浮かばない。

「ほら、我が家が見えてきただろ。

 さあ、頭を昔のことから今に切り替えて。

 あんたの人生は長いんだからね」

 セピイおばさんは私に微笑んだ。

自作小説「塔の上のセピイ  〜中世キリスト教社会の城女中の話」第十七話(全十九話の予定)

第十七話 失われた者たち

 

 ともかく、ジャッカルゴは都アガスプスから居城メレディーンに、妻子ともども無事に帰ってきたのだ。妻のヘミーチカも赤ちゃんのナタナエルも、その後、へんな病を発症したりする事はなかった。都に住む、それぞれの両親も健康であった、と。

 それを考えれば、何の問題も無し、と私は解釈したのだが。

「どうも、アンディン様のご様子が少し変だったらしい」とセピイおばさんは話を続ける。

「ジャッカルゴ様ご一家が戻られて、何日か経った時にね。ふと気がつくと、オペイクス様が居なくなっていた。まあ、普段から目立たないお方だ。周りは誰も話題にしていなかったよ。私も、きっと何かの任務で外出されたんだろうと推測して、口には出さなかった。

 それから、さらに何日かして。あれは、まだ陽も昇っていない早朝だったねえ。私が朝の水汲みとかしていたら、いつの間にかオペイクス様の姿が厩に見えるじゃないか。

 私も考えたね。もしかしてオペイクス様は、あまり人に知られてはならないような任務で外出なさっていたのでは。普通にお声掛けして、他の女中や使用人たちの目を引いたら、まずいのかも。それで結論として、私は声を抑えて挨拶した。『よくお戻りになられました』と。

 案の定、オペイクス様はちょっとバツが悪そうに苦笑なさってね。『見つかったのがセピイなら、大丈夫か』とか、頭をかきながら、おっしゃる。続けて、旅装をくるくるに丸めて寄越して、私に洗濯を頼んだ。

 私は『朝食を用意しましょうか』ともお聞きしたんだが。オペイクス様は『先に、ジャッカルゴ様に報告する事があるから』と厩を出て行かれたっけねえ。

 その時は、それで終わったんだけど。

 その日の午後だったか、あるいは翌日の午後だったような。とにかくオペイクス様が、一人で外城壁の上から遠くを眺めておられた。

 私は仕事の合間に、そこまで上がって、声を掛けてみた。『もしかして今回のお務めの疲れが、まだ取れていないのでは』とね。

 オペイクス様は困ったような笑みを私に向けたものの、すぐには返答しなかった。それでも少し間を置いてから、周囲に人が居ないのを確かめて、こんなふうに前置きしたんだ。

『本来なら、あまり話さない方がいいのだろうけど。

 聞いてくれないか、セピイ。できれば人に話すことで、肩の荷を少し減らしたい気分なんだ』

 だからお答えしたよ。『私で良ければお聞かせください』と」

「やっぱり、おばさんも気になっていたんだね」

「そりゃ、そうだよ。流行り病の説を唱えたのは、他ならぬオペイクス様だ。そのオペイクス様が、また何かに気づいて、その上で外出なさっていたのかもしれないじゃないか。

 もちろん、私も聞いた事をぺらぺら言いふらすつもりはないよ」

「おばさんのそういうところを信頼して、オペイクスは話す気になったのね。

 それにしても、オペイクスも秘密と思いながらも、誰かに聞いてもらいたいなんて」

「だから私も、内心は身構えたよ。しかし、それでも、やはり気になる。そしてオペイクス様自身も、言ってしまいたい、吐き出したい、とおっしゃっている。

 それで聞かせていただいたのが、アンディン様の話さ」

「もしかして、実はアンディンも体調を崩して、危篤だとか」と私も、つい先走ってしまう。

 セピイおばさんは苦笑いを浮かべた。

「幸い、そういう具体的な問題じゃなかったよ。もし、そうだったら、秘密にするどころか、跡継ぎであるジャッカルゴ様が対応に追われている頃だろうし。

 しかし危篤とかじゃないなら、ないで、アンディン様の心境をどういう言うべきか。

 とにかく、アンディン様のお舅様の葬儀の後だよ。アンディン様は、息子であるジャッカルゴ様に頼んでいたんだ。『オペイクスを都に寄越してくれ』とね。しかも『ごく内密に』と来た。

 それでジャッカルゴ様はメレディーン城に戻ってから、すぐオペイクス様に指示したよ。オペイクス様も、城詰めのみんなに気づかれないように城を出て、都に向かった。単騎で。しかも人の目につかないように、紋章衣も無しだ。

 都アガスプスに着いたら、オペイクス様は、事前に指定されていた宿に入った。そこは、てっきりアンディン様たちのお屋敷の近くだろうと予想していたら、むしろ宮殿のすぐ裏手だったそうだ。

 オペイクス様は、その宿の使用人の一人に小銭をつかませて、アンディン様たちのお屋敷に向かわせたよ。しばらくして、その使用人がアンディン様の伝言を持って帰った。二人で会うための場所と日時。場所が呑み屋というのは理解できたけど、日時の方は、その日すぐ、というわけにはいかなかった。たしかオペイクス様は、翌日か、さらにその次の日まで待った、とおっしゃっていたような」

「ず、随分と手が込んでいるわね」と私も思わず口を挟んでしまう。

「だからオペイクス様も、あまりいい予感がしなくて、やきもきしたそうだよ。その上、ただでさえ苦手な都で、じっとしていなきゃならなかったんだからね。

 そして指定された、その日。アンディン様は平民の服装で、オペイクス様の前に現れたよ。

 夕暮れ時でね。アンディン様は呑み屋のおやじに言って、店先に卓と椅子を並べさせた。オペイクス様がアンディン様に続いて、そこに腰掛けると、周りの店や家屋の向こうに、宮殿や教会堂の塔が何本か見えた。そんな位置だったと。

 それら周りの建物の陰には、ほんのわずかだが人影もチラついて、アンディン様が密偵たちを護衛として潜ませている事も分かった。

 状況が確認できて安心したオペイクス様は、改めてアンディン様と向かい合ったよ。見たところ、アンディン様の顔色は特別悪い、という感じでもない。しかし明るい表情とはお世辞にも言えない、とオペイクス様は思ったそうだ。

 アンディン様がまずおっしゃったのは、こんなお言葉。『待たせたな、オペイクス。今日は奥が、馴染みのある女子修道院の院長に会いに行ったのでな。それで私も、やっと抜け出して来れた』

 それでオペイクス様は、すかさず小声でお尋ねしたよ。『すると、奥方様は今日の我々の事をご存じないと』

 対するアンディン様のご返事は、こうだ。『うむ。今日は私も気が緩んで、亡くなったばかりの舅殿を悪く言うかもしれん。我ながら心配になったゆえ、奥には黙っておいた』と」

「ええーっ」私は、とうとう我慢しきれずに声を上げてしまった。そのくせ言葉が続かない。何と言ったらいいのやら。まさかアンディンたちから、きな臭くなるなんて。

「私もオペイクス様から話を聞いた時は、思わず、のけぞったよ。ただでさえ流行り病だ何だと心配ごとが多いのに。でも、どんな人、どんな夫婦だって、ちょっとした隠し事くらいあるだろう、と私は思い直した。

 オペイクス様は続けてお尋ねしたね。お父様を亡くしたキオッフィーヌ様は、やはり気落ちしているのでは、と。アンディン様は、うなずいた。アンディン様の話では、キオッフィーヌ様は取り乱したりはしていないが、静かに悲しんでおられたらしい。女子修道院に向かったのは、亡くなったお父様のためさ。祈祷なんかを頼むつもりだったんだよ。

 とは言え、亡くなったキオッフィーヌ様のお父様、アンディン様のお舅様は、ナタナエル様という曾孫と会えたくらいの、いいお歳だったからね。オペイクス様は『老衰でしたか』とも尋ねたよ。しかし今度は、アンディン様は首を縦に振らない。小さく横に振る。

『安らかに、という最期ではなかった。舅殿の屋敷の使用人たちや親族がたが言うには、舅殿は夜中に胸の痛みを訴えたと。かなり激しい痛みだったようでな。舅殿は胸を掻きむしりながら何度も寝返りをうったそうだ。しかも頭痛まで。目が充血し、よだれが口から流れて止まらなかった、とも聞いている。(神のお迎えが、かくも乱暴なものとは)というのが舅殿の最期の言葉だ』

 そう説明しながらアンディン様は、うつむいておられたそうだ。

 話を聞いたオペイクス様は『しばらく絶句してしまった』とおっしゃっていたよ」

「た、たしかに」と私。やっぱり、まだ言葉が続かない。

「オペイクス様は、よくよく考えた上でアンディン様に告白したんだ。『宮殿でからかわれて以来、正直、私はあの方に良い印象を持っておりませんでした。しかし、だからと言って、それほどの事態を望んでいたつもりは、なかったのですが』

 するとアンディン様も顔を上げて『私もだ』とお答えになる。

『党首としての権利と務めを息子に譲って、この都に住むと決めた時。王族がたの話し相手を務めると私は言ったが、そのほとんどは舅殿と想定しての事だ。何度、顔を合わせても、上辺だけの付き合いで、最後まで私に打ち解けてくださる事はあるまい。そう覚悟した上での決断だった。

 要するに、私は力んでいたのだ。そなたも気づいていたであろうし、自分でも自覚していた。

 しかし・・・当の舅殿が、まさか、これほど早く亡くなられるとは。私は、少なくとも五年から七年は健在だろうと見ていたよ。キオッフィーヌも、おそらく予想していなかっただろう。いや、それ以前に、舅殿本人が少しも予想していなかったのでは。時に世の人は、死期を悟る、などと口にする。しかし舅殿に、そんな素振りは一切無かった。最後にお会いした時など、むしろ、悠々自適の老後を自慢するかのように見えたほどよ。舅殿がご自分の死期に気づいていたとは、とても思えん』

 というようなことをおっしゃってから、アンディン様は、しばらく黙り込んだそうだ」

 セピイおばさんの話に、うーん、と私は唸る。私はもちろん、オペイクスだけでなく、アンディンまでも絶句している。オペイクスを呼び出したのは、アンディンなのに。でも、絶句する気持ちも分かる。

「オペイクス様は、話をつなげる言葉を探そうと、頭を悩ませた。で、やっとこさ、ひねり出したんだ。『拍子抜け、でしたかな』とかね。

  アンディン様は、たしかに反応してくださったよ。『うむ。まさしく、その通りだ』と。でも、それだけ。そこから話を広げようとか、なさらないんだ。

 分かるだろ、プルーデンス。アンディン様は何もオペイクス様に不満を感じて会話を進めない、というわけじゃない。そもそもアンディン様はオペイクス様と語り合いたくて、メレディーンから呼び出したんだから。にも関わらず、言葉が出ない」

「と言うより、元気が無い」と私は確認するつもりで、あえて口をはさんだ。

 セピイおばさんは、うなずいてくれた。

「その通りだよ。もっと言えば、そう、オペイクス様の表現を借りれば、アンディン様は明らかに弱っていた。『あんなに弱ったアンディン様は、初めて見た』とまでおっしゃった」

「それじゃ、どう言葉を掛けたらいいか、分からなくなるわね」

「そうなんだ。

 しかし、しばらくしたら、さすがにアンディン様も気を使ったのか、アンディン様からオペイクス様に話しかけた。のろのろと、だけどね。

 どんな話題かと言うと、昔の事だよ。

『私が初めて、そなたに声を掛けた時の事は、覚えているな。あの時、私は、そなたと都合が合えば、この店に連れてこようと考えていたのだ。若い頃から、よく息抜きに逃げ込んでいた店でな』とか何とか。

 オペイクス様は、すかさず謝ったよ。あの時はパールさんに会いたい一心で、ナクビーへの帰り道を急いだんだからね」

 私は口をはさまずに、うなずく。その場面の話も、パールの物語も全部、覚えている。

「対してアンディン様は『謝るには及ばん』とおっしゃった。それどころか『従者たちに任せず、私も一緒に、そなたをナクビーまで送るべきだった』なんて言い出してね。そうすれば、そのままナクビーで生前のパールさんにも会えたはず、とアンディン様はおっしゃるんだよ。『我ながら気が利かない。情けない』を繰り返して、弱々しく首を振る。

 もちろんオペイクス様は『そんなことはありません』と否定したよ。『あの頃はジャッカルゴ様たちも、まだ幼かったはず。私が帰りを急いだように、アンディン様もご家族の元に帰らなければならなかった。それに党首であったアンディン様なら、その他にも、いろいろとご用事があったでしょう。ただ、ただ私たちは時間が合わなかった。仕方なかったのです』そう言って、オペイクス様はアンディン様を納得させようとしたんだけど。

 アンディン様は首を横に振るのをやめてくださらなかった。『いや、仕方ない、では済まない。そなたの奥方は亡くなったのだから。本来なら、もっと違う結果にそなたたち夫婦を導くことができたはず。私が神なら、最後の審判の時に、このアンディン・ヌビに対して、そう言う』とまでおっしゃって。

 オペイクス様は『おやめください』と遮ったよ。でも、あまりに悲しくて、言葉に力が入らなかったとか。

 オペイクス様は、こんなふうに続けた。

『どうか、ご自分を責めるのは、おやめください。パールを埋葬する手立てが無くて、途方に暮れていた私に、あなた様は、おっしゃったじゃないですか。(自分を責めるな)と。失礼ですが、今そのお言葉をそっくりお返しします。ご自分を責めないでください。

 私も、あなた様を責めません。あなた様を責めるくらいなら、ペレガミ家を責めます。それと、私とパールを応援してくれなかったビナシス家も。私があなた様を責めるなど、どう考えても筋違いです』

 そこまでオペイクス様は断言したのに、アンディン様は、まだ首を横に振る。のろのろと。

『いや、そなたは私を責めるべきだ。私を責めてくれ、オペイクス。そなたが奥方を、大切な人を失った事には変わりないのだから』

 アンディン様のこの言葉を聞いた途端、今度こそ『おやめくださいっ』とオペイクス様は叫んだよ。アンディン様に対して声を荒げたのは、後にも先にも、これ一回きりだそうだ。

 オペイクス様はそれを、無礼でしたと、すぐに謝ろうか、とも思った。しかし当のアンディン様は驚きも怒りもせずに、オペイクス様をぼんやり見つめるだけで。

 そうやってアンディン様と目が合っているうちに、オペイクス様には、ひらめくものがあった」

 セピイおばさんは、そこまで話すと、私をひたと見つめた。ん?えっと、何があるんだっけ。おばさんの意図が汲めない。

「ひらめく、と言っても、素敵な考えを思いついた、とかじゃないよ。

 よおく思い出しておくれ、プルーデンス。パールさんのお墓を確保できなくて悲しんでいたオペイクス様に、アンディン様は、おっしゃった。『自分も大切な人を失った事がある』と。

オペイクス様は会話の流れで、そのお言葉を思い出したんだ。

 しかし、ここでよく考える、と言うか、もう一つ思い出すんだよ。アンディン様とオペイクス様が都で会話しているのは、アンディン様のお舅様が亡くなられた事がきっかけで、アンディン様が語らいたいと望んでオペイクス様を呼び出したからだ。

 いつの間にか、話題がパールさんの事に替わっていたが、元はと言えば、アンディン様のお舅様について話していた、はず。

 分かるかい、プルーデンス。オペイクス様の頭ん中で、アンディン様のお言葉とお舅様の存在が結びついたんだ。オペイクス様は自分が凍りつくかと思ったそうだよ」

「ええ〜、おばさん。私、まだ分かんないよ」私は首をひねった。

「奥さんのキオッフィーヌがいるのに、アンディンは『大切な人を失った事がある』って言った。その話は覚えているし、オペイクスもおばさんたちも、それが誰を指すのか、あまり詮索すべきじゃないって結論に達したんでしょ。

 でも、その事と、アンディンのお舅さん、キオッフィーヌの父親が、どう関係して・・

 あっ」

 私は叫んでしまった。そしてセピイおばさんはそれを咎めない。

「結びついたね、プルーデンス。そう、オペイクス様も気がついたんだ。

 かつてアンディン様が大切な人を失ったのは、お舅様、さらにはキオッフィーヌ様が関係しているのでは。もっと、はっきり、どぎつい言い方をすれば、その方がアンディン様の元から居なくなった、あるいは失われたのは、お舅様やキオッフィーヌ様が何らかの手を下したからじゃないか、と。

 もっともオペイクス様が私に話してくださった時は、そんな、どぎつい言い方は、なさらなかったけどね」

 私は固まった。言葉も出ない。オペイクスが凍りついたと言う意味が分かる。どぎつい言い方と説明しながら、セピイおばさんは、まだかなり手加減している。私は、もっと直接的な恐ろしい事を想像している。セピイおばさんも、オペイクスも似たような想像をしたに違いない。

「お、おばさん」私は何とか、そう声を絞り出したものの、全く続かなかった。

 セピイおばさんは、のろのろした口調で話を再開した。

「詮索すべきではない。まさに、その通りだよ。だからオペイクス様も、自分が思いついた推測を、ぐっと呑み込んだ。『ほとんど、つばと一緒に呑み込んだ』とオペイクス様は、おっしゃっていたね。

 そして何とかして、気をつけてお舅様に話題を戻そうと試みたんだ。オペイクス様が選んだ言葉は、こんな感じ。

『もしや、あの方が、亡くなられたお舅様が生前、アンディン様を責めておられたのですか』

 アンディン様の反応は、まだ鈍かった。

『いや、そういうわけではない。はっきりと私を非難する言葉などは無いのだ。ただ、内心は私を拒んでおられるだろう、とは思った。その気配は、たしかにあった。

 余談だが、今、宮殿に上がると、グローツ王陛下が同じ目で私を見なさる。生前の舅殿と、全く同じ眼差しでな。と言っても、グローツ王陛下と舅殿は、叔父と甥の関係か』

 なんて、後の方は誰に向けるでもなく、つぶやくような言い方になって。

 オペイクス様も、さすがにグローツ王についての言及は気になったが、それよりもアンディン様とお舅様の事を優先したよ。

『し、失礼ですが。そのように打ち解けてくださらないお舅様を、アンディン様から多少、責めてもよろしいのでは。そのような気持ちを抱いても当然なのでは。私には、そう思えてなりません。死者を鞭打つようで、あまり良くありませんが』

 とか言ってね」

 これには私も反応した。「だいぶ踏み込んだ、かなり大胆なカマ掛けね。オペイクスにしては珍しい」

「そうだよ。あえてオペイクス様は意見したんだ。『わざとだから緊張した』と本人もおっしゃっていたよ。

 そのせいか、あるいは気にしすぎなのかもしれないけど。オペイクス様は言うには『一瞬、ほんの一瞬だけど、アンディン様の目の奥が光ったような気がした』と。

 でもアンディン様の口調は、そのままでね。こんなことをおっしゃるんだ。

『オペイクスよ。そなたは本気で、そう思っているのか。私が舅殿を責めるべきだ、と。そなたは長年、私とヌビ家を見てきたではないか。そんな資格は私に無いことなど、とうに分かっておろう。

 私が舅殿を責める。あり得ぬ。それこそ許されぬことだ』

 アンディン様は、またしても、ゆっくり首を横に振った。

『責めるどころか、感謝せねばならぬ。今のヌビ家があるのは、舅殿のおかげぞ。舅殿が、ご自分の娘であるキオッフィーヌと私を娶せてくださった。

 それにより、我がヌビ家は勢力を伸ばし、シャンジャビ家に追いすがる位置にまで辿り着いた。舅殿やキオッフィーヌとのつながりが無ければ、今頃ヌビ家は、ビナシスやチャレンツなど、中規模の連中との背比べに終始しておっただろう。それでもいい方よ。下手すれば没落し、潰されていても、おかしくない。

 もちろん舅殿を含め、王家にも思惑があったろう。いつ何時ジャンジャビの者どもが冗長するとも限らん。その時のために、事前に対抗馬を用意しておきたい。ヌビ家をそれに当てがおう、とな。

 それでもいい。むしろ贅沢ではないか。ヌビ家の現状を見よ。一族郎党も領地も増え、しかも比較的、落ち着いておる。そなたと、こうして語らうこともできる。贅沢そのものではないか』

 なんて言いながらアンディン様の視線は、オペイクス様から外れて、通りの街並みに移っていったそうだ」

「でも」と私は、もらしてしまう。

「そう。オペイクス様も内心、でも、と思った。そう、おっしゃっていたよ。私だって、オペイクス様の話を聞きながら思ったんだ。

 それらの繁栄のために、アンディン様は大切な誰かを失ったのか・・・」

 セピイおばさんの言葉は、その疑問のところで途切れた。私も、何も言えない。

 と思ったのだが。

「私たちがこうして村で暮らしているのも、私とセピイおばさんが今、こんな話をできているのも・・・もしかして、その誰かさんのおかげなのかな」

 私は言ってしまった。何で、そんな疑問が浮かんだのか。自分でも不思議に・・・

 いや、不思議でも何でもない。ごく自然なことだ。このアンディンの誰かさんだけじゃない。ひいお爺ちゃんやマルフトさんをはじめ、パールやボジェナさん、その他、多くの人たちのおかげで私は生きている。そうとしか思えない。

「よく考えてくれたね、プルーデンス。そうだよ。忘れてはならない、失くしてはならない考え方だよ」

 同意してくれたものの、セピイおばさんの言葉は、また途切れた。葡萄酒の皮袋を引っぱり出すことさえ、しない。私も、何と話をつないだらいいのか。

 セピイおばさんは、大きく息をついた。

「オペイクス様は、何と答えたらいいのか、分からなかったそうだ。ヌビ家が発展した事は百も承知さ。しかし、ただ、それを認めるだけでは、アンディン様に申し訳ないような。替わりにアンディン様が大切な誰かを失った事を、仕方ない、と片づけるような。自分だって、パールさんの死を仕方ない、なんて言いたくないのに。

 オペイクス様は、いつの間にか椅子から腰を浮かせて立ち上がっていたよ。その事に自分でも内心、驚いたが、そんな場合じゃない。言わなければ。しかし、何を。オペイクス様は迷ったんだよ。もう少し踏み込むべきか。その誰かについて。アンディン様が失ったと言う、誰かについて。踏み込みたい。知りたい。しかし、踏み込んでいいのか。

 おそらくオペイクス様は『あの、その』とか繰り返していたんだろうね。

 その時さ。鐘が鳴ったんだ。通りの向かい側の街並み。その向こうの宮殿や教会堂。それらから伸びた細い塔が何本か、夕焼けの赤い空に喰い込んでいてね。鐘の音が、そこから聞こえてきた、と。

 それに反応して、アンディン様が、ぼそりとおっしゃった。

『やれ、鐘が鳴ったか。そろそろ宮殿の門も、教会堂も閉まるだろう。今頃キオッフィーヌも、訪問した修道院で帰り支度を始めたはず。

 となれば、我らの語らいも、ここまでだな。よくぞ付き合おうてくれた、オペイクス。感謝するぞ』

 アンディン様は、ゆっくりと立ち上がって、店のおやじを呼んだ。で、呆然と立ち尽くすオペイクス様の前で、支払いを済ませた。と言っても、二人とも、ほとんど盃に口をつけていなかったんだけどね。

 そして二人は別れた。オペイクス様は、アンディン様の背中が路地の暗がりに溶け込んでいくところを、最後まで見届けたそうだよ。ほんのわずかだが、アンディン様の周りで影が動いたんで、護衛の密偵たちも移動したことが分かった」

 セピイおばさんは、また、ふーっと息をついた。

「その後、宿に戻ったオペイクス様は、夜のうちにそこを引き払って、メレディーンへの帰り道を急いだよ。

 本当は『都を出たら、ナクビーやロミルチを回っていい』とジャッカルゴ様からお許しをもらっていたのに、だ。パールさんのお墓を参ったりしたいのは山々だが、なるべく早くジャッカルゴ様に報告した方が良かろう。そう、オペイクス様は考えたんだ。アンディン様のご様子とか、アンディン様から見たグローツ王陛下の事とかを。

 そして、やっぱりと言うか、オペイクス様は考えた。馬を急がせながらも。それこそ冷えた星空の下でも、昼間の土ぼこりの中でもね。アンディン様が失ったと言う誰かの事を。アンディン様の気持ちを。

 推測の域を出ないと分かっていながらも、オペイクス様は考えずにはいられなかった。自分がパールさんを失ったように、アンディン様も誰かを失った。

 それは、奥方であるキオッフィーヌ様ではないけれども。そして、その事によってアンディン様とキオッフィーヌ様の政略結婚が成立し、ヌビ家は発展したのだけれど。

 オペイクス様は、おっしゃったね。『自分が恥ずかしい』と。

『私は、いつの間にか、自分ばかりが辛い思いをしている、と思い込んでいた。パールへの気持ちを振りかざして、君やイリーデや周りの人たちに接していたんだな。今回、アンディン様の事情を垣間見て、私はその事に気づかされたよ』

 とね」

 私も息をついてから、口をはさんだ。

「オペイクスは、それをセピイおばさんに言いたかったのね。自分の気づきを知ってもらいたかった」

「それに、今回の秘め事は、一人で抱え込むには、あまりにも大きすぎるからね。誰かに話してしまいたい気持ちも分かるよ。

 アンディン様でさえ、誰かに話さずにはいられなかった。それで、よくよく考えてオペイクス様を選んだわけさ。

 そして私は、あんたに話した」

「私も、いつか誰かに話していいの?」

「まあ、ダメだとは言えないね。せめて、あんたの子どもとか、孫にしておくれ。もちろん、場所とか周りの状況をよく確かめてから、だ」

 セピイおばさんが、やっと少し微笑んでくれた。

 「はあい」と返事しながらも、しかし私は、ふと考えてしまう。

 私の子どもや孫の頃には、ヌビ家は、どうなっているのだろう。シャンジャビ家を追い越すほどの勢力になっているのか。それとも、没落しているのか。それに伴って、この、山の案山子村はどうなっているのか。

 とにもかくにも平穏であってほしい。私は、そう神様にお願いしたくなる。

 

「さて、話がややこしくて悪いんだが、よおく思い出しておくれ。私が、このアンディン様の話をオペイクス様から聞いたのは、メレディーン城の外城壁の上。のどかな午後だっただろ。

 オペイクス様が『気づかされた』とおっしゃっていた時、私とオペイクスには、もう一つ気づいた事があったよ。城壁の下から、ノコさんの声が聞こえてきたんだ。

『オペイクス様。何の講義か存じませんが、そろそろセピイを返していただきますよ』

『や、これは済まない』と答えて、オペイクス様は私を送り出した。

 私も慌てて城壁の階段を降りて、ノコさんと合流したよ。と、ノコさんが小声で素早く言った。

『シルヴィアがあんたたちの会話を気にしていたから、追っぱらっておいた。オペイクス様がアンディン様を話題にしていたのなら、誰にも言うんじゃないよ。後でシルヴィアから尋ねられても、しらばっくれること。いいね』

 私は声を出さなかったが、ノコさんと目を合わせて、うなずいた。

 そして思ったよ。シルヴィアさんのアンディン様への想いは叶わない。しかしアンディン様の誰かへの想いも、また叶わなかったんだな、と」

「セピイおばさん」私は、またしても口をはさんだ。「ノコなら、アンディンの事情を知っているんじゃない?」

 セピイおばさんは一瞬、固まって、少し困ったような笑みを見せた。

「いい線だよ、プルーデンス。私も、そう勘ぐったさ。しかし、すぐその場でノコさんに踏み込むわけにはいかなかったねえ。城女中としての仕事が待っていた」

 うーむ、一旦、保留か。しかし、ここまで来たら、もう焦ったりしない。私だって、辛抱を覚えたのだ。

 

 セピイおばさんが盃に葡萄酒を注いでいる。何だか久しぶりな気になるが、もちろん私の勘違いで、今晩、何回めだろうか。私も少し、もらう。

「もしかして、さらに誰かが死んじゃう、とか」なんて私は警戒してしまったけど。

「ちょっと違うねえ。忙しくなるんだよ、私自身が」とセピイおばさんは答える。

 若き日のおばさんが城壁の上でオペイクスから話を聞いてから、数日後の事。

「こちらツッジャム城から馬車や騎馬の一隊が、メレディーン城に到着してね。なんと、その代表はロンギノ様だった」

「ロンギノは治ったの?」と私の声は裏返った。

「ああ、ありがたい事だろ。私も心底ホッとしたよ」

「なんだ、おばさんったら、脅かさないでよ。ちゃんと、いい兆しが見えてきたじゃん」

「喜ぶのは、まだ早いよ。それだけじゃないんだ。懐かしい顔ぶれも連れて来てくださってね。ベイジ夫妻。しかも、子どもも一緒だった。私がベイジの子を抱っこしたのは、この時が初めてだよ」

 セピイおばさんの表情が和らいでいる。良かった。でも、忙しくなるって?

「ベイジったら、メレディーン城に入れた事に興奮してねえ。『メレディーン。私、今、メレディーンに居るのねっ』なんて、旦那さんや私に唾を飛ばして。せっかく再会したのに、私なんか、そっちのけさ。

 しかし、そんな間にも子どもの手はしっかり握って、それがダメなら旦那さんに預けたりしてね。母親の務めは忘れていないんだ。私は感心したよ」

「ベイジ一家を全員連れて来てくれるなんて、ロンギノも随分、気前がいいわね。あっ、気前がいいのは、ジャノメイかな?」と私は確認したが。

「まあ、そこは、やっぱり事情と言うか、役目があったんだけど。

 でも、その前に、党首ジャッカルゴ様への挨拶が先だ。ロンギノ様は、ベイジの旦那さんを連れて、のしのし書斎に向かって行った。

 その間、私とベイジ母子は中庭でお待ちしてね。そのうち、私の里帰りに同行した使用人の一人が、気を利かせてブラウネンに声をかけてくれた。それでブラウネンは、大慌てで城下町に飛び出して行ったよ。そして、奥さんのイリーデと子どもを連れて戻って来た。

 私の里帰り以来だから、イリーデとベイジは二年ぶりだったかね。それとも三年か。お互いの結婚や出産を祝福し合って、子ども同士も対面させたよ。イリーデの子どもは、まだ抱っこだったが。

 そのうち、ヘミーチカ様もナタナエル様を連れて加わって。

 のどかだったねえ。よく晴れた、気持ちのいい日だった」

 よ、よかったね、と合いの手を入れたけど、私の声は小さくなってしまった。内心、驚いていたのだ。直前に聞いた、アンディンの弱りっぷりが嘘みたい。落差が大きすぎる。

 しかし、アンディンついでに、私はオペイクスを思い出した。

「そういえば、オペイクスは?オペイクスも、ベイジの一家に会ったの?」

「おおっと、そうだった。言い忘れるところだったよ。オペイクス様は、ちょうど外出なさっていて、居合わせなかったんだ。そう、今度こそナクビーと、ロミルチにあるパールさんのお墓参りに出かけたのさ。ジャッカルゴ様への報告が済んだからね。

 って、ロンギノ様もジャッカルゴ様の書斎から出て来られたら、あんたと同じ質問をなさったよ。何でも、オペイクス様に証人になってもらうつもりだったと。療養中に、ロミルチ城のオーデイショー様から手紙でお叱りを受けたんだとさ。『わしも必ずや全快してみせるから、そなたも、しっかりせいっ』とか何とか書かれていたって」

「えっ、てことは、オーデイショーも寝込んでいたの?」

「そうなんだよ。ロミルチ周辺でも、人が急に亡くなったりする事態が結構あったそうだ。私も後で知って、びっくりした」

「うーん、やっぱりヨランドラ全体の問題だわ、これは」

「あの頃は、見えない病魔がうろついているみたいな気がして、落ち着かなかったねえ。

 しかも、いつまた、そんな事態になるか、分かったもんじゃない。

 と、将来の心配は一旦、置いといて」

 セピイおばさんは、自分の椅子の位置を直した。

「中庭に入って来られたロンギノ様は、私におっしゃるんだ。『セピイよ。せっかくだから、メレディーンの眺めを見せてくれ。若のお許しも得たでな』と。

 そして私たちは外城郭に移った。私がロンギノ様を案内するだけかと思ったら、ベイジ一家も見たいとか言い出して。

 後から出て来られたジャッカルゴ様も、ヘミーチカ様たちに合流して『我らも行こう』と、ブラウネンの一家も誘っていた。

 つまり三家族以上の者たちが、ぞろぞろと階段を登って、外城壁の上に出たわけさ。

 たしか、まずロンギノ様が胸壁から街並みの方を向いて『あいかわらず見事な景色よなあ』とか、おっしゃったんだったか。

 それを聞いたベイジの子が、塔の一つを指差して言うんだ。『でも、おじちゃん、あっちの方が高い。僕、あっちに行きたい』って。

 ベイジはすぐに、たしなめた。『ちょっと待ってて。ママは、お友達のお姉さんと大事な話があるから。お願いは、その後よ』と」

「大事な話」私は思わず繰り返してしまった。

「そう。

 そしたら、ジャッカルゴ様が提案してくださった。ベイジと私が話している間、自分たちが連れて行ってやろう、と。で、ベイジの旦那さんが子どもと一緒について行った。イリーデとブラウネンたちも、ジャッカルゴ様に誘われていたよ。

 その塔は、ちょうど外城壁と内城壁のつなぎ目にあってね。外城壁の上の通路から辿って行けるんだ。ちなみに、その塔の中ほどには、ジャッカルゴ様がお父上アンディン様から譲り受けた書斎がある。

 五分ほど経ったら、塔の上にジャッカルゴ様とナタナエル様が顔を出した。と言っても、ジャッカルゴ様とヘミーチカ様、イリーデとブラウネン、そしてベイジの旦那さんの、大人が計五人で、さすがに狭かったんだろう。眺めを楽しむのも、交代しながらさ。あんたも、ついでに覚えておくといい。背の高い塔ほど、細くて狭いんだよ。

 ベイジの旦那さんが抱っこしてやって、男の子は胸壁の凹みから手を振りながら、母親であるベイジに声をかけた。それに、ベイジも手を振り返して。

 ジャッカルゴ様ご夫妻もイリーデ夫婦も気を使って、ベイジの子に長めに交代してあげていたよ。ナタナエル様も居たのに、ね。イリーデの子どもには、ちょっと早かったのかな」

「の、のどかね」と私。

「ああ、そこだけ見れば、贅沢なくらいに平和なんだ。しかし。

 残ったベイジとロンギノ様の表情が、いつの間にか固くなっていた。

 まず、ロンギノ様から話し始めた。『セピイよ。実は、今回、我々がここを訪れたのは、そなたを説得するためだ』と。つまり、党首であるジャッカルゴ様への報告とか、細々した用事は他にもあったけど、一番の目的は私だ、とおっしゃるのさ。

 ベイジも待ちきれないように、ロンギノ様に続いた。『セピイ。これから私たちは、あんたにとんでもない事を要求するから、断ってね。絶対に断ってほしいの』なんて。

 ベイジにしては、へんな言い方で不思議に思ったけど。要求の中身を聞かされたら、私も、あっと声が出たよ。他でもない、ビッサビア様が、私を呼んでいたんだ。マーチリンド家に帰る前に、ツッジャム城で私と会いたい、と」

「ええええっ」驚きのあまり、私の口は塞がらなかった。「だ、だめじゃん。ベイジもロンギノも、何を言い出すのかと思えば。ビッサビアだなんて、ダメに決まってるでしょ」

 私は、つばを飛ばすまでした。

 しかしセピイおばさんは、首を横に振る。

「えっ、おばさん、まさか」

「ああ、断らなかった。ロンギノ様にお答えしたよ。『私からもお願いします』と」

「な、なんで」

「そりゃあ、ビッサビア様に会うのは怖いさ。でも、ソレイトナックに関して、何か分かるかもしれない。ひどい言葉を投げつけられるだろうけど、それでも知りたかったんだよ。あの人のことを。少しでも」

 で、でも、と言いかけて、私は、そのまま絶句してしまった。おばさんに何か言ってあげたいけど。おばさんを応援したいけど。何と言ったらいいのか。

「私の返事を聞いて、ベイジもロンギノ様も、しばらく黙っていたねえ。

 で、ロンギノ様が、ぼそぼそと会話を再開しなさった。

『正直に言うとだな、セピイよ。俺は、そなたに会って説得を試みた、というふりだけにしようと思っておった。とりあえずツッジャムを出る。しかし、ここには来ない。そなたにも会わない。その上で、ビッサビア様にお答えするつもりだった。そなたを説得したが、断られた、とな』

 これに対して私の口からは、すらっと、ごく自然に、反論が出たよ。『でもビッサビア様なら、勘づかれるかもしれません』

『そうだ。だから、ふりではなくて、本当にそなたを説得するしかない、と結論した』とロンギノ様の返しも、なめらかで穏やかだった。

 そして今度はベイジだ。

『ロンギノ様はね。あんたに会う前に、私の意見を聞こうと、うちの店に立ち寄ってくださったの。

 もちろん私は、あんたをビッサビア様に会わせない方がいい、と思った。それで同行させていただいたのよ。直に会って、あんたと話したかったから。

 改めて言うよ。セピイ。今回、あんたはツッジャムに来ない方がいい。ビッサビア様には、もう二度と会うべきじゃないわ』

 ってね。

 私は、ベイジが真剣に心配してくれている事が分かって、心の中で感謝したよ」

「だったら」私は声を大きくしてしまう。そのくせ、なぜか続かない。

 セピイおばさんは私の次の言葉を待ってくれた。そして、それが来ないと気づくと、遅い口調で話を再開した。

「私は、こう答えたんだ。

『ありがとう、ベイジ。でも私は、改めてビッサビア様に会いたいと思う。昔の、つまり私がツッジャム城に上がったばかりの頃のあの人とは、すっかり変わっているんでしょうけど。だからこそ、お会いして確かめたいと思う』

 ベイジは私の考えを、しっかり聞いてくれたよ。その上で、喰い下がるんだ。『セピイ。あんた、意地、張ってんじゃないでしょうね?相手から逃げちゃいけない、とか』

 私は『そんなんじゃない』と首を振った。『意地を張ろうにも、あの人に対する怖さの方が上回っている。でも、その怖さよりも、知りたい、確かめたいという気持ちが、さらに上回っているの。あの人、ビッサビア様の本当の姿とか、ソレイトナックの状況とか』

 私が、そう説明すると、ロンギノ様が念を押した。『収穫は無いかもしれんぞ』と。

 私は、それにも首を横に振ったよ。『少なくとも、ビッサビア様の私に対する態度を確認することができます』とね」

「おばさん」私は、たまらなくなって口をはさんだ。

「おばさんには悪いけど、収穫って、その程度なの?私は、そう思うよ。おばさんにとっては、ソレイトナックと再会できる事以外、収穫とは呼べないはずでしょ。それなのに」

 セピイおばさんは実際に首を振った、ゆっくりと。話の中だけでなく、私の目の前で。

「たしかに、その程度だよ。それと引き換えにビッサビア様から受けるだろう酷い仕打ちや、ベイジやロンギノ様たちにかける迷惑を考えれば、なるほど、少しも吊り合わない。

 でもね。とにもかくにも、つかまないと。つかまないことには、分かりようもないんだ。いいのか、悪いのか。収穫と呼べるほどのものか、それほどでもないか。動かないことには、後悔もできないんじゃないかい?そりゃあ動いてみたら、後悔することもあるさ。でも動かないで、それを後で悔やむなんて・・・

 それじゃあ、ソレイトナックに会えるわけがない。

 私は、そう思ったんだ」

 セピイおばさんは言い切って、私を見つめる。同意を求めてもいない、怒ってもいない、柔らかい表情。

 私だって、おばさんを否定したいわけじゃない。ソレイトナックと再会してほしいと思う。

 でも。おばさんが、そんな罠みたいなところに自分から飛び込んでいくなんて。いいとは思えない。ベイジやロンギノと同様に、おばさんを止めたいと思う。

 ん?待って、私。今こうしてセピイおばさんが話しているってことは、当時、ロンギノたちはセピイおばさんを止められなかったの?ロンギノなんて、騎士で、ヌビ家の幹部で、権限もあるのに。

 私が考えをめぐらせていると、セピイおばさんは話を続けた。ある意味、それが、私が抱いた疑問の答えだった。

「ロンギノ様は、私の言い分をじっくり聞いてくださったよ。その上で、頭ごなしに命令したりしないんだ。

『若党首は我々に、一晩泊まっていけ、とおっしゃってくださった。よって我々がツッジャムに帰るのは、明日の午前だ。それまで何度も、よく考えるがよい。そなたの答えは明日、改めて聞こう』

 そう言って、ロンギノ様は一旦、話し合いを中断した。軽く手を挙げて、塔の上におられるジャッカルゴ様に合図して。

 それでベイジの旦那さんと子ども、イリーデ夫婦と、順番に降りてきて、私たちと合流したよ。ベイジの子が顔を輝かせて、ベイジに駆け寄っていた」

 セピイおばさんは、そこまで話して、ため息をついた。

 さすがに私も予想できた。セピイおばさんは考え直さなかったんだわ。

 

 そしてセピイおばさんは、その夜の晩餐会に話を移したのだが。その説明は短かった。問題の当事者として事情を知っているおばさんの目には、晩餐会が手放しで盛り上がったようには見えなかったのである。もちろん、誰かが誰かに意地悪を言ったりするわけではないのだけれど。気まずい、微妙な空気だったのだろう。

 それを救った、と言うか、和ませてくれたのは、やはり小さな子どもたちだ。年上であるベイジの子が、大人たちの間をちょこまか動き回る。ジャッカルゴの子は、つかまり立ちで、それを追いかけたがって、あうあう声を出す。イリーデの娘も抱っこされながら、目で追う。それでベイジの子は、年下の子どもたちのところに、ちょっと戻って、あやしては、またお出かけの繰り返し。時々お父さんから叱られる事もあったが、ベイジの子は明るさを振りまき続けて、大人たちも微笑ましく思ったようだ。

 セピイおばさんの話を聞きながら、まるでビッサビアの存在を忘れたみたい、と私は思わないでもない。でも、言わないでおく。

 そう自制していたら、別の影がさすと言うか、事態が発生した。ノコが体調不良をうったえたのである。ノコは、奥方ヘミーチカ付きの女中に事情を話して、女中部屋へ引っ込んだ。ヘミーチカには彼女から伝えてもらう。

 女中部屋までは、セピイおばさんとシルヴィアが付き添った、という。二人に支えられながら、ノコは二人に指示を出した。『子どもたちを自分に近づけないように』と。

 ロッテンロープも駆けつけたようだが、セピイおばさんの話だと、取り乱すばかりで、役に立ったのか、どうか。

 それにしても、さすがに女中頭である。頼りにされていて、しばらくすると、ジャッカルゴとロンギノも、ノコの症状を確認しようと女中部屋を訪れた。

 それでノコは、子どもたちに対する気づかいを、彼らにも向けなければならなくなった。私に近づいてはなりませぬ。ヌビ家の党首と幹部に病を移してしまっては申し訳ない。自分だけでなく、ヌビ家と領民たちに迷惑がかかる、と言うのである。

「ロンギノ様が扉越しに励ましておられたよ。『ノコよ、安心して休め。俺も、この通り、持ち直したでな』と。

 そしたらノコさんの返しは、こんなだった。『ええ、言われなくとも分かっております。そう、大声を出さんでください』なんて、寝床で顔をしかめて」

「せっかく心配してもらったのに」と私は、ロンギノに同情する。

「まあ、ノコさんとロンギノ様がそんなやり取りをできる間柄ってことさ。まだノコさんに気力があるという証拠でもある。

 ノコさんはロンギノ様に言い返した続きで、ジャッカルゴ様にもお願いしたよ。自分をメレディーン城から出して、別の場所で療養させてほしい、と。なんでも、メイプロニー様が幼い頃に学んでおられた女子修道院が、メレディーンの郊外にあるとか。修道女の皆さんには悪いが、そこで看病してもらえば、ジャッカルゴ様たちにも城詰めの者たちにも、病を移さずに済むってわけさ。

 それでジャッカルゴ様は早馬を走らせた。使者を務めた兵士は、夜のうちに修道院長の了承をもらって帰って来たよ」

 ほほお、と私は感心してしまう。自分の体調が悪くても、そこまで気を回せるなんて。セピイおばさんが後々、女中頭になれたのも、こんなお手本を身近に見られたから、かも。私もこのまま、おばさんから学び続ければ、いつか女中頭になれるかなあ。

 などと勝手な夢想をしている間も、セピイおばさんの話は続く。

「女中部屋で、ノコさんの寝床は元々、隅の方だったけど。その夜は、他所から持ってきたカーテンを天井から下げて、仕切りにしていたよ。

 食器洗いだ何だ、と仕事が終わったら、私も横になろうと思って、女中部屋を覗いた。ノコさんと同様に、先に寝ている人もいれば、まだ針仕事か何かで戻っていない人もいる。後は篝火のそばとかで、兵士か使用人とおしゃべりしている人ね。女中も人それぞれだよ。

 私は覗くだけで、部屋には入らなかった。昼間ロンギノ様たちと上がった外城壁に、もう一度、行ってみたんだ。一応、ロンギノ様から言われた通り、考えてみようと。

 でも、考えられなかったよ。このままロンギノ様とベイジ一家だけを帰して、自分は動かないなんて。あの人の、ビッサビア様の本当の姿を確かめないなんて。

 何度も言うが、ビッサビア様は怖い。でも、向こうから会いたいと意思表示してきたんだ。この機会を逃したら、二度と確かめられないだろう。そうとしか思えなかった。

 とか何とか考えながら、メレディーンの街並みをぼんやり見ていた。ところどころで明かりが揺れていて、綺麗でね。昼間ベイジが興奮したのも無理はない、と思ったよ。

 しばらくして城壁の下から、シルヴィアさんの声が聞こえてきた。途中ですれ違う他の女中とか、兵士なんかを適当にあしらっている声だよ。

 シルヴィアさんは階段を上がってきて、私の隣りに並びながら、こう言った。

『あんたのお友達、ベイジさん、だっけ。あの人もここに来て、あんたと話したがっていたけど、私が引き止めたわ。ベイジさんにはお子さんがいて、寝かさなきゃならないでしょ。で、代わりに伝言を引き受けたの』

 私はシルヴィアさんに尋ねた。『私のツッジャム行きに反対するよう、ベイジに頼まれたんですね』

 シルヴィアさんは、うなずいたよ。

 私は、もう一つ尋ねた。『シルヴィアさんも、ベイジやロンギノ様みたいに反対ですか』

 シルヴィアさんの答えは、こんなだった。『ええ、大反対ね。恋敵と対決なんて、時間の無駄にしかならないわよ。経験者の私が言うんだから、やめときなさい』

 シルヴィアさんは微笑んでいたね。その相手がスカーレットさんかヴァイオレットさんか、はたまた全く別の人か、説明は無かったけど。

 そのくせ、こう続けるんだ。

『と、普通なら返すところだけど。あんたとしては、行かずにはいられないんでしょ?

 なんて言い出したら、依頼主のベイジさんを裏切っちゃうわね。

 でも、私も思ったのよねえ。私があんたの立場でも、結局、行かずにはいられないだろうなって』

 この言葉に私は、すぐに返事できなかった。気持ちを分かってくれる人がやっと現れた、とありがたい反面、ちょっと怖い想像をしてしまったんだ。

 もしもキオッフィーヌ様が、シルヴィアさんのアンディン様に対する気持ちを知った上で、会いたいと伝えてきたら。そして、そんな事情を自分が耳にしたら。なるほど私は、シルヴィアさんをキオッフィーヌ様に会わせたくない、と思うだろう。シルヴィアさんは都に行くべきではない、と反対するだろう。

 そう考えると、改めてベイジやロンギノ様の気づかいが身にしみた」

 う、うーん、と唸って、私は絶句する。当時のセピイおばさんも絶句したのだろう。

「何も言えない私に、シルヴィアさんは、さらに続けたよ、こんなふうに。

『だから私も、もう、あんたを止めない。ベイジさんには明日、謝るわ。元々、彼女には、あまり期待しないでって断っておいたし。

 でもね、セピイ。あんたも期待しちゃダメよ。あんたは、たしかに向こうの奥方様の嫌味に耐えられるでしょう。と言っても、前の奥方様か。

 だけど、それに耐え抜いたからと言って、肝心の彼氏に再会できると思う?』

 私は首を横に振った。

『その上で行くのなら、覚悟はできているわけね』とシルヴィアさんが重ねて聞いた。

 今度は、私も首を縦に振った。

『分かったわ。

 となれば、そろそろ寝ましょう。対決に備えて』

 シルヴィアさんは私の背中を軽く押して、女中部屋に戻るよう促した。

 そして女中部屋に入って、私が毛布をかぶると、もう一つ、シルヴィアさんは言ってくれたよ。『寝つけなくてもいいから。とにかく目をつぶって、横になりなさい』とね」

 そう話されると、私も聞かずにはいられなかった。「やっぱり眠れなかった?」

「それがね、よく覚えていないんだ。私も、あれこれ考えていた、と思うんだけど」とセピイおばさんは微笑む。「つまり結局、眠れたんだろう。図太いつもりはないんだが。それとも無神経なのか。恥ずかしい話さ」

「いいのよ、それくらい。むしろ、対決の前に英気を養っておかなきゃ」

 私としては少しでもおばさんを応援したい気分だった。

 

 翌朝の話は、こんなだった。

 セピイおばさんが支度を済ませて、城門に向かうと、二台の馬車が待っていた。一台は、ツッジャムに帰るベイジ一家を乗せるもの。もう一台は、ノコをメレディーン郊外の女子修道院に連れて行くためのもの。

 セピイおばさんは改めて、ベイジとロンギノに宣言した。一緒にツッジャムに戻って、ビッサビアに会う、と。それで二人とも了承した。おそらくシルヴィアから、前の晩の結果を聞いていたのだろう。

 出発の前にセピイおばさんは、もう一台の馬車に駆け寄った。ノコの症状を確認しておきたかったのである。

 セピイおばさんが声をかけると、ノコは馬車の窓をほんの少しだけ開けて、こんなふうに言ったとか。

『問題のビッサビア様との話が済んだら、おそらく、あんたは里帰りを許されるだろう。ジャノメイ様もロンギノ様もお優しいからね。

 ところで、あんたは以前、里帰りの時に家族から引き止められたんだろ。今度も引き止められて、そのまま女中を辞めるんだったら、それでもいいよ。

 しかし、もし女中を続けるべく、このメレディーンに戻る気があったら。その時は、私が居る修道院に寄っておくれ。私の体調が良くなっていたら、拾ってほしいんだ。

 逆に、私の体調がまだ厳しかったら、若党首様と奥方様への伝言を、あんたに頼まなきゃならない』

 これに対し、若き日のセピイおばさんは『必ず修道院に立ち寄ります』と答えた。

 そして二台の馬車と、騎乗したロンギノや兵士たちなどが列を成して、城門を出た。

 ロンギノも兵士たちも紋章衣を着ていたし、馬車の側面には、ヌビ家の紋章、ヒュドラが一斉に鎌首を上げていた。

 セピイおばさんとベイジ母子を乗せた馬車の御者は、ベイジの旦那さんである。今回は紋章衣を借りるまではなかったけど。二人の子どもは、はしゃいで、窓から何度も自分の父親に声をかけたそうだ。

 一行はメレディーンの大通りを通過して、街並みを離れた。道は、まばらな林や畑の間に続いている。半時間ほどで女子修道院の石造りの建物が見えてきた。出発したばかりだったはずのセピイおばさんたち一行は、そこで一旦停止する。

 ノコだけが馬車から降りた。そして、その馬車の御者を務めていた、メレディーン城の使用人に付き添われながら、修道院の門に向かう。熱っぽいとの事で、その足取りは遅かったらしい。修道女たちは窓から見ていたのか、ノコが門に入る前に出迎えてくれた。

 それらの様子を確認してから、ロンギノが手で合図を出した。再出発である。御者が戻ったので、ノコを降ろした馬車も反転して、セピイおばさんたちと逆方向に進み出した。メレディーン城に帰るのである。

 ベイジの子は、その馬車にも手を振った。

 

 馬車の中で、ベイジとセピイおばさんの会話は、大して弾まなかった。もちろん、若き日のおばさんが親友の反対を押し切ったからといって、仲違いしたわけじゃない。これから自分たちが立ち向かう事態を予想して、自然と口数が減ったのである。

 ベイジは、それこそ子どもをそっちのけで、セピイおばさんに念を押した。『こうなったらセピイも、しっかり気を引き締めてね。相手はミアンカとか、アキーラたちなんかじゃない。なんたって、あのビッサビア様なんだから』と。

 これに対して、セピイおばさんは『分かってる』と答えたのだが。

「今にして思えば」とセピイおばさんは補足する。

「本当に分かっていた、とは言い難いねえ。何しろ、ビッサビア様に直にお会いするのは、三年ぶり。いや四年ぶりだったろうか。そりゃポロニュースやオーカーさんから聞いた話で、あの人が私にいい感情を持っていない事は分かっていたよ。でも、あの人から、面と向かって嫌な事を言われたわけじゃない。

 だから、つい自分に都合がいい展開を空想してしまったんだよ。

 あの人、ビッサビア様が、にこやかに私を迎えてくれる。まるで、モラハルトの事件もポロニュースとのやり取りも、全く無かったかのように。つまり、ツッジャム城で私とあの人が共に生活していた頃と何の変わりも無く、だよ。

 しかも、あの人が声をかけると、奥からソレイトナックが出てきたりして。そしたら、私は喜んで彼に駆け寄る。それまで手紙を寄越してくれなかった事なんかを責めたりしない。まずは、彼をしっかりと抱きしめて、彼の存在を実感するんだ。

 なんて。我ながら、とんだ甘ちゃんだった」

 セピイおばさんは、そこで言葉を途切らせて、窓の方を見た。例によって、物音も人の気配も無い。ただ私から目をそらしただけ。

 私も私で、何も言えない。

 メレディーンからツッジャムへの道中については、あと少し説明があった。

 峠の高台など見晴らしが良い所、空気が澄んでいる所で、セピイおばさんたち一行は、しばしば休憩したのだ。病み上がりで騎乗したロンギノは、まだ疲れやすかったからである。道端の大きめの石や切り株などを椅子代わりにして、ロンギノは頻繁に息を整えた。

 見かねたセピイおばさんとベイジが、馬車を譲ろうと何度も申し出たのだが。ロンギノは意地を張って、断った。

 小まめな休憩を喜んだのは、ベイジの子だ。その度に、止めた馬車の周囲を走り回って、遊んだそうである。もちろん事情は理解していかなかっただろう。

 そんな調子だから、セピイおばさんたちは結局、途中で一泊する事になった。セピイおばさんの記憶によると、比較的、民家が多そうな村だったらしい。

 しかも、各人が泊めてもらう家を決めて、入った途端に、雨まで降り出したとか。「あの時は、ロンギノ様を濡らさずに済んで良かった、と心底思ったよ」とセピイおばさんは付け加えた。

 若き日のセピイおばさんたちがツッジャムの城下町に入ったのは、その翌日の午前。

 

「城下町の通りを進んで、だんだんツッジャム城が近づいてくると、私も緊張してきたよ。ビッサビア様に会うなんて言ったのは、間違いだったのかも。そんな後悔が何回、頭をよぎった事か。今さら、だよ。ベイジも感づいたのか『いよいよだからね』と睨みながらも、私の手を握ってくれた。

 そして城門をくぐったんだ。

 兵士たちやロンギノ様が先に入城して、私たちはその後ろで馬車を降りたのに、オーカーさんが私を見つけて、飛び出してきた。『セピイちゃん、何で来たんだよ!』って。

 私は自分の決意を話そうとしたが、オーカーさんはそれも聞かずに、すぐにロンギノ様に喰ってかかるんだ。『何だよ、おっさん。普段は偉そうに人に説教するくせに、セピイちゃんを説得できなかったのかよ』なんて。

 途端に、近くに居た他の騎士や兵士たちが二人の間に割って入った。もちろんロンギノ様は目を吊り上げて、お怒りだよ。私もオーカーさんをなだめようと、腕を引っぱりながら必死に喚いた。『違うの。ロンギノ様が悪いんじゃなくて、聞き分けのない私が悪いの』と何回も繰り返したんだけど。

 一番効果があったのは、やはり、あの人だった。ビッサビア様。足音もなく、ゆっくり歩いてこられて。微笑んでおられた。で、おっしゃるんだ。『あら、オーカー、何を怒っているの』

 オーカーさんもロンギノ様も、ばつの悪い顔をして『何でもありません』と答えるのが、やっとだったよ。

 続けて、あの人は私にも微笑みを向けた。『よく来てくれましたね、セピイ。遠路はるばる、ご苦労です』

 私は、すぐに返事できなかった。あの人と目が合って、固まってしまったんだ。ベイジが何度も肘で突っついてきても、なかなか動けなかったよ。それでも私は、何とか声を絞り出した。『お久しぶりです』と。つっかえつっかえだったけどね」

 セピイおばさんは、そこで一度、ふーっと息をついた。

 私は思わず聞いてしまった。「そ、そんなに怖かったの?」

 セピイおばさんの答えは、なんとも、へんなものだった。

「ある意味、怖かった、とも言えるし、怖くなかった、とも言える。

 ぱっと見は、怖いというより、美しいという感想が真っ先に思い浮かんだよ。肌や髪のつやと言い、瞳の輝きと言い、身につけておられる宝石の類が本当にお飾りにすぎないんだ。もしかしたら、この人は歳を取らないのか、とさえ思ったよ。

 ところが、だ。かつてのあの人とは、確実に違うところがあった。あの人の周りの空気。あの人にまとわりつくような、あの人から滲み出ているような空気。薄暗い煙のようにも、影のようにも感じられる。空気に色がついているわけでもないのに、だよ。

 かつて、あの人は、こんな空気を出してはいなかった。もっと柔らかい、暖かい空気。あの人が姿を現す度に、そんな空気が周りに広がったんだけどねえ」

 セピイおばさんは顔をしかめて、ほんの少しだけ首を横に振った。それほど落胆するような変化だったわけか。

 

「しかし、愕然としている暇なんか無かった。あの人が、さらに歩み寄って、私の顔に向けて手を伸ばすんだ。『オーカーから話は聞いていましたが、私の予想以上に、すっかり女らしくなったわね。ソレイトナックがあなたを見たら、きっと喜ぶわ』なんて言いながら。

 すぐ隣りで、ベイジが『イッ』と声をもらして固まるのが分かった。私もだよ。彼の名前を聞いて、期待が胸にこみ上げてきたんだけど、目の前の手が私に何をするのか、予測がつかない。振り払うか、逃げるか。あるいは、もっと別のかわし方があるのか、冷静に考えられなかった」

