紋章のような

My name is Samataka. I made coats of arms in my own way. Please accept my apologies. I didn't understand heraldry. I made coats of arms in escutcheons.

自作小説「塔の上のセピイ  〜中世キリスト教社会の城女中の話」第四話

第四話「城の中」

 

 次の日は、ちょっと、きつかった。と言うか、やはり眠たかった。なぜなら、セピイおばさんと別れて部屋に戻った後も、なかなか寝付けなかったから。

 おばさんの話で私の頭は、ぎゅう詰めの袋みたいになっている気分だった。しかも、ちょっとでも突っついたら、破裂して中の豆なんかが飛び散りそうな。

 覚悟していたつもりだったけど。予想以上の内容だったなあ。セピイおばさんが女中になったいきさつだけを聞くつもりが、その前に、おばさんの初恋や初体験まで聞く羽目になるなんて。お互い、赤面ものだ。

 しかも、あまりいいもんじゃないらしい。まあ、そういう声は他でも耳にしていたけど。私としては、かえって恐怖心が増した気がする。

 私はそのことでセピイおばさんを恨むつもりは無いけど、神様には文句を言いたい。何で世の中を、女と男をこんな作りにしたのか。何で女がこんな思いをしなきゃならないのか、と。

 しかし、だからと言って、教会のお御堂でキリスト像をなじったりはしない。ばちが当たるかもしれない上に、返事の方は確実に無いのだから。ああ、聖母様は辛くなかったのかなあ。

 でも私は立ち止まらないんだ。対話してくれない神様なんて、どうでもいいわ。セピイおばさんは現実だ。直に私と対話してくれる。まあ神様が私の前に、この偉大な大叔母を送り出してくれた事だけは感謝しよう。

 セピイおばさんも、さすがに疲れたかも。と思ったら、おばさんは、またしても朝早くから離れから離れへ行き来していたらしい。途中で母さんに不要になった布切れなんかをもらいに来たり、父さんから道具を借りたり。とにかく私は、またおばさんより遅く起きてしまったわけだ。その分、おばさんに話をせがみにくく感じてしまう。

 でも、やっぱり私は立ち止まらないぞ。気遅れなんかしている場合じゃないんだ。私は、少しでもセピイおばさんから吸収したいと思う。

 だから、ちょっと焦ってしまったのかもしれない。セピイおばさんに、また夜に話を聞きに行ってもいいかと尋ねたら、まんまと保留された。「昼間、眠たかったんだろう。今夜はしっかり寝なさい」と。

 私は従うしかない。なんたって、セピイおばさんは我が人生の師なんだから。

 

 さらに次の日。昼間、畑仕事の途中で、セピイおばさんの方から近づいてくれた。おばさんは周囲に目を配って、人が近くにいないことを確かめてから、小声で言った。

「今夜は、一番端の離れに来なさい」

「えっ、家から二番目じゃなくて?」

「そうだよ。家から一番遠くになる、あの離れだよ」

 おばさんは指でなく、あごで問題の離れを指した。私が了解すると、おばさんは何事も無かったという顔で去っていった。

 そして夜。弟が寝静まったのを確認して、部屋を出た。父さんがいびきをかいているのも聞こえた。それで母さんが起きないことを祈って、そっと外に出る。

 一番端の離れまで歩いていくのには、さすがにちょっと時間がかかった。家からだと分からなかったが、そばまで来るとやはり、わずかな光が隙間から漏れていた。

 私がその離れの扉をそっと叩く。音が小さすぎて聞こえないんじゃないか、と心配になるほど小さく。それでもセピイおばさんはすぐに開けてくれた。

 おばさんと私は念入りに辺りを確認して、中に入った。

「誰にも見られていないね」

 私は、はいっ、と即答した。家からここへ来るまでに散々、周りを見回したから自信があった。

 セピイおばさんは、椅子を二つ、用意してくれていた。勧められた椅子に座って、私は改めて部屋の中を確認した。小さなロウソクのわずかな光。この離れは、おととい入った二番目の離れと違って、荷物ばかりだ。家具らしいものは、二人がそれぞれ座っている椅子だけ。完全に物置だ。

「さて、なるべくなら今夜も月明かりを使いたかったんだが」

「月、出てなかったね」と私。

 来る時に月の位置も確認しようとしたのだけれど、雲に隠れていて、できなかった。

「なので」

 セピイおばさんは小さなロウソクの皿を二人の間の足元に置き、さらにその上に別の椅子を置いた。椅子は、なかなか脚が長くて、ロウソクの火が座面の裏に届かない。両側に座る私たちには、椅子の座面の下がほんのりと明るく見えても、火そのものは見えない。薄暗いけど、火のまぶしさで目を痛めなくていいな、と私は思った。

「今後、月が出ていない時は、この椅子を使おう。

 さて用意ができたところで、話を再開しようかね」

「はいっ」

 私は椅子の上で背筋を伸ばした。

「ツッジャム城では、初日から緊張しっぱなしだったよ。まずは城主モラハルト様と奥方のビッサビア様にご挨拶だ。

 ソレイトナックに連れられて、お二人の前に立った時は、まともに目を合わせられなくてねえ。お顔を拝見なんて、とんでもない。普通の貴族に対してでも緊張するのに、向こうは城持ちの上級貴族だよ。本来、私ら田舎者からすれば、雲の上の存在だ。

 しかも、私にはリオールとの一件がある。ふしだらな娘とか思われているんじゃないかと心配して、震えてしまったよ。

 そしたらモラハルト様が大笑いなさった。『どうした、セピイとやら。何も恐れることはないぞ。誰もそなたを取って喰ったりはせぬ』

 それを聞いて私は、とうとう泣き出してしまった。城主様に悪気が無いのは分かっていたんだが、その笑い声で、こっちの緊張の糸が切れちまってね。早く泣き止まなくては、と思うほど焦るのさ。自分でも困ったよ。

