紋章のような

My name is Samataka. I made coats of arms in my own way. Please accept my apologies. I didn't understand heraldry. I made coats of arms in escutcheons.

自作小説「塔の上のセピイ  〜中世キリスト教社会の城女中の話」第六話(全十九話の予定)

第六話 意に沿わぬ振る舞い

 

「では、話させてもらうよ。

 次の日、お勉強とかが終わると、ヒーナ様は私とベイジに『昨日の塔に行こう』と言い出した。スネーシカ姉さんが隠れて、泣いていた場所。そこなら大事な話ができる、と。

 三人で塔の螺旋階段に入る前に、ヒーナ様が兵士を一人、引っぱってきた。階段の入り口で見張りをするよう、言いつけてね。『女同士の話に聞き耳を立てたりしないでしょうね。そういうことは、男として恥ずべきことと思いなさい』とか釘を刺した。その兵士は固まっていたよ。

 階段を登って、塔の上に出ると、町並みをよく見渡せた。そうだ、思い出した。あの時は二日続けて、雲一つ無い青空だったんだ。こっちは、あんな辛い話を知らされたのにね。お天道様は知らんぷりかって気分だったよ。だから私だけじゃなく、ヒーナ様もベイジも、心ん中じゃ、雲が立ちこめまくっていただろう。

 ヒーナ様は大して景色も楽しまないで、私とベイジの手を握って、顔を覗きこんだ。

『私、考えたの』とヒーナ様は話し始めた。昨夜、泣きながら考えた、と。ヒーナ様は、自分自身がヴィクトルカ姉さんと似たような運命を辿りつつある、と結論したそうだ」

「えっ、何で。何で、そうなるの」

 驚きのあまり、私は椅子をガタつかせてしまった。

「ベイジも、そういう反応をしていたよ。

 ヒーナ様の言い分ではね、好きでもない男に無理やり犯されるのだから、自分もヴィクトルカ姉さんと同じ、ということだった。お母様であるビッサビア様の血をひいて美しく、かわいらしいヒーナ様がはっきり言ったんだ『犯される』とね。目をうるませながら。私もベイジも絶句してしまったよ。

 それでも何とか頭を巡らせて、私は、そっとお尋ねした『婚約者のマムーシュ様を好きになれそうにないのですか』と。

 そしたらヒーナ様は、力んでお答えになったよ。『無理。絶対、好きになれない』とね。

 それを聞いて私とベイジが顔を見合わせたのも、分かるだろ。ヨランドラ随一の名家の若様をつかまえて、それじゃあ、ビッサビア様のお言いつけ通りに励ますなんて不可能だ。かえってヒーナ様は意固地になっちまう」

「そのシャンジャビ家のマムーシュって、そんなに不細工だったの?」

「逆。むしろ色男で女たらしという噂が、私にもちょっと聞こえてきたくらいだよ。ヒーナ様も、その噂をご存知だった。

 ついでに言えば、ヒーナ様が修道院に居た時に、マムーシュの方から一、二回訪ねてきて、顔合わせも済んでいたしね」

「うーん。容姿が悪くないんなら、少しは我慢できそうなもんだけど」

「ヒーナ様が言うには、マムーシュと会った際に『美しい自分には、女の方から寄ってきて当然』みたいな傲慢さがひしひしと伝わってきて、吐き気がしたそうだ」

「と、とにかく合わなかったってことか」

「それもあっただろう。

 しかしヒーナ様は、こうも言うんだ『そもそも、他に好きな人がいる』んだと」

「え、まさか」

「もう予想がついたのかい。そのまさか。ソレイトナックだよ」

「またあ?誰も彼も、ソレイトナックって状態ね。どんだけモテるのよ」

「何でだろうねえ。なぜか女は、あの人と少しでも知り合いになると、それ以来、あの人のことが気になって仕方なくなるみたいで。あの人からは、ちっとも近づいて来ないのに」

「もしかして、お嬢様がリブリュー家との縁談をぶち壊したのも、ソレイトナックへの気持ちがあったから?」

「どうも、そうらしい。さすがにご両親には、その本音を隠し通したようだがね」

「で、お嬢様も今度こそ結婚を覚悟しなきゃいけないと頭では分かっているけど、好きでもない夫に抱かれるのは、つまり犯されるのと同じってわけ」

「そういうこと。それで、耐えられないと言って、ヒーナ様は泣き出した。

 私とベイジも、すっかり困ったよ。傍目には名家同士の、非の打ちどころも無い、見事な縁組なんだがねえ」

「でもヒーナ様は、やっぱり結婚しなきゃいけなかったんでしょう?」

「そうだよ。それでヒーナ様は望まない結婚を我慢するために、とんでもない妥協策を考えなさった」

 えっ。何だか嫌な予感がしてきた。セピイおばさんは、しかし私に構わず続ける。

「ヒーナ様は『ソレイトナックに自分の初めてを捧げたい』と言い出したんだ。『好きでもない男のために貞操を守り続けるなんて馬鹿々々しい』ってわけだよ。まあ、婚約者マムーシュも女たらしと言われるくらいだ。童貞のはずがないから、分からないでもなかったよ」

「で、で、おばさんとベイジは協力したの?」

「したよ」

「でもセピイおばさんも、ソレイトナックが好きだったんでしょ?ベイジも」

「ああ、二人とも彼が好きだった。だからベイジは途端に押し黙ってね。さすがに言葉には出さなかったが、明らかに嫌がっていた」

「おばさんも嫌だったんじゃない?」

「そりゃ嫌だったけど、断れないじゃないか。あくまでも私とベイジは女中で、ヒーナ様は主人だ。敬語抜きなんて約束をしても、だよ。

 それに、ヒーナ様の事情も分かるだろ。もし私とベイジが断ったとしたら、それは自分たちの気持ち、都合を押し通したってことだ。その後のヒーナ様は、どうなる。ヒーナ様のお気持ちは少しも尊重されずに結婚を強いられる。我慢させられる。ヒーナ様としては、あまりにも一方的で、理不尽と思われるだろう」

「でも」

 と私は言いかけた。セピイおばさんは、私の顔を覗き込んできた。続きを待っている。そうされると、かえって言葉が出ない。

「でも、仕方がない、と言うかい?そりゃ、あんたは、この私には言えるだろう。私はヒーナ様本人じゃないんだから。

 これで分かっただろ。私もベイジも、ヒーナ様には、とてもじゃないが、それは言えなかった。断れなかった。

 それにしても、ヒーナ様もよく考え込んだもんでね。私らが渋々、承諾する以前に、だめ押しと言うか、とどめを刺してきた。

『あなたたち二人は、結果はともかくとして、自分で納得した上で、自分の初めてを男に捧げたんでしょ。

 でも私は、このままでは、それすらできなくなるのよ。何も納得していないのに、奪い取られる。二度と取り返せない、大切なものを。だから今のうちに捧げておきたいの。

 それでも、二人は私の考えを我がままだって言うの?』

 なんて主張をしながら、ヒーナ様の声が、だんだん大きくなっていくんだ。いくら塔の上で人払いしたからって、それじゃ丸聞こえだ。私は泡食って、ベイジと二人でヒーナ様をなだめるのに苦労したよ」

 う、うーん。聞きながら私は、うなってしまった。

「おばさんとベイジがお嬢様に協力しなきゃならなくなったのは、分かったけど。でも、どうやって協力したの」

「あんたが不思議がるのも無理ないよ。私らだって、どうしたらいいか分からなかったんだから。

 でも、とにかくソレイトナックをつかまえるしかない、と思った。話は、それからだと。

 私も困ったよ。ヒーナ様は結婚が近づいてきたと言って、焦っておられる。だから急いでソレイトナックをつかまえたいところだが、騒ぎすぎて周りに気づかれてもいけないだろ。

 何しろ私らは、結婚直前のお姫様の貞操を破る手伝いをしようってんだ。城主様ご夫妻の耳に入ったら、お叱りどころか、どんな仕置きを受けることやら。想像もつかなかった。

 それで、城内で姉さん女中や兵士たちにソレイトナックの居場所を聞いて回るのも、控えてね。城内をうろうろしても、静かに、さりげなくってわけさ。

 その上、これが一番困った事だったんだが、ベイジがまったく乗り気じゃなくて。彼女の目が私を責めるんだよ(いくら友達とは言え、何で好きな男を譲ってやらなきゃいけないのか)(何でセピイは積極的に協力するのか)とかね。明らかに、ヒーナ様と私を責めていた。おかげで私は、ヒーナ様とベイジの間で板挟みだった」