 ひえええっ。聞いている私も、椅子の上でこわばってしまう。何とか声を押し殺したけど。

「しかし、ありがたい事に、直前で助け舟が入ったよ。ジャノメイ様だ。

『ビッサビア様。中庭で立ち話など、疲れましょう。ロンギノも病から回復したばかりなので、休ませたいと思います。広間か食堂にでも、場所を替えませんか』

 このお言葉が、あの人の手を止めてくれた。あの人は伸ばした腕を下ろして、振り向いてジャノメイ様に、こう答えた。

『でも、ジャノメイさん。私の出発の準備ができている事は、あなたもご存じでしょ。安心して。もともと手短かに済ませるつもりだったんだから』

 で、また前に向き直って、私をひたと見る。一応、微笑んでおられるけど、私は飛び上がるというか、口から心臓が飛び出しそうな気分になった。

 あの人は、私の次の言葉なんか待たずに、おっとりした口調で話し出したよ。

『よく聞いてね、セピイ。あなたに教えてあげられる事が、やっと一つ出てきました。もちろん、ソレイトナックの事です。喜んで。彼は生きています。これも神様のお計らいだわ。神様が、あなたとソレイトナックをしっかりと見ていてくださったのよ』

 私は、これを聞いただけで、嬉しくて泣きそうになった。ああ、と声をもらしたけど、後が続かなかったよ。彼がどこにいるのか、いつ会えるのか、とか聞きたい事があり過ぎて、のどにつかえるみたいで。

 その間にも、あの人の説明が続いた。

『うちの人、あなたにひどい事をしようとしたモラハルトが、ようやく白状したのです。修道院の懺悔室で院長様から、きつく搾られて。

 真実は、こうでした。モラハルトは嘘をついて、ソレイトナックをロミルチに向かわせ、その道中で彼を亡き者にするつもりだった。でも安心なさい。そこで、神様が助けてくださいました。協力者をソレイトナックのもとに遣わして、事前に危機を知らせたのです。ソレイトナックは難を逃れ、モラハルトの邪悪な試みは失敗に終わりました。

 おかげでソレイトナックだけでなく、私の情けない夫、モラハルトも救われたのですよ。罪を増やさずに済みましたからね』

 あの人がそこで一度、大きく、ため息をついたんで、いかにも自分の夫モラハルトを恥じているように見えたよ」

「か、神様が、協力者を遣わしたぁ?」驚きというか、あまりの理解しづらさに、私の声は裏返った。

「ベイジも同じようにつぶやいていたね。私も同感だったんだが、まだ硬直していて、聞き返す事ができない。

 私たちの疑問に、あの人の説明の続きは、ほとんど答えになっていなかった。

『そう、協力者です。ただし誰なのか、よく分からないの。だから、まるで神様から遣わされたように思えるでしょ。

 でも、とにかく、この協力者がソレイトナックを守ってくれている。いつか、その人のところから、あなたのところに、ソレイトナックが帰って来るかもしれませんね』

 そう言って、あの人、ビッサビア様は改めて私に微笑んだ」

「って、おばさん」私は、たまらず口をはさんだ。「それ、ソレイトナックがどこにいるのか、結局ビッサビアも分かっていなかったって事?」

 セピイおばさんは、片方の手のひらをかざして、私を落ち着かせた。

「あんたと話していると、ほんと、あの時のベイジを思い出すよ。動けない私の代わりに、その質問をしてくれようとしたんだ。

 でも、私は止めた。直感したんだ。聞いてはダメ。ビッサビア様に教えてもらわなくても、自分で気づかなくてはならない。でないと、この人には勝てない。なぜか、そんな気がして、慌ててベイジを止めたんだ。

 この人から目をそらしても、いけない。私に微笑む、この人から目をそらさずに考えなければ。

 では一体、ソレイトナックは、どこにいるのか。いるとすれば、その協力者のところだろう。何となく、そう思う。その協力者が自分にとって敵なのか味方なのか分からないけれど、とにかく、そうとしか思えない。協力者とは誰なのか。なぜソレイトナックを助けて、彼と共にいるのか。

 そうやって黙って頭を悩ませたら、また直感があった。そうだ、協力者が要点なんだわ。協力者。協力者が誰か分かれば、ソレイトナックの居場所も分かるはず。

 そして目の前の、ビッサビアと目が合っている事を改めて思い出して、ハッとした。この人は、ビッサビアは、協力者が誰か、本当は知っているんだわ。知っていて、わざと私に教えない。ビッサビアが知っている人物。いや、もしかして、私も知っている人物なのかも。

 ビッサビアも私も知っていて、ソレイトナックを助けそうな人。ソレイトナックの部下だった男たちは、モラハルトについて行ったりして、とっくにいなくなっている。マルフトさんは、すでに亡くなった。

 誰か。他に誰か、いるのか。私も知っている、じゃなくて、本当は私が知らない人なのでは。そしてビッサビアは知っている。微笑んでいるのは、そういう意味かも。

 いや、違う。この微笑みは、もっと別の意味だ。協力者は、やはり私も知っている誰かで、それにいつ気づくのかしら、と私を笑っているんだ。

 そこで、さらに直感が来たよ。私は、とても重要な人を忘れていた事に気がついたんだ。それこそ雷に打たれたような気分だった。

 ネマだよ」

 えっ?私は、その名前を聞いて、すぐに反応できなかった。

「ああ、やっぱり忘れていたか。もう長いこと、私の話に出てこなかったからねえ。でも、よく思い出しておくれ」

「ええっと、ネマって、たしかソレイトナックの亡くなった奥さんと双子で・・・

 あっ」

 私は椅子から腰を浮かせてしまった。

「そ、それぞれモラハルトとビッサビアの直属の部下みたいに働いていたけど。実際は、入れ替えた組み合わせで、夜の相手をさせられて」私は、自分の説明で口の中が苦くなった気がした。

「そう。その、ネマだよ」

「も、もしかして、ネマも、ソレイトナックのことを」おばさんの気持ちを考えると、私もそれ以上、言えない。

「奥さんと双子だから、ね。

 あの人、ビッサビアの前で、やっと、その事に気づくなんて・・・よりによって、あの人に気づかされるなんて・・・私も情けないよ」

 セピイおばさんは、そう言って、うつむいて自分の手を見つめる。私は、何か言ってあげたいと思いながらも、その言葉が思いつかない。

「もう、目の前のビッサビアが気にならなくなった。怖いとか怖くないとか、それどころじゃない。私の目には、並んで立つソレイトナックとネマの姿が浮かんでいた。

『ネマ、なんですね』

 私の言葉に、ビッサビアの目が一瞬だけ、ほんの一瞬だけど尖った気がした。

 その場も少し騒ついたよ。居合わせた何人かが『ネマって誰』と、つぶやいた。私の後でツッジャム城詰めになった兵士や使用人なんかは、彼女を知らなかったんだ。

 ジャノメイ様も同様で、後ろからアン様に尋ねられて、困っていた。

 いつの間にか周りに集まっていた女中たちも、ささやいていたね。『そういえば、あの女、もう長いこと見ていないわね』なんて。

 ベイジも、また肘で私を突つくんだ。『何でネマが出てくるの』と小声で。

 私がベイジにどう説明しようかと迷う間も無く、あの人、ビッサビアが先に口を開いた。

『もう気づくなんて。メレディーンで知恵がついたようね、セピイ。それとも私より、キオッフィーヌ様の教育がいいって事かしら。

 とは言え、これは推測に過ぎないのですよ。密偵たちでさえ、二人の行方をつかめていないんですもの。

 でも、おそらくネマでしょうね。今のあなたと同様、私も、そう確信しています。

 来てくれて、本当に良かったわ、セピイ。ここを去る前に、これだけはあなたに教えてあげなければ、と気を揉んでいたのです』

 それから、あの人は私から視線を離して、周りを見回すようにして宣言した。

『これで、心置きなくスボウに帰れます。

 ツッジャムの皆さん、今まで、ありがとう。皆さんのおかげで、私、ビッサビアは幸せに過ごせました。

 ジャノメイさん。アンを可愛がって、と言う必要は、もうありませんね。たまには叱りなさい。いいですね。

 アンも、ジャノメイさんの言いつけをよく聞くこと。

 ロンギノ。あなたには、何度も迷惑をかけました。そして、その度に粘り強く動いてくれましたね。感謝しています。どうか今は、しっかり休んで』

 最後は、オーカーさんだった。

『では、オーカー、行きますよ。

 そして、今のうちから気を引き締めておきなさい。スボウの騎士たちの長は、ロンギノほど優しくありませんからね』

 この冗句に、使用人や女中が笑ったよ。ほんの少しだけど」

 セピイおばさんは一度、大きく息をついた。

「そうやって言いたいことを言って満足したのか、あの人は中庭を出ていこうと歩き出した。

 途端に、私のすぐ隣りからベイジの鋭い声が飛んだよ。『待って!ネマは、どこなの!セピイは、どうやってネマに会えばいいの』と敬語もそっちのけで。呆然としている私の代わりに聞いてくれたんだ。

 あの人は、ゆっくり振り向いた。まだ微笑んでいたよ。

『ベイジは友達思いね。そんなに怖い顔をしないで。さっき言ったでしょ。私にも、二人の行方は分からないの。

 でも、心配は要らないわ。あの二人が、このツッジャム城を忘れるはずがないんですもの。セピイがメレディーン城に移っている事を、たとえ二人が知らなくても、ここに手紙を送りさえすれば、すぐに送り直してもらえるわ。

 そうですよね、ジャノメイさん。そして、ロンギノ。その時は頼みますよ』

 あの人は私に背中を向けた。

 と、いつの間にか、厩から別の馬車が出てきていて、あの人を待っていた。側面に、頭の大きな、へんな蛇の紋章が掲げられていた。マーチリンド家の主城、スボウに帰るための馬車」

 セピイおばさんは、また息をつく。

「実は、この後の事は、途切れ途切れにしか覚えていなくてね。

 覚えているのは、こんな事。

 ベイジがあの人に追いすがるように、叫ぶように、大声で問い続けた。そこで私は、もう一度ベイジを止めた。当然、ベイジは私に抗議したよ。『何で止めるのっ。何で、あの人を問い詰めないの』と。

 私は、もう泣きながらベイジに答えた。『言えない。言えないの。仮にネマの居場所が分かっても。ネマに会えたとしても。彼を、ソレイトナックを返して、なんて彼女には言えない。言うわけにはいかないの』とね」

「何でっ」ベイジだけじゃなく、私まで声を荒げてしまった。「何で、そうなるの。何でネマに言わないの」

 セピイおばさんは、ぼんやりとした目で私を見上げる。あ、椅子から立ち上がっていたのか、私。

「プルーデンス。私が話したネマの事情をよく思い出して、考えてごらん。

 ネマは、モラハルトの相手をさせられたんだ。同じようにソレイトナックがビッサビアの相手をさせられている事を知りながら、ね。

 さらに言えば、ネマは双子の姉のそばで、ソレイトナックを見てきた。モラハルト夫婦に拾われる前から。それこそ私なんかがツッジャム城に上がる、ずっと前から、彼を見てきた。きっと・・・死んだお姉さんと同じ想いで彼を見ていたんだろう。双子だから、ね。

 そんな想いを秘めながら、ソレイトナックと共にツッジャム城に居た。ネマが彼に告白した事があったか、どうかは分からないよ。

 でも・・・ネマは辛かったろう、と私は思った。自分の気持ちを押し殺して、あいつの、モラハルトの相手を務めるなんて。生きていくため、ソレイトナックのそばに居続けるためとは言え、そうしなければならなかったなんて。

 私は、そう思い至ったんだ。そうとしか思えなかった」

「だ、だ、だから、だから言えないって言うの?ネマに言うべきじゃない、ソレイトナックを返してもらうべきじゃないって言うの?」

 セピイおばさんは、うなずいた。

「そんな」私は反論しようとした。おばさんに反論することで、おばさんの本心を応援してあげたかった。

 なのに、できない。絶句して、言葉が出ない。

 

 セピイおばさんは話し続ける。

「その次に覚えているのは、ツッジャム城の外城壁の上に居た事。中庭に居たはずなのに、いつの間にか、ね。

 これは、後でベイジ夫婦から状況を教えてもらったんだけど。

 とにかく私は取り乱して、泣き止まなかったらしい。ベイジ夫婦にも、ジャノメイ様とアン様にも随分、心配をかけてしまったよ。

 アン様なんか、たしかこの時が初対面だったのに、もらい泣きというか、私と一緒に泣き出して。何かと思ったら、私に謝るんだ。『事情はよく分からないけど、自分の父の従姉妹があなたに意地悪をした事くらいは分かる』と。

 私は泣きながら、何度も首を横に振って、アン様に言ったそうだ。『あなた様が謝る事ではありません。あなた様は何も悪くない。私が、あの人の機嫌を損ねただけです』

 それでもアン様は納得してくれなくて。私と泣き続けて。

 だからジャノメイ様は相当、お困りだったろうよ。そのうち、ツッジャム城の使用人や女中たちが、口々にジャノメイ様に提案したんだ。

『セピイは塔の上が好きだから、そこへ連れて行って、落ち着かせましょう』

『馬鹿っ。万が一、そこからセピイが飛び降りたら、どうするのよ』

 とか何とか、みんなで頭を悩ませてくれたらしい。

 結論として、私は外城壁に上がったのさ。外城壁なら、まだ低い方だし。誰か、そばについていれば大丈夫だろう、と。

 それでジャノメイ様、アン様が自ら、私に付き添ってくださった。そしてベイジ一家も。

 ロンギノ様も私を心配してくださったが、ジャノメイ様から休むよう言われていた。

 兵士や女中も何人か来て、女中の一人は、ベイジの代わりに子どもの相手をしてくれたよ。ベイジは私にかかりっきりだったから。旦那さんは、私とジャノメイ様の近くでおろおろして、子どもが疎かになって、後でベイジに怒られたんだと。

 この時に、特に覚えているのは、アン様のお顔、だね。ビッサビアの親族ということで、自分を無関係とは思わず、私に対して気に病んでくださるんだ。だから私は、アン様に言ってあげたかった。『どうか気になさらないでください』と。実際、何回も言った。でも、アン様は泣き濡れた顔を横に振る。

 そしたら私は思わず、こう言っていたよ。別の言葉が出てきたんだ。

『あなた様は、あの方とは違います。あの方とは、全く違う』

 私はアン様を見て、思った事をそのまま言ったんだ。

 見た目は、なるほど親戚というだけあって、かなり似ておられたよ。でも明らかに違っていた。空気が。アン様の周りの空気。アン様から醸し出される空気。仄暗い煙とか冷たい影とか、微塵にも感じられない。柔らかく、温かみのある空気だった。

 かつては、あの人も、私には、そう見えていた。あの人も、そうだったはずなのに。

 アン様の気づかいがありがたかった分、私はあの人との決別が悲しかったね」

 セピイおばさんは、閉じている窓の方に目をやった。そうだ。その先はツッジャム城だ。

「ジャノメイ様についても、覚えている事があるよ。あの方は、私に、こんなことをおっしゃった。

『セピイよ。アンを責めないでくれる事に感謝する。

 しかし、僕のことは恨んでくれ。遠慮なく恨んでほしい。恨んでもいい、どころの話じゃない。君は、このジャノメイ・ヌビを恨むべきなんだ。

 なぜか分かるか。正直、僕も兄上も、君に来てほしいと思った。こういう良くない結果になると、ある程度、予想しながら、それでも君がビッサビア様に会ってくれる事を望んでいたんだ。君は、きっと嫌な思いをするだろう。しかし来てほしい。僕たち兄弟は、そう思った。

 なぜか。アンには、あまり聞かせたくない話だが、要するに、ビッサビア様に気持ちよく帰っていただくためだ。君に会えば、ビッサビア様は君に八つ当たりすることができる。憂さ晴らしができる。ビッサビア様がマーチリンド家へ滞りなく帰還するために、それを促すために、僕と兄上は君を矢面に立たせた。ヌビ家は君を犠牲にしたんだ』

 なんて。

 それを聞いて、アン様は私だけじゃなく、夫であるジャノメイ様にも謝ろうとする。『あの人と同じ、マーチリンド家の出身である事が恥ずかしい』と。ジャノメイ様からも『君の生家を悪く言ってしまった』と謝る。

 私は、自分ではよく覚えていないんだが。ベイジが言うには、そんなお二人の手を取って、首を横に振ったんだそうだ。

『お二人は何も悪くありません。家柄の問題でもありません。ただ、ただ、私がビッサビア様のご機嫌を損ねて、お怒りを買っただけ。そして遠回しにですが、お小言をいただいた。贅沢な処分です』

 とか言ったらしいんだが。

 ベイジから後で教えてもらった時は、びっくりしたよ。自分が、そんなふうに落ち着いて、丁寧にお答えできたなんて。『本当はベイジが私の代わりに言ってくれたんじゃないの』と何回も確認したんだけど。『そんなわけない』とベイジは否定するし。

 とにかく、お二人に当たるような、ひどい振る舞いをしないで済んだようでね。私は神様に感謝したよ。マルフトさんやパールさんも応援してくれていたんじゃないか、と勝手な想像もしていた」

「ジャ、ジャノメイとアンがおばさんを思いやってくれたのは、ありがたいんだけど」私が、やっと言えたのは、それだけだった。

 本当は、ジャノメイの告白通り、彼ら党首兄弟の態度がずるく思えてならない。

 でも今は、セピイおばさんに、すっかり吐き出させてあげる方を優先する。

「城壁の上での、ジャノメイ様たちとのやり取り、ベイジ夫婦がしきりに話しかけてくれた事なんかは、ぼんやりと思い出したりもするんだけどねえ。

 その後がすっかり抜け落ちて、次に思い出せるのは、何と、この、山の案山子村。この家の寝床だよ。

 目が覚めて、この家の天井だと気づいた時、私は一瞬、これまでの何もかもが夢だったのかと勘違いしかけた。ヌビ家の女中になった事、ソレイトナックを好きになった事、そして、そのために、あの人と対決した事も、全て夢まぼろし。寝床で体を起こしたまま、呆然としたけど、私は、すぐに正気に戻った。服が前日のままだったんだ。

 私は自分の実家を確認するべく、食卓を覗いた。途端に義姉さんが。つまり、あんたたちのお婆さんの若い頃だよ。義姉さんが飛び出してきて、私を捕まえた。疲れていないか、とか、眠れたか、とか根掘り葉掘り聞いて。

 私は『大丈夫です』と答えた。まだ、ぼーっとしていたけどね。

 すると、兄さんから。くどいようだけど、あんたたちのお爺さんから、とりあえず座るように促された。

 あんたたちのお父さんは、まだ赤ちゃんで、兄さんの脚につかまって立っていたよ。不思議そうに私を見ていたっけ。

 あんたは、もう予想がついているかね?要するに、私は実家まで送ってもらっていたのさ。兄さんの話によると、ベイジ一家に馬車で。護衛として、ロンギノ様の部下である兵士も、二人付いて。

 兄さんはベイジ夫婦から、私とあの人のやり取りをあらかた聞いたらしい。なぜネマが話題に上がったのか、などの事情はベイジもよく分かっていなかったから、兄さんも理解しようもなかったろうけど。

 兄さんは、しばらく私をじっと見て、と言うか、どう話を進めるか考えていたんだろう。その上で、こんなふうに言ったよ。静かな、遅い喋り方だった。

『前の奥方様のお言葉は、ともかく。要するに奴は、ソレイトナックは、もう現れないんだな。奴は、お前を迎えに来ない。俺は、そう認識したぞ。そうなんだな、セピイ』

 私は、うなずいた。

 そして兄妹二人して数秒、黙りこくった。

 やがて兄さんが私に『何か食べるか』と聞いて。私は義姉さんからパンを一切れもらって、小さく千切りながら食べた。

 赤ちゃんがよちよち歩きで私のところに来たんで、一口、二口、分けてやったよ」

 セピイおばさんの話は、そこで途切れた。

 

 私は何も言えない。本当は口をはさみたい。おばさんに何か言ってあげたい。なのに、なのに言葉が浮かんでこない。

 セピイおばさんも、私の言葉を待って黙っているわけではない。話し疲れている。セピイおばさんは、私との間に置いた椅子を少し持ち上げた。ロウソクの光が、離れの中に広がる。

「やれやれ、すっかり長引いたねえ。切りが悪いのは百も承知だが、今夜はこれくらいにしておこう。

 ほれ、そんな顔しないで。質問は明日うけたまわろうじゃないか」

「でも、おばさん」私は思わず、抗議の声を上げてしまう。「このままじゃ、気になって眠れないわよ」

「それは、話の続きを聞いても同じだよ。

 それより明日に備えなさい。すぐに寝つけなくてもいいんだよ。とにかく寝床で入って、目をつぶること。いいね」

「それ、シルヴィアの真似?」

「そうだよ。

 さあ、行った、行った。私だって、あんたにしっかり聞いてもらいたいんだ。そのつもりで休んでおくれ。頼んだよ」

 そこまで言われては、引き退るしかない。しなければ、おばさんを困らせるだけで、文字通り悪あがきだ。

 私は離れを出た。納得のいかない事ばかりだけれど。

自作小説「塔の上のセピイ  〜中世キリスト教社会の城女中の話」第十六話(全十九話の予定)

第十六話 忍び寄る病魔

 

「プルーデンス」

 セピイおばさんの表情が、また変わった。微笑んではいるのだが、少し固いというか、元気が無いような。ええっ?せっかくイリーデたちのおかげで、おばさんの表情が晴れたと思ったのに。

「どうだろう。今夜は、ここくらいにしておかないかい?」

「へ?どうして。もっと遅くまで話してくれた事もあったじゃない?」

「ああ・・・そうだね。たしかに、そうなんだが」と、何だか歯切れが悪い。

「それとも、またキツい話になるの?」私も身構えてしまう。

 セピイおばさんはすぐに答えなかった。言葉を選んでいる。

「あの人、モラハルトの時とか、ヴィクトルカ姉さんやヒーナ様、パールさんの話ほどじゃないんだが。

 これからヌビ家は下り坂に入るんだよ」

 私もウッと一瞬、詰まった。

「ま、まあ、正直、いい事づくめと言うか、景気が良すぎるような、とは思っていたけど。そっか、そうよね。いい事ばかりのはず、ないもんね。

 でも、おばさん、聞かせて。私も知りたい」

 セピイおばさんは、深く息をついた。

「あんたの言う通りだよ。私としたことが、今さら何を怖気づいてんだか。あんたに教えておきたいと思って、始めた話なのに。それに、もったいつけても、事実は変わらないんだ。

 よし、もう少し続けよう。

 ヌビ家が下り坂になるのはね、アダム王陛下が亡くなったからさ」

 また私は固まってしまった。

「えっ、えええ〜。何で。早すぎるじゃん」思わず、声も大きくしてしまう。

 それを咎めもせずに、セピイおばさんは話を進めてくれるのだが。

 アダム新王の死の前に、パウアハルトの戦死の話が挟まった。セピイおばさんがよくよく思い出して時系列に並べると、こちらの方が先らしい。王弟グローツの指示で、ヨランドラ北西部、つまり湖岸地域に派遣されて、ラカンシアから押しかけて来る海賊、というか湖賊どもと戦ったのだ。

「なかなか奮闘してくれたらしいよ。ラカンシアの野蛮な連中を何人も湖に叩き込んだとか。でも、やはり船での戦には慣れてなかったのかねえ。最後は流れ矢に当たってしまったそうだ」

「うーん。国土を守るために戦ってくれたんだから、名誉の戦死である事は認めるんだけど」

「そう。『だけど』と言う者が多かったよ。『嫌われ者がちょうどよく戦死してくれた』なんて露骨な声が、メレディーン城内でも、よく聞こえたもんさ。

 しかしバチが当たると言うか。後々このパウアハルトの死が、ヌビ家にとって不利に作用することになるんだからねえ。

 しかし、その辺の事情も、おいおい話そう」

「ビッサビアとモラハルトは悲しんだかな?親として」私は聞かずにはいられなかった。

「そこは分からないよ。どちらの反応も伝わって来なくてね。伝令や密偵たちも、もう、そういう情報を拾って来なかった。

 代わりでもないが、パウアハルトが都で囲っていた女たちの話が伝わって来たよ。ヌビ家から、幾らか渡したらしい。一族のパウアハルトが世話になった礼金とか、見舞い金とかいう名目だろうけど」

「それって、もしかして」

「ああ、実際は口止め料とか、手切れ金ってことさ。もっともジャッカルゴ様は『多少、噂が広まるのは仕方なかろう』と諦めておられたけどね」

「おばさん。パウアハルトが囲っていた女の人たちって、子どもが居たかな?」

「そういうふうに噂する者もいたよ。でも、そこも、はっきりとは分からなかった。ジャッカルゴ様だって、わざわざ、そんな事を説明しないし。すでに産まれていたのか、まだお腹の中だったのか。いずれにせよ、ヌビ家から貰った金で何とかしたんじゃないかねえ」

 うーん、と私は唸る。またしても。またしても、きな臭くなってきたぞ。

「さて、アダム王陛下の話に入るよ。パウアハルトの戦死の報が入ってから数週間して、喜ばしい事があった。今度はアダム王陛下からメレディーン城に書簡が二通、届いたんだ。

 書簡の一つは、パウアハルトの死を悼み、軍功を讃えるもの。もう一つは、イリーデとブラウネン夫妻の赤ちゃんを祝福する内容だった」

「賊討伐で知り合って以来、アダム王はブラウネンのことも覚えていてくれたんだね」

「そう。それでジャッカルゴ様は、イリーデとブラウネンの一家をメレディーン城に呼んで、王陛下の書簡を手渡した。ついて来たブラウネンのお父さんなんか、書簡を受け取る手がぶるぶる震えていたもんさ。

 パウアハルトには悪いが、城内に居合わせた者たちは奴の事なんか忘れて、赤ちゃんと、その両親となったイリーデとブラウネンを歓迎したよ。ヘミーチカ様もナタナエル様を抱っこして来られて、赤ちゃん同士の対面が実現した。みんな、笑顔だった。

 忘れもしない、そうやって、みんなで幸せを共有していた、まさにその時さ。顔を引き攣らせた伝令がジャッカルゴ様に駆け寄って、耳打ちしたんだ。

 途端に、ジャッカルゴ様が硬直したね。で、血相を変えてブラウネンに近づくや『しばし書簡を借りるぞ』とおっしゃって、それを凝視なさる。

 当然、ブラウネンは『どうか、なさいましたか』と尋ねたよ。しかしジャッカルゴ様の返事は数秒、遅れた。『いや、何でもない。気にするな』なんて書簡を返したんだが。

 ジャッカルゴ様は一度、ふらりと、その場を離れた。ヘミーチカ様が、まだイリーデたちと談笑しておられたのに。

 おそらくジャッカルゴ様は書斎に入るおつもりだったんだろうが、結局はしなかった。通路で城の代表格の騎士様や使用人頭なんかと数分ほど立ち話したと思ったら、すぐに広間に戻って来た。

 で、ジャッカルゴ様は、居合わせたみんなにアダム王陛下の崩御を伝えたんだ。手短かに。

 そして、こう厳命しなさった。

『とにかく、王陛下が亡くなった事については一切、言及するな。世間話などで耳にすることがあっても、その時は聞き役に徹しろ』

 低い、抑えた声でおっしゃって、広間が静まり返ったのを覚えているよ。

 続けてジャッカルゴ様は、イリーデとブラウネン一家に、帰って、ゆっくり過ごすように促した。そして、ご自身は夜にでも都アガスプスに向けて出発できるよう、段取りを始めた。

 イリーデたちは言われた通りに大人しく退散して、メレディーン城内は、にわかにざわつき出したね。私ら女中や使用人たちは、着替えのお召し物とか、ジャッカルゴ様の急な外出に必要な物をかき集めるべく、城内を行ったり来たり。兵士たちも馬の用意なんかで忙しなかったよ。

 そして旅装が整うと、ジャッカルゴ様は晩餐も召し上がらずに、メレディーン城から飛び出して行った。お供は、ほんの数人だけ。赤ちゃんのナタナエル様と奥方ヘミーチカ様は、私ら城詰めの者たちに預けた。出る直前に『オペイクスを急いで呼び戻せ』と言い残して」

「えっ、オペイクスは出かけていたの?」

「ああ、そうだった。また話が前後したね。オペイクス様は、お里のナクビーと、パールさんの墓参りのためにロミルチ城を回る予定だったんだ。おそらくオペイクス様は、ジャッカルゴ様たちの帰還とイリーデの出産を見届けてから、墓参りに行こうと考えたんじゃないかね。

 オペイクス様を呼び戻しに行った伝令は、すれ違いを心配したようだが、ありがたいことに合流は手間取らなかったよ。オペイクス様は最初の目的地であるナクビーから、まだ移動していなかったんだ。

 それでオペイクス様はロミルチ城行きを中止して、メレディーンに戻って来てくださった」

「うーん、パールのお墓参りは延期か。ちょっと、かわいそう」

「仕方ないさ、緊急事態だ。

 とにかくメレディーン城はオペイクス様も加わって、警戒体制に入ったよ。前回のジャッカルゴ様が一家で都に行った時と同様で、伝令たちがヌビ家領内をひっきりなしに往復した。でも、それだけじゃない。密偵たちだよ。顔も合わせた事もない、多くの密偵たちが、他家の領内に忍び込んで、不穏な動きがないか探るんだ。

 もっとも、他家の密偵もヌビ家領内に入っていただろうから、お互い様だけどね。

 ちなみに、アズールさんもシャンジャビ家の領内とかに派遣されていた」

「オーカーも、また、やって来た?」

「あの人は来なかったよ。噂では、ビッサビア様の使者として、マーチリンド家のスボウ城とツッジャム城の間を何回か往復していたという話だ」

「な、何だかメレディーン城どころか、ヨランドラ全体がざわついているみたいね。

 やっぱり、王様が亡くなった直後って、反乱とか起こりやすいのかな?」

「ああ、ありがちだよ。世界を広く見渡せば、そんな例が幾らでもあるだろう。

 と言っても、あのお優しいアダム王陛下の治世に不満を持つ者たちが存在するなんて、私には、いまいち想像できなかったんだが。

 それに、ね。たとえ国内が良くても、外から他国が攻めてくるなんて事もある」

 うーん。私は唸りながら、顔がこわばってしまう。「いろんなことを心配しなきゃならないんだね」

「そう。あらゆる事態を想定する。そして構えておく。それが、守るってことさ。守るものが国でも、家族とか仲間とかでも、自分自身でも、だよ。

 あんた、マルフトさんのナイフは持っているね」

「う、うん」私は慌てて懐から、それを取り出してみせた。

「よし、上出来だ。

 じゃあ、話を続けよう。ジャッカルゴ様なんだが、この時の都滞在は、城詰めのみんなが予想したほど長くならなかった。そろそろ帰還するとか、事前に手紙を寄こすのも面倒だったのかねえ。ある朝、出発した時と同じ人数で、城門の前に現れたんだ。

 慌てて出迎えた私らは、みんな目を丸くしたし、当のジャッカルゴ様たちも何だかバツの悪そうな顔をなさって。喜んで駆け寄ったヘミーチカ様に、ジャッカルゴ様が一言。『ほとんど仕事にならなかった』と。

 これを聞いて、何人かの男たちが『あ〜』と間の抜けた声を出したよ。オペイクス様も、声までは出さなかったが、やっぱり困った顔をしていた」

「えっ、何。その一部の連中は予想がついたってこと?」

「そうらしい。しかも、あまり良くない予想が、ね。

 とにかく私ら女中や使用人たちは、ジャッカルゴ様とお供の人たちを休ませようと、食堂にお連れした。

 ジャッカルゴ様ったら、ヘミーチカ様とナタナエル様に会いたくて夜通し馬を飛ばして、お疲れのはずなのに、朝食の進みが遅くてねえ。話を何回もはさんで、パンとか、お椀を持つ手が止まるんだ。

 ジャッカルゴ様の話で、都の状況や、アガスプス宮殿の様子が大体分かったよ。ジャッカルゴ様の表情が晴れない理由も、ね」

 セピイおばさんが主人ジャッカルゴから聞いた話によると、犯人、というか原因はグローツだった。急死したアダム王の、すぐ下の弟グローツ。喪主はあくまでも残された王妃だが、義弟にあたるグローツは、彼女を何かと労わりつつ、同時に、亡き兄王の代役も果たしたのである。

 と言えば、聞こえは良いのだが。『実際は、残された王妃と彼女の親族が政務に関与できないように、王弟グローツが割って入ったんじゃないのか』と言うのが、話を聞かされた者たち全員の意見だったらしい。

 もちろん使用人も兵士も、後日ジャッカルゴが居ないところで、そんな噂をしたのだ。主人ジャッカルゴの前では憚られるし、ジャッカルゴ自身も、グローツの名前を軽々しく口にしたりはしない。

「しかし」とセピイおばさんは続ける。

「ジャッカルゴ様も内心は、同じ意見だったろうよ。

 そもそもグローツ殿下だって、たった一人で宮殿を、いやヨランドラ全体を切り盛りできるわけがないんだ。大臣だの役人だの、手伝わせる人材が必要だろ。

 そこは当然、残された王妃様も、アダム王陛下が生前に任命した官僚たちを頼りにするおつもりだったはずさ。

 ところが、だよ。グローツ殿下はそれら官僚たちを押し退けるように、別の集団を宮殿に引っぱり込んだ。どこの連中かって、レザビ家だよ。前にも言った通り、グローツ殿下はレザビ家の娘を娶っていた。で、奥さんの親族であるレザビ家を優遇して、宮殿の仕事を回してやったってわけ」

「露骨な依怙贔屓ねー」と私はジャッカルゴの替わりに、ぼやいてしまう。

「ああ、まさしく依怙贔屓だよ。そして、とやかく意見することはできない。何たって、相手は王弟様なんだから。

 しかも、程なくして王位に着かれた。亡き兄王の跡を継いで、戴冠式をそそくさと済ませて、ね。と言っても、少し先の話だが」

「うーん」と私は大きく唸る。

「やっぱりメイプロニーがグローツの奥さんに収まるべきだったのかなあ。そしたら、レザビ家じゃなくて、ヌビ家が宮殿で幅を利かせることができたのかしら」

「って、あんたはそれに賛成かい?」

「大反対。どう考えても、グローツが良い人とは思えないもん」

「私もだよ。ジャッカルゴ様が苦労なさっている姿を見た後でも、私は、あまり考えたくなかった。メイプロニー様がグローツ殿下の奥方だったら、なんて。とは言え、当時は、もうグローツ王陛下か」

「それにしても、グローツかあ。よりによってグローツが次の王様に収まるなんて」

「あんた、気づいているかい?このグローツ王が、今のヘイロン王のお父さんだよ」

「えええっ」私は、また声が大きくなってしまった。離れ全体が揺れたか、と自分でも思ったほど。腰も、ちょっと浮いた。

「そ、そういうこと。前のアダム王と今のヘイロンが同族だなんて、どうも信じられなかったのよねえ。そうか、グローツの子どもか。そりゃ血も涙も無く、育つわけだわ」

「ちょいと。そろそろ声の大きさに気をつけとくれ。いくら林の中の離れでも、油断ならないよ」とセピイおばさんから、とうとう注意されてしまった。

「また話が先走ったが、ジャッカルゴ様の都滞在中の事情に戻ろう。

 とにかくジャッカルゴ様はアガスプス宮殿に上がって、群臣の一人として先のアダム王陛下の葬儀や次のグローツ王陛下の戴冠式を手伝おうと申し出たんだよ。しかし、そうしたくても、ほとんど入り込む余地が無かった、と。さすがにグローツ新王もジャッカルゴ様を邪険に扱ったりはしなかったけど、やんわりと、そして必ず遠慮する。『穏便に、だが断固として拒絶された』と。ジャッカルゴ様は、そう、おっしゃっていた。

 同行した従者の一人も、ぷりぷりして言っていたねえ。『グローツ新王の後ろで、レザビ家の役人たちやレザビ家出身らしい坊主どもが行ったり来たりしていたんだが。奴ら、こちらをチラ見しながら、ニヤけていやがった』って」

「いやらしいわね、レザビ家って。マムーシュを仲間にしていただけでは飽き足らず」

「ああ。話を聞いた私も、ヒーナ様の事を思い出して、改めて腹が立ったよ。

 でも宮殿でのジャッカルゴ様には、腹を立てている暇なんか無かった。それより、何か少しでも、できることを探さないと。それで宮殿内でウロウロ、モジモジしたんだが、やっぱり見つからない。颯爽とした、いかにも貴公子らしいジャッカルゴ様が、そんな事までしなきゃならなかったなんめ。

 そこまでして気がつくのは、グローツ新王とレザビ家が宮殿を掌握したという事実を再確認するような事だけ。

 例えば、マーチリンド家だよ。宮殿には、ビッサビア様の兄であるマーチリンド家党首と、その従兄弟、つまりアン・ダッピア様のお父様も駆けつけていた。前にも説明したが、マーチリンド家は王家のしきたりや行事について詳しいからね。こんな、王様の崩御なんて緊急事態には大抵、宮殿からお声が掛かるわけさ。ところが、そんなマーチリンド家の者たちでさえ、王の間の隅で苦い顔をしていたとか。

 ジャッカルゴ様が小声で挨拶すると、相手も小声で、ぼやいたよ。

『レザビの者たちが分からないことを聞いてきたら、教えてやったし、段取りに間違いがあれば、指導もしてやった。

 ところが、それらが済めば、用無しと言わんばかりに、彼奴ら、こちらに見向きもせぬわ』

『新興の貴族家のくせに、と言いたいところだが。グローツ王陛下の姻戚とあっては、無視もできん』

 なんて、二人して口々に、ね。

 そんなふうに寄り集まっていたら、ついにレザビ家の党首から近づいてきたよ。

『おお、これはこれは、ヌビ殿。賊討伐の戦以来ですな。お変わり無いようで、何より。

 あの時は、我らレザビ家を、今は亡き先王様に紹介していただくなど、ヌビ殿には何かとお手数をおかけしましたなあ。

 しかし今回はご安心めされ。あれ以来、我々も向上に努めました。甲斐あって、一番上の娘がグローツ王陛下に見初められるまでになりましたぞ。

 此度の葬儀と戴冠式の準備についても、こちらのマーチリンド様から、すでにご指導いただきました。全て、滞りなく進んでおります。

 よってヌビ殿もマーチリンド様たちも、後は我らレザビ家にお任せあれ。さらなる問い合わせで煩わせたりは、もう、しませぬゆえ。葬儀と戴冠式には、ゆるりと参列なされませ』

 とか何とか、一方的に長々としゃべったんだとさ」

「うーん、やっぱり、いやらしいっ。グローツとの関係をひけらかして。

 しかも、アダムの方は名前を省略したように聞こえたんだけど、私の気にしすぎかしら」

「いや、あんただけじゃないよ。居合わせたジャッカルゴ様の従者たちも、後で同じようなことを言っていた。『だからレザビ家の連中は信用ならない』とね」

「つくづく面白くないなあ。グローツはともかく、レザビ家だけでも、なんか、ちょっと懲らしめてやりたい」

「みんな、そう思ったさ。ジャッカルゴ様でさえ、王の間ではレザビに注意しようかと思ったくらいだからね」

「てことは、何か、突っ込めるところが見つかったの?」

「見つかると言うか、ずっと目について気になっていたところだよ。さっき、連中がニヤついていたって言っただろ。アダム王陛下が亡くなったってのに、そんな弛んだ態度だったら、それこそ不敬じゃないか」

「それもそうだわ。言ったれ、言ったれ」

「でも、ジャッカルゴ様は注意しなかったそうだよ。何だか負け惜しみみたいで、言いにくかった、と。

 代わりにでもないが、レザビ家の連中には、マーチリンド家の党首が釘を刺してくれた。もっとも、グローツ新王に伝わるのを警戒して、だいぶ加減した言い方だったようだがね」

「ちぇっ。物足りないなあ」

「おや、舌打ちなんかするのかい?」セピイおばさんは、すかさず、そして穏やかに私をたしなめた。

「そんなんじゃ、城勤めは務まらないよ。

 とは言え、貴族でも男どもだったら、舌打ちする者は少なくないか。

 しかし想像してごらん。城主夫人とか貴婦人たちが舌打ちするところを。そんな話、聞いた事が無いだろ。せっかくの美人が台無しだからね。

 そういえば、オペイクス様やアンディン様も、舌打ちするところなんか見た事も無いよ」

 はぁい、と私は大人しく降参する。やっぱり私に城女中は無理、なんて方向に話が流れたら困るからだ。それに言われてみれば、たしかに、とも思う。

 セピイおばさんは、城女中のことは言わずに、話を続けてくれた。

 ジャッカルゴと従者たちは仕方なく、アガスプス宮殿を退出して、城下町にある父親アンディンの屋敷に逗留した。アダム王の葬儀と新王グローツの戴冠式を、そこで待たせてもらったのである。

 その間にジャッカルゴは、妻ヘミーチカの両親の屋敷へ挨拶に行ったり、宮殿の要人や大司教などに会ったりもしたとか。『せっかく都に来たのだから、できるだけのことをしておきたい』というのが、ジャッカルゴの方針だったらしい。

 しかし、そこまでして実際に会えたのは、ほんの数人だけ。あっという間に葬儀と戴冠式の日を迎え、ジャッカルゴは宮殿の外でも大して収穫を得られなかった。強いて言うなら、自分の両親、妻の両親の健在を確認できた事くらいか。

 戴冠式の後もジャッカルゴは、しばらく様子見を考えた。が、結局は諦めて、メレディーン城に引き揚げたのである。

 

 帰還したジャッカルゴがセピイおばさんたちに聞かせた話によると、アダム王の葬儀とグローツ王の戴冠式は何とも地味なものだったらしい。華美な演出は、ほとんど無し。よって、臣民の代表たる貴族たちに余計な負担が強いられる事も無かった。

 また、亡き兄アダム王の方針を踏襲して、グローツ王も国中で結婚などの祝い事を奨励。臣民に遠慮させたり、我慢させたりもしない。

 それはそれで良いことなのだが。

 話を聞きながら、私はグローツを信頼する気にはなれない。セピイおばさんの表情も、そんなふうには見えない。

「アダム王の方針と言えば」私は、ふと気になって質問をはさんだ。「アダム王は遺言とか残さなかったの?」

「いい質問だよ、プルーデンス。遺言は無かった。それくらい、アダム王陛下の死去が急だったってことさ。

 さっき私は、ジャッカルゴ様がアダム王陛下の手紙を検めたという話をしただろ。ブラウネン夫妻の赤ちゃん誕生を祝う内容の。ジャッカルゴ様がおっしゃるには、その文面には、死期が迫っているという自覚らしき表現は微塵も無かったそうだ。おそらくアダム王陛下は、自分が死ぬことになるとは予想もしていなかったんだろう」

 セピイおばさんは、そこまで言って、ため息をついた。

 

 メレディーン城に戻って、せっかく妻子と再会を果たしたジャッカルゴも、こんな調子では手放しで喜べなかったのだろう。浮かない顔のまま、過ごしていたらしい。同時に、密偵たちを各地に走らせて、国内の動きに耳をそば立てながら。

「次の事態が起こったのは、たしかアダム王の葬儀、ジャッカルゴ様たちの帰還から、さらに三ヶ月か四ヶ月くらい、だったような」とセピイおばさんは言う。

 その日は天気が良かったそうだ。なのに、なぜか赤ちゃんのナタナエルは、やたらクズっていた。母親のヘミーチカは赤ちゃんの機嫌を直そうと、外城郭の開けた場所に出て、陽の光に当ててやった。赤ちゃんのナタナエルは、ようやく、つかまり立ちを始めた頃。しかし、その日は上手くいかなくて、すぐに座り込んだ。それで、さらに機嫌が悪くなる。

 母子のそばには、もちろん、リブリュー家から連れてきた女中も控えていた。

 そこへ父親、ジャッカルゴもやって来た。そして『交代しよう』と妻に声をかける。ジャッカルゴは赤ちゃんを高い高いしてやると『あまり母さんを困らせるんじゃないぞ』と言い聞かせた。

 それは穏やかな声だったのに、赤ちゃんのナタナエルは泣き声を大きくした。

『やれ、叱られたと思ったか。実際、俺は、これからお前をよく叱るだろう。

 でもな。この父も、よく、お前の爺じから叱られたのだぞ。それこそ、この前も都でだ』

 井戸の水汲みか何かでそこに居合わせたセピイおばさんは、このジャッカルゴの言葉を耳にして、つい聞き入ってしまった。前の党首アンディンが、長男で現党首のジャッカルゴをどんな理由で叱ったのか。なるほど、気になるところではある。

 何かと思えば、レザビ家の件だった。都アガスプスの両親たちの屋敷に逗留した際、ジャッカルゴは父アンディンに少々こぼしたのだ。『レザビ家の連中にちょっと言ってやろうかと思ったが、マーチリンド家の党首に先を越された』と。

 これに対して、アンディンは『迂闊』と言うのである。彼の言い分は、こうだ。

『ヒーナの事を思えば、悔しいのは分かるが、今はそこを考えるな。レザビ家に負けてやる、くらいに思え。

 なぜなら我々は、グローツ王陛下の傾向をまだ把握できておらん。レザビ家と事を荒立てた場合、新王陛下がどのような反応をなさるか。少なくとも、無条件で我々の肩を持ってくださる、などとは期待せぬ方がよいだろう』

 主人ジャッカルゴの口から、このアンディンの考えを聞いて、セピイおばさんなど、居合わせた者たちは皆、うーん、と唸った。

「ヘミーチカ様とリブリュー家からの女中は、ともかく」とセピイおばさんは言う。「他の者は、みんな考えていたはずだよ。死んだパウアハルトのことを、ね」

 そう、パウアハルトだ。アンディンもジャッカルゴも、グローツと密な関係を築けている、とは言い難い。ヌビ家でグローツにもっとも接していたのは、パウアハルトだった。そのパウアハルトは、すでに戦死している。肝心な時に居ない。セピイおばさんが先に「ヌビ家にとって不利に」と言っていたのは、この事だったわけか。

「まさか、と思うけど」と私も言わずにはいられなかった。「グローツは、こうなるのを見越して、パウアハルトを海賊、じゃなかった湖賊の討伐に行かせたのかな?ゆくゆくはヌビ家を突き放すつもりで」

 セピイおばさんは苦笑するような、それでいて絶句するような、何とも複雑な表情で私を見つめ、すぐには答えなかった。

「実は、兵士とか騎士様とか一部の男たちが、あんたと同じ推測をしていたよ。

 しかし真相は分からないままさ。グローツ王が本音をさらすわけないだろ。ジャッカルゴ様でも確かめようのない事だよ。

 しかも。ラカンシアの湖賊という他国人も関わっているんだ。グローツ王に何らかの意図があったとしても、ラカンシア人たちが都合よく合わせてくれるなんて、ほぼないよ」

 そ、それも、そうか。私は言葉に詰まって、唸ることも相槌を打つこともできない。

「城詰めの誰も言葉に出さなかったけど。嫌われ者のあの人が、後から惜しくなるなんてね」

 セピイおばさんは、つぶやくように言って、私から目をそらした。言葉に詰まるのは、私だけじゃない、ということか。若き日のセピイおばさんも、当時のメレディーン城の人々も。

「とにかくジャッカルゴ様や、ヌビ家を切り盛りする幹部がたは、パウアハルトに頼らずにグローツ王陛下と向き合わなければならなかったんだ。

 そんな大人たちの不安を察知したのか、赤ちゃんのナタナエル様は、ますますぐすってね。おしっこを漏らしちゃって、ジャッカルゴ様は降参だよ。ヘミーチカ様たちに赤ちゃんを返した。

 ヘミーチカ様のそばに居た女中が言うには、ジャッカルゴ様の袖にもおしっこが染みたようなんだが。ジャッカルゴ様は怒ったり騒いだりせずに、赤ちゃんを優先するよう、静かに促す。

 そんな時さ。伝令がジャッカルゴ様に駆け寄ったよ。一応、赤ちゃんを刺激しないように足音に気をつけていたけど」

「えっ、また?」

「そう、まただよ。しかも、伝令は前回と同じ人でね。小声かつ早口で、まずジャッカルゴ様に謝っていた。それで、また似たような悪い報せなんだ、と私は推測したよ。居合わせた他の人たちもピンと来ただろう。

 それは実際、悪い報せだった。なんとキオッフィーヌ様のお父様、つまりアンディン様のお舅さんであり、ジャッカルゴ様にとってはお祖父様にあたるお方が亡くなった、と」

「えっ。アンディンのお舅ってことは、かつて宮殿でオペイクスをからかった、あの」

「そう。アダム王陛下の前の王様の時に、王弟の一人だった方だ。だから、亡くなったアダム王陛下や次のグローツ王陛下には、叔父にあたる」

 うーん、と私は思い切り唸ってしまう。

「オペイクスとの因縁を考えると、同情する気にもならないし、多分アンディンも苦手意識があったと思うけど。都合良く、なんて言うと、バチが当たるかしら?パウアハルトの時みたいに」

「そうだねえ。今、振り返ってみれば、バチが全く当たらなかった、とは言い難いような。そこは私の話を聞きながら、おいおい考えておくれ。

 とにかく、これでジャッカルゴ様は、また忙しくなったよ。しかもアダム王陛下の時と違って、今回は奥方のヘミーチカ様と赤ちゃんのナタナエル様を伴って、都に行かなきゃならない。

 同時にロミルチ、ツッジャムの二城や領内の各地との連携も大事だ。ナモネア家の三男に嫁いだメイプロニー様にもお祖父様の死去を伝えなきゃならない。そこで、また伝令たちの出番さ。

 一方、私ら女中は、またしてもジャッカルゴ様一家の旅装を準備して差し上げるべく、城内を行ったり来たり。兵士や使用人たちも、厩や城門を何往復もして、馬車とかの用意をしていたよ。

 そんな間にも、ジャッカルゴ様はオペイクス様をつかまえて、改めてメレディーン城で待機しているように言いつけていた。『今回は自分の指示があるまで遠出してくれるな』と。

 そんなこんなで準備は、あっという間に完了したよ。緊急ってことで焦りもしたけど、前回のアダム王陛下の際に経験済みだからね。みんな、へんに慣れて、段取りが良かった。

 それでジャッカルゴ様は、日暮れ前には都アガスプスに向けて出発しようとした。もちろん私ら女中は、お見送りのために、ヘミーチカ様の馬車について行ったよ。

 そうやって大勢が城門から出たら、だ。門前の大通りを騎馬が二組、砂ぼこりを上げながら突進してくる。同じヌビ家の紋章衣なんだが、近づいて来た顔に見覚えがあった。なんと、ベイジの旦那さんとお店の使用人だよ。ベイジの旦那さんは声を先に飛ばして、私に頼むんだ。『ご党首様を引き止めてくれ』って。

 それで私もジャッカルゴ様に声を掛けて、ジャッカルゴ様も他のみんなも、ベイジの旦那さんを待った。

 ベイジの旦那さんは転げ落ちんばかりに下馬して、ジャッカルゴ様に駆け寄ったよ。で、息を切らせながら言うんだ。『どちらにお急ぎか存じませんが、一つだけ報告させてください。ロンギノ様が倒れましたっ』て」

「ええーっ、ロンギノまで」私は、またしても声を出してしまった。

「お名前を聞いた途端、オペイクス様や男連中も同じようにざわついたよ。

 そこまでの事態と予想していなかったんだろう。ジャッカルゴ様も慌てて馬から降りて、ベイジの旦那さんの肩をつかんで問い詰めた。何の病気かは分からないが、ロンギノ様は急に体調を崩したらしい。ジャッカルゴ様が『危ないのか』と確認すると、ベイジの旦那さんは一度つばを呑み込んで『半々かと』なんて答える。ジャノメイ様が呼び寄せた医者が、そう言っていたそうだ。

 ジャッカルゴ様は何とも苦しそうに顔を歪めたね。そりゃ、そうだよ。お祖父様のために家族で都に急がなければならない時だ。ロンギノ様に申し訳ないが、王族の一員でもあるお祖父様を優先せざるを得ない。

 ジャッカルゴ様はオペイクス様を呼び寄せて後を託したよ。『自分が都に居る間に、ロンギノの容態がどうにも厳しくなったら、ツッジャムに走ってくれ』とね。

 逆にベイジの旦那さんには、とりあえずメレディーン城に泊まって、翌朝から急いでツッジャム城に戻るように命じた。すぐに引き返せと言うのも、さすがにかわいそうだし。道中もいずれ暗くなれば、ヌビ家の紋章衣も見えにくくなって、潜んでいる盗賊どもに脅しが効かなくなるからね」

「はっ、そうか。そのためにジャノメイが紋章衣を貸してやったのね」

「そういうこと」

「で、今度はジャッカルゴが、弟ジャノメイへの言づてをベイジの旦那さんに頼んだと」

「そうなんだよ。ジャッカルゴ様はお祖父様の死去を伝えながら、付け加えた。『兄弟を代表して自分が葬儀に参列するから、ジャノメイはツッジャム周辺に目を配りつつ、ロンギノの看護に専念してくれ』とね。

 ジャッカルゴ様は、ナモネア家に居る妹のメイプロニー様、ロミルチ城の従兄弟二人にも、似たような指示を送るべく、それぞれに伝令を走らせたよ」

「てことは、オーデイショーも息子たちにロミルチ城を譲っていたと」

「そうさ。飲み込みが早いよ、プルーデンス。

 もう、王家からのお嫁さんたちもロミルチでの生活に慣れている頃だ。そろそろ、お嫁さんのどちらかがご懐妊じゃないか、なんて話題になっていた。

 しかし、それは、ともかく。ジャッカルゴ様の一家は慌ただしく都に向かったよ。

 私ら女中はベイジの旦那さんと使用人を食堂に連れて行って、夕食を提供した。

 旦那さんは緊張していたね。メレディーン城に長居するとは予想していなかったんだろう。おまけに、さらなる用事を仰せつかったもんだから、それを忘れないように気を張っていた。もっとも『事が事だけに、わざわざ羊皮紙とかに書き留めなくても覚えられる』とも言っていたよ。

 逆に使用人は、若さも相まってか、興奮気味でね。出てきた料理を喜んだり、メレディーンまでの道中でヌビ家の紋章衣がどれほど役に立ったかを演説したり。メレディーン城の女中や使用人たちを相手に忙しなくしゃべって、まあ盛り上げてくれたよ」

「ヌビ家と見れば、盗賊どもも絡んでこなかったか。さすがね」と私は感心してしまう。

「賊じゃなかったが、よその貴族が道を譲ってくれたとさ。『蛇じゃないけど、獣とか他の生き物の紋章衣を着た貴族が二回。花や武器だけの紋章衣の貴族が三回』だったかねえ。使用人さんとしては、普段は自分が貴族に道を譲ってばかりだから、よほど嬉しかったんだろう」

 そう言って、セピイおばさんは少し微笑んだが、すぐに表情を引き締めた。

 

ヨランドラ人貴族の紋章 狼と三日月、投げ戦斧

 

ヨランドラ人貴族の紋章 薔薇など

 

ヨランドラ人貴族の紋章 鞘入りの剣と花(彼岸花か?)

