紋章のような

My name is Samataka. I made coats of arms in my own way. Please accept my apologies. I didn't understand heraldry. I made coats of arms in escutcheons.

自作小説「塔の上のセピイ  〜中世キリスト教社会の城女中の話」第九話(全十九話の予定)

第九話 郷里への道のり

 

 翌日は午後から雨になった。夜も降り続き、すれ違いざまにセピイおばさんから小声で言われた。「今夜は、やめておこう。また明日だ」と。

 そして、さらに翌日。雨は止んだ。夕方からまた降り出したが、小雨程度。時には霧雨と言っていいくらいに弱まった。

 だから、セピイおばさんのお許しも出た。五軒中、家から二番目に近い離れ。うちの家族が所有する離れの、すぐ隣。

「今夜の話はキツいってほどでもないし、大貴族の絶対に知られてはならない秘密、というわけでもない。まあ、強いて言うなら、ちょいとお馬鹿な話かねえ。いや、やっぱり少しは秘密もあるかも。

 まあ、とにかく、肩の力を抜いて聞いておくれ」

 セピイおばさんは、柔らかい笑みを浮かべてみせた。しかし、いよいよ本格的なメレディーン時代の話である。抜けと言われても、私は肩に力が入ってしまう。

 セピイおばさんは話し始めた。

「さて、話は、ご党首様夫妻に私の拙い密偵ごっこを告白したところまでだったね。

 それから一月くらい経ったか。ついに、ご党首アンディン様からお呼びがかかった。ご党首様がおっしゃっていた、具体的なことが決まったわけだよ。で、何をするかと言うと」

 セピイおばさんは一度、区切って、少し笑った。私は予想がつかない。

「里帰りだよ。メレディーンから、ここ、山の案山子村に一旦、戻りなさい、と。『一週間くらい、ゆっくり過ごしてきてもいい』とまで、ご党首様は、おっしゃってくださった」

「ずいぶん恵まれたご命令ね」ありがたいのを通り越して、私は内心、驚いた。

「もちろん表向きだけだよ。私の里帰りを聞きつけて、ビッサビア様の手下や、他の貴族の密偵たちが私に注目する。私を監視する。その間に、ご党首様の手の者たちが、陰で奔走するってわけさ」

「何だか、おばさんが囮みたい」

「まさに、その通りだよ。私は、他家に対する目くらまし、賑やかし。それが、ご党首様が私に課した役回りだった。

 そして、そのためには多少の派手さも必要、とご党首様は考えなさった。と言っても、さすがに私を乗せる馬車にヌビ家の紋章を掲げさせたりはしなかったよ。でも、土産物をしこたま持たせてくださってねえ。荷車が、たしか二台だったか」

「あれっ。そういえば前の里帰りの時も、モラハルトとビッサビアが同じような手配をしてくれたような」

「よく覚えていたね。実は私も、ご党首様がちょっと気味悪かったんだ。所詮モラハルトの兄弟なのか、と再認識させられるようで。もちろん、口に出しては言わなかったよ。

 それに厳密には、土産物は前の時より若干、少なかった。しかし、その一つ一つがメレディーンの品だと思えば、田舎出身の私にとっては、とんでもない贅沢である事に変わりなかった」

「おばさん。そんな大荷物を運びながら、ツッジャム城に立ち寄ったの?」

「おや、プルーデンス。私は、ツッジャム城に立ち寄る、なんて一言も言ってないよ」

「えっ、でも、おばさんもご党首様も、ツッジャム城の状況やビッサビアの様子を確認したいんでしょ?」

「そりゃ、したいのは山々さ。でも、だからと言って、ビッサビア様と直接対決する度胸なんか、さすがに無いよ。がんばって対面して問い詰めたところで、あの人がソレイトナックの事を話してくれると思うかい?お互い、恋敵の立場なんだよ」

「うっ、たしかに」

 私ったら迂闊だった。自分がそんな事態にさらされても、金縛りにあって、何も言えないと思う。

「ちなみに、そこはパウアハルトも同じでね。私なんかがご挨拶したところで、まともに接してくれるわけがないんだ。門前払いだって、充分あり得る。

 かと言って、ご党首様がわざわざツッジャム城に出向くわけにもいかないだろ。名家の党首として当然、お忙しいんだ」

「ええーっ。じゃあ一体どうやって、ツッジャム城を調べるの?」

「だから、そこは本職の密偵たちの出番さ。彼らが、何とかしてツッジャム城に忍び込むしかない。

 それで、私は思い出したよ。ソレイトナックから教わった地下の通路を」

 私は息を呑んだ。

「お、おばさん。それ、アンディンに話したの?」

「ああ、話したよ。話さなければならないと思った。そして、話した方が密偵たちの役に立てると期待した。

 問題は、ご党首アンディン様にどう話すか、だ。

 その前の告白で、ビッサビア様のための密偵を務めていた事はお話ししたが、ツッジャム城の地下道の方はすっかり忘れて、言いそびれていた。

 一刻も早く、お話ししなきゃ、なんて焦ったが、はたと困ったよ。ご党首様の近くには大抵、誰かが居合わせていたんだ。奥方のキオッフィーヌ様をはじめ、騎士様とか。あるいは執事とか、お役人とかね。

 城内でキオッフィーヌ様をお見かけした時、私は思った。はたして、奥方様も同席しているところで、お話しするべきか。あるいは、奥方様も他家から嫁いで来られた方と見なして、同席しないところでお話しした方が、ご党首様に都合がいいのか。私が抱えている情報は、ツッジャム城の、ごく一部の者しか知らない地下通路、というもの。私は考えれば考えるほど怖くなったし、迷いに迷った」