「うーん、聞けば聞くほど、無理な気がする」

「ああ、私も、何度も挫けかかったよ。やるだけやったけど、彼はつかまりませんでした。そう報告して済まそうか、と思った事もあったくらいだ。

 しかし、それじゃヒーナ様も不憫だし。わたしゃ文字通り、途方に暮れたよ。

 でもね。あんたも、よく覚えておきなさい。そういう八方塞がりと言うか、どうにもならないように思えた時は、周りをよぉく見渡すんだ。そしたら意外なきっかけや助っ人が見つかるかもしれないからね。

 私の場合は、マルフトさんだった。マルフトさんが城下のお屋敷からお城に上がるところに、ちょうど出くわしたんだ。

 私は慌ててマルフトさんに駆け寄って、頼んだ。ソレイトナックをつかまえてほしい、と。私から説明できる事情は半々くらいで悩ましかったが、とにかく私が困っていることだけは、マルフトさんも理解してくれた。それで快諾してくれたよ。ソレイトナックに声を掛けて、厩の、馬車のそばまで連れて来よう、と。

 私は、マルフトさんがソレイトナックを呼びに行っている間に、急いで羊皮紙の切れ端を探して、伝言を書いた。『ヒーナ様から、あなたに大事な話がある。二人きりで会ってほしい』とか、ごく短く、ね。

 それでマルフトさんとソレイトナックが厩で世間話を始めたら、私が馬車の陰から、その切れ端を渡した。小さく折り畳んで、ソレイトナックの掌に押し込んだんだよ。切れ端を掴んだソレイトナックは、私をチラッと見ただけで、またすぐにマルフトさんとの会話に戻った。

 で、世間話が終わると、ソレイトナックは私に声も掛けずに、厩から出て行った。私も、馬車の陰からマルフトさんに礼を言って、そこを離れた。

 次の日、私とベイジはヒーナ様から、また塔の上に呼び出されたよ。塔の上で三人揃うや否や、ヒーナ様は両腕で私とベイジの首に抱きついてきた。そして声を押し殺して、泣き出したんだ。ソレイトナックから手紙をもらった、と。朝起きたら扉の隙間から手紙が入っていた、と言ってね。

 その文中でソレイトナックは、ヒーナ様と二人きりで会うことには了承してくれたらしい。ただし、ヒーナ様は結婚を控えた身だから、いろいろと気をつけて行動しなければならない、と釘も刺していた。ご両親である城主様ご夫妻はご存知なのか、それとも秘密にするのか。文中で尋ねながら、しかしソレイトナックはヒーナ様からの答えを待たなかった。

『ヒーナ様のご結婚の日が迫っていて、時間がありません。私ソレイトナックは、あえて城主様ご夫妻にも内密にして、まずヒーナ様とお会いします。ヒーナ様とお話して、城主様たちに報告しても良さそうだと判断すれば、後日そうさせていただきます』

 とか断りを入れて。

 ソレイトナックは段取りも考えてくれていたよ。ヒーナ様が修道院で世話になった司教がツッジャムの郊外におられるとかで、その人のところに行くという口実で馬車を出す作戦でね。結婚の心構えを教わりに行くとか言えば、ビッサビア様も喜んで送り出してくださるだろう、と踏んだのさ」

「よく頭が回るわね。モテる男は仕事も早いってことかしら」

「生意気、言うじゃないか。聞かされた私は切なかったんだよ」

「でも、作戦決行したんでしょ?」

「ああ、したよ。ベイジは協力してくれなかったけどね。当日『体調が悪い』とか言って寝床から出てこなかった。仕方ないから、ヒーナ様には私だけが付き添ったよ。あと、御者はソレイトナックだ。

 そうだ、この日も馬鹿みたいに天気が良かったねえ。ソレイトナックは『急ぎますよ』と断って、馬車を飛ばした。がたがた揺れる馬車の中でヒーナ様は、ずっと私の手を握っていた。

 郊外に建っていた司教の教会堂にも、あっという間に着いた。で、ヒーナ様は、そこで一時間ほど司教とお話しなさったよ。こうして司教をお訪ねしたという事実、と言うか、体裁は整った。

 後は帰り道だ。ツッジャムの城下町に入る前に、ソレイトナックとヒーナ様は話し合いながら、人目のつかない場所を探した。そして、途中で見かけた林に決めたよ。

 ソレイトナックは、林の中に馬車を乗り入れて、止めた。そして私が馬車から出て、替わりにソレイトナックが中に入る。私は、余計な邪魔者が近づかないように、外で見張りさ。

 でも正直、私自身が馬車から遠ざかりたかったよ」

「見張りを務めているふりをして、馬車から離れるっていうのは、どう?」

「それも考えたが、ヒーナ様から事前に言われていたんだ。『自分たちの会話は聞かないでほしいけど、離れすぎないでね』と」

「我がままねえ」

「仕方ないよ。だから、しばらくは馬の前に行ったり、近くの木の間をうろうろしたり、していた。なんとか、それくらいの距離は取らせてもらおうと思ってね。もちろん、こっちだって聞き耳を立てるつもりなんてなかったし、馬車も極力、視界に入れたくなかった。

 良いのか悪いのか、邪魔者は、ちっとも現れなくてね。近くの村人や木こりでさえ、一人も通り掛からなかった。

 乱暴な男にでも絡まれたら、小娘の私じゃ追っ払えない。そう考えれば、これはこれで、いい方なのか。それとも邪魔者が来た方が、ソレイトナックを馬車から呼び出せるのかも。なんて考えも、一度は浮かんだよ。

 そのうち、自分で自分が分からなくなった。一体、自分は何を望んでいるのか。ヒーナ様のお立場には同情するけど、ソレイトナックを取られるのは、やっぱり辛い。でも自分を押し通したら、ヒーナ様がかわいそうだし。

 ああ、こんな時にベイジが居てくれたらな、と思ったよ。そのくせ、ベイジがずるく思えて腹が立つ気持ちもあった。自分を押し通したベイジの強さが妬ましいような。

 つまりは、あれこれと考えを巡らせていたのさ。時間潰しのつもりは、なかったんだけどねえ。

 そしたら。とうとう聞こえてきたよ。私としたことが、聞いちまった。ヒーナ様のか細い泣き声を。

 私は一瞬、その場で動けなくなった。で、もしかしたらヒーナ様はソレイトナックから拒まれて、願いが叶わなくて泣いているのかも、とも思った。そういう甘い見通しにすがりたかったのさ。

 でも、だめだった。息づかいまで聞こえてきたんだ。二人分の息づかいが。あるいは、聞こえた気がしただけかもしれない。そんな甘い考えが、また頭の中に浮かんだよ。しかし耐えられなかった。私は転げるようにして、そこを離れて、木の根元に座り込んだ。両手で耳を塞いだら、涙が出てきたよ。

 私も馬鹿だねえ、まったく」

「そんなこと、ないわ。友達のために気を使って、譲って、我慢したんじゃない。おばさんは、がんばりすぎたくらいよ。

 それより二人は、やっぱり、したのかなあ、あれを」

「しただろうよ。後でヒーナ様から馬車に呼び戻されて、帰りの道中で礼を言われたからね。おかげで自分を捧げる事ができた、と。ソレイトナックに二回も捧げる事ができたそうだ。

 馬車の中で、ヒーナ様は泣きながら私に抱きついてきた。あれは辛かったよ。ヒーナ様も、もう服を着ていたとは言え、あの人と抱き合った場所で、あの人に抱かれた体で、私を抱きすくめるんだ。触らないでって叫びそうになるのをこらえるのが、どれほど大変だったことか。

 声はそれで何とかなったが、涙の方はだめだった。ヒーナ様が私の本心に気づないうちに、早く泣き止みたかったんだが、焦れば焦るほど、滲み出て。ヒーナ様は私がもらい泣きしていると勘違いして、事無きを得たけど」

 セピイおばさんは、そこまで話して、また閉めた窓の方を見た。雨音は、だいぶ落ち着いていた。

「な、なんか、大変だったね。

 でも、それでお嬢様も覚悟と言うか、決心がついたんじゃない?」

「そう思いたかったんだがねえ。ヒーナ様は次の日も、まだ私にだけ、ぐずぐず言っていた。『実は馬車の中で、駆け落ちしたいとソレイトナックに頼んだけど、断られた』とかね」

「ええ〜、大丈夫なの?」

「大丈夫も何も、あっという間に結婚式当日を迎えちまったよ。

 ヒーナ様は正装して、馬車を何台も連ねて出発となった。城主様ご夫妻も、婚約者マムーシュのお屋敷まで同行なさる。当然、護衛の騎士様や兵士たちもね。

 それとスネーシカ姉さんも、ヒーナ様の侍女として一緒にマムーシュのお屋敷に移ることが決まった。私としては、ヒーナ様とスネーシカ姉さんの二人同時にお別れだよ。せっかくのお祝い事が、寂しさばかりが気になった。