 

「逆にベイジの旦那さんは、オペイクス様と静かに話し込んでいた。オペイクス様から、ロンギノ様やツッジャム城の様子を詳しく尋ねられたんでね。

 ベイジの旦那さんの説明は、大体こんな感じだったよ。

 まず、旦那さんと使用人が定期訪問でツッジャム城に顔を出すだろ。品物も持参して。そしたら、ツッジャム城の城内がごった返すというか、ざわざわしていたと。

 女中も使用人も『薬がどうの』とか『お湯を沸かして』とか『もっと柔らかい毛布は無いのか』とか言い合いながら、右往左往。

 ジャノメイ様から指示を受けた、何人かの伝令が厩へ急いだり。かと思えば、城門から自分の脚で飛び出したり。

 奥方アン・ダッピア様も、監督役のビッサビア様も、深刻な顔でジャノメイ様のそばに居たようだ。何か小声で、ジャノメイ様と話し合っていたとか。

 仕方ないので、ベイジの旦那さんは通りかかった使用人の一人を捕まえたよ。そして、店の品物を届けに上がったことを報告したんだ。

 すると、使用人は早口で答える。『ロンギノ様が倒れたんで、それどころじゃない。荷車は、隅の方に寄せておけ』とね。

 そのやり取りに、ジャノメイ様が気づいてくださったのさ。そしてメレディーンへの使いを頼まれたと」

「ううーん。何だか、メレディーン城の中と似たような状況ねえ」私は首を傾げたくなった。

「もちろん、示し合わせたわけでもないよ。

 話を聞いたオペイクス様は、おっしゃった。『ジャノメイ様が送り出した伝令たちは、城下町や近郊の医者を呼びに行ったのか。あるいはロンギノ様の親族の元に向かったのか。とにかく、あちこちに使いを出す必要があって、ツッジャム城では人手が足りなくなったのだろう。それで君を、こちらメレディーンに寄越した。

 その様子では、ジャッカルゴ様が言われた通り、ジャノメイ様はツッジャム城を離れない方がいいな。もし君の報告を聞いても、まだジャノメイ様がお祖父様の葬儀に参列するべきか悩むようであれば、君からも居残りをお勧めしてくれ。その際に、私やジャッカルゴ様の名前を出してもいいから』なんてね。

 ベイジの旦那さんも真剣な顔で『承知しました』と答えていたよ」

「ベイジの旦那さんは、頼まれ事が増えちゃったね」と私。

 何気なく言ったつもりだったが、セピイおばさんは、目を見開いて反応した。

「そうだ。あんたの言う通りだよ。その後も、ベイジの旦那さんに頼み事が増えるというか。

 あの時、私は気を効かせたつもりで、ブラウネンに声を掛けていたんだ。ちょうど彼がメレディーン城に居合わせたんでね。彼の奥さんのイリーデは私の里帰りに同行して、ベイジの旦那さんたちとは顔見知りだろ。私はブラウネンを連れて来て、ベイジの旦那さんと使用人に紹介した。

 ブラウネンから『旅行中、妻が世話になりました』と礼を言われ、旦那さんと使用人は恐縮していたよ。若い使用人の方は、ブラウネンがイリーデの夫と知るや『いーなー、いーなー、あのお姫様と結婚できるなんて』とか、いつまでも羨む。んだもんで、雇い主であるベイジの旦那さんに軽く叩かれていた。

 それはいいんだが。ブラウネンも調子に乗るでもないだろうに、イリーデと赤ちゃんを連れて来よう、とか言い出してね。

 それを聞いて、オペイクス様が『あっ』と声を上げて、ベイジの旦那さんの肩をつかんだ。『た、たしか、セピイの里帰りで君の家に厄介になった時、君の奥さんもお腹の子に気をつけていたな。今は、どうしている』

 ベイジの旦那さんは驚きながらも、答えた。『失礼ですが、騎士様。あれから三年は経っております。うちの子は、もう歩き出して、少しですが、言葉も発するようになりました』と。

 オペイクス様は続けて、旦那さんたちの両親たちの状況を確認した。ありがたいことに、旦那さん自身の両親も、ベイジの両親も健在だったよ。

 それで安心するかと思いきや、オペイクス様は、今度はブラウネンに同じことを尋ねた。こちらの親たちも四人全員、変わりなかった。

『そ、そうか。良かった』と言いながら、オペイクス様は力が抜けたみたいに、ドスンと椅子に座り直した。しかし言葉のわりには、顔が青ざめていて、とてもじゃないが良さそうに見えない。

 私もブラウネンも勢い込んで、オペイクス様にお尋ねしたよ。『どうかしましたか』と。

 オペイクス様は私らの顔を見回して、だいぶ迷っておられたけど、意を決して、声をひそめて、おっしゃった。

『こ、これから私の見解を君たちに話すが、あくまでも私個人の極端な考えで、間違っているかもしれない。だから君たちは、頭に入れておくだけで、決して口外しないように。気をつけて聞いてくれ。

 私は・・・病が流行っている、と思う』

 オペイクス様のこの言葉に、私らだけでなく、食堂全体が静まり返った」

「そ、それって、ヨランドラ全体に流行り病が出た、とオペイクスは言っているの?」と私も目をむく。「しかも周りの人も聞き耳を立てているじゃない」

「ああ。オペイクス様のお言葉は明らかに、この国全体を指していたね。だから、みんな内容の大きさに驚いて、絶句していたよ。オペイクス様の上役にあたる、城の代表格の騎士様も、いつの間にか、すぐ後ろに立っていた。

 それに気づいて、オペイクス様は上役さんに謝った。『勝手な発言をしてしまいました』と。

 しかし上役さんの反応は、こんなだった。『謝るくらいなら、皆に根拠を話せ。何か思い当たる節があるのだろう』

 それでオペイクス様が話してくださったのが、ナクビーの様子だった」

「えっ、ナクビー?ヌビ家の領内じゃないでしょ」

「そうだよ。話があっちこっちに飛ぶように聞こえるかもしれないが、よく思い出しておくれ。アダム王陛下が亡くなった時、オペイクス様はナクビーに里帰りしていただろ」

「はっ、そうだった。それでパールの墓参りを我慢しなきゃならなかったよね」

「そう。オペイクス様がロミルチ城まで回れなかったのは、お里であるナクビーの町で用事が増えたからなんだ。

 また少し話が前後するが、まずナクビーの町に着いたら、ここ数年で知人が何人か亡くなっている事が分かった。パールさんを何かと助けてくれた、あの、ボジェナさん。オペイクス様のお母様。それと、一緒に一揆を戦ってくれた人も何人か。

 お母様の死去は、例によって弟さんからではなく、親切な住民たちから教えてもらったそうだ。さすがにお墓で手を合わせようかと思ったけど、オペイクス様は後回しにしたよ。ボジェナさんの方を優先しようと。ご家族を訪ねて、お墓に参った。そして、その墓地で、一揆に共闘してくれた人たちのお墓も、一つひとつ回ったんだと。

 そうやってナクビーに滞在していた時に、別の不幸事が起きたよ。元一揆勢の一人が、息子さんを病気で亡くしたんだ。オペイクス様からすれば、大切な戦友の息子さんだからね。オペイクス様は、そのまま葬儀に参列して、ご家族を慰めた。なんでも、まだ二十歳にもなっていない若者だったらしい」

「な、なんか人が亡くなりまくっているわね」私は思わず、口をはさんでしまう。

「ちょいと、まだ終わってないよ。

 葬儀のミサの後、ナクビーの住民たちとオペイクス様は、棺と共に墓地に向かおうとした。すると、その道中で、別の住民が駆けつけて、騒ぐんだ。誰とこの子どもが亡くなった、と」

「ええーっ」

「しかも、こちらの場合は、ほんの五、六歳。その子の葬儀にも参列しようと、オペイクス様は滞在を延ばすことを考えた。そしたら、さらに別の子どもが危篤だとか知らされて。

 そんなこんなでオペイクス様が驚いているところへ、メレディーン城からの伝令が駆けつけたわけさ。オペイクス様はナクビーの仲間たちに詫びながら、メレディーンに戻ったんだよ」

「い、一体どうなっているの。

 あっ」

「だからオペイクス様は流行り病を心配したのさ。

 まあ厳密に言えば、アンディン様のお舅様もボジェナさんも、そしてオペイクス様のお母様も、結構なお歳だったはずだ。寿命と言っても、おかしくないだろう。しかしアダム王陛下やナクビーの若者、子どもたちは、どう考えても早過ぎる。それぞれ、もっと人生があっただろうに」

「となると、オペイクスが流行り病を心配しても、おかしくないわね。周りの人たちも納得したんじゃない?」

「それが納得どころじゃなかった、と言うか。

 オペイクス様が話し終えると、女中たちの中から『あのう』と遠慮がちな声が聞こえた。皆が注目すると、本人は手もあげていたよ。へミーチカ様がリブリュー家から連れてきた女中さんだ。『私からも、よろしいでしょうか』と言うから、オペイクス様も上役さんも『どうぞ』と促す。で、今度は彼女からも話を聞いたんだが。

 内容は、要するにリブリュー家の状況でね。

 へミーチカ様の従兄弟さんが亡くなっていたよ。それが、よりによって前のアダム王陛下が亡くなって、ジャッカルゴ様が都に滞在していた時だ。へミーチカ様はメレディーン城で、夫であるジャッカルゴ様の帰りを待たなきゃいけない。だから、里帰りして葬儀に参列、というわけには、いかなかった。ヘミーチカ様は、仕方なく手紙を送ったよ。

 すると、その返事が届いて、そこには、また別の人の死が記されていた。なんと今度は、その女中さん自身の親戚だった。地元の小貴族に嫁いだ、お姉さんの子ども。やっと十歳になったばかりだったそうだよ」

 ううーん、と私は、またしても唸ってしまう。

「だから、まだ終わっていないって。

 その女中さんの話が終わると、さらに別の手が上がるんだ。たしか、メレディーン城の兵士と、女中が一人ずつ。『言われてみれば、俺の従兄弟も最近、死にました。先月です』『私のところは、叔父が一人、亡くなりました。まだ中年の域で、老年と言うには少し早いと思います』

 これらの報告で、また食堂は静まり返るんだよ。それでいて、みんな、妙にそわそわしていた。その中には、自分も言うべきかと迷っている顔が幾つか、あったね。

 オペイクス様と上役さんは、まずへミーチカ様づけの女中さんに礼を言ったよ。『貴重な証言に感謝する』と。そして改めて、みんなに口止めしたんだ。心配なのは山々だが、その時点では、あくまでも推測に過ぎないから。

 それでもオペイクス様と上役さんは、とにかく二つのことを決めたよ。薬の確保と、医者たちとの連絡を密にすること。ジャッカルゴ様が居られたら、そう指示なさるはずだからね。

 翌朝、ベイジの旦那さんは使用人を引きずらんばかりに、大慌てで帰っていった。急いで、奥さんのベイジや家族の無事を確かめたかったんだろう。

 そんな後ろ姿を見送りながら、オペイクス様はブラウネンに忠告するんだ。『しばらくは、イリーデや赤ちゃんを含め、ご家族を城に連れて来ない方がいいかもしれない』と。

 ブラウネンは絶句していたけど、明らかに納得していたね」

 そこまで話してから、セピイおばさんは深いため息をついた。

 

「な、なんか。ヌビ家が下り坂、どころじゃないわ。ヨランドラ全体が大変な事になっている、としか思えない」

「そうだねえ。あの頃は、暗雲立ち込めると言うか、不安で仕方なかったよ。

 ある時なんか、シルヴィアさんがオペイクス様と上役さんをつかまえて言うんだ。『アンディン様ご夫妻をこちらにお呼びして、静養していただくのは、どうでしょう。こちらメレディーンより都の方が、病が流行っているように思えます』と。

 そしたらノコさんが、すかさず割って入った。『おやめ、シルヴィア。あんたもアンディン様の性格を分かっているだろ。一度決めた事を、やっぱり、なんて撤回なさるようなお方じゃないんだ。この城をジャッカルゴ様に任せたからには、アンディン様が足を踏み入れることも、口をはさむことも、もう無いよ』

 オペイクス様の上役さんも『そうだな、ノコの言う通りだろう。アンディン様もキオッフィーヌ様もたしかに心配だが、ご本人たちが動くまい』とか同意していた」

「さすがにシルヴィアも、シュンとしたかな」

「かもしれないけど。シルヴィアさんは、ほとんど顔に出さなかったから、私とノコさんみたいに事情を知っている者以外は、誰も気づかなかったはずだよ」

 セピイおばさんの推測に、私はシルヴィアがちょっと可哀想に思えてくる。アンディンへの気持ちは応援できないけど。

 それにしてもヌビ家は、やはり名家だ。セピイおばさんの話によると、オペイクスたち幹部は薬の類を確保しながら、領内各地の役人たちに調査と報告もさせたのだ。

 何を調べるのかというと、薬が必要でも買えないような、貧しい世帯の数。そして、薬の値段を吊り上げようと買い占めに走る商人どもの数と位置。貧しい領民には役人や使用人たちを通じて、薬を届けさせ、同時に強欲な商人どもを取り締まるわけである。

 ありがたい事だ。これでこそ領主だ、と私は思う。ちなみに、ここ、山の案山子村でも、薬を分けてもらった家が何軒かあったそうだ。

 うちは村長の立場として、遠慮したけど。セピイおばさんのお父さん、つまり私の曾祖父は、この時に死んだ。風邪をこじらせたかと思ったら、どんどん食欲が無くなって、寝たきりになったそうだ。ベイジ夫妻が医者と役人を伴って、薬を届けに来てくれたのに。病床の曽祖父はそれを受け取って礼を言ったものの、すぐに付け加えた。

『自分は歳だから、死ぬのは仕方ありません。いずれ死ぬ自分に薬を使うより、子どもたち、若い者たちに使った方が良いでしょう。薬は、親族の子どもに譲ります。

 お役人様も、どうか、ご了承くださいませ。若城主様にも感謝しております』

 この曽祖父の遠慮というか気づかいにより、セピイおばさんの従姉妹、曽祖父から見て姪の一人が生きながらえた。その人は結婚して、小さい子が居たんだとか。

 さらに、もう一人。セピイおばさんのお兄さんのお嫁さん、つまり私たちのお婆ちゃんの甥っ子にも薬が行き渡って、助かった。

「死んじゃったのは残念だけど、そんな人が自分のひいお爺ちゃんだなんて、誇らしいよ」

「あんたのひいお爺ちゃんが言うには『薬を使っても、結局、寿命でお迎えが来る』と。

 私としては、残される母さんが可哀想な気もしたよ。でも、兄さんと義姉さんがついていると思えば、安心もできた。兄さんたちの子である、あんたたちのお父さんも、よちよち歩きで母さんを慰めてくれたようだし。

 って、この母さんは私の母さんだよ。あんたたちのお母さんであるミリーじゃなくて、あんたたちのひいお婆ちゃんだからね」

「ふふっ、ややっこしい」

 私とセピイおばさんは、それで少し笑うことができた。

 ちなみに、この曽祖父の配慮を、ツッジャムの若き城主ジャノメイも褒めてくれたそうだ。

「私はそれをオペイクス様から伝え聞いたよ。

 続けてオペイクス様は、おっしゃった。『おそらく、このヨランドラの各地で、同様の行為が他にもあったに違いない』とね」

「ナクビーでも居たかな?ひいお爺ちゃんみたいに薬を譲った人」

「居たんじゃないかねえ。案外、ボジェナさんが亡くなったのは、そんな事情かと思ったよ」

 私は、また唸ってしまったが、それまでとは違って、感心した上でのことだ。ああ、ナクビーが隣り町だったら、ボジェナさんの墓参りに行くのに。

「ところで、薬を買い占める商人って、ほんとに居たの?」

「ああ。信じたくないだろうが、居るんだよ、これが。しかも一人や二人じゃない。一人捕まえても、しばらくして、また別の奴が出てくる始末さ。情けない話だよ。

 念のため言っておくけど、メレディーン城でオペイクス様たちから口止めされた人たちだって、外でぺらぺらしゃべったりは、していないんだよ。事が事なんだ。城詰めのみんなが、流行り病だなんて言いふらすはずがない。罰を受けるとか、どころじゃない問題と分かっているんだ。

 それなのに、悪徳商人どもときたら。アダム王陛下の死を伝え聞いたり、周囲で人が亡くなるのを見たりして、ピンと来るのかねえ。本人たちは商売のつもりかもしれないが、薬の値段が吊り上がって、買えなくなる平民たちにとっては、たまったもんじゃないよ。

 そうそう。オーカーさんも、アズールさんも、それぞれの任地で、そんな奴らを現行犯逮捕してくれてね」

「へえ、ちゃんと貢献しているじゃない」

「それはシルヴィアさんが言っていたよ。やれやれ、あんたがシルヴィアさんに会えたら、結構、気が合ったかもね」

 また二人して笑えた。

「アズールさんったら、シルヴィアさんと奥さんのスカーレットさん相手に、長々と愚痴ってねえ。久しぶりにスカーレットさんをメレディーン城に連れてきたのに、だよ。

 何が不満なのかと思えば、オペイクス様や上役さんたちに褒められたのが『余計だ』と。市場とかで商人が薬の値段を吊り上げる現場を押さえたのはいいんだが、本人にしてみれば、大した事じゃないらしくてね。『あんな、小悪党とも呼べねえような、ど素人を縛り上げても、自慢にもならねえよ。賊討伐とか戦じゃねえんだから』だって。

 おまけに、ツッジャムから伝わってきた、オーカーさんの手柄より一件少なくて、それがまた面白くなかったらしい」

「ええーっ。騎士様ともなると、街のゴロツキなんか、目じゃないってことかしら」と私も、珍しく色男さんたちを褒める気になる。

「城の兵士や使用人たちが言うには、悪徳商人たちも用心棒めいた男どもを引き連れていたようだけどね。それもアズールさんに言わせれば『見掛け倒しもいいとこ』なんだとさ」

「ふふーん。そこまで言うアズールやオーカーは一応、顔だけじゃなかったってわけね」

 セピイおばさんは、とうとう声を上げて笑った。

「あんたも手厳しいじゃないか。その調子だよ。そうやって男を吟味しておくれ。そしたら、私も安心だ」

 

 続けてセピイおばさんは、他の男たちの活躍も聞かせてくれた。

 一人は、ヴァイオレットの旦那さんである。メレディーン郊外の役人として、貧しい家庭に薬を配って回る方だった。

 もう一人は、こちらツッジャムの人。ヴィクトルカの旦那さんで、色男オーカーが悪徳商人と用心棒を捕まえる際に加勢してくれたんだとか。

「これが残念なことに、噂の域を出ないんだ。ベイジの旦那さんがツッジャム城で仕入れた話は、こんな感じさ。

 まず買い占めの現場で、オーカーさんが商人に待ったをかけるだろ。それで商人の用心棒たちとオーカーさんの小競り合いになるんだが、そいつらの首領らしい大男がオーカーさんを背後から羽交締めにしようとしたよ。そこに割って入って、防いでくれた人が居たと。

 オーカーさんとちょうど似たような背格好の青年で、外套を着込んでいたけど、少しはだけた時に、紋章衣らしき色が見えた。

 目ざとくて好奇心旺盛なオーカーさんのことだ。気になって仕方なかったんだろうね。商人たちを縛り終えると、オーカーさんは慌てて、その御仁を引き止めた。

 相手は、オーカーさんがヌビ家の紋章衣を着ているのを見ると『貴殿に比べれば、自分など下級の貴族です。名乗るほどでもありません』なんて、そそくさと退散しようとする。

 オーカーさんは粘ったよ。『教えてもらえなかったら、若城主ジャノメイ様に報告もできねえし、上役のロンギノ様からも叱られるに決まっている。下手すれば、ロンギノ様は病床で頭に血が上って、容態が悪化するかもしれねえ』とか、あれこれ言い募って。

 しかし、相手の方も遠慮をやめないんだ。『貴殿の上役の方がご病気なら、なおのこと私などで煩わせてはいけません』と。

 で、オーカーさんは知恵を絞った。『よし、分かった。どうしても名乗らねえんなら、それでもいいや。ただし代わりに、おたくの紋章衣を見せてくれよ。ちらっとでいいから。後は、こっちで勝手に調べさせてもらうぜ』なんてね。

 根負けした相手の方は、オーカーさんの言う通りに外套の前を開けて、紋章衣を見せてくれたよ。遠慮するだけあって、そこには、たしかに蛇も他の生き物も描かれていなかった。しかし左半分だったか、竜巻らしい線の集まりが描かれていてね。もう半分は、真ん中に花が一輪だけ。オーカーさんも珍しいと思い、由来を聞きたくなったよ。でも、その方は人混みに紛れて、去ってしまったそうだ」

「私も覚えているわ。花嵐の紋章でしょ。その話を旦那さんから聞いたベイジも、ヴィクトルカを思い出したのね。そして、オーカーに助太刀した人は彼女の旦那さんだろう、と推測した。

 でも、それなら、ヌビ家の騎士であるオーカーに対して、何だか、よそよそしいような。ヴィクトルカと旦那さんは、ヌビ家に縁組してもらったはずなのに。

 あ。もしかして、結婚後にヴィクトルカの事件を知って、ヌビ家に騙されたような気になっている、とか」

 自分で言っておきながら、私は嫌な気分になった。

「よく気がついたよ、プルーデンス。あまり楽しくない話だが、女は、そうやって気をつけなければならないんだ。男に対して、ね。残念ながら。

 あの頃は簡単に里帰りってわけにはいかなかったから、ツッジャムに居るベイジとは手紙でやり取りして、その問題についても話し合ったよ。もちろん私もベイジも、ヴィクトルカ姉さんの旦那さんが事件のことで姉さんを責めるような人じゃない、と思いたかった」

「そのためにスネーシカが念押ししてくれたんだもんね」私は、言いながら手を握りしめる。

「何とか、確かめられないかな。ヴィクトルカの状況」

「やってみたよ。ベイジに手紙で伝えたんだ、もうロンギノ様かジャノメイ様にお頼みするしかない、と。それでベイジ夫妻がツッジャム城に上がると、療養中ながらロンギノ様が話を聞いてくださった。

 また話が前後するが、実はジャノメイ様はツッジャム城を留守にしていたんだ」

「えっ、ロンギノの病気とかで、あまり動かない方が良かったんじゃ」

「うむ。そこは、また後で話すよ。

 とにかくロンギノ様は、私やベイジの懸念を理解してくださった。ロンギノ様も、姉さんの事件をご存じだったよ。あの人、モラハルトの部下として耳にしたのかもしれない。

 その上、ロンギノ様はヴィクトルカ姉さんの嫁ぎ先もご存じだったんで、使用人や兵士を何回か派遣してくださってね。こっそり物陰から覗かせたが、とくにヴィクトルカ姉さんがいじめられているような様子は無かった。どちらかと言えば、旦那さんはヴィクトルカ姉さんをよく気づかっていたとか」

「ふーむ。人の目に気づかなくても、そんな調子なら、大丈夫よね?」

「ああ。ロンギノ様も、そう言ってくださったそうだよ。ベイジからの手紙に書いてあった」

 セピイおばさんの答えに安心して、私の肩から力みが抜けた。

「それにしても、オーカーに助太刀したのは、やっぱり、その人じゃないの?」

「私も、そう思ったんだけどねえ。本人は、どうしても認めなかったらしい。

 ロンギノ様から派遣された兵士は、もう思い切ってヴィクトルカ姉さんの旦那さんに声を掛けた。自分の身分やオーカーさん、ロンギノ様との関係を説明してから、お勧めしたんだよ。『ツッジャム城に上がって、ジャノメイ様からご褒美を貰ったらいい』と。

 しかしヴィクトルカ姉さんの旦那さんは、承知しないんだ。『人違いです。自分が褒美をいただくわけには、まいりません』って。

 ロンギノ様の兵士は仕方なく、ツッジャム城に帰った」

「うーん。謙虚を通り越して、やっぱりヌビ家を避けているような気がする」

「そこはロンギノ様も、病床で感じておられただろうけど。こういう、悪くもない人に無理強いするようなロンギノ様でもないよ。助太刀の件は結局、うやむやになった。

 私とベイジは、とりあえずヴィクトルカ姉さんの近況を知ることができて、良しとしたよ」

 疫病や薬買い占めの商人は嫌だけど、なるほど、そこは思わぬ収穫だ。

「あっ。そういえば、オーカーの手柄がアズールより一件多かったのは、その人のおかげなんじゃない?」

「ああ、考えてみれば、そうだね。私も、そう言ってアズールさんをなだめればよかったか。

 いや、結局シルヴィアさんは、どちらにも手加減しなかっただろう」

 セピイおばさんは、そう言って笑った。

 

「ちなみに、ね」とセピイおばさんは話を続ける。「私はこの、ヴィクトルカ姉さんの旦那さんのことを、オペイクス様に話してみたんだ」

「オペイクスの意見も聞きたかったんでしょ」と私も合いの手を入れる。

「その通り。

 ただし、旦那さんのことを話すためには、その前にヴィクトルカ姉さんの事件についても話さなきゃならない。ヴィクトルカ姉さん本人の了承も無く、だ」

「だからこそ気をつけて話さなきゃならない。だけどオペイクスなら分かってくれるもんね。ぺらぺら言いふらすような人じゃないし」

「そう。実際オペイクス様は、真剣に私の話を聞いてくださった。私が語るヴィクトルカ姉さんと旦那さんの話を。

 はじめ、オペイクス様の表情はあまりにも固くて、怒っているように見えなくもなかった。でも、だんだん眼差しが緩むというか。終いには微笑んでいるように見えたよ。

 オペイクス様の意見は、こんなだった。

『私は、その人に結構、期待するなあ。ロンギノ様の見立て通り、奥さんを責めたりはしていないだろう。

 そりゃあ、奥さんの辛い事情を知らされて、行き場の無い怒りを持て余している最中かもしれない。

 でも、オーカー君の話だと、旦那さんは、一風変わった紋章衣を着ていたんだろ。私は、そこが要点だと思う。さらにセピイの話では、花嵐とかいう、その紋章は、旦那さんの生家のものではなく、奥さんの生家のものじゃないか。

 つまり、旦那さんは自分を主張するのではなく、奥さんの存在を主張している。奥さんを肯定しているんだ。奥さんに、どんな辛い過去があろうとも。

 私は、その気持ちが分かる、と言うか、共感するなあ。人の気持ちが分かるとか、簡単に言うべきではないかもしれないが。大いに感心するし、興味がわく。

 とは言え、向こうが、こちらヌビ家を避けているようであれば、どうしようもないが』

 ってね」

「話した甲斐があったわね、セピイおばさん」

「ああ、私は嬉しかったよ。ヴィクトルカ姉さんと旦那さんは辛い思いを秘めているだろうけど、ここにも、あなた方を分かってくれる人が居ますよ、と。あなた方の味方が居ますよ、と声を大にして叫びたかったね」

「よかった。やっぱり、オペイクスは頼りになるわ。アンディンが彼をヌビ家に引き入れて、大正解よ。

 しかもオペイクスは、自分の姓エクテじゃなくて、パールの姓であるアヴュークを名乗っている」

「覚えていてくれたか」

「もちろん」

「ありがとよ、プルーデンス」

 微笑んでくれたセピイおばさんの目は、少し濡れているように見えた。

 

 それから話は、またジャッカルゴに戻った。セピイおばさんを含む、城詰めの者たちが留守番に専念している中、彼の一行がメレディーン城に帰還したのである。実は、オペイクスたちが考えた流行り病の説をふまえて、伝令が彼らを追いかけるように走った、という事情もあった。党首一家を都アガスプスに長居させるわけにはいかなかったのである。

 帰ってきたジャッカルゴは、都アガスプスでの出来事を少しずつ、城詰めの者たちに語った。

 まずは、葬儀の状況。かつては王弟の立場でもあった祖父の葬儀だが、先のアダム王の時と同様、長引いたりはしなかった。グローツ王をはじめ、王族たちが取り仕切って、そそくさと済ませたからである。アンディンとジャッカルゴのヌビ家父子は、ただ参列しただけ。手伝ったり、口をはさんだりするような機会は、またしても無かった。

 葬儀の後にジャッカルゴ一家は、妻ヘミーチカの両親の屋敷も訪れている。それで幼いナタナエルは、母方の祖父母と再会できた。加えてジャッカルゴからも、妻ヘミーチカの従兄弟の死についてお悔やみを伝える事ができた。

 都の要人たちを訪問して回る事は、今回ジャッカルゴは、しなかった。伝令から勧められた事もあるし、前回のアダム王の時と違って、グローツ新王の戴冠式のような別の行事も無いのだ。病の感染を心配しながらでも、わざわざ居残ってするような事ではない。

 代わりでもなかろうに、珍事というか、予想外の再会があった。

「ジャッカルゴ様は何とおっしゃったんだったかねえ。だいぶ忘れかかっているけど。たしかジャッカルゴ様のご一家がヘミーチカ様のご両親のお屋敷を辞して、アンディン様たちのお屋敷に戻る時だったような。

 おそらくジャッカルゴ様は騎乗して、ヘミーチカ様と赤ちゃんのナタナエル様は馬車の中。それにお供の兵士たちが、そばについていたんだろうよ。

 そしたら都の大通りの反対側から、やたら視線を送ってくる御仁があった。誰かと思えば、マーチリンド家党首の従兄弟さんだよ。ほら、ジャノメイ様の奥方、アン・ダッピア様のお父様でもある。前回のアダム王の時に続いて、またもお会いしたわけさ。

 と思ったら、すぐ後ろからジャノメイ様本人も出てきて、横に並ぶじゃないか。さらにはジャノメイ様のすぐ後ろに、外套で頭から爪先まで、すっぽり身を包んだ女性らしい姿もある」

「ええっ、それって」

「アン様。夫婦揃って、そこに居られたんだよ」

「ツッジャムに居ないと思ったら、夫婦で都に来ていたのね」

「そうなんだよ。ベイジの旦那さんが戻った時には、もう都に向かって出発した後だったらしくてね。

 何でこうなったかは、アン様のお父様がジャッカルゴ様に説明した。通りの往来を止めて、ジャッカルゴ様たちのところに歩いて来てね。もちろん、お供も連れて。

 きっと、止められた都の住民たちは注目しただろうよ。ヌビ家とマーチリンド家という、二つの名家が向かい合うんだから。

 ジャノメイ様は気を利かせて、お舅さんに言ったそうだ。『兄には自分から説明しましょうか』と。

『いや。マーチリンドを代表して、私から話そう』とお舅さんは答える。

 で、そのままジャッカルゴ様に事情を話すんだが。それが、いたって普通の声量だったと。もう、通りすがりの都人たちが聞き耳を立てても仕方ないと、あきらめたんじゃないかねえ。

 で、お舅さん、アン様のお父様がジャッカルゴ様に話したのは。なんと、まあ、マーチリンド家党首の急死だった」

「またぁ?」

「そう、まただ。

 前のアダム王の葬儀の後、マーチリンド家の党首と従兄弟さんも、自分たちの居城スボウに戻ったよ。しかし党首の方は体調を崩して、あっという間に寝込んでしまったと。後から伝わってきた噂だと、どうやらマーチリンド家の党首は吐血したらしい。この時は都の人通りの中だから、さすがに従兄弟さんもそこまで言わなかったようだが」

「ず、随分ときつい急変の仕方ね」

「ああ、マーチリンドの家中は大騒ぎだったろう。

 しかも、この党首の跡継ぎが若すぎた。党首が再婚したんだったか、事情は忘れたけど。跡継ぎの子は、たしか、やっと十歳になったか、ならないか、と聞いたよ。ビッサビア様から見れば、甥っ子にあたる。

 その上、マーチリンド家にとって悪い事が、もう一つあった。急死した党首には男兄弟が居なかったんだ。若くして兄と弟を亡くして、党首になったはいいが、後は姉であるビッサビア様だけ。それでマーチリンド家では、党首の従兄弟たちを招集して、若すぎる跡継ぎを補佐する男手を確保したのさ。

 ちなみに、アン様のお父様、ジャノメイ様のお舅さんは、そんな従兄弟たちのまとめ役だったらしい。元々、党首の片腕のような存在だったんじゃないかねえ。

 とにかくマーチリンド家では、党首亡き後の舵取りに、ジャノメイ様のお舅さんをはじめ、幹部たちが頭を悩ませたわけだ。そして方針を決めた。しばらくは公表しないでおこう、と。

 一方、娘婿であるジャノメイ様には事情を話した上で、口止めした。親子の絆を尊重して頻繁に娘に会わせてくれるジャノメイ様を信頼しての事だよ。

 これに対してジャノメイ様は、お舅さんのお手伝いを買って出て、都まで同行した。そしてアン様は、そんなジャノメイ様について行くと言って聞かなかった、というのが専らの噂だ」

「ジャノメイとしては、かわいい奥さんのアンを都の男たちの視線に晒したくなかったんでしょうね。だから、外套なんかでガチガチに固めて」

 私が言うと、セピイおばさんは苦笑した。

「おそらく、その通りだろうけど、あんたもジャノメイ様くらいは手加減してあげな。オーカーさんたちじゃないんだから」

「それにしても、その、アンのお父さんとしては、娘婿のジャノメイに手伝ってもらうような事があったの?」

「多少は、あったようだよ。宮殿のごく一部のお偉いさんにだけ、党首の死を報告したり、その関連で面倒な手続きを隠れてしたり、とか。付き合いのある司教や修道院長のところも密かに訪問してね。それがダメなら書簡で知らせる、なんて事も。宮殿近くのマーチリンド家の屋敷では、家財の片付けを少々と、党首の遺品の回収なんかもしたとか。

 どれも、だいぶ後になってから、ベイジの旦那様がジャノメイ様本人から聞いた話だよ」

「ふーん。ん?

 ところで、アンのお父さんやマーチリンド家の幹部たちは、党首の死を公表しないつもりだったんじゃ」

「それが、都でジャッカルゴ様を見かけて、観念したんだとさ。党首が死んでしまっている事に変わりはないだろ。いつかは公表しなければならない。時間の問題だ、とアン様のお父様も分かっておられたんだ」

「やっぱり、そうよねえ」と私も頷く。

「加えてアン様のお父様としては、ヌビ家の新党首たるジャッカルゴ様に一言、言いたくもあった。それで、わざわざ都の大通りをまたぐようにして、自分からジャッカルゴ様たちに近づいてきたのさ」

「えっ。何か文句でも言うの」

「じゃなくて、断りだよ。アン様のお父様はジャッカルゴ様に断りを入れたんだ。近々ビッサビア様をマーチリンド家に呼び戻したい、と。亡き党首の若すぎる跡継ぎを補佐するために、人員を増やしたかったそうだ」

「ふーむ。ある意味、オーカーの予想が当たった事になるわね。

 それでジャッカルゴは、何と答えたの。ヌビ家党首として」

「何って、ダメだなんて言うような話でもないよ。ジャッカルゴ様やアンディン様から見れば、ビッサビア様は裏で密偵たちを操っていた前科者だ。そんな人がヌビ家を出て行ってくれるのなら、どうぞどうぞってところさ」

「そういえば、そうか」

「というわけで、両家の立ち話は手短かに済んで、解散となったよ。

 ちなみに男たちが話している間に、ヘミーチカ様とアン様も、話ができたようでね。アン様は赤ちゃんのナタナエル様を抱っこして、ちょっと騒いだとか。『やだ、この子ったら、私からもお乳をもらいたがってる』なんて言って。後々、笑い話になっていた」

「それ、居合わせた従者たちが、後で言いふらしたんでしょ。

 なんだか、かつては王弟だった人が死んだ事なんて、忘れそうな話ね」

「でも、不謹慎ってほどでもないだろ。アン様にしてみれば、夫であるジャノメイ様のお祖父様が亡くなったってだけで、どうしても馴染みは薄いからね。

 ジャノメイ様にしたって、生前のお祖父様とちょくちょくお会いするってほどでもなかったそうだ。ジャッカルゴ様も、おそらく、そうだろう」

「となると一番悲しんだのは、やっぱり娘であるキオッフィーヌか。

 ところで、おばさん。私、思ったんだけど、ジャノメイの立場が、なかなか微妙なんじゃない?アンの生家マーチリンドと自分の生家ヌビの板挟みになって」

「よく気がついたね、と言いたいところが」セピイおばさんはニヤリとした。

「ジャノメイ様本人は、私らが心配するほど悩まなかったようだよ。

 これも後になって、耳にしたんだけどね。ある時ジャノメイ様が、兄であり、党首でもあるジャッカルゴ様に、こんなふうに告白したそうだ。

『僕は正直、家など、どうでもいいと思っている。ヌビでも、マーチリンドでも。

 大事なことは、ただひたすらに、アンのためになるか、どうか。それだけだよ。いくら財を増やして、領土を広げても、アンのためにならないようなら、何の意味も無い。もちろん、彼女を養うためにそれらが必要というのであれば、話は別だけど。

 だからね、兄さん。もしヌビ家とマーチリンド家が仲違いするような事があれば、僕はツッジャムの城も配下の者たちも全て兄さんに返して、一人でアンについて行くつもりだ』

 とね」

「ふふーん。自分にとって何を優先すべきか、前もって考えて、決めていたのね。

 でも、聞かされたジャッカルゴは怒らなかったかな?」

「怒るも何も。ジャッカルゴ様は苦笑したんだと。もうすでに、ジャノメイ様は意固地になっているようなもんじゃないか。叱ったり、説得しようとしたりしても、無駄だと分かっておられたのさ。

 さらに言えば、ジャッカルゴ様は推測したそうだよ。『さては、ジャノメイは、奥方であるアンのお父上にも似たようなことを宣言したのだろう』と」

「てことは、結局ジャッカルゴも、弟ジャノメイの気持ちを充分、理解していたのね。

 そもそもジャッカルゴだって、奥さんのヘミーチカの生家リブリューとこじれたくなかったでしょうし」

「そういうこと。事情は同じさ。

 そして私ら領民も、その方が平穏な暮らしができるってわけ」

 セピイおばさんは、そう付け加えて、盃にちょっとだけ口をつけた。

自作小説「塔の上のセピイ  〜中世キリスト教社会の城女中の話」第十五話(全十九話の予定)

第十五話 次につなぐために

 

 またしても眠気に耐えながら、畑仕事をこなして、一日をやり過ごし、私は夜を迎える。ジャノメイだって、政務を怠らなかったのだ。私も負けないぞ、と。

 深夜、指定された離れに行くと、セピイおばさんは言った。「やっぱり予定変更だ。場所を替えるよ」

 で結局、昨夜と同じ、一番端の離れに私たちは移る。二夜連続で同じ離れを使うなんて、今回が初めてだ。

 入る直前に、私も周囲の暗がりに目を凝らしてしまう。しかし、誰かが潜んでいそうには見えない。

「人の気配があったわけじゃないんだ。ただ、よくよく考えたら、今回は貴族の秘め事が多くてね」

 暗い離れの中で座りながら、セピイおばさんが説明した。

「秘め事」

 私も座りながら、思わずつぶやく。誰の、と尋ねたいところだが、それは急かし過ぎだ。

「慌てなさんな、いずれ分かるんだから。

 さて、昨日の夜は、ジャノメイ様の結婚が上手くいったところまで話したね」

 上手くいき過ぎ、とか茶化したりせずに、私は背筋を伸ばして、聞く体勢に入った。

 

「ジャノメイ様がアン・ダッピア様とツッジャム城で暮らすようになって、何ヶ月くらい経ったかねえ。とにかく、若いお二人が城主夫妻としての生活に慣れただろうと、誰もが考えるような頃だ。

 あの時も天気が良かったよ。外城壁の中庭に女中とか使用人とか、騎士様や兵士を含めて、城詰めのほとんどが召集された。門番や城壁の上の見張りだけは職務続行。たしか後で仲間たちや上役から話を聞く、という予定だったろう。

 アンディン様とキオッフィーヌ様がみんなの前に立って。ジャッカルゴ様と、お腹が膨らんだヘミーチカ様は、その脇に並んでいた。

 そうそう。結婚以来、城に寝泊まりせずに時々通って来る、イリーデやスカーレットさんも、それぞれの旦那さんと参列したよ。

 で、皆が注目する中、アンディン様が、ついに宣言なさった。奥方キオッフィーヌ様を連れて、都アガスプスに移ると。前々からヌビ家党首としての立場、メレディーンの城主としての立場は、ご長男ジャッカルゴ様に譲っておられたんだが。いよいよ、城や領地など何もかも、すっかり渡してしまおうってわけさ」

 セピイおばさんは、そこで言葉を区切った。私は何も言えない。へええ、すら出ない。城や領地を丸ごと引き渡すなんて、やっぱり雲の上の人たちの話だ。

「聞かされたみんなも、今のあんたみたいに、驚いて言葉も無かったよ。

 アンディン様は詳しく説明しなさった。都アガスプスの城下町に屋敷を用意した、と。そこから時折り宮殿に上がって、王族の方々の話し相手を務める。同時に、宮殿で得た情報は、ヌビ家の新党首であるジャッカルゴ様に逐一、伝える段取りだ、とね」

「王族かあ。でも新しい王様のアダムは、どちらかと言えば、ジャッカルゴの方と気が合うんじゃないの?」

「もちろん、そうだが。かと言って、党首になったばかりのジャッカルゴ様が頻繁にメレディーンを離れるのも、良くないよ。

 そこで、アンディン様が仲介するわけさ。

 それだけじゃない。アンディン様は主に、新王陛下の叔父叔母にあたる方々のお相手をするつもりだった。と言うより、亡き先王様の弟や妹、かつての王弟様たちだね」

 私は、ふーん、と言いかけて、呑み込んだ。セピイおばさんが私の目を覗き込んでいる。何があるんだっけ。あっ。

「ちょ、ちょっと待って、おばさん。

 前の王弟たちって、キオッフィーヌのお父さんも含まれているんじゃ。つまり、アンディンのお舅さん」

「思い出したね。それだよ。アンディン様は特に、ご自分のお舅さん、お姑さんをお相手しようと考えたんだ。先王様は亡くなったが、キオッフィーヌ様のご両親は、まだ健在だった」

「でも、そのお舅さんって、以前オペイクスを宮殿でからかった、あの王弟でしょ。しかも、そんな事をしたのは、アンディンに対する当てつけだって。そう推測したのはアンディン自身だったじゃない。それなのに、その話し相手を買って出るって言うの?」

「ああ、そうだよ。あえて買って出るんだ。

 あの時はアンディン様の宣言を聞きながら、私も、あんたみたいにいろいろと考えを巡らせたよ。

 そして、オペイクス様に視線を送った。オペイクス様は、アンディン様ご夫妻の少し後ろ、ジャッカルゴ様たちと反対側の脇に立っておられた。

 オペイクス様は口元を真横にキュッと引き締めていて。私に気づくと、ほんの少しだが、顎を左右に動かした。『言うな』ということだろう、と私は受け取ったよ。もちろん、みんなの前で、アンディン様の心境を勝手に説明するなんて、私もするつもりはなかった。後でオペイクス様にだけ確認しよう、と思ったよ」

 うーん、と私は唸らずにはいられなかった。

「アンディンはそのお舅さんに対して苦手意識を持っていた、と思うんだけど」

「まあ、そうだろう。しかし、アンディン様がそんな気持ちを、みんなに打ち明けるはずもない。代わりに、と言うか、その時、居合わせなかったジャノメイ様を引っぱり出した。『ジャノメイを見習って、私も奥を里帰りさせてやらねばならんのでな』と」

「な、なんか、言い訳っぽいような。アンディンにしては珍しいわね」

「きっと、ご自分に言い聞かせるための言い訳だったんだろう。

 これに対して意見できるのは、ジャッカルゴ様くらいさ。ジャッカルゴ様は皆の前で、おっしゃった。『そんなに急がないで、孫の顔を見て行ってくれよ』と。

 アンディン様は『逆に、産まれてから駆けつけるから、案ずるな』と笑って返していた。

 ヘミーチカ様も遠慮しながらも、おっしゃるんだ。『何だか、お二人を追い出すようで、気が引けます』とね。

 すると今度は、キオッフィーヌ様が笑みを浮かべて、顔を横に振りなさった。

『違いますよ、ヘミーチカさん。むしろ、ここに居る皆さんは、私たち二人を追い出さなければならないのです。

 国王も替わって、多くの貴族家で代替わりが始まっています。

 このヌビ家も、もう、あなたたちの時代に入ったのですよ』

 私は、これを聞いて、また思うことがあった」

「ノコの言葉ね」私は、すかさず指摘した。

「そう。ツッジャムの時代、メレディーンの時代と、私に教えてくれたのはノコさんだ。だから今度は、ノコさんの顔をそっと見たんだが。

 ノコさんは何人かの若い女中たちの向こうで、ロッテンロープさんと並んで立っていた。オペイクス様と違って、ノコさんは私の視線に気づかずに、真面目顔をキオッフィーヌ様たちに向けているだけだったよ」

 こうして、メレディーン城の中庭での会合は済んだのだが。セピイおばさんは、その後でキオッフィーヌに呼ばれた、と言う。

「皆が解散する中、キオッフィーヌ様がヘミーチカ様と一緒に待っておられるところへ、私は進み出た。私だけじゃないよ、ノコさん、シルヴィアさん。それと、ヘミーチカ様がリブリュー家からお連れした女中たちのうち、二人も、だ。

 キオッフィーヌ様は、まず私らの普段の働きを労ってから、私らにお命じになった。『これからは、メレディーン城の女たちの主人は、こちらのヘミーチカさんです。これまで以上に支えてくださいね』と。

 もちろん私らは揃って、はい、と即答した。

 私は、嬉しいような、それでいて緊張するような、内心、高揚していたよ。たしか、その時点で、私はツッジャム城からメレディーン城に移って、やっと三年くらいしか経っていなかったはずだ。そんな日の浅い私を、女中たちの代表の一人として見なしてもらえるなんて。あるいは、いろいろと危なっかしいから、釘を刺す意味で同席させたのか。いずれにせよ、気を引き締めなければ、と思ったもんさ」

 セピイおばさんは、そこで一息ついた。

「そうやって、いろいろ考えながら、城内の歩廊を通って持ち場に戻っていたら、さ。前を歩いていたはずのシルヴィアさんと、ぶつかりそうになった。私が謝ろうとしたら、シルヴィアさんが逆に謝るんだよ。『やだ、私ったら。トロかったわね』なんて。

 私は、この出来事を大して気にも留めず、昼間は仕事に没頭して、すっかり忘れていた。

 ところが。その夜、晩餐の後の洗い物を済ませたところで、ノコさんから呼ばれたよ。物陰から低く抑えた声で、私を呼ぶんだ。それで私も察して、他の女中や使用人なんかに気づかれないように、そっと、その場を離れた。

 ノコさんはズイズイ歩いて、外城壁の隅に私を連れて行ったね。私は、どんな説教を受けるのかと内心、構えたよ。

 しかし、何のことはない。私じゃなくて、シルヴィアさんのことだった。ノコさんは周囲の陰なんかを気にしながら、小声でこんなふうに言った。

『今から私があんたに出す指令は、ヘミーチカ様から命じられたわけでも、キオッフィーヌ様から命じられたわけでもない。私の勝手な判断だからね。

 いいかい、セピイ。シルヴィアの様子に気をつけるんだよ。少しでもおかしいと思うところがあったら、必ず私に報告しなさい。いいね』

 それで私も思い出した。会合の後でシルヴィアさんにぶつかりそうになった事を。私が話すと、ノコさんは『そうだ。そういう事を教えとくれ』と言う。

 で、話はそれだけ、と言わんばかりに、行きがけと同じ勢いで、ノコさんは去ろうとする。

 私は慌てて追いすがって、事情を尋ねたよ。ノコさんは立ち止まってくれたが、数秒黙り込んだ挙句に『今は言えない』なんて答える。

 私はよく分からないまま、翌日からシルヴィアさんの様子を注視したね。もちろん、本人に勘づかれないように、こっそりと、だが」

 セピイおばさんは、また、ため息を挟んだ。私は、んん?、と不思議に思う。何だろう。きつい、恐ろしい内容ではなさそうなんだが。

「はじめ、シルヴィアさんの様子は普段と何も変わらないように見えたねえ。

 しかし、よおく見ると、元気が無いような。

 考えてみれば、親友のヴァイオレットさんが去って、スカーレットさんが顔を出す回数も減っていた。

 しかし、その分、リブリュー家から来た女中たちとも気兼ねなくやり取りしていたし。シルヴィアさんのおかげで、私も彼女たちと一緒に仕事する機会が増えたくらいだよ。

 それなのに、と言おうか。シルヴィアさんは時々ため息をつくようになっていた。

 もちろんシルヴィアさんがため息をつく事なんて、それまでも幾らでもあったよ。オーカーさんたちとの雑談で、お仲間の言動に呆れて、ツッコみを入れる前後に、とかね。

 でも、この頃は、そんなんじゃないんだ。私と並んで針仕事とかしている最中に、不意にシルヴィアさんの手が止まる。そして、ため息だよ。私から『どうかしましたか』と声をかけるまで、自分のぼんやりに気づかない事さえあった。

 もちろん私は、それらをまとめて、ノコさんに報告したよ。でもノコさんは、あいかわらず事情を教えてくれなくて。

 そうこうしているうちに、ついにアンディン様とキオッフィーヌ様が都へと旅立った。皆でお見送りしたよ。城詰めの者だけじゃない。メレディーン城下の主だった商人とか、司教とかも、お別れの挨拶にきてね。それに、イリーデとスカーレットさんも、それぞれの旦那さんに付き添われて、駆けつけたんだ。

 それと、少し話がずれるが、アンディン様たちを見送りながら、オペイクス様がつぶやくようにおっしゃっていた。

『王族のお相手とは・・・アンディン様は最後の一仕事とお考えなのだろう』

 とね」

 

 セピイおばさんは例によって、盃を出して葡萄酒を注いだ。ほんのちょっとだけ。口を湿らせる程度か。

 私ももらおうかと迷ったが、結局言えなかった。本当は、お酒じゃなくて、口をはさみたい気がする。しかし何と言ったらいいのか。シルヴィアは一体、どうしたんだろう。

「さてアンディン様ご夫妻が出て行かれて、三カ月ほどしたか。いよいよ、ヘミーチカ様が出産なさる日が近づいてきた。

 当然、ジャッカルゴ様はお父上アンディン様にお知らせするべく、伝令を走らせようと手配するんだが。そこでノコさんがジャッカルゴ様たちに、こんなふうに提案したんだ。

『逆にこちらから、ご子息を披露しに都に行かれては、いかがですか。もちろん、ヘミーチカ様の産後の回復を待ってからですが』

 その場に、と言っても、その時は内城廓の中庭だったんだが、居合わせた皆が驚いて、言葉も無く、ノコさんに注目したよ。

 あくまでも女中に過ぎないノコさんが意見するなんて、それまであったか、どうか。アンディン様に対して意見したところなんか、誰も見た事が無かったし、ジャッカルゴ様に対しても、結局この一回きりだったろう。それくらい珍しい事なんだよ。

 目を丸くしているジャッカルゴ様に、ノコさんは、さらに続けた。

『ジャッカルゴ様がご子息をお連れすれば、アンディン様が王族の方々とお会いする際の、格好の話題になるでしょう。

 あるいは、その場にジャッカルゴ様たちも同席して、アンディン様から王族の方々にご子息を紹介していただく事もできるじゃありませんか。

 いや、それより何より、ジャッカルゴ様もそのまま宮殿に上がって、アダム王陛下にご挨拶なされませ。ご子息に会っていただけるはずです』

 ジャッカルゴ様は、なるほど、と唸って、この意見を容れた」

「た、たしかに。その手があったわね。せっかく都に行くんだし、できるだけの事をしないと、もったいないわ」と私。

 セピイおばさんは満足げにうなずいてくれた。

「そして、その通りに事が進められたよ。赤ちゃんが無事に産まれて、ヘミーチカ様も一月半ほど静養なさって。その間に、都の城下町にあるリブリュー家の屋敷でヘミーチカ様のご両親と会う手筈まで整ったよ。

 やがて、ヘミーチカ様と赤ちゃんのナタナエル様を乗せた馬車と、それを守る隊列を引き連れて、ジャッカルゴ様は出発した。あの日も青空が清々しい、良い天気だったねえ。

 この時はオペイクス様だけでなく、イリーデの出産を控えたブラウネンも居残り組だった。

 みんなでジャッカルゴ様たち一行を見送った後で城門に入る時に、ノコさんが大きくため息をついて、つぶやいたよ。

『はあ、アンディン様たちの転居に合わせて、私も引退するつもりだったんだがねえ』

 そしたら、普段は動作の遅いはずのロッテンロープさんが聞きつけて、すかさず反応した。

『ちょいと、スージーっ。そんなこと言わないで、二人で死ぬまで女中を続けようって何回も言ったじゃないっ』

 それでノコさんは『ぼやいただけだよ』とか返していた」

「スージーって、ノコのこと?」と私は確認する。

「そ。前にも説明したつもりだったが、やはり忘れていたか。普段は私らも、その名前で呼んだりしないからねえ。ロッテンロープさんだけが、その名前でノコさんを呼ぶんだ。

 ちなみに、ノコさんを引き留めたのは、ロッテンロープさんだけじゃないよ。アンディン様もジャッカルゴ様も、だ」

「さては、赤ちゃんが大きくなるまで続けてくれ、とか言われたのね」

「ご明察」とセピイおばさん。

「さらに言えば、オペイクス様も引き留められていた。

 アンディン様ご夫妻の転居に合わせて、オペイクス様も、ロミルチ城への転属を願い出たんだよ。

 でもジャッカルゴ様が待ったをかけた。赤ちゃんのナタナエル様が大きくなった時に、最初に剣の稽古をつけるのは、オペイクス様であってほしいと。坊ちゃんがしっかり剣を振れるようになるまでは、パールさんの所へは定期的に墓参りするしかない、とさ」

「うーん。引き留められるのは大したもんだけど。パールの事を考えると、ちょっと、かわいそうな気もするなあ」と正直、私としては不満だった。

「仕方ないさ。ご党首様たちの頼みなんだし。それに、それまでの墓参りで、お墓がちゃんと在る事は確認できているんだ。お墓は逃げないだろ。パールさんは待ってくれるさ」

 言いながらセピイおばさんは、また葡萄酒の皮袋を引っぱり出した。今回も一口だけ。本当は、おばさんも不満だったんだろう。

 

「まあ、ノコさんやオペイクス様の事情は、ともかく。私としては、その、ジャッカルゴ様たちを送り出した日の夜の事を、あんたに話したくてね。

 実は、私は城内の仕事に戻りながら、気になる事があった。ノコさんからシルヴィアさんの動きに注意するように言われたが、この時は密かにノコさん本人にも気をつけていたんだ。

 そしたら夜、晩餐も洗い物も終わって、誰も居なくなった炊事場で、ノコさんが一人、椅子に座っていた」

「あっ」私は、つい声を発してしまった。

「思い出してくれたかい。そう、ノコさんが私に、時代が変わった事を教えてくれた、あの夜と同じ状況だよ。

 ただし、あの時と違って、ノコさんは長居しなかった。私と目が合うや『場所を変えるよ』と言って、席を立って。

 ノコさんは私を連れて、しばらく城内の歩廊をうろうろしたよ。でも結局、場所を城壁の上に決めてね。ノコさんは、ぶつくさ言いながら階段を登ったもんさ。

 城壁の上に出たら出たで、見張りの兵士から距離を取って、立つんだ。そして『やれやれ、月が綺麗だねえ』とか言って。

 幸いと言うか、兵士はノコさんからお小言を喰らうとか警戒したのか、篝火を抱え上げて、こちらから、さらに距離を取ってくれた。

 それでもノコさんは、声を抑えて言うんだ。『大きな声を出すんじゃないよ』と。ほとんど、ささやくような声でね。

『あんた。なんで私がアンディン様たちを呼び寄せたくなかったのか、気になったんだろう』

 それで、私は正直にうなずいた」

「えっ」と、また私。「呼ぶ、呼ばない、じゃなくて、ジャッカルゴたち一家を都に行かせるためじゃなかったの?」

「もちろん、それも大事な用事だが。

 ノコさんが提案した、あの時。私には、ノコさんがアンディン様ご夫妻を避けるというか、メレディーン城にお迎えするのを嫌がっているようにも見えたんだよ。当然、誰にも言わないつもりだったが、それをノコさん本人には、まんまと気づかれたってわけ」

「で、ノコは本当にアンディンたちを呼びたくなかった、と」

「ああ。ノコさんは、アンディン様をメレディーン城にお呼びするべきではない、という考えだった。『二度と呼ぶべきではない』とまで言ったよ、ノコさんは。

 ノコさんが言うには『それ以前にアンディン様本人が来たがらないだろう』と。アンディン様がメレディーン城の誰かを嫌っているとかいう問題じゃないんだ。ご長男のジャッカルゴ様に譲ったからには、すっぱり手を引く。口も出さない。アンディン様は、そういう考え方をするお方だってね。

 しかし。ノコさんとしては、それ以外にも懸念材料があった」

 セピイおばさんは、そこで話を止めて、ふーっと息をついた。

「お、おばさん。これって問題?ノコの考えを推測しろってこと?」

「あ、ああっ、そんなつもりじゃないよ。誤解させたね。推測しようにも意外すぎて、私もできなかったんだ。気にしないでおくれ。

 答えはね、シルヴィアさんだったよ」

「へ?」

「あんたも、やっぱり結びつかないか。

 つまりは、こういうこと。ノコさんが見たところ、シルヴィアさんはアンディン様に惚れていたらしいんだよ」

 私は、まず数秒ほど絶句した。

「え、えええっ。何それ。おばさん、本気で言っているの?シルヴィアは、ジャッカルゴと同世代で、アンディンとは親子ほど歳の差があるはずでしょ」

「全く、その通りだよ。だから私も、シルヴィアさんをそんなふうには見ていなかった。と言うより、誰も見ていなかっただろう。シルヴィアさんが、ご党首様に男として想いを寄せていたなんて。

 でもノコさんに言わせると、そうなのさ。シルヴィアさんは上手いこと気持ちを隠しているように見えて、何気ない言葉の端々や、他の男たちへの接し方との差なんかに、気持ちが滲み出ていた、と。

 しかも、ノコさんの指摘を聞いて、私も思い当たったんだ。シルヴィアさんが、なぜオペイクス様の話をあんなに聞きたがったのか。イリーデに睨まれるのも覚悟の上で。結局、シルヴィアさんはオペイクス様の話を聞くことで、そこに登場するアンディン様の話を聞きたかったのさ」

「あっ」私も思わず声が出てしまった。

「オーカーさんの口の軽さを事あるごとに注意したのも、アンディン様の方針を慮ってのことだ。

 これで分かっただろ。ノコさんの推測に従うと、辻褄が合うんだよ。あれもこれも」

「シルヴィアが元気を失くした事とかも?」

「そう」

「え、えーっ。り、理屈は分かるんだけど」

 私は言葉が続かなかった。ただ、ただ理解できなかった。シルヴィアの気持ちが。自分の父親ほど年上の男を意識するなんて。私だったら、あり得ない。おそらく、イリーデとオペイクスの歳の差どころじゃないはず。

 セピイおばさんは、ため息をついてから、話を再開した。

「あんたも結構な驚きっぷりだね。私も声が出たもんで、ノコさんから口を塞がれたよ。

 で、私からも、オペイクス様から体験談をお聞きした時のシルヴィアさんの様子なんかも報告した。もちろん小声で。

 とは言え、そんな報告をして事態を把握し直したところで、私の驚きは収まらなかった。んだもんで、ノコさんから手短に叱られたよ。『驚いている場合じゃない』と。

 それで私も我に返ると言うか、ようやく頭が回り出した。それで、逆にこちらからノコさんに質問したよ。『アンディン様は、シルヴィアさんの気持ちをご存じなのですか』と。

 ノコさんは『見たところ、お気づきじゃないだろう』と答えた。『気づかないふりをなさっている可能性もあるが、どちらにしろ同じことさ』とね。そして『とにかく自分から教えて差し上げるつもりも、話題にするつもりもない』と付け加えた」

「や、やっぱり応援できないよね、これ」

「できるわけないさ。奥方のキオッフィーヌ様がおられるんだよ。私個人は、キオッフィーヌ様に拾っていただいた恩こそあれ、恨みなんか無い。もっと言えば、シルヴィアさんだって、特にキオッフィーヌ様を恨んでいたわけでもなかった、と思うんだが」

「でもシルヴィアはアンディンを好きになってしまった、と」

「そうなんだよ」

「はっ。それでノコは、もうシルヴィアにアンディンを会わせない方がいいと、アンディン夫妻をメレディーンに呼び寄せなかったの?」

「そういうこと」

 ひえーっ。何と言ったらいいのやら、ますます分からなくなった。

 セピイおばさんは私の驚きに構わず、話を続ける。

「ノコさんは私の頬っぺたをつねり上げて言ったよ。『誰にも言うじゃないよ』と。もちろん言うつもりなんかない。言えるわけがない。私は頬っぺたが痛いのも忘れて、夢中でうなずいた。

 するとノコさんは、さらに言うんだ。『これからも自分に協力しろ』と。『ヌビ家と、その領内に住む住民たちのためと思って、協力しなさい。それが、あんた自身のためでもあることは、言わなくても分かるだろう』とね。

 私は、これも了解した。それでノコさんは、ようやく私の頬っぺたをつねるのをやめてくれたんだ」

 話しながら少し疲れたのか、セピイおばさんは、また息をついた。

「そ、そりゃあ、兵士にも誰にも聞かせられないわけだわ」私がやっと言えたのは、それだけだった。

「ああ、見張りの兵士には、お説教、終わりって小芝居を見せて、ごまかしたよ。で、二人して城壁を降りて、大人しく女中部屋へ戻った。

 そしてノコさんは、もう何も言わず、床について目を閉じた。

 でも私は、なかなか眠れなかったねえ。少し離れたところで先に寝ているシルヴィアさんの方を、何度もチラ見して。あんまりモゾモゾしていたら、シルヴィアさんどころか、他の女中たちを起こしてしまうんじゃないか、とか心配しながら。

 プルーデンス。あんたは、私が前に話したシルヴィアさんの言葉を覚えているかい?」

 セピイおばさんが急に私の目を覗き込んだ。

「ん。えーっと、どんな場面で」

「私が、あの人、モラハルトに犯されそうになって、ツッジャム城からメレディーン城に移ったばかりの頃さ」

「ええっと、それって、セピイおばさんがモラハルトを拒んだのは正しいって、シルヴィアが言ったこと?」

「そう、それだよ。眠れない私の頭ん中に、その時のシルヴィアさんの言葉や表情が蘇ったんだ」

「えっ、何で。シルヴィアとアンディンのことを考えるのに、モラハルトは関係無いんじゃないの?」

「たしかに本来なら、何の関係も無いさ。しかし、全く共通点が無いわけでもない。並べて考えごらん。私と、モラハルト。シルヴィアさんとアンディン様」

「あ。お城の女中と城主か」

「そう。立場の違いと組み合わせが、ちょうど同じなんだ。事件の有る無しとか、細々した違いはあるがね」

「で、でも、おばさんとモラハルトの事情と、シルヴィアとアンディンの事情を比べて、どうするの」

「どうするわけでもないよ。シルヴィアさんの心境を推察するのに、ついつい引き合いに出してしまったんだ。参考になるのか、自分でも半信半疑だったが。

 そしたら自分でも、とんでもないことを考えてしまったよ」

 セピイおばさんは、また、そこで重たい息をはさむ。私の目を見て数秒、黙る。セピイおばさんが迷っている。言うか、言うまいか。

 でも、やはりセピイおばさんは言った。

「もしかしたら、シルヴィアさんは私を羨んでいたのかも。

 モラハルトが私にしようとした事、あれほどではないにしても、アンディン様が自分に迫って来たら。自分を女と見なして、自分を求めてくださったら。

 さらには、そんな想いを内に秘めながらも、私に対しては、モラハルトへの対応を肯定する言葉をくれたのだとしたら」

「え、ええーっ」

 私は声を出してしまったものの、言葉が続かなかった。またしても。

 セピイおばさんは、そんな私の続きを急かさない。じっと見つめて、待っている。

「ま、まさか」

 言うな言うな、と心の中で自分の声が響いているのに、私は言ってしまう。

「アンディンから、その、されたいって思ったのかなあ、シルヴィアは」

「されたい、は言い過ぎだと思うが。されてもいい、くらいには思っていたのかもねえ」

 答えた後で、セピイおばさんは私から目をそらして、窓の方を見た。物音なんてしていないのに。

 私は何も言えない。

 セピイおばさんは顔を前に戻した。

「私がモラハルトにした対応を、シルヴィアさんは認めてくれた。あの時のシルヴィアさんの言葉に、嘘は無かった、と私は今も思っているよ。同じ女として、シルヴィアさんのあの言葉に嘘は無い。ノコさんの推測を聞かされた後でも、私は、そう思う。そうとしか思えないよ。