 ひーっ。聞いているうちに、私も思わず声を漏らしてしまった。

「おばさん、それって」

「だめだよ、プルーデンス。言わないで済まそうなんて、かえって罰が厳しくなる。それに、ご党首様の密偵たちも動きにくくて、ソレイトナックの情報が得られないだろ」

 セピイおばさんは、すかさず私の甘い考えを封じた。

「とにもかくにも冷静にならなきゃ、と思ったんだが、とてもじゃないが落ち着かないよ。私は心の中で降参した。ノコさんに相談することにしたんだ」

 えっ、と私の声が裏返る。

「そりゃ、もちろん内容までは話せないよ。そこで私は、ある夜ノコさんが一人の時に、こっそり近づいて尋ねた。

『前の告白でご党首様に報告し忘れていた事を思い出しました。それは、下手すると奥方様にもノコさんにも聞かせられない事かもしれません。少なくとも、ご党首様にだけは、ご報告しなければならないと思います。でも、どこでお話ししたらいいのか、が分かりません』と。

 暗い部屋の中で、ノコさんが私を睨んだのが分かった。で、ため息に続けて、ぼやくんだ。『手間のかかる娘だねえ』と。

 それでもノコさんは私に知恵を貸してくれたよ。『羊皮紙の切れっ端と羽筆を用意して、内容を手短かに書きなさい』

 そう言われて、私は急いで、その部屋から飛び出した。

 私がよその部屋から羊皮紙とかを持って来る間、ノコさんは待っていてくれたよ。私がツッジャム城の地下道の報告を書いている間も、ノコさんは背を向けて、待っていてくれた。

 ノコさんは、そのまま私に言いつけた。書き終わったら、小さく小さく折り畳みなさい、と。私がそこまでできたと報告すると、ノコさんは私の手を引いて、城内の通路に出た。で、早歩きで、ご党首様の書斎に向かう。

 ご党首様は通路が交差する箇所で、役人たちと立ち話をしていた。ちょうど何かの指示を出したりしていたのかもしれない。

 ノコさんは数歩離れた位置に私を待たせた。そして役人たちが立ち去るのを見計らって、ご党首様に近づいた。で、耳打ちしながら、私に視線を飛ばす。ご党首様も私を見る。ノコさんが、ほんの少しだけ手招きした。私は足音を立てないよう気をつけながら、おそばに急いだ。ご党首様の片方の手のひらが軽く浮いて開く。私はそこに、小さく折り畳んだ羊皮紙を押し込んだ。ご党首様の手も閉じられた。と、ノコさんが私の背中を押したよ。私にその場を通過させるためだ。

 私は黙って、そのまま通路を進んで、二人から離れた。すぐに振り返って、ご党首様の様子を確かめたりはしないよ。通路の曲がり角に自分を隠してから、やっとノコさんを振り返った。ご党首様は、もう居なかった。ノコさんがこちらの方に来るところだった。

『これで、ご党首様は読んでくださるだろうし、私が内容までは知らない事もご理解いただけたはず。あとは沙汰を待つしかないね』

 ノコさんは、そう説明すると、さっさと歩き出した。もう女中部屋へ戻って休むよ、という意味だった」

 そこまで話すと、セピイおばさんは一息ついた。私も、いつの間にか息を殺して聞いていた自分に気づかされた。

「ふう。手に汗握るって、この事だね」

「ああ、我ながらヒヤヒヤしたよ。報告なんて一回で済ませれば良かった、とも思ったが。前回は奥方様も同席されていたからねえ。

 実際ご党首様は、奥方様にもノコさんにも、ツッジャム城の地下道の存在を話さなかったようだ。羊皮紙で報告した次の日から、私は密かにノコさんの様子を注視していたんだ。そしたら結局、視線に気づかれたよ。あの時は、二人だけで針仕事をしていたんだったか。ノコさんから言われた。

『こないだ、あんたが羊皮紙に書いた報告の内容は、私は知らないよ。私が見たところ、奥方様もご存じないだろう。つまり、ご党首様はそのように判断なさった、という事。あんたが持ってきた情報は、それくらい、とんでもないもんだったわけか。

 だったら、私も知りたくないよ。あんたも、もう二度、話題にしないでおくれ』

 とね。

『また後から、言い忘れていた事が他にもあるなんて言わないだろうね』

 とも釘を刺されたよ」

「うーん。さすがに厳しいね」私は、叱られた当時のおばさんに同情してしまう。

「まあ、事が事だからね。

 それはともかく、ご党首様の手に報告の羊皮紙を押し込んだ夜から、一週間くらいしたか。真昼間、仕事中にノコさんから、こっそり言われた『ご党首様がお呼びだ』と。

 指定された場所は、メレディーン城に幾つかある塔の一つで、外城壁と内城壁が繋がる辺りにあった。メレディーン城の塔の中でも、一番高い塔、と聞いていたよ。

 その塔に登るのは、私も初めてでね。さすがに他の塔より、ちょっと時間がかかった。塔の中の細い階段を登り続けて、ようやく天辺に出ようとした時に、声が飛んできた。

『おっ、来たな、セピイ。では、そこで止まって』

 その通りに、階段の出口付近で立ち止まると、声の主が見えた。常駐の騎士の一人、オペイクス様だった。ご党首様は、そのオペイクス様の向こう。胸壁の凹みから遠くを眺めておられていた」

 ふむふむ、とうなずきながら、私は安心する。まさか党首アンディンも弟のモラハルトみたいに塔の上でおばさんに襲いかかったりしないか、チラと不安がよぎったのだ。しかし、その距離感なら大丈夫だろう。