 式は、マムーシュのお屋敷近くの教会堂で派手に、賑やかに行われる予定だった。

 ヒーナ様に同行しない私ら女中や、居残り組の騎士様、衛兵たち、使用人たちは、全員でお見送りさ。もちろん、ベイジもだよ。

 私は、馬車に乗る直前のヒーナ様にお別れの挨拶をしようと、ベイジも連れて行った。ヒーナ様とベイジは向かい合ったものの、なかなか言葉を交わせないでいたよ。私ばかりがしゃべるようだったが、ベイジもやっと絞り出すようにして言ったんだ。『お幸せに』と。

 それを聞いたヒーナ様の目から、涙がぽろぽろこぼれた。そしてヒーナ様はベイジの手を握って、小さい声で『ごめんね』と答えた。

 三人の中で一番歳下とは言え、さすがにヒーナ様も、ベイジが急に心を閉ざした理由を察していたのさ」

「ついでに、その時のおばさんの気持ちも察してほしかったけどなあ」

「いいんだよ、私は。それよりベイジとヒーナ様ができるだけ仲直りしてから、ヒーナ様に旅立ってほしかった。多少、ぎこちなさは残ったが、贅沢は言えないさ」

 セピイおばさんは、また話を区切って、私との間にある椅子を軽く持ち上げた。置いていたロウソクを確かめるためだ。だいぶ溶けていたが、まだ大丈夫だろう。

 

「ヒーナ様が出発した後も、なかなか忙しいと言うか、落ち着かなかったねえ。城内の人間が半分近くになって、居ない人の分の仕事も回ってきたりして。

 でも本当の問題は、寝る直前だった。珍しくネマから声を掛けてきたんだよ、私とベイジに。ネマは城内の通路でも隅の方に、私らを誘導した。

 で、何を言い出すのかと思えば、スネーシカ姉さんに関してだ。今後は、スネーシカ姉さんについて話さない方がいい、話題として取り上げないように、とネマは言うんだよ。

『あなたたちはスネーシカさんと仲が良さそうだったから、私がこういうことを言うと、気を悪くするでしょうけど。どうか、こらえて聞いて』とか断ってね。

 これに対して、それまですっかり口数が少なくなっていたベイジが急に顔を上げて、ネマを睨んだ。

『ええ、気分が悪いわ。何でスネーシカ姉さんが、そんな扱いを受けなきゃいけないのよ』

 そしたらネマは、こう答えた『城主様たちの会話を聞いてしまったからよ』と。

 ベイジは、すかさず反論した。

『スネーシカ姉さんに悪気は無かった。偶然聞いてしまっただけだし、城主様ご夫妻にも自分から正直に報告したのよ。私たちだって、その事を話題にするつもりは無いわ』

 口調が強くなるベイジと反対に、ネマは淡々と教え諭す口調になった。

『もちろんスネーシカさんには、何の悪意も無かったでしょう。それは私も認めるし、城主様ご夫妻も理解してくださっているわ。

 でも、そんなことは関係ないの。城主様たちの会話を聞いてしまったという事が、重要なのよ。

 よく考えてみて。城主様ご夫妻は貴族。それも、かなり上位の貴族よ。そして私たちは、そんな城主様たちに仕えることで生活している。身分は平民の私たちも、貴族の社会に加わっているの。

 そして、これが一番大事なことだから、よく聞いて。貴族という人たちは、いつも戦っているのよ。戦が無い時も、何もしていないように見えて戦っている。戦うという言い方が変に聞こえたら、競争していると考えて。

 今回のお嬢様の結婚だって、ただのお祝い事じゃない。ヌビ家とシャンジャビ家以外の貴族家に対する牽制を兼ねている。さらには、そのシャンジャビ家とも、密かにしのぎを削るように競い合っているわ。

 だから城主様たちだけでなく、全ての貴族が何らかの秘密を抱え、逆に他の貴族の秘密をつかもうと躍起になっている、秘密は弱味とも言える場合が多いわ。相手の弱味をつかめれば、その相手より優位に立って、交渉でも実際の戦でも勝てるでしょ。

 そんな中で、スネーシカさんは城主様たちの会話を聞いてしまった。そりゃあ真面目な、あの人に悪気は無いでしょう。ましてや他の貴族家からの回し者じゃない事も、ちゃんと確認できたわ』

 ここでネマの長い解説を遮って、ベイジが声を荒げたよ。

『回し者って何よ。スネーシカ姉さんが、そんなはずないじゃないっ』

 そしたらベイジの声が聞こえたのか、他の姉さん女中が二人、ベイジとネマの間に割って入ってきた。

『やめな、ベイジ。ネマも分かっていると言ってんじゃないよ』

『悪気は無いじゃ済まない事態だ、とネマは言っているの』

 とか言ってね。その姉さんたちも、日頃はネマと特に親しいわけではなかったはずなんだが。珍しく彼女の肩を持つようで、私には不思議に思えた。

 さて、ここで質問するよ、プルーデンス。あんたもネマの説を不思議に思うかい?」

「う、うーん。いつも戦っているって、ちょっと大げさなような」

「おや、あんたにしては甘いねえ。大甘だよ。何のために私とあんたが、こんな手間の込んだ会い方をしていると思ってんだい。盗み聞きされないため、だろ。

 全然、不思議じゃないんだ。ネマの考え方がごく普通なんだよ、貴族の社会では。

 ついでに、加わった姉さんの一人、アキーラから聞かれたよ『あんたたち、まさか、まだ気づいてないの?』って」

 ん、気づく?私は首をかしげた。セピイおばさんが答えを教えてくれた。

「厄介払いだったんだよ。スネーシカ姉さんがヒーナ様の侍女として、シャンジャビ家へ同行したのは」

 私は、あっと声をもらした。

「そ、そんな。スネーシカは、おばさんたちや城主様たち以外に話していないんでしょ?頻繁に盗み聞きしたわけでも、あちこちに言いふらしたわけでもないんでしょ?」

「もちろん、そうだよ。そして、それでも済まないということなんだ。

 もう一人の姉さん、メロエも言ったよ『スネーシカの処分は贅沢な方』だって。

『これが城主様ご夫妻じゃなかったら、別の貴族だったら、どんな罰を下されたか分かったもんじゃない』とね。最低でも笞打ち。本当に他の貴族家からの回し者だった日には、首を刎ねられてもおかしくない。

『それでも、まだいい方よ』と、アキーラも付け加えた。

『これで主人がモラハルト様じゃなくて、あのゲスタスだったら、と考えてごらんなさい。ねちっこく犯された後で殺されるに決まっているでしょ』とまで言ったよ。

 つまり、それに比べれば、スネーシカ姉さんの場合は、格段に恵まれている、と言うのさ。追い出されたとは言え、次の仕事まであてがってもらったんだからね。

 これを聞かされて私も、すっかり驚いたよ。

 そのことをスネーシカ姉さん本人は知っているのか。私も、アキーラとメロエに尋ねた。二人が言うには『おそらく知らないだろう』と。モラハルト様たちも、シャンジャビ家を上手く活用することを思いつきなさったんだ。わざわざそこまで話さない方が、スネーシカ姉さんを気持ちよく送り出せる。

 私は絶句したよ。しかしアキーラとメロエは、私らの気持ちなんかお構いなしに、交互に念を押した。

『とにかくスネーシカという名前は、もう二度と口にするんじゃないよ。特に、城主様たちの前では』

『私たちも、どうやらスネーシカが城主様たちの会話を聞いてしまったらしいことだけは気づいたわ。

 でも、それがどんな話だったのか、その内容までは知らないし、これからも知るつもりはない。だから、あんたたちも私たちに話さないでね。決して、誰にも話さないで』

『むしろ、あんたたちも早く忘れなさい。その方が身のためよ』

『分かったら、ネマに絡んだりしてないで、早く寝なさい』

 二人は言うだけ言って、去っていった。それで私とベイジも大人しく指示に従おうと歩きかけたら、ネマから最後に一つだけ、と呼び止められた。

『怒っているでしょうけど、私は別にスネーシカさんを悪く言いたいんじゃないの。あなたたちがこれからも、この城で生活するには必要な心構えなのよ』

 そう言ったネマの顔は真剣だった。

 でもベイジは『はいはい、分かりました』とか、わざと雑な返事をして、私より先に女中部屋に戻っていった。

 私は頭の整理がつかなかったが、とりあえずネマに悪意が無い事を認めて、忠告の礼を言っておいた。

 気のせいか、ネマは少し寂しげに見えたよ。

 で、私もベイジを追って女中部屋に戻ることにした。

 けどねえ。すぐに振り向いて、ネマを見てしまった。さっきの真剣な表情と、寂しげな顔。去っていく、背が高くて、細い後ろ姿。その隣にソレイトナックの後ろ姿も並んだら。

 何でだろうねえ。何でか、そんなことばかり考えてしまうんだよ」

 セピイおばさんは無意識でか、天井の方をぼんやり見上げた。

「そんなにお似合いなの?ソレイトナックとネマって」

「似合っている、と言うか、似た者同士に見えたねえ、私には。あの二人が」

 そういうこともあるってことかな。私は聞きながら、そう考えるしかなかった。

 それにしてもスネーシカが知ったのは、友人ヴィクトルカの秘密であって、城主様たち自身の秘密じゃないのに。

 でも、これを言うと『だから女中は、やめとけ』なんてセピイおばさんから結論されそうだから、のみこんでおこう。

「で、スネーシカはともかく、ヒーナお嬢様は今度こそ結婚生活で幸せになったの?」

「それなんだが。

 順番としては、その前に、いくつか浮いた話をしなくちゃならない」

「浮いた?混み入った、じゃなくて?」

「そうだよ。本格的に混み入るのは、浮いた話の後さ。

 じゃあ始めるよ。気恥ずかしいから、早く済ませたいんだ」

 セピイおばさんは一度、私から目をそらした。

 おや、これは。私も何だか、そわそわしてきた。

 