 しかし。それでいて、シルヴィアさんは同時にアンディン様をお慕いしていたんだろう。主人に対する尊敬、あるいは崇拝を、シルヴィアさんは、いつしか通り越してしまったんだ。心の中で」

「あっ」

 また声が出てしまった。自分でも、びっくりしたが、言わずにはいられない。気づいたからには。

「も、もしかしてシルヴィアは・・・自分のアンディンに対する気持ちを、ずっと秘めておくつもりだったんじゃ」

 悲しいような困ったような表情だったセピイおばさんの目に一瞬、光が灯った。

「鋭いじゃないか、プルーデンス。私は、それに気づくのに、一晩かかったよ。

 そもそも、シルヴィアさんだって馬鹿じゃないんだ。何事もシャキシャキして、頭の回転の早い、あの人が無茶をするはずがない。そして実際、シルヴィアさんはしなかった。

 ノコさんも後で言っていたっけねえ。

 イリーデじゃないが、ノコさんも、シルヴィアさん達とオーカーさん達の五人組を嫌っていた。嫌いながらも、シルヴィアさんだけは認めていたんだ。シルヴィアさんとなら『まだ何とか会話が成り立つんじゃないか』と。『まともなやり取りが期待できそうだ』とね。

『ところが』と続けて、ノコさんは私にぼやいた。『蓋を開けて見りゃ、あの人が一番危なっかしいなんて。洒落にならない、と言うか、おめでたい話だよ。まあ、本人が心の蓋をしっかりと閉じているところだけが、せめてもの救いだ』なんてね」

 セピイおばさんは、そこまで話して、また息をつく。さては当時のノコも、こんなふうに、ため息をつきまくっていたんだろうなあ。推測に過ぎなくても、そう思えてしまう。

「まあ、ノコさんのぼやきは、ともかく。話を戻して、翌朝の事さ。

 いつも通り仕事を始めたら、大して時間も経たないうちに、ノコさんに物陰に呼ばれたよ。

 何事かと思ったら、こう言われた。『作戦変更だ。あんたは、しばらくシルヴィアを見ないように』と。

 つまりノコさんに言わせれば、私は顔に出ていたわけさ」

 聞いた途端、私は「あー」と間の抜けた声をもらしてしまった。

「分かるわ、おばさん。私がおばさんの立場でも、やっぱり意識し過ぎて、ぎこちない態度になっていたと思う」

「そうか」とつぶやいて、セピイおばさんは、また窓の方を見た。

「さすがノコさんってところか」

 セピイおばさんは、やっと笑みを見せてくれた。元気の無い笑みだったけど。

 

 その後も、セピイおばさんの話は続いた。ただし、おばさんとしては「シルヴィアさんの事ばかり話すわけにもいかない」らしい。

 まずは、新党首ジャッカルゴが不在中のメレディーン城の様子である。居残り組の者たちは不測の事態に備えて、気を引き締めていた。領内の各地、特にツッジャム城とロミルチ城に向けて、頻繁に伝令が走った。こちらから行かなくても、向こうからやって来る場合も少なくない。

 密偵たちも陰で奔走していただろう、とセピイおばさんは推測していた。しかし推測するだけで、オペイクスとか親しい者に確認することは控えた。「それが加減というものだ」とセピイおばさんは私に教えてくれた。

 さて、それら伝令や密偵の応対は当然、オペイクスら幹部たちの仕事であるわけだが。その詳しい内容がセピイおばさんなど女中たちのところまで降りてくることは、ほとんど無かった。

「と思いきや」とセピイおばさんは付け加える。

「ある時オペイクス様が、物陰から小声で私を呼ぶんだよ。私も合わせて、他の女中や使用人たちに気づかれないように、そばに寄った。するとオペイクス様は『ノコさんも呼んできてほしい』と言ってね。

 私は、その通りにしたよ。さりげなく、その場を離れて、ノコさんを探しに行った。

 そしてノコさんも合流すると、オペイクス様は、話をする場所として塔の一つを選んだ。階段を登らなきゃいけないから、ノコさんがブツブツ言って、オペイクス様はなだめるのに、ちょっと手間取っていたっけ。

 その階段の入り口も、兵士に見張らせるほどの、念の入れようだった。

 で、そこまでして塔の上に出たのに、オペイクス様は何とも話しにくそうな顔をなさってねえ。まあ、人払いをしたり、ノコさんに立ち合わせたりしている時点で、私もいい予感はしていないんだが。

 オペイクス様は意を決して、私らに話してくれたよ。案の定、楽しい話じゃなかった。ツッジャム城内の噂で、どうやらオーカーさんがビッサビア様のお相手を務めているらしい、と。もちろん、ただの話し相手とかじゃない。夜の寝床でのお相手さ」

「う、うーん。オペイクスが話しにくかったのは分かるけど。それをおばさんたちに聞かせても、どうしようもないんじゃない?」

「どうしようもないが、少なくとも私とノコさんは知っておいた方がいい、とオペイクス様は考えたみたいだ。同時にシルヴィアさんに知らせるべきか、悩んでおられた。

 これにはノコさんが即答したよ。教えてやる必要は無い、何もしなくていい、と。『遅かれ早かれ噂を耳にするでしょう。放っておけばいいのです。知ったところでシルヴィアも、何もしないでしょうから』とね」

「そっか。オペイクスは、シルヴィアがアンディンに想いを寄せている事を知らないのね」

「そう。大真面目に気づかってくださっただけなんだが、的から外れていたわけさ。

 で、ノコさんはプリプリしながら階段を降りていった。つまらない話に付き合わされた、と背中に書いてあるように見えたよ。

 オペイクス様はかわいそうに、自分の不手際みたいに、しょんぼりした」

「って、オペイクスが悪いんじゃなくて、オーカーが悪いのに」

「だから私から、そう説明したよ。

 ついでに言わせてもらった。『スカーレットさんやヴァイオレットさんが城に顔を出す事があっても、この話はしない方がいいでしょう。私のところで止めておきますね』と。

 オペイクス様は、私が引き受けたんで『助かる』とおっしゃっていた」

「でも、噂は本当なのかなあ。夫のモラハルトが修道院に入ったとは言え、ビッサビアは、まだ人妻なんだし。しかも上級貴族の奥さん」

「普通に考えれば、そうやって自制するところさ。しかし男どものスケベ心なんて、一度でも火がついたら、抑えが効かないもんだよ。おそらくオーカーさんは、やらかしているな、と私は思った。

 さらに言えば、シルヴィアさんの耳にも、すでに入っている。あるいは、オーカーさんをツッジャムへ送り出した時点で、予想済みだったのでは。

 そんなふうに推測しながら、私はシルヴィアさんの横顔をチラ見するのを止められなかったよ。ノコさんから注意された事を忘れたわけじゃないんだがね」

 で、セピイおばさんは、また、ため息をはさんだ。

 

「さて、この件に関しては、確認なんかしたくない、早く忘れようと思ったんだけど。そういう時に限ってなのか、あっさり確認できたりするんだ。

 オペイクス様から相談を受けて、大して日も経っていない頃だ。たしか夕暮れ時でね。何の事はない。オーカーさん本人が、ツッジャム城からの伝令として、メレディーン城にやって来た。しかも、あいかわらずのノリで。『よっ、久しぶり。元気ぃ?』なんて、ほんとに言ったんだよ。

 オーカーさんと来たら、伝令としての仕事をそっちのけで、まずは楽しいおしゃべりさ。まあ、居合わせたアズールさんとか、若い騎士や兵士たちに捕まった、という事情もあるが。予想もついているだろうが、やっぱり話題はビッサビア様との事だ。

 男どもは盛り上がっていたよ。アズールさんが、すかさず絡んでいた。『向こうの奥方様に随分と可愛がられているらしいな。ええ、おい』なんて。

 すると、オーカーさんの返しも早いんだ。待ってました、とか言いそうなくらいに。

『人聞きが悪いねえ。俺は貴婦人にご奉仕しただけだぜ。もちろん心を込めて、誠心誠意ご奉仕したよ。手抜きなんて失礼は、しねえんだ。それが俺の流儀だし、そうする甲斐のあるお方だからな、あの人は』

 これを聞いて、若い兵士や使用人たちが『いーなー、いーなー』の大合唱だ」

「やれやれ、自慢するオーカーも、羨ましがる連中も、おめでたいわね」

「ああ、緩みっぱなしだったよ。本来の伝令としての任務を忘れて、馬鹿話に熱中していたもんだから、城壁の上から怒鳴り声が降ってきた。

 メレディーン城の騎士たちのまとめ役であるお偉いさんさ。オペイクス様の直接の上役で、オーカーさんの元上官でもある。居合わせたみんなが声の方を見ると、その方が目を吊り上げて、城壁の階段を駆け降りてくるところだった。

 オーカーさんは『やっべえ』とか言って、慌てて走り出したよ。で、たまたま通りかかったオペイクス様を目ざとく見つけて、ツッジャム城からの書簡を押しつけた。しかも『旦那っ。悪いけど、それ、隊長に渡しといて』なんて走り去る。

 そこに来たばかりのオペイクス様は事情が分からずに戸惑っておられたので、私は駆け寄って言った。『私が追いかけます』と」

「えっ、何でおばさんが」

「ついでにオーカーさんに釘を刺しておこうと思ったんだよ。シルヴィアさんたちの耳に噂が入らないように、行動を慎んでくれ、とかね。

 オーカーさんは騎士として体を鍛えているから、脚も速くて、こっちは大変だったよ。でも振り返って、隊長さんから追っかけられていないと気づくや、私を待ってくれた。それが城門の中での事だ。

 私はオーカーさんに追いついて、少し話がしたい、と頼んだ。すると、オーカーさんの返事は、こんなだったよ。『いいね。ちょうど良かった。俺からもセピイちゃんに、ちょいと報告があるんだ。そこらの呑み屋で話そうや』なんて言いながら、城からほど近い店に私を案内した」

「お店かあ。何だかポロニュースの時を思い出して、あまり印象が良くないんだけど」

「そうだね。それくらいの警戒心を持っていた方がいいだろう。

 実際、その城下町の呑み屋は、路地裏ってほどじゃないが、もう日も暮れた直後で、暗くなり出していて。

 店の客も男がほとんどで、お世辞にも親切そうになんか見えない。女の私に無遠慮に視線を投げつけてくるんだよ。色男のオーカーさんには『何だ、このいけすかねえ野郎は』とか言いたげな顔を隠そうともしないし。

 そのくせ、オーカーさんが騎士と知るや、コソコソと席を替えて距離を取っていたね。私とオーカーさんの会話に聞き耳を立てていた証拠だよ」

「えー、そんな所で話しても大丈夫なの?」

「私も心配したよ。でもオーカーさんと来たら、普段のしゃべり方をやめないんだ。聞きたい奴は勝手に聞けばいい、ってつもりだったのか」

 ほんとにいいのかなあ、と私は首を傾げながら続きを聞く。

「オーカーさんは私からのお小言を一通り、受け止めてくれたよ。そうやって私に先に話させてから言うんだ。

『でもな、セピイちゃん。俺だってスケベ心だけで、あの人と寝たわけじゃねえんだぜ。身も心も気持ちよおく、ほぐして差し上げてから聞き出そうと努力したのよ。

 何をって、セピイちゃんの愛しのソレイトナックの事だよ。あいつのことは嫌いだけど、セピイちゃんのためと思って、俺も頑張ったんだぜ』

 なんて。

 彼の事を言われると、私も言葉に詰まった」

 あっ、と私も声を上げてしまう。「久しぶりにソレイトナックが話題にのぼったわね」

「その割には結局、収穫無しだったよ。ビッサビア様も、あいかわらずソレイトナックの消息をつかめていなかったんだ。

 オーカーさんが聞き出した話だと、ビッサビア様は散々、夫のモラハルトを問い詰めたらしい。でもモラハルトは、刺客を放った事までは認めても、その結果については何も言わないんだ。『後は知らん』の一点張りで。

 私は、ソレイトナックに危害が及んだと知って、泣きたくなったよ」

「う、うーん」と唸ったものの、私は言葉が続かなかった。やっぱりソレイトナックはダメかも、なんてセピイおばさんには言えない。

 そんな私の内心に気づかないのか、セピイおばさんは、そのまま話を続ける。

「オーカーさんは、こうも言ったねえ。前の城主様、つまりモラハルトも変だ、と。『もうソレイトナックを亡き者にしたも同然なのに、仕留めたかどうかだけは断定を避ける。ぼかしたところで今さらなのにな』って。

 これを聞いて私は、おおよそ推測できたよ。あの人、モラハルトの気持ちが。つまりソレイトナックの死が確定したら、自分の妻であるビッサビア様の、自分に対する嫌悪も確定してしまう。まだ心のどこかで自分たちは夫婦だと思っていたいが、当てがったソレイトナックが死んだら、もう自分と妻を繋ぐものが無くなってしまう。そんなところだろう、と。

 この推測を私は一応、オーカーさんに話してみた。オーカーさんは呆れていたね。『しょうがねえお人だなあ』って。『替わりにアキーラちゃんとか、メロエちゃんとか、お妾さんを何人もこしらえたんだから、別にいいじゃねえかよ』とも言っていた」

「うーん、そこだけはオーカーと同意見だな」と意外な一致を私は内心、驚いていた。

「ついで、でもなかろうに、オーカーさんは続けて、ビッサビア様まで腐すんだ。たしか、こんな言い方だった。

『寝床で目の前に、俺という可愛い恋人が居るのに、だぜ。いつまでも、あのすかした野郎を惜しんでブツクサおっしゃるんだよ。セピイちゃんには、あいつの消息をつかませない。何としても自分が先に見つけ出してみせる、とか何とか息巻いて。いくらノリのいい俺でも、さすがに面白くねえや。

 そもそも、こっちは、あの人が、あのぼんくらパウアハルトのおっかさんってところに目をつぶって、ご奉仕してんだぜ。いなくなった男よりも、そばに居てくれる俺の方が断然いい、くらい言ってくれても良さそうなもんじゃねえか。

 正直、萎えちまうぜ』

 なんて」

「な、萎えるって?」

「え。ああ、知らなかったか。じゃあ、この機会に覚えておきな。男のあそこが、しおれる。元気を失くすって事さ。

 まあ、本来は他の物に使う言葉だったはず、と思うんだが」

「は、はあ。覚える、けど、使わないと思う」

「ああ、それでいいよ。知っておくだけで使わない方がいい言葉は、世の中には結構あるんだ。

 話を戻すと、オーカーさんは酒で舌が滑らかになったのか、愚痴を交えて、いろいろと言い散らかしたね。

 まず、私からお説教されるまでもなく、ビッサビア様とのお付き合いは、そう長くはならないだろう、と。どういうことかと思ったら、オーカーさんは、ビッサビア様がいずれマーチリンド家に帰る、と予想したのさ。

 なぜかと言うと、新しくツッジャム城の城主夫人となったアン・ダッピア様。同じマーチリンド家の出身でありながら、アン様はビッサビア様をそっちのけで夫のジャノメイ様とイチャイチャしたがる。ビッサビア様の忠告を右から左に聞き流しておられたようだ。ほとんど母娘のような同族のお二人が、衝突しないようにお互いにこらえているだけ。そう、オーカーさんは見た。

 実際、ビッサビア様は寝床でアン様に対する愚痴をオーカーさんに聞かせたみたいだね。『なだめて機嫌を直していただくのは、なかなか手間だったんだぜ』とか、オーカーさんは言っていた。

 その話の流れで、ビッサビア様がおっしゃったそうだ。『もうツッジャムには自分の居場所は無いんだわ』とか『そろそろ実家に帰るべきかしらね』なんて。

 それでオーカーさんは、探りを入れるつもりで言ってみたのさ。『その時は、このオーカーも貴女様にお供して、ヌビ家からマーチリンド家に移りましょう』とね。

 するとビッサビア様は、微笑んではくださったようだが、返事は曖昧にぼかした、と。

 オーカーさんは『そんなこったろうと思った』と、その時の気持ちを言っていたよ」

 うーん、と唸ってから、私はハッとした。

「そ、それって、オーカーも本気で言ったわけじゃないってこと?お仕えする貴族家を替えるのは」

「ああ、本気じゃないよ。だから探りを入れると言うか、試しで言っただけなのさ。オーカーさんが言うには、ビッサビア様みたいに男を選べる立場のご婦人には、ありがち振る舞いなんだそうだ。『本気にして期待するようじゃ、その男が間抜けなだけだよ』とまで言っていた」

「でも、そうなると、オーカーは・・・」

「きつい言い方をすれば、ビッサビア様から捨てられるだろうね。しかし、それでビッサビア様を恨むほど、オーカーさんは陰気じゃないし。むしろ、最初から薄々予想していたんじゃないか、と私は思った」

「えっ。予想しながら、ビッサビアのお相手をしたってこと?」

「そう。へんな弁護になるが、オーカーさんとしては、ビッサビア様のお相手も城勤めの一つくらいに考えていたのかもね」

「ええーっ」と言ったっきり、私は続かなかった。この流れだと、城女中も危険だ、なんて話にされかねない。一旦、呑み込んでおく。

「まあ、オーカーさんはビッサビア様から捨てられても、そのままツッジャム城に残ればいいじゃないか、と私は思ったんだが」

 セピイおばさんは、ため息をはさんだ。それは、何とも重たそうに聞こえた。

「オーカーさんは両手を頭の後ろに回して、背もたれに思い切りもたれて、天井辺りを見ながら言うんだ。『愛しのあの人がツッジャム城を出て行ったら、俺も出て行こっかなあ』って。

 私は聞いたよ、ツッジャム城は居心地が良くないのか、と。オーカーさんの答えは『あんまり良くねえな』だった。

 なぜって、ジャノメイ様とアン・ダッピア様、それとロンギノ様の、少なくとも三人は自分を良く思っていないだろう、と」

「あらら」と私。

「オーカーさん自身は、ジャノメイ様ご夫妻を嫌ったりはしていない、と言っていたよ。

 でも、やっぱりと言うか、新奥方のアン様から警戒されたんだ、とさ。周りに人が居る時に『やらしい目で見ないでっ』とか。

 オーカーさんだから、おどけて、その場を取り繕う事もできたけど、並の男だったら、侮辱だ、言いがかりだ、とかキレて、状況を悪化しかねないよ。そうならないように、受け流したところは、偉いんだが」

「アンとしては、自分の親戚であるビッサビアとオーカーの関係を知って、ふしだらとか思ったんじゃないかな。何事も無いかのように接するなんて、私がアンの立場でも、できないよ」

「まあ、普通は、そうだろう。

 一方、ジャノメイ様も直接オーカーさんに辛く当たるような事はなさらないんだが、アン様に影響されるから、やっぱり警戒すると言うか、視線が冷たかったらしい。

 それで私は、つい言ってしまったよ。『それなら行動を慎んで、信用を回復すれば』と。

 そしたらオーカーさんは、お馬鹿な事を言い出してねえ。

『信用ってキツイな、セピイちゃんも。俺だって別に、ジャノメイ若の可愛いお嫁さんにちょっかい出すつもりなんか無いんだぜ。

 そりゃあビッサビア様を若くしたようなアン様なら、妄想で頭いっぱいになっている馬鹿が山ほど居るだろうよ。でも、そんな馬鹿どもでさえ、わきまえてんだから。

 まあ、俺に言わせりゃ、わきまえるとか以前に、ちょっかい自体をかっこ悪いと思うがね。

 それより俺としては、若いお二人のお役に立ちたいのよ。

 例えば、寝床でのお作法とかさ。ジャノメイ若は真面目だから、床上手とか、お世辞にも言えないはずなんだよ。そこで俺が、ちょちょっと教えて差し上げる。そうすれば、お二人とも、夜がもっと楽しく、充実したものになる事、請け合いだろ。この件に関しては結構、自信あんだけどなあ』

 だって」

「やだ、もう。よく思われていないって自覚しているくせに、反省してないじゃない。

 その調子じゃ、ロンギノとも合うはずがないわね」

「そう言っていたよ。

 お互い初対面ではなかったらしいんだけど、オーカーさんに言わせれば、ロンギノ様はオペイクス様以上の堅物で話にならない、と。しかもオペイクス様と違って、遠慮無しに怒鳴りつけてくるから、オーカーさんの方でも大嫌いだとさ」

「やれやれって感じね。

 あ、でも、オーカーの性格なら、その三人以外は、いくらでも仲良くなれるんじゃないの?それなら、別にツッジャム城を出なくても」

「私も、それを思ったさ。でもオーカーさんとしては、ちょっと違ったらしい。こんな言い方をするんだ。

『そりゃ若い連中と、じゃれようと思えば、いつまでも、じゃれていられるよ。実際、楽しいし。

 でも本当にいつまでも、そんなことしているわけにも、いかねえじゃん。アズールもスカーレットも、おまけにヴァイオレットまで片づいたんだぜ。シルヴィアは一生独身で、歳食うだけでいい、なんて言っていたが、俺はそんなの御免だし』

 なんて」

 セピイおばさんはそこでまた、ため息というか、一度、目を伏せた。

「それからオーカーさんは、さらに変な方向に話を持っていったよ。『さすがに飽きた』なんて言うんだ」

「飽きた?」

「ヌビ家にお仕えする、ヌビ家に関わるのが飽きた、ってオーカーさんは言ったのさ。はっきりとね。

 それで、聞き耳を立てていたらしい店の客がさらに遠のいたり、店から出て行ったり、したよ。足音もさせずに、ね」

 私は数秒、絶句した。

「お、おばさん、それ、人に聞かれちゃまずいんじゃないの?」

「そりゃ、まずいよ。ヌビ家の領内で、ヌビ家の悪口を言ったも同然なんだから。私は、居なくなった客たちがよそで言いふらすんじゃないか、と気が気じゃなかった。

 それなのに、オーカーさんの声の大きさは、そのまんまで」

 ひえーっと私は声をもらした。おばさんが、やたら、ため息をつくわけだわ。

「とは言っても、オーカーさんだって、恩を忘れたわけじゃないんだよ。騎士に取り立ててもらった事は感謝している、と。オーカーさんと来たら、自分で言うんだ。

『顔の良さ以外じゃ、剣とか振り回すしか能の無かった俺が、だぜ。城詰めの騎士として羽振りを利かせたんだ。そりゃ楽しかったよ。お姉ちゃんたちとのお付き合いも含めてね』

 なんて」

「でも、飽きた、と」

「そ。その上でオーカーさんは『どっか遠くに行きてえなあ』とも言っていた。

 かと思ったら、不意に、背もたれから跳ね起きるように前のめりになって。私の顔を覗き込んで、言うんだ。『セピイちゃんも、そろそろ女中奉公に飽きたんじゃねえの?だったら、いっそのこと、俺と旅に出ちまおうぜ』とね。

 これは全く予想していなかった言葉だったから、私は驚いて、固まってしまったよ。

 オーカーさんは、そんな私に構わず、続けて言った。

『ソレイトナックなんて思わせぶりな、すかした野郎は、この際、忘れちまえよ。俺なら奴と違って、ずっとセピイちゃんのそばに居てやれるぜ』

 ってね」

 セピイおばさんは、そこで話を中断して、窓の方を見た。

 あれっ、と思った私は、先を促してみる。

「で、おばさんはお断りしたんでしょ?」

「もちろん、断るには断ったが。

 その前に一瞬、気持ちが揺れてしまったんだよ。ずっと、そばに居てくれる。それこそ、まさに私がソレイトナックに望むことだし、同時に、それが叶いそうにもない、と薄々感じ始めていた頃だ。

 そんな時に『ずっと、そばに居る』なんて言われたら、心の中でグラッと来てね」

「だ、ダメじゃん」私は思わず声を大きくしてしまった。

「分かっているよ。ほんの一瞬さ。自分とオーカーさんが連れ立って旅をしている姿を想像したら、私なんかよりシルヴィアさんとの方が断然、似合っている。もっと言えば五人組で並べば完璧だよ。それで目が覚めた。

 私はオーカーさんに、こう答えた。『まーた、そんなこと言って。シルヴィアさんに言いつけちゃうから』とね。

 オーカーさんは途端に笑い出したよ。『やっぱ、ダメか』って、また背もたれに戻っていった」

 そこでセピイおばさんが、また黙った。私も、うーんと唸ることしかできず、相づちも打てない。沈黙が数秒間。

「オーカーさんとの会話は、それでお開きさ。

 店を出て、オーカーさんは私をメレディーン城の門の近くまで送ってくれたよ。

 もう結構、暗くなっていたねえ。門の中の篝火でオペイクス様とノコさんが出て来る姿が見えた。ちょうど、私を迎えに行こう、と考えてくださったらしい。

 それに気づいて、オーカーさんは私の背を軽く押した。

『よし、セピイちゃんの帰りは、ノコばあとオペイクスの旦那にお任せしよう。

 俺は、ここらで引き上げるわ。

 いろいろと、ありがとな、セピイちゃん。

 君、かなり可愛かったよ』

 そう言って、歩き出した。私の返事も聞かないで。背中を見せながら、頭の上で手を振っていた。

 私は私で、何も言えなかった。何か言ってあげたいと思ったんだが。やっぱり何も言えなかった」

 セピイおばさんは、また言葉が続かなくなった。

 そこで私は思い切って「ちょっと呑もう」と提案してみた。そして、二人して一口ずつ呑む。喉を湿らせる程度である。

「そう言えば、お店の支払いは、どうしたの。オーカーは、おごってくれた?」

「ふふっ、細かいねえ。オーカーさんは粋な人だから、そこら辺は抜かり無かったよ。と言っても、二人とも話に集中しすぎて、一杯も呑み干していなかったけど。それでもオーカーさんは多めに払ったらしく、店主は目を丸くしていたっけ。『またのお越しを』が緊張気味で、かすれていたよ」

「会話に出てきたビッサビアやジャノメイの事を知っていたかな?店主は」

「多少は知っていただろうね。他の客たちも。登場人物全員を知らなかったにしても、私とオーカーさんがヌビ家の要人を話題にしている事くらいは気づいていたはずだ。

『またのお越しを』とか言いながら、本当に来てほしいと思っていたか、どうか」

 セピイおばさんは、またも、ふふっと小さく笑った。

「でも、もういいや、と思ったよ。その店から噂が広まっても、正直にノコさんやオペイクス様に話すだけさ。会話の内容を洗いざらい話してしまおう。そう思いながら城門に入って、ノコさんたちに合流したんだ」

「そうだね。ポロニュースの時と違って、後ろめたい事とか無いんだし」

「ところが、さ。そういう時に限って、と言うか。ノコさんもオペイクス様も、私に聞いてこなかった。

 それで私も考えてね。二点だけ報告した。ビッサビア様は、いずれマーチリンド家に戻るだろう、というオーカーさんの予想。そうなった暁には、ヌビ家から出て行こう、というオーカーさんの予定。

 ノコさんもオペイクス様も数秒、黙って考えておられた。やがてオペイクス様がおっしゃったよ。『分かった。ジャッカルゴ様には、折を見て私から話そう』と」

 セピイおばさんは、そこでまた一息だけ、はさんだ。

 

「その夜は、なかなか寝つけなかったよ。オーカーさんとの会話の内容をシルヴィアさんにも話しておきたい気がしたんだ。

 そのくせ、どう話したものか、が考えつかない。シルヴィアさんがオーカーさんの話を避けているようにも思えてね。

 女中部屋で横になっても、かえって目が冴えてしまった。それで、つい、何回もシルヴィアさんの様子を確かめたよ。少し離れたところで先に寝ていたシルヴィアさんの顔を、私は、そっと覗き込んだつもりだったんだけど。

 とうとう本人に気づかれたね。シルヴィアさんは声をひそめて言ったよ。『セピイ。眠れないようなら、夜風に当たりに行きましょう』と。

 シルヴィアさんは音も立たずに、ゆっくり体を起こして、扉に向かおうとする。私も他の女中たちに気をつけながら後を追った。ノコさんのそばを通る時、ノコさんが薄目を向けたような気がしたけど、暗くて、断定はできなかったよ。

 シルヴィアさんは、私を城壁の上に連れて行った。オペイクス様の話を聞いた場所とは、また別のところでね。見張りの兵士も居るには居たが。シルヴィアさんが上手いこと牽制してくれた。『モテる男は、女の会話を盗み聞きしたりしないわよね』なんて」

「その兵士は大人しく引き下がってくれた?」と私。

「ああ、大丈夫だったよ。『ちぇっ。分かってるよお』なんて捨て台詞で」

 私とセピイおばさんは、ニヤリとした。

「というわけで、ようやく状況が整ったんだ。私はすぐにでもオーカーさんのことを話したかったが、それじゃ、あまりにも唐突な気もしてね。

 ちょっと迷っていたら、シルヴィアさんが先に口を開いた。

『今夜は三日月ね。月なんて、こんなにじっくり見るのも久しぶりだわ。

 セピイは知ってる?西隣りのセレニアでは、三日月を紋章にした貴族家が何軒か在るそうよ。向こうの王家も、紋章に三日月を添えているからだって』

 これを聞いて、私は正直に『知らなかった』と答えた。あんたも分かっているだろうけど、ここツッジャムでセレン人を見かける事は、ほとんど無いからね。みんな、知識としては、セレン人の存在を頭に入れているんだが」

 

セレニア国 王家の紋章 白馬と三日月

 

セレン人貴族の紋章の一種 三日月が入っている。

 

セレン人貴族の紋章の一種 冠と三日月

 

「セレン人か。世間話とは言え、それも唐突だね」私には、シルヴィアが見張りの兵士だけでなく、セピイおばさんにも牽制してきたように思えた。

「だろ。だから、こちらも、もう唐突でもいいや、と思った。

 私は、夕方、つまり、その城壁の上に来た時点から、ほんの数時間前にオーカーさんが現れた事を、シルヴィアさんに報告した。そして、呑み屋で少し話した事も。中でも、オーカーさんが、いずれビッサビア様から捨てられ、ついでにヌビ家を去るつもりである事を、ね」

「オペイクスにした報告と、ほぼ同じか。やっぱり、そこが要点だもんね」

「そう。ビッサビア様との浮いた話とか、どうでもいい事だし、私もシルヴィアさんに聞かせたくなかった。

 もっともシルヴィアさんは、とっくに察していたけどね。『向こうで楽しくやっているんだろうと思ったら。結局、そう来たか』って。胸壁の凹みに両肘をついて、遠くを見ながら、つぶやいていた。

 それからシルヴィアさんは振り向いて、私に尋ねるんだよ。『セピイは、あいつから誘われたんじゃない?一緒に旅に出よう、とか』ってね。

 私は、見抜かれているな、と観念して、正直に話したよ。『シルヴィアさんに言いつける』辺りは言わなかったが。

 シルヴィアさんは私の話を聞いて『断って正解』と言った。

『あいつもセピイを大事にするでしょうけど、良くて三年くらいね。その後は、あいつのことだから、旅暮らし自体に飽きてくるわ。城勤めに続いて。

 それでセピイをツッジャムか、ここメレディーンに送り届けて、どこかに行ってしまうでしょう』

 私は、このシルヴィアさんの言葉に驚いて、固まったよ。なぜなら私は、オーカーさんが『ヌビ家に飽きた』と言ったところは伏せて、シルヴィアさんには話していなかったんだ。それなのにシルヴィアさんは『城勤めに続いて』なんて言う。

 だから私は探りを入れてみた。『オーカーさんは、城勤めに飽きた、とか言っていたんですか』と。

 シルヴィアさんは『一度だけ』と答えた。『あいつは、あんなふうにしていても、仕事の愚痴とかは意外と言わないの。そんな暇があったら、女とおしゃべりしたい、とか思っていただけかもしれないけどね。でも、ツッジャム城への転属が決まる少し前に、一度だけ言っていたわ』と。

 私は、すかさず聞いた。『飽きたと言った後に、オーカーさんは、シルヴィアさんを旅に誘ったんですね』

 シルヴィアさんは、うなずいてから答えた。『そして私も丁重にお断りしたわ。だって実際に二人で旅に出たら、喧嘩ばっかりで、半年も持たないに決まっているんだもの』と付け加えた。

 私は、あと少し喰い下がってみたよ。『シルヴィアさんに振られた後、オーカーさんはヴァイオレットさんを誘ったんじゃ』

 すると、シルヴィアさんの答えは、こんなだった。『どうかな。二人のどちらも、そんな話をしていなかったし。そもそも、五人の中で一番家庭向きなのはヴァイオレット。そう言ったのは、オーカーなのよ。オーカーは、むしろ彼女を旅に誘わなかったんじゃないかしら』と。

 それからシルヴィアさんは、こうも言った。

『もしオーカーから旅に誘われていたら、ヴァイオレットは、ついて行ったでしょうね。

 でも、その前に、私が二人を引き止めるわ。わざわざ旅に出たりしないで、二人してメレディーンで暮らせばいい、と。それこそ、スカーレットとアズールからも、ヴァイオレットたちを説得してもらうわ。

 でも結果は、あんたも知っての通り。ヴァイオレットはオーカーと違う道を選んで、私の心配は取り越し苦労で済んだ』

 そこまで言ってから、シルヴィアさんは、また遠くに目をやった」

 うーん。私は、また唸るだけで、言葉が出なくなった。なんだか、やり切れない。誰かを応援してやりたくても、できない。

「そこで、私とシルヴィアさんの会話が途切れたよ。でも、それも、ほんの数秒の事でね。シルヴィアさんは、もう一度、振り向いた。

 そして言うんだ。『あんたも、私に話させてばかりで、ずるいわね。少しは自分の事も話しなさい。たとえば、ソレイトナックのどういうところが好きなの』と。

 私は答えに困ったね。全然、予想していなかった質問だし、答えを用意していなかった。だもんで、やっぱり正直に答えるしかない。

『自分でも、よく分からないんです。あの人と知り合ってから、あの人がどんどん気になっていって。初めは、どちらかと言えば、冷たくて怖い人かと思っていたのに・・・。気がついたら、あの人の事を考えずには居られなくなっていました』

 そう答えた後で私は、説明が足りていないかも、と不安になった。そこで、ベイジに登場してもらったよ。その時点でシルヴィアさんがベイジに会った事は無かったが、あえてベイジの例も話してみたんだ。ベイジが旦那さんを評して言った言葉。色男でも話し上手でもないけど、一緒に居ると落ち着く。そういう男の見方もある、と。

 そしたら、シルヴィアさんは言ってくれた。

『いいわね、そういう考え方。私も同感だわ。本来は、みんな、そうあるべきかも。

 あんた、いい友達、持ってるじゃない』

 と、まあ、ありがたいお言葉なんだが、私は反射的に聞き返してしまったよ。『シルヴィアさんは?』と。

 シルヴィアさんの答えは、こんなだった。『私は、その時その時の雰囲気に流されただけ。言うなれば、ノリよ。尼さんたちやノコさんから私が睨まれるわけが分かるでしょ』

 そう言って、シルヴィアさんは笑みを見せたね」

 セピイおばさんは、そこまで話すと、ため息はつかなかったが、遠くを見る目になった。

 で、私から言わせてもらう。

「思い切り、はぐらかしたわね、シルヴィア。

 本当は、おばさんがソレイトナックを意識したように、シルヴィアもアンディンが気になって、気になって、仕方なくなったんだわ。それこそ、アンディンに奥さんのキオッフィーヌが居る事は、百も承知で。好きになっちゃいけない、と思えば思うほど、意識してしまったんじゃないかな』

「言ってくれるね。たしかに、そんなところだろうよ。

 そして私の問いかけを、オーカーさんに関するものと解釈して、シルヴィアさんは答えた。

 お互いに、アンディン様のお名前なんか出すわけにはいかなかったから」

 そして、また遠くに思いを馳せて、セピイおばさんは、ぼんやりする。メレディーンの方角を向いているのだろうか。

 と思ったら、急に私の目を覗き込む。

「しかしプルーデンス。あんた、気づいているかい?」

「えっ、何が」

「おっと、これは私が飛ばしすぎたか。じゃあ、話を戻そう。

 私はシルヴィアさんに何と返そうかと言葉を選んでいたら、シルヴィアさんから先に言われたよ。『よっし、おしゃべりも、これくらいでいいでしょう。明日に備えて、もう休むわよ』と。

 シルヴィアさんは私の返事も待たずに、スタスタ歩き出した。見張りの兵士には『お勤め、ご苦労さま。付き合わせて、悪かったわね』なんて声を掛けて。

 兵士の反応は早かったよ。『どっちか、ほんとに俺と付き合わない?』と来た。

 もちろんシルヴィアさんは、相手にしなかった。『そうやって、がっつかなければ、いい男なんだけどね』だって」

「さすがにお姉様は一枚上手ですなあ」

「ああ、いいお手本を見せてもらったよ。

 兵士は『へー、そりゃ、すんませんでした』とか返すのが、やっとだった」

 おばさんと私は、ニヤリとしてしまう。

 しばらくは、こんな調子だろう、と私は予想したのだが。

「それから女中部屋に戻って、私もシルヴィアさんも横になった。シルヴィアさんは、すぐに寝ついたね。ほんの数秒で、寝息をたてて。

 もしかして私とは逆に、シルヴィアさんはすごく眠たかったのかも。悪かったなあ、自分も早く寝なきゃ、と思ったよ。

 しかし、だ。いくら待っても眠気が来ない。むしろ、まだ目が冴える。店でオーカーさんと話して、シルヴィアさんとも立ち話をした直後だよ。自分でも気疲れしているはずと考えたんだが、一向に眠くならない。

 おかしい。何か、おかしい。忘れている事、見落としている事があるような。

 それで、その日一日を思い返したよ。そしたら、オーカーさんの顔が浮かんだところで、ハッとした。私は声が出そうになって、慌てて口を塞いだ」

 セピイおばさんは、そこで話を中断して、私の目を見る。もう一度、私に尋ねているのだ。でもダメ。私は想像もつかないので、小さく首を横に振った。

 セピイおばさんは、私とは逆に、縦に小さく首を動かす。仕方ない、と思ったか。

「オーカーさんはね、シルヴィアさんの気持ちに気づいていたんだよ」

 え。私は、まずセピイおばさんが提示した解答を理解できなかった。言葉も出ない。と思ったら、すぐにハッとした。今度は、私がハッとする番になった。

「そ、それって、シルヴィアがアンディンを好きになっていた事に、オーカーは気づいていたと」

「そうさ。これは、あくまでも私個人の推測にすぎないがね。でも私は、もう、ほとんど確信しているよ。

 私は改めて、オーカーさんの人となりを考えてみた。まず、陽気な色男さんである事。おしゃべり好きで、場を盛り上げるのが得意だ。その分、口が軽い人、と私は思っていた。

 しかし逆に、オーカーさんがあまり話題にしない事がある、とも気づいてね。シルヴィアさんはそれを仕事の愚痴とかと言ったが、それだけじゃあない」

「あっ、まさか、ヌビ家の事?アンディン?」

「そう。

 と言っても、全く言わないわけじゃないよ。ジャノメイ様に対する評論みたいに、失礼になりそうな、際どい軽口を叩く事もある。ほら、覚えているかい?オーカーさんがアンディン様の事を『話が分かるお方』とか言ったのを」

「あ、そういえば」

「そんなふうにオーカーさんがアンディン様たちを話題に取り上げることは、実は、ごくまれなんだ。

 パウアハルトの悪口なんかは、遠慮無しに言いふらしていたのに。

 ジャッカルゴ様に関して言及する姿なんか、とうとう最後まで見かけなかったよ」

「主君と、それに仕える騎士という立場の違いがあるから、普段から気をつけているってことはないかな?」

「それもあるだろうけど、にしては少なすぎるよ。

 メレディーン城やツッジャム城に客として訪れた、他家の騎士は、必ずしも寡黙とは限らなかったんだ。お国自慢のついでか、自分の主君の業績を宣伝したりしてね。もちろん後々、主君の耳に入る事も期待していただろうよ。中には、リュート片手に、歌にしてみせた騎士も居たくらいさ。

 私が女中として働きながら見聞きしたところじゃ、騎士たちが自分の主君について語らないように心がけている、なんて様子は、特に無かったね」

「なのに、オーカーがヌビ家に関して、アンディンに関して話した事は、数えるくらいしかない。それって・・・」

 私は言いながら、逆にセピイおばさんの目を覗き込んだ。

「意識していたんだろうね。特に、アンディン様を。

 シルヴィアさんの様子を見て、オーカーさんが気づいたのか。あるいはシルヴィアさん本人から告白を聞いたのか、は分からないよ。

 いずれにせよ、オーカーさんはアンディン様を、ただ自分の主君というだけでは見られなくなったのさ。シルヴィアさんと直接の関係は無いにしても、シルヴィアさんの心をアンディン様が占めている。その事を、オーカーさんは認めなければならなかったんだ」

「うーん。

 って、もしかして、その反動でオーカーは主君アンディンから口止めされても、ポロポロもらしていたのかなあ。ちょっと子どもっぽい仕返しのような」

「まあ、オーカーさん本人も内心は、後ろめたさとかは抱えていたと思うよ。

 かと言って、オーカーさんがシルヴィアさんの事でアンディン様に喰ってかかったり、張り合うわけにもいかない。アンディン様は主君、オーカーさんはお仕えする側だ。

 それに、あくまでもシルヴィアさんの片想いであって、アンディン様本人はご存じないんだから」

「でも、もうシルヴィアには振り向いてもらえない。となれば、いつまでもヌビ家に残っていても仕方ない。だから出て行こう、と」

「そんなところだろう、と私は結論したよ」

 セピイおばさんは言い終わると、またしても葡萄酒を一杯注いだ。そして私も、もらう。でも、これって何のための乾杯だろう。失恋したオーカーを偲んでかな?

 それにしても、オーカーがシルヴィアの片想いに気づいていたなんて。私は気づかなかったなあ。まだまだ修行が足りないということか。

 

 さて、セピイおばさんの話の中で、シルヴィアとオーカーは一旦、退場となった。セピイおばさんが二人それぞれと話した夜から、大して日を開けずに、ジャッカルゴ一家が帰還したのである。

 ジャッカルゴたちが都アガスプスに滞在したのは、一ヶ月ほどだったとか。アンディンのお舅さんたち、つまりジャッカルゴの祖父母や、アダム新王、ヘミーチカの両親、その他、要人たちの所を駆け足で回ったらしい。主城のメレディーンをずっと留守にするわけにもいかないから、一ヶ月くらいが限度だったのかも。党首って忙しいんだなあ、と改めて思った。

 しかも人だけでなく、金品も動くのだ。お祝いの品を受け取ったり、お返しの贈り物をしたり。その額をセピイおばさんは言わなかった。主人ジャッカルゴから知らされなかったのか。知っていて、言わないのか。でも、それでいいと思う。私も聞くのが怖い。とにかく途方も無い金額だろう、とは予想している。

 その甲斐もあってか、ジャッカルゴ一家の都滞在は、なかなかの成果を上げた、と言っていいだろう。

 まず、アンディンのお舅さん、キオッフィーヌのお父さんの機嫌が良くなった。その場に居合わせた従者たちが後日メレディーン城の者たちに聞かせた話によると、このお舅さんの反応は、こんなだったとか。

『婿殿よ。わしは幸福すぎて、恐ろしいくらいだぞ。

 考えてもみよ。今は、我ら敬虔な信徒が異教徒どもと聖地を獲り合わねばならんような乱世であろう。ヨーロッパの諸王がたが、どれほど苦労しておられることか。

 そのような現世で、わしは平和に暮らし、孫どころか、曾孫にまで対面できた。

 これを果報と言わずして、何と言おう。

 わしは、この後、雷に打たれでもするのではないか』

 キオッフィーヌの老いた父は、高らかに笑って婿であるアンディンの肩を叩いたそうだ。

 この話を聞いて、私はいつものように意見してしまった。「なんか、素直な喜び方に聞こえないわね。雷なんて言わなくてもいいのに」

「たしかに、そうやって警戒する気持ちは、私も分かるよ。オペイクス様をからかった人だからね」とセピイおばさんも同意してくれた。「しかし、喜んでくれた事には変わりないさ。その意味では、やはり大きな成果だよ」

 そしてセピイおばさんは、もう一つの大きな成果を話してくれた。新王アダムの反応である。アガスプス宮殿でジャッカルゴ一家を迎えた新王は、すこぶる上機嫌だったそうだ。まるで古くからの親友を迎えるような、何の屈託もない、手放しの歓迎と言っていいと思う。

 アダム新王は自分の小指を赤ちゃんのナタナエルに掴ませながら、上ずった声で、こう言ったとか。『よおし、いいぞ、いいぞ、ナタナエル・ヌビ。その調子で、しっかり育つのだ。そして我が娘を迎えに来てくれ』

 なんとアダム新王は、少し前に産まれた自分の娘と、まだ赤ちゃんであるジャッカルゴの息子ナタナエルを縁組しようと言い出したのである。

「えらい張り切り様ね。でも、ナタナエルには姉さん女房になるかな」

「と言っても、半年か、そこらだよ」セピイおばさんは答えながら笑う。

「ところで、アダム王に男の子は、いなかったの?お姫様はこれで分かったけど」

「ご嫡男は、まだだったね。だから、アダム王陛下はジャッカルゴ様が羨ましかった、と思うよ。

 でも、プルーデンス。ここが大事なところでね。こういう時、できていない人だったら、羨むあまり、相手に何かと意地悪をしたりする事があるんだ。王様とか名のある貴族が自分の権限を使ってね。世の中を広く見渡せば、そういう例も少なくないよ」

「でも、アダム王は違うのね」

「そう。お父上である先王様が亡くなった時と同じさ。あの時、アダム王陛下は結婚とかお祝い事を控えさせず、むしろ奨励した。そして男子に恵まれたジャッカルゴ様に対しても、思い切り祝福して、自分の娘との縁組まで考えて。

 アダム王陛下は本当に立派なお方だったよ」

「そんないい人が、かつて、このヨランドラの王様だったなんて嬉しいけど。その子孫が今のヘイロン王だと考えると、何だか愕然とするなあ」

 私は何気なく言ったつもりだったが、セピイおばさんは数秒、固まった。

「ああ、そうだね。まったく、その通りだ。

 そこら辺の事情は、また、おいおい話すよ」

 セピイおばさんは私から目をそらして、自分の手元に視線を落とした。

 あ、あれっ。私、何かまずい事、言ったのかな。今の国王ヘイロンを腐したのが、剣呑だったのかも。

 私は急いで脳内をあさくって、別の話題を探した。で、パウアハルトを見つけた。たしか、アガスプス宮殿の近衛隊に加わっていたはず。こいつなら過去の人間だし、腐しても大丈夫だろう。

「そ、そういえば、パウアハルトが、ちょうど宮殿に居たんじゃない?ジャッカルゴやアンディンは会ってやったのかな?それともパウアハルトの方から挨拶に来るべきかしら」

「ふふ、よく気がついたね。そうだよ。パウアハルトはアガスプス宮殿の近衛隊、副隊長という肩書きを貰っていた。元から居た隊員を追い越して、そんな地位に就くことができたのは、果たして実力なのか、王弟グローツ様のお情けなのか。そこは推測するしかないが、ともかくパウアハルトは宮殿に居たんだ。

 でも、自分からジャッカルゴ様たちに挨拶に来たりはしなかったよ。ジャッカルゴ様たちと目が合っても、口を歪めて、そっぽを向く。終いには、グローツ様のお供とか口実をもうけて、居なくなる始末だ。

 従兄弟であるジャッカルゴ様の子を祝福しようなんて姿勢は、かけらも無かったとさ」

「つまり、人間ができていないってわけね」

「そういうこと」

 セピイおばさんの同意は得られたが、おばさんの表情は晴れなかった。失敗したか。パウアハルトの奴め、威張りんぼのくせして、役に立たないんだから。

「パウアハルトにしてみれば、やっぱりツッジャム城を取り上げられた事を根に持っていて、取り上げた張本人のアンディンたちには会いたくもなかったか」

「でも、その割には都での生活を謳歌していたようだよ。女を囲っている、と噂されていた。しかも一人じゃなくてね。今週は城下町の商人の娘、来週は郊外の小貴族の娘、といった具合に」

「無責任さは父親譲りってわけか」

「まったくだよ。他の貴族や平民たちからも、笑われたり、冷ややかな目で見られたりしていただろう」

 そんなこんなの都での話は、城主ジャッカルゴ一家の帰還後しばらくは取り沙汰された。同行した使用人、ヘミーチカを世話した女中、そした護衛の兵士たちなど、話したがる人間は幾らでも居る。居残り組も土産話に飛びついたに違いない。

 時には、あまり言いふらしてはいけない内容も多少あったかもしれないが、まずは景気のいい話である。噂の当事者であるジャッカルゴも、話に花を咲かせる者たちを大目に見たんじゃないかな。セピイおばさんの話を聞きながら、私は、そう推測した。シルヴィアやオーカーの事情はともかく、やはりヌビ家には勢いがある。

 その勢いは、ジャッカルゴ一家の帰還後も続いたと言うべきか。メレディーン城内で都アガスプスの話がようやく減ってきた頃、またしても喜ばしい事があった。イリーデが無事、出産したのである。

「これも嬉しかったねえ」

 と言って、セピイおばさんは目を細めた。

「あんたに何を聞かせたいかって、その時のブラウネンの様子だよ。

 ブラウネンったら、お産に苦しむイリーデの枕元でオロオロしっぱなしでね。見かねたお姑さんから部屋の外で待つよう何回も勧められたのに、結局、戻ってくるんだ。『イリーデだけにきつい思いをさせたくない』とか何とか言って。

 赤ちゃんが産まれたら産まれたで、わんわん泣き出すし。それで、実のお母さんから叱られていたよ。『こういう時、男は役に立たないんだから、せめて静かにしてなさい』なんてね」

「って、セピイおばさんも立ち会ったの?」

「そうだよ。当日、私はへミーチカ様やノコさんに断りを言って、メレディーン城下のイリーデの生家に駆けつけたんだ。全くの赤の他人だが、私も彼女の親族と一緒に、彼女の世話を手伝ったよ。へミーチカ様に結果を報告したのも、この私さ」

 セピイおばさんの表情に、ようやく明るさが戻った。

 きっと当時も、こんなふうに我が事のように喜んで、セピイおばさんはイリーデたちを祝福してあげたんだろうなあ。私も聞いていて嬉しい。一度はセピイおばさんがイリーデに辛く当たって泣かしてしまった事もあったけど、お産のお手伝いをさせてもらえるくらいに関係が改善するなんて、やっぱり、ありがたい事だ。聞き手の私も安心できる。もしかしたら、セピイおばさんとしては罪滅ぼしの気持ちもあったかもしれないけど、それでもいい。いい事には変わりないんだから。

自作小説「塔の上のセピイ  〜中世キリスト教社会の城女中の話」第十四話(全十九話の予定)

第十四話 幾つかの門出

 

 墓地で、マルフトさんの前でセピイおばさんの話を聞けたところまでは良かったのだ。しかし、さすがに夜は呼ばれなかった。

 元々「今夜は控えなさい」と言われていたのだ。それなのに、もしかして、などと身勝手な期待を捨てきれずに、私は夜中に部屋を抜け出した。

 こっそり忍び足で離れのそばまで近づき、耳をそば立ててみる。無駄だった。月明かりの下、二番目の離れから、いびきが聞こえてきた。

 やっぱり、セピイおばさんを疲れさせちゃったかなあ。こうなると、大人しく引き退るしかない。

 次の日なるべく父さんと母さんの前では、セピイおばさんと会話しないように気をつけた。それでも正午前には、おばさんの方から声を掛けてもらえた。「今夜は一番端の離れで」と。

 その一言だけで、セピイおばさんは、そそくさと居なくなる。

 そんなおばさんの後ろ姿を見送りながら、私もちょっと考えてしまった。女中頭のノコも、こんな感じだったのかなあ、と。

 

 夕方に小雨が降ったので、夜、離れに行く時には地面が濡れていた。その分冷えて、服の裾にも泥が付きやすくなるが、その程度の事だ。これくらいで、へこたれないぞ、と。

 扉をそっと叩いて、セピイおばさんに開けてもらう。二人して辺りをよく見回してから、中に入る。

「まあ今夜は、きな臭いと言うより、浮いた話の方が断然多いんだが」

 セピイおばさんは警戒の言い訳をしながら、私に椅子をすすめる。

「だからマルフトさんには聞かせられないんだよね」などと私も調子に乗ってしまう。

「何だい、ニヤニヤして。あんたも年頃だねえ」って、おばさんも笑っている。

「だって、気になるんだもん」と私は、ついに言ってしまった。これだけ見抜かれているのだ。今さら、取り繕いようもない。

「では早速、始めるか。と言っても、最初は結構どぎつい話になるが」とセピイおばさんの顔が少し曇った。

 セピイおばさんが話し出して、私たち二人の意識は再びメレディーン城に向かう。

「ジャッカルゴ隊の帰還から一週間くらいは、まだ興奮冷めやらぬと言うか。騎士様も兵士たちも、男連中は何かと忙しなかったねえ。傷ついた人馬の治療は長引いたし、どの武具も修理修繕を必要としていた。戦況の細かい記録をまとめようと、騎士様やお役人たちが何度も、ご党首アンディン様の書斎に出入りしたよ。もちろんジャッカルゴ様も同席して。

 そんな男たちが仕事に専念できるよう、私たち女中も城の家事に奔走したよ。それが奥方キオッフィーヌ様の方針だったし、女中頭であるノコさんがその意図を汲んで仕切ったからね。

 時にはキオッフィーヌ様やヘミーチカ様と並んで、紋章衣や旗の綻びを直した事もあったよ。その間にヘミーチカ様お手製の菓子が焼き上がって。キオッフィーヌ様のお達しで、それが女たち優先で配られた」

「ふふっ、奥方様たちが居たんじゃ、色男さんたちも、ちょっかい掛けに来られなかったでしょうね」と私。

「その通りだが、オーカーさんたちだけじゃないさ。若い兵士なんかがこちらを何回もチラ見するから、女中たちがお菓子を見せびらかしたりしてね。

 そのうち、ヘミーチカ様がイリーデに『ブラウネンの分も残してあるから、持って行って』なんて言ってくださる。

 そしたら、キオッフィーヌ様も『イリーデ』と声を掛けた。しかし目配せだけして、それ以上は二人の会話に割り込んでこない。

 イリーデは、ほんの数秒、キオッフィーヌ様と目を合わせたと思ったら、ヘミーチカ様に勢い込んで言った。『そのお菓子はオペイクス様に差し上げてください。そして私に、お菓子の作り方を教えてください』とね。

 ふふ、想像がつくだろうが、イリーデは少し頬を赤らめていたよ」

「で、オペイクスには、おばさんが届けてあげたの?」

「そう。オペイクス様と来たら、恥ずかしがってねえ。『ジャッカルゴ様もヘミーチカ様から戴いているはずだから、ご一緒して食べようかな』とか、ぶつくさ言う。居合わせた兵士たちが、調子に乗って『俺に譲ってくださいよ〜』なんて言い出して。私がそれをたしなめて」

「のどかねえ」

「ああ。一山超えたっていう安心感があったんだ。隊に加わっていた兵士が居残り組の兵士や使用人相手に武勇伝を披露したり。城内のあちこちで、おしゃべりの花が咲いたよ。

 で、私の方はイリーデから、ついに話を聞く事になった。ある時、彼女が私に言うんだ。『聞いてもらいたい話があるから、一緒に来てほしい』と。長話になるからと、彼女は事前にノコさんに断りを入れるまでしていたよ。

 私は、ちょうどやっていた手仕事の区切りをつけて、イリーデについて行った。行き先は、例によって塔の上。見張りの兵士なんかが居ない事も確認して、幾つかある塔の一つを選んだんだ」

 セピイおばさんは一度、遠くを見る目になった。

「振り向いて、私を見るイリーデの背後に青空が広がっていて。清々しい午後だったねえ。空が青い分、彼女の頬の赤みが目立っている気がしたよ。表情は固かったが。

 イリーデは言ったよ。『私、ブラウネンと結婚します』とね」

「きゃあ〜」と私は声をもらしてしまう。

「ふふっ、私も喜んだよ。でも、その前に確認する事がある」

「キオッフィーヌね」

「そう。イリーデが奥方様に報告したか、聞いてみた。すると『まだ、これから』と彼女は答えるんだよ。まず私に話したかったと。奥方様に話せないような事も含めて、ね」

 そこでセピイおばさんが私の目を覗き込む。

「もうっ。意地悪しないで、話を進めてよっ」

 私が音を上げると、おばさんは笑い出した。

「ごめんよ。ただ、物事には順番ってものがあるんだ」

 

 こうして、ようやく本題に入ったのだが。セピイおばさんによると、イリーデは、戦(いくさ)の前にブラウネンを招待した晩餐会の事から始めたのだ。メレディーンの城下町にある、自分の生家にブラウネンを連れて行った夜。

 晩餐会そのものには、特に印象は無かった。ありきたりな世間話がなされただけ。二人からイリーデの両親に将来の事を話すほど、二人の関係はまだ深まっていなかったのだ。

 しかも、ブラウネンの様子が普通ではなかった。もっとも普通でもイリーデの家族が相手では、ブラウネンは緊張しただろうけど。それ以上にブラウネンをおかしくさせたのは、やはりヌビ家党首父子である。晩餐会の前夜もアンディンたちに呼び出され、どんなやり取りがあったのか。次の日、つまり晩餐会の日の昼間は、ブラウネンはずっと青い顔をしていたのだ。そして、そのままイリーデの生家を訪れてしまったわけだが。

 イリーデから見ても、ブラウネンが料理を味わえているとは思えなかった。一応、口に詰め込んで、もぐもぐするのだが。

 見かねたイリーデの父親が何回か冗談を言ってやっても、効果は無かった。ブラウネンは戸惑い、冗談の内容を理解できなくて、赤面しながら聞き直したほどである。

 イリーデの父親も唖然として、もはや怒る気にもならなかっただろう。『城務めで何かと疲れたのではないのか。寝室で早めに休みなさい』とブラウネンに促した。

 来客用の寝室には、イリーデが案内した。そして、そのまま寝床に並んで腰掛けて、イリーデはブラウネンを問い詰めたのだ。一体、党首父子に呼び出されて、何をしているのか、と。