「ご党首アンディン様は、まず、そのままの姿勢で、私の里帰りを少し延期する、と静かに宣言なさった。その上で、私に幾つか、お尋ねになったよ。私も出口付近からお答えした。つまり、よそからは私の姿は見えないってわけさ」

「念を入れているなあ」と私。

「ああ、私も改めて緊張したね。ご党首様は穏やかなお顔だったが、お尋ねの内容は、こんなだった。

『セピイよ。ツッジャム城の地下道を、なぜ知った』

 私は正直に、ソレイトナックから教わった事を話した。もちろん、逢引きの事なんかは言わないよ。でも、ご党首様がため息をつくのが見えたね。さすがに事情を推測して、私ら二人に呆れなさったんだろう。

 私は念のために付け加えた。ツッジャム城には他の地下道があるかもしれないが、それについては二人とも知らない、と。ソレイトナックから教わった見立てだよ。ご党首様からすれば、しょうもない言い訳だったろうがね。

 ご党首様は私を咎めたりせずに、次の質問に移った。

『ツッジャム城の地下道が、城下のどの辺りに通じているのか。セピイは、その場所を地図にして描けるか』

 私は、まともに描ける自信は無かったが『描きます』と即答した。

『では、この場で描け』

 ご党首様が静かにおっしゃると、おそばに居たオペイクス様が懐から何か取り出して、私に差し出した。それは羊皮紙や羽筆とかだった。一通り揃っていたよ。

 私は階段の段差を机代わりに活用して、床にしがみつくような格好で、羊皮紙の上に筆を走らせた。途中でオペイクス様が『簡単でいいんだ。焦らないで』と言ってくれたよ。

 ありがたいお言葉だったが、私は、地図を描きながら、ちょっと別のことを考えていた。ご党首様は、ツッジャム城の地下道について、奥方様やノコさんには話さないが、この騎士様には話したわけだ。よほど信用のあるお方なんだろう。騎士様たちの中でも、ご党首様が教えたのは、この方だけに違いない。とね」

「そんなにすごい人なの?そのオペイクスさんって」

 私の問いに、セピイおばさんは微笑んだ。

「実はね。その頃は私もまだ、この騎士様のことをよく知らなかったんだ。と言うのも、ほとんど会話した事が無かったからね。離れたところから、時々お見かけするだけだった。

 だからオペイクス様本人と直接話す前に、オペイクス様の評判を耳にする方が先になった。他の女中や兵士とか、周りの連中からね。もっとも、その評判、と言うか噂話も、しょっちゅうやっていたわけじゃないよ。ごくたまに。分かるだろ。要するに、目立たない方だったんだよ。

 歳も確か、三十を過ぎていた。アズールさんやオーカーさんが、シルヴィアさんたちと同じく二十代半ばで、明らかにお二人の方がメレディーン城の花形だったね。お二人は、目鼻立ちの整って、女受けしやすい、いかにもな色男。一方、オペイクス様は、ぼんやりとした表情で、残念ながらお世辞にも色男とは言えない。陰で笑われている事が多かったよ。

 一応、副官だったんだが」

「副?」

「そう。メレディーン城に駐在する騎士様たちにも当然、まとめ役、つまり隊長格の騎士様が居られた。オペイクス様は、その方を補佐する立場だったのさ」

「その割には、周りから、なめられているように聞こえるけど」

「その通りだよ。下っ端の兵士から女中とか、使用人たちまで、オペイクス様をなめてかかっていた。もちろん、面と向かって馬鹿にしたりはしないよ。しかし私の目には充分、不遜に映った。

 おそらく、本人も気づいていただろう。それなのに、諦めていたのか、何か考えがあったのか。結局、オペイクス様が兵士や女中を怒鳴るところなんか、一度も見かけなかった」

 そう説明する、おばさんの笑みが優しく見える。

「だからこそ、ご党首様が信頼したって事?」

「私は、そう解釈したよ」とセピイおばさんも同意してくれた。

「とにかく、私は地図を仕上げた。立ち上がって、羊皮紙や羽筆とかをオペイクス様に返したよ。お役人たちが描く地図に比べれば、お粗末だったろうに、オペイクス様はじっくり見て、うなずいた。

 当然、ご党首様は『行けそうか』とお尋ねになる。

 オペイクス様は『大丈夫です』と即答した。

『セピイは目印になる建物も描いてくれています。地図の意義や使い方を充分、理解した描き方です』

 なんて誉め言葉まで添えてくれてね。おかげで、ご党首様のお顔に、やっと少し笑みが浮かんだよ。私もツッジャム城で、ほんのわずかでも地図の類を見る機会が有って良かった、と思ったもんさ。

 続けて、ご党首様がオペイクス様におっしゃった。『これで、そなたや密偵たちの仕事が楽になろう』と。

 つまり、私に里帰りをさせながら、地下道を使って、オペイクス様たちがツッジャム城に忍び込むってわけさ。

 もちろん、ご党首様の密偵たちは事前に、ツッジャムの城下町に行って、地下道の入り口を確かめるんだがね」

 なるほど、と私も感心した。

「というわけで、段取りがだいぶ具体的になってきただろ。私も頼もしく思えたよ。

 でも油断せず、気を引き締めなければ、とも思った。私は改めて、ご党首様とオペイクス様にソレイトナックの捜索をお願いしたよ。彼がビッサビア様に囚われているのかもしれない、という私の推論も付け加えて。

