山羊の紋章。背負っております。
前回まで、モーゼが話題になったり、悪魔や天使も出てきましたね。
元カトリック信者の私も、これでスイッチが入りました。
聖書ネタをもう少し続けてみます。
連れてきたのは、こんな動物です。
すごく久しぶりの山羊。
十字架の付いた杖が重たそうでしょう。
司教杖のカテゴリーにもカウントしておきます。
さて一体、何の暗示でしょう。
そう、あれです。
「贖罪の山羊」
これを私なりにイメージしてみました。
細かいところは、慌ててググって調べました。
贖罪日(ヨム・キプル)の儀式の方法が示されている箇所があるようです。
しかも話に悪魔が加わってますね。
またしても悪魔。
活躍してるなあ。
以前にも書きましたが、旧約の方がネタにしやすいです。
次回は、新約から持ってきますよ。
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追記
贖罪の山羊について、説明が足りなさすぎましたね。
私なりに補足してみます。
旧約聖書によると、モーゼ(またしても!)が祭司(神官と言うべきか)に伝えた儀式の方法のようです。
当時のイスラエルの人々は贖罪の日という記念日を設けて、神様に捧げものをしていました。
その捧げものが二頭の雄山羊。
二頭用意するのは神様に捧げると言いながら、悪魔にも一頭捧げるからです。
ポイントは、この悪魔に捧げる方の山羊。
人々の日頃の大小さまざまな罪をこの山羊が背負ったものと意味づけて、悪魔が住んでいるとされる荒れ野に放たれます。
こうして人々の罪は償われた、罪の重荷から解放された、と胸を撫で下ろすための儀式だったわけです。
つまり山羊は、自分自身の罪ではなく人間たちの罪を背負わされた存在なのであります。
この背負わされたという要素、性質。
要するに身代わりであり、生贄ですね。
この要素から、贖罪の山羊を表す英語 scapegoat スケープゴートが、身代わりや犠牲の代名詞として使われるようになったのでしょう。
人間社会のさまざまな不安が大きくなると、八つ当たりする対象、迫害する対象として弱者・少数派が狙われる。
そして悲しい事件などが起こるたびに、この「スケープゴート(贖罪の山羊)」という表現が使われるわけです。
けっこうな頻度で。
こうして、まとめてみると。
やはり、あまり明るい言葉とは言えませんなあ。
決して私の文章力の問題だけじゃないと思いますぞ。
「スケープゴート(贖罪の山羊)」という言葉にまつわる背景が、あまりよろしくない。
気のせいか20世紀、21世紀と進んだら、かえってキツさが増したような。
実は、このまとめ文を書いていて、放生会を思い出していました。
というのも、荒れ野に放たれた山羊が狼などに遭わずにまんまと逃げおおせたら、生き延びることができたら、と想像してしまったのです。
逆に、神様に捧げられた方の山羊は確実に屠られたでしょう。
少なくとも祭司や有力者の胃袋に収まったでしょう。
う〜ん、似ているようで、似ていない。
仏教とユダヤ・キリスト教の違い、東洋と西洋の違いでしょうか。
私個人の意見ですが、
人々の罪を背負ったと設定が余計、蛇足なのでは。
勝手な意味づけをしたところで、当の山羊はポカンとするしかありませんからね。
以上、Wikipediaを横で開いて参照しながら、私なりにまとめてみました。
我が本棚にはなぜか新約聖書は4種もあるのに、旧約聖書が1冊もなかったため、こんな手を使っちゃいました。
前に、これらを開いたのはいつだったかなあ。
阿刀田高さんの「旧約聖書を知っていますか」(新潮文庫)も使おうかと試みたのですが。
結局、贖罪の山羊についての記述を見つけられなくて。
間違いなどございましたら、どうかご指摘・ご指導ください。
と、最後に人任せな私です。