「プルーデンス。あんたは、ブラウネンが剣とか武器の特訓を受けているんじゃないか、と読んだね。かなり、いい線を行っているよ。

 ただ、戦(いくさ)の前だったから、イリーデは、まだ、そこまでピンと来てなかった。

 ブラウネンは、なかなか打ち明けられなかったそうだ。『どうか怖がらないで、と頼みたいけど、絶対怖がらせてしまうから』とか何回もためらって。そのくせ『でも、いつかは君に話さなきゃいけない、とは分かっている』なんて付け加えもする。

 そして、ついにブラウネンは告白したんだ。『人を殺した』と。

 言いながら、ブラウネンは自分の手ばかり見ていたそうだ。ちゃんとイリーデの目を見て話そうという気持ちはあるようだが、何度も目をそらす。ずっと震えていたそうだよ」

 私はすぐに理解できず、数秒ほど絶句した。

「お、おばさん、何言っているの。ブラウネンはアンディンたちと会っていたんでしょ?なのに人を殺すなんて、一体・・・あっ」

 おばさんを問い詰める途中で、私も気がついた。が。自分で立てた推測が信じられない。でもセピイおばさんは、私の推論を待っている。

「アンディンとジャッカルゴがブラウネンに人殺しをさせた。彼を呼び出して、させていたのは、それだったんだわ」

「何のために」すかさず、しかし静かにセピイおばさんが私に問う。

「戦(いくさ)があるから。その時点で、ブラウネンを従軍させることが決まっていたのね」

「うん。ほぼ正解だね。

 ただ、厳密に言うと、戦(いくさ)の予定が無くても、アンディン様たちはブラウネンに人殺しをさせただろう。

 その理由は、ジャッカルゴ様のお言葉を借りると、こんな感じだ。『我々は貴族であり、騎士であり、戦士だ。僧侶ではない』

 もっとも、細かい事を言えば、貴族でも僧籍も持つ人は珍しくないよ。お坊さんの中にも、鎚矛を振りかざして異教徒を殺したがる修道院長なんて人も居るしね。

 それらを考えれば、理屈が必ず成り立つ、とは言えないのかもしれない。貴族だから、いずれ騎士になるから、人殺しの練習をしなければならない、という理屈なんて。

 しかし、だ。少なくともアンディン様とジャッカルゴ様は、そうお考えなのさ。ブラウネンは、いずれ騎士として剣を、武器を振るわなければならない。だからメレディーン城の地下牢にブラウネンを連れて行って、囚人を殺させた。騎士として、戦う者として、敵をすぐに殺せるようにね。囚人は、その練習台だよ」

 そこまで言うと、セピイおばさんは、私の反応を確かめるためか、しばらく黙って見つめてくる。

 しかし私は反応のしようもない。甘かった。最初は結構どぎついって、こういう事だったのね。多少は覚悟していたつもりだけど、ここまでとは。すぐに浮いた話になると、すっかり油断していた。

「練習の初日、ブラウネンは囚人を殺せなかったそうだ。

 中年の囚人は脚に重しをつけられて、動きが制限されているが、素手でも抵抗はする。『それでも短剣で突き殺せ』とジャッカルゴ様から命じられた。

 ブラウネンは絶句して、立ち尽くしたよ。殺せと言われても、初対面で、憎しみもわいてこない。むしろ、わいてくるのは同情心だよ。

 そしたら、ジャッカルゴ様は付け加えた。『遠慮は要らんぞ。幼児を暗がりに連れ込んで殺害する事を楽しむような極悪人だ。遺族たちには袋叩きで我慢させて、お前の練習用に連れてきた。お前が同情すべきは、こいつじゃない。こいつに傷つけられた者たちだ』

 これに対し、罪人は猛抗議だよ。『濡れ衣だ。俺は、やってねえっ』とか。

 だが、ジャッカルゴ様は落ち着いて静かに反論した。『役人の記録では、現行犯逮捕と書かれてあるぞ』

 罪人は一瞬だけ詰まったが、すぐにわめき出したよ。『それも嘘だ』だの何だの。

 もちろん、ジャッカルゴ様たちが罪人を信用するはずがない。しかし、だからと言って、罪人を黙らせるような努力もしないんだ。ジャッカルゴ様たちは罪人を放ったらかして、好きなだけ、わめかせていた。

 むしろジャッカルゴ様はブラウネンに、さらに付け加えた。

『俺は、こいつの口を塞がない。目もだ。だから、こいつの舌はお前を懐柔しようとしたり、お前を呪ったりするだろう。そして、こいつの視線は容赦なく、お前を射るだろう。

 それらをはねのけて、お前はこいつを殺せ。お前がこいつを殺さなければ、お前のために報復を我慢した遺族たちが報われない。あるいは、こいつは脱獄して、被害者を増やすかもしれない。お前が世のためを思うなら、今ここで、こいつを殺せ』

 とね」

 セピイおばさんはそこで一度、話を止めた。私の目を覗き込んで、ついてきているか確認している。

「ブラウネンは、その時の気持ちもイリーデに話していたよ。『理屈は分かる』と。

『その罪人から見れば、僕なんか青二才で、簡単に手玉に取れる。そう思われているに違いない。それくらいは自分でも読めたよ。ジャッカルゴ様の言う通り、こいつは処刑すべきなんだ。それが分かっているのに、短剣を持つ手の震えが止まらなかった』

 ブラウネンは話せば話すほど、震えがひどくなるように、イリーデには見えたそうだよ。

 地下牢に話を戻すと、罪人はブルブル震えるブラウネンを笑って『短剣を奪って、返り討ちにしてやる』とか豪語したらしい。

 しかもジャッカルゴ様は一旦、それを許可するんだ。その上でブラウネンには『だから、なおのこと、気を引き締めて、かかれ』なんて迫る。

 しかしブラウネンは、短剣を奪われないようにしっかり握るどころか、一歩も踏み出せなかった。

 するとジャッカルゴ様は静かに言ったよ。『ブラウネン。俺はこいつに、お前の婚約者の名前を言うぞ』

 途端にブラウネンは叫んだ。『やめてくださいっ』

 ジャッカルゴ様は問うた。『なぜ嫌がる。名前を言うだけで、こいつが彼女の顔を見るわけではないぞ』

 ブラウネンは即答した。『知られたくない。知られるだけでも嫌です』と。

 するとジャッカルゴ様は、さらに迫った。『ならば、こいつを早く始末しろ。お前が婚約者を守りたいのなら。俺も自分の婚約者をこいつに知られたくはない。俺がお前の立場なら、そうなる前に殺す』

 そこまで言われて、ブラウネンは、ついに覚悟を決めたよ。短剣を振り回して、無我夢中で罪人に飛びかかったんだ。

 もちろん罪人も抵抗するから、慣れないブラウネンは、なかなか仕留められない。罪人が振り上げた手足に、無闇に斬り傷が増えていくだけだ。

 罪人は血まみれになりながら、暴れながら、ぎゃあぎゃあ、わめいてブラウネンを罵ったよ。しかし仕舞いには泣き出して『やめてくれ、殺さないでくれ』と哀願する。

 ブラウネンは愕然として、また立ち尽くしてしまったよ。

 と、すかさずアンディン様が叫んだ。『下がれっ。脚をすくわれるぞ』と。

 しかしブラウネンは驚くだけで、反応が遅れた。罪人はブラウネンの脚に自分の脚を絡ませようとして、短剣を持つ手首も掴んだよ。そのまま二人は、揉み合いになって床に転がった。

 罪人は必死になって短剣を奪い取ろうと、ブラウネンの腹を蹴ろうとしたり、暴れまくる。ブラウネンも短剣を握りしめて、蹴り返したりして抵抗した。

 と、ジャッカルゴ様の手が不意に現れて、さっと短剣を取り上げた。そして、罪人の鼻先に突きつける。『動くな』そう言いながら、ブラウネンを罪人から引き離した。

 罪人は泣きながら言いかけた。『な、何で俺がこんな目に』しかしジャッカルゴ様は皆まで言わせなかった。『お前に殺された子どもたちも、似たような事を言ったはずだ』

 そしてジャッカルゴ様はブラウネンに早く立ち上がるよう言いつけて、短剣を返した。

『分かっているだろうな、ブラウネン。今ここにお前の婚約者が居たら、お前たち二人は、こいつにまんまと殺されているだろう。それでもいいのか』

 ブラウネンは泣きながら立ち尽くした。殺さなきゃ。殺すしかない。そう、頭では分かっている。しかし、人を殺す、という一線を越える事が怖くてたまらない。こうして相手に斬りつけて、血を流させている事だけでも恐ろしいのに。

 とは言え、ブラウネンは決断を急かされなかったよ。アンディン様がおっしゃったんだ。

『ジャッカルゴ。今回は、これくらいにしておこう。

 ブラウネンは一晩、しっかり考えよ』

 こうして、処刑は次の晩に持ち越しになったんだ」

 セピイおばさんは、ため息をついた。とんでもない事を話している、と自分でも自覚している顔だ。なるほど、こんな話、マルフトさんには聞かせたくない、と私も思う。

「もう予想がついていると思うが」セピイおばさんが、遅い口調で話を再開した。

「ブラウネンはイリーデに話しているうちに、いつの間にか泣いていた。そしてイリーデも、気がついたら横から彼を抱きしめていた。いっそ、話をやめさせようかと何度も思ったそうだよ。

 ブラウネンは自分を包んでくれるイリーデの腕をそっと撫でながら、言った。

『ありがとう。

 そして、ごめん。こんな話を聞かせて。心配させて』

 イリーデは、自分の額を彼の頭に押しつけながら、首を横に振った。そして『謝らないで』と泣きながら言ったんだが。

 ブラウネンも首を横に振って言うんだ。

『いや、僕は謝らなければならない。僕は人を殺した。しかも、その口実を君に・・・君の存在を、君に対する気持ちを口実にしたんだ。

 だから、だから君が僕を怖がったり、嫌ったりしても、仕方ない事だと思っている。

 でも僕は・・・僕は君が好きで・・・君を守るためにはジャッカルゴ様たちの言う通り、あの囚人たちを殺すべきだと思った。君の安全を、幸せを保つためには。たとえ君が僕以外の』

 イリーデは、それ以上、言わせなかった。顔を下げて口づけして、ブラウネンの口を塞いだんだ。

 ブラウネンは泣き濡れたまま、硬直して、イリーデを凝視したよ。

 イリーデはブラウネンに微笑んで言った。

『私もあなたが好きよ。ありがとう、私を好きでいてくれて。

 そして、ごめんね。他の人に迷ったりして』

 これを聞いて、ブラウネンは大泣きに泣いたそうだ。それこそ小さな子どものように泣きじゃくったと。イリーデは、そんなブラウネンを強く抱きしめて、一緒に泣いたんだよ」

 セピイおばさんは、そこで言葉を途切れさせたが、微笑んでいる。

 私は何も言えない。二人を祝福してあげたいけど、どんな言葉でも足りない気がする。

「二人は、しばらく泣き続けた。本来ならイリーデの家族に気づかれる事を心配するところだが、少しも気が回らなかったと。

 で、だんだん落ち着いてくると、イリーデは決心した。黙って、ブラウネンを見つめると、彼の手を取って、自分の胸元に押し当てたよ。

 ブラウネンは息を呑んで、また硬直したが、すぐにイリーデの手の中から、自分の手を引き抜いた。

 イリーデは心配になって尋ねたよ。『嫌なの?』と。

 これに対して、赤面したブラウネンの答えは、こんなだった。

『嫌じゃない。嫌、どころか、君が欲しくて欲しくて、たまらない。君に触りたい。

 でも、そんな自分は嫌なんだ。これじゃ、君の同情をひいているだけだ。君の気持ちよりも自分の欲求を優先する事になる』

 イリーデは反論した。

『でも私たち、婚約しているんでしょ。する事が少し早まるだけじゃない。

 あなたは私のために戦ってくれた。だから私はあなたにお返ししてあげたいの』

 ブラウネンは固まったまま、イリーデを見つめた。イリーデは緊張しながら、彼を待った。乱暴に扱われたら、どうしよう、という怯えもあったが、彼女なりに覚悟を決めたんだ。よほどの暴力じゃなければ、受け止めようと。

 そしたら、だ。ブラウネンは、そおっと、そおっと両の手を伸ばして、イリーデの両肩をやわらかく掴んだ。そして、ゆっくりと自分の胸元に引き寄せる。そのままイリーデを抱きしめる両腕が震えていたそうだ。

 ブラウネンの胸の鼓動がイリーデの頬に伝わり、彼の声が彼女の額の上から聞こえた。

『ありがとう。

 でも、やっぱり、ずるい気がする。いくら君自身がいいと言ってくれたからって。君の優しさにつけ込む事になる。

 それに話の途中だ。僕は、まだ君に話さなければならない。また君を怖がらせてしまうけど。君に話さないのは、ずるい事だ』

 そして改めて二人で並んで座って、ブラウネンは地下牢の話を続けたんだ」

 

 セピイおばさんを通して、イリーデを通して聞くブラウネンの体験は、その後も過酷さを増した。

 党首父子から解放されて地下牢から地上に出たブラウネンだったが、兵舎には戻らなかった。外城壁の隅に隠れるように座り込んで、そのまま一晩中、泣いて震えていたのである。

 夜の暗がりの中、声を殺して、泣き続けた。泣きながら、いくら考えても恐怖が増すばかりで、震えが一向に収まらない。

 そして、いくら考えても、ブラウネンには思い浮かばなかった。あの罪人を殺さずに済ますという方法が。

 仮に罪人が脱獄しても、メレディーン城で暮らすイリーデは、罪人に目をつけられずに済むかもしれない。しかし、それは今回だけだ。第二、第三の悪人が現れて、イリーデを狙ったら。しかも、そいつが必ず投獄されているとは限らない。のうのうと巷を闊歩し、人混みに紛れ、いつ何時ブラウネンやイリーデとすれ違うかもしれない。

 イリーデが危害を加えられそうになる、その時。自分が居合わせていたとしても、今の自分では・・・太刀打ちできない。戦えない。それでは話にならない。イリーデを守れない。

 暗闇の底に沈み込みながら、ブラウネンは認めたのだ。自分の非力さを。そして、そこから脱する方法を。

 次の晩も党首父子によって、ブラウネンは地下牢に連れて行かれた。罪人は大した手当てもしてもらえず、かなり弱っていたが、あいかわらずブラウネンを罵ったり、情に訴えようとしたりした。

 しかしブラウネンは、もう迷わなかった。罪人の言葉には何も答えず、黙って襲いかかったのである。ジャッカルゴから渡された短剣をやたらめったらに振り回して、罪人の体に何度も突き入れる。罪人は『嫌だ、死にたくない』と泣きわめいた。それでもブラウネンは手を止めない。罪人は、すぐに声を発さなくなり、動かなくなった。

 その後、ブラウネンは罪人の体をゆするなどして、その死を何度も確かめたのだが。罪人の口に自分の手を差し出して、噛みつくかどうかを試すまでした。しかし罪人が自力で動く事は、二度と無かった。

 それでブラウネンは、ついに認めた。自分の手で、一人の人間が死体に変わった事を。

 認めた途端、ブラウネンは『自分の背筋が凍りついた気がした』と言う。汗だくで息も切らしているのに、悪寒がする。その夜も、ブラウネンは立ち尽くした。

 そんな彼を、まずアンディンが誉めた。『良くやった』と。『少々、時間がかかったが、その分、こ奴も死の恐怖を長く味わったことだろう。手早く済ませるやり方は、また今度できれば良い』

 党首アンディンがブラウネンを労っている間に、兵士たちがやって来て、罪人の死体を運んで行った。

 一方、ジャッカルゴはブラウネンに、こんな言葉をかけた。

『怖いか、ブラウネン。それも仕方ない事だ。俺も十二の時に、この訓練をした。ひたすら怖くて、泣いた。失禁までした。正直、逃げ出したい、と何度も思った。

 だが、あの頃、この訓練から逃げていたら・・・俺はヘミーチカどころか、自分を守ることすらできなかっただろう』

 ブラウネンは声も無く、泣いてジャッカルゴを見た。返事をしようにも、言葉が出なかった。

 ジャッカルゴも、それ以上は何も言わない。ゆっくり拳を突き出したかと思うと、返り血を浴びたブラウネンの胸を軽く小突く。それだけで、後は父アンディンと共に黙って、出て行った。

 地下牢では、兵士たちが掃除を始める。

 取り残されたブラウネンは、その夜、どうやって地上に戻ったのか。戻った後、どんな行動をとったのか。本人は覚えていなかった。

 

「く、訓練ってことは、ブラウネンが殺したのは、一人じゃなかったの?」

 私は話の途中で、尋ねないではいられなかった。これほどの内容だなんて、ある程度、心の準備をしておかないと、衝撃が大きすぎる。

「ああ、他の罪人も使って、訓練が繰り返されたよ。

 二人めは、一人めと同じような中年男。

 三人めが、ちょいと厄介でね。大柄な男だったそうだ。歳も若くなって、ブラウネンより幾つか上というだけ。アンディン様が、この悪漢について、ブラウネンに少し説明したよ。

『オペイクスやパウアハルトと同じくらいの体格だが、あの二人と違って剣の鍛錬はしていない。落ち着いて攻め方を考えれば、そなたが勝てる』

 これに対してブラウネンの返事は、こうだ。

『ご党首様には申し訳ありませんが、パウアハルト様と思えば、斬れます。オペイクス様では最初から敵いませんが』

 アンディン様とジャッカルゴ様は笑い出したよ。『そう思わせたパウアハルトが悪い』と。

 その上で、ジャッカルゴ様がブラウネンに尋ねるんだ。『で、あの大男を具体的に、どう攻める?本人に聞かれぬよう、声を抑えて説明してみよ』

 すると、ブラウネンが答える前に、聞き耳を立てていた大男がわめいたよ。『好きなだけ小細工しろや。俺には通用しねえぞ』とか何とかね。

 ブラウネンは急いで考えた作戦を、ジャッカルゴ様とアンディン様に小声で話した。腕力では敵わないから、真正面からは攻められない。まず目を斬り裂いて、視力を奪う。それで、大男の動きを鈍らせる。あとは背後などから突きまくる。卑怯であることは百も承知だが、ブラウネンは、それしかないと思った。

 ジャッカルゴ様もアンディン様も、ブラウネンを責めない。やってみよ、と背中を押すだけ。

 一瞬、ジャッカルゴ様が何か忠告しそうな気配があったが、アンディン様に止められていたよ。それを見てブラウネンは、自分で考えなければ、気を引き締めた。

 それで気がついたのが、囚人の脚に繋がる鎖が長くなったように見えた事。前回、前々回の二人より鎖が長そうだと。

 もう一つが、大男に捕まってはならないという注意点。捕まったら、その腕力で逆にこちらの動きを封じられると警戒したんだ」

 聞いている私は、唾を飲み込む。何だか胃が痛い気がする。

「で、ブラウネンは実行したよ。じりじり寄って行って、大男の拳骨や蹴りをかわしたり、こらえたりしながら、隙を見て大男の目に斬りつけたんだ。ブラウネンが言うには『短剣を水平に振って、両目をなで斬りにするつもりだった』と。

 しかし勘づかれたのか、大男も避けようとして、片目しか潰せなかった。

 当然、大男は怒り狂って、暴れまくる。ブラウネンは殴り飛ばされて、頭を壁に打ちつけ、気を失いかけたりもした。

 それでもブラウネンは恐怖に取り憑かれないよう、自身も怒りを募らせ、気を張ったよ。

 そして同時に考えた。目潰し作戦に気づかれたかもしれない。しかし、今さら後には引けない。むしろ逆に、あと一つ、目を斬りさえすれば、作戦は、ほぼ完了したも同然なのだ。相手は視力を失って、こちらが圧倒的に有利になる。

 そんなことを大急ぎで考え、ブラウネンは再び飛びかかった。大男の太い腕がブラウネンの首に巻きつく。ブラウネンは、短剣を奪われる前にと、大男の目に向かって夢中で突き出した。

 大男の残っていた目からも、血が飛び散ったよ。大男の絶叫が地下牢に反響し、大男の腕が緩んだ隙に、ブラウネンは飛び退いた。

 するとアンディン様の声が飛んだ。『良くやった、ブラウネン。後は、ゆっくり料理しろ』

 これにうなずいて、ブラウネンは、そおっと大男に近づいた。大男は血塗れの顔を、右に左に、と盛んに振る。耳をすましているらしく、少しでも物音がすると、そちらに向かって拳や蹴りをやたらめったらに繰り出した。『やれるもんなら、やってみろ』とか怒鳴りまくるが、それでブラウネンは足音をかき消す事ができた。

 ブラウネンは背後や左右から大男に短剣を突き入れては、飛び退き、を繰り返した。そして何回めかで、ついに大男の太い首を真横に切り裂いたよ。

 血が大量に噴き出し、その勢いが衰えると、大男の叫び声も小さくなっていった」

 セピイおばさんは、そこまで話すと、ふーっと息を吐いた。私は、おばさんに何か言ってあげるべきか、と一瞬、迷った。しかし杞憂で、おばさんは、すぐに話を再開した。

「で、四人めだが。ジャッカルゴ様はブラウネンに、そいつのことを追い剥ぎの主犯格とか説明したようだ。地下牢の中とは言え、今度は脚の鎖が外されることになった。しかも剣を持たされている。

 対して、ブラウネンにも短剣ではなく、普通の長さの剣が渡された。

 ジャッカルゴ様が、さらに説明したよ。声を抑えてね。

『あの罪人には、こう言っておいた。対戦相手であるお前を殺して生き残ったら、牢から出してやる、と。だから、あいつは死に物狂いで、お前に斬りかかってくるぞ。

 とは言え、あいつは元々、平民だ。剣の修練では、確実にお前の方が上回っている。落ち着いて、かかれ』

 そして禁止事項を設けた。今回は目潰しは無しだ、と。『むしろ手首を狙って、剣を握れなくすれば良い』とジャッカルゴ様は細かく指示した。

 ブラウネンは、それをやってのけたよ。何回か剣をぶつけ合って、緩みが見えた瞬間、罪人の手から剣を叩き落とした。

 すると、罪人は硬直した。剣を拾いたかっただろうが、ブラウネンの剣の切っ先が顎の下に浮いていて、動けば自分から当たりに行ってしまう。もっとも、屈んで剣を拾おうにも、手首から血がぼたぼた流れて、握れるわけもない。

 罪人はぶるぶる震えて、泣き出したよ。『勘弁してくれ』と。

 ブラウネンは剣を突きつけたまま、尋ねた。『ジャッカルゴ様。こいつは女子どもを苦しめましたか』と。

 ジャッカルゴ様は『うむ、その通りだ』と答えたよ。『他党を組んで、遠出中の家族連れを襲い、夫を縛り上げて、その目の前で妻や娘を犯す。そして皆殺しにして持ち物を奪う。明らかに楽しんで、やっていた』と。

 そんな説明の途中で、罪人はブラウネンの脇をすり抜けようと動いた。

 しかし、もうブラウネンは慌てなかったよ。ブラウネンが力を抜くと、剣の切っ先が下がって、罪人の懐に入る。その状態で、罪人の方から突進してくるんだ。ブラウネンは剣をすくい上げるように、振った。罪人の脇を撫でるように通過して、剣の切っ先が飛び出てくる。

 地下牢の床を、罪人の血が染めた。脚を引っ掛けなくても、罪人は転がって呻いたよ。後は、ブラウネンが上から散々斬りつけて、絶命させたんだ」

 

 今度のセピイおばさんの沈黙は長かった。と言っても、数秒ほどのはずなんだが。

「こんな、とんでもない話で驚かせて悪かったが・・・ブラウネンも面白半分にやったわけではない事だけは理解しておくれ」

「もう、善悪の問題じゃない、と」

「そう」

「たしかに怖い話だけど、私も責めないよ。その訓練を受けていたから、ブラウネンは戦(いくさ)で生き残れた。戦(いくさ)に関しては素人の私でも、そう思うんだもの」

 セピイおばさんは小さい声で「ありがとう」と言って、また黙った。

「イリーデも分かってあげたんでしょ?」

「ああ。泣きながらブラウネンを抱きしめてやったそうだよ。ブラウネンを恐れ、嫌うどころか、目の前で服を全部脱いでみせた。ブラウネンが止めるのも聞かずにね。

 止められなかったブラウネンは、自分も慌てて裸になった。そしてガタガタ震えていたと。

 イリーデは、また彼の手を取って、自分の乳房に触れさせようとしたんだが・・・ブラウネンは泣き濡れた顔を横に振る。そして、そおっと、そおっと彼女を自分に引き寄せて、抱きしめた。

 二人とも立ったまま、抱き合って、声も無く泣いていたそうだ。二人とも震えていた。と言っても、もちろんお互いが怖いんじゃないよ。嫌われるのが怖い、のでもない。自分の触れ方が間違っていないか。相手に痛い思い、嫌な思いをさせないか。心配で、たまらなかったんだろう。

 やがてイリーデが寝床に腰掛けながら、ブラウネンの手を引きながら、仰向けになろうとする。しかしブラウネンは、それを止めた。自分自身が先に仰向けになって、イリーデを引き寄せる。彼女を自分の上に乗せる。その状態で下から抱きしめる腕に力をこめて、彼女の顔を自分の胸につけさせる。

 ブラウネンは、たしかに言ったそうだ。『オペイクス様の話を聞いておいて良かった』と」

「オペイクスも、そのつもりで話したんじゃないかな。パールとの逢瀬をやたら詳しく話すなあ、と思っていたのよ」

「あり得るね。一緒に話を聞いたシルヴィアさんも、おそらくピンと来ていたんだろう。

 ま、それはともかく。

 イリーデは『彼の胸で、自分の口と鼻が塞がって、ちょっと苦しかった』と言っていたよ。頬を赤らめ、目に涙がにじんで。そして微笑んでいた」

 私は安心して、椅子に深くもたれた。良かった。心から、良かった、と思う。

「ブラウネンは、その状態でイリーデを抱きしめたまま、しばらく泣いていた。ほとんど声を無く、しかし震えは収まらないで。

 イリーデは当然、心配したよ。ブラウネンに自分の体重がかかって疲れるんじゃないか、とか。訓練の恐怖がよみがえって、ブラウネンを悩ませているんじゃないか、とかね。

 だからイリーデは、ブラウネンを安心させたい、と思ったんだよ。

『ずっと、あなたのそばに居るから。あなたのお嫁さんになるから』

 そう言って、イリーデは首を伸ばして、ブラウネンに口づけした。彼が泣き止むまで、顔のあちこちに、何度も口づけしてあげようと思ったそうだ。

 それからイリーデは、脚を開いて、改めてブラウネンに跨った。イリーデは自分の中にブラウネンを受け入れたんだ。

 二人とも、初めてだったよ。お互い、心臓が飛び出そうなほど緊張したようでね。ブラウネンは、イリーデが痛がってないかと、しきりに気づかう。イリーデは『心配したほど痛くなかった』と答える。まあ、少しは我慢したんじゃないか、と私は話を聞きながら推測したよ」

「そ、そういうもんなの?」と私は聞かずにはいられない。

「う〜ん、脅かすようで悪いが、安易なことも言えないねえ。

 そりゃ、ごく、たまーに『平気だった』とか『すごいよかった』なんて言う女も、いないわけじゃない。しかしそれも、ごく、たまにだ。

 少なくとも、うちの家系には、そんな女はいないだろう」

 私は絶句してしまう。男に抱きつかれ、捕まえられた上に、あんなものを入れられるなんて。よほど相手のことを好きにならないと、そんなこと、耐えられない。

 でも女は受け止めなきゃいけないのかなあ。マリア様は、しなくても、子どもを産まなきゃならなかったし。やっぱり不安だ。何で女ばっかり、痛い思い、辛い思いをしなきゃならないんだろう。あーあ、やっぱり、神様は男なんだわ。

「いいなー、イリーデは。ブラウネンに、ちゃんと大事にされて」

「ああ、ブラウネンは本当に良くやったよ。

 男なんてものは、口説く時は女に気に入られたい一心で、いかにも優しそうに親切そうに振る舞うが、いざ女を抱こうとしたら、結局、自分本位に女を扱うからね。女が痛がろうが、嫌がろうが、お構いなしさ。

 でも、ブラウネンは違った。自分よりイリーデを優先したんだ。オペイクス様から、しっかり学んだんだよ。

 過酷な訓練の後で、気持ちのゆとりなんか無かっただろうに。見事に自制してみせた。後でブラウネンはイリーデに言ったそうだよ。『オペイクス様の話を聞いていなかったら、間違えるところだった。自分勝手に君を抱いて、君に嫌な思いをさせていたに違いない』と。

 しかも、ブラウネンはイリーデの妊娠も心配したんだ。自分が達しそうになったら、自分のあそこを引き抜いたよ。精をイリーデの中に放たなかった。

 イリーデ自身は、それでもいいと言ったらしいんだけどね。結婚前にお腹が大きくなるのは、やっぱり何かと面倒だよ。教会のお坊さんたちとか、世間の皆様とか」

「うーん、私もブラウネンに賛成だな。よっぽど好きで信頼できる相手なら、赤ちゃんができてもいいけど。だからって周りから、とやかく言われるのは、やっぱり嫌だもん」

「世間ってのは、とかく勝手なことを言いたがるもんさ。放っておけばいい、と言いたいところだが、そうやって気を張るのも、けっこう疲れるからねえ。で、結局、世間の注目を集めない方がいい、という結論になる」

 分かる、と私は同意した。

「とにかく一回めの晩餐会は、これで済んだ。ブラウネンが夜な夜なご党首様たちに呼び出される理由も聞き出せたよ。

 で、二回めは、ブラウネンが戦(いくさ)から帰還した日の夜だ。イリーデの一家は、右腕に添え木をしたブラウネンを気づかいながら歓迎したんだろう。ブラウネンの両親も晩餐会に加わったが、泊まらずに帰っていったそうだ」

「ベイジの両親が晩餐に加わった時と同じね」

「おや、よく覚えていたね。まったく、その通りだよ。

 しかし晩餐会そのものは、ベイジ一家の時と違って長引いたりしなかった。ブラウネンが怪我しているからね。イリーデの父親が、娘婿を早く休ませてやろう、と言い出したよ。

 ブラウネンもブラウネンで、自分の武勇伝をひけらかすような性格じゃないし。疲れていて、会話を盛り上げようとかいう元気も無かったそうだ。

 で、ブラウネンの両親を見送ると、イリーデは、そそくさとブラウネンを寝室に連れて行った。

 寝室には、使用人に命じて、あらかじめ大きめのたらいを用意しておいた。あったかいお湯もたっぷり入れて。

 イリーデはブラウネンの服を脱がせにかかったよ。ブラウネンは少し恥ずかしがったが、イリーデは手を止めない。『もうお互いに肌を合わせた仲じゃない。私も脱ぐから』とまで言って、実行したよ。ブラウネンから急に抱きつかれてもいいと覚悟した上でね。

 ブラウネンは戸惑ってイリーデを止めようとしかけたが、無駄だろ。それよりイリーデが先に裸になりそうなんで、慌てて服を全部、放り出した。右腕に不恰好な添え木がくくりつけられているだけ。

 それでイリーデは、改めてブラウネンの裸を見た。右腕だけじゃない。あちこちに傷があったと。ブラウネンに後ろを向いてもらうと、背中と言い、尻と言い、斬り傷の線や打撲のあざが幾つも踊っていた。

 イリーデは用意していた手ぬぐいを盥のお湯で濡らして、それでブラウネンの体を少しずつ拭いてみた。傷のところは、そっとね。

 ブラウネンは『もう塞がっているから大丈夫だよ』とか何度も言ったらしい。『薬草も使ったから』と。でもイリーデは安心しなかった。自分が心配しないように、ブラウネンが無理している、としか思えなかったんだ。

 だからイリーデがブラウネンの体を拭いてやるのは、結局ちょっとだけになったよ。泣けて泣けて、手が止まって続けられなかったのさ。そして手ぬぐいを床に落としたまま、彼を抱きしめて。二人して裸で突っ立って、抱き合ったんだと。

 しばらく、そうしてから、イリーデはブラウネンを寝床に引っぱっていった。で、自分が先に仰向けになろうとしたんだが、すぐにブラウネンに止められた。ブラウネンが先に仰向けになって、イリーデを引き寄せる。イリーデは『あなたが上になっていいのに』と言ったんだが、ブラウネンは首を横に振る。イリーデを自分の上に乗せて、抱きしめ、彼女の顔を自分の胸板につけさせる。

 そのままブラウネンはイリーデの額に何度も口づけして。『ずっと、こうしたかった』とつぶやいた。『ずっと、こうしていたい』とも。

 イリーデは・・・嬉しすぎてね。何と言ったらいいか分からなかったそうだよ。ちょっと困ったのは、ブラウネンの右腕の添え木が自分の背中にこつこつ当たる事くらい。その右腕も、遠慮して左腕ほど力を入れてなかった。添え木が無かったら。そう考えると、さらに嬉しくなった、と。イリーデは私に話しながら、静かに涙を流していた。頬を赤らめて、微笑みながらね」

 セピイおばさんは、そこまで話すと、照れくさいのか、葡萄酒の皮袋を背後から出して、盃に注いだ。おばさんと私で、それを一口ずつ、いただく。

「あんたも、ちょっと思っただろうが。イリーデ本人も自覚していた、と言うか不安だったんだよ。散々オペイクス様を追いかけ回しておきながら、あっさりブラウネンに乗り換えたように思われるんじゃないか、とかね。実際そういうことを言う輩も、メレディーン城内には居たみたいで。

 だが、もう気にしなくてもいいことは、あんたも聞いていて分かっただろ。他人が何と言おうとも、ブラウネンはイリーデが大好きで大好きで。それがイリーデに伝わったんだ。それこそ全身から染み入るように。どれほどイリーデが安心したことか」

 セピイおばさん自身、ほーっと息をつく。

「それで、おばさんはイリーデを、二人を祝福してあげたんだね」

「ああ、おめでとう、と言ってあげたよ。私も聞いていて、嬉しかったからねえ」

 うん、と私も満足して、うなずく。

 その上で、私は改めてセピイおばさんを見つめた。

「セピイおばさん」

「ん、何だい」

「セピイおばさんは私に、ブラウネンみたいな人をつかまえてほしい、と思っている?」

「ああ、思っているよ。心から思う。けっして不可能な事じゃない」

「見つかるかな?」と私は聞かずにはいられない。

「こら。そんな顔するんじゃないよ。意地でも探し出す、つかまえる、と宣言しなさい。それまで自分を安売りなんてしないこと。いいね」

 セピイおばさんは微笑んでくれた。

 私も嬉しかった。おばさんの気づかいを、ありがたいと思う。この人が私の大叔母で良かった、とも。

 と同時に気づいてしまった。セピイおばさんは、自分の体験については詳しく話さない。リオールとの体験も、ソレイトナックとの体験も。初めて聞いた時は赤面ものだと思ったが。振り返ってみれば、大ざっぱに簡略化した話し方をしていた。その後で聞いた、オペイクスとパール、そして今聞いたばかりのイリーデとブラウネンの体験。それらに比べれば、なんて素っ気ない話し方だったことか。

 それは、外孫の私に対して恥ずかしい、とかいう問題じゃない。すでに、他の人の契りを事細かく話しているのだから。

 つまり。

 セピイおばさんは、そちらの方をお手本にしろ、と言っているのだ。私に。自分自身の体験ではなく、他人の体験をお手本にしろ、と。

 その気づかいは、ありがたいのだが。私は同時に、密かに悔しく思っている。おばさんにそんな気を使わせた男たち。リオールはもちろん憎いし、ソレイトナックにも腹が立ってきた。

 だから、ソレイトナック。もう一回くらい、登場しなさい。

 

 セピイおばさんを通して、イリーデの告白はあと少し続いた。

 ブラウネンの上に乗ったイリーデは、また彼の陰茎を受け止めた。そして今度こそ自分の中に精を放たせたのである。もう戦(いくさ)も済んだ後だ。子を宿しても、式の日は、そう遠くない。お腹の膨らみも、まだ目立たないだろう。イリーデはブラウネンを、そう説得したのだった。

 しかし三、四日経って、また月のものが来て。イリーデが若き日のセピイおばさんに話をしたのは、その直後である。

 イリーデは不安になった。もしかして自分は不生女ではないか、と。セピイおばさんは、もちろんイリーデを安心させた。この時点で、まだ二回しか契っていないのだ。悩むのは、もっと回数を重ねてからでいい。

 イリーデは、もう一つ不安を口にした。契りの時に、ブラウネンは必ず自分が下になりたがって、イリーデの上にのしかかってきた事はまだ無かったのである。イリーデはそれまでの耳学問で、男の方が女にのしかかるもの、と思い込んでいた。それで、自分たちの契り方は普通と違うのでは、と心配になったのだが。

 セピイおばさんは「これも笑い飛ばしてやったよ」と言う。世間一般と違っていても、いいじゃないか。二人が話し合って決めたのだから。何より、ブラウネンはイリーデに我慢させたくないと思っている。それがイリーデの話から伝わってきたから、セピイおばさんとしては言うこと無しだった。

 その上でセピイおばさんは、ニッジ・リオールを思い返す。あえて思い返した。セピイおばさんが言うには、リオールは遠慮なしにのしかかり、しつこく、しがみついてきた、と。もちろん、若き日のセピイおばさんでも体力的にきつかったが、それを受け止めてやることがリオールに尽くすことだ、と思ったのだ。そう信じようとした、とセピイおばさんは告白する。そしてリオールは、そんなセピイおばさんを利用した上に、裏切ったのだ。

「それに比べれば、イリーデとブラウネンは順調で、何の問題も無い。羨ましいくらいだよ。イリーデには、そう言ってやったんだ」

「ソ、ソレイトナックの時は?」なんて、私は思わず聞いてしまう。自分でも細かいと自覚しながら。

「まあ、リオールよりは加減してくれたねえ。いやらしい話だが、私も喜んでいたし。でもオペイクス様やブラウネンのやり方の方が、女としては断然、楽さ。それでイリーデには話さなかった」

 ふーむ、と私は小さく唸る。セピイおばさんはソレイトナックとの事も、私の手本にしようとは思わないらしい。

 もちろん私としても、将来の旦那さんがブラウネンのように、オペイクスのように気づかいのできる男であってほしいけど。けど、そういう男とは、どこで知り合えるんだろう。誰か紹介してくれるのかなあ。さすがにセピイおばさんも、そこまでは教えてくれないし。

 と、いつの間にかセピイおばさんの目に涙がにじんでいる事に気づいた。ソレイトナックの事を思い出させたのが悪かったかな。私がそう謝ると、セピイおばさんは首を横に振る。

「イリーデから話を聞いていた時も、ちょっと泣けてきてね。イリーデが、あんたと同じように心配してくれたよ。

 でも実は、他の事を考えて泣いていたんだ。私はヒーナ様を思い出していたよ。ヒーナ様とイリーデは、たしか同い年のはずだ。

 ・・・なぜ、ブラウネンがイリーデを大事にしたみたいに、マムーシュはヒーナ様を大事にしてくれなかったのか。そう思うと、悔しくて悔しくてねえ」

 セピイおばさんは拳を握りしめて、自分の膝を打った。それと同時に、とうとう涙が一筋、流れた。

 私は、そんなセピイおばさんの手を握る。そうだ。やっぱりマムーシュは許せない。抗争に巻き込まれて死んだなんて、ぬるすぎる。肛門に槍を突っ込んだりして、長々と苦しめてやらないと。

 ちなみに、イリーデも当時、セピイおばさんと一緒に泣いてくれたらしい。

 

 セピイおばさんが塔の上でイリーデから聞いた話は、これで終わった。話を聞き終わったセピイおばさんはイリーデに勧めた。奥方キオッフィーヌのところに行って、結婚の決意が固まった事を報告するように、と。ブラウネンと一緒に行った方がいい、とも付け加えて。そして二人は、その通りにしたのだ。奥方様もホッとしただろうなあ。

 となると、二人の結婚式の様子を聞きたいところだが。例によって、物事には順番があったりする。

 まず、お姉様方に変化があった。スカーレットとアズールが結婚したのである。仲良し五人衆から、ようやく一組だけ成立したわけだ。メレディーン城下の大きい教会堂に、それぞれの親族と同僚たち、友人知人が大勢、集まったとか。セピイおばさんによると、美男美女のいかにもな結婚という事で、なかなか賑やかだったらしい。

 聞きながら私は少々、不埒な事を考えてしまう。スカーレットたち三人のお姉様方は・・・男にのしかかられたのかなあ。痛かったのかなあ。それとも自分が選んだ男と思って、受け入れたのか。あるいは、本当に喜んだのか。

 ちょっと考えただけで、あれもこれも気になってくる。でも私は、セピイおばさんには言わない。多分、セピイおばさんも本人たちに聞いていない。私がセピイおばさんの立場でも、やっぱり聞けない。ただ、アズールやオーカーが自分を下にしてまで女を大事に、とは思えなかった。

 それはともかく、式での出来事である。仲間たちからお祝いの言葉を受けた後で、花嫁姿のスカーレットは若き日のセピイおばさんに、こんなことを言ったとか。『ふう、おかげでイリーデに先を越されずに済んだわ』

 セピイおばさんなら受け止めてくれると信頼した上での発言かもしれないが。セピイおばさんは、この発言を自分の胸だけに収めた。シルヴィアやヴァイオレットに聞かせない方がいいだろう、と判断したのである。実際、この二人はイリーデに先を越される形になった。

 やれやれ、一言多いお姉さんだな、スカーレットは。取った取られた、と揉めただけの事はある、と私は思った。

 さらに、もう一つの結婚が成立した。ヌビ家党首夫妻の娘、メイプロニーがナモネア家党首の三男に嫁いだのである。式はジャッカルゴたちのように都で盛大に、との話もあったようだが。どちらが遠慮したのか、結局、式はナモネア家領内の大聖堂で執り行われた。

 この時はイリーデとブラウネンも党首夫妻に同行して現地に赴き、それぞれ花嫁と花婿を手伝った。メイプロニーと花婿は、イリーデとブラウネンを祝福した。『次はあなたたちの番ね』と。

「メイプロニーは大事にされたかな?」と私は思わず聞いてしまう。

「大丈夫だったみたいだよ」とセピイおばさんは微笑んでくれた。

「ナモネア家は旧名家として下り坂に入っていると自覚していた。だからヌビ家の勢いにあやかりたかったのさ。加えて、その三男は前々からメイプロニー様に惚れていたらしくてね。

 花婿が党首を継ぐ立場じゃないから、メイプロニー様は城住まいじゃなくて、田舎のお屋敷で生活することになった。それでもメイプロニー様は贅沢を言わなかったようだよ。

 それで私は推測を立てて、シルヴィアさんに聞いてもらったんだ。『メイプロニー様は元々、静かな暮らしを望んでおられたのではないか』とね。シルヴィアさんも同意してくれたよ。シルヴィアさんが聞いた話によると、メイプロニー様も弟君のジャノメイ様や兄君のジャッカルゴ様みたいに、あちこちに留学しておられた。そこで、いろんな貴族を見てきたんじゃないか、というのがシルヴィアさんの見立てだ。良くも悪くも。

 だからメイプロニー様本人には政治的な野心は無かったんだろう。派手な噂は全く伝わって来なかったよ。夫婦生活の苦労を、親であるキオッフィーヌ様たちに訴えるような事も、一度も無かった」

「便りの無いのは良い便り、と」

「そうだよ、まさしく。

 たしか、お子様が男女一人ずつで、旦那さんに先立たれた後は修道院に入られた。多分、まだご存命のはずだよ。私より少し年上で、もう大概のおばあちゃんだが。

 って、また話が先走ったね」

 セピイおばさんは、ちょっと笑った。そして、すぐに真面目な顔に戻った。

「そうだ。このメイプロニー様については、あんたに話しておかなきゃいけない事があったんだ。

 実はナモネア家の三男と結婚する前に、メイプロニー様には、別の縁談が持ち上がっていたんだよ。相手は、なんと王子様の一人。第二王子のグローツ様だ」

「ええーっ」その名を聞いた瞬間、私は声を出してしまった。「グ、グローツゥ?」

「おや、あんたとしては、お勧めしないか」

「だって、賊討伐でツッジャム隊を囮にしたグローツでしょ。私がメイプロニーの友達だったら、猛反対するわ」

「安心しな。結果は、さっき言った通りだよ。グローツ殿下には他の貴族家が盛んに娘を売り込みに来て、メイプロニー様は候補から外されたんだ」

「いいのよ、それで。って、もしかして父親のアンディンはガッカリしたの?」

「してなかった、と私は見たね。感情を顔に出さないように努めておられた、というふうでもない。最初から最後まで関心が無かった、と言うような」

「てことは、アンディンから娘のメイプロニーを王家に売り込んだわけじゃない、と」

「ああ、宮殿のお偉方が勝手に言い出して、キオッフィーヌ様を通じて打診してきたのさ。しかしキオッフィーヌ様もアンディン様も、熱を入れてメイプロニー様を説得しようとした様子は無かった。

 そうこうするうちに他家の売り込みが成功して。そうだ、シャンジャビ家でもなかった、たしかレザビ家の娘だよ。

 まあ世間から見れば、メイプロニー様は横取り、と言うか、追い越された形だが。私はあんたと同じ意見だし、ご党首夫妻の顔色も全く変わらなかった」

「で、ナモネア家の三男がメレディーン城に駆け込んできたわけね。『お嬢さんを僕にください』って」

「ふふっ、その通りだよ。大慌てだったのか、お供をしっかり揃える暇もなく、ほんの二、三人だけで顔を真っ赤にしてやって来たんだ。私らメレディーン城の女中たちは、くすくす笑っていたもんさ」

 そう話しながら、セピイおばさんも心底、嬉しそうに微笑む。そうだ、これでいいのだ。やっぱり政治的要因なんかより、しっかり思いが込められるべきなのよ、結婚は。

 さて、二組も他の結婚が成立したのである。今度こそ、イリーデたち二人もめでたく、と私は思ったのだが。

 直前に、もう一つ事件が割り込んできた。しかも、なかなかの大事件。当時のヨランドラ国王が死去したのである。

 アガスプス宮殿では、国王の葬儀もさることながら、長男であるアダム王子の戴冠式が矢継ぎ早に行われた。新国王となったアダムの初仕事は、亡き父のために喪主を務める事。それを彼は厳かに、抜かりなく実行した。国王の死でヨランドラが動揺している、などと他国に思わせてはならないからだ。

 タリンの他の四カ国は、日頃はヨランドラと国境をはさんで、ギスギスしているのだが。国王の死ともなると、さすがに弔問の使者を送ってきた。「と言うのは表向き」とセピイおばさんは言う。弔問にかこつけて、堂々と探りを入れているのである。

 隙を見せられないアダムは、神経質になったろう、と平民の私でも思う。実際、ジャッカルゴは急いで宮殿に上がって、しばらく新王を何かと補佐した。

 そんなある日。セピイおばさんはメレディーン城の隅の方で、イリーデとブラウネンが話し込んでいるところに出くわしたのである。

「と言っても、別に二人が痴話喧嘩していたわけでもないよ。ただ、深刻さは格別だったね。うつむいた、暗い表情で、ぼそぼそ話していてね。イリーデが時折り鼻をすすって、ブラウネンが慰めていた。

 私も尋ねずにはいられなかったよ。『どうかしたの』と。そしたら二人は『結婚を延期するかもしれない』なんて答える。国王が亡くなったばかりで、臣民として、しばらくは喪に服すべきじゃないか、とか両方の親たちが騒ぎ出したのさ」

「ええ〜っ。そういうもんなの?」

「まあ、絶対とも言い切れないんだが。タリンの歴史を紐解くと、事例が結構あるらしい。王様やお偉方が死んだら、その国の民はお祭りとか、結婚式みたいなお祝い事をしばらく控える。平民でも貴族でも、だよ。『そうしないと、亡くなった王様に失礼だ』『王様の残された家族もかわいそうじゃないか』なんてお役人たちから叱られたりしてね。この政策はヨランドラだけじゃなく、ラカンシアやフィッツランドでも何度か実施されたそうだよ」

「そんなこと言ったって。死んだ王様たちは、私たちにとっては、あくまで他人じゃん。自分たちが辛い思いをしているから、他の人たちにも付き合わせようなんて、八つ当たりとしか思えない」

「その八つ当たりをする力が王家にはあるってことさ。良い悪いに関係無く」

「で、私たち臣民が生きていくには、それに我慢して付き合うしかないってこと?」

「そう。だからイリーデとブラウネンの親たちは、娘たちの式を先延ばしにした方がいい、と考えたわけさ」

 私は顔を歪めた。それに気づきながら、止められない。なんて理不尽な話。ヨランドラ全体を見渡せば、イリーデたちみたいに泣かされた男女が、何組もあったはず。

「セピイおばさん。おばさんに向かって、ぼやきたくないんだけど、私」

「おや、それはちょっと、気が早いんじゃないかい?まだ話の途中だよ」

 セピイおばさんがニヤリとして、私の目を覗き込む。えっ。私は姿勢を直した。

「安心しな。イリーデたちの結婚は延期せずに済んだよ。

 新しく王になられたアダム様は、話の分かるお方だった。臣民にお祝い事を自粛させたりしなかったんだ。それどころか、結婚式なんかは奨励して、ヨランドラ全土にお触れを出して下さったよ。『各地の領主や代官たちは、領民たちの結婚を支援してやるように。貴族間の縁談も進めなさい』と。『亡き先王に対する遠慮は要らぬ。むしろ祝い事が亡き先王の魂を喜ばせる、安堵させるものと心得よ』とね。

 何でだか、分かるかい。その方が臣民同士の結びつきを強める事ができる。ヨランドラ全体の団結につながるからだよ。そうなれば他国はヨランドラに干渉しにくくなるだろ」

「なるほど」私は膝を叩いた。「たしかに、その発想の方が効率的だわ。それでこそ、国王よ」

 ちょっと興奮してしまった私に、セピイおばさんが微笑んでくれた。その上で「ちなみに」と、おばさんは話を続ける。

「このアダム新王の粋な計らいには、ちょいと裏話が噂されてね。

 まずはジャッカルゴ様だ。アガスプス宮殿に上がって、アダム新王の相談役とかを務めている時期だからね。ジャッカルゴ様がアダム新王を説得してくださったんじゃないか、と私らメレディーン城の者たちは推測したのさ。

 するとイリーデとブラウネンは、さらに掘り下げて考えた。そのジャッカルゴ様に根回しをお願いしたのは、オペイクス様じゃなかろうか、と」

「で、オペイクス本人に尋ねた」

「ああ。二人して尋ねに行ったが、期待した答えは得られなかったよ。

 私もそばで見ていたんだが、オペイクス様と来たら、ぽかんとしてね。

『や、そう言えば、その手があったな。済まない。鈍いもんで、今の今まで思いつかなかったよ。

 だからジャッカルゴ様にお願いしたのは、私じゃない。ヘミーチカ様か、キオッフィーヌ様じゃないかな』

 なんてお答えだったが。さて、あんたは、どう思うかい」

「どうって、オペイクスのことだから、目が泳いだり、照れたりしていたんじゃないの?」と私はセピイおばさんに質問で返す。

 おばさんは、くくっと小さく笑った。「うん。たしかに、そんな節はあったね。私も、演技の下手なお方だと思ったよ」

「そうだ。ジャッカルゴが帰還してから、確かめたら」と私は身を乗り出す。

「ほほう、そこも気がついたか。実際、イリーデたちはジャッカルゴ様が戻られるや、オペイクス様が居ない時を見計らって、お尋ねしていたよ。で、ジャッカルゴ様が何とお答えしたか、と言うと。

『さて、言い出したのは誰だったかな。案外、俺が提案せずとも、アダム陛下が自前で考えなさったのかもしれないぞ』

 だとさ」

「ええーっ、はぐらかしたのぉ」

 私の反応に、セピイおばさんは今度こそ声を抑えずに笑い出す。まあ、いいか。イリーデたちをはじめ、ヨランドラの結婚を控えた男女が悲しまずに済んだのだから。

 

「というわけで、イリーデとブラウネンの結婚式は延期しないで済んだ。メレディーン城から一番近い、小さめの教会堂で行われる事になったよ。準備を手伝って、私も何回か通ったもんさ。

 でも私としては、式そのものよりも、その前日の出来事をあんたに話したくてね。

 イリーデとブラウネンは、私とオペイクス様に話があるとか言って、外城壁の隅の方に連れて行くんだよ。一応、他の者には見られたくなかったらしい。

 そして二人して、かしこまって、こう言ったんだ。『今まで・・・とくにセピイさんの里帰りの時は、いろいろとお騒がせして、すみませんでした』ってね。

 オペイクス様が途端に、ぶははっと笑い出したよ。『何を言い出すのかと思えば・・・

 そんなことより』

 オペイクス様の両の手が、二人の頭上に伸びた。そして。

『幸せにならないと怒るぞ』

 拳を下ろして、コツンコツンってね」

 セピイおばさんが両手を広げて、実際にやってみせる。私も、おばさんもニヤリとする。

 私は嬉しかった。そのくせ、その気持ちをどう言葉にしたらいいのか分からない。なかなか言葉が出ない。おばさんも微笑むだけで、何も言わない。会話は途切れた。なのに、少しも気まずくない。

 ぶふっ。へんな、にらめっこになって、私とおばさんも吹き出した。

「よしっ、乾杯しよう。イリーデとブラウネンのために。あんたも、いい男をつかまえるんだよ」

 私とセピイおばさんは一杯ずつ、盃を空けた。うむ、美味い酒である。

 そしてイリーデとブラウネンの結婚式は、滞りなく、和やかに行われたのだ。多くの人の笑顔があったのだろう、と私も推測する。

 セピイおばさんの話によると、同僚の女中たちの中でも、イリーデと同い年、もしくは年下の娘が二、三人、泣いていたとか。

「その娘たちは、実はブラウネンに気があったりして」

「何言ってんだい。ちゃんと祝福の、嬉し涙だよ」セピイおばさんは私をちょっと睨みながら、微笑む。

 嬉し涙は他にもあった。二人の両親である。なんとアダム新王が手紙で二人に、お祝いの言葉を送ってきたのだ。

 それを教会堂の外に群れた野次馬たちにも聞こえるように、役人の一人が大きな声で読み上げた。党首アンディンが命じたのである。効果抜群だった。話は数日のうちに、メレディーンの城下町から溢れるように郊外の村々にも伝わったのである。

 ブラウネンの父親なんかは、とんでもない栄誉という事で、嬉し泣きしながら腰を抜かしたらしい。それをイリーデの父親が手を差し出して、立たせてやって。きっと、出席者たちの良い思い出になっただろう。

「よかったね」

 私は思わず言った。心から、そう思ったからだ。

 しかし、そんな時に限って、なぜかセピイおばさんの表情に影がさして見えた。ほんのちょっと、だが。

「どうかしたの」

「まあ・・・どうと言うほどでもないが。式の後でイリーデから言われたんだよ。今度は、私とソレイトナックの式になる事を願う、と」

「う、うーん。悪気は無いんでしょうけど」

「だから言ってやったよ。『それより、自分たちが幸せになりなさい。じゃないと怒るぞ』ってね」

 言い切って、セピイおばさんが微笑んだ。

「ふふっ、早速、応用したのね、おばさん」

 私も微笑み返すことができた。

 その後ブラウネンは自分の生家からでなく、イリーデの生家からメレディーン城に通うようになったそうだ。二人とも珍しく一人っ子で、ブラウネンがイリーデの生家に婿養子として入ったわけである。ブラウネンがそれで押して、彼の両親も承諾した。嫁の生家に取り込まれる形だが、元から小貴族だ。そういう形にしても血筋が残せるなら、と妥協したのだろう。

 一方、イリーデは城住みの女中ではなくなった。時折り、夫ブラウネンと共に顔を出して、セピイおばさんたち女中仲間を手伝ったのである。その上で、少しずつ主婦の立場を優先するようになる。

 この働き方はスカーレットも同様で、彼女も城下町の新居からメレディーン城に時折り、上がるようになった。そして女中としての仕事はもちろん、夫アズールともども、仲良し五人組のつきあいを続けたわけだ。

 

 イリーデとブラウネンの後も、さらに慶事が続く。

 セピイおばさんによると、二人の結婚式からまだ一月も経っていない頃。ロミルチの城主であるオーデイショーの一行が、メレディーン城を訪れた。

 アンディンとオーデイショー、兄弟会談の席に、セピイおばさんも女中の一人として何度か足を踏み入れた。と言うのも、葡萄酒の盃や菓子、果物の器を運んだり、そのまま書斎の隅に控えて指示を待ったり、と何かとやる事があったからだ。

 アンディンはセピイおばさんたち女中や使用人たちの出入りも気にせず、会談を進めた。つまりは、聞かれてもいい会話、ということである。

 しかし、中にはヒヤリとする箇所もあって、セピイおばさんは、それを私に話しておきたい、と言う。

 会談の内容は、オーデイショーの長男の縁談について。またしても縁談だ。どうも、その年は、なかなか忙しない年だったみたい。しかも、お相手は王家の娘、と来た。

 オーデイショーはセピイおばさんたちが居るのも構わず、こんなふうに言ったとか。

『良いのか、兄者。兄者の子を差し置いて、うちのせがれがそのような良縁を賜って。兄者の次男坊のジャノメイが、まだ残っているではないか』

 この問いに対して、夫アンディンより先に、奥方キオッフィーヌが答えた。

『良いのですよ、オーデイショー様。この人は、王家の女は私で懲りたと思っているんです』

 アンディン本人は大笑いしながら『見破られたか』と答えたそうだ。

 セピイおばさんからこの話を聞いた瞬間、私は唸ってしまった。

「お、王族のご婦人も、冗談を言ったりするんだね」

「しかも、なかなか際どいだろ。あんたは覚えておくだけで、外で話すんじゃないよ」

 私としては素直に頷くしかない。

 と思ったが、つい聞いてしまう。

「おばさんとしては、キオッフィーヌは、やっぱり怖かった?ビッサビアとは、また違った怖さがあったとか」

「怖いって、あんた、人を化け物みたいに」セピイおばさんは苦笑いを浮かべた。

「そもそもキオッフィーヌ様は私の恩人だよ。ツッジャム城からメレディーン城に移ってきた私を受け入れてくださったんだ。怖がる以前に感謝しなきゃ。

 それを置いといても、キオッフィーヌから厳しく叱られたり、意地悪されたりした事なんか一度も無かったね。おそらく私以外の、他の女中たちも、そうだろう。

 もっとも、王族の立場からすれば、私らなんか眼中に無かっただけかもしれないが。それでも充分どころか、贅沢なもんだろ。私みたいな田舎出身の女にも気さくに会話してくださったんだからね」

 セピイおばさんとしては、やはりツッジャム城よりメレディーン城の方が居心地が良かったらしい。

 だとしたら、おばさんは反対するだろうか。まだ私が城女中になりたがっている事に。

 そこは確認せずに、私は話の続きをせがんだ。迂闊なことはしないんだから。慎重。慎重を期す。

 まあ、キオッフィーヌや私の思惑は、ともかく。この縁談は滞りなく成立した。オーデイショーの長男は王家の娘を、嫁として迎えたのである。一年後には、次男も結婚した。そのどちらの結婚式にも、ジャノメイと第三王子ラングが参列した、とか。