 すると今度は、奥方のビッサビア様が叫んだ。『あなた、やめてくださいっ。この子が怯えているでしょ』

 奥方様に叱られた城主様は首を縮めて、すまんすまんとか、おっしゃった。つまみ食いを見つかった、子どもみたいな表情だったよ。

 私は私で、奥方様の大声で泣き止むことができた。しかし、その分、城主様に迷惑をかけてしまったんで、申し訳ないという気もしたよ。それでうつむいていたら、なんと奥方様が抱きしめくださった。

 私は心臓が止まるかと思ったね。私を包み込む奥方様のお体は何とも暖かくて柔らかくて、その上いい香りがした。ちょっと見上げたら、美しいお顔で微笑んでくださるじゃないか。ああ、ビッサビア様は、私が人生で出会った美人の中でも、間違いなく五本の指に入るお方だったよ。

 それで私は、また泣き出してしまった。奥方様は驚いて、怖がらせてしまったのか、と私にお尋ねになった。私は夢中で、何度も何度も首を横に振って否定したよ。

『そうじゃありません。奥方様ほどの美しいお方に、こんなふうにしていただけるなんて思ってなかったんです。私はあの人との、リオールとの事で、ふしだらな娘と思われているんじゃないかって。それなのに奥方様がこんなふうにしてくださったから、ありがた過ぎて」

 これを聞いた奥方様のお顔は、たちまち険しくなった。

『さては実際に、あなたをそうやって、なじる者が居るのね。そんな口の悪い者には、それなりの報いを受けさせましょう。それが誰なのか遠慮なく、おっしゃいなさい』

 私は怖いやら、申し訳ないやらで、慌てて首を横に振った。私が勝手に一人で心配しただけです、と。

 すると奥方様は、こうお尋ねになった。

『では、あなた自身では、どう思うの。自分がした事を悪いと思っているの』

『父と母を悲しませた事は悪かったと思っています。でも私は、あの人に、リオールさんに尽くしたかったんです。結婚前で良くないとは分かっていました。でも、あの人が望むなら。あの人が喜ぶならって』

 私は思わず言ってしまった。初めてお会いしたばかりの奥方様にね。母さんたちにも似たような言い訳をしていたんだが、そん時は大して効果もなく、叱られたよ。

 しかし奥方、ビッサビア様の反応は違った。

『つまり一生懸命だったのね。あなたは好きになった男に応えただけ。一生懸命に応えた。悪いのは騙されたあなたじゃなくて、騙したあの男。あなたが悪いのではない。

 でも、あなたは心配だったのね。分かりますよ。巷の者たちは、とかく勝手なことを言いがちですもの。あなたは気づきながらも耐えてきたんでしょう。辛かったわね。でも大丈夫。これからは、私たちがあなたを守るから。

 今日まで、よくがんばったわね。本当によくがんばった』

 ゆっくり話しながら、私の額に何回も口づけしてくださった。

 私は、もうだめだったよ。わあわあ泣き出してしまった。奥方様が優しく抱きしめてくださるのに任せて、胸元に顔を埋めて泣きじゃくったのさ。あの時の気持ちは、嬉しいじゃ、とても足りないねえ。何と言ったらいいのか。とにかく安心した、と言うか。

 私は泣きながら思ったよ。やっと分かってくれる人に出会えた、と。しかも、その分かってくれた人が、こんなにも美しいお方だなんて。夢でも見ているというか、自分がおかしくなったのかと心配になったほどさ。

 気がついたら、私の涙や鼻水で奥方様の服が汚れていた。私が慌てて謝ったら、奥方様は、さらにお顔を輝かせてねえ。

『何言ってるの、この子ったら。服なんかより、あなたの方が何倍も大事』

 私を抱きしめて、こうも言ってくださったよ。

『あなたは、もう私の娘同然です。この城では私を母と思いなさい。いいですね』

 奥方様の腕の中で、私は必死にうなずきまくった。夢中で首を縦に振り続けたよ」

 セピイおばさんは一度、話を区切った。そして息をついた。

 そこで私は、すかさず口をはさんだ。

「すごい、いい人ね、そのビッサビア様って。その頃のお城の奥方様って、そんないい人だったの?今の奥方様は、良くも悪くも、特に噂が聞こえてこないけど。おばさんがお仕えした奥方様がそんなお優しい方で良かった。聞いていて、私も安心したわ」

 本当に嬉しかったからこその表明だったのだが。セピイおばさんの反応は思いのほか薄かった。暗くて、私からよく見えなかっただけかしら。

「まあね。私も感激したよ。

 だからもう、通いなんてまどろっこしい方法じゃ、私も満足できなかった。私はその場で、住み込みにさせてくださいと頼んだよ。

 ひざまずこうとした私を、奥方様は止めて、快諾してくださった。そして、その場に居合わせた女中の一人に指示なさった。女中たちが寝起きする部屋に私を案内するように、とね。

 その女中は了解しながらも『その前に』と奥方様に断りを言ってから、私にささやいたわ。

『あなた、ソレイトナックさんにお礼を言ったら』

 でも、本人が私より先に答えたよ。

『その気づかいは要らないぞ、ベイジ。リオールの件は、俺の監督不行き届きが原因なんだ。落ち度のあった俺が、礼の言葉を受けるわけにはいかない』

 それからソレイトナックは私に、済まなかった、と言うんだよ。びっくりしたのは、それだけじゃなかった。それまで黙って話を聞いておられた城主モラハルト様も、こう付け加えなさった。

『セピイよ、ソレイトナックを許してやってくれ。こ奴はすでに減俸処分を受けておるでな。しかも自分から申し出おった』

 これを聞いた途端、私は血の気が引いて、凍りつきそうな気分だった。さっきまで奥方様に抱きしめていただいて、体がほてるくらいだったんだが。私は、もう喚かんばかりに、必死で謝ったよ。