「ヒーナ様の結婚式から城主様ご夫妻が戻ってこられて、一週間くらいしたか。城下町全体がお祭りになったんだよ。

 例年ならヌビ家の守護聖者様の祝日より少し早かったんだが、その年だけモラハルト様が良しとしなさった。何でか分かるかい。娘であるヒーナ様の結婚祝いを兼ねて、領民たちにお祭りを楽しんでほしいというお心づかいさ。しかもお祭りにかかる費用を、かなり負担してくださったらしくてね。

 盛り上がると言うか、城下町が沸き立ったねえ。大きな戦が無くても、国境沿いでは小競り合いが絶え間なく起こっているし、国内でも、やれ日照りで不作だ、流行り病だと嫌な話ばっかりだ。そこへ来て、お祭りなんて、格好の憂さ晴らしじゃないか。町人たちは喜んで、ヒーナ様の結婚を祝った。城主様ご夫妻を褒め称える声も、あちこちで上がったよ。

 女中や使用人、兵士といった城詰めの者たちも交代しながら、それぞれお祭りを楽しんでくるよう、お達しがあった」

「城主様たちは、ずいぶん気前がいいわね。お嬢様の結婚式が済んだのが、よっぽど嬉しかったんじゃない?」

「逆に言えば、ずっと悩みの種だったんだろうよ。ただ単にヒーナ様を早く結婚させたかったんじゃない。できるだけ多くの利益をヌビ家にもたらす結婚をさせたかった。それが、ついに実現したわけだ。

 たしかに、城主様ご夫妻はご機嫌だったね。城主様たち自身も馬車で、城下町に繰り出しておられたほどさ。

 こういうお祭りの時はね、城下町でも、あちこちに人溜まりができるんだよ。市場はもちろんだが、広場とか教会堂の前とかも。なぜって、よその地方から大道芸人や吟遊詩人が、ここぞとばかりにやって来るからね。連中にとっては、貴重な稼ぎ時だろ。ツッジャムの住人にとっても、お祭りを盛り上げてくれる、ありがたいお客だよ。

 そういう芸人たちが手品を見せたり、お芝居の舞台を構えてたりして、町人たちが群がっているところを、城主様ご夫妻は馬車で巡回なさった。もちろん、そのどこでもお二人は大歓迎だったらしい。先にお祭りを見に行った姉さん女中が興奮しながら話してくれたもんさ。

 それで今度は、自分もベイジと一緒に出かけようと思ったんだけど、ベイジは、いつの間にか居なくなっていた。私は置いてきぼりにされちまったんだよ」

「あらっ、予想外ね」

「多分、私がヒーナ様に積極的に協力した件で、まだ怒っていたんだろう。そう考えるしかなかった。

 で、手持ち無沙汰で、城壁の上からお祭りを眺めていたんだ。正直、町に繰り出した人々が羨ましかった。そしたら同じく城壁の上に居合わせた衛兵の一人が声をかけてきてね。『一緒にお祭りに行く相手が居ないんなら、俺が務めてやってもいいぜ』と来た。

 私は固まってしまったよ。まったく面識がない兵士じゃないが、日頃からよく会話していたわけでもない。だから警戒する気持ちも働いたが、お祭りに行きたくもある。

 迷っていたら、物陰から小さく抑えた声が聞こえてきた。『セピイ、断れ。一緒に行く男が居ると言え』と。

 衛兵はまだ任務についていて、私とは離れたところに立っていた。だから、その声は、衛兵には聞こえていなかったはずだ。

 で、私はその声に従って衛兵に返事してやったよ。『間に合ってますよーだ』ってね」

「ふふっ、おばさん、かわいい」

「笑わないでおくれよ。あの頃は、まだ若すぎて上手い切り返しなんて、できなかったのさ」

 言い訳しながら、セピイおばさんも思い出し笑いになっていた。

「で、そいつは大人しく退き下がったの?」

「そうとは言えないねえ。『どこのどいつだ』なんて、しつこく問い詰めてきて。私は、そいつを放っておいて、さっさと城壁を降りたよ。

 そして声の主を探そうと思った。すると、声の主の方から動いてくれたね。通りかかった私の手をつかんで、物陰から出てきたのさ。ソレイトナックだったよ。半分驚きながら、半分は声で期待もしていた。

 ソレイトナックは周りを気にしながら、私に仮面を差し出した。『これを付けて、一緒に町に出ないか』なんてね。ソレイトナック自身は、すでに仮面を付けていて、それを少し持ち上げて顔を見せていた」

 おやぁ、と言いそうになるのを、私は、こらえた。

「私も仮面を付けて、ソレイトナックについて行ったよ。

 ソレイトナックは仮面を付けても人目を気にして、城門には近づかなかった。どんどん城壁の下へ降りて行って、細い地下道に入るじゃないか。その扉は壁に溶けこんで分かりにくいし、鍵はソレイトナックが持っていた。入り口にロウソクの皿まで置いてあって。

 そんな地下道があるなんて、もちろん私は知らなかったよ。二人で通りながら、ソレイトナックからも口止めされた」

「ちょ、ちょっと待って、セピイおばさん。ツッジャム城に地下道があるなんて初耳だわ。それこそ城主様たちの会話よりも、はるかに知ってはならない秘密なんじゃない?」

「正解だよ、プルーデンス。その発想、考え方をこれからも失くさないでおくれ。

 実際、ソレイトナックもロウソクの皿を片手に言ったよ。『俺がセピイにこの地下道を話したことが城主様の耳に入ったら、まずいんだ。いくら寛大な城主様でも、俺とセピイの首を刎ねなきゃならなくなる』とね。城詰めの騎士様たちの中でも、地下道を知っておられるのは、半分くらいだそうだ。でもね」

 セピイおばさんは一度区切って、ニヤリとした。

「ソレイトナックは、こうも言ったよ。『おそらく城主様は、まだ他にも地下道をお持ちだろう』と。ソレイトナックにも誰にも言っていない地下道があるに違いない。『もちろん、それを詮索してはならない』とね」

 聞いた私は、開いた口が塞がらなくなった。

「要するに、そういうもんなのさ。お城とか、城主様ってのは」

 セピイおばさんは私の驚きに構わず、話を続けた。

「しばらくしたら登りの階段になって、その一番上でソレイトナックは扉に手をかけた。で、外の様子を確かめていたんだが、もう、その時からお祭りの賑わいが聞こえてきたよ。ソレイトナックはロウソクの火を消して、石造りの床の隅に、その皿を置いた。そして持ってきていた外套を私に着せて、私の手を引いて外に出た」

「えっ、外套まで用意していたの?ほんと、そつがないわね、ソレイトナックって」と私も思わず口をはさんでしまった。

 セピイおばさんは「そうだねえ」としか答えなかった。薄暗くて見えにくいけど、多分おばさんは赤くなっている。

「予想はついていると思うけど、ソレイトナックと私が出てきたところは、すでに城下町だったよ。日陰で、ひとけの無い路地裏でね。つまり、いつの間にか城のお堀を通り越していたのさ」

「ということは、地下道はお堀の下をくぐって伸びていたのね」

「そういうこと。

 で、ソレイトナックは私の手を引きながら、建物の陰から通りの往来をのぞき込んだ。

 そして私に尋ねた。『俺の案内でも、祭りを観に行きたいか』と。私が緊張しながら『行きたい』と答えると『そのためには仮面と外套は外せない。それでもいいか』と、さらに尋ねてきた。

 私は深くうなずきながら、ソレイトナックもどうも緊張しているらしいことに気づいたよ。どこか困っていると言うか、弱っていると言うか。いつものソレイトナックなら、仮面を付けていても、そんな気弱そうな気配は出さないはずなのに。

 ソレイトナックはね、三つめの質問を用意していたよ。二つめから三つめまでは黙って、数秒かかった。そして尋ねる前に、私の手を握っている自分の手に力を入れたんだ。その手が少し震えていた。