 つまり私が調子に乗って、勝手に発言した形だよ。しかし、ご党首様は咎めもせずに、こんなふうに答えてくださった。

『我々もできるだけのことはするから、そなたも堂々と帰郷するのだぞ。そうやって目立つことで、ビッサビア殿の注意を引くのだ。その方がビッサビア殿に、何か動きがあるかもしれん。たとえば、セピイの推論通り、ビッサビア殿がソレイトナックを拘束しているとしたら、その拘束場所を替える、とかな。

 とにかく今回の帰郷で、そなたの存在をチラつかせることが、ビッサビア殿に対する揺さぶりになる、と思うがよい』

 なんてね。ありがたくて私は思わず、身震いしたもんだよ」

 ほお、と私も声が漏れてしまう。党首アンディンがそのように認識してくれていたのなら、たしかに心強い。

「ご党首様も結構、考えてくださったんだね。

 あ、だったら、馬車にヌビ家の紋章を掲げた方が目立っていいんじゃないの?」

「それは、やり過ぎだね。ご党首様たちがこのセピイを後押ししている、と世間に言いふらしているようなもんだ。そしてビッサビア様も、そう解釈して、私だけでなく、ご党首様たちに対しても警戒するだろう。

 それ以前に、私はパウアハルトに捕まって、尋問されてしまうよ。命を取られなくても、拘束されて、大いに時間を無駄にすることになる」

「そ、そっか。加減も気をつけないといけないのね」

 私は、自分の考えが浅かったことを思い知らされて、恥ずかしくなった。

「でも、ソレイトナックのことを念押しできて、よかったわね」なんて、ごまかしてみる。

 セピイおばさんは声も立てずに、また笑みを浮かべた。見抜かれたかも。

「ほんと、安心したよ。ソレイトナックのことを押さえておかなきゃ、何のためにご党首様たちにあれこれ告白したのか、分からないからね。

 それで、この塔の上での作戦会議もお開きに近づいた、と私は思った。

 そしたら私の背後、と言うか階段の下の方から人の声が聞こえてくるじゃないか。私は慌ててご党首様やオペイクス様を見た。

 ご党首様は私と目を合わせながら、黙って、立てた指を口に当ててみせたよ。それで私も口をつぐんだ。

 声は二人分。どちらも女だと思ったら、まずイリーデが階段を登ってきた。

『セピイさん。今、オペイクス様とお話ししているんですか』

 問いかけておきながらイリーデは、すぐに黙り込んだ。ご党首様と目が合って、自分が会合を邪魔してしまった事に気づいたんだよ。

『し、失礼しました、ご党首様。

 セピイさんが向かった塔にオペイクス様のお姿が見えたものだから』

 とか何とか、イリーデは言い訳になっていない説明を始めて、しかも続かなかった。

 その後ろから、やっとノコさんが現れたよ。イリーデを追いかけてきていたんだね。息を切らしながら、ご党首様にイリーデの不始末をお詫びした。

 で、ノコさんは、すぐさまイリーデを引っぱって退がろうとした。私も二人について行くべきかと思って、ご党首様を見たら、ご党首様は軽く手を上げて、私に制止を促す。続けて、ご党首様はノコさんとイリーデも呼び止めた。

 ご党首様は二人にお尋ねになったよ。自分たちの会話をどこまで聞いたか、を。イリーデは緊張しながら、お答えした。

『階段を上がってきたばかりで、ご党首様たちのお話は何も聞いていません』

 この答えに、ご党首様は満足そうに微笑んでおられた」

「って、当たり前じゃないの?」と私は思わず言ってしまった。

「そりゃ、ご党首様だって分かりきっておられただろうさ。でも事が事だから、念を押す、と言うか、ちょっと釘を刺したんだよ。こういう会話に聞き耳を立てるもんじゃない、とね。イリーデも分かっただろう」

「それにしてもイリーデちゃんって、ちょくちょく、やらかすわね。悪い子じゃなさそうなのに」

 私は、せっかくの美少女がもったいない、と思って言う。

 セピイおばさんから、少し笑いがもれた。

「それだけ若かったんだよ。誰だって、やりかねない失敗さ。

 それはともかく、ご党首様はイリーデとノコさんに、逆に話し出した。私を含め三人で、どんな話をしていたか、を」

「えっ。それって聞かせたらいけないんじゃ」唖然として、私は言葉を途切らせてしまった。

「もちろん、ツッジャム城の地下道や密偵たちの存在は内緒だよ。話したのは、私の里帰りのことだけさ。

 その上で、ご党首様はイリーデにおっしゃったんだ。その私の里帰りに同行してみないか、とね」

「えっ、何でそうなるの」私は、さっきよりも、さらに驚いた。

「私も、はじめは分からなかったよ。

 ご党首様は『城下町育ちのイリーデに、農村の生活を体験させるのも良かろう』なんておっしゃったんだが、その笑みに何か含みがあるように私は感じた。

 で、気がついたよ。イリーデも目くらましなんだ、と。ご党首様は、彼女も目くらましとして活用することを思いついたのさ」

「それって、イリーデが美少女だから?紋章は使えないけど、美少女をチラつかせようってこと?」

「そういうこと。私だけでツッジャムの城下町をうろつくより、イリーデが居てくれた方が、格段にビッサビア様の手の者たちを引きつけられるからね」

「でも、肝心のイリーデ本人は、こんな田舎に来たがるかしら?」

「そこなんだが」

 セピイおばさんは言いかけて、また笑いをもらした。今夜のおばさんは、よく笑う。いい兆しだ。

「イリーデも最初の数秒は迷っているように見えた。ところが、ハッとした顔で、逆にご党首様にお尋ねしたんだ。

『も、もしかしてオペイクス様も同行なさるんですか?』

 これに対して、ご党首様は、また立てた指を口に当ててみせた。

『心して聞くのだ、イリーデ。オペイクスがセピイの帰郷に同行することは秘密だ。私からオペイクスに特別な任務を課している。セピイの帰郷は、オペイクスを紛れさせるための手段に過ぎない。このことは、イリーデもノコも、決して口外しないように。