『も、申し訳ありません、やっぱり私が悪いんです。ソレイトナックさんに落ち度はありません。どうか処分を考え直して』

 でもソレイトナックは最後まで言わせてくれなかった。『やめろ、セピイ。これは、けじめなんだ』

 城の応接間は、まるで時間が止まったように静まった。

 私はソレイトナックを怒らせたと思って、しょげたよ。でも、奥方様が声をかけてくださった。

『いいのよ、セピイ。減俸で、ソレイトナックの気が済むの。好きにさせてあげなさい』

 それでご挨拶と話は終わりで、私は女中ベイジに連れられて、退出した。

 城の通路をしばらく進んだら、ベイジから言われた。

『セピイ。あんた、泣き過ぎ。いくら感激したからって、程があるでしょ』

 私は慌てて謝った。自分でも恥ずかしくなってね。

『感謝してるんでしょ』と続けてベイジが聞いてきた。

 私は『はいっ』と即答したが、焦って声が大きくなってしまった。

『だったら、しっかり働いて、奥方様の期待に応えることね』とベイジから言われて、その通りだ、と私も気持ちが奮い立ったもんさ。

 そして思った。マルフトさんもこんな気持ちだったんだなって」

 セピイおばさんは、また話を区切った。そして音もなく立ち上がって、一つだけある窓を少しだけ開けて、外を確認した。

「物音とか、特にしなかったけど」と私が内心驚きながら言うと、

「ああ、私だって何か聞いたわけじゃないさ」と言いながら、おばさんは椅子に戻った。

「それから必死で働いたよ。食器洗い、配膳、野菜の皮むきをしたり、肉をさばいたり。衣類はもちろん、テーブルクロスとか旗とかも洗濯してね。常駐している騎士様や兵士たちの紋章衣のほころびを縫い直したりもしたよ。分かるだろ。要するに、できることは何でもしたのさ」

「ほ、他の女中から意地悪されたりしなかった?」私は我慢できずに聞いてしまった。

 セピイおばさんの口元が軽く上がった。

「まあ、全然無かったわけじゃないけど。心配したほど、いじめられなかったよ。考えてみれば、先に女中になった姉さんたちとしては、それどころじゃなかったのさ。やることが多くて忙しかったからね。

 そりゃ何度も怒られたよ、姉さんたちには。でも、どれも私の物覚えが悪いからだ、と納得できた。

 それにね」

 セピイおばさんは、ふふ、と笑った。

「姉さんたちからすれば、私みたいな田舎出身の小娘、眼中になかったんだよ。

 それでいて、あの人たちはある意味、私と同じだったけどね」

「えっ。もしかして、そのお姉さんたちも田舎出身だったの?」

「そういう意味じゃないよ。目の向いている方向、関心の持ち方が、私と同じだったのさ。そりゃ田舎よりも城下町という発想はもちろんだよ。ただし街は街でも、ツッジャムよりメレディーン、メレディーンより都アガスプスって具合でね。さらにはヨランドラ全体の事や、このヨランドラと競い合う他の四カ国の事も、あの人たちは知りたがっていた。つまり、このタリン全体が知りたかった」

「そして海の向こうのヨーロッパ」

 私は思わず言ってしまった。セピイおばさんがニヤリとした。

「そう。誰かさんと同じで、みんな、広い広い世の中の事を知りたいのさ。女中たちだけじゃないよ。騎士様や下っ端の兵士たちだって、いつも耳をそばだてていた。要するに、ツッジャム城で寝起きする全員が、広く遠くに目を向けていたわけさ。

 でね。世の中を知るためには、何が一番、手っ取り早いと思う」

「え、えっと、城主様や奥方様に教わる?」

「違うよ、プルーデンス。いくら城主様たちでも、分からない事はたくさんお有りだ。城主様たちだって、知りたいんだよ。

 では質問を替えようかねえ。城主様ご夫妻をはじめ、城の住人は、どうやって世の中を知ったと思うかい。世の中の動きを知るために何をしたのか」

「ええ〜。そんなこと言ったって、私、お城に住んだ事無いから、城詰めの人たちの気持ちなんて分からないし」

 セピイおばさんは、声を抑えて笑った。

灯台もと暗しだねえ。今、あんたが私にやっている事だよ」

 私がおばさんに?思い当たるのに、私は数秒かかった。

「訪問客ね。城を訪れた人から話を聞いているのね」

「そう。ちょっと考えれば分かるだろ。ツッジャム城は、来客が多かったからね。まずは、ヌビ家の本拠地メレディーンからの使者だろ。続いて、ヌビ家と友好関係にある、他の貴族や修道院のお偉方。いろんな品物を納めに来る商人たち、とかね。同じ商人でも、遠方からやって来た貿易商なら、城主様たちも特に喜ばれた。

 それでお客がある度に、姉さんたちは仕事を取り合いっこだよ。『私がお部屋に案内する』『晩餐では、私が配膳も給仕もする』とか言ってね。私も負けじとって頑張ったけど、ほとんど譲ってもらえなかった。でも結局、姉さんたちもそうやって仕入れた話を、後でみんなに教えてくれたよ」

「いいなー。おばさんには悪いけど、やっぱり私も、お城の女中さんになりたい」

 私は、またしても言わずにはいられなかった。

「ちょいと。そんなつもりで話してんじゃないよ」

「だって、おばさんがお城でいろいろ仕入れることができた話って、街の市場なんかで聞く噂話よりも断然、内容が濃ゆそうなんだもん。いや、そうに決まっているわ」

「そりゃ、まあ、そうだが。しかし接客は、あくまで仕事であって、遊びじゃないんだからね」

「わ、分かってるわよ」

「ふふ、どうだか。じゃあ、いいことばかりじゃないって話もしておこう。

 ツッジャム城はね、ヨランドラでも結構大きい方らしいんだ。この辺り一帯に睨みを効かせる、要なのさ。だからヌビ家ほどの大貴族でないと、王陛下も任せてくださらないし、ヌビ家の中でも、ご党首様は実の弟にしか城主をさせない。それぐらい大事な城なのさ。