『案内の最後に、俺はお前を宿屋に連れ込むぞ。それでもいいか』

 言い切ると、ソレイトナックの手の震えがひどくなった。私も震えながら、首を縦に振ったよ」

 きゃーっ。叫びそうになるのをこらえて、私まで震え出した。

「プルーデンス。笑わないで聞いておくれよ。急いで済ますから。

 ソレイトナックは私に、何度も念を押すんだ『本当にいいのか』と。その度に私はうなずくのに、ソレイトナックときたら、なかなか安心してくれなくてねえ。思わず仮面を上げて涙を拭いたら、ソレイトナックは、もっと心配し出した。『俺が怖いんじゃないのか』とか勘違いしてね。

 それで私は、べそをかきながら説明した。『いつもベイジと一緒にだけど、私はずっと、あなたを探して、追いかけていた。あなたも気づいていたはず』と。

 ソレイトナックは『気づいてはいたが、ベイジがいる手前、お前に話しかけられなかった』と答えた。さらに、こうも付け加えた。『第二のニッジ・リオールと思われるのが怖かった』とね。

 それで、今度は私から言った。『散々リオールに遊ばれたから、あなたには振り向いてもらえないと思っていた』

 すると、ソレイトナックから抱きしめられたよ。仮面がつぶれるかと思ったら、ソレイトナックが私の仮面をずらし上げた。自分の仮面も額まで上げて、私を見下ろしてね。

『俺はあいつが憎い。初めてお前に会って、話を聞いた時から、俺はあいつが憎くて仕方なかった。

 初めてお前を見た時、俺にはお前がまぶしかった。お前と一緒にいられたら、どんなにいいか。お前を、誰にも渡したくないと思った。だから、だから、あいつに一時期でもお前を奪われていた事が、俺は悔しくてならない。

 俺はあの日以来、ずっと嫉妬していた。嫉妬で、気が狂いそうだった。顔に出さないようにすることに毎日、必死になっていた』

 とまで言ってくれたんだよ。

 私は嬉しかった。嬉しくて倒れそうで、そのままソレイトナックの胸元にもたれた。心から何もかもソレイトナックに預けきってしまいたい、と思ったよ」

 セピイおばさんはそこまで話すと、深く息をついた。

 聞いている私は、こんなふうに情感を込めて話せるような経験ができた大叔母が羨ましかった。

 と、ここで、セピイおばさんの口調が少し改まった。

「でもね、あんたも気をつけるんだよ。こういう、いいこと尽くしの時に限って、人ってもんは油断して、しょうもない失敗をやらかすのさ。

 私の場合は、ヒーナ様だった。聞かれてもないのに、ヒーナ様を話に出してしまったんだ。

『私なんかでいいの?ヒーナ様の方が私より何倍も美しくて、可愛らしいわ』とか言ってね。何で、そんな余計なことを言ったのか、と自分でも情けなく思うよ。

 ソレイトナックは途端に、痛みに耐えるような表情になった。まるで暴漢か誰かから、急に刃物で刺されたみたいに。

『俺には、ヒーナ様よりお前の方が断然いい。俺が一緒になりたいと思うのは、セピイ、お前なんだ。

 そうだ、セピイ。何であの時、俺をお嬢様に差し出したんだ』

 そう言って、一瞬ソレイトナックが怒ったかと思ったら、震える手で私の頬を撫でた。すごく悲しそうな顔をしていたよ。

 私は答えた。ヒーナ様からの頼みで、断れなかったこと。自分も本当は協力したくなかったこと。しかし、それでは望まない結婚を強いられるヒーナ様の思いが取り残されて、不憫に思えたこと、なんかをね。

 話しているうちに、私も気持ちが高まって涙が止まらなくなった。

『私だって、私だって、あなたを取られたくなかった。たとえヒーナ様でも、ベイジや他の姉さんたちでも、あなたを譲りたくなかった。馬車の見張りなんて、本当はしたくなかった』

 そう言って、泣きじゃくってしまったら、ソレイトナックも慌ててねえ。

『済まない、セピイ。お前を責めているんじゃないんだ。てっきり、お前はそこまで俺に気がないんじゃないか、と心配して』

 なんて言うから、私はあの人の腕の中で首を横に振った。激しく横に振ったよ。そしてお祈りの文句みたいに『あなたが好き』と何回も繰り返した。ソレイトナックは、また私を抱きしめたよ」

 きゃーっ。今度は、とうとう小声が出てしまった。セピイおばさんが、ばつの悪そうな顔をしている。

「で、その後、どうしたかと言うと、肝心の祭り見物を後回しにして、仮面をつけて宿屋に直行したのさ。言い出したのは、私だよ。ソレイトナックは何度も『本当にいいのか』と聞いてきた。私からは『どうか、ふしだらな女と思わないで』と頼んだ。『あなたが長い間、嫉妬に苦しんだ分、あなたの思いを叶えてあげたい』とも言ったんだ。

 ソレイトナックは、すらっと背の高い人でね。そのまま覆いかぶさってこられたら、小さい私なんか潰れそうなもんだが、ソレイトナックはすごく優しく扱ってくれた。ただ自分が上にならない時は、私をきつく抱きしめた。

 私は嬉しくて、何度もすすり泣いてしまったよ。で、ソレイトナックは『痛かったのか』とか、また心配し出した。私は答えた。『ヒーナ様やベイジとか、あなたに思いを寄せている他の人たちに申し訳ない』と。そしたらソレイトナックは言ったよ。

『連中のことは、もう言うな。気持ちはありがたいが、向こうが勝手に思っているだけだ。俺がそばにいてほしいのはセピイであって、連中の気持ちには応えられない』

 私は、また泣けるくらい嬉しかったけど、あと一つ気になることがあった」

「さては、ネマでしょ」

「早いねえ。その通りだよ。それで、ソレイトナックにネマのことを尋ねたら、何て答えが返ってきたと思う?ソレイトナックは呆れて、苦笑いしていたよ」

 今度は、私も予想がつかなかった。

「いとこ同士だったのさ、二人は。『そんなふうに見られていたのか』と、ソレイトナックは驚いていた。

 宿屋では、けっこうゆっくり過ごしたねえ。『祭り見物で歩き回るからには、お前を休ませたい』とかソレイトナックが言ってくれて。でも結局、私の方から甘えて、いちゃついたりして。もう、お祭りなんてどうでもよかった。私があの人の腕の中で目を閉じていると、ソレイトナックは約束してくれたよ。城主様に、私との結婚を許してもらうこと。そして、その後でこの村に来て、私の父さんと母さん、兄さんにも認めてもらうことを」

 セピイおばさんは、そこで話を区切って、閉じた窓の方を見た。音が聞こえない。雨が止んだか。

 おばさんは、なかなか話を再開しなかった。私も急かさない。急かせない。二人の行く末を知っているから。

 セピイおばさんは、今日まで一度も結婚していない。つまりは、そういうこと。ソレイトナックの約束は、そういうものだったわけだ。

 セピイおばさんにとっては、醒めないでほしかった夢。そして醒めざるを得なかった。

「それから、また仮面と外套で変装して、ようやく町に繰り出した。

 町の人々は、みんな楽しそうだった。と言うか、幸せそうだったね。私もソレイトナックと手を繋いで歩きながら、自分も同じように幸せなんだ、と信じていた。その延長で、ベイジやヒーナ様に申し訳ない気もしたよ。まったく余計なお節介なのにねえ」

 セピイおばさんは、ため息をついた。急ぐと言った割には、つっかえている。この後の展開が心配になってくる。

「お祭りでは、いろんなことをしていたよ。広場に紐の長いブランコを建てて、子どもだけじゃなく大人も順番待ちしていたり。腕相撲や弓矢の射的大会に豪華な景品が出ていたり。

 口を縛った熊に芸をさせる猛獣使いなんかも居たよ。

 ある道化師は、お手玉や手品で観衆を集めておきながら、近くにいた中年の修道女のお尻を触ったりして怒られ、笑いを誘っていた。

 そうかと思えば、きざな吟遊詩人がハープ片手に歌って、若い娘たちを集めているところもあって。それを見て、若い男たちも寄ってきたもんさ。

 芝居小屋なんて、観客が溢れんばかりだったね。聖書や遠いギリシャの話を元にしたお芝居は、ソレイトナックから解説してもらって、初めて内容が分かった。

 食べ物にも事欠かなかった。たくさんの屋台が並んでいて、ソレイトナックも私に焼き菓子を買ってくれたよ。

 酒を飲みながら歩いている連中も多かった。杯片手に酔っ払って、歌い騒いだり、喧嘩したり。

 そうそう。私ら以外にも、仮面を付けている人は少なくなかったんだ。私とソレイトナックの仮面は顔全体を覆うものだったが、みんながみんな、そうとは限らなかった。額から鼻まで隠して、口は出している仮面とか、花や鳥の羽根をたくさんあしらった仮面とかね。鳥の嘴や狐に似せて、鼻先が長く尖った仮面も、けっこう多かった。要するに、みんな仮装も楽しんでいたのさ。私らの仮面は、むしろ地味な方だったよ」