 そうだ、この時点では第一王子のアダムが王位を継いでいるから、ラングは王弟の立場か。すでに結婚もしていたようだ。若き王弟の訪問に、ロミルチの城下町も賑わった事だろう。

 

「さて今度は、こちらツッジャムの事を話そうかね。つまりはジャノメイ様の縁談についてなんだが。

 まず、パウアハルトが都アガスプスに移って行ったよ。宮殿の近衛隊に加わるためにね。

 ツッジャム城は、父親のモラハルトに返された。と言っても形だけで、実際に切り盛りしたのはビッサビア様だったらしいが。モラハルトは城下町の屋敷に住み続けて、時折り城を覗きに来るだけ。夫婦の別居生活は変わらなかったわけさ。

 ツッジャム城からの使者は、その辺りを包み隠さず、ご党首アンディン様に報告した」

「てことは、ビッサビアは使者に口止めしなかった、と」と私は念を押す。

「そういうこと」

「ビッサビアは居直っていたんじゃない?マーチリンド家出身の自分がツッジャム城を預かるけど、それは夫モラハルトの品行が悪いからだって」

「まあ、そんなところだろうね。もちろん、あの方も、わざわざ、それを言葉に出したりはしなかったはずだが」

「で、党首アンディンとしては、あくまで彼女に預けているだけで、ゆくゆくはヌビ家の管理下にしっかり取り戻すつもりってわけね。次男のジャノメイを使って」

「その通り」

 セピイおばさんは微笑んで、深く頷いた。よし。私がちゃんと話について来きている事を、これで分かってもらえたぞ、と。

「アンディン様は慌てたりなさらなかったよ。元々、ツッジャム城はヌビ家の所有なんだ。それなりの手続きを踏みさえすればいいんだ」

 それなりの手続きとは、この場合、相手を立てる方便もつけておく事。自分たちの言うべきことを言うのは当然として。

 ツッジャム城はジャノメイに持たせると主張する。同時にそのジャノメイにマーチリンド家から嫁入りする娘は居ないか、と水を向ける。その娘がジャノメイの妻になれば、マーチリンド家は引き続き、ツッジャムの治政に関わっていけるわけだ。

 もちろん党首アンディンは忘れてはいない。ビッサビアが、本職のポロニュースどころか、若き日のセピイおばさんを使ってまで、ヌビ家に探りを入れた事を。

 それを承知で、あえてヌビ家の中にマーチリンド家を組み込もう、というわけか。そう考えると、貴族って大変と言うか、めんどくさいと言うか。城女中を目指す私としても、こういう部分は憧れないし、いただけないと思う。

 でも、とにかくアンディンは行動に出たのだった。手始めにビッサビアと書簡のやり取りをして、会談の約束を取りつける。

「ビッサビアは警戒したかな?」と私。

「そりゃ、薄々は考えておられただろうさ。いつかはツッジャム城を返さなければならない、とね。そもそもビッサビア様は、無駄な抵抗をするようなお方でもない。ヌビ家党首であるアンディン様から書簡が来た時点で、勘づいて、覚悟なさっただろうよ」

 というわけで、アンディンは次男ジャノメイを連れて、こちらツッジャムに乗り込んで来るのだが。

 その前にアンディンは、ジャノメイをセピイおばさんに会わせた。若き日のセピイおばさんにビッサビアの人となりやツッジャム城の状況を話させ、ジャノメイに予備知識を持たせるためである。

 そして、その会合の場に、アンディンは自分の書斎を使わなかった。

「メレディーンの郊外に出かけたんだよ。ご党首様とジャッカルゴ様とヘミーチカ様。私を含む、若手の女中も数名。護衛として、兵士たちとオペイクス様もね。

 狩りではなくて、馬車や騎馬を連ねての遠出さ。天気の良い日に、田舎の草花や木々の緑で心を落ち着けよう、と。ジャッカルゴ様に促されて、ヘミーチカ様は女中たちを連れて、辺りを散策したよ。それで、地元の子供たちから話しかけられたりして。もちろん護衛の兵士たちとオペイクス様が付かず離れずだが、のどかなもんだよ」

「でも、それは表向きなのね。その間に、アンディンたちは混み合った話をしようと。セピイおばさんからも話を聞いた上で」

「そういうこと。だから私は、散策には加われなかった。逆に、ヘミーチカ様たちが目くらましの役だったのさ。地元の住民たちには、女たちの中でも私だけ説教されているように見えただろう。

 散策している辺りからは離れた、開けた野原の木の下で、アンディン様が私をジャノメイ様に紹介した。

 初めてジャノメイ様にお会いした私は、内心驚くと言うか、不思議な気持ちになったよ。自分と同い年の若者がこれからツッジャム城の主になるという事に、なかなか実感が湧かなかったんだ。背も私より少し高いくらい。失礼だが、長男のジャッカルゴ様に比べて、どうしても頼りなさが残っているように見えた。

 と言っても、私の偏見に過ぎなかったよ。ジャノメイ様も、なかなか苦労もしていたんだ。頬っぺたに長い傷痕が伸びていてね。『賊討伐の際に、敵の槍に引っ掻かれた』とおっしゃっていた。『これで、他人から見くびられる事も少しは減るんじゃないか、と期待している』とも。その槍はジャノメイ様の首筋を狙っていたはずだから、上手くかわした方さ。後でオペイクス様が、そう教えてくれた」

 うーん、と私は、また唸らざるを得ない。ヌビ家ほどの大貴族の息子も楽じゃないんだな、と思い知らされる。

 その間にも、セピイおばさんの話は続く。

「例によって、と言おうか。話しにくかったねえ。ご党首様に自分の密偵活動を告白した時と同じで、けっして話しやすい話じゃない。しかもソレイトナックとの関係まで、同世代の男子に話さなきゃならないなんて。いくら大雑把に話すったって、やっぱり恥ずかしいよ。

 でも私は、頑張ってお話しした。話すしかないさ、ジャノメイ様とヌビ家のため、ツッジャムのため、さらには自分や、この村のためにもね。ソレイトナックからツッジャム城の地下道を教わった事。モラハルトが私に仕掛けた事件。ビッサビア様の親切な計らいに、マーチリンド家の思惑が込められていた事。あれもこれも正直に話した。

 そしたら、ジャノメイ様は苦い薬でも飲まされたみたいに、どんどん表情を曇らせて。なんとか私が話し終えたら、ほんのわずかだが父親であるアンディン様を横目で睨んでいたよ」

「うーん、やっぱり顔に出ちゃったか。父親のアンディンと違って、それだけ若いってことかな」

「仕方ないさ。それに、若さに関しちゃ、あんただって言える立場じゃないだろ」

 セピイおばさんがニヤリとしながら、私の目を覗き込む。

「それでも、ジャノメイ様は立派だったよ。あの人の、モラハルトの親族の一人として、私に謝ってくださったんだ。たかだか平民の女に過ぎない私にね。並の貴族なら鼻先で『ふん』と一蹴して済ますところさ。パウアハルトみたいに」

「律儀ね。そんな人がツッジャムの城と地域一帯を預かってくれるのなら、安心だわ」

「実際ジャノメイ様が城主になられてからも、悪い評判なんて聞こえてこなかったよ。これは私個人の推測だが、おそらくジャノメイ様はモラハルトとパウアハルトの親子を悪い手本として、ちゃんと認識していたんだろう。

 そうそう、この時は、さすがにジャノメイ様も、モラハルトについて言及したんだ。『修道院に行けと僕に言ったのは、叔父上なのに。自身ではこんな事をやらかすなんて、デタラメじゃないか』って。

 そしたらアンディン様が、それを引き取っておっしゃるんだ。『ならば、あ奴も修道院に行かせよう。それでヒーナを弔いながら余生を過ごせば良い』とね」

「でも、色魔のモラハルトが大人しく行くかなあ、修道院に」と私は疑ってかかる。

「本人が嫌がっても、党首であるアンディン様には逆らえないさ。アンディン様としても、あの人をいつまでツッジャム城そばの屋敷に置いておくわけにはいかないだろ」

 で「後日、その通りになった」とセピイおばさんは付け加えた。

「なんて、つい、話が先走りそうになるね。しかし、この郊外での会合に関しては、あと少し、あんたに話しておきたい事があるんだ。しかも、いつもの通り、誰にも言っちゃいけないよ」

 セピイおばさんが表情を引き締めて、私の目を見る。私も唾を呑み込みながら、背筋を伸ばす。

「私が何とか報告を終えると、アンディン様とジャノメイ様は私を解放してくださった。ヘミーチカ様や他の女中たちと合流して散策してきなさい、と。頃合いを見計らっていたらしく、ジャッカルゴ様も呼びに来られてね。私と入れ替わりで、ジャッカルゴ様は、そのまま会合に加わった。

 私は言われた通り、ヘミーチカ様たちのところに行って、会話に加えてもらったよ。ヘミーチカ様と地元の女たちは、そこらの野花や作物の出来具合なんかを話していたね。私もここ、山の案山子村での畑仕事とかについて、幾つか質問されたりした。

 でも私は、ヘミーチカ様たちにお答えしながら、ふとアンディン様たちの会合が気になったんだ。ちらと見ると、さっきまで護衛を務めていたオペイクス様も、会合に加わっておられる。

 私は、あっと思って、すぐに視線をヘミーチカ様たちに戻したよ。ほんの一、二秒だったろう。

 ヘミーチカ様たちと散策しながら、私は密かに考えた。さては、オペイクス様からもジャノメイ様に報告する事があったんだ。私はそれを詮索してはいけないと思いながらも、ある程度は予想がついた。予想したからこそ、詮索してはいけない、と自分の肝に銘じたんだがね」

「それって、地下道の事?」私も言わずにはいられない。

「そう。おそらくオペイクス様は、私の里帰りの時に、他の地下道を見つけたんだろう。私がソレイトナックから教わったところ以外の。それなら、なおのことジャノメイ様が知っておくべきだ」

 私は唸り、続けて絶句してしまった。でも、すぐに疑問がわいてきて、また口を開く。

「推測しながらも、詮索すべきじゃないと弁える。そういう配慮も、城女中には欠かせないって事?」

「ああ、欠かせないね。これも仕事のうち。

 何度も言うが、城の中は華やかそうに見えて、こんなにも面倒くさいわけさ。あんたも大概であきらめなさい」

 うぐっ。やはり忘れてなかったか。

「あきらめないと、話を聞かせてくれない?」

 私が心配すると、セピイおばさんは少し笑った。

「逆に、あんたの城女中になりたいという気持ちを認めてやらないと、私の話を聞いてくれないのかい?」

「そんなんじゃないけど」

「私としても、女中の件に関係なく、話を聞いてもらうよ。覚悟おし」

「分かってます。と言うか、お願いします」

「よろしい。では続きを話そう」

 

 会合から数日して、ついにアンディンとジャノメイ父子はツッジャム城に向かった。その際にアンディンは、セピイおばさんに声を掛けなかった。したがってセピイおばさんは、この時は里帰りをしていない。

 おばさんは「それで良かった」と言う。理由は聞かなかったが、私には充分、推測できた。ビッサビアやツッジャム城の様子は気になるが、彼女と対決するのは怖い。仮に問い詰めても、答えてくれるような相手でもないのだ。不意にモラハルトと出くわしたりするのも、嫌だし。だから、私からも尋ねたりはしない。セピイおばさんは「アンディン様も気を使ってくださったんだろう」と言い足した。

 代わりに、と言おうか。色男さんのオーカーが党首父子に同行した。まさかアンディンも、セピイおばさんの里帰りの直前に交わした、あの口約束をわざわざ守るわけでもなかろうに。党首アンディンの采配の事情はセピイおばさんにも分からなかった。いつもの事ながら、根掘り葉掘りお尋ねするなんてできないのだ。

 とにかく色男の騎士は、色っぽいビッサビア見たさで鼻の下を伸ばして、ほくほく顔で同行したことだろう。緊張したジャノメイとは好対照だったに違いない。私も話を聞きながら推測する。

 そんな浮ついた色男さんや、ヌビ家の党首父子を、果たしてビッサビアは歓迎したのか。

「そりゃ傍目には、歓迎の姿勢だったろうさ。でも、あの方、ビッサビア様の内心は、穏やかなんて、とても言えなかったんじゃないかねえ。後でいろんな人から話を聞けば聞くほど、私はそう思ったよ。

 まずビッサビア様は、マーチリンド家の令嬢をツッジャム城に呼び寄せていなかった。ジャノメイ様に引き合わせるはずだったのに、だよ。本人が体調不良のため、遠出を控えさせた、とかいう理由で。おかげでジャノメイ様は、後日もう一度ツッジャム城を訪問しなきゃならなくなった。

 同行した従者たちの間では憶測も飛び交ったそうだよ。案外、マーチリンドの姫様はビッサビア様の背後に隠れて、ジャノメイ様を品定めしていたんじゃないか』とかね。

 それでアンディン様から『滅多な事を言うな』と叱られたとさ」

「でも、私も同じ予想だけどなあ。アンディンも本心では考えていたんじゃない?」と、ちょっと生意気な質問をしてみる。

「かもしれないが、考えていたとしてと、口に出しちゃいけないさ。どこで漏れ伝わるか、分かったもんじゃないからね」

 そして、これも代わりではないが、ツッジャム城での会談では、始めの方だけモラハルトも同席したとか。長兄アンディンからのお小言を神妙に耐えて、話題が甥ジャノメイの縁談に移るや、そそくさと居なくなったらしい。

『おかげで、向こうの奥方様を遠慮なく拝ませてもらったぜ』とは、騎士オーカーが帰還してからセピイおばさんにした報告である。

 例によって陽気な色男さんは、呼ばれてもいないのに、若き日のセピイおばさんやシルヴィアたちのところに来て、おしゃべりした。おばさんたちが女中として洗い物や縫い物など、何の仕事をしていようとお構いなしで。

 オーカーは実に、自分の好きなように報告した。『メレディーンの街並みと比べると、やっぱツッジャムは、どうしても見劣りするなあ』とか。『ロンギノのおやっさんは相変わらず冗談が通じなくて、参ったぜ』とか。そうやって笑わせようというつもりなのだろうが、ところどころ、ツッジャム出身のセピイおばさんをムッとさせる箇所もあった。そこで目くじらを立てても仕方がない、とセピイおばさんは聞き流していたのだが。

 色男オーカーの報告には、おまけがあった。セピイおばさんにとって余計な、それでいて聞き捨てならない話が。

 不意に『そうだ』とか言い出したオーカーは、それまでの賑やかさを引っ込めて、声量を抑えた。そしてセピイおばさんに尋ねたのである。

『セピイちゃんよ。へんなことを聞くようで悪いが、セピイちゃんの親戚に入れ墨もんが居るのかい?』

 意味が分からず戸惑うセピイおばさんに、オーカーが説明するには、アンディンとの会談中にビッサビアが言及したという。その場面は、こんなだったとか。

 ビッサビアが『セピイは元気ですか』と問い、アンディンが『ええ、よく働いてくれますぞ』と答える。

 するとビッサビアは重々しいため息をついて言った。

『セピイには悪い事をしました。息子のパウアハルトが賊討伐の際に、セピイの近親者も徴兵したらしいのです。セピイも親族の戦死を何件か伝え聞いているでしょう。

 行方不明者も居ましてね。あの子の近親者にしては珍しく、頬に大きな入れ墨をして目立っていたのに。それでも戦闘の混乱では、すっかり分からなくなったそうです。パウアハルトも兵士たちにその者を探させたのですよ。それでも、とうとう安否を確認できなかった。

 可哀想なセピイ。近しい者を亡くすなんて』

 この場面を、オーカーはアンディンの背後で見守っていた。そして、ずっと気になって、帰還したらセピイおばさんに確認しようと思っていたのである。

 状況を教えられたセピイおばさんには、思い当たる節があった。その者について説明しようかと一瞬、迷っていると、先にシルヴィアが割り込んだ。

『ちょっと、オーカー。それって、いつもみたいにご党首様から口止めされていたんじゃないの?』

 指摘されたオーカーは『お、あいかわらず鋭いじゃん』などと呑気な返事をして、さらに叱られた。『でも、気になるだろ。セピイちゃんの親戚で入れ墨もんは、あり得ねえぜ』

 などと、オーカーとシルヴィアが無駄に議論をしそうになったので、セピイおばさんは観念して話すことにした。

『それは、おそらくニッジ・リオールという名で、私が最初に付き合った人です』

 これを聞いた途端、オーカーは、ぼやいた。『なんだよ、セピイちゃんの元彼か。つまんねえなあ。聞いて損したぜ』さらには『入れ墨されるなんて、よっぽど、ひどい事をやらかしたんだろ。セピイちゃんも、そんな奴と別れて正解だよ。早く忘れた方がいい』とか。

『あんたが思い出させたんでしょうが』なんてツッコミは、シルヴィアがしてくれた。

 その辺りまで話すと、セピイおばさんは一度、ため息をついた。

「さて、ここで久々に質問しようかね。あんたは、この話をどう思う。ビッサビア様が、なぜリオールの事なんか言い出したのか」

 私は戸惑った。私なりに解釈しようと思ったが、何か唐突に思えるだけで、ビッサビアの心理が推測できない。

 その旨を正直に言って降参すると、セピイおばさんは正解を教えてくれた。

「あの方はね、リオールを持ち出す事で私に嫌味を言ってきたんだよ。あの方としては、自分の情夫であるソレイトナックを、一時的に私に貸してやったくらいにしか思ってないのさ。そして遠回しに言ったんだ(お前はソレイトナックを諦めて、リオールと寄りを戻せばいい)と」

 セピイおばさんは、もう一度ため息をついて、窓の方を見た。窓の外に、遠くに意識を飛ばすようで結局、上手くいかなかったのか、すぐに自分の手元に視線を戻す。

 おばさんは、なかなか話を再開せず、私も声を掛けられない。

「私はオーカーさんから話を聞いて、ピンと来たよ。そして・・・悲しかった。・・・ガッカリしたねえ。

 それで、自分でも気がついたよ。私は、まだ心のどこかでビッサビア様を信じていたんだ、と。信じたがっていた。あの方とは直に、面と向かって対立したわけじゃない。あくまでも、あのポロニュースから伝え聞いて、お互いが恋敵だったと知らされただけ。それを嘘だと、何度、心の中で叫んだことか。あの、実の母親のように私に接してくださったビッサビア様が、本当は私を憎んでいただなんて。信じられなかったし、信じたくもなかった。

 しかし」

 セピイおばさんの言葉が、また途切れた。

「来ちゃったんだね」

 私は思わず先を促してしまう。言った後で、それが正しかったのか不安になったが、一度出した言葉は戻らない。

 セピイおばさんは、そんな私の迂闊さを責めることも思いつかないのか、そのまま再開してくれた。

「そう、来たんだ。確証になるものが。明らかに悪意のある言葉が。さすがに認めるしかなかったよ。

 私は愕然としたね。オーカーさん、シルヴィアさんと話しながら、ぼんやりした。まさか、あのビッサビア様が私に悪意を向けてくるなんて。しかも、アンディン様を使って。

 アンディン様が気を利かせて、オーカーさんや他の同行者たちに口止めしてくださった事が、せめてもの慰めだったよ。私はアンディン様に、リオールとの事までは話していなかったつもりだが。それともモラハルトか誰かから、私とリオールの関係を聞いていたのかも。とにかくアンディン様も、ビッサビア様の言葉に棘があると気がついたんだろう」

「でも、オーカーがペラペラしゃべっちゃったよ」

「それもいいさ。おかげで状況が分かった。いい知らせとは言えないが、知らないままでいるよりは、いい。

 それに、いつものようにシルヴィアさんがオーカーさんを叱ってくれた」

 そこまで言ってセピイおばさんは、やっと少し微笑んだ。

「それにしても、ヌビ家の党首アンディンを嫌味の伝令役にしようなんて、ビッサビアも怖いと言うか、性格が悪いと言うか」

「しかしアンディン様は見破った。そんなことに付き合わされる筋合いは無い、と内心怒っておられたのかもしれないね」

「う〜ん、だったら、なおのこと、そんなビッサビアにジャノメイのお嫁さん探しを頼んだりしていいのかなあ」

「ふふ、考えてみれば、たしかにそうだが。でもオーカーさんたちと話している時は、私も、そこまで気が回らなかったよ。それに、その後は縁談にも、ちゃんと進展があった」

 やっと微笑んだかに見えたセピイおばさんは、また、そこで一息ついた。

「でも、そのジャノメイ様の嫁取りの話をする前に、ちょいと別の事態が起こったよ。

 ビッサビア様の話が落ち着くと、シルヴィアさんが不意に、オーカーさんに向かって言い出したんだ。『こちらからも、あんたに報告する事があるわ』と。『近いうちにヴァイオレットが結婚するわよ。少なくとも年内でしょう』とね。

 シルヴィアさんが聞いたところによると、キオッフィーヌ様がヴァイオレットさんのために縁談を持ってきてくださった、と。お相手は小貴族の息子で、たしかヌビ家の役人としてメレディーン郊外の村に駐在していた。

 シルヴィアさんは、こうも言ったね。『ヴァイオレットの話を聞いていると、お相手は、あんたと、だいぶ違うみたい。もしかしたら正反対だったりして』

 話しながらシルヴィアさんは、ちょっと意地悪な、というか皮肉な笑みをオーカーさんに向けていたよ。

 オーカーさんはオーカーさんで、呆けて返事に数秒かかった。『それがいいかもな。あいつは家庭的だから、いい奥さんになるだろ』と。

 そして続けてシルヴィアさんに言うんだ。『そう言うお前も、実は縁談が来ている、とか言うんじゃねえだろな』なんて笑みを返して」

 おやおや?と私は声が出そうになるのを、なんとか堪えた。まだまだ先を聞かねば。

「それに対してシルヴィアさんの答えは、こんなだった。

『来ても、突っぱねるわよ。私は結婚なんて、しないの。男は、あんたたちで、もうたくさんなんだから。男とずっと一緒に暮らすなんて考えられない。一生独身で結構です。たとえ奥方様が親切心から勧めてくださっても、丁重にお断りするわ。

 そうねえ。強いて言うなら、このお城で女中として使い物にはならないくらいのお婆さんになったら、修道院にでも行こうかしら。メイプロニー様に紹介していただいたりして。信心なんか、かけらも無いけど、本気の尼さんたちのお手伝いくらいは真面目にやるわよ』

 シルヴィアさんは、自分で言った事にクスクス笑い出していた。

 その後もシルヴィアさんとオーカーさんは、しばらく軽口を叩き合っていたね。オーカーさんが『なぁにが修道院だよ。似合わねえから、やめとけ』なんてツッコミ返したりして」

 セピイおばさんの話が、また途切れた。そして今度は、とうとう背後から酒の皮袋を引っぱり出して、一杯注いだ。私も、もらう。

「な、なんか・・・もうちょっと、どうにかならなかったのかなあ。シルヴィアとオーカー」

 葡萄酒で舌が緩んだのか、私も、つい言ってしまう。それまでのイリーデなど、他の良縁との落差が大きいように思えたのだ。

「私も似たようなことを考えたよ。でも、仕方ないさ。少なくとも、シルヴィアさんの方では冷めていたし。そこで私がとやかく言っても、ねえ」

 セピイおばさんは言いかけのまま、のろのろと首を横に振った。

 

「やれ、話が、またしても脱線したね。ジャノメイ様の縁談に戻そう。

 お嫁さんは二回めのツッジャム訪問で、ようやくお会いできたよ。アン・ダッピアというお名前で、ビッサビア様の従兄弟の娘にあたるお方だった。歳は、私の一つ下くらい。たしかイリーデと同い年のはずだよ。

 この二回めの訪問にもオーカーさんが加わって、私は居残りさ。帰還してから、またオーカーさんがしゃべること、しゃべること。もちろんアンディン様に見咎められないように、私たち女中のところでだけ、だが。

 オーカーさんとしては、自分のお嫁さんを確認した時のジャノメイ様の様子がよっぽど可笑しかったらしい。緊張して、動作がぎこちなくなるところなんか、真似して私たちに見せるんだ。私らは笑っていいのか、悪いのか、分からなかったよ。

『ジャノメイ様はアン様と顔を合わせるや、見る見る顔が赤くなった』と同行した他の従者たちも口を揃えて証言していたし。

 極めつけ、というか、とどめはメレディーン城へ帰る道すがらだ。ジャノメイ様は自分からアンディン様に馬を寄せて行って、こう言ったんだと。

『父上の方針が正しかった事を思い知りました』

 オーカーさんは騎馬でジャノメイ様の後ろにピタリとつけていたので、この発言がはっきり聞こえたんだとさ」

「えー、何それ。イリーデを諦めた甲斐があった、ってジャノメイは言いたいの?それほどの美少女?」と私は驚きを禁じ得なかった。

「オーカーさんが言うには、ちょうどビッサビア様を若返らせたような感じだったらしい。ヒーナ様と違って、アン・ダッピア様は実の娘じゃないんだがねえ」

 ははーん。さてはイリーデより、そのアン・ダッピアの方が、胸が大きかったんだわ。予想がついたものの、セピイおばさんには言わなかった。あんたって、そればっかりだね、なんてツッコまれるのが目に見えている。

 それより色男オーカーも、この若君のお嫁さんをニヤニヤしながら眺めていたんだろう、きっと。

「こうしてジャノメイ様とアン・ダッピア様の結婚が成立して、ヌビ家とマーチリンド家の関係が修復したよ。上辺だけでも、ね。

 そのちょっと前に、モラハルトが修道院に入った。

 一方、ビッサビア様は、新妻アン様の後見人としてツッジャム城に残ったよ。ジャノメイ様とアン様に、何かと助言してあげるってわけさ。

 同時に、オーカーさんのツッジャム城への転属が決まってね。本人は『またロンギノのおやっさんにしごかれるのかと思うと、気が滅入るぜ』なんてぼやいていたが、結局いそいそとジャノメイ様について行った」

「いいんじゃないの。麗しのビッサビアと同じ城で生活できるんだから」

 私が冷やかすと、セピイおばさんは声を上げて笑った。

「そのツッコミは、シルヴィアさんがしてくれたよ。送別の言葉としては、なかなかのもんだろ」

 これには私も、笑うには笑ったが。やれやれ、お姉様は徹底しているなあ、と苦笑してのことだ。

 

 続いてセピイおばさんの話は、ヴァイオレットに移った。ジャノメイの結婚から二ヶ月後か三ヶ月後。細かい時期までは、おばさんも覚えていなかったが。彼女の婚約者がメレディーン城に迎えに来たのである。

 セピイおばさんはヴィクトルカの時の事を思い出したと言う。双方の親族と使用人が数名ずつ駆けつけて、荷造りを手伝い、セピイおばさんたち同僚が見送る。ツッジャム城で行われた事が、目の前で繰り返されるようだった。もっとも、ヴィクトルカの時と違って、生家の紋章が話題になったりはしなかったが。

 それで、ついセピイおばさんは言ってしまったのだ。ヴァイオレットがシルヴィアたちと別れの言葉を交わしているそばで、所在なさげに立っている婚約者をつかまえて。

『どうかヴァイオレットさんを大事にしてくださいね。失礼な言い方ですみませんが、どうか泣かせたり、悲しませたりしないで』

 婚約者は痩せぎすの、ちょっと頼りなげな青年で、その点もヴィクトルカを連想させた、とセピイおばさんは言う。若き日のセピイおばさんから忠告されるや、この婚約者は引きつったみたいに、途端に姿勢を正したとか。

『も、もちろんです。ヴァイオレットさんを悲しませるなんて、とんでもない。もし、そのような話が聞こえてきたら、遠慮なく僕を斬り捨てに来てください』

 と後半部分は、見送りで居合わせた騎士アズールに向けて訴えた。

 それに対してアズールはニヤリとして、こう答える。『お、言ったね、若旦那。俺は奥さんの旧友として、手加減できないぜ』

『望むところです』と婚約者が即答するのを聞いて、セピイおばさんは、ひとまず安心したそうだ。同時に、ヴィクトルカが夫から大事にされている事を願った。

 その一方で、お姉様方、三人の会話は少し長引いたようだ。見送りに駆けつけなかったオーカーが話題に上がったのである。しかも言及し出したのは、新婦ヴァイオレットから。婚約者に聴こえるかもしれないのに、言わずにはいられなかったなんて、よほど思い詰めていたのだろう。セピイおばさんの話を聞きながら、私は、そう推測した。

 セピイおばさんは、ヴァイオレットがシルヴィアに向かって言った言葉を、はっきり覚えていた。

『本当は、あなたにオーカーのことを頼みたかったんだけど』

 しかし言われたシルヴィアは、首を横に振る。

『もういいのよ。あいつも私も、それぞれ好き勝手にやっていくんだから。あなたは自分のことを優先して』

 スカーレットも、シルヴィアと同じ意見だった。

 そしてヴァイオレットは出発した。党首夫妻と、その子息の夫妻はもちろん、多くの城詰めの者たちに見送られて。城女中を辞めて、婚約者の任地で専業主婦となるのである。

 セピイおばさんが言うには、実に天気の良い、のどかな出立だったそうだ。

 

「まあ欠席裁判なんて、しても、つまらないが。せっかくの門出がちょいと、しんみりしちまったよ」

「オーカーが悪いんだわ」

 私は、オーカーへの想いを諦めたヴァイオレットに同情しつつも、彼女の決断が正しいとも思う。

「ただね」とセピイおばさんは続ける。「そのまま、しんみりしている暇も無かった。ありがたいのか、何なのか」

 おばさんが何を言い出したのかと思ったら、次はスカーレットとアズールの夫婦だった。親友を見送った直後、なんと二人は、それぞれ党首夫妻に訴えたのである。

「訴える?」

「そう。お互いに浮気を疑って、ね」

 私は、あちゃあ、と言いかけるのを何とか堪えた。「二人とも、考えすぎとか、勘違いだった、ってことはない?」

「私も同じようなことを考えて、シルヴィアさんに聞いたさ。でもシルヴィアさんが言うには『今さら確かめたって仕方がない』んだと。『どちらが先に浮気したか、なんて相手をなじるのも無駄。ラカンシア人も喰わない痴話喧嘩』だってね」

 セピイおばさんから聞くシルヴィアの言い回しは、私にも分かる。犬を紋章にした貴族家がラカンシアには存在する、と聞いた事があるからだ。

 

ラカンシア人貴族の紋章の一種 槍犬

 

ラカンシア人貴族の紋章の一種 弓犬

 

ラカンシア人貴族の紋章の一種 魔犬

 

「もしかしてお姉様方と色男さんたち五人で、いつも、そんな喧嘩をしていたの?」

「そ。だから『進歩が無い』とシルヴィアさんは嘆いていたよ」

「でもって、アンディンもキオッフィーヌも呆れていたと」

「ああ。スカーレットさんたちをなだめるのに手こずっておられた。スカーレットさんは散々泣き喚いて、アズールさんを責める。アズールさんもアズールさんで、アンディン様たちの手前と気をつけながらも、言い返さずにはいられなかったし。

 私とシルヴィアさんも知らん顔するわけにはいかないだろ。だから、何とかご党首様たちをお手伝いしたんだがねえ」

「まあ、喧嘩するほど仲がいいって事じゃない?」と私は生意気を言ってみる。

「それもシルヴィアさんが言っていた」

 私とセピイおばさんは数秒、顔を見合わせて、吹き出した。

 

 さて、そのヴァイオレットの結婚から、しばらくして。おばさんの話は、ジャッカルゴとへミーチカに戻った。へミーチカの懐妊である。

 この頃にはアンディンも、ヌビ家党首の座を長男ジャッカルゴに譲っていた。妻キオッフィーヌと連れ立って、頻繁に都アガスプスに出かけるようになり、メレディーン城に戻っても別室を設けて、そこで寝起きする。書斎も、ジャッカルゴに使わせた。

 アダム新王がヒーナの墓参りに来てくれたのも、この頃である。迎えに上がろうと申し出たジャッカルゴを制して、アダム新王はメレディーン城に立ち寄った。ヘミーチカの懐妊を祝って、贈り物を届けるために。

 この出来事に関して、セピイおばさんは「ちょいと先走っている気もしたね」と言う。

「女としては、お腹の子どもが流れたりしないか、まだまだ気を抜けない時期だ。だから、無事に出産したのを確かめてからのお祝いでも、遅くないんだよ。

 でも、当時の王陛下がそれくらい喜んでくださったのかと思うと。とんでもなく、ありがたい、光栄なことだよ」と微笑んで。

 そして、また話が先走るが、後日、赤ちゃんは、しっかり生まれてきたのだ。

「それが今のヌビ家党首である、ナタナエル様だよ」とセピイおばさんは付け加える。

 これを聞いて、私は何とも言えない、へんな気分になった。今の党首と言えば、もちろん会った事も無いが、おそらく父さんと同じくらいの、中年男のはず。そんなおじさんでも、赤ちゃんだった時期があるなんて。なんか、実感がわかないなあ。

 などと私が考えている間にも、セピイおばさんの話は進む。ジャッカルゴは隊列を仕立てて、アダム新王をこちらツッジャムにお連れした。この時は、おばさんも同行が許された。忙しい合間をぬって、ごく手短にだが、この村への里帰りもさせてもらって。

 村の馬鹿な連中は『まさか、あのセピイちゃんが、新しい王様とヌビ家の若殿を連れて来たのか』なんて騒いだ事もあったとか。セピイおばさんは、この話を自分の兄、つまり私たちのお爺ちゃんから聞かされて「椅子から転げ落ちそうになった」と言う。もちろん、そのお馬鹿たちには、お爺ちゃんから説明してもらった。

「この時、義姉さんは膨らんだお腹を揺すりながら、私と兄さんのやり取りに微笑んでくれたもんさ。ありがたい里帰りだったよ」

 言い切って、セピイおばさんはニヤリとしてみせた。私はハッとする。

「膨らんだお腹って、お婆ちゃんのお腹の中に父さんがいたの?」

「そう。あんたたちのお父さんがまだ赤ちゃんとして、義姉さんのお腹の中に居たんだ。アダム陛下の真似をして、私も兄さんたちにお祝いを渡すことができたよ」

 へー、と言ったものの、私は続かない。今のヌビ家党首どころか、うちの父さん?父さんが赤ちゃんだった頃?

 絶句する私を見て、セピイおばさんはクスクス笑う。そして続ける。

「ちなみに、ヒーナ様の墓参り、私の里帰りからメレディーンに戻ると、また一騒動あった。イリーデにも、子どもができた事が分かったんだよ」

「へー。結婚の話が続いたと思ったら、今度は赤ちゃんだらけね」

 思わず言ってしまって、セピイおばさんと一緒に吹き出した。

 なんだかヒーナの墓参りをしていたのが、嘘みたい。

 と一瞬、ヒーナのことが頭に浮かんで、私は言葉を呑み込んだ。言うまい。ヒーナには悪いけど。

 多分、セピイおばさんも彼女を思い出したのだろう。ふとした時に、何度も。セピイおばさんと笑みを交わしながら、私は考えをめぐらせていた。

 ヒーナに思い至ったからか、私は、こんなことも考えた。

 なんだか順調だわ。順調すぎるくらい。神様に感謝してもいいくらい。普段は、あまり尊敬しない神様に。

 ヌビ家だけじゃない。お爺ちゃんたちを含む、おばさんの周りの人々も順調。それは、話を聞いている私としても、ありがたいのだけれど。

 なんで恵まれたんだろう。ヒーナは?ヴィクトルカは?マルフトさんは?オペイクスとパールは?なんで?

 そう思いながら、私はセピイおばさんには尋ねない。答えてくれるだろうけど。なぜか。なぜか、まだ尋ねる時じゃない。そんな気がする。もう少し自分で考えてから、というような。

 

 セピイおばさんの話では、その後もヌビ家は順調だった。新党首ジャッカルゴに、ヨランドラの次期宰相との噂が立つほど。アダム新王と交流ぶりを見れば、シャンジャビ家など他の勢力も、彼を一目置かないわけにはいかなかったのだろう。

 新婚の次男ジャノメイにも、問題は無かった。ビッサビアの監視の下、苦労させられるかと危ぶまれたが。ツッジャムからメレディーンに伝わってくるのは、微笑ましいような、おかしな噂ばかり。

 定期訪問でメレディーン城に顔を出したベイジの夫が、アンディンとジャッカルゴ父子に報告したのである。ツッジャムの城下で町人たちが、新城主ジャノメイのことを何と言っているのか。セピイおばさんの案内でジャッカルゴが使う書斎に通されたものの、ベイジの夫と使用人は額に汗して、非常に言いにくそうにしていた。だが党首父子に促されて、ようやく口を開いた。

『失礼ですが。ジャノメイ様はツッジャム城下で笑われております。お迎えした奥方、アン・ダッピア様の言いなりだ、と』

 言ってすぐ、ベイジの夫と使用人は頭を深々と下げて、党首父子の視線を避けた。が、無駄な抵抗で、無表情のアンディンは叱りもしないが、代わりに続きを急かす。ベイジの夫は観念した。

 彼が時折、ツッジャム城に顔を出しながら、注視したところによると、ジャノメイとアン・ダッピアに不和は有り得ない、ジャノメイとビッサビアにも軋轢は無いらしい。『何しろ、ジャノメイ様が主張しないのですから』と。とにもかくにも妻アンの意見を聞き、彼女が決め切らなければビッサビアの意見を容れ、自分が何か思いついても、まずは二人に聞いてから。それがもっぱらの噂として、城下にも漏れ伝わっている、とベイジの夫は言う。

『やっと一つだけ主張して、押し通しなさったと思ったら、それはアン様の里帰りですよ。こればかりはアン様とビッサビア様が遠慮なさっても、粘って説得なさる。そして、お二人を馬車にお乗せして、頻繁にお出かけになる。

 ええと、アン様の生家マーチリンドの主城は、たしかスボウと申しましたか。そこの城下町にアン様のご両親のお屋敷があるそうで。『義父上と義母上からアンを取り上げて、さみしい思いをさせるような僕ではないぞ』というのが、ジャノメイ様のご意向です。私めがちょうどツッジャム城に上った際に直に耳にしたので、間違いありません。

 というわけで、奥方様の里帰りを率先なさるのですが。私が知るだけでも一、ニ・・・たしか七回。すでに七回は、そのスボウのお屋敷に通われております。

 こうお話ししますと、ジャノメイ様がツッジャムでの政務を怠って頻繁にお出かけなさっているように思われるかもしれませんが。そこは、ご心配なく。アン様の里帰りに行くにも必ず政務を片付けてから、とジャノメイ様も心がけておられます。これは多くの者が認めるところで、ツッジャムでお尋ねしていただければ、証言を幾つも得られるでしょう。急な裁判沙汰が起こった時などは、里帰りを数日延期して、アン様に謝っておられました。

 つい先週も、です。城下町の主だった商人や役人、郊外の小貴族、司教などの有力者たちをツッジャム城に呼び出して、宣言なさいました。

ーー皆が、このジャノメイを悪く言うのなら、それは僕自身に落ち度があるのであって、反省もしよう。

 しかし、その僕の至らなさを我が妻アン・ダッピアに結びつけて解釈するなら、つまり彼女が原因だとか、彼女を悪く言うようなら、それは断じて許さん。アンは、このジャノメイをたぶらかしているのでも、いいように操っているのでもない。僕が僕自身の意志で、勝手にアンのためと思って行動しているだけだ。繰り返して言うが、我が妻アンを悪く言う者があれば、僕もそれ相応の対処をするーー

 そう言って、普段は大人しそうなジャノメイ様が、珍しく目を尖らせて一同を睨み回しておられました。

 見てきたように言うと思われたでしょうが、私もその会合に召集されましたので。城下の主だった商人たちと肩を並べるほどの商いは未だにできておりませんが、ジャノメイ様は私にもお声を掛けてくださいました。おそらく今このようにして、ご党首様や若様に度々お伺いできている、ご厚意をいただいている点を評価してくださったのでしょう。

 あ、大変失礼いたしました。ジャノメイ様に話を戻します。

 以上のようなジャノメイ様のお心づかいは、ちゃんとアン様に伝わっております。アン様もジャノメイ様をとても気づかい、尽くしておられますから。言いなりにしているとか、操っているとか、我がままに振る舞っているなど、とんだ誤解。いずれも見識の浅い者どもの意見であって、気にするには及びません。それこそジャノメイ様から、きついお咎めを受けるでしょう。

 その証拠に、と言いましょうか、アン様はジャノメイ様と会話、やり取りを優先して、どうもビッサビア様を放ったらかしにする事が多いようで。邪険に、とまでは申しませんが・・・度々のご指導、ご忠告をしてくださるビッサビア様を疎ましがっているのではないか、とも。いずれも、ツッジャム城に出入りする商人たちの意見です。これを証明するように、近頃ではビッサビア様も、里帰りに同行しないで、留守番役に徹しておられます』

 といった感じで、ベイジの夫の報告は、やや長くなった。彼としては、新城主ジャノメイの評判より、新妻アン・ダッピアと小姑ビッサビアの仲の方が心配なのだ。

 ベイジの夫は『いろいろと言い過ぎたやもしれません。どうか、ひらにご容赦を』と話を締めくくって再度、頭を下げた。

 セピイおばさんは言う。

「求められた報告とは言え、不興を買うんじゃないか、とベイジの旦那さんは不安で仕方なかったそうだ。それで緊張して、早口になって。唾も、かなり飛んでいたね。

 でも、取り越し苦労さ。報告が終わるや、アンディン様は笑いなさったんだ。隣でジャッカルゴ様も苦笑いになっていた。

 その上でアンディン様は、ジャッカルゴ様に絡むんだよ。

『聞いたか、ジャッカルゴ。弟は、そなたの仕事よりも、はるかに難しい任務をこなしておるぞ。しかも打算ではなく、素でやっておるところが良い。打算で動けば、たちどころにビッサビア殿に感づかれたであろうからな』

 対してジャッカルゴ様の返しは、こんなだった。

『ええ、ええ、あいつは見事にやりましたよ。今度ばかりは認めます。この愚兄が、まだやっていないような事をやってみせたと。

 先方も当てが外れて、さぞお困りのはずだ』

 なんて、弟に出し抜かれたとおっしゃる割には、ニヤリとして。

 ベイジの旦那さんは叱られるどころか、ご褒美に酒の瓶なんかを賜ったよ。

 それで退室したんだが、城門での別れ際に私に聞いてきた。ご党首様たちは何の話をしておられたか、とね」

 ここで、おばさんから質問されると踏んで、私は先手を打った。

「書斎でじゃなくて、城門を出ようという時に尋ねるなんて、ベイジの旦那さんも考えたね」

 セピイおばさんは私の意図を察したのか、ニヤリとする。

「相手をはばかって気をつけたところは、さすがに商売をやっているだけの事はある、と感心したよ。

 しかし旦那さんには悪いが、そこでも、まだ話すわけにはいかなかったね。だから私は、しらばっくれた」

「ビッサビアを悪く言うことになるからでしょ」と私は、自分の解答を披露してみる。

「おや、何で、そうなるんだい」

 セピイおばさんの笑みは変わらなかった。となると、私の解答は、まだ足りていないのか。

「だ、だってビッサビアは、ヌビ家に探りを入れる事をまだ諦めていないはずよ。密偵なんかを使いたがっている。そんなの、ビッサビアを褒める話じゃないわ。

 そして、そこはアンディンもジャッカルゴも察していて、ほのめかした。平民であるベイジの旦那さんに詳しく説明するわけにはいかないもんね」

 私が言い切ると、セピイおばさんは声を上げて笑った。「ご明察だ、プルーデンス。頼もしいよ」

 やった。どんなもんだい。

 セピイおばさんは、その後も機嫌よく、補足説明をしてくれた。

 マーチリンド家としては、探りの意味も込めてアン・ダッピアを送り込んだはずなのに、頻繁に戻ってくる。それをさせる夫ジャノメイはマーチリンドに対しての抵抗や警戒とかではなく、大真面目だ。だから断りにくい。

 マーチリンド家としては、自分たちの娘に里帰りするなと言うのも変だし、やんわり控えさせようにも、ジャノメイから『そう遠慮なさいますな』と、かわされてしまう。

 こうしてマーチリンド家の密偵たちはアン姫にくっついてヌビ家に忍び込むつもりが、逆にヌビ家の密偵たちがジャノメイを隠れ蓑にして、マーチリンド家の領内に入り込む始末。

 ここでジャノメイに悪意があるのなら、マーチリンド家もその悪意を遠回しに指摘するなど、牽制のしようもあるのだが。娘婿ジャノメイは、こちらの娘アンと彼女の両親に良かれと思って親切心でやっているだけに、無碍にもできない。

 これではジャノメイの父と兄、ヌビ家陣営が笑うわけである。

 ちなみにセピイおばさんに、これら一連の解説をしてくれたのは、弟ジャノメイの功績を笑って誉めた、ジャッカルゴだった。

「城壁の歩廊でオペイクス様と私と、三人しか居ない時に教えてくださったよ。『拙いながらも密偵を経験した者として、事の重大さを理解しておけ』という意味だろう、と私は受け取ったよ。だから今日まで、あんた以外には誰にも話していない。もちろん、ベイジの旦那さんにもね」

 うーむ。そう聞くと、やはり笑ってばかりはいられない、剣呑な話か。

 だから城女中はやめておけ、なんて言われそうだから、少し話をそらそう。

「ベイジの旦那さんは、アンがジャノメイにどんなふうに尽くすのか、具体的に説明していないんじゃない?ジャッカルゴたちがベイジの旦那さんに密偵の事とかを言わないように、ベイジの旦那さんも、わざとジャッカルゴたちにぼかして話したとか」

「ふふ、鋭いよ、プルーデンス。こちらも正解だ。

 でも、ベイジの旦那さんの気づかいは効果があった、とは言えないね。巷の噂話で、ツッジャムからメレディーンまで、あっさり伝わってきたんだから」

 セピイおばさんはニヤニヤしながら、私の顔を覗き込む。ということは。

「アン・ダッピア様のジャノメイ様に対する尽くし方。下手すればヌビ家の領内で知らない者は居なかったかもね。少なくとも年頃の男女は聞き耳を立てて、知っていたはずだし。

 何をしたって、やたら抱きついたり、頬っぺたに口づけしたり、だよ。いかにも女らしい体つきのビッサビア様を若返らせたような美少女が、だ。人目も憚らずに、そんなことをするんだからねえ。ツッジャム城の兵士とか使用人とか羨ましがって、もう黙ってないよ。酒場とか市場でペラペラしゃべって、それを聞かされた男どもがまた羨んで、よそで言いふらす。それが繰り返されて、とうとうメレディーンまで届いちまった」

 私は口をはさみたい気もしたが、すぐには出なかった。「男って、いつの世も馬鹿なのね」とか言いたかったが、アンがそれほどの女だったのかと思うと、ちょっと絶句してしまう。

 セピイおばさんは続ける。

「メレディーン城でも、若い兵士や使用人たちが噂しているところをよく見かけたよ。

 男どもも、はじめはジャノメイ様を笑っているんだ。何でも、ジャノメイ様はアン様に抱きつかれると顔を真っ赤にして、固まるらしくてね。それを真似してみせる輩が居るわけさ。ツッジャム城まで見に行った事も無かっただろうに。

 でも、そんなことをするのも、結局は羨んでいる証拠だよ。自分もそんな目に遭いたいもんだ、と。若い男どもがよく言っていた。『そんな姫様が腕にすがりついてきたら、絶対、胸が当たっているはずだぜ。いーなー、ジャノメイ様は』なんて」

「それ、もちろんアンディンとかジャッカルゴとかが居ない所で言うんでしょ。そりゃ、ベイジの旦那さんも、ぼかして話すわけだわ」

 言いながら、自分もニヤニヤしてしまう。

 と、セピイおばさんが少しだけ真面目顔に戻った。

「ただ、おめでたい話ばかりというわけにもいかなくてね。アン・ダッピア様を悪く言う連中も居たんだよ。ツッジャム城を訪問した修道女たちとか、要するにオバハンどもさ」

 これを聞いて、私も「あ〜」と間の抜けた声が出てしまった。

「そういうご婦人方からすれば、アンがジャノメイをたぶらかしているように見えるわけね。

 それでアンがジャノメイに宝石だの何だの、おねだりしたら、本当にたぶらかしている事になるけど。実際、そうだったの?」

「いい質問だよ、プルーデンス。実は、そうじゃなかった。マーチリンドなんて名家に生まれたからかねえ。今さら何か物をねだったり、なさらないんだよ。貴族の男と違って、土地とか砦とか、政治的なものにも興味がない。

 そんなもんで、ツッジャム城下の男たちは、また羨むのさ。酒場とかで、馬鹿な唄を流行らせて。

『姫様のおねだりは若様、丸ごと。

 ついでにおねだりしてくれ、この俺を。

 お安くしとくよー』

 だとさ」

「やれやれ、そんなんじゃ、永遠にお声は掛からないでしょうね」と私。

「ふふ、掛かるわけないよ。

 それどころか『ジロジロ見ないでよ、いやらしいっ』とか叱られて、しおれた男どもが何人も居たそうだ。

 しかも、そのまま、しおれている暇なんか無いんだ。ジャノメイ様と目を合わさないよう、大急ぎで逃げ出すんだよ。ロンギノ様たち、騎士や兵士たちも、そんな現場に居合わせたら、その手の馬鹿を追っかけなきゃならないし。とは言えジャノメイ様も、そこまで命じていないんだけどね。

 とにかく馬鹿どものおかげで、みんな、いい迷惑さ」

「そうだ。ロンギノは二人と上手くやっていけたの?」

「そこは大丈夫だったよ。ジャノメイ様は真面目なんだ。ちゃんとロンギノ様に敬意を払っていた。だから政務も怠らない。

 まあロンギノ様としては、それをありがたいと思いつつも、若い城主夫妻の仲が良すぎる姿に閉口なさってもいたみたいだがね。それでもパウアハルトの時に比べれば、贅沢なもんだ、とか同僚の騎士様たちに話していたそうだ」

「ロンギノも報われたね」と私は、また生意気を言ってみる。

 いろんな結婚があるもんだな、とも思った。

 

「さてと。今夜は、これくらいにしておくか」

 不意にセピイおばさんが腰を浮かした。私との間にある椅子を少しずらして、ロウソクの減り具合を確かめる。

「ええ〜、ちょっと、キリが良くないんじゃない?」

「何言ったんだ。もう、たくさん話しただろ。

 それに、キリなんて言っていたら、いつまでも終わらないよ。それこそ朝になっちまう。

 私は逃げたりしないから、楽しみは取っておきな」

 セピイおばさんからロウソクの皿を持たされて、私も大人しく外に出る。小雨は止んだが、まだ暗い。もう少し話を聞かせてくれてもいいのに、と思ったら、顔に出たらしい。「そんな顔するんじゃない」とセピイおばさんに言われた。

「代わりでもないが、予告をしておくから、それで我慢しな。次回は、アンディン様の引退だよ」

「えっ、引退?」私は振り返った。

「そ。その話は、また明日。しっかり休むんだよ」

 私は振り返り、振り返りしながら、部屋に戻った。

自作小説「塔の上のセピイ  〜中世キリスト教社会の城女中の話」第十三話(全十九話の予定)

第十三話 戦(いくさ)の話

 

 翌朝、私は寝坊した。セピイおばさんがわざわざ私の父さんと母さんに根回ししてくれると思うと、あまり寝坊したくなかったけど。

 おばさんが父さんと母さんに話をつけるとしたら、朝、二人をつかまえるしかない。そのために、おばさんは私を送り出した後、そのまま寝ずに起きていたのでは。そう予想すれば、のうのうと寝坊なんて、申し訳ない。

 それに私としても、オペイクスの物語はあまりにも衝撃的だったのだ。どうせ寝付けないに決まっている。私は、オペイクスとパールの事を考えながら起きていよう。そういうつもりだったのだが。

 気がつけば、正午になっていた。結局、寝てしまった。何だか恥ずかしい。

 こんな時間まで誰も起こしに来なかったという事は、やはりセピイおばさんが父さんたちに根回ししてくれたのだ。仕方ない。私は畑に行って、父さんを探す。

 弟がすれ違いざまに、私をずるいの何のと言うが、無視。私は父さんに謝りながら、セピイおばさんの様子を探る。

 父さんは私を叱るどころか「何だ。もう少し寝ていた方が良くないか」と来た。せっかくの気づかいだが、今の私としては嬉しくない。オペイクスとパールを知り、そのためにセピイおばさんに夜更かしさせた、今の私としては。

 幸いな事と言うべきか、セピイおばさんは根回ししてくれた後は「自分も寝る」と宣言して引っ込んだらしい。

 私は腹をくくって、父さんと母さんに踏み込んで確認した。私とセピイおばさんが夜更けに長話をした。その内容を、セピイおばさんから何と聞いているか。

 父さんは、ちょっと困った顔をして「女同士の大事な話、と聞いたぞ」と答えた。そして同意と助けを求めるべく、母さんに目配せした。

 母さんも「セピイおばさんから教わるのはいいけど、あまり遅くならないようにね。おばさんを早めに寝かしてあげなさい」と言う。私は大人しく了解する。

 半ば予想していた反応だが。果たして父さんと母さんは本当に内容を知らないのか。父さんたちはオペイクスとパールの事を知らされていないのか。いや、セピイおばさんも、そこまで話していないのかも。気になるところだが、踏み込むのも、この辺りまでか。

 それより気になるのは、これで父さんと母さんに気づかれたんじゃないか、という事だ。夜な夜なセピイおばさんを訪ねて、話を聞くという、私の習慣。せっかく、ここまで話が進んだのに。今さら邪魔されたくない。

 なので、私の習慣に対して、父さんと母さんがどう思っているか、それこそ確認したいのだが。下手に聞いて、藪蛇になるようじゃ話にならないし。となると、やはり踏み込むのは、この辺りまでか。

 私は父さんたちに断りを言って、畑を出た。「家に戻って休め」という父さんのありがたい言葉が追いかけてきたが、私は返事もせずに家と反対方向に足を進めた。

 べつに、父さんたちにムカついたわけでもない。ふてくされたわけでもない。その場所が頭に思い浮かんで、行かずにはいられなくなったのだ。

 天気の良い午後で、暑くも寒くもない。呆れるほど、のどかで、馬鹿みたいに平和。それは感謝すべきなんだろうけど、今はとてもそんな気分になれない。ちょっと苛立つような、歯がゆいような、何となく不満。と言うか、納得がいかない、何一つ。

 私は、そこに座り込んで、頭の中をぐるぐるさせている。結論なんか出ない。言いたいことが山ほどあって、それらがつっかえて、何度も同じことを考えてしまう。面白くない。

 不意にルチアたちが声をかけてきた。彼女たちなりに私を心配してくれたらしい。まさしく友達だ。

 なのに、私は素っ気ない態度で彼女たちに帰ってもらう。「悪いけど、私は今、お参りしているから。このお墓に眠っているのは、私の家族がすごくお世話になった人なの」

 それ以上の説明はしない。ルチアたちも空気を読んで、尋ねてこない。ルチアたちは帰っていった。

 明日、会ったら、気まずいかな。でも今は、一人になりたい。私だって、物思いにふけることくらいあるのだ。

 で、私は考える。自分は、なんて幸せなんだろう、と。なんて恵まれているのだろう。ぜいたくしているつもりはないが、食うに困らない環境ではある。守ってくれる親族も、気にかけてくれる友人たちも居る。ああ、何たる幸福。改めて思い知らされた。

 なぜ私は恵まれているのだろう。私なりに考える。そして結論した。運が良かっただけだ、と。たまたま村長の娘として生まれた。自分で選んだわけでもない。何か世の中に貢献して、神様や王様とかにご褒美として、この境遇をいただいたわけでもない。この境遇を失うとしたら、恐ろしすぎて考えられないけど。なぜ今があるかと考えれば、それは運が良かっただけ。どう考えても。

 でもパールは?パールとオペイクスは?なぜ二人は幸せになれなかったの。二人が何をしたって言うの。何の罰なの、これは。

 私はセピイおばさんから二人の物語を聞きながら、ずっと思っていた。二人には幸せになってほしい。この二人こそ、幸せになるべきだ。そう願った。心の中で祈ってもいた。

 でも神様は叶えてくれなかった。何が神様よ。大っ嫌い。

 まさか神様は、ペレガミやビナシスを許せ、なんて言うんじゃないでしょうね。嫌よ、許せない。絶対に許せない。あんな人でなしどもは地獄に堕ちるべきよ。人じゃないのなら、この人の世から居なくなれ。

 イエス様は自分を十字架にかけた連中を許したかもしれないが、私はイエス様じゃない。て言うより、イエス様も本当に連中を許したのかな?気がしれない。

 そんなことより、パールとオペイクスだ。私は、神様が二人を救ってくれる事を望む。パールとオペイクスが、せめて天国では結ばれてほしい。今度こそ二人が幸せになるべきだ。そのために神様が協力してくれなかったら、もはや神様じゃない。教会に通うのも、やめてやるんだから。

「ここに居たのかい」

 不意にセピイおばさんの声が降ってきた。

 おばさんは、そのまま私の隣に座る。

「マルフトさんなら分かってくれると思って」

 私が答えると、セピイおばさんは私の頭を抱え込んで、自分の顔のそばに引き寄せた。そして頭を撫でてくれる。

「そうだね。分かってくれるだろう。

 メレディーン城では、マルフトさんもオペイクス様とすれ違っていたかもしれない。私も、よく思ったよ。オペイクス様とパール、二人揃って、マルフトさんと出会っていたら、どんなに良かっただろう、と」

「天国では会えているよね?」

「ああ、それでこそ天国だ。でなければ、天国の意味が無い」

 良かった。私はセピイおばさんを誇りに思う。マルフトさんもオペイクスもパールも、聞こえたよね。あなた方がおばさんを味方してくれたみたいに、私たちもあなた方の味方です。

 神様も今度こそ、しっかりやってね。頼んだわよ。

 

 セピイおばさんは言った。「今夜は離れに来るのを控えなさい」と。

「やっぱり、父さんたちに気づかれたかな?」

「半々だね。気づかれていなくても、用心に越したことは無いよ」

 おばさんの答えを聞きながら、私も、ちょっと想像した。いつか父さんと母さんに告白する自分を。(実はセピイおばさんから、いろんなことを教わっていたんだ)父さんと母さんは、どんな顔をするだろう。そして、それは、いつのことやら。私が結婚する時かな?