 だから来客が多い。しかも、とんでもないお客がいらっしゃる事もあってね。

ヨランドラ王家の紋章

 当時の王陛下の甥御さんをお迎えした時は、そりゃあ、もう緊張したよ。何たって、王族の一員だからね。粗相があったら大変ってことで、さすがに姉さんたちも取り合いっこなんかしなかった。大人しく、奥方様に指示を仰いだよ。

 私がツッジャム城に居た時にお迎えしたお客の中で、間違いなく一番高貴なお方だろう。お帰りになられた後で、城主様でさえ『さすがに骨が折れるわい』なんてこぼしておられた。

 そうかと思えば、お客が明らかに意地悪という場合もあってね。

 あれは、たしか私がツッジャム城に住み込みで働くようになって、二年目だったか。城主モラハルト様の従兄弟にあたるお方が、突然来られたんだよ。突然すぎて、城主様ご夫妻はお出かけ中だった。それで留守番役の騎士様たちや私ら女中が、その従兄弟様をお相手することになったよ。城内の一部屋を応接用に整えて、そこで少しばかり葡萄酒とちょっとしたお菓子をお出しして、くつろいでいただく。そうやって、城主様たちのお帰りを待つ手筈だった。

 ところが、どうした弾みか、姉さんの一人が葡萄酒をこぼして、その従兄弟様の紋章衣を濡らしてしまったんだよ。従兄弟様は、もうカンカンさ。

『どういうつもりか、これは。いくら親族とは言え、無礼であろうが。さては、これがモラハルトの俺に対する仕打ちか』

 なんて、姉さんそっちのけで、居合わせた騎士様に絡み出した。こちらの騎士様も内心ムッとしていただろうけど、相手は自分の主人の親戚だ。大きな体を折り曲げるようにして平謝りさ。

 しかし、プルーデンス。あんたも時々、見聞きした事があるだろ。こちらが下手に出れば出るほど、調子づいて、ますます怒りまくる。そんな型の人間。城主様の従兄弟は、まさにそれだった。姉さん本人はもちろん、騎士様まで散々、侮辱してね。その姉さん、ヴィクトルカさんはとっくに泣き出しているし、言われっぱなしの騎士様は爆発寸前だ。同僚である別の騎士様が、いつでも止めに入れるよう密かに構えていた。

 それに気づいたのか、それとも罵倒するのに飽きたのか、従兄弟様は、とんでもないことを言い出したよ。何と言ったと思う。その、葡萄酒をこぼしたヴィクトルカ姉さんに、一夜を共にしろ、と命じたのさ。閨の相手をつとめろ、と。そしたら無かった事にしてやる、とね」

「それをはじめから狙っていたんじゃない?」

「ああ、みんな、そう思ったよ。城主様たちが不在になる日を、どこかで事前に知って、計画したんだろう、とね。

 しかし推測ができたところで、状況は変わらない。相手は曲がりなりにも、モラハルト様の従兄弟。無下にはできないよ。ヴィクトルカ姉さんは泣きながら承諾した『言う通りにしますから、他の人は責めないでください』って。

 それを聞いて、私も思わず言ってしまったよ『私が代わりにお相手します』と」

「えっ、何で、おばさんが」私も思わず、声が裏返った。

「そのヴィクトルカ姉さんって人は、女中たちの中でも一番大人しいと言うか、物静かな人でね。私に対しても意地悪するどころか、いつも優しく接して、仕事も教えてくれていたんだ。

 そのヴィクトルカ姉さんの窮地に出くわしたもんだから、何とか助けたいと思ってね。気がついたら、叫んでいた。

 でも心ん中では、すぐに後悔した。城主様の従兄弟は途端に、粘り着くような目で私を見たんでね。

『ほう、同じ味見でも、より若い娘を試せるわけか。それなら俺も気が鎮まるぞ』と来た」

「あ、味見って」

「ああ、私も、忘れたくても忘れられない暴言だよ。

 しかも陽が落ちて、ちょうど暗くなり出した時間帯だった。『では早速』なんて言いながら、城主様の従兄弟が椅子から立ち上がった。

 ヴィクトルカ姉さんは、すかさず私とその男の間に割って入ってくれた『この娘は関係ありません。あなた様にご迷惑をおかけしたのは、この私です』と。後ろから姉さんが震えているのが見えたし、私もそうだった。

 そしたら城主様の従兄弟は、もっと酷い言葉を吐いたね『では、いっそのこと、三人で楽しもうや』だとさ。

『ふざけるなっ』と、いきなり怒号が響いて、私も飛び上がったよ。とうとう騎士様が爆発しちまったんだ。

 しかし城主様の従兄弟も腕に覚えがあるらしく、何とも冷たく鋭い眼で騎士様を睨み返す。

 で、今度こそ同僚の騎士様が、二人の間に割って入った。

 その時だよ。『待ちなさいっ』と、さらに別の声が響いた。奥方様と城主様が部屋に飛び込んで来てくださったんだ。

『ゲスタス、いい加減にしろっ。冗談にも程があるぞ』

 普段は穏やかなモラハルト様も、珍しく声を荒げた。モラハルト様のそんなお姿を見たのは、たしか、その時が初めてだったろう。

 ああ、それで思い出しちまった。モラハルト様の従兄弟は、ゲスタスという名前だった。ヴィクトルカ姉さんと違って、こっちの名前は忘れたかったんだがねえ。

 モラハルト様は続けて、おっしゃった。

『なるほど、お前の紋章衣を汚したのは、こちらの落ち度だ。しかし紋章衣の替えなら、この城にも有るわ。好きなだけ持っていけば良かろう。女たちに閨の相手を要求するなど、筋違いぞ』