「なら、おばさんとソレイトナックだって、誰にも気づかれないわね」

「そういうこと。時々、姉さん女中とか使用人とか、知り合いも見かけたんけど、誰もこちらに気づかなくて助かった。見つかったら、後がうるさいどころじゃ済まないからねえ」

 セピイおばさんは少し笑った後で、数秒黙り込んだ。

「そうやって二人で祭り見物を楽しみながらも、ソレイトナックは、いつしか城に向かって歩いていた。『遅くとも、陽が沈む前には城に戻ろう』と。後で城のみんなから、あれこれ勘ぐられないためには、それぐらいの配慮が必要だったのさ。

 それで、お祭りの喧騒を眺めながら、少しずつ城に戻っていたんだ。そしたら途中で、ソレイトナックがベイジを見つけたよ。大通りの反対側を、ベイジは城の若い兵士と連れ立って歩いていた。

 私も、その兵士を少しだけ知っていた。日頃から、よくベイジに話しかけてくる若者だったからね。カーキフという名前も、さすがに私も覚えた。

 ベイジは本人に、はっきり言ったもんさ。『あんた、私に気があるんでしょ。悪いけど、こっちは、そんな気は無いわよ』なんてね。

 それでカーキフは凹んで、しばらく近づいて来ないんだけど、一週間くらい経ったら、また雑談に加わって来たりしてね。ベイジとカーキフは、ずっとその繰り返しだった。

 二人を見つけた大通りは、馬車や山車が何台も並んでいて、私たちと二人の間は隔てられていた。それでも一瞬、ベイジたちが山車の方を指差した時に、こちらを見た気がした。私はソレイトナックの隣で、飛び上がりそうになったよ。でもベイジたちは、また別の方に顔を向けて談笑していた。

 遠ざかる二人を見ながら、ソレイトナックも言ったよ。『何だ、ベイジもいい奴をつかまえたじゃないか。カーキフは真面目だから、ベイジを任せて大丈夫だろう』とね」

 聞きながら私は、うーんと小さく唸ってしまった。ベイジが心からカーキフと祭り見物を楽しんでいたか、どうか。

「それから、また二人で路地裏に戻って、誰も見ていないことを念入りに確認して、地下道に入ったよ。ソレイトナックは入り口の床に置いたロウソクの皿に火を灯して、拾い上げた。

 そして暗い地下道を、二人で進んでいった。しばらくして階段まで行き着いて登ると、その最上段の踊り場の床に、ソレイトナックはロウソクの皿を戻した。二人分の仮面も、私を隠した外套にくるんで、ロウソクと反対側の隅に外套ごと置いたよ。

 そこまで済ますと、ソレイトナックは改めて私を振り返った。そして、また私の手を握ったんだ。その手に力が入ったよ。

『もし、しばらくして体調が悪くなったりしたら、必ず言ってくれ。どうかお願いだから、隠したりしないでくれよ。俺は、お前だけに背負わせたりしないからな』

 私が了解しても、『絶対だぞ』なんて何度も念を押すんだよ。私は嬉しくて、ソレイトナックを疑う気なんて、少しも起きなかった。

 それからソレイトナックは私を抱き寄せて、こうも言ったよ。『城内に戻る前に、もう一度お前が欲しいくらいだ』なんてね。

 私も意を決して『あなたが望むなら、ここでも』と言いかけた。

 でも、すぐにソレイトナックに遮られたよ。『それくらいの気持ちだ、と言っただけだよ。俺の我がままなんかに合わせなくていい』とね。

 で、ソレイトナックは一度、私をぎゅっと抱きしめてから、扉を開けて、城内に入った。二人とも、すぐ別方向に歩き出して、人目を避けた。

 私は、とりあえず女中部屋に戻ったよ。部屋は空っぽだった。町に繰り出した人は、ベイジを含めて、まだ戻ってなくて。先に戻っていた姉さん女中たちは、すでに厨房とかで仕事していた。陽は、まだ沈みきっていなかったよ」

 

 セピイおばさんは、私との間に置いた椅子をちょっとずらして、またロウソクを確かめた。

「じゃあ、あとちょっと話して、今夜はお開きにするか」

「えっ」と私は声が出てしまったが、たしかに今夜は内容があり過ぎた。

 セピイおばさんは私に構わず、話を再開した。

「夜になっても、戻らない人たちが何人かいたねえ。ベイジもその一人だった。お祭りも、まだ続いていたよ。

 晩餐でモラハルト様と騎士様たちが、そんな戻らない人たちのことを噂したりして、談笑しておられた。ていのいい酒の肴ってわけさ。

 その晩餐で給仕を務めたのはソレイトナックで、まさか私も、手を振ったりするわけにはいかないだろ。離れたところから見ていたが、それだけで自分の顔が火照るのが分かった。

 ソレイトナックの方は、私をチラッと見ただけで、いつもの通り、無表情さ。昼間、宿屋であんなにいちゃついたのが嘘みたいだったよ。まさか私は夢でも見ていたのか、なんて、ちょっと不安にもなった。まあ、すれ違いざまに髪を撫でてくれたんで、安心したがね。

 翌朝、姉さん女中たちから、いつもより早めに起こされた。どうしたのかと聞いたら『昨日戻らなかった連中を迎えに行く』と。姉さんたちは、ちょっとニヤニヤしていたね。

 私は慌てて、姉さんたちについて行った。どこに行くかと思えば、城門の一つで、すでに衛兵たちも集まっていた。

 その城門を何組かの男女がくぐる。その中にベイジとカーキフの姿もあった。城門の上から彼らに向かって、衛兵たちや姉さん女中たちが冷やかしの言葉を投げかけた。言われた者たちは、恥ずかしがったり、居直って堂々と言い返したり、反応は様々だった。少し、笑い声も上がったりしたね。つまりは、お祭りのおまけみたいなやり取りさ」

「朝帰りだもんね」と合いの手を入れた私もニヤけてきた。

「まさか、羨ましいなんて思ってんじゃないだろうね」

「ちょ、ちょっとね」

「あんたは、そんなこと真似しなくていいんだよ。それより自分の父さん母さんに心配かけないように心がけなさい」

 不覚。セピイおばさんのお小言を、わざわざ自分から引き出してしまった。私は首をすくめるしかない。

「話を続けるよ。

 ベイジは私のところに来ると『自分だけ遊びに行って、ごめん』と頭をかいた。私はそんなことよりも、ベイジが事件めいた事に巻き込まれていないか、その方が心配だった。それを尋ねると、ベイジは『問題なし』と答えた。

 私は心ん中で、ソレイトナックが大丈夫と言った通りだと思ったが、もちろん言わなかったよ。

 その日の夕方、仕事の合間に、ベイジに誘われて塔の上で休憩した。

 私はソレイトナックとのことを感づかれていないか心配しながら、顔に出さないように気をつけていた。

 だがベイジは、そんな私をよそに、自分から話し出したよ。昨日、何していたかを。ベイジはあらかじめ私に、笑ったり、ふしだらと思ったりしないように釘を刺してきた。ベイジの言い方は、こんなだったかねえ。

『へへ。私、カーキフと寝ちゃった。とうとう許しちゃったよ。

 ていうのが、あいつ、童貞でさ。そのことで散々からかって虐めてたら、あいつ、拗ねると言うか、だいぶ落ち込んじゃって。

 こりゃあ、やり過ぎた、と私も反省して、お詫びに練習台を買って出たってわけ』」

「れ、練習台って」私は思わず口をはさんでしまった。話の腰を折りたくないのに、なんて表現。

「あんたも、やっぱり呆れたか。私もあの時は驚いたよ。もっとも今なら、ベイジなりの照れ隠しかも、なんて解釈もできるんだがねえ。

 ベイジは、なかなか辛辣だった。『カーキフの奴、最初は遠慮してたくせに、結局やらしいのよ。結論は、お願いしますってことで、ビクビクしながら私に抱きついてきた。まあ予想はしてたけど、下手くそで、しつこかったわね。でも、これでご満足いただけたんじゃない。何たって、この可愛い子ちゃんがお相手してやったんだから』と来た。

 私は絶句したよ。ベイジに練習台なんて、させたくなかった。しかし、どう言ったらいいものか。ベイジに意固地になられたら、その時点で説得は無理だし。こちらが気をつけてソレイトナックの名前を出さなくても、ベイジの方から彼のことを持ち出してくる場合もあるだろうし。