 もし、このことが他の者たちにも知れ渡るようなら、セピイの帰郷は取り止め。そなたたちにも、女中を辞めてもらわねばならん』

 このご党首様のお言葉に、イリーデは大いに狼狽えたよ。言いません、言いません、と慌てて繰り返して、ノコさんから声を小さくするように注意された」

「それでイリーデちゃんは、この片田舎に来る気になった、と」

「まあね。ただ彼女としては、この田舎よりオペイクス様が目当てだったろうけど」

「イリーデちゃんも、なかなか人を見る目があるようね。私、感心しちゃったわ。おばさんは、イリーデちゃんとオペイクスさんを応援したの?」

 セピイおばさんは、とうとう声を出して笑った。

「あんた、話を飛ばしすぎだよ。そこは追い追い話すさ。

 その前に、ご党首様とのやり取りの続きを話しておこう」

 セピイおばさんがニヤリとする。

「ご党首アンディン様は、イリーデが協力してくれることを喜んだのか、こんなこともおっしゃったんだ。

『そうだ、イリーデよ。ついでにブラウネンも同行させるか』

 途端にイリーデは大反対だよ。『彼はまだ若くて、未熟だから秘密をもらしてしまうかもしれません』とか、ぎゃあぎゃあ騒いで、またノコさんに注意されていた。

 で、ご党首様はブラウネンにこだわらずに、あっさりと案を下げなさった」

 今度は、私が笑う番だった。「ご党首様も気が効くのか、効かないのか、分からないわね」

「そうかい?私は逆に、ご党首様はわざとブラウネンを持ち出したんだろう、と読んだよ。イリーデがブラウネンとの婚約を忘れないよう、釘を刺すため。あるいは、イリーデがブラウネンとの婚約をどのように認識しているか、確かめるため、とかね」

「だとしたら、そのご党首様の意図は、イリーデにあまり伝わってない気がする」

「ふふっ、そうだね。あの子は、たしかに分かっていなかった」

 セピイおばさんは思い出話を心底、楽しんでいた。

 

「さて、塔の上でご党首様たちと作戦会議をして、たしか二週間くらい経ったか。ご党首様の密偵たちがツッジャムの城下町に先行して、地下道の入り口を確認、調査できた。それで、ご党首様は作戦決行の日を決めなさったよ。こまごま準備や微調整に時間をかけて、さらに二週間後。作戦会議から、だいたい一ヶ月後ってところか。

 そして私とイリーデが乗る馬車や、土産物を積み込む荷車などを手配してくださった。話がすっかり前後してしまったが、馬車や荷車の様子はさっき話した通りだよ。馬車にヌビ家の紋章は掲げなくて、土産物はメレディーンの城下町で仕入れた品物ばかり。程よく目立つことができるってわけさ。

 出発は早朝でね。ノコさんをはじめ、他の女中たちもまだ寝ていたよ。私も事情が事情だから見送りなんて期待していなかったけど、一人だけ、招かれざる見送りが現れた」

「招かれざる客じゃなくて?」

 私は、おばさんのひねった表現に気づいて、ニヤリとしてしまう。おばさんもニヤニヤしている。

「そう、客じゃなくて見送りなのさ。あの朝、外城壁の門に集まっていたのは、私とイリーデ、オペイクス様と部下の兵士たち。その他は、馬車の御者と、荷車を引く馬を扱う使用人たちだよ。本当の意味での見送りは、ご党首様夫妻だけだった」

「あれっ。結局、党首アンディンは奥方キオッフィーヌに話しちゃったの?」

「話すって言っても、おそらく私の里帰りだけだったと思うよ。合わせて、キオッフィーヌ様の方でも詮索しない。居合わせたオペイクス様を見て、思うところもあったろうけど、キオッフィーヌ様ほどの方になれば、そこはもう追求したりしないよ。

 あるいは、ご党首様が、奥方様にだけは話したのかもしれないけどね」

「ふーむ。

 で、そのご党首様たち以外の見送りが現れた、と」

 口をはさんでしまった手前、私は責任を持って、話を戻す。

「誰かと思えば、騎士のオーカーさんだったよ。ソレイトナックほど背は高くないが、何度も言うように、明るい色男さんでね。要するに普段から目立つ人なんだが、この時はいつの間にか私たちの中に紛れていた。馬車に荷物を積み込んでいた私とイリーデの間に割り込んで、こんなことを言い出した。