 ゲスタスは、さすがにモラハルト様には遠慮した。『うーん、少々いたずらが過ぎたかな』なんて舌を出しながら言うんだよ。舌を出しながら、だよ。

 そんな態度だから、ビッサビア様は、ますますお怒りになられてね。

『あなたっ、今すぐ、この人を追い出して。従兄弟かどうかなんて、関係ありません。この娘たちをこんなに怯えさせて』

 目を吊り上げて、ゲスタスを睨んでくださった。ゲスタスは、こちらの騎士様と睨み合った時とは打って変わって、首をすくめたよ。

『奥さん、そんなに怒らんでくれよ。最近、女たちに相手にしてもらえんかったもんで、さみしかったんだよ。それで、つい』とか言ってね」

「い、言い訳になってないわ」

「ああ、だから奥方様をかえって怒らせただけさ。それで、ご夫妻から急き立てられて、ゲスタスは従者たちと一緒に、ようやく退散した。

 モラハルト様は騎士様たちを『よく堪えてくれた』と労い、ビッサビア様はヴィクトルカ姉さんを慰めながら、事情を把握なさった。そして振り向いて、鋭い口調で私にお尋ねになった。『なぜ閨の相手など、自分から申し出たのですか』と。

 私は、日頃良くしてくれるヴィクトルカ姉さんを助けたかったことと、リオールとの件で自分はすでに傷物なんだから、自分が犠牲になった方がいいと思ったことを説明しようとした。

 している途中で、ビッサビア様の平手が私の頬を思い切り叩いた。私は泣きそうになったけど、すぐに動けなくなったよ。ビッサビア様の目が濡れていたんでね。

『私は、そんなことをさせるために、あなたをここを置いたのではありません。私はここで、あなたに生きる力や知識を身につけさせたいのです。閨の相手だなんて、二度と口にしないで』

 後は、ヴィクトルカ姉さんと女三人で抱き合って泣いたよ。ビッサビア様は済まなそうに私の頬を何度もそっと撫でてくださった。ヴィクトルカ姉さんは『私が至らないばかりに、あなたにまで心配させて』と、なかなか顔を上げてくれなかった。

 それをお聞きになったモラハルト様が説明してくださったよ。そもそもヴィクトルカ姉さんの落ち度でも何でも無かった。ゲスタスが仕向けたのさ、姉さんが葡萄酒をこぼすようにね。しかも、ゲスタスはその手の常習犯でね。本城メレディーンからゲスタスに注意するよう、回状も届いていたそうだ」

「ほんと、ろくでもないわね」

「プルーデンス、呆れるのは、まだ早いよ。回状が出回るって事は、それだけ被害に遭った、泣かされた女が居るって事だ。私やヴィクトルカ姉さんは、運が良かっただけ。城主様ご夫妻の権威に助けられたんだからね。お二人の権威がゲスタスに引けを取らないから、ゲスタスは諦めて退き下がった。お二人がゲスタスより位が低い貴族だったら、と想像してごらん。私も姉さんも、泣き寝入りだよ。弄ばれるだけ弄ばれてね」

「そんな人でなしが、何でヌビ家に居るの。いくら親族でも追い出すべきよ」

「同じ質問を、奥方様が城主様になさったよ、きつい口調で。モラハルト様は顔をしかめて言い訳しておられた『あれはあれで戦(いくさ)に役立つからなあ、そう簡単に追放もできん』と。

 それを聞いてビッサビア様はこう、おっしゃったもんさ『それなら、せめて前線送りにしてください』とね。

 ちなみに、後でこんな話も聞いたよ。私ら女中にこっそり教えてくれたのは、あの激昂した騎士様を必死に止めた、同僚の騎士様だ。その騎士様の推測では、ゲスタスはモラハルト様を妬んでいるんだろう、と。同じ一族の中でも、モラハルト様はツッジャム城を預かり、ゲスタスの方はどこの領地か知らないが、とにかく城は無いからね。スケベ心だけじゃなく、嫌がらせも兼ねていたに違いないって。

 分かっただろ、プルーデンス。女中はもちろん、城主様たちですら、いろいろと大変なんだよ。こういう事も、いつか、あんたに話しておきたい、と思っていた。あまり気分のいい話じゃないがね」

「教えてくれてありがとう、セピイおばさん。気をつけるためには、まず知らなきゃならないもんね」

「そういうこと。

 では、あと少し話を続けるか。

 三人で散々泣いて落ち着いたら、奥方様がにっこり笑っておっしゃった、晩餐を楽しんで気分を変えよう、と。私もヴィクトルカ姉さんも元気よく返事ができたよ。

 で早速、厨房に向かいかけたんだが、ベイジが待ち構えていた。さっと近寄って小声で言うには、今回もまたソレイトナックに礼を言っておけ、と。城主様ご夫妻を呼び戻してくれたのは、ソレイトナックだったんだよ。

 そこで厨房に行く前に、ヴィクトルカ姉さんと二人してソレイトナックに駆け寄った。でも、お礼の言葉を受け止めてくれないところまで前回と同じでね。『大の男が告げ口めいたことをしただけだ。恥ずかしいから、あまり言わないでくれ』と来た」

「ふふっ、意外とかわいいとこ、あるじゃん」

「まったくだね。

 で、ふと気がついたんだが、ヴィクトルカ姉さんの頰がほんのり紅くなっていた。これには私もさすがに、ピンときたよ。考えてみれば、姉さんとソレイトナックは見るからに同世代だったからねえ。小娘の私には、お似合いに見えたよ」