 セピイおばさんは「夜が使えない分、このまま、ここで話をしようかね」と言った。「マルフトさんに聞いてもらうのも、いいだろう」とも。セピイおばさんは墓地を見回して、私たち以外に人が居ない事を確かめた。

 まずセピイおばさんは、昨夜の話で言い漏らした内容を付け加えた。

 一つは、オペイクスのその後である。オペイクスは結局、独身で通した。主君であるアンディンやキオッフィーヌが何度か縁談を持ってきても、最後まで首を縦に振らなかったのだ。気づかいと分かっていても。

 オペイクスはセピイおばさんたちに、ぽつりと言ったそうだ。『パールが遺した言葉に反している事は自覚している。でも、できない。彼女を忘れたり、彼女から意識が離れたりしたら、もう、それは自分じゃないんだ。そんな男は、オペイクス・アヴュークではない。私はオペイクス・アヴュークで在り続けたい』

 そしてオペイクスは、エクテ家を名乗らなくなった。たった一人でアヴューク家を名乗って。事あるごとにパールの墓参りをして。そうすることに、オペイクスは人生を費やした。

 もう一つは、アンディンのお舅さんにあたる王弟の事。

「前に話しただろ。ヒーナ様の件で、ヌビ家とシャンジャビ家がもめて、王弟様の一人が乗り込んで来た、と。実は、それがアンディン様のお舅さんだったのさ。王家としては、その王弟様をヌビ家担当と決めていたようだ」

 加えてセピイおばさんが推測するには、ツッジャム城を訪れた王様の甥御さんは、キオッフィーヌの兄弟じゃなかろうか、との事だった。まだセピイおばさんがツッジャム城で女中をしていて、モラハルトもまだ信用できていた頃の話を、私も思い出した。モラハルトは『さすがに骨が折れる』とか、ぼやいたそうだが。おばさんの推測通りなら、相手は王族というだけでなく、実兄の義兄弟だったかもしれないわけだ。

 いろんなところで繋がるなあ、と私は改めて認識した。

 

 こうして補足は済んだ。

 続いてセピイおばさんが話題にしたのは、やはりブラウネンである。主君アンディン父子に呼ばれて、どんな話になったのか。それは、なかなか判明しなかった。ブラウネンが婚約者であるイリーデにさえ話そうとしなかったのだ。『今は言えない。でも、いつか必ず話すから、それまで待って』を繰り返して。

 イリーデとブラウネンの仲が険悪になったのではない。むしろイリーデはブラウネンを案じて、頻繁に話しかけるようになった。オペイクスの体験談を聞く前とは、すっかり逆になった気がする。

 とは言え、ブラウネンがそれまでの仕返しとしてイリーデを冷たくあしらった、というのとも違う。おそらく余裕が無かっただろう。若き日のセピイおばさんやシルヴィアたちは、そう推測した。オペイクスの体験談を聞いた翌日、つまり党首父子に呼び出された翌日から、ブラウネンは、おかしくなったからだ。

 四六時中、目を見開き、体を強ばらせて、歩くのも、ぎこちない。周囲に人が多くても少なくても、である。心配したイリーデやセピイおばさんが『大丈夫?』と声をかけると、ビクッと体を震わせる。返事をしても、たどたどしく、イリーデに向ける笑顔も引きつる。額に汗をかいている事すらあった、とか。セピイおばさんは「汗どころか泣いているように見えた」と言う。きっとイリーデにも同じように見えたんじゃないか、と私は聞きながら思った。

 明らかに異常だ。これではイリーデやセピイおばさんたちに、心配するな、と言う方が無理だと思う。

 だからこそ、ブラウネンが党首父子から何と言われたのか。そこが気になるところだが。なぜかブラウネンは、それを誰にも話さない。

 若き日のセピイおばさんも分かっていた。イリーデでさえ聞き出せないのなら、自分が探りを入れても無駄だ、と。

 でもセピイおばさんは気にしてしまう。イリーデも何度となく、セピイおばさんに相談してきたし。

 となると、助けが必要で、すぐに思い浮かぶのは、やはりオペイクスだ。しかし。

「私はイリーデがオペイクス様をつかまえるのを手伝ったよ。以前と違って、オペイクス様もイリーデから逃げ回ったりしないから、手間取らなかったがね。

 しかし、いくらお聞きしても、オペイクス様の歯切れが悪いんだ。『自分もアンディン様たちから事情を聞いていないから、答えようがない』とか。あの方にしては珍しく、ぐずぐず言い訳ばかりしているように聞こえたよ」

「でもオペイクスは、ある程度、予想がついていたんじゃない?」と私も思わず、口をはさんだ。

「あんたも、そう思うかい。だから私も、つい問い詰めてしまったよ。『本当はご存知なんじゃないですか』とね。ちょっと失礼だったが。

 それでもオペイクス様は、私を叱りもしなけりゃ、教えてもくれないんだよ。オペイクス様の返事は、こんなだった。『本当に知らないんだ。だから、きっと、私や他の者に聞かせられないような重要な用事があるんだろう』と。

 そんなわけで、イリーデも黙ってブラウネンを見守るしかなかった。

 そうこうしているうちに、晩餐の後でブラウネンがアンディン様たちに呼び出される事が、三回、四回と繰り返されてね。

 そのうちの何回めだったか。戻って来たブラウネンを見かけたと思ったら、物陰で吐いていたよ。体のあちこちに擦り傷みたいなものが見えたし。私は慌てて駆け寄って、背中をさすってやったんだが・・・やっぱりブラウネンは、事情を話してくれないんだ。それどころか『この事はイリーデには黙っていて』と来た。私は、どうするべきか分からなくて、困ったよ」

「セピイおばさん」私は、またしても話に割り込んだ。そうせずにはいられなかった。

「アンディンたちは、わざと晩餐の後でブラウネンを呼んでいるんじゃないの?そして、吐きたくなるほどの話か何かをして、ブラウネンに耐えさせているんじゃ」

「気がついたか。私も、そう思って、オペイクス様にお尋ねしたよ。で、やっぱり教えてくださらなくて。

 でも、これで少し、推測を具体的に絞ることができた。アンディン様たちはブラウネンに、ただ話をしていたのではない。何か稽古のような、行動を伴うことをしているのだろう、と」

「まさか、ブラウネンをいじめている、わけないよね」

「親子で?あんた、お二人がどんなご身分か、忘れたのかい?押しも押されもせぬ名家の、ご党首様とご子息だよ。お二人とも、そんな暇じゃないんだ」

「だよねえ。

 でも、息子のジャッカルゴだっけ。もしかしてイリーデに横恋慕していたり、なんて事、ない?」

 セピイおばさんは少し、ニヤリとした。

「考えたねえ。でも外れたよ。ジャッカルゴ様は婚約者が居られて、その頃は式が間近に迫っていたんだ。

 ちなみに、お相手は、どこの方だと思う」

 セピイおばさんから顔を覗き込まれて、私は考えた。

「シャンジャビ家じゃないよね。マムーシュの件で向こうを許すにも、もう少し年月が要ると思うし。

 ビッサビアのマーチリンド家だって、父親のアンディンとしては嫌なはず。おばさんに密偵をさせるくらいなんだから。

 となると、ナモネアか、どっか」

「プルーデンス。よおく私の話を思い出しておくれ。ちゃんと前触れがあったんだよ」

 セピイおばさんはニヤリとしてみせるが、私は首をかしげてしまう。

「前触れって。ビナシス家でもないでしょ。あんまり、お勧めもしたくないし」

「それはオペイクス様の話に出てきただけ。私は、ほとんど接点が無いよ。

 やれやれ、忘れたのかい。密偵の件を思い出したところまでは良かったんだが」

「えーっと。ポロニュースとかいう奴から、メレディーン城に出入りする貴族に目を光らせるよう言われたんでしょ。

 ・・・あっ。リブリュー家の騎士っ。あ、あれって、もしかして」

「やっと思い出してくれたか。そう。あの、ヴィクトルカ姉さんの生家ジルフィネンと縁があった騎士様だよ。

 アンディン様がおっしゃるには、あの騎士様は目くらましを務めていたらしくてね。マーチリンド家をはじめ、いろんなところの密偵どもがどこで覗き見して、聞き耳を立てているか分かったもんじゃないんだ。そこでリブリュー家の竜巻の騎士様が、思わせぶりな動きを見せる。密偵どもは騎士様の跡をつける。その裏では本物の使者が、アンディン様とリブリュー家の間を行き来したってわけさ。

 おかげでアンディン様とリブリュー家の党首は、それぞれのご子息と姫様の縁組みを、他家から邪魔されずに落ち着いてまとめる事ができたよ」

「なんだ。ポロニュースの奴、おばさんに偉そうな事を言っといて、まんまと引っかかっているじゃん」

「ああ、所詮アンディン様には敵わなかったのさ。もっとも私が引っかかったせいで、ポロニュースがそれに巻き込まれた、とも言えるが」

「いいのよ、それで。おばさんが一回くらい、ポロニュースを騙したって、バチは当たらないわ」

「そうしとくかねえ」

 セピイおばさんは、くすくす笑った。

「話がそれたけど、とにかくジャッカルゴ様がイリーデに横恋慕ってのは、あり得ないよ。

 お相手のヘミーチカ様とは、ジャッカルゴ様がアガスプス宮殿で修行中の頃に出会ったそうだ。ジャッカルゴ様ときたら、オペイクス様と似たようなことをおっしゃったよ。『都での生活は謳歌するどころか、緊張の連続で、ずっとピリピリしていた』と。そんな中、ヘミーチカ様と出会って、心が大いに安らいだそうだ。

 ヘミーチカ様の方でも思うところがあったようでね。花嫁修行として、リブリュー家の屋敷から宮殿に通って、王妃様や姫様たちの侍女を務めたりしていたんだが、華やかな事ばかりじゃなかったらしい。まあ、オペイクス様が宮殿に上がった時の体験を聞いた後では、さもありなん、と私も思ったよ。

 おまけに、威張りんぼの貴族たちが言い寄ってきたりしてね。シャンジャビ家か、ナモネア家か知らないが。そんな事がある度にジャッカルゴ様が助けてくれた、と。それが一度や二度じゃなかったとか。ヘミーチカ様は頬を赤らめて、私らに話してくださったっけ。

 そう、ヘミーチカ様。懐かしいお名前だよ。お料理が得意で、よく苺とかベリーの類で焼き菓子を作っておられた。メレディーン城に詰める全員に振る舞ってくださる事も、しばしば。メレディーン近郊の貴族に嫁入りする予定の娘たちは、ヘミーチカ様に習いに来たもんさ」

 セピイおばさんの視線は、マルフトさんのお墓を通り越して、草むらの小さな花々に注がれた。

 ほお、と私は息をもらしてしまう。

「何だか、すごく理想的だわ。大貴族の御曹司と令嬢の縁組ってだけでも、すごいのに。ちゃんとお互いの気持ちがこもっているなんて。まるで、お伽話みたい」

「あんたのその言葉で思い出したよ。お二人の結婚前の事だ。ジャッカルゴ様がヘミーチカ様をメレディーン城に連れて来られてね。

 ノコさんが事前に私ら女中一同を集めて、言ったよ。『あんたたち、しっかりご挨拶しなさい。けっして忘れるんじゃないよ。今日、リブリュー家から来られる予定のヘミーチカ様は、次の奥方様だからね』と。

 そうやって知らされた時点で、娘っ子たちはそわそわしていたんだが。実際にお二人をお迎えしたら、まあ、そわそわじゃ済まなかった。イリーデと同い年か、もっと下の娘たちは、お二人にうっとり見とれて、仕事が遅くなっていたよ。それでノコさんが度々、叱らなきゃならなかった」

「お姉様方は?」

 私の言い方に、セピイおばさんは声を出して笑った。

「お姉様方か。

 言っとくけど、シルヴィアさんたちは、ヘミーチカ様と同世代だよ。そもそも、ジャッカルゴ様もオーカーさんもアズールさんも含めて、ほとんど同い年だったろう。

 ヴァイオレットさんは苦笑する、というか、ため息をついていたねえ。『敵わないなあ』って。要するに、あんたと同じ感想だよ。

 スカーレットさんはスカーレットさんで、ぼやいてねえ。あの人が言うには、ジャッカルゴ様がメレディーン城に顔を出す度に、視線を送っていたそうだ。それが見事に反応が無かったんだと。『まったく、つれない事にかけては、ジャッカルゴ様も、あんたのソレイトナックに負けず劣らずなんだから』だとさ。私にからんだって、どうしようもないよ」

「でも、スカーレットはアズールが焼きもちを焼いてくれるんだから、いいじゃん。

 って、そういうことか」

「そういうこと」

 私とおばさんの笑い声が、マルフトさんのお墓や草むらに溶けていった。

 

「でもイリーデは、新しい奥方様になるヘミーチカと上手くやっていけるのかな?ブラウネンを心配して、ジャッカルゴやアンディンを恨んだりしたんじゃない?」

「また冴えてきたじゃないか、プルーデンス。その通りだよ。

 初めてヘミーチカ様をお迎えした日、私ら女中たちの中で、イリーデだけが顔を強ばらせてね。そう、ブラウネンと似たような表情になっていたんだ。

 しかも、ジャッカルゴ様が何かの拍子にヘミーチカ様から離れた瞬間に、イリーデは、すかさずヘミーチカ様のそばに駆け寄った。小声、かつ早口で自己紹介だよ。そして、ジャッカルゴ様が夜な夜なブラウネンを呼び出す事情をご存知ないか、聞き出そうとした。

 しかしヘミーチカ様の方は、戸惑うばかりさ。イリーデとブラウネンの事はジャッカルゴ様から聞いていたかもしれないが、夜中の会合までは知らされていなかったんだよ。まあ、ジャッカルゴ様も、そこまで話す必要は無い、と思うだろうからね。

 ほんのちょっとの会話とは言え、ヘミーチカ様とイリーデの間に気まずい空気が流れた。

 居合わせた私は、急いで考えようとしたよ。二人の間をどう取り繕うか、と。しかし、私が思いつく前に、声がかかって。

 それはノコさんじゃなくて、キオッフィーヌ様だった。私もイリーデも、びっくりしたよ。キオッフィーヌ様はイリーデをなだめて、ヘミーチカ様には『私に任せて』と断りを入れた。

 その上で、キオッフィーヌ様はイリーデに提案したんだ。『あなたの両親に頼んで、生家で晩餐会を開いてもらいなさい。そしてブラウネンを招待するのです。彼を一晩、泊めてあげれば、本人から、ゆっくり話を聞けるでしょう。それに、その夜はジャッカルゴも、うちの人もブラウネンを呼び出せなくなります』とね。キオッフィーヌ様は続けて『私から、あなたの両親に言いましょうか?』とまで言ってくださったよ」

「一晩」

 思わず、つぶやいた私は、すぐに後悔した。セピイおばさんから顔を覗き込まれたのである。その目が笑っている。う、迂闊だった。

「気になるかい?」

「う、ううん。べつに。それより話を続けて」

 私はできるだけ平静をよそおったつもりだったが、例によってセピイおばさんは、ニヤニヤしている。

「まあ、順番で言うと、晩餐会の後で二人がどんなやり取りをしたのか、が分かったのは、ちょいと後だ。今度はブラウネンだけじゃなく、イリーデも話さなくなったんだよ。第三者にすぎない私は、大人しく待つしかないさ。

 しかしブラウネンから話を聞き出せたらしく、イリーデも以前ほど騒がなくなったね。ブラウネンを心配して、顔を曇らせてはいたが。

 そして、ついにジャッカルゴ様とヘミーチカ様が結婚した。なんとアガスプス宮殿のそばの大きな教会堂でね。王陛下や王家の方々が直々に段取りしてくださったんだ。

 もちろんアンディン様とキオッフィーヌ様、そしてヘミーチカ様のご両親にあたるリブリュー家の党首夫妻も出席したさ。でも、それだけじゃない。シャンジャビ家とか、ナモネア家だとか、名だたる貴族家が、それぞれ代表を送り込んで、ジャッカルゴ様たちに祝辞を伝えたよ。都は、すっかりお祭りになったそうだ。

 メレディーン城に詰めている者たちでも、駐在騎士の代表格であるお偉いさんとか、ノコさんとか、何人かがアンディン様たちにお供したね。その中でも女中とか兵士とか若い連中は、戻ってきてから、しばらくは、ちやほやされていたっけ。居残り組が何度も土産話をせがんだのさ」

「って、セピイおばさんも居残り組?」

「ああ、私もオペイクス様も、お姉様方も色男の騎士さんたちもね。

 結婚を控えたイリーデとブラウネンはアンディン様たちに同行する、と思われたんだが。都に向かう前日に、アンディン様がブラウネンに確認したんだ。『共に都に行って、ジャッカルゴたちの式を見て、自分たちの参考にするか』と。ブラウネンは遠慮したよ。イリーデを多くの貴族の男たちに晒したくない、という理由でね。それでアンディン様も同行を強制しなかったし、むしろブラウネンの警戒心を誉めていたよ。

 代わりなのか、イリーデと同い年とか、さらに年下の娘がたしか三人ほど、キオッフィーヌ様にお供したね。それで結婚式の当日は、ヘミーチカ様の着替えを、リブリュー家の女中たちに混じって、お手伝いしたとか。

 結婚後、ジャッカルゴ様とヘミーチカ様はそのまま、しばらくアガスプスの城下町にあるリブリュー家の屋敷に残った。アンディン様たちだけ、先にメレディーン城に帰還したんだ。

 そして、しばらくしてジャッカルゴ様たちも戻って来られると、またブラウネンが、晩餐の後で呼び出されていた。ブラウネンとイリーデは目を合わせると、小さくうなずくだけ。ブラウネンは何も言わずに食堂を出て行ったねえ」

 セピイおばさんは、そこで一度、話を区切った。そして、ふーっと息をついた。おばさんの視線が、さらに遠くの森や空に飛んでいるような。

 

「さて、イリーデとブラウネンが二人きりで、どんな話をしたのか。気になるだろうが、今しばらくは我慢するんだよ。あんたが想像している通りの浮いた話だからね。マルフトさんには聞かせられないじゃないか」

「そ、想像だなんて、べつに、してないけど」と私は何とか反論してみたが。セピイおばさんには効かないらしく、目が笑っている。

 と思ったのだが。

「順番で言っても、まだ先に話さなきゃいけない事がある。そっちは、浮ついたどころか、きな臭い話でね。戦(いくさ)があったんだよ。

 マルフトさんには申し訳ないが、こちらにはお付き合い願おう」

 セピイおばさんは手を伸ばして、マルフトさんの墓石である十字架を撫でた。マルフトさんに謝っているのだろうか。でも、何となく、マルフトさんは分かってくれるような気がする。

 セピイおばさんは、まずジャッカルゴの動向から話を続けた。彼は、新婚ほやほやながら、いちゃつくために都に残ったのではなかった。そのままアガスプス宮殿に通って、王族たちとの会議に出席していたのである。

 当時、王様たちは戦を計画していた。ヨランドラ北東部を荒らす賊どもの討伐。そのために王子の何人かに軍を持たせて派遣しよう、というのである。

「さすがに賊ごときでは、王様自身が腰を上げるわけ、ないか」と私はこぼしてしまった。高貴な方々には賊ごときであっても、私ら庶民にとっては、いい迷惑であり、とてつもない恐怖なのだ。という意味で言ったのだが。

 セピイおばさんは首を横に振った。「ちょっと外れたねえ。王族の方々だって、いろいろと抱えている事があるんだよ。それこそアンディン様やジャッカルゴ様もね」

 これを聞いて私は、ちょっと驚いた。まったく予想していなかったのである。

「そんな問題あったっけ、て顔しているね。あるよ。後継者の育成。次の、若い世代を成長させる事だよ。

 若さは活力であり、素晴らしいことだが、経験も必要じゃないか。若さだけが取り柄じゃ、向こう見ずの馬鹿のままだよ。場数を踏んで、せっかくの若さを活かす要所をつかまなければ、意味が無いんだ。

 それは、どんな分野でも言えることさ。私らが普段やっている畑作りやお料理、お裁縫でもね。さらには、王族や貴族たちがする戦(いくさ)でも」

 私は、あっと声をもらした。「それって、もしかして」

「分かっただろ。王陛下は王子たちに経験を積ませたいのさ。アンディン様も、跡継ぎであるジャッカルゴ様に経験を積んでほしい、と望んでおられる。そしてジャッカルゴ様自身も、経験を積む必要を認識していた。『それで焦っていた』とおっしゃったよ」

「戦(いくさ)の場数を踏む、ってこと?」私は念押しながら、自分の言葉にどぎまぎした。

「そう。へんな言い方だが、戦(いくさ)に慣れなきゃいけないんだ。騎士様や貴族の男たちは、ね。そのために、賊どもの討伐は絶好の機会、というわけ」

「殺し合いに慣れなければいけないってこと?貴族の男たちは」私は、さらに念を押した。

「そうだよ。慣れなければ、生き残れない。やられる側にされてしまう。領地や領民を守るなんて、夢のまた夢だ」

 私は絶句して、セピイおばさんの横顔に見入る。でも、これで、話が少し見えてきた気がした。

 セピイおばさんは、今度は、討伐軍について話を進めた。本来なら、賊の討伐は地元の貴族が果たすべき仕事である、と。

 貴族は普段、領民たちに威張り散らして税を取り立てる。それは、見返りとして治安維持に努めて領民の生活を守る、という前提があるからこそ、世間に認められている特権なのだ。

 ペレガミ家は、その責務を果たすどころか、オペイクスやパールをはじめ、領民たちを脅やかす側に回った。だから、その座から引きずり下ろされたのである。

 今回のヨランドラ北東部の貴族たち、領主たちは、ペレガミ家ほどではなく、ちゃんと賊に対処しようと試みたのだが。結局、王家に救援を求めた。

 王様たちは彼らを叱らなかった。

「他の賊や反乱だったら、『腰抜け』だの『泣き言を言うな』だの叱責されて、援軍を送ってもらえなかっただろう」

 とセピイおばさんは言う。

 しかし王様たちは、そうしなかった。むしろ北東部の貴族たちの要請に応えて、シャンジャビ家をはじめ、主だった貴族家に招集をかけたのだ。それでヌビ家からは、次期党首のジャッカルゴが出席した。

「何それ。ただの賊じゃないってこと?」

「そう。賊の背後にいろいろと余計な加勢をする連中が居る、と噂されたんだよ。東隣りのフィッツランドと、北東のワイスランドさ」

「えっ」

 私は驚いたまま、言葉が続かなかった。は、話がデカ過ぎる。他国が絡んでくるなんて。王様たちが重臣たちを集めて、つまり国を挙げて対応しようとするわけだわ。

「幸いな事に、フィッツランドとワイスランドは連携していなかったよ。あそこも昔から仲が悪いからね。それぞれ別個で、ヨランドラ北東部の賊や不平分子をけしかけていたんだ。

 連携して同時に複数の場所で騒がれたら、ヨランドラは軍隊をそれだけ小分けにして派遣しなきゃならないところだったよ。まあ、神様のご加護か、それほどの事態にはならなかったけどね」

 ただし、とセピイおばさんは説明を続ける。

「ヨランドラとしては、少なくとも三方面には軍隊を分けて展開させる必要があった。賊どもと対決する主戦場と、フィッツランドとの国境付近。ワイスランドとの国境付近。

 この三カ所が同時に戦闘状態になって、そのうち一カ所でもヨランドラ軍が負けたら。つまり、隣国のどちらかに出し抜かれるようであれば、その状態から国土を取り返すのは、至難の業だ。むしろ、ずるずると侵略を許してしまう可能性が高い。だから三カ所を同時に、しっかり押さえる必要がある。

 さて、ここで質問だ、プルーデンス。あんたが派遣されるとしたら、三カ所のうち、どこが一番嫌かい」

 またしても、セピイおばさんが私の目を覗き込む。考えてみたが、おばさんの意図が読めない。降参だ。

「一番いい、じゃなくて一番嫌な所?」

「そうだよ」

「てことは、三カ所のうち、大抵の人が嫌がるような、だから一番嫌がられる所があったってことね」

「そこまで読めたんなら、質問を替えよう。みんなが嫌がるのは、三カ所のうち、どこだい」

「賊が暴れている主戦場ね。それぞれの国境付近は、まだ相手国の関与が確定したわけじゃない。だから、まずは睨み合いで、すぐに戦闘になるとは限らない」

「正解。

 では続けて、次の質問。宮殿での会議に出席したジャッカルゴ様は、三つの現場のうち、どこに手を挙げたと思う」

 さすがに私も、もう分かった。

「主戦場。あえて他の貴族家が嫌がる所を買って出たんだわ」

「よおし、よく見抜いた。ちゃんと、ついてきたね、プルーデンス」

 セピイおばさんに褒められて、私は身が引き締まる思いだ。

 セピイおばさんの解説は続く。

 当時の王様は息子、王子たちに戦(いくさ)の経験を積ませたかった。中でも、次の王となる予定の長男には必須科目と言える。だから王様は、あえて長男の王子アダムを主戦場に放り込むつもりで、そのことを会議で発表した。

 そこへ、すかさずジャッカルゴが申し出たのである。『アダム殿下には、我らヌビ家がお力添えしましょう』と。

 王様は、もちろん、この申し出に満足した。ジャッカルゴの話によると、王様は目を細めて、しきりにうなずいたらしい。

 ではシャンジャビ家など、他家の代表は、どんな反応だったか。どの貴族家も、それぞれ党首か、その弟などが会議に参加して、いずれも宮殿の常連である。当然、場馴れしていて、感情なんか、ほぼ顔に出さない。だからジャッカルゴ・ヌビの申し出を聞いても、すましていたようだが。

『では、当家は第二王子のグローツ殿下と共に、ワイスランドに睨みを効かせましょうぞ』

『おお、シャンジャビ殿がそうおっしゃるなら、当家は第三王子、ラング殿下をフィッツ人どもの策略からお守りします』

 などと、主戦場より、国境付近ばかりを選んだ。

 もっとも、どの貴族家も一カ所にしか手勢を送らない、というわけではない。この討伐作戦に参加すれば、王子たちに自分たちを売り込む機会が得られるのだ。それは、つまり将来の王様や王弟たちに、自分たちをより良く印象づける機会である。戦闘の危険を承知でも、参加しない手は無い。

 だから、どの貴族家も結局は、三つの現場に自分たちの手勢を送ったのだが。

 違うのは、その振り分け方。

 たとえば、ある貴族家の主力は、フィッツランドとの国境付近、第三王子ラングの軍に加わる。で、予備の兵力で、主戦場と、ワイスランドとの国境付近にあたる。

 また別の貴族家では、主力をワイスランドとの国境付近、第二王子グローツの元に向かわせ、予備の隊を賊への直接対決と、フィッツランドに対する警戒に参加させる。

 とにかく三人の、どの王子との接点も確保しておく、という貴族家の工夫である。比重の置き方に違いはあるけれども、次期国王である第一王子アダムを蔑ろにしたわけではない。一応、自家の幹部が別働隊を率いて、第一王子の元に馳せ参じるのだから。

 そんな中、ジャッカルゴのヌビ家だけは主力を使って、つまりジャッカルゴ自身が軍勢を率いて、第一王子の賊討伐に助勢しようと言うのである。

「そして、その戦(いくさ)にブラウネンも参加させて、自分と一緒に経験を積ませる。ジャッカルゴは、そんな計画を練っていたのね」と私。

「そういうこと。だいぶ読めてきたようだね。

 ちなみに、ヌビ家も別働隊を出したよ。

 ロミルチ城で修行したジャノメイ様とオーデイショー様のご子息二人の部隊が、フィッツランドに対峙する陣に加わった。第三王子ラング殿下を、ジャッカルゴ様の弟と従兄弟たちが担当したわけさ。

 こちらツッジャム城からは、パウアハルトの隊が出陣した。ぐっと北東に進んで、ワイスランドの動きを注視しながら、第二王子のグローツ殿下のお相手を務めた」

「おばさん」私は、例によって話の腰を折る。どうしても気になったのだ。

「その、アダムとか、グローツとかって、もしかしてキオッフィーヌの従兄弟にあたるんじゃない?それにしてはキオッフィーヌより、その息子のジャッカルゴに歳が近いように聞こえるんだけど」

「ああ、いいところに気がついたね。私も言い忘れていたよ。

 数年後に王位を継いだアダム殿下が、たしかジャッカルゴ様の一つ年上。したがってグローツ殿下とラング殿下は、さらに若い。

 何でこんな年齢層になったかと言うと、当時の王陛下が再婚していたんだ。先のお后様とその王子二人が、病気とかで早々と亡くなってね。その王子たちは十歳にもならなかったそうだよ。そして、後添えのお后様がアダム様からラング様までを産んだ。そのお后さまは、キオッフィーヌ様の一つ、二つ上というだけだったらしい」

「つまり当時の王様は、自分の姪であるキオッフィーヌと大して歳の変わらない女を再婚相手に選んだってこと?」

「そう」

「え〜」私は顔をしかめてしまう。なんか、今のヘイロン王と負けず劣らずの気がして、とてもじゃないが共感できない。

 セピイおばさんは、私の反応に少し笑った。

「まあ、あんたが王陛下に幻滅するのは勝手だが。

 当時の王陛下としては、歳を取った後でもうけた息子たちを早く一人前にしたい、戦(いくさ)に対応できるようになってほしい、と焦っていたのさ。それで、同じ悩みを抱えるアンディン様と足並みが揃った。

 だからアンディン様がヌビ家の党首として自ら出馬しなくても、王陛下はアンディン様を責めなかったよ。

 さっきも言ったように他家は党首自身か、少なくとも党首の弟が宮殿の会議に出ていた。そんな中、跡継ぎの息子を寄越したのはヌビ家だけでね。他家の中には、そこを突いてヌビ家を悪く言う者も居たそうだ。『重臣としての責務を、若すぎるご子息に押しつけるとは、王陛下の招集に対して誠意を持ってお応えしているとは思われませぬ』とかね。要するに、いつの世も、ここぞとばかり足を引っぱる輩が居るわけだよ。

 でも、王陛下には通じなかった。むしろアンディン様の意図を察してくださったんだ。もしかしたらキオッフィーヌ様が、伯父にあたる王陛下に断りを入れてくれていたのかもしれないね、事前に」

 ふうん、と感心するようで、私の中には、また一つ気になる事が生じた。

「また、ちょっと話がずれるけど。早く亡くなったお后様とか、幼い王子たちって、本当に病気だったの?」

「おや、そう来たかい。これは、よく気がついた、なんて褒めないよ。周りに気をつけてから口にする、と言うより、まず、口にしない方がいい。今あんたが、へんな推測をしているんなら、特に。

 そもそも、昔のお后様たちの死因なんか、私らが知ったところで、どうにもならないだろ。

 だから、あんたの推測は、今ここで忘れなさい。間違っても、よそで口に出したりするんじゃないよ」

 セピイおばさんが目を細くして、私を睨んだ。うへっ、しくじった。私は大人しく了解するしかない。

「おしゃべり好きな女中たちでも、そんなことは一度も話題にしていなかったよ。王子たちの中で、容姿が一番いいのは誰か、とかは幾らでも議論していたが」などと言いながら、セピイおばさんは、そおっと周囲を見回す。「私だってポロニュースにこき使われて、すっかり懲りたんだからね」

 ありがたいことに人影は、近くの林の中にも見当たらなかった。

 

 そしてセピイおばさんの話は、戦(いくさ)そのものに移った。

 次期党首ジャッカルゴがアガスプス宮殿の会議に参加している間に、実は出陣の準備が少しずつ進められていた。息子より先にメレディーン城に帰還したアンディンが、城詰めの全員に武器や兵糧の用意を命じたのである。

 若き日のセピイおばさんを含む女中たちは、食べ物の日持ちが良くなるようにしっかり火を通したり、梱包して荷車に積み上げたりと、にわかに忙しくなったらしい。騎士や兵士たちの紋章衣や旗の綻びを直すのは、普段からやっているので、すぐに完了したとか。

 兵士や使用人など、男連中も武器の刃先を研ぎ、矢を増産した。騎士も鎖帷子のほつれを直し、馬具の強度も改めて確認した。弓と、その弦も。

 物資の手配などのために、使用人たちも頻繁に城から出かけては、戻ってきた。それに合わせて、荷車や馬車の出入りも格段に増える。時には兵士どころか、オペイクスやオーカーなどの騎士が出向く事も。その傍らで、党首父子の間を何度か使者が往復したらしい。

 そんな中、若き日のセピイおばさんは女仕事だけでなく、汚れ仕事も率先してこなしたのだ。イリーデと同い年の女中のために、古い旗にくっついていた虫と格闘し、スカーレットに代わって晩餐用の鶏を絞め、ヴァイオレットをかばって機嫌の悪くなった馬をなだめた。御曹司の結婚という慶事を忘れるような忙しさだった、とセピイおばさんは思い出し笑いをした。時にはノコに見つかって、依頼主ともども叱られた事もあったようだ。

「イリーデとブラウネンは、どうだったの」

「それは良い質問。ちょうど言おうと思っていたところだよ。

 やれ洗濯だ、片付けだ、と城内を行ったり来たりして、外城郭の隅の方まで行く事があった。前に洗濯物を干していたところとは、別の場所だよ。そこを通りかかった時に、人の気配がした。

 私は物陰から、そおっと先の方を覗いた。イリーデとブラウネンが壁際に並んで座って、話をしていたんだ。

 ブラウネンの手には手綱とか馬銜とか馬具の類があって、手入れの途中だったらしい。でもイリーデの言葉を聞きながらで、ブラウネンの手が止まりがちだったよ。

 イリーデは自分の膝を相手の膝に寄せて、一方的なくらいに語り続ける。こちらの手には、何かの小袋だ。イリーデが話しながら袋の中から草を引っぱり出すのが見えたから、薬草だと分かった。

 さてはイリーデがブラウネンに薬草の説明をしているのだろう、と私も予想がついたよ。つまりイリーデとしては、ブラウネンにそれを使わせたい」

 セピイおばさんが、そこでまた私の目をじっと見る。

「やっぱり、ブラウネンの従軍が決まっていたんだわ。で、イリーデなりに気づかって、薬草を彼に持たせようとした。

 う〜ん、二人の仲が修復したのはいいけど、イリーデは心配だったでしょうね」

「そうなんだよ。私は、これで奥方様に報告できそうだ、とホッとする反面、二人が不憫に思えてねえ。

 一応、奥方様だけでなく、オペイクス様の耳にも入れておいたんだが。オペイクス様も少し顔を曇らせたよ。『辛いだろうが、これも二人が積まなければならない経験、越えなければならない壁だ。でも、あの二人なら、きっと越えられる。さらに言えば二人は、まだまだ幾つもの壁と遭遇する事になる』とおっしゃった」

 ふ〜む、と私は唸った。

「その見守り方は偉いんだけど、オペイクスはイリーデが惜しいとか思わなかったのかな?」

 途端にセピイおばさんの口元が、ぐんにゃりと歪んだ。

「やれやれ、何を言い出すかと思えば。あの方は、そんな度量じゃないよ」

 うへっ。またしても。少し持ち直したと思ったのに。私は首をすくめた。

 

「まあ、戦(いくさ)の前準備については、これくらいにして。

 ジャッカルゴ様が、花嫁であるヘミーチカ様を伴って、ようやくメレディーン城に帰還した。結局お二人の都での滞在は、一カ月に及んだんじゃないかね。

 戻ってからも、ジャッカルゴ様は忙しないと言うか。父君であるアンディン様と何度も書斎に籠り、かと思えば、城内を回って騎士や兵士たちのところに顔を出し、さらには城下町に何回も出かけて。シルヴィアさんたちがオーカーさんたちから仕入れた情報によると、ジャッカルゴ様は城下の豪商たちや司教、郊外の修道院の院長なんかと会っていたらしい。もちろん向こうも、すぐさまメレディーン城に挨拶に来たよ。

 で、お戻りから、わずか三日後くらいだったかね。ついに出陣だ。メレディーン城の正門前の通りに、隊列を組んだのさ。

 メレディーン城の騎士たちの代表であるお偉いさん、つまりオペイクス様の直属の上役さんが声を張り上げ、その度に兵士たちが慌てて、あっちに走り、こっちに走り、する。数名の騎士様たちも、そのあおりで自分たちが乗っている馬を片側に寄せたり、前に詰めたり。

 もちろん、その周りには町人たちが、わんさか群がって見物していた。中には近くの建物の、上の階どころか、屋根に登るまでして眺めている連中も居てね。

 そしたら騎乗した騎士様の一人がそいつらに声をかけたんだ。『おい、そこの屋上の将軍ども。的になっても良いなら、そうさせてもらうぞ』

 屋根の上で当人たちがキョトンとしているうちに、その騎士様は、いつの間にか弓に矢をつがえていた。屋根の町人たちは、真っ青になって大慌てだ。そのうちの一人が奥の階段かどこかに落ちる騒ぎになって、地上の町人たちを笑わせていたよ」

「それって、騎士とか、さらに言えばヌビ家みたいな大貴族の一同を、高い所から見下ろす形になるんで、不敬として怒られたのかな?」

「同じ質問を、私もシルヴィアさんにしたよ。そしたら、シルヴィアさんより先にオーカーさんが答えた。不敬というのも、もちろんだが、密偵とかに対する警戒の意味もある、と。

『軍事の問題なんだから、どっかに密偵どもが潜んでいるに決まってんだよ。しかも、そいつら全員を見つけ出すのは、まず不可能。半分も把握できればいい方でね。だったら、せめて牽制くらいしたいだろ。それで、あの兄さんは周りに見せつけるように、ちょいと派手めの演出をやってみせたわけさ。

 そもそも、こういう場では、俺ら騎士にしろ兵士にしろ、みんな神経質になるからな』

 ってね。

 これにアズールさんが続けた。『そう言う俺ら自身も、よく、よその城下町に紛れ込んだもんよ』と。

『それで今回は、二人とも声がかからなかったの?』と聞いたのは、ヴァイオレットさんだったか。

 それで色男さんたちが散々ぼやいて、シルヴィアさんやスカーレットさんが適当に突っ込みを入れて。もっともスカーレットさんは、アズールさんの身を案じて、彼が従軍しないで済んだ事を内心、喜んでいただろう」

「あれっ、二人は隊列に加わっていなかったの?」

「ああ、私らと同じ、見送る側さ。その場では話題にならなかったが、オーカーさんとアズールさんは、ジャッカルゴ様から、あまり良く思われていなかったみたいなんだ。

 と言うより、ジャッカルゴ様は、シルヴィアさんたちを含めて五人まとめて敬遠している節があった。って、シルヴィアさんの推測なんだがね。いつだったか、シルヴィアさんが言っていたよ。

『きっと、ジャッカルゴ様の都での生活は、私らが想像するより、はるかにピリピリしていたんでしょうね。

 そんな中、時折りメレディーンに帰郷してみたら、私ら五人が、くっついたの離れただの、騒いでいる。ジャッカルゴ様からすれば、私ら五人がチャラチャラしているように見えたに違いないわ。

 それでジャッカルゴ様としては、同い年のオーカーたちには期待できない、と判断した。そして次の世代に期待しよう、と。ブラウネンは、その代表なのよ』

 そうだ。シルヴィアさんは、ため息混じりに洗い物をしながら話してくれたんだった」

「まあ、次期党首としては、もう少し真面目さが欲しかったんでしょうね。

 で、オペイクスも頼りにした、と」

 私の問いかけに、セピイおばさんは一瞬、固まった。

「頼り。そう、まさしく、ジャッカルゴ様はオペイクス様を頼りにしていた。だからこそ、この時の戦(いくさ)には加えなかったよ」

「えっ、どういうこと。矛盾しているように聞こえるけど」

「オペイクス様が居たら、ジャッカルゴ様もブラウネンも、つい頼ってしまう。それでは経験を積むために従軍する意味が薄れる、とジャッカルゴ様は断ったんだ。

 オペイクス様としては、ジャッカルゴ様の護衛やブラウネンの援護のために自分が行かねば、と思いつめていたようだが。

 というわけで、メレディーン城の騎士の中でも、オペイクス様と色男さん二人は居残り組だったのさ」

 ふうむ、と私は、また唸ってしまう。

「でも、ブラウネンは連れて行かなければならない、と。イリーデが、ちょっと、かわいそうな気がしてきたわ」

「ああ、実際、かわいそうだったねえ。あの娘は取り乱したんだ。

 ブラウネンは隊列でも前の方で、しかもジャッカルゴ様からヌビ家の旗を持つよう言いつかっていた。こちらツッジャムどころか、メレディーンの城下町で旗持ちをして出陣なんだよ。この片田舎の男たちだったら、口をあんぐり開けて羨ましがる話さ。

 見送りに来たイリーデの両親は、ただでさえ娘の美貌が自慢なのに、彼氏もそんなだから、そわそわしてねえ。しきりにブラウネンの両親に話しかけるんだが、こちらは感激して涙ぐんでいた。

 ところが、イリーデとしては、ありがたくなかったんだろう。突然、隊列の中央で騎乗しているジャッカルゴ様に突進していった。

 そこでは、ちょうどヘミーチカ様が馬のそばからジャッカルゴ様に言葉をかけておられるところだった。そこへ割り込んで、ジャッカルゴ様の脚にすがりつかんばかりに訴えたんだよ。『どうかブラウネンを連れて行かないでください。お願い』と。見ようによっては、イリーデがヘミーチカ様を押し退けたようにも取れるから、私は心臓が止まるかと思ったよ。

 もちろん私もシルヴィアさんも、すかさず現場に急行してイリーデを引き離そうと思った。後ろでノコさんが怒鳴るのも聞こえたからね。

 だが私らより先に、下馬したブラウネンが駆けつけた。えっと思って、さっきまでブラウネンが居た辺りを見たら、ブラウネンの同僚の若い騎士が旗を預かっていたよ。

 やっとたどり着いた私とシルヴィアさんは、イリーデの肩をつかもうとして、ちょっと困った。すでに彼女が訴える先はブラウネン本人に移っていて、ブラウネンがイリーデを捕まえると言うより、イリーデがブラウネンの両腕を掴んで泣いている。

 ヘミーチカ様も泣きそうなお顔で立ち尽くしてねえ。きっと、ご自分をジャッカルゴ様側の人間として、自責の念にかられたんだろう。シルヴィアさんが小声で『どうか、お気になさらないで』と何回か言ったんだが、伝わったかどうか。

 なんて私らがうろたえている間に、ジャッカルゴ様が下馬していた。で、両腕を大きく広げて、ブラウネンとイリーデの肩の上に置いた。

そして、こんなことをおっしゃった。

『二人とも、よく聞いてくれ。俺を恨んでいいから、頼むから聞いてくれ。

 まず、今回の出陣は王陛下からのご命令によるものではない。俺の独断で、こちらから買って出たものだ。

 だから俺がそんな決断さえしなければ、俺はここでヘミーチカと居られるし、お前たち二人も離ればなれにならないで済む。イリーデの言うように、今からでも遅くないかもしれない。

 しかし、だ。今回、俺は考え直さない。ブラウネンも連れて行く。そう、本人の意志を無視して、俺が強制するんだ。

 だから、イリーデは俺を恨んでいい。遠慮なく恨みなさい。

 ただし、同時に考えてくれ。今ここで、二人で考えてくれ。

 今回の戦いは、たしかに避けようと思えば、避けられる。だが、戦いがいつも避けられるとは限らない。むしろ、避けられない場合が圧倒的に多い。戦い、争いというものは本来、向こうから勝手にやって来る場合が、ほとんどなんだ。

 だから今回の戦いを避けても、いつかまた必ず戦いが起こる。そして、その時は、おそらく避けられないだろう。

 しかも、だ。その時は、もう俺の親父や叔父貴たちも居ないかもしれない。お前たちの両親も。ロンギノやオペイクスたちだって、そうだぞ。居ても、病いや老いに伏せって、加勢を頼めない事態も充分あり得る。

 つまり、俺一人でヘミーチカを守らねばならないとしたら。ブラウネンも一人でイリーデを守らねばならないとしたら。そんな日が、いつか必ず来るぞ。絶対に、だ。

 その時、神や先祖を恨んでも、何の意味も無い。心構えができていない、準備ができていない奴が悪いんだ。

 俺は、そんなふうになりたくない。ブラウネンにも、なってほしくない。そして俺は、ヘミーチカを守り通して、人生を全うする。ブラウネンもイリーデを守り通すべきだと思っている。

 もう分かるな、二人とも。そんな将来の戦いに比べれば、今回は、ほんの小手調べにすぎないんだ。この程度の戦いをこなせないようでは、これから先の戦い、敵に太刀打ちなんかできない。そうならないように、俺もブラウネンも行く。俺とヘミーチカが一緒に暮らしていくために。お前たち二人が一緒に暮らしていくために』

 そこまで言って、ジャッカルゴ様は改めてイリーデに約束した。必ず、ブラウネンを連れて帰る、と。

『俺たちだって、遊びに行くわけでも、面白半分に人を殺めにいくわけでもない。生き残るために行くんだ。

 ブラウネンも、この戦いを乗り切って、お前さんとの活路をきっと見出す。そして、お前さんの元に帰って来る』

 それからジャッカルゴ様はヘミーチカ様に『行ってくる』と言って、再び騎乗した。

 それをお手本にするように、ブラウネンも同じ言葉をイリーデに捧げ、彼女を私らに預けて隊列の持ち場に戻っていったよ。

 そして隊列が進み出した。ヒュドラの紋章衣に身を包み、同じくヒュドラの紋章の旗をなびかせて、ヌビ家の主力の軍団が戦場に向かうんだ。

 途中でジャッカルゴ様がサッと手を上げたと思ったら、それでメレディーン城の城壁の上辺りを差した。

『親父殿っ、留守を頼む』

 ジャッカルゴ様が声を張り上げて、城壁の上に居たアンディン様が軽く手を上げて答えた。奥方キオッフィーヌ様、少し離れてオペイクス様の姿も、そこにあったよ。

 お三方とも、きっと、そこから見ておられただろう。ジャッカルゴ様がイリーデとブラウネンに語りかけていた様子を」

 ううむ。私は、また唸る。唸るだけで、何も言えない。

「私らは、そのままブラウネンとジャッカルゴ様を、隊列を見送った。

 そしたら、やっと駆けつけたノコさんが、後ろから言った。

『イリーデ、めそめそするんじゃないよ。出陣の度に泣いていたら、きりがないだろ。

 それにヘミーチカ様だって、辛いのを耐えておられるんだ。あんただけじゃないんだよ』

 それでイリーデと目が合ったヘミーチカ様は、彼女を慰めるように優しく微笑んで。

 そんな二人をそばで見ていたら、私は、つい言ってしまったよ。

『大丈夫です。ジャッカルゴ様もブラウネンも、きっと帰って来ます』

 きっと、きっと、って、あんまりいい言葉じゃないが。思わず、言葉が出たんだ。

 これを聞いて、ノコさんがニヤリとしたよ。『ほほう、顔を明るくして、何か予感でもするか。ならば説明して、ヘミーチカ様とイリーデを安心させてあげなさい』

 で、私は言わせてもらった。

『実は私も、結婚を約束した相手を見送った事があります。その人と、私は未だに再会できていません。

 でも、だからこそ思ったんです。今回のお見送りは、私の時と全然違っている、と。

 あの時あの人を見送ったのは、私を含めて、ほんの数人だけ。しかも、早朝に人目を避けるように彼は出発しました。

 それに比べれば、今回は段違いです。ジャッカルゴ様もブラウネンも、こんなに大勢の人に見送られて、しかもお味方が列を成すほど。

 何もかも異なっているから、結果も私の時と異なるに違いありません。二人とも、生きて帰って来ます。私には、そうとしか思えません』

 私は、いつの間にか夢中で話していたから、早口になっていたかもね」

「おばさん」

 呼びかけたものの、私は言葉が続かなかった。セピイおばさんはソレイトナックと再会できないまま、今、私の隣りに居る。

「やっぱり、そんな反応になるか。私は二人を励ますつもりが、結局しんみりさせちまったよ。気が利かないねえ。

 それでノコさんが、ため息をついてから言うんだ。『失礼しました、ヘミーチカ様』

 でもヘミーチカ様は首を横に振った。『いいえ、ノコ。セピイは貴重な話をしてくれたんです。おかげで私は、あの人を待つ心構えができました。イリーデも、そうでしょ?』

 イリーデは、小さい声だったが、はい、と答えた。

『では、男の人たちが早く帰りたくなるよう、私たち女は料理の腕磨きでもしましょうか。みんなも手伝ってくれますね』

 ヘミーチカ様が笑みを見せて、イリーデも今度は、はっきりと返事をしたよ。

 そして私たちは城内に戻っていった。

 そうだ、思い出した。歩きながら、シルヴィアさんが私を抱き寄せて、頭を撫でてくれたんだった」

 セピイおばさんの眼差しは、またマルフトさんのお墓を通り越して、遠くに向かっていた。

 

 セピイおばさんは一息入れてから、続きを話してくれた。

 それによると、メレディーン城からジャッカルゴの部隊が旅立った頃、ヌビ家としては、他にも動きがあった。言うまでもないが、ロミルチ城と、こちらツッジャム城である。

 ロミルチ城からは、城主オーデイショーが息子二人と甥のジャノメイに、騎士や兵士たちを添えて送り出した。

 ツッジャム城からは、パウアハルトの部隊が出陣。ちなみに、パウアハルトはロンギノを同行させなかった。彼を煙たがったのである。ロンギノは仕方なく、留守番を務めるしかなかった。父親のモラハルトが、ちゃんと見送りをしたかどうか。ちょっと気になったが、私はもうセピイおばさんに聞かなかった。

 とにかく、ヌビ家の三部隊が動き出した。しかも合流せずに、そのまま、それぞれの持ち場に向かったのである。それは、部隊間に伝令を行き来させれば事足りるという意味でもあり、それぞれの王子の元にできるだけ早く馳せ参じて印象を良くするという狙いでもあった。

 ヌビ家の戦士たちは、その道中で他の貴族家の部隊と遭遇する事もあったらしい。ジャノメイのロミルチ隊、パウアハルトのツッジャム隊に、どんな交流があったか。そこまでは、セピイおばさんも詳しくなかった。しかし少なくとも、ジャッカルゴ率いるヌビ家本隊には、あった。

 その時は皮肉なほどに恵まれた晴天で、ジャッカルゴたち一同は予定通り、東に進んでいた。隊列の前の方に居たブラウネンはすぐには気づかなかったが、途中で後方から追いすがる部隊が現れた。ヌビ家の旗や紋章衣を視認した上での行為である。しかも自分たちの隊から使者らしき騎馬が飛び出してきて、ジャッカルゴ隊の後続に声をかけてきた。それを受けた後続の騎士も、すぐさま馬を飛ばして、主人ジャッカルゴに報告する。

 後方に出現した部隊は、レザビ家だった。そのレザビ家の党首が、ジャッカルゴと馬を並べて語らいたい、と言う。わざわざ止まって会談し、着陣を遅らせるまでもない、と。ジャッカルゴは同意して、それを自家の騎士に伝えさせた。すると、まもなくレザビ家の党首とその従者二人ほどが、自分の隊をジャッカルゴ隊の後ろに残して、騎馬で駆け上がってきた。

 

レザビ家の紋章 右上部分で、シャンジャビ家の蛇を二匹、組み合わせている。

 

 で、二人は、ヌビ殿、レザビ殿と呼び合い、型通りの挨拶から始めたのである。それから他愛ない世間話に入るのだが。主にレザビがさも楽しそうに明るい口調で話し、ジャッカルゴの方は相槌を打つことが多かったようだ。ジャッカルゴから話題を振る事は、ほとんど無かった、とか。

 だろうな、と私もセピイおばさんの話を聞きながら、思う。ヒーナの事を忘れたのか、と私だったら真っ先に言ってしまいそう。しかしジャッカルゴは、そうしない。名家の次期党首としては、まだ溜めて、様子見しなければならないのだ。

 レザビの楽しいおしゃべりには、だんだん棘、というか影のようなものが滲んできた。元のシャンジャビ家に対する悪口が話中に挟まるようになったのである。

 そして、ようやく本題に入った。第一王子アダムの陣に着いたら、自分を、レザビ家を王子に紹介してほしい、と。自分たちレザビ家だけで王子にご挨拶したのでは、何かと印象が弱い。だから、ヌビ家から取り次いでほしい、というのである。

 ジャッカルゴより少し年上の、おそらくオペイクスの方が歳が近いであろう、レザビ家の党首は、こうも言った。『どうか、貴家の威光に頼らせていただきたい』と。やたら親しげな笑みを浮かべて、である。

 ジャッカルゴは、すぐに承諾した。いや、快諾した、と言っていいだろう。

 その上で『ところで』とジャッカルゴは話題を振ったのだ。『貴家に、かつてマムーシュなる御仁が居られませんでしたかな?実は、我が従姉妹が、その御仁に嫁いだのですが』

 途端にレザビは目を輝かせた。『おお、そのような奇縁がヌビ家との間にあったとは、光栄ですな。自家のことながら、寡聞にして知らなかった我が身を恥じるばかり。いや、お恥ずかしい。いや、嬉しい』とか声を弾ませた上で、従者の片方を自分の隊に戻らせた。言うまでもなく、部下たちにマムーシュの事を確認させるためである。

「とんだお馬鹿さんだったみたいね」とうとう私は我慢しきれずに口をはさんだ。

「ああ、こんな連中を味方として戦わなければならないなんて、ジャッカルゴ様も内心げんなりしていただろうよ。まあ、敵味方に分かれなかった事は、ありがたいと神様に感謝するべきなんだろうが。もしかしたら、オペイクス様やロンギノ様に言わせたら、こういう気苦労も戦(いくさ)には付き物なのかもね」

 私は続けて、セピイおばさんに念を押した。他の貴族家も、このレザビ家と似たようなものだったのか、と。おばさんも、そこまでは断定しなかった。ただ、レザビ家がジャッカルゴを嫌な気分にさせた事だけは確からしい。若き日のセピイおばさんたちにまで伝わるほどだから。

「でも、まあ、頼もしいお味方もあったよ。レザビ家の後で、ヘミーチカ様の叔父にあたるお方がリブリュー家の部隊を連れてきてくれたんだ。しかも、その方の腹心が、例の竜巻の騎士様さ」

「へへぇ、それは、お手並み拝見ですな」

 私が生意気を言うと、セピイおばさんは笑ってくれた。

 

 ジャッカルゴ隊が何日かけて戦場に着いたのか。そこは、セピイおばさんも分からなくなっていた。ただ、目的地の手前で王子アダムの隊とも合流できたので、遅参を免れた事は確かである。

 陣に集結した各部隊の内訳で目立ったのは、やはりシャンジャビ家だ。その数、二百人強。

 ヌビ家も、次の国王である王子アダムへの忠誠を示すために、ジャッカルゴが百九十人近くを確保して、弟ジャノメイと従兄弟パウアハルトには、それぞれ百五十人弱で我慢させたのだが。それでもシャンジャビ家には、わずかに及ばなかった事になる。

 しかし、ジャッカルゴは狼狽えたりしなかった。何のことはない。妻へミーチカの叔父が率いるリブリュー隊を足せば、シャンジャビ家の人数を百人以上は軽く上回るのである。

 その他では、ナモネア家やマーチリンド家が、やはり百人以上で目立つ方。マーチリンド家の隊を指揮していたのは、ビッサビアの従兄弟にあたる男だったとか。

 レザビ家も百人近くだったらしい。この新興の貴族家は、兵力のほとんどを王位継承者である王子アダムに割いて、第二王子、第三王子には、もう兵士を送る余力が無かったそうだ。ジャッカルゴが尋ねてもいないのに、向こうの党首がぺらぺらとしゃべったのである。要するにレザビ家は、王位継承者の王子に賭けたのだ。

 後は、チャレンツ家、ビマー家などがそれぞれ小隊を派遣してきた。

 あの派手なトカゲの紋章、ビナシス家も。ビナシス家の指揮官は、かつてオペイクスが仕えた党首とは別の男、親族の一人だったようだ。オペイクスとヌビ家との一件で、党首から何か言い含められていたのか、ジャッカルゴには挨拶程度で、特に接触して来なかった。

 さて、これら全てが今回の、賊討伐に乗り出す第一王子アダムの軍勢である。合計で千人を少し超えた、という。小娘で戦(いくさ)に詳しくない私には、賊相手に千人という配置が妥当なのかは、分からない。

 しかも、その賊たちの背後で隣国が動いていると覚悟すべきだなんて。

 第二王子、第三王子の軍勢も、どうやら一千人前後だった、とか。

 となると総計、三千人の大動員。これはヨランドラ国の兵力のほぼ三分の一らしい。セピイおばさんが、ここだけ声をさらに小さくして教えてくれた。「まあ、貴族の男たちには常識で、隠している意味も無いんだろうが。私ら庶民としては、口にしない方が身のためだよ」とも。

 セピイおばさんは続けて、タリンの他の国々の兵力についても教えてくれた。フィッツランド、ワイスランド、ラカンシアは一万人以上。ヨランドラより兵士が少ないのは、西隣りのセレニアだけ、とか。何だか悔しいような。ちょっと不安になってくる。

「軍事力についての講義は、これくらいにしておこう」

 セピイおばさんは、そう言って話をジャッカルゴ隊の動向に戻した。

 レザビ家も陣に到着してすぐに、王子の従者などに申し出て、記録などしてもらったのだろう。それとは別に、ジャッカルゴは改めて王子アダムに、この新興の貴族家を紹介した。

 初日の夜である。酒をガバガバ呑んで油断するなどはできないが、一杯ずつくらいなら、と王子など主だった者たちだけ、口を湿らせていた。その王子の両側をシャンジャビ家の幹部などが固めていたのだが。

 そんな席に、ジャッカルゴはレザビ家の党首を連れて行ったのである。どんな顔していたのやら、と私は内心、思った。だけなのだが。

 私は口に出してはいないのに、セピイおばさんは言うのだ。「おそらく、すさまじく冷めた表情をなさっていたと思うよ。お父様、アンディン様ゆずりの、ね」と。

「えっ。何で私の考えがわかったの?」

「分かったんじゃなくて、予想しただけだよ。あんたが気になるだろうって」

 とにかくジャッカルゴは王子アダムに、レザビ家について説明した。それは、レザビ家とヌビ家に関係が生まれるきっかけとなった、従姉妹ヒーナとその夫マムーシュ・シャンジャビについての説明でもあった。二人の不幸な結婚。夫マムーシュの暴挙。

 ジャッカルゴの話の途中で、シャンジャビ家の幹部は『それは』と言いかけたものの、ジャッカルゴの次の言葉で続けられなくなった。『私の発言に、何か事実に反する事がございましたかな?』

 もう、その時点でレザビ家の党首は青い顔をしていただろう。もしかしたら、言葉には出さないでも、視線だけでシャンジャビ家の男たちと、マムーシュの罪をなすり合っていたのかも。(シャンジャビ家が、ろくでなしを押し付けてくるから)(レザビ家が勝手に奴を引き取ったんだろうが)なんて心の声が聞こえてきそう。どっちも、どっちだ。

 そしてジャッカルゴは、こんなふうに締めくくったらしい。

『しかしアダム殿下。私は、わざわざ恨み言をお聞かせしようと、こんな席を設けたのではありません。それは殿下の貴重なお時間を奪う、失礼な行為に当たる。私自身も、楽しくも何ともありません。

 しかも、この国難の時に。フィッツ人やワイス人が暗躍しているやもしれず、そのためにグローツ殿下にもラング殿下にもご足労願っている、この時に。このジャッカルゴ一人がジャンジャビ殿やレザビ殿にわだかまりを持っているようでは、とても殿下のお役には立てない。むしろ足を引っぱり、国難を悪化させるでしょう。