『何だよ。オペイクスの旦那、両手に花じゃねえか。羨ましいなあ』

 オペイクス様は外套の頭巾をしっかり被っていたのに、オーカーさんは目ざとく見つけたわけだよ。

 オペイクス様は『やれやれ、見つかってしまったか』なんて頭をかいて、イリーデは『私、誰にも話してません』とか叫んだ。

 オーカーさんは続けて言うんだ。

『旦那には悪いが、お嬢さん方の付き添いは、俺の方が格段に上手いぜ。代わってやるよ、旦那』

『うむ、君の方が上手いのは認めるが、これもご党首様のお達しだ。勝手に代わるわけには、いかん』

 とオペイクス様は普通に答えていた」

「うーん、たしかにオーカーの態度は不遜ね」と私は、また口をはさんでしまう。

「分かるだろ。万事こんな調子だったんだ。オペイクス様に対して、他の連中もね。私には、オーカーさんが一番ひどく見えたが。

 で、ご党首様の登場だよ。

『戯言は、それぐらいにしておけ、オーカー。私は今、そなたの発言を聞いて、逆に任せられんと認識したぞ』

 このお叱りに、さすがの花形騎士様も首を縮めたよ。そ、そんなあ、なんて掠れた声を出すのが精一杯らしかった。

 一方、イリーデは急いでご党首様夫妻に駆け寄って、弁明を繰り返した。少し泣きかけていたかねえ。お二人は彼女を、優しくなだめてくださった。

『分かっている。オーカーが勝手に嗅ぎつけただけだ。その能力も、別の場面でなら、評価しよう。安心しなさい、イリーデ。セピイの帰郷は続行する』

 ご党首様のお言葉に、イリーデはパッと顔を輝かせて、お礼を言っていたよ。逆にオーカーさんに対しては、すれ違いざまに睨んでいた。

 その様子に気づいたのか、気づかなかったのか、ご党首アンディン様は再びオーカーさんに声をかけた。

『オーカーよ。今回はオペイクスに任せるが、いつかツッジャム城のビッサビア殿に使いを出す場合は、そなたに行ってもらうぞ。それなら良かろう』

 このお言葉で、今度はオーカーさんが顔を輝かせる番だよ。色男の騎士様は、ご党首様夫妻のそばに大げさに跪いた。

『さすが、ご党首様っ。話が早い。もう明日あさってどころか、今すぐにでも出発したい気持ちですぜ。日程が決まったあかつきには、このオーカー、必ずや、お役目を果たして見せまする』

 だってさ。

 ご党首様は『いつかという話であって、具体的に予定があるわけでは無い』と付け加えたんだが、オーカーさんは聞いていなかった。もうビッサビア様を目の前にしたみたいに、ぶつぶつ言うんだ。

『あちらの奥方様を拝めるなんて、こんな贅沢なお役目は、他にありませんよ。あー、早く行きてえなあ。何年ぶりだろ。前だって、遠くから拝んだだけなんだ。ああ早く、おそばに行きてえ。さすがにお年を召しただろうが、あの方なら充分いけるからな』

 これに対して、メレディーン城の奥方、キオッフィーヌ様が、ちくりと釘を刺した。

『まあ、オーカーさんときたら。ビッサビアさんがそのような言われようなら、あなたには私がどのように映っているのでしょうね』

 これで、自他共に認める色男さんは、大慌てだ。

『も、もちろん、類い稀なる美しさに映っておりますとも』

『私はビッサビアさんよりも年を召しましたよ』

 とまあ、キオッフィーヌ様には下手なお世辞なんか通じなかったわけさ。こうなると、いかにオーカーさんが陽気な伊達男でも、平謝りするしかなかった。

『騎士に相応しからぬ言動だったな、オーカーよ。これで、また一つ、学んだと思うが良い』

 と、ご党首様も手短かにお説教していた」

「て言っても、だいぶ手加減してあげた方じゃない?」

 私が思わず言ってしまうと、セピイおばさんは、また声を出して笑った。

「何だかんだ言って、ご党首様だって男だからね。男同士と思って、見逃してやったのかもしれないよ」

 

 今夜の話は、ほとんど楽しいおしゃべりだ。これまでの話との落差に、私は内心、愕然としているけど、セピイおばさんには言わないでおこう。

 私とおばさんは、また二人して葡萄酒を少し呑んだ。でも、辛い内容を乗り越えるためじゃない。のどを潤して、舌がよく回るようにするため。わざわざ、そう明言しなくても、安心して呑めた。

 セピイおばさんは話を再開した。

「ご党首様は、おっしゃったよ『オーカーは放っておいて、もう出発しなさい』と。

 すっかり前置きが長くなってしまったが、私たちはそれで、ようやく出発したんだ。まだ朝日が顔を出していなかったかねえ。

 オペイクス様の部下である兵士二人を先頭に、私とイリーデを乗せた馬車、荷車と続いて、最後尾がオペイクス様。いわゆる殿(しんがり)ってやつだ。

 兵士たちも騎乗していたから、徒歩の者は居なかったんだが、それでも一行の進み具合は、のんびりとしたもんだった。まあ、荷車もあるから、速度が上がらなくて当然なんだが。

 逆に、私は気がついた。と言うか、思い知った。メレディーン城に初めて来た時に、マルフトさんが、いかに飛ばしてくれたか、を。馬車の中でイリーデとおしゃべりしながら、私は内心、マルフトさんに感謝していた」

 私も、ふうん、とうなずく。マルフトさんが久しぶりに話題に上ると、どうしても少し、しんみりしてしまう。

「で、馬車の中でイリーデと話す時間がたっぷりできたわけだが」

 セピイおばさんの言葉に、あっ、と私は声をもらしてしまった。そうだ、そっちがあったんだ。

「分かるだろ。城で誰かに聞かれないか心配しながら話すより、はるかに安心して話せるわけさ。兵士たちも御者たちも、オペイクス様に遠慮してか、ほとんど話しかけてこなかったからね。

 イリーデは意気込んで、私に頼むんだ。改めて、女と男について教えてほしい、と。

 私は観念して話したよ。ニッジ・リオールに騙された事。ソレイトナックとの出会い。ベイジやヒーナ様との日々も。

 私としては、ごく簡単に、と言うか、ぼかせるところは極力ぼかしたかったんだが、イリーデと来たら、詳しく知りたがってねえ。男と一緒に裸になって、どういうふうにお互いの体を合わせるのか。男からお乳を触られるのか。男が女の脚を開かせたら、どんなことをしてくるのか。あれもこれも細かく質問してきたのさ。