「いいねー。やっと、私好みの展開になってきた。もちろん、おばさんは応援してあげたんでしょ」

 私は、わくわくしながら尋ねたんだけど、予想に反してセピイおばさんは即答しなかった。それどころか珍しく口ごもる。

「半分応援して、半分応援しなかった、ってところかねえ」

「おばさん、まさか」言いかけて、私は言葉が続かなかった。

「ああ、そのまさか、だよ。あの時は、私も結構あの人を好きになりかけていた」

「だ、だめじゃん。ひいおじいちゃんも、それを心配していたんでしょう」

「ああ、リオールなんかに言われなくてもね。でも、するな、なんて言われたら、かえって、してみたくなる事もあるだろ。あのアダムとイブが、それでやらかしたんじゃないか。私も、かえってソレイトナックを意識してしまったんだよ。

 もしかしたらリオールは、こうなる事を狙って、わざと言ったのかも、なんて勘ぐったほどさ」

「でも、リオールの時と同じようなことにならない?」

「自分でも、それを心配したよ。ただリオールの時と違って、向こうからは全く近づいて来なかった。城に住み込み始めた一年はソレイトナックと、ほとんど会話しなかったねえ。城主様たちに私を紹介して、それっきり。避けられているのか、とも思ったよ。だけど、すぐに余計な心配だと分かった。ソレイトナックは城主様の使者として、あちこちに外出する事が多かったのさ。すれ違ってばかりになるのも当然だよ。

 もっとも、これを私に教えてくれたのは、姉さん女中たちだがね。もう分かるだろ。その姉さんたちもソレイトナックを目で追っていたんだ。というわけで、競争相手も多かった。だから、もう私みたいな小娘の出る幕じゃないよ。そもそもソレイトナックは、私とリオールの関係を知っているんだし。とてもじゃないが、振り向いてもらえるとは思えなかった」

 ふうん。私は聞きながら、ちょっと困ってしまった。ソレイトナックとの関係の進展を願ってあげるべきなのか、分からなかったのだ。

 ふと思いついて私は、こんな質問をした。

「もしかして、ひいお爺ちゃんや、ひいお婆ちゃんにも、その気持ちを話したの?」

「ああ、実はね。って、あんたも、なかなか鋭いね。

 あんたと同じで、ひいお爺さんとひいお婆さんさんも、私がソレイトナックを好きになってないか尋問してきた。女中を一年勤めて、初めて里帰りした時にね。で、正直に話しながら、同じ説明をしたのさ。べつに嘘ついているわけじゃないからいいだろ」

「そう、ね」くらいしか、私は返事できなかった。セピイおばさんが私に言い訳するなんて。珍しすぎて内心、驚いた。

「て言うか、ソレイトナック自身は誰か好きな人がいないのかしら」

「それが謎なんだよ。一度、結婚するにはしたけど、奥さんは亡くなったらしい。しかも子どもは無し。城主様も、しきりに再婚を勧めているという噂だった」

「そもそもソレイトナックって何なの。騎士ではないみたいだけど」

「城主様の従者の一人で、かつ、執事みたいなもんかねえ。たしかに分かりにくい人だった」

 私は、ふうん、とつぶやくしかなかった。つかみどころがなくて、ソレイトナックという男を持て余した。はたして、おばさんの味方として期待していいのか。

「プルーデンス、話を続けてもいいかい」

「も、もちろん」

 私は、また心を読まれたかと思った。

「分かりにくいと言えば、もう一人。ネマさんだ。あの人も分からなかったねえ。

 はじめは、私も思っていたよ。ネマも他の姉さんたちと同じで、ツッジャム城で女中をしているんだろう、と。ところが、いざ私も女中として働き出したら、あの人と一緒になる事は半々くらいだ。見かけたり、見かけなかったり。不思議に思って、姉さん女中の一人に聞いたら、ネマは奥方様のお使いで外に出る事が多いんだ、と」

「ははあ、ソレイトナックが城主様のお使いで、ネマは奥方様のお使いなのね」

「そういうこと。あんたも気づくのが早いね。

 だからと言おうか、姉さん女中たちの間では、ネマとソレイトナックの仲を怪しむ意見が多かった。

 当然、ソレイトナックに気がある姉さん女中たちはネマを嫌ってね。まあ、露骨に衝突したりはなかったけど。ネマがこちらの仕事に加わったら、姉さんたちの口数が途端に減ったもんさ。それまで、楽しそうにおしゃべりしていても、だ。ネマ自身も気づいていたはずだよ。あの人が気づかないはずがない。

 まあ正直に言えば、私も、あの人は苦手だったね。リオールの件では協力してくれたとは言え、何だか得体の知れない人に見えて。

 しかも、だ。あの人、ネマがソレイトナックと並んで立っている姿を見たら、すごく似合っていた。私は思わず目を見張ったよ。ヴィクトルカ姉さんがソレイトナックと並んでいる時より格段に似合っていたからね。違和感が無いと言うか、すっかりなじんでいた。私は密かに嫉妬したよ。ヴィクトルカ姉さんのためと自分のための、二重の意味で」

 セピイおばさんは、そこで話を区切った。

 で、私も気づいた。おばさんの嫉妬は本物だ、と。おばさんはネマの話を打ち切りたがっている。触れたくないけど、避けられないから、仕方なく片付けている感じ。なら、話題を替えるか。

「ベイジはどうなの。ベイジも時々、助けてくれるみたいだけど」

「ふふっ、あんたって、ほんとによく気がつくわね。

 私がツッジャム城で働いている時に一番気が合ったのは、ベイジなんだよ。歳もすぐ上で、一番近かったからね。商家の出身で頭の回転が早かった。そのくせ正直なんだから、呆れるじゃないか。