 そして私の方は、ソレイトナックと結ばれていたんだ。私の想いは実った。ベイジには言えなかったが、言えるわけなかったが、私は幸福をつかんでいた。ベイジもヒーナ様も差し置いて、私だけは。

 そうやって頭の中がぐるぐるして、私が何も言えずにいたら、ベイジは言ったよ。『そんな顔しないでよ。ちょっと遊んだだけじゃない』とね。塔を降りる時にも『だからお説教とか、野暮なことはしないでよね』と言われたよ」

 私は、ため息をついてしまった。「荒れてますなあ」

「そうだよ。明らかに、自棄になっていた。傍目にはおどけてみせたベイジだが、いつ感情を爆発させるか、分かったもんじゃなかった。

 それから一週間くらいだったか、毎日カーキフを見かけたねえ。仕事の合間なんかに、やたらベイジに話しかけてきた。私がその場に居合わせようが、お構いなしで。

 わざわざやって来て、ベイジに何を言うかと思えば、『妊娠したんじゃないか』とか『結婚しよう。僕は責任を取るぞ』とかなんだよ。

 それに対するベイジの返しは、こんなだったよ。『やだ。本気にならないでよ。あれは、お遊びなんだから。月のものだって、ちゃんと来たから安心して』とね」

「そういえば、おばさんも大丈夫だったの?」

「まあ、何とかね。リオールとも、ソレイトナックとの間にも、不思議と子どもができずに済んだ。あの頃は、それを運がいいと思ったが、本当に良かったのか、どうか。どうやら私は不生女らしい」

 あっ、と私は声を漏らしてしまった。

「兄さんの奥さん、つまり、あんたたちのお婆さんね。あんたたちのお婆さんやお母さんを正直、羨ましく思う事もあるよ。

 でも、もういいんだ。欲を言い出せば、切りがない。今こうして、あんたに話せるだけで充分さ。神様の思し召しなんだろう」

 そう言いながら、セピイおばさんは微笑んでみせたけど。やっぱり、その都度、欲しかったんじゃないかなあ。自分が好きになった男との子どもを。

「それより、ベイジに話を戻すよ。

 カーキフは、なるほど、しつこかった。と言うか、真面目だったんだね。自分とベイジとの関係を遊びだなんて、なかなか割り切れなかったようだ。

 カーキフは、それくらいベイジを好いていたわけだが。残念ながらと言おうか、ベイジにとってカーキフはそれほどではなかった。で、ある日、ついにぶつかることになった。

 ベイジは、あの時、私がそばにいるのも構わず声を荒げた。『うるさいわね。要するに、私とやりたいだけでしょ。だったら、もう一回くらい練習に付き合ってやるわよ』だとさ」

「あちゃー」

 私は、また開いた口が塞がらなくなりそうだった。

「私は慌てて駆け寄って、二人の間に割って入ったよ。カーキフが怒って、ベイジに手を上げるんじゃないかと心配したんだ。

 カーキフは一瞬、真っ赤になって見えたが、見る見る顔が青ざめて、立ち尽くした。

 それをわざわざ、ベイジときたら、追い打ちをかけてねえ。『何よ。言いたいことがあるなら、はっきり言いなさいよ。男でしょ。そういうところが、だめなんじゃない』と来た。

 カーキフは、やっと口を開いたかと思ったら、こんなことを言い出したよ。

『ベイジ。もしかして君は、僕から触れられるのを、嫌々我慢していたのか』

 カーキフの声は、震えると言うか、力が入ってなかった。

 それに対してベイジの返しは、こうだ。『そうよ。嫌々ながら抱かれてやったのよ。いちいち言わせないで。少しは察してよ』

 これは、さすがにひどい、と私はベイジをなだめようとしたんだが、高ぶったベイジは、もう聞く耳を持たない。

 と、いつの間にか、カーキフの手が伸びてきていた。それはベイジの顔に向かっているのは確かだったし、届かない距離でもなかったんだが。震えるだけで、また、ぶらんと垂れ下がって戻った。

 それを見て、ベイジがまた言うんだよ。『ぶちたきゃ、ぶてば?女もぶてなくて、兵士が務まるわけ?』

『ベイジ、もうやめてっ』なんて私も思わず叫んでしまったよ。

 で、二人でちょっと口論になったんだが、カーキフは、もう聞いていなかった。私たちに背を向けて、のろのろと歩き去ったよ」

「うう〜ん。どう考えても言い過ぎでしょ」

「だよねえ。しかし、ベイジは引っ込みがつかなくなっていた。

 その夜だよ。またネマに起こされた。

 その前の依頼主はヒーナ様だったが、この時ネマに依頼したのは、城詰めの騎士様の一人、ロンギノ様だ。あのゲスタス事件で、ヴィクトルカ姉さんと私のためにキレてくださった騎士様だよ。そのロンギノ様がネマの後ろに立って、私を待っていた。

 ネマが呼び出したかったのは私じゃなくて、本当はベイジだった。しかしネマがそのままベイジに声をかけたって、聞くわけないだろ。それで私の出番となったんだが。

 ベイジはふて寝を決め込んで、毛布を頭からかぶっていた。私は、もうネマの名前を出さずに、ロンギノ様の名前で何とか扉のところまで来させたよ。

 で、ロンギノ様が何の御用かと思えば、カーキフのことだったよ。カーキフの直属の上官はロンギノ様でね。カーキフはロンギノ様の従者として修行中だったのさ。そのカーキフが何と、ロンギノ様に転属と言うか、異動を願い出た。しかもロンギノ様が知る限りの一番きつい前線を希望してね。

 しかしロンギノ様も、カーキフがベイジに気があることをご存知だった。そこで『さてはベイジに振られたか』なんて茶化したら、深刻な顔でうなずかれた、と。カーキフは、この時点で自分の荷物をまとめ終えて、明朝どころか今すぐにでもツッジャム城を出ていきそうな勢いだったらしい。

 ロンギノ様も慌てて、カーキフを落ち着かせようと苦心なさったそうだ。『女など他に幾らでもおるではないか』とか『これから売春宿へ行こう。おごってやるぞ』とか何とか言ってね。

 でもカーキフは青ざめた顔を、弱々しく横に振るばかりだったと。『もう、この城には居られません』とか、つぶやきながら。

 これには、さすがのロンギノ様も根負けだよ。それで、前線の知り合いに紹介状を書くという口実でカーキフを待たせておいて、女中部屋に相談に来たってわけさ」

「で、でもベイジは引き止めてくれるかな?」

「あんたもそう思うかい。私は、真面目なカーキフがベイジを幸せにしてくれるんじゃないか、と期待したんだがねえ。

 ロンギノ様は、おっしゃったよ。

『このヨランドラで一番きつい現場と言えば、東側のフィッツランドとの国境付近、その北の方だ。そこへ行けば、北東にワイスランドも迫ってきているのでな。三カ国がせめぎ合う難所なのだ。同じ国境でも西側のセレニアと向かい合うより、その北東部の方がきつい。多くの騎士が、そう考えるだろう。俺も何度か加勢に行った事があるし、戦友も少なくない。

 今回、カーキフが自分から率先して申し出てくれた事は、俺も嬉しく思う。上官として誇らしい。ただし、自棄になっているだけなら話は別だ。

 北東部の前線に行けば、いつも人手不足だから、歓迎されて給金も跳ね上がる。しかし五年以内に、必ず半数の人員が死ぬ。しかもカーキフは、訓練が足りているとは言えん。俺の元であと二年でも修行すれば、また話は違うが。

 ベイジよ。お前がカーキフをどう思っているか知らんが、もし引き止めたいと少しでも思うなら、あまり時間は無いぞ。朝までによく考えろと言いたかったが、カーキフは今にも飛び出したがっている』

 とか何とか。

フィッツランドの紋章 業火の竜

 

ワイスランドの紋章 鷲

 

セレニアの紋章 白馬と三日月

 

 しかしベイジは、ロンギノ様の話を遮るようにして言い返した。『前線でカーキフが死んだら、私のせいだ、とロンギノ様はおっしゃりたいんですかっ。そんなの、本人の意志じゃないですか。何で私が責められなきゃならないんですか』なんてね」

「やっぱりー」と私も苦い顔になってしまう。

「私はロンギノ様がお怒りになるかと心配したが、そんなことはなかった。一瞬、ロンギノ様は呆けたような表情になったが、こうおっしゃった。

『お前を責めるつもりではなかったのだが。済まんな。俺の勘違いだったらしい。邪魔して悪かった。

 ならば、もう寝るが良い。セピイもネマも手間を取らせたな』

 ロンギノ様は、くるりと背を向けて、のしのし歩き去った。その後ろ姿に、私は慌ててベイジに声を掛けた。そしたらベイジは何と言ったと思う『そんなにカーキフを引き止めたいんなら、セピイがカーキフと付き合えばいいじゃない。喜んで譲ってやるわよ』だとさ。