 そりゃ、かつては私もイリーデと同じだったよ。男のことを知らなくて不安だった時期は私にもあるから、イリーデの気持ちは分かる。だから彼女のためを思って、できるだけ話してやりたくもあったが、何とも恥ずかしいじゃないか。

 ごめんよ、プルーデンス。あんたも聞いていて恥ずかしいだろうが、こらえて聞いとくれ」

「はい、分かってます」と返事しながら、私は苦笑いになった。

「まあ、この辺りは笑い話で済むが」

 話が弾んだと思ったら、不意にセピイおばさんが言い淀んだ。

「中には、言いにくい話もあった。ヴィクトルカ姉さんの事とか、ヒーナ様の亡くなり方とか。私もイリーデを怯えさせたくはないんだが、警戒心と言うか、注意力も養ってもらわないと。

 話しながら考えて、ヴィクトルカ姉さんの件は名前をぼかすことにした。前にも言った通り、ヴィクトルカ姉さん自身は、自分の事件をスネーシカ姉さんや私に知られているという状況を知らないんだ。イリーデのためには、そこら辺で妥協するしかなかった。

 イリーデは、やっぱり驚いていたね。そして怖がっていた。でも、ヴィクトルカ姉さんが結婚して、どこかで暮らしている、と話したら、少し安心してくれたよ」

 セピイおばさんの目は私から離れて、宙をさまよった。遠いところ、ヴィクトルカの住むところに、思いを馳せているような。

「ヒーナ様の件も悩ましかった。もう、マムーシュを話に登場させるとかいう以前の問題でね。馬車を使ってヒーナ様がソレイトナックに初めてを捧げた事とか、私としては、なるべく思い出したくなかった。その後の、ベイジとヒーナ様が険悪になった事とかも。

 でも、ちょっと特殊な事情と言おうか、実はイリーデに、ベイジについて話しておきたい、という気持ちもあった。と言うのも、ツッジャムの城下町に入ったら、ベイジの生家を探す予定だったのさ。私は事前に、ご党首様に許可をもらっていた。城下に住むベイジが、ビッサビア様やツッジャム城について、何か噂を耳にしているんじゃないか。そこを、私もご党首様も知りたかったんだよ」

「そうか。それも、おばさんの任務なんだね」

「そういうこと。そんな調子で、イリーデに話すことはいっぱいあった。二人で話している間に、馬車が峠や集落を幾つも通過した事に気づかなかったくらいさ。

 で、途中で、ヒヤリとする事があった。たしか正午だったか。太陽が一番高い位置に来ていた」

 セピイおばさんは、そこで息をついた。重たそうな息に聞こえた。

「不意に馬車の窓が叩かれて、私が開けたら、兵士の一人が馬車のそばに自分の馬を寄せていた。

『二人とも、馬車の中で、どこかにしっかり、つかまっていろ。一騒ぎありそうだ。俺らが声をかけるまで、扉も窓も開けるなよ』

 その兵士は言うが早いか、私の返事を待たずに窓を閉めようとした。私は『どうしたの』と、急いで尋ねた。

『賊につけられているらしい。オペイクス様が、警戒体制に入れ、とおっしゃった』

 兵士はそれ以上、答えてくれず、私とイリーデは仕方なく、馬車の真ん中で体を寄せ合って震えたよ。

 それでもイリーデは気になるのか、一度だけ窓をほんの少し開けて、後方を確認した。

『オ、オペイクス様が居ない』

 イリーデが泣きそうな声でつぶやいたと思ったら、すかさず『ばか、開けるな』と外の兵士から怒鳴られた。

 ま、まさかオペイクス様が私たちを見捨てるなんて。イリーデも私も、言葉には出さなかったが、お互いの顔を見合わせて、同じ不安を抱いた事が分かった。しかし確かめたくても、もう窓を開けるわけにはいかない。私とイリーデは、もう一度、体を寄せ合うしかなかった。

 私が『きっと大丈夫よ』なんてイリーデを慰めていたら、馬車の外で男たちの大声が響いた。

『お前らっ。命が惜しかったら、その荷物を置いて立ち去れ』

『ふざけるなっ、誰が渡すか』

 途端に、金属のぶつかり合う甲高い音や、叫び声、罵り合う声が、辺りに充満した。馬車の側面に何かが当たる、鈍い音も時々あった。

 私は、馬車のどちら側にも賊が迫っているんだと思って、怖くてたまらなかったよ。聞き覚えのある、こちらの兵士が痛がる声も聞こえた。私もイリーデも、それだけで悲鳴を上げそうになった。

 と、賊らしい声で、こんな言葉が聞こえた。

『げっ、騎士が居やがった』

 馬の蹄の音が忙しなくなって、物を叩くような鈍い音と、男たちの悲鳴が増えた。こちらの兵士たちじゃない。聞き慣れない、賊たちの声だ。私と向かい合ったイリーデの顔に、喜びの色が走った。