 知り合って半年くらい経った頃だよ。ベイジったら、私に何て言ったと思う。『あたしも、ソレイトナックさんに気があるんだよねー。だからソレイトナックさんに自分のいいところを見せたいわけよ。セピイ、協力してね』だとさ。これから男と逢い引きに行くから仕事の当番を代わって、とでも言いそうなノリだった」

「それで、やたら『お礼を言っておけ』なんて勧めたのね」と私。

「そうそう、そうなんだよ。

 で、仕事の合間に、二人で城内をちょこまかしてね。ソレイトナックを見つけたら、目の前でベイジが私に何か仕事を教えているふりをするんだ。あんまりしつこく探し回ったんで、ほかの姉さん女中たちの目についたんだろうね。『また随分と、けちな作戦だね』なんて、よく笑われたもんさ」

「効果は」

 私が聞くと、セピイおばさんは笑い出した。

「あるわけないだろ。まずソレイトナックがなかなか捕まらないし、やっと近くに行っても、あの人は私らをほとんど見ていなかった。

 でも楽しかったねえ。二人して、お目当ての人を追っかけて回すのは」

 聞きながら、私にも想像ができた。緊張の多い城の生活でも、その時だけ二人の少女がはしゃぎ回る、屈託のない姿。話題を替えてよかった、と私も思えた。

「うーん、それを聞いたら、また女中さんになりたくなってきたなあ」

「まあ。ああ言えば、こう言う、だね。何回も言うが、やめときな。あんたの父さんと母さんが心配するよ」

「し、心配すると言えば、ひいおじいちゃんは、おばさんの様子を見に、お城に来たの?ソレイトナックは、いきなり来てもいいって言ったんでしょ」

「ふふ、上手くかわしたね。

 来たよ。一度、すぐ下の叔父さんを連れて、城門の前をうろうろしていたら、門番から声をかけられたそうだ。つまり門番は、あらかじめソレイトナックから言い含められていたのさ。いつか私の親族が訪ねてくるだろうから、と。父さんたちは門前払いを覚悟していたのに、逆にあっさり中に入れてもらえたもんで、びっくりしていたよ。

 しかも、城主様ご夫妻が会ってくださったから、もっとびっくりだ。父さんは、てっきりソレイトナックが出てくるか、私に会うだけ、と思っていたらしい。それがまさか、城主様たちのところに案内されるじゃないか。父さんは城主様から握手されて、カッチカチに固まっていた。叔父さんも叔父さんで、奥方様に見とれてね。居合わせた騎士様に睨まれて、縮み上がっていたよ。父さんたちが帰った後、私はその叔父さんのことで、騎士様や姉さん女中たちから散々笑われて、恥ずかしかった。

 さらに悪いことに、叔父さんは村までの帰り道の途中で鼻血を出したそうだ。もちろん、その事は、城詰めの誰にも話してないよ」

「その叔父さんは、二度とお城に行かない方がいいわね」

「実際、父さんたちは、そう決めたようだ。次に私の様子を見に来る時は、他の親族を同行させてね。

 私は父さんたちが来たのは、その一度だけと思っていたんだけど、何回か離れたところから私の様子をうかがっていたらしい。兄さん、つまり、あんたのお爺さんが叔父さんの代わりに同行してね。門番に見つかって、また中に上げられたら緊張するから、城下町の物陰に隠れていたんだ、と。

 ちょうど、そこへ私がベイジや姉さん女中たちと一緒に城門から出てきたそうだ。私はベイジたちと楽しくおしゃべりしながら、近くの商家まで歩いて行ったらしい。それを見た父さんは安心して、泣いていたそうだ。後で母さんから聞かされた時は、心配させていたんだと改めて思い知ったよ。

 だからね、プルーデンス。あんたは、こんな余計な心配をかけたらいけないよ」

 うぐっ、まんまと話を戻されてしまった。

「分かり、ました。

 あ、ちなみにニッジ・リオールは来たの?思い出させて悪いけど」

「ふふっ、また、かわそうってわけかい。あんたも、しぶといねえ。

 来たよ、一度だけ。それも、さっきのゲスタスと同じで、私が女中になって一年が過ぎて、二年目に入った頃だ。こっちは父さんたちと違って、はっきりと門前払いだったね。門番たちにからかわれていたよ。『昼間じゃなくて夜に来いよ。ソレイトナックさんに、そう言われたんだろう』とかね。

 私は姉さん女中たちから知らされて、城門の上に登ったよ。ただし、顔を出さないよう言われて。そこの胸壁の隙間から、こっそり覗いてみたのさ。夏の暑い日だった。リオールは頬っぺた以外にも、二の腕や手の甲に、ヒュドラらしい入れ墨が彫られていた。少し頰がこけて見えたね」

「まさか、かわいそうとか思ったの?」

「ちょっとね」

「ええっ、だめじゃん。甘いとこ、見せちゃ」

「まったくだよ。それで油断して、あいつに見つかっちまった。途端に『俺の話を聞いてくれ』とか喚き出してね。もう、うるさいと言うか、面倒くさくなったと言うか。自分でも失敗した、後で姉さん女中たちから叱られるなあ、とか心配していたら、ベイジから言われたよ。

『返事したら、だめよ。それより、私が返し方のお手本を見せるから』

 ベイジは私の肩をぽんと叩いて、立ち上がったかと思ったら、胸壁の凹みから顔を出していた。

『あんた、そんなに相手が欲しいんなら、ミアンカか誰かと寄りを戻せば?』

 これが門番たちにウケて、笑い声が起こったよ。姉さん女中たちも『上出来よ、ベイジ』とか褒めていた。

 でも私は、また気の毒に思えて。それに気づいたみたいに、あいつは喚き続けた。

『セピイよ。俺を笑っても、憎んでもいい。だが、一つだけ答えてくれ。お前、もしかしてソレイトナックに惚れていないか。はっ、さては惚れたんだろっ。やめろっ。あいつだけはやめとけ。せめて他の男にしてくれ』