 私、ジャッカルゴは今日、そのことに気づいたのです。殿下。今日、貴方様に久方ぶりにお会いして気づいたのです。

 アダム殿下。どうか、私の偏狭さを軽蔑なさっても構いませんから、何とぞレザビ殿のご好意をお受けください。そして、シャンジャビ家と同様に頼りになさいませ。

 その方が死んだ従姉妹も報われるのだ、と私は気づきました。繰り返します、アダム殿下。私は貴方様に気づかせていただいたのです』

 聞き終わった王子アダムは、椅子から立ち上がって、ジャッカルゴにふらふらと歩み寄り、固く抱擁した。

『アガスプスでは何かとすれ違いばかりで、そなたとじっくり話す機会が無かったが。そなたは、そんなふうに考えてくれていたのか。

 戦(いくさ)そのものは物騒だが、おかげでそなたと語らう時間が増える事は神に感謝しよう。嬉しく思うぞ、ヌビ。

 シャンジャビもレザビも聞いたな。そなたらも異存は無かろう。明日からは早速、仲良く励んでくれ。そして助け合うのだぞ』

『仰せのとおりでございます』

 シャンジャビ家の幹部もレザビ家の党首も即答した。そうするしかないのだ。王位継承者の王子に自分たちを売り込みに来ているのだから。

「ちょっと、芝居がかっている、と思ったかい?」

 セピイおばさんにまたしても見抜かれて、私も大人しく認めるしかない。「実は」

「まあ私も正直、ジャッカルゴ様の言い方は少々くどい気がしたよ。

 逆にジャッカルゴ様から言わせれば、それぐらいやらないと王族に響かないってことなんだろう。宮殿では、アダム殿下にシャンジャビ家の連中が取り巻いて、なかなか近づけなかったらしいからね。推して知るべし、だよ」

 う〜む、と私は、うなる。

「何だい。不満そうだね」とセピイおばさん。

「だって、ヒーナを政治や戦(いくさ)に利用している、としか思えないんだもん」

「そこは仕方ないよ。貴族なんだし、戦(いくさ)なんだから。

 とは言え、メイプロニー様も、あんたと同意見だったよ」

「メ、メイプロニー?」

「前に話したじゃないか。修道院に行っておられた、アンディン様とキオッフィーヌ様のお嬢様。ジャッカルゴ様の妹君だよ。ジャッカルゴ様がアンディン様の跡を継いで党首になられた時に、ヒーナ様の事が話題になって、兄であるジャッカルゴ様に、ちくちく言ったらしい」

 ああ、そう言えば。私も、やっと思い出した。

「で、ジャッカルゴは何か、反論したの?」

「反論って言うほどじゃないが。『使わない手は無い。ヒーナには悪いが』とかいうお言葉だったような。でもジャッカルゴ様だって、思うところはあったはずよ。

 ちなみにアダム殿下は王位を継いでから、ヒーナ様のお墓に参ってくださった事が一度だけあった。そう。その時すでに党首になっていたジャッカルゴ様が手配して、国王となったアダム殿下が、こちらツッジャムの墓地に来てくださったのさ。

 アダム殿下としても、シャンジャビ家が勢力を増しすぎるのも面白くないらしくてね。ヒーナ様の件は、シャンジャビの奴らに釘を刺す格好のネタなんだそうだ。私も、その事情を知らされた時は、連中の渋い顔が目に浮かぶようだったよ。

 え?ああ、殿下の墓参りには、もちろん私も同行させていただいたさ。私も、その時は泣けてきたもんだよ。この光景をスネーシカ姉さんにも見せてあげたかったな、ってね」

 セピイおばさんの言葉が、しばらく途切れた。

 

「また話を飛ばしすぎたね。賊の討伐に戻るよ」

 セピイおばさんが改めて背を伸ばしたので、私も合わせた。

 そもそも、ジャッカルゴにばかり話題が偏っている。ブラウネンは何をしているのやら。

「と言うか、ブラウネンに話を戻そう。ブラウネンはね。予想もついているだろうが、思い詰めていたよ」

 また読まれたっと思ったが、黙っておいた。セピイおばさんに見透かされているのは、もう仕方ない。そこは諦めて、拝聴に徹する。

「囮を買って出たんだ、ブラウネンは。オペイクス様の話を覚えていたわけさ。で、何度もジャッカルゴ様に申し出て、終いには許可を得られなくても、やらかす。部隊の長であるジャッカルゴ様に失礼になる事を覚悟の上で、賊どもの前に自分を晒したんだ。

 賊どもはブラウネンを血祭りにあげようと取り囲む。賊どもが調子に乗ったところで、ジャッカルゴ様たち一同が駆けつけて殲滅する。

 その上でジャッカルゴ様は自分の部下たちに、わざと、もたつくように命じるんだよ。その場で、ぐずぐずして、移動しないんだ。

 となると今度は、他の賊どもの目に、ジャッカルゴ隊が調子に乗っているように見えただろう。当然、その賊どもはジャッカルゴ隊の不意を突くつもりで襲いかかる。実際、しばらくはジャッカルゴ隊は押され気味になったよ。

 しかし、そこでアダム殿下が他家の部隊を率いて、到着だ。もちろん賊を包囲もする。やがてアダム殿下自らが賊の部隊長を捕まえる。あるいは成敗する」

「そ、それって王子に手柄を取らせる、花を持たせるってこと?」

「そういうこと。命がけで戦いながら、しかも、いろいろと気を使わなければならないんだ。ジャッカルゴ様たちが、いかに大変だったか、これで少しは分かっただろ。

 でも、このやり方でアダム殿下は賊の隊長格の男を一人、二人と押さえていった。捕まえた奴らは尋問して、その根城がどこか吐かせて。

 なんて言ったら、作戦が順調に進んでいるように聞こえるかい?もちろん殿下にしろ、ジャッカルゴ様たちにしろ、誰だって戦(いくさ)をだらだら長引かせたりは、したくないさ。しかし、それで焦って、フィッツランドやワイスランドの動きを見逃しては、それも後々まずいだろ。だから、作戦を速めずに、向こうがどんな反応をするか確認したかったんだ。

 そのため、事あるごとに伝令たちが主戦場から二ヶ所の国境付近へ、国境付近の陣から主戦場へ、と頻繁に行き来した。しかしフィッツ人もワイス人も、なかなか尻尾を出さない。アダム殿下は表情を固くする事が多くなって、お世辞にも機嫌がいいとは言えないご様子だったそうだ」

 って、セピイおばさんは、またブラウネンを置きっぱなしにしているような。話の都合では、しょうがないのかな。

「さて、この作戦ではジャッカルゴ隊ばかりが割を食う、苦労をさせられている、と思うかい?でも、これもジャッカルゴ様の計算のうちなんだ。他家がやりたがらない事をやってのける。少なくともシャンジャビ家やナモネア家、マーチリンド家は自分たちから買って出たりしないだろう。

 ありがたいことに、アダム殿下は、そういうところをちゃんと見てくださるお方だった。普段、ご自分に取り巻くシャンジャビ家などの連中が、いざと言う時には苦労を厭う、という事が分かったんだろう。作戦とかの相談を、連中よりもジャッカルゴ様にするようになった。

 つまりジャッカルゴ様は王位継承者たる殿下の心に、しっかり喰い込んだ。印象づける事に成功したのさ」

 力強く言った後で、セピイおばさんは、ため息をはさんだ。

「しかし、このやり方は犠牲が伴う、とあんたも気づいているね。実際、ジャッカルゴ隊の者はみんな生傷が絶えなかったし、戦死者も出た。

 ブラウネンは幸い、そこまでならなかったが、ついに重傷をおったよ。右腕を折られたんだ。賊が振り下ろした鎚矛を剣で受け止めきれなかったそうだ。ジャッカルゴ様自らが救出してくださったが、利き腕だからねえ。もっとも左腕や脚なら折れてもいい、というわけでもないが。

 で、このブラウネン骨折の知らせがメレディーン城にも届いたんだ。と言ってもイリーデも私も知ったのは、かなり後だよ。まず党首アンディン様やオペイクス様など、ごく一部の耳に入って、アンディン様がお決めになった。『しばらくはイリーデに言うな』と。

 それで気をもんでくださったのが、オペイクス様だ。党首アンディン様に願い出たんだ。『使者としてアダム殿下の陣に赴き、ブラウネンなどの様子を見てきましょう』と。

 でも、アンディン様は許可しなかった。『ならん』と。行ったら、オペイクス様がそのまま加勢するのが、目に見えているからね。その後も何度かオペイクス様が申し出ても、アンディン様は一度も許可しなかった」

「うーん」

「あら。あんたは唸ってばっかりだねえ」

「アンディンの判断も悪くない、とは思うんだけど。イリーデの気持ちを考えるとなあ」

「だから、アンディン様も悩ましかっただろうさ」

「でも結局はイリーデも、ブラウネンの骨折を知ることになったんでしょ。それは戦(いくさ)が終わってから?」

 少々せっかちだが、私はカマをかけてみた。戦(いくさ)が終わってから、二人が話をできたとすれば、少なくともブラウネンは生きて帰った事になる。しかし。

「それが、だ。終戦を待つまでもなかった。どこかの迂闊な人たちがシルヴィアさんたちにしゃべって、しかも、そこにイリーデが出くわしてしまったんだ」

「それって、例の色男さん二人?」

「そ」

「も〜。いつか、やらかすと思っていたら」

「ああ、これには、さすがにキオッフィーヌ様が目を吊り上げてね。ご夫妻とも声を荒げたり、表情を変えたりはしないんだが、目の色が明らかに冷たく変わっていた。城の居残り組、全員が固まりそうだったよ。

 キオッフィーヌ様はオーカーさんとアズールさんに、三ヶ月の減給を言い渡した。アンディン様も二人を庇ったりしない。『ジャッカルゴがそなたらを連れて行かなかった理由は、そういうところだ』と一言だけ。陽気な二人も、しばらくは萎れていたよ」

「って、ここまで来たら、もう色男さんたちはどうでもいいわ。

 それよりイリーデが、また取り乱したんじゃない?」

「ああ。あの娘なりに必死にこらえていたんだが、何しろ若すぎるよ。黙って落ち着いていると思ったら、青い顔をして、声も無く泣いていた、なんて何回あったことか。

 そんな彼女を見れば、またヘミーチカ様も気に病むし。

 私もシルヴィアさんたちも、ヘミーチカ様とイリーデの間で、おろおろしたよ。仲違いってわけでもないんだがね。

 ところが、さ。そんな時にオペイクス様の方から近づいてきて、唐突に言うんだ。

『案ずることはありません、ヘミーチカ様。ジャッカルゴ様が原因で、ブラウネンが負傷したのではありません。むしろジャッカルゴ様がついておられるから、ブラウネンは、その程度で済むのです。

 いずれ二人して無事に帰って来ますから、その時は私の言った意味が、ご理解いただけるでしょう』

 私らもイリーデもヘミーチカ様も目を丸くしたよ。女たちが集まっているところに自分から近づくような方じゃないからね。で、オペイクス様も自分で気がついたのか、急に赤面して『し、失礼』と言い残して、逃げるように居なくなった。

 途端に吹き出したのは、スカーレットさんだ。『へんな人』ってね。

 スカーレットさんの一言がじわじわ効いてきて、みんな笑い出したよ。ヘミーチカ様もイリーデも、ね。

 私もホッとしていたら、背中をノコさんのひじが小突いた。後でオペイクス様にお礼申し上げておけ、とのことだった」

「って、そのお礼を言うのに、お姉様方とぞろぞろ行ったの?」

「あんた、分かっていて言っているね。そんなことしたら、またオペイクス様は逃げちまうだろ。だから女中たちを代表して、私だけが行くことにした。そしたら、イリーデがどうしても一緒に行くと言って聞かなくてね。

 イリーデから礼を言われた時のオペイクス様の顔は・・・まあ、見ものだったよ」

 セピイおばさんは、実に嬉しそうに微笑んでいた。戦(いくさ)の一場面である事を、私は一瞬、忘れそうになった。

 

「さて、このブラウネンの騒動。現場では、なかなかのおまけが付いた。なんと、アダム殿下がブラウネンに直に言い渡したんだよ。『しばらくは囮役を控えるように』とね。ジャッカルゴ様と親しくなったアダム殿下は、ブラウネンもよく見かけるようになったんだろう。で、思い詰めたブラウネンを見かねて、声をかけてくださったわけさ。

 もちろん、この情報もすぐにメレディーン城に伝わったよ。これについてはアンディンも口止めなんかしなかったし、私ら女中一同も急いでイリーデに教えてあげたんだ。

 ああ、あの時のみんなの顔。イリーデが泣きながら私にすがりついてきて、シルヴィアさんたちも、ノコさんやロッテンロープさんも、キオッフィーヌ様とヘミーチカ様まで・・・要するに、女たち全員が集まって喜んでくれたんだ。『よかったね』『これで、もう大丈夫』が何回も聞こえたよ。

 ヘミーチカ様が、ほろりと、もらい泣きしておられた。

 これにシルヴィアさんが気づいてね。目を輝かせたと思ったら、少し離れたところにいたオペイクス様に声をかけるんだよ。『オペイクス様。これも、やっぱりジャッカルゴ様のおかげでしょうか』

『えっ。うん?ああ、そうだな。ジャッカルゴ様がアダム殿下に頼んでくださったんだろう。す、鋭いな、シルヴィアさんは』

 これを耳にしたイリーデは、ハッとしてヘミーチカ様と目を合わせたよ。

 後は、もう分かるだろ」

「ふふっ、さすがお姉様。頼りになるわ」

「私もシルヴィアさんを、かっこいいと思ったよ」

 

「さらに続けると、ブラウネンの騒動のおまけは、アダム殿下だけじゃなかった。別の戦場にまで飛び火したんだ。

 まずはヌビ家党首アンディン様の次男坊、ジャッカルゴ様の弟であるジャノメイ様から話そう。

 前に、ヌビ家にもイリーデを妻に望む者が何人か居て、アンディン様が認めなかった、と言っただろ。その一人が実は、ジャノメイ様だったんだ。アンディン様としては、次男のジャノメイ様が一番悩ましかったようでね。他の男たちと同様、アンディン様から言って聞かせたが、ジャノメイ様だけがいつまでも、ぐずぐず口答えしたとか」

「諦めが悪かったと」

「ちょっと意地悪な見方だが、ジャノメイ様は、イリーデの花婿候補には党首の息子である自分が一番、分があると期待したんじゃないかねえ。それでアンディン様と親子喧嘩を多少繰り広げたかもしれないよ。

 ブラウネンにとって幸いなことに、ジャノメイ様は党首の息子として、修道院だのロミルチ城だの、あちこちに留学しなければならなかった。アンディン様は、多感な次男をイリーデから引き離すのに、ちょうどいい口実を持ち合わせておられたわけだよ。

 ちなみに、ジャノメイ様は私と同い年でね。つまりイリーデとは、一つ違い。ジャッカルゴ様より、よっぽどイリーデに近いだろ。

 さて、そんなジャノメイ様の耳にも、ブラウネンの奮闘ぶりが伝わったんだ。東の国境でフィッツ人と睨み合っている最中に、伝令がやった来たのさ。第三王子ラング様が報告を受ければ、当然ジャノメイ様も同席している。

 ラング殿下はジャノメイ様の事情なんて知らないから、大真面目に褒めてくださったそうだ。『君の家中には勇敢な者が居るのだな。しかも僕や君とも歳が近い者となれば、我々も負けておられん』と。

 この『負けておられん』がある意味、良くなかったねえ。ジャノメイ様に無茶をするお墨付きを与えたようなもんだよ。で、ジャノメイ様はブラウネンに負けじと、フィッツ人たちに単騎で近づいて行ったんだ。

 フィッツ人たちは格好の的だと、途端に射掛けてくる。ジャノメイ様なりに覚悟していたかもしれないが、わざわざ矢を浴びに行ったようなもんだよ。もちろん盾で防ごうとしたんだろうけど、防ぎきれずにジャノメイ様自身も馬も矢傷を負った。

 そして、その時にはオーデイショー様の息子さんたちとか、お味方が大勢駆けつけてジャノメイ様を救出したよ。だが、そこをフィッツ人どもがここぞとばかりに襲いかかる。

 しかし、それをさらに、ラング殿下の別働隊が痛撃して、敵を止めた。

 後は国境をまたいだまま、大混乱になったんだ、と。でも、そのうち両軍とも疲れたんで、引き分けとして退いた」

「ふー、何とか無事、じゃなかった、ジャノメイは怪我したんだったか」

「まあ、一命を取り留めたのは確かだよ。

 しかし陣に戻ったら、ジャノメイ様は周りから、けっこう責められてねえ。そりゃ、そうだよ。他家に言わせれば、ヌビ家の子息が手柄欲しさに抜け駆けしたようにしか見えない。シャンジャビ家とか、ナモネア家とか、言いたいことを言ってくれたんだろう。

 オーデイショー様のご子息のお二人も、ジャノメイ様と他家の間で板挟みになって、ジャノメイ様とギクシャクしたかもね。

 そんな中、陣中の大将役であるラング殿下が、真っ先にジャノメイ様を弁護してくださったんだ。

『皆、そう責めるな。ジャノメイ君も、事の重大さが分からぬような御仁ではないのだ。

 むしろ僕は、ジャノメイ君の気持ちが分かる気がするぞ。おそらくジャノメイ君は、僕が抱えているものと似たようなものを秘めているのだろう。

 僕は焦燥感に駆られている。出陣してから、いや、此度の戦役が決まってから、ずっとだ。こうして経験豊富な諸兄らの顔ぶれを見回せば、なおのこと焦りが増す。

 僕は見ての通りの若輩者だ。父上からこの軍団を預かったものの、諸兄らの経験には遠く及ばない。僕の采配を見て、諸兄らも歯痒く思うこともあったろう。

 軍を預かった責任を思えば、早く諸兄らに追いつかなければならぬ、と自分でも分かっているつもりだ。

 ジャノメイ君。君は僕と歳が大して違わない。君は僕と同じように悩んでいたのではないか。

 諸兄らよ、どうか今しばらく、こらえてくれ。

 そもそもジャノメイ君は、臆して逃げ隠れしたのではない。逆に、果敢に前に出て、戦ったではないか。僕は、むしろ出遅れた自分を恥じる。そして父上には正直に報告しようと思う。

 諸兄らよ、それでも、まだジャノメイ君を非難するか』

 とか、大体こんな感じかねえ。要するに、第三王子ラング殿下が、ヌビ家党首の次男ジャノメイ様のために、演説をぶってくださったんだよ。そりゃ、もう効果抜群さ。

 シャンジャビ家かどこかは『殿下がそこまでおっしゃるなら』とか、ぐずぐず言ったそうだが。気の利いた奴も少しは居るよ。

『あいや、お恥ずかしいのは私めの方であります、ラング殿下。この年寄りめが、耄碌して考え違いしておりました』

『ラング殿下、ジャノメイ・ヌビ殿、お許しくだされ。このナモネア、正式に謝罪いたす。考えてみれば、私めもヌビ殿の年頃には、似たような先駆けを試みておりました。

 のう、皆の者。貴殿らも思い出せ。かつて自分が通った道ではないか』

『まさしく、その通り。

 どうか、お二方。このチャレンツの謝罪もお受けくださいませ。私など、殿下らの若さを羨んで、見苦しい言動におよんでしまいました』

 とか何とか。誰かが言い出したら、我も我もって具合さ。

 締めは、リブリュー家の幹部の方が務めたよ。

『皆々様。ラング殿下が気づかせてくださいましたな。せっかくの先駆けで仲違いするなど、それこそフィッツ人どもの思う壺。私も目が覚めました。

 ジャノメイ殿。貴殿のおかげで私も、また一つ経験を積むことができましたぞ。お礼申し上げる。

 貴殿が我らの姫様の義弟であるとは、なんとありがたいことか』

 なんてね。

 ジャノメイ様は男泣きして、ラング殿下をはじめ、陣中の一同に謝罪した。『申し訳ありません。私が身勝手な振る舞いをしましたばかりに、皆様にご迷惑をお掛けして』と。

 それをすかさず、ラング殿下が遮った。 『もう良いのだ、ジャノメイ。それより、明日もフィッツ人どもに目に物見せてくれようぞ。

 そうだろう、皆の者』

 居並ぶ貴族たちは、おおぅ、と勇ましく叫んで答えたんだ、と」

 う〜ん。またしても私は唸る。

「三番目の王子様も、まさかジャノメイが失恋でやけになっていただけとは知らなかったんでしょうね」

「あんた、また意地悪を言ってくれるねえ。まあ、ジャノメイ様もわざわざ、そんなことまで話したりはしないだろうけど。

 そこまでの仲ではなかったにしても、ジャノメイ様は、この戦闘がきっかけで、ラング殿下とすっかりお近づきになれたよ。王子のお心に見事に喰い込んだのさ。

 こうなったら、シャンジャビとかがいくら取り巻いても、ラング殿下は上の空で、ジャノメイ様とばかり会話なさるよ。

 しかもジャノメイ様とのつながりで、オーデイショー様のご子息お二人も、ラング殿下からよくお声がかかるようになった」

「ふふーん。当時のおばさんとほぼ同い年の若者四人がいつも、つるんでいたのね」

「そういうこと。

 このおこぼれにあずかれたのは、ヘミーチカ様を通じてヌビ家と縁のあるリブリュー家くらいだろう」

「やっぱりリブリュー家の幹部は、わざと自分たちのお姫様を話題にしたのかな?」

「そりゃ、そうだよ。こういう時のための政略結婚だ。それこそ、使わない手は無い」

 ジャッカルゴとヘミーチカ、両思いの結婚なのに?これが政治ってこと?なんて思っても、もう言わなかった。セピイおばさんを責めても仕方ないし、話を進めないと。

「で、この、ラング殿下とジャノメイ様たちが自然と四人組を形成した件は、当然メレディーン城にも伝わったよ。

 オーカーさんたちが言うには、伝令から報告を受けたアンディン様は、はっきり声に出したんだ。『でかした』ってね。

 色男さんたちもオペイクス様も目を見張ったそうだよ。私も、その気持ちは分かるね。

 アンディン様はヌビ家党首として、普段から感情を表に出さないように徹しておられたんだ。そのアンディン様が興奮するなんて、よっぽど、だよ。

 後でアンディン様は、ぽつりとつぶやいておられた。私なんかが居合わせてもお構いなしに。

『ジャッカルゴに比べて、あ奴には辛く接する事が多かった。イリーデへの気持ちも我慢させた。私に対して恨む事も多かろうから、此度の戦役では手抜きをするのでは、と疑ってしまったが。

 情け無い父親だ。あ奴め、まんまと、この父を出し抜いてくれたではないか。見ようによっては、ジャノメイは兄のジャッカルゴよりも一歩抜きん出た、とも言えるぞ。ジャッカルゴはアダム殿下のお心をつかむのに、ヒーナを利用した。だが、ジャノメイはヒーナ無しでラング殿下の共感を勝ち得たのだ』

 てな感じで、つぶやきのつもりで始めただろうに、結局、居合わせた者に聞かせる話し方になっていた」

「気を揉んでいた分、嬉しかったのね」

「ああ。アンディン様も、やはり子の親だ、と思ったよ。

 そうだ。あの時は私とロッテンロープさんがアンディン様の書斎を掃除するために入室して、ご本人は遠慮して出て行こうとなさったんだ。アンディン様は手に、伝令たちの報告書か、ご子息たちの手紙を握りしめていたような。

 私は、盗み聞きとか怒られないだろうと踏んで、ちょいと調子に乗ってみたんだ。『でしたら、ご党首様。ジャノメイ様も縁組なさればいいじゃないですか。ジャッカルゴ様とヘミーチカ様みたいに、きっと良い縁組になりますよ』と。

 そしたら、だ。アンディン様は目を丸くして私を凝視したんだよ。

 私は、しまった、と思った。私は慌てて『出過ぎた事を言ってしまいました』と謝ったんだが。

 アンディン様は固まって、立ち尽くしたままだ。ロッテンロープさんが不思議がって、アンディン様と私の顔を交互に覗き込んだよ。

 それもほんの一、二秒のはずなのに、すごく長い時間に感じたね。その後でアンディン様の口が、やっと開いた。

『セピイ、よく言った。そなたのおかげで、私も今、思いついたぞ。たしかにジャノメイにも早急に嫁を取らせるべきだな。縁談が進んだら、そなたにも何かと協力してもらおう。

 して、セピイよ。私が今、何を思いついたか分かるか』

 そこで言葉を区切って、アンディン様は、また私をじっと見た。ロッテンロープさんも、再び私らを見比べて、首を傾げる」

「わ、分かるかって、分かるわけないじゃない」

「私も心ん中では、そう思ったさ。しかし、アンディン様は黙ったままだ。

 それで、ハッとした。アンディン様が私にお尋ねしている。その状態。つまり私自身が要点なんだ、と。ジャノメイ様の花嫁探しに、私が絡むとしたら」

「えっ、まさかアンディンは、セピイおばさんをジャノメイのお嫁に、と考えたの?」

 セピイおばさんは、のけぞった。

「違うよ。そんなわけ、ないじゃないか。私が絡むとしたら、ビッサビア様。マーチリンド家だよ」

「ええええっ」

 私の驚きの声が墓地の原っぱに響いた。

「なっ、なっ、なっ、何それ。ジャノメイのお嫁さんをビッサビアに探してもらおうって、アンディンは言うの?」

「おそらく、そうだろうと思ったよ。だから私もすっかり驚いて、声がうわずってしまったんだ。『まさか、あのお方に話を通すおつもりですか』と、やっとこさ聞き返した。

 アンディン様は『今はまだ、私一人が思いついただけだ。だが私は、この考えを推そうと思う』と言い残して、今度こそ書斎を出て行かれた。奥方キオッフィーヌ様に相談するつもりなんだ、と私は推測したよ」

「ええ〜、何で〜。ジャノメイに辛い思いをさせた、とか言ったばかりじゃん。そのくせ、結局ビッサビアなんかと関わりを持たせようなんて、どういうこと」

「私も、さっぱり分からなかったよ。かと言って、アンディン様に根掘り葉掘り、意図をお尋ねしたりできないからね。わたしゃ、貴族の親族でもない。田舎出の女中に過ぎないんだ。

 だから推測するしかないんだが。私は、リブリュー家を思い出していたよ。ヒーナ様の最初の縁談の時に、ヌビ家とリブリュー家の関係はこじれただろ。しかし、その後ジャッカルゴ様とヘミーチカ様が結婚して、両家は仲直りできた。

 アンディン様は同じように、マーチリンド家との関係修復を望んでおられるのでは。そう、私は推測するしかなかった。シャンジャビ家と違って、表立って問題になったわけじゃない。あくまでも、ビッサビア様を通じて腹の探り合いをしただけ。いつまでもギクシャクしても、つまらないよ。適当にマーチリンド家の顔を立てて活用するなんて、アンディン様ならできるだろうし」

「ってことは、やっぱり政治?」

「そう。政治だよ。そのためにジャノメイ様には新たな使命を課そうってわけさ。

 それに、前に話したのを覚えているかい?アンディン様はパウアハルトを追い出して、ご自分の次男坊にツッジャム城を任せる計画だ、と。その次男坊がジャノメイ様じゃないか」

 そうだった。

 ブラウネンの話を聞くはずが、こんなふうに、よそに広がるなんて。

「き、貴族って、いろいろ大変だね」と言うのが精一杯だった。 

 

「と言うわけで、今度は、そのパウアハルトの話をしなきゃならないね。

 あんたも予想していたと思うが、ブラウネンの奮闘は、やっぱり奴のところにも伝わったんだ。つまり、ワイスランドとの国境線を見張る、グローツ殿下の陣中だよ。

 加えて、ジャノメイ様たちの戦況も伝わった」

「パウアハルトは焦ったんじゃない?」

「そうなんだよ。年下の二人に先を越された形だからね。従者や身近な兵士たちに八つ当たりする事が多くなったらしい。

 また、その噂がすぐに、メレディーンにまで届いてくるんだ。ご党首アンディン様と奥方キオッフィーヌ様が顔を揃えて、ため息をついておられた。

 その調子では、現場のグローツ殿下や他家の者たちが、ヌビ家に良い印象を持ってくれるはずがないだろ。パウアハルト一人が恥をかくんじゃない。奴はヌビ家を代表して、そこに居るんだ。

『他家のほくそ笑む姿が目に浮かぶ』とアンディン様も、ぼやいておられた。この時は、ジャノメイ様の時と違って、私も何とお声掛けしたらいいのか分からなかったよ」

「三ヶ所ともヌビ家が好調、ってわけにはいかなかったか」

「そう。なかなか贅沢は、できないもんだよ。

 そのうち私は、別の噂も耳にした。ツッジャム城に置いてきぼりにされたロンギノ様。パウアハルトが連れて行った兵士たちの事を心配して、ロンギノ様が方々に連絡を取っていたんだ。同僚の騎士も何人か、ワイスランドとの国境付近の陣に入っていたから、彼らから状況を教えてもらうことができる。メレディーン城のアンディン様とも、頻繁に伝令を行き来させていたからね。何とかしてパウアハルトを嗜めることができないか、奔走してくださったのさ」

「いくら何でも、党首の言いつけなら、パウアハルトも従うでしょ」

「私も、そう思いたかったんだが。例によってシルヴィアさんたちがオーカーさんたちから聞かされた情報だと、少なくともご党首アンディン様は奴を信用していなかったみたいだ。

 一応、パウアハルトから反省文みたいな手紙を受け取ってはいたんだよ。でもアンディン様は、グローツ殿下の陣地に赴く伝令に言い含めた。『パウアハルトと、部下たちの様子、特に顔色をよくよく確認するように』とね。『私の目の届かない所では、パウアハルトがこの手紙の通りに振る舞うとは限らん』と。

 それを偶然、耳にしたオーカーさんは、嬉々としてシルヴィアさんたちに話すんだ。色男さん二人も姉さん方三人も、パウアハルトを毛嫌いしていたから、陰口で盛り上がっていたよ」

「そういえばパウアハルトは、メレディーン城での修行中に、シルヴィアたちに絡もうとしたんだよね」

「そ。スケベ心だけでね。真剣に結婚しようという気も無い。それでオーカーさんとか、危うく喧嘩になりかけたんだと。

 それをなだめる、と言うか、止めに入ったのが、オペイクス様さ。パウアハルトは怒りの矛先をオペイクス様に替えて、だいぶ暴言を吐き散らかしたらしい。

 オーカーさんはオーカーさんで『仲裁なんて頼んでねえし。オペイクスの旦那が俺に貸しをつくったなんて勘違いしたら、やり切れねえぜ』だってさ」

「でも、そのまんま喧嘩するわけにはいかないじゃない。曲がりなりにも、パウアハルトはアンディンの甥なんだし」

「そう。

 それに、オペイクス様が恩着せがましいことを言ったりする、はずが無いからね。

 ちなみにパウアハルトと来たら、イリーデとブラウネンもいじめると言うか、辛く接する事も多かったそうだ」

「分かった。そこに割って入って助けたのも、オペイクスなんでしょ。イリーデは、それでオペイクスが好きになったんじゃない?」

「ふふっ、そういう問題に関しては察しが早いなんて、あんたも年頃だねえ。正解だよ」

「だ、だって気になるんだもん」と、私は何とか言い返す。

「ま、とにかく、そんなパウアハルトも焦ったわけさ。昔いじめたブラウネンは体を張って、評判を上げたんだからね。

 ジャノメイ様とパウアハルトにどれくらい接点があったかは知らないが、まあ、ジャノメイ様の活躍も、パウアハルトは喜んであげたりしなかったと思うよ。メレディーンに戻ってきた伝令たちの報告に、そんな話は無かった。

 伝令たちが目にしたのは、奴の機嫌の悪さばかり。残念ながら、アンディン様の予感は半ば的中したようなもんだ。

 おそらくパウアハルトは、二人を羨んで、自分も何か手柄を立てねば、と焦ったんだろう。わざわざ国境そばまで自分の部隊を引き連れて行って、向かい合ったワイス人たちに散々、罵声を浴びせて挑発したんだと。

 ところが、だ。ワイス人たちの方が口が達者なのか、罵り合いをしているうちに、いつの間にかパウアハルト自身がカッカして、単騎で飛び出してしまった。挑発するつもりが、まんまと挑発されたわけさ。

 大柄なあの人も、それなりに暴れたんだろうが、ワイス人部隊の包囲は早かった。慌てて追いかけてきた部下の騎士や兵士たちと分断されて、大苦戦だよ。

 しかし、そこをグローツ殿下が軍団を引き連れて、パウアハルトのツッジャム隊を救援してくださった。

 と言っても、グローツ殿下も、他家の部隊を全部、連れてきたわけじゃなくてね。半分くらいを残して、警戒させていた。すると案の定、ワイスランド側からも援軍が押し掛けて来るじゃないか。軍団の残留組は、こいつらをちゃんと押さえてくれたよ。で、グローツ殿下は心置きなく戦えたんだ」

「備えあれば憂いなし、ね」

「お、先に言ってくれたか。まさに、その通りだよ。

 さて、その日、丸一日の戦闘の結果として、グローツ殿下は敵ワイス人たちの軍団を蹴散らし、追い払う事ができた。

 では、ここで久々に質問を出そう。あんたは、これでグローツ殿下の機嫌が良くなった、と思うかい?」

「ふふ。そういう質問の仕方だったら、良くならなかったって事でしょ」

「おや、簡単だったか。そう。お世辞にも、機嫌が良くなったとは言えなかった。

 しかしグローツ殿下も、表情をあまり出さないように心がけておられたようでね。陣中に戻ったら、パウアハルトに手短かに注意しただけで、長引かせたりしなかったそうだ。他家の連中が、ぶつくさ言っても、だよ。

 それをパウアハルトと来たら『そら見ろ。グローツ殿下は理解してくださっているではないか。これが大将を務める方の器というものよ。さすがに、他家の小物どもとは比べ物にならんわ』とか部下の騎士や兵士たちに言っていたそうだ」

「それって、小物呼ばわりされた本人たちに聞こえるように、パウアハルトが大きい声で言ったんじゃない?」

「ふふっ、あんたも、そう読んだか。私もだよ。スカーレットさんやヴァイオレットさんたちも、やんや言っていた」

「となるとヌビ家の部隊、パウアハルトのツッジャム隊と、他家の部隊は相当ギクシャクしたでしょうね」

「だから、その両方を束ねなきゃいけないグローツ殿下の気苦労が、想像できるだろ。

 しかもワイスランド側はずる賢い事に、こちらヨランドラ軍を好きなだけおちょくっても、尻尾は出さない。賊との関係は掴ませない。捕虜を散々、尋問しても、だよ。

 しかし繰り返すが、この殿下は、そういう気苦労を顔に出さないんだ。

 で、殿下はどうするかというと、こんな作戦を練り上げた。『陣を退げよう』と。それも、ワイス人どもが調子に乗って、言いたい放題に言っている、その最中に退がるって言うんだよ」

「連中の目の前で?そんなの、言い負かされたと認めるようなもんじゃない?」

「そう。まさに、向こうの連中にそう思わせる事が、この作戦の要(かなめ)なんだよ。

 当然と言おうか、こちらヨランドラ側の陣中では、貴族たちが承諾を渋った。『それは、いかがなものかと。敵を目の前にして、尻尾を巻いて退き下がるのでは、敵に侮られます』とかね。パウアハルトも反対して、珍しく他家の連中と足並みが揃う形になった。

 そしたら、グローツ殿下は困るどころか、ちょっと笑みを見せたそうだ。

『では、こちらを侮ったワイス人たちは、どんな行動に出るかな。こちらの尻を蹴飛ばしてやろうと、国境をまたいで来るんじゃないのか。そこを待ち構えていたら、さぞ面白かろう、と僕は思うぞ』

 これを聞いたシャンジャビ家やナモネア家などの幹部は、『ほお』とか低く呻いて、『お見それしました』とか、途端に賛意を示した。

 これで作戦会議は終わるかと思いきや、殿下は付け加えるんだ。『パウアハルトのツッジャム隊には、特別の任務を与える』と。『パウアハルトは、我々より先にツッジャム隊を後退させよ。そして道中の適当な箇所に隠れるのだ。その後、我々全員がツッジャム隊が隠れた位置よりも、さらに後方に退く。ワイス人どもはツッジャム隊に気づかずに、我々を追撃して来るだろう。そこを、ツッジャム隊が最初に迎撃して良い』とね。

 この計らいでパウアハルトは、すっかり機嫌が良くなったんだとさ」

「手柄を一番最初に取れる、と思ったのかな?でも、敵の方が多かったら、危険な気がするけど」

「その時は、またグローツ殿下たちが駆けつけてくださるって段取りなのさ」

「そっか。

 って、なんか、パウアハルトとツッジャム隊が囮になってない?」

「ほお、やっぱり気がついたか。

 てことは、殿下の陣中に居た他家の連中も気づいていただろうね。もしかすると、パウアハルト自身も」

「えっ、本人も?」

「そりゃあ、パウアハルトがいくら身勝手な奴でも、メレディーンでアンディン様の下で修行した身だよ。馬鹿じゃないさ。グローツ殿下が遠回しに囮役を命じた事も、他家の連中がほくそ笑んだ事も、気づいていたはずだ。

 それでも、他家より先にワイス人を迎撃して、手柄を先に取れる事を優先したんだろうよ」

 ふーむ、と私は唸ってしまう。同情するつもりは無いけど、パウアハルトも、それなりに苦労していたわけか。

「まあ、グローツ殿下やパウアハルトのそれぞれの思惑はともかく、作戦は当たったよ。他国の軍隊をヨランドラ国内に誘い込むという点ではヒヤリとしないでもないが、とにかく成功したんだ。

 グローツ殿下は、調子に乗って深入りした敵ワイス軍の隊長格を数名、成敗した。つまりは予定通りさ。

 で、その隊長たちは、いずれも少しは名の通った、中小の貴族でね。怒った親族がワイスランド王家を通じてギャアギャア抗議してきたようだが、気にすることは無いさ。そもそも、ヨランドラ国内での戦闘なんだ。こちらがワイスランドに攻め入って起こした事件じゃない。むしろワイス人の方がヨランドラに侵入してきた、と言えるんだからね」

「となると、グローツも今度こそ機嫌が良くなったでしょうね。

 でも、その代わりに、囮のツッジャム隊は大変だったんじゃない?」

「ああ。残念ながら、ね。

 グローツ殿下は、ツッジャム隊がある程度、苦戦してからでないと、援軍に来てくれなかったんだ。それまでにツッジャム隊では死傷者が増えるよ。パウアハルトも頑張って武器を振り回したが、敵をいくらやっつけても怪我を負ってしまったと。

 それでもパウアハルト個人は、まだ良い方でね。この戦いの後の酒宴で、グローツ殿下から労いのお言葉をたっぷり戴いて、殿下の隣りでご馳走になって。いつも取り巻いているシャンジャビ家の幹部たちを押し除けた、と言わんばかりのでかい顔だった、と。もっぱらの噂だ」

「実際は、グローツに上手いこと踊らされただけなのに。

 何だかグローツが嫌いと言うより、だんだん怖くなってきたわ」

「ああ、この方は、ほんと手強いよ。私らツッジャム側の人間としては、つい、この方を恨みたくもなるが、この方はこの方で、曲がりなりにも国を守ったんだ。簡単に文句はつけられない」

 うぐっ。私は詰まった。は、反論がすぐに出て来ない。

「で、でもツッジャム隊の死傷者は、どうなるの?」

「国のために散った、名誉の戦死。なんてお褒めをグローツ殿下から戴けた。パウアハルト経由でね」

「そ、そんな」

「もう、やめておきなさい、プルーデンス。言い出したらキリが無いよ。

 戦死は、こちらツッジャムの者だけじゃないんだ。他家の者たちにも、死傷者は出ている。まあ、多い少ないの違いはあるが。

 それにグローツ殿下をなじっても、簡単に言い返されるだろう。『恨むならワイス人どもを恨め』とね」

 セピイおばさんは少しも力まずに、淡々と言った。グローツに対しては怒りをぶつけようも無い、という諦めの境地だろうか。

 などと推測していたら、セピイおばさんは話を意外な方に向けた。

「実はね、パウアハルトは、ツッジャム隊を編成するにあたって、この村からも男手を出すよう強要したよ。で、急いで人選がなされた。その男たちを引率したのは、兄さん。つまり、あんたたちのお爺さんだ」

「えっ」

「驚いたかい?あんたたちのお爺さんは、従軍の経験があるんだよ。あの時、父さんはもう村長を務めていて、村を離れられなかった。長男である兄さんが替わりに、村の男たち十人ほどをパウアハルトの元に連れて行ったんだ。

 そしてツッジャムの城下町とか、近郊の他の村の連中と一緒に、パウアハルトの兵士としてワイスランドとの国境そばまで同行させられたわけ。母さんと義姉さんがどんなに心配したことか」

 私は声も出せず、セピイおばさんを見入る。

「と言うわけで、この墓地には、さっきの名誉の戦死者が何人か眠っているんだ。

 私から見て叔父さんの一人がワイス人に斬りつけられてね。もう一人の叔父さんは深傷を負って、村に帰り着いてから死んだ。

 私が小さい頃に一緒に遊んだ男の子も成人して、従軍していたんだが。敵の鎚矛に頭をかち割られて、帰って来られなかったよ。

 何とか生き残った兄さん、あんたたちのお爺さんたちも当然、傷だらけだった」

「そ、それって、グローツがもっと早く助けてくれたら」

「私も、それを言いたいのは山々さ。でもグローツ殿下には言いようもない。言ったところで、聞いても、もらえないよ。今の王族の方々にだって、ね。

 それ以前に、パウアハルトが聞いてくれなかった。あの男は、叔父さんたちの遺体の回収を面倒くさがったんだよ。『戦闘中で、そんな暇は無い』とか言い訳して。

 仕方ないから、生き残った兄さんたちは、叔父さんや仲間たちの遺体を、何とかして現地の村人たちや教会に預けた。で、この、国境そばの住人たちは一旦、遺体を埋葬してくれたよ。自分たちの墓地に。

 それを掘り起こして、全部この村まで運ぶには、少々、年月がかかった。パウアハルトが居なくなって、ジャノメイ様がツッジャム城の城主におさまるまで待たなきゃならなかったんだ」

 ううむ。私は腹立たしいような、悲しいような、いろんな気持ちが混ぜこぜになって、なかなか言葉にならない。

 その間も、セピイおばさんは話を続ける。

「生きて帰れた兄さんは結構、責められたらしいよ。帰れなかった人たちの家族からね。中には、結婚したばかりで、すぐに未亡人になった娘さんも居たとか。

 義姉さんも巻き込まれたんだろう。物陰で泣いているところを、母さんが見かけて『何と声をかけたら良いか、分からなかった』と言っていた。

 兄さんたちだって、がんばったんだよ。叔父さんたち、仲間たちの遺体が無理でも、形見になる物だけでも、戦場でかき集めて。そして村まで持って帰ったんだ。衣服の切れっ端とか、持ち物とかね。

 それを遺族に配って回った。それでも恨み言を浴びせる人も居たんだとさ」

「そ、そんなっ。文句はパウアハルトか、グローツに言ってよ」

「生き残りの中には、実際に、そう言い返した人も居たかもしれない。

 しかし兄さんは、どうも言い返さなかったらしい。

 だいぶ後になって私が里帰りした時に、私も詳しく聞き出そうとしたんだが。兄さんは、この件だけは全く話してくれないんだ。義姉さんも話題にしたがらないし。父さんと母さんから事情を聞くのが、やっとだった」

 話しながらセピイおばさんは、マルフトさんのお墓を見つめている。

 私も思った。マルフトさんも、おそらく戦(いくさ)を体験している。兵士として駆り出されたのか、あるいは兵士たちから暴力を振るわれる住民の立場で。

 なんてことを考えていたら、他の名前が頭に浮かんだ。ブラウネンの話からジャノメイやパウアハルトに広がったように、私もマルフトさんから別の人物が気になり出したのだ。マルフトさんはツッジャム城で、彼と言葉を交わしたりしただろうか。

「セピイおばさん。私、今、思い出したんだけど。カーキフの異動先が東北部じゃなかったっけ」

「ほお、覚えていてくれたか。そう、ベイジに片想いして叶わなかったカーキフ。彼が行った先は、まさしく東北部だ。

 だったら、ロンギノ様がその東北部を何と説明したか、も覚えているかい?ワイスランド、フィッツランドと、こちらヨランドラの三国がせめぎ合う難所だと。つまり、その難所らしさを活用して、賊どもは騒いだわけだ。

 私もカーキフのことを思い出したら、心配になってね。ツッジャム城へ向かう伝令を見かけたんで、手紙を預けた。もちろん宛て先はロンギノ様だ。『今回の賊討伐の戦いに、カーキフも駆り出されているのでは。何かご存知ありませんか』とか書いて。

 しばらくしてツッジャム城からもメレディーン城に伝令が来て、ロンギノ様からの返事を持ってきてくれた。ロンギノ様もカーキフを気にかけていたよ。現地にいる知り合いの騎士様たちに手紙を送って、安否確認を頼んでくださっていた。

 でも、大したことは分からなくてね。現地の騎士様たちもお忙しかったし、何よりパウアハルトが調査に協力してくれない。これも面倒くさいのか、ロンギノ様に対する嫌がらせなのか。

 それでロンギノ様も、推測するしかなかったようだ。カーキフは地元領主の兵士として、戦(いくさ)に参加していただろう、と。

 のちにパウアハルトが帰還した時に、ロンギノ様は兵士たちに聞いて回った。ツッジャム城の兵士たちは、カーキフにとっては元同僚。すれ違いでもしたら、分からないはずはないよ。しかしカーキフを見かけた者は居なかった」

 セピイおばさんの言葉は、そこで途切れた。

 私も何と言ったらいいのか、思い浮かばなかった。自分から話題を振ったのに。

 

「また、ちょっと先走ったね。戦(いくさ)の後の話を混えるなんて。

 賊の討伐は、たしか二ヶ月ほどかかったかねえ。主戦場ではジャッカルゴ様とブラウネン、アダム殿下たちの奮闘で、賊の数が確実に減っていったよ。

 それに呼応して、フィッツ人、ワイス人どもの不穏な動きも下火になってね。そう、明らかに呼応していたんだ、あいつらは。

 おかげで主戦場は、ヨランドラの綻びとはならなかった。ありがたい事さ。そして、ついにジャッカルゴ様たちが賊の部隊を壊滅させたんだ。

 もう他国人がけしかけようにも、その相手が居ない。賊がつくった綻びに乗じて、侵入する事もできない。だから国境付近も、あっさり静かになったとさ」

「よかった。これでブラウネンもジャッカルゴも帰れるわね」と、私も気が急いてしまう。

「私も当時、同じせりふをイリーデに言ってしまったよ。

 しかし、ジャッカルゴ様たちには、まだ一仕事、残っていた。都での凱旋。ひっ捕まえた賊の首謀者たちを連れて、アダム殿下がアガスプス宮殿に戻られる。そのお供をしたんだよ。

 都の大通りには、殿下の軍団の行進を見ようと、民衆が集まって、すっかりお祭り騒ぎさ。ジャッカルゴ様たちのそばについて行進に加わっていた兵士たちが、メレディーン城に戻ってから、やんや言っていたもんだよ。『メレディーンから出陣する時以上だった』ってね。

 しかも。この時、行列の先頭を任されたのはブラウネンなんだ。アダム殿下が事前にジャッカルゴ様に頼んだそうだ。『城下町に入ったら、ブラウネンを借りたい』と。『ヌビ家は私に華を持たせてくれたからな。今度は私がヌビ家、特にブラウネンに華を持たせてたい』なんて、ありがたすぎるお言葉だよ。

 というわけで、ブラウネンは行列の先頭で、ヌビ家の旗ではなく、ヨランドラ王家の旗を持った。右腕は添え木に縛られていて、左腕だけでね。ヌビ家の旗は、ブラウネンのすぐ後ろで、アダム殿下の従者が持ってくれたそうだ」

 はああ、と私は感心してしまった。

「セ、セピイおばさん。私、軍隊の事はよく知らないけど、それって、すごい事よね」

「そりゃ、そうさ。次の王様である王子様から直々にお声が掛かって、旗持ちだよ。出陣の時にジャッカルゴ様から言われるだけでも充分、自慢になるのに」

「ってことは、イリーデに格好の土産話ができたわね」

「ああ、まさしく、ね。

 ただしイリーデは、ブラウネン本人から聞く前に知らされたよ。どうやって伝わったかは、言わなくても分かるだろ」

 セピイおばさんが笑みを見せた。よかった、と私も思う。これで二人の再会は確実だ。

「どうだい。なかなか大きなおまけが付いたもんだろう。

 でもね。おまけがもう一つ、あるんだ。実は、凱旋の行列にはパウアハルトも加わっていた。とは言っても、兄さんたちみたいな庶民の兵士たちは抜きで、自分のお気に入りの従者たちだけアガスプスに連れて行ったらしいが」

「それでいいんじゃない?オペイクスの話を思い出せば、お爺ちゃんたちが都に行っても、大して楽しめなかったと思うよ」

「同感だね。兄さんは別に、都に行ってみたい、なんて言っていなかったよ。むしろパウアハルトが居ない間に、叔父さんや仲間たちの遺体を地元住民に預けたりするのに専念できたとさ。

 で、パウアハルトが何で行列に加わっていたかと言うと、王族がグローツ殿下を通じて、命じたんだ。行列の後で、これまたありがたいお達しがある、と付け加えて」

「もしかして、キオッフィーヌ?」

「そう。ようやくキオッフィーヌ様の根回しが効いてきたのさ。行列の後、パウアハルトは殿下たちに続いて、宮殿に上がった。そして王陛下から直々にお褒めの言葉を賜ったんだ。『パウアハルト・ヌビは実に勇敢に戦った』と。ひいては、パウアハルトをツッジャムのような地方都市に置いておくのは、もったいない。アガスプスに呼んで、宮殿の近衛隊に加えた方が本人のためにもなるし、王族としても頼もしく思う、という話になった。

 で、これも王弟様の一人かねえ。こんなお言葉もあった。『おぬしの勇猛さなら、そう日をおかずに、副隊長にもなろう。期待しておるぞ』とかね。それとも、グローツ殿下のお言葉だったのかも」

「パウアハルトは気づいたかな、ツッジャム城を取り上げられる事を」

「まあ、断定はできないけど。居合わせたジャッカルゴ様だって、誰だって、わざわざパウアハルトに本心を尋ねたりしないからね。

 でも、他の騎士様や他家なんかから伝わってくる噂を考慮すると、おそらく気づいていたんじゃないかね。それによると、パウアハルトは王族がたに『感謝感激』みたいな返事をしたらしいが、心なしか、笑みが引きつっていた、とか」

「おばさん。その噂、例によって色男さんたちから聞かされたんでしょ」

「ふふ、見え見えだったか。その通りだよ。オーカーさんとアズールさんが、手仕事している私らのところにやって来て、姉さん達としばらく盛り上がっていた。でも結局、シルヴィアさんが締めくくったよ。『陰口も褒められたもんじゃないから、これくらいにして、陰ながら祝福してやりましょう』なんてね」

「あら、ちょっとパウアハルトが可哀想になったのかしら」

「そんなはずはないさ。ただ、話題を変えたかっただけだろ」

 セピイおばさんは少し、視線を下げた。

 

「でも、こうして宮殿での用事も済めば、今度こそブラウネンもジャッカルゴも帰れるよね」私は、もう辛抱できずに急かした。

「うん、ジャッカルゴ隊はメレディーン城に帰還したよ。戦死者もいたし、ブラウネンの折れた右腕は完治しないまま。ジャッカルゴ様も斬りつけられた傷なんかがあって、無事とは言い難いが。とにかくブラウネンとジャッカルゴ様は、生きて帰ってきたんだ。そして、それぞれの花嫁さんに迎えられた」

 セピイおばさんは断言して、背筋を伸ばす。午後の暖かい光が、おばさんの顔を照らした。それを見て私も、ホッとする。ずっと聞きたかった言葉が、やっと聞けた。

「さすがに都での行進ほどではなかっただろうけど、あの日のメレディーン城は賑やかだったねえ。客人も多くて、城門を閉められずに開けっ放しになっていた」

「客人?こんな時に?」

「まず、ブラウネンの両親みたいに、それぞれの親族が心配して駆けつけるだろ。それ以外にも、近隣の司教とか豪商とか、中小の権力者たちが押しかけてくるんだ。お見舞いとか、戦勝祝いとか、いろんな口実をもうけてね。もちろん本当の狙いは、ジャッカルゴ様に対するご機嫌伺いさ。

 でも、そんな連中はともかく、城内のあちこちで、知り合いの生還を喜ぶ声が上ったよ。厩でも兵舎でも、それこそ通路の途中で立ち話になりながら。

 おっと、話が前後した。イリーデは城外に出て、ブラウネンを出迎えたよ。へミーチカ様が誘ってくださったんだ。そうしよう、と」

「おばさんも、ご一緒したのね」

「もちろんだよ。そして女中たち、居残り組の兵士たちもね。要するに、城詰めの若い連中がへミーチカ様にお供して、城の前に並んだのさ。事前に伝令が、ジャッカルゴ隊の到着を知らせてくれていたんだ。

 そこに隊列がゆっくり近づいてきた。駆け寄ったヘミーチカ様を、ジャッカルゴ様が下馬して、抱き止める。途端に、大通りの両側から町人たちの歓声が広がったよ。

 その歓声の中、ブラウネンも馬から降りた。イリーデが、その首に飛びついて泣き出したよ。すぐ後ろで、彼女の両親がもらい泣きしていた」

 私は聞いていて、ほおっと、ため息をついてしまう。やっぱり、こうでなくっちゃ。

「多くの人々の祝福を受けながら、ジャッカルゴ隊は城内に入った。で、さっきも言った通り、客人も交えて、そこかしこで土産話に華が咲いたわけさ。

 でもジャッカルゴ様は、司教や豪商との会話もそこそこに、アンディン様の居る書斎に向かったよ。もちろんヘミーチカ様を連れてね。ブラウネンとイリーデも後に続いた。

 それを見てノコさんが、私も行って同席しろ、と言い出したよ。奥方キオッフィーヌ様から何か指示があるかもしれないから、とね。

 行ったら、オペイクス様も居られた。で、私は書斎の後ろの方で、オペイクス様と並んで、控えていた。

 ジャッカルゴ様が手短かに戦況を報告したよ。フィッツランド、ワイスランドの関与は断定できず仕舞いだったが、賊どもは完全に滅ぼした、と。都での凱旋中でも、メレディーン城への帰路でも、もう、賊どもの狼藉は聞こえてこなかった。

 キオッフィーヌ様が『よくやってくれました』と労っておられた。アンディン様も、言葉こそ無かったが、何とも満足げな笑みを浮かべて。

 と思ったら、アンディン様は椅子から立ち上がって、ゆっくりブラウネンに歩み寄った。そして彼の折れた右腕を添え木ごと掴んだ。途端に、ブラウネンが顔を歪ませたよ。イリーデが息を呑む声も聞こえた。

『痛むか』とアンディン様が尋ねて、『痛いです』とブラウネンも答える。すぐ隣りでイリーデが抗議しようか迷う横顔が、後ろの私からも見えたよ。

 それなのに、アンディン様ときたら、こんなふうに言うんだ。『うむ。これくらいで良かろう』と」

「えっ。ええ?」

「私も、そう声が出そうになったのを、何とか呑み込んだよ。

 そんな私やイリーデに構わず、アンディン様は続けるんだ。『どうだ、オペイクス。私の判断が正しかっただろう』

 オペイクス様は答えながら、少し微笑んだよ。『全くです。失礼いたしました』

 で、今度はジャッカルゴ様がオペイクス様の方に拳を突き出してみせた。『というわけで次回は、オペイクスも、もう少し俺を信用してくれよな』ってね。

『そ、そんなつもりではないのです』とかオペイクス様が慌てて、アンディン様たちが笑うと、場が和んだ。

 イリーデだけはまだ表情が硬かったんだが、それも心配なかった。アンディン様とキオッフィーヌ様から、ブラウネンを自分の実家に連れ帰って、休ませるよう、言われたんだ」

「ブラウネンの実家じゃなくて?それって、またイリーデの家で晩餐会に招待してやれってこと?」

「そう。ついでに、ブラウネンは療養を兼ねて、しばらく城に上がらなくても良い、とのお達しだ」

 へえ〜、と私は声をもらしてしまう。

 しかし、おばさんに目を覗き込まれないうちに、少し話をそらしておこう。

「で、でも、右腕の骨折を見て、これくらいで良かろうって、どういうこと」

「ふふ、あんたも不思議に思うか。アンディン様の書斎を退室した後で、私も気になって、オペイクス様に尋ねたよ。

 オペイクス様は親切に説明してくださったね。この時の賊討伐がジャッカルゴ様やブラウネンに戦(いくさ)の経験を積ませるという意味があった事は、あんたも覚えているだろう。その経験として、ちょうど良かろう、とアンディン様は、おっしゃったのさ」

「え?え?」

「やれやれ分かりにくいか。だったら、少しずらして考えてごらん。

 一つは、ブラウネンが、ほとんど無傷の場合。あんたが、その立場だったら、どう思う。戦(いくさ)に行っても、ほとんど無傷で帰って来られたら。私だったら、戦(いくさ)なんて大したこと無い、と勘違いするねえ。

 もう一つは、逆に、とんでもない大怪我をした場合。下手すれば命を落としかねないような大怪我とか、だよ。今度は逆に、戦(いくさ)が怖くて怖くて、たまらなくなるだろう。

 ここまで言えば、あんたも、もう分かるんじゃないかい?ブラウネンは、そのどちらの場合にも、なるわけにいかなかったのさ。騎士として、戦(いくさ)をなめてかからず、かと言って怖がり過ぎない。その意味では、ブラウネンの骨折は程よい痛手だったってわけ」

「えー。てことは、ある程度、痛い思いをしなきゃならなかったってこと?」

「そうだよ。そして、それはブラウネンだけじゃない。ジャッカルゴ様もジャノメイ様も、オーデイショー様のご子息二人も、それこそ三人の王子様たちだって、経験しなければならない痛みだった。騎士や貴族の男たちが一度は通らなければならない道なんだよ」

 う〜む。私は何も言えなくなってしまう。なるほど、とか言う気にもなれない。

 と、一つ、気がついて、話をつなぐ事ができた。

「今思ったんだけど、ブラウネンが夜な夜なアンディンやジャッカルゴに連れて行かれて、吐くような体験をして戻って来たのは、あれは何か特訓なのね。戦(いくさ)に関係する、それこそ剣や槍なんかの」

「ほほう。もう、ほとんど見抜いたようだね。だが、その詳しい内容は、また今度、離れで話そう。イリーデ家での晩餐会の事も含めて。どちらも、マルフトさんに聞かせるような話じゃないからね」

 セピイおばさんは立ち上がって、背伸びした。私も追いかけるように立ち上がる。

「さあ、そろそろ戻ろう。とにかくイリーデとブラウネンは再会したんだ。後は、慌てなくても大丈夫だろ」

 歩き出したセピイおばさんの目が、私を見て笑っている。やっぱり見抜かれているかなあ。私が何を聞きたがっているか、を。

 だって気になるんだもん。という言い訳を呑み込んで、私はおばさんの後に続いた。