 私は固まってしまったよ」

「おばさん、それ、引っ叩いてもよかったんじゃない?」

「私も一瞬そう思ったんだが、誰かが私の右手首をつかんで止めた。残っていたネマだよ。私が振り向くと、ネマは黙って首を横に振った。もう無駄だってことらしかった。

 それでネマも、どこかに戻っていく。ベイジは、また暗い女中部屋で毛布をかぶってしまった。

 私は急いでロンギノ様を追いかけたよ。ロンギノ様は食堂で見つかった。北東部の前線にいる知り合いの騎士様宛で、カーキフの紹介状を書いておられたよ。ロンギノ様は紹介状から顔を上げて、私と目が合うと、ゆっくり首を横に振った。ネマと、まったく同じ仕草。つまり同じ意見ってことさ。

 ロンギノ様は、おっしゃった。『正直、俺も奴を引き止めたい。それは上官として一言、許可しない、と言えば済むことだ。しかし。俺は今回、奴の意地を汲んでやろうと思う』とね。

 私は反論できなかった。立場以前に、ロンギノ様を説得する言葉が思い浮かばなかった。

 紹介状を書き終えたロンギノ様は私に『もう女中部屋に戻れ』とおっしゃったが、私はなぜか足が動かず、立ち尽くしていた。

 それを見てロンギノ様は『では、お前だけでもカーキフを見送ってやってくれ』と私に頼んだ。

 私はロンギノ様について行って、厩でカーキフに会ったよ。カーキフは私を見て、すべてを悟ったようだ。ベイジじゃない私だからね。

 私はカーキフに、ベイジのきつい言葉を忘れてほしかった。それで、まずベイジが荒れている理由を簡単に説明してみたんだ。もちろんソレイトナックやヒーナ様の名前は出せないよ。

『ベイジは誰かすごく好きな人がいたらしいんだけど、実らなかった。それでカーキフに当たってしまったのよ』とか『ベイジはカーキフにいろいろ言ったけど、本心じゃないから気にしないで』とかね。

 でもカーキフは弱々しく首を横に振るだけで、私の言葉を受け止めてくれなかった。

『違うよ、セピイ。ベイジの言う通り、僕が、だめな奴なんだ。もっと早くベイジを諦めるべきだった。それなのに、いつまでも付きまとったりして。それじゃベイジも怒って、僕を罵りたくもなるさ。

 だからセピイ。悪いけど、伝言を頼めないかな。ベイジに、ごめん、と。嫌な思いばかりさせて、ごめん、とね。

 本当は自分で言うべきだとは分かっているけど、僕は、もうベイジの前に姿を見せない方がいいだろうから。お願いだよ、セピイ。君にしか頼めない』

 そこまで言われたら、断れないだろ。私は、頷くしかなかった。

 カーキフはロンギノ様から紹介状を受け取ると、礼を言っていたよ。それまでの指導から、受け取ったばかりの紹介状まで含めて。

 ロンギノ様はカーキフの背中を一度叩いて、おっしゃった。『とにかく死ぬな。いつでも帰ってこい』と。

 私も考えに考えて、一言だけ贈ったよ。

『カーキフ。ベイジをぶたないでくれて、ありがとう。女をぶたない兵士って立派よ』

 カーキフは馬上からロンギノ様と私に頭を下げて、城門から飛び出して行った。城門の外は、まだ真っ暗だった」

「おばさん、お見事です。私も同感だわ。女をぶつことを普通だとか、思わないでほしい」

「ありがとよ、分かってくれて。

 でも、あんたも想像がついているだろうが、実際には、それを平気と思う連中ばかりだからね、男なんてのは」

「うん、分かってる」と私も、しっかりうなずいた。

「ところで、おばさん。その後ベイジとは、どうだったの。ベイジを許せた?」

「いい質問だよ、プルーデンス。許せた、とは言いがたいねえ。

 しかし、だ。よく考えてごらん。私も手放しで、一方的に怒るわけにはいかないだろ」

「あっ」

「そうなんだよ。思い切り、後ろめたいことがあったんだ、私には。ベイジは自棄になっているのに、私の方では実はソレイトナックといちゃついていた、なんて話じゃ、ねえ。贅沢で勝手だろ。

 しかも、だ。マムーシュに嫁いだヒーナ様についても、少しずつ嫌な噂がツッジャムに届くようになっていた。ヒーナ様は毎日、泣き暮らしている、と。そばについているスネーシカ姉さんがいくら慰めても、一向に効き目がない。受け入れたシャンジャビ家の方では『失礼ではないか』とか『当家の顔を潰す気か』とか怒りの声が上がっている。そんな知らせが、日に日に増えてきた時期だったんだよ。

 カーキフが出て行って以来、ベイジとは気まずくて、仕事上の必要最低限な会話しか、しなかった。どうでもいい世間話を頭ん中では考えているんだが、面と向かうと、なかなか出なくて。多分、ベイジの方でも同じだったろうよ。

 そんな生活がどれくらい続いたんだったか。一週間か、二週間。もう、はっきり覚えてないが、お互い、気まずい空気にも充分飽きている頃だよ。私はベイジから、塔の上に誘われた。

 ベイジは、塔の上から町並みのはるか向こうまで眺めているようだった。そして、つぶやいた。『ヒーナ様、何だか大変そうだね』と。

 ベイジがヒーナ様の名前を口にしたのは、ヒーナ様が出発した、あの日以来だった。

 ベイジは景色から目を離して、改めて私と目を合わせた。

『結局、セピイが正しかったわね。あのままヒーナ様を行かせていたら、そしてソレイトナックと何も無いまま嫁がせていたら、ヒーナ様は今頃もっと辛かったでしょう。

 それなのに私ったら。自分のことばっかり考えて。

 ごめんね、セピイ。あんたにも、たくさん、ひどいことを言っちゃった』

 ベイジの声はいつもと違って、かなり小さくて。頰を、涙がつたっていたよ。

 私は、それで分かった気がした。あの時、カーキフはベイジをぶとうとしたんじゃなくて、頰に触れたかったんだ、と。カーキフはベイジに触れたくて、もう二度と触れられないことに気がついたんだ、と。

 私はベイジに、カーキフの伝言を伝えた。そして提案してみたんだ。今からでも、カーキフを呼び戻す手紙を書いてみないか、と。書いてロンギノ様に頼めば、伝令に届けてもらえるはずだからね。

 でも言いながら、私の予想は半々だった。そして、やっぱりと言うか、ベイジは首を横に振った。『カーキフには、そのうち私なんかより、もっと優しい娘が現れるわ』ってね。

 それで、私から二人にできることは無くなった」

「うーん。おばさんは、また、だいぶ気づかったわね。がんばりすぎだと思う」

「ありがたいお言葉だが、結局、誰の役にも立たなかったよ」

「そんなこと、ないって」

「しかも、ね。ベイジは、女中奉公を辞めると言い出した。両親の商家に帰る、と。私に話した時には、すでに城主様ご夫妻に断りを入れていた。奥方様も『残念ね』と言いながらも、了承してくださったそうだ。

 私は泣けてきたよ。ヴィクトルカ姉さん、ヒーナ様、スネーシカ姉さんと来て、今度はベイジが去ろうとしている。

 私は心配になった。ベイジが何だかんだ言って、結局、まだ私を嫌っているんじゃないか。それで城を出たいと言っているんじゃないか。そんな推測ばかりしてしまってね。

 でも、ベイジは言った。

『このまま、ここに居させてもらったら、またセピイに八つ当たりしそうだから。もっとひどいことを言い出しかねない。私は今、それくらい嫌な奴になってる。私は、ここに居ない方がいいのよ』

 ベイジは泣きながら、青ざめていた。

 私は悲しかったけど、もう引き止められないんだ、と悟ったよ。

 翌日、ベイジの両親が彼女を迎えに来た。見送りは私と奥方様と、姉さん女中が二人くらいだったか。

 奥方様は、ベイジに『元気を出しなさい』と励ましておられた。

 ベイジは奥方様たちにお礼を言って、私には、こう言った。

『いつか、町ですれ違ったりしたら、また話しかけてくれると嬉しいな』

 私は『必ずそうする』と約束したよ。

 ベイジは両親が用意した馬に乗って、お城を去っていった」

 そこまで話すと、セピイおばさんは深くため息をついた。

「やれやれ、あとちょっとが、すっかり長引いたねえ。ほれロウソクも、この通り、ちょうどだ。

 プルーデンス、もう寝なさい」

「はあい」

 私も大人しく従う。さすがに、ちょっと眠い。

 セピイおばさんは、私を外に送り出しながら言った。

「聞いてくれて、ありがとうよ」

 だから私も言った。「明日もまだまだ、たくさん聞かせてね」と。

(第七話に続く)