 とかね。もう、ソレイトナックに気がある姉さん女中たちにも丸聞こえだから、焦るやら恥ずかしいやら。ベイジから言われなくても、返事のしようがないよ。

 きっと姉さん女中たちも、内心イラついたんだろうね。姉さんたちの一人が、こんな返しをしたよ。

『だから、演説は夜まで取っておきなって。晩餐でまた会えるのを楽しみにしているわよ』

 それで、また門番や兵士たちが笑って。リオールは、やっと諦めて帰っていった。何度もこちらを振り返って、ひどく遅い足取りだった」

「おばさん。ちょっと意地悪な質問をして、ごめん。その後、お姉様方から意地悪されたりしなかった?」

「ふふ、お姉様方か。ありがとよ、心配してくれて。でも、特に無かったよ。機嫌は悪かったけどね。私の方からも、しばらく目を合わせられなかった。

 ただ気になって、一つだけ尋ねてみた。リオールは、ちゃんと奥さんと子どもを養っているのか、と。しかし、尋ねた相手が悪かったのかねえ。その姉さん、スネーシカさんの答えは、こうだった。

『私も同じ質問をソレイトナックにしてみたのよ。でも彼によると、そこは大丈夫みたいね。彼の部下たちが時々、確認に行っているんだって』

 私は、スネーシカ姉さんにお礼を言うしかなかった」

「ひえー。私はソレイトナックと直接、話してんのよって、仄めかしてんじゃん、思いきり」

「ふふ、おっかないだろう。だから、女中なんて、やめときなって言うのさ」

 ぐぬ。また、そこに話を戻された。しかし私は、へこたれないぞ、と。

「そういえば、そのお姉様方もベイジみたいに商家の出身なの?」

 セピイおばさんは、私の魂胆を読みきって、からから笑い出した。

「まあ、商家もあるけど、あと、ヌビ家より格下の貴族家が多いね。ヴィクトルカ姉さんが、そうだし。いずれにせよ、ご奉公しながら教育を受けさせてもらおうって段取りなのさ。

 田舎の農家出身なんて、私だけだったよ。

 やっぱり、みんな、世の中をよく知っていたねえ。もしかしたら内心、私を馬鹿にしていたのかもしれないけど、なんだかんだ言って、たくさん教えてくれたよ。ツッジャム城からヌビ家の本城メレディーンまでは、どれくらいの距離か。都のアガスプス宮殿に駐在する若手騎士で、誰が一番の美男子か。とかね。

 時には、地面や羊皮紙とかに地図を描いて説明してくれた事もあったよ。そりゃあ大雑把なもんだけど、おかげで覚えやすかった。

 タリンの他の国で、ヌビ家みたいな名家はどこなのか。あるいは、海向こうのヨーロッパの教皇様や王侯たちの事。十字軍の戦況まで教わった時は、びっくりしたよ。ザンギーとか、ヌールッディーンって、知っているかい?敵方サラセンの大将の名前だよ」

「まあ、おばさんったら、サラセン人の名前なんて覚えたの?その分、他のことを覚えればよかったじゃない」

「そうとも限らないよ。ツッジャム城を訪れる騎士様や司教様たちの話に、これで結構ついていけるんだからね。話についていけたら、こちらからも気になった事を質問できるだろ。そうすれば、話が広がるんだ。別の話につながる事もある。話を引き出せるってわけさ。

 いいかい、プルーデンス。女中は何事も勉強だよ。何気ない会話ですら、ね。それを面倒くさがるようじゃあ、女中は務まらないよ」

 うぐっ、またしても。これはもう、確信犯だわ。セピイおばさんは、どうあっても私に女中を諦めさせたいらしい。どうやって抵抗しようか。

「で、でも、おばさん。奥方様はいい人じゃない。お仕えして、学ばせてもらわない手はないわ」

「何言ってんだい。ビッサビア様が特別だっただけだよ。あんたが今からツッジャム城に行ったって、あの方はもう、いらっしゃらないんだからね。

 それに、よその奥方様で、あの方みたいに優しいお方なんて、一度も聞いた事が無いよ。きつい叱り方をなさる奥方様の話ばかりさ。

 でもまあ、たしかにビッサビア様はよく声をかけてくださったねえ。

 しかも度々、抱きしめくださるんだよ、他の女中たち、姉さんたちの前で。後々やっかまれるんじゃないか、と私は気が気じゃなかった。それで、ベイジに相談してみたよ。そしたら呆れられた。

『逆。奥方様から見れば、あなたがそれだけお子ちゃまってことよ。ま、あれだけお美しい方に抱きしめもらえるなんて、ちょっと羨ましいけど。

 でも、いつまでも、そんなふうにしてもらっていいわけないでしょ。だったら奥方様があなたを心配しないで済むように、早く仕事を覚えることね。私も教えられることは教えるから』だとさ」

 これを聞いて私は、うーん、と唸ってしまった。気に入られたいのは山々だけど、子ども扱いを望んでいるわけじゃない。

「さてと、今夜はこれくらいにしておこうかねえ」

 セピイおばさんが言い出したので、こっちは慌ててしまった。

「えっ、もう?」

「明日に備えて、寝なさい。私も休むよ」

 言いながら、セピイおばさんは私たちの間にあった椅子を取り除けて、ロウソクの皿を持ち上げた。ロウソクは、ほとんど溶けかかって、柱の形じゃなくなっていた。

 セピイおばさんは私に、その皿を持っていくように言って、離れから送り出した。

 別れ際にセピイおばさんは言った。明日から、もっと混み入った話になる、と。

(第五話に続く)