『オペイクス様、左ですっ』

 なんて、こちらの兵士の声に続いて、賊の悲鳴が、また上がった。

『ち、ちくしょう』

『ひいっ、命だけはお助けを』

 賊たちの声と、またゴツゴツと物を叩く鈍い音。違う、賊が殴られているんだ、と私は思った。

 イリーデがまた窓を開けようとしたんで、私は黙って、止めた。『手こずらせやがって。大人しくしろ』なんて兵士たちの声が聞こえたからね。

 しばらく馬車の外で騒ぎが続いたが、私とイリーデは辛抱強く、その時を待った。

 そして、その時が来た。

『もう大丈夫だぜ、お嬢ちゃんたち』

 兵士のその一言を聞くや、イリーデは馬車の扉を開け放った。縛り上げた賊七人ほどのそばに、兵士たちとオペイクス様が立っているのが、馬車の中からも見えた。

 イリーデと来たら、私なんか初めから居なかったかのように馬車から飛び出して、オペイクス様にすがりついて泣き出したよ」

「うーん。ここぞとばかりに、と思えますなあ」

 私が茶化すと、セピイおばさんは笑い出した。この夜で一番大きな笑い声かも。誰かに聞かれないか、私の方が心配してしまう。

「あんたも言ってくれるねえ。でも、まあ、その通りだよ。

 ただ、イリーデには悪いんだが」

 セピイおばさんは、話している途中でも笑っている。「私には親子に見えたよ、二人が」

「えっ、そんなに歳が離れていたの?」

「さっきも話した通り、この時のオペイクス様は三十過ぎ。半ばだったかな。イリーデは、たしか十七だった気がする。年の差は、十以上は確実に開いていただろう。父親と娘という見方も充分有り得る、と私は思った」

 うーん、と私は、うなってしまう。広い世の中には、たしかに、そんな夫婦もあるだろうけど。私個人は、せめて八歳違いまでが許容範囲かな。友達のルチアたちだって、十以上なんて想定していないと思う。

「まあ、イリーデの好みはともかく、問題は賊どもの処分だよ。オペイクス様は『ツッジャムに行く前に、付近の役人を訪ねて、賊どもを引き渡すしかない』とおっしゃった。

 そしたら、兵士たちが叫んだ。

『オペイクス様。どうか、その前に、こいつらをニ、三発、殴らせてください。お願いしますっ』

 オペイクス様は『斬りつけたり、骨を折ったりしないなら、いい』と許した。

 途端に、兵士たちは賊どもを蹴ったり殴ったりしたよ。『よくも、やってくれやがったな。てめえに斬られたところが、まだ痛えんだぞ』なんて怒鳴りつけながら。縛られて抵抗しようのない賊どもには、泣いている奴もいたっけ。

 そんな興奮した兵士たちの手当ては、もちろん、私とイリーデがした。馬車の御者や荷車の使用人二人も、怪我していたよ。賊どもに斬りつけられたらしく、震えていた。

 よく見ると、馬車そのものにも投げ斧が二つだったか、突き刺さっていたよ。

 イリーデはオペイクス様の手当てもしようとしたが、本人は遠慮なさった。『かすり傷で、手当てするほどじゃない。まだ包帯を温存しておきなさい』と」

「なかなか、かっこいいじゃん。イリーデちゃんの気持ちが、ちょっと分かるわ。

 ちなみに、盗賊たちの手当ては、してやったの?」

「ああ、そっちの方は放ったらかしさ。オペイクス様に斬られたのか、連中の服もだいぶ血が滲んでいたけど、役人のところまでは充分もつだろう、と。それがオペイクス様や兵士たちの見立てだった。

 そうやって味方側の手当てが済んだら、使用人の一人が怪我の痛みをこらえながら、近くの農夫を二人ほど、引っぱってきたよ。役人のところに案内してもらうためだ。

 農夫たちは、縛られた賊どもや、私ら一行の様子を見て驚いたが、役人については賛成しなかったね。その地域の役人のところまで行くには、近くの町まで出るしかなかったんだ。それより村長の家の方が断然近い、と。農夫二人は急いで、村長を呼びに行ってくれたよ。

 何分待ったかねえ。たしか半時間もしてないと思うんだが。やがて農夫たちと村長らしき老人、さらに別の農夫も四、五人、小走りでやって来た。

 一番年老いた男は、やはり村長だったね。オペイクス様に挨拶して、事情を聞いていた。そして、賊どもを役人のところに連行する役目を引き受けてくれたよ。

 村長や農夫たちが口々に言うには、賊どもはここニ、三ヶ月ほど周辺を荒らし回っている連中だろう、と。農夫の一人は、娘を輪姦されたと言って、縛られた賊に飛びかかろうとして、兵士に止められていた。

 すると、その農夫を見て、賊の頭目らしき男が言うんだ。『おう、ご想像の通り、たっぷり犯してやったぜ。金目のもんを持ってねえんなら、体で払わせて当然だろうが』

 農夫は、もちろん激怒したよ。だが、すぐには動けなかった。頭目が犯行を堂々と自供し終えた瞬間、オペイクス様が頭目をひっくり返したんだ。みんな、オペイクス様は何をしているのかと思っただろうよ。オペイクス様は何も言わずに、頭目のすねを踏み折った」

「えっ、すね?」私は聞き直した。

「そう。両脚のすねだよ。思い切り体重をかけて踏みつけて、折ったのさ、両方とも。途端に頭目の絶叫が、辺りに響き渡った。私もイリーデも、思わず耳を塞いだよ。

 頭目はその場でのたうち回りそうになったんだが、オペイクス様が農夫の足元まで引きずって行ったんで、それすら、できなかった。オペイクス様は、その農夫に言ったよ。

『殴る蹴るはいいが、刃物を使ったり、絶命させたりするのは、どうか我慢してください。少なくとも役人が事情聴取するまでは生かしておかなければならない』

 それで農夫は泣きながら、頭目を踏みつけにした。そんな農夫、つまり被害者の父親に、オペイクス様がそっとささやいた。

『家族も呼んで、一緒に報復するといい。できるなら、傷つけられた娘さん本人に一番させてやりたいが。あくまでも本人の意志を尊重して、無理強いはしないように』

 父親が頭目を踏む足が止まって、泣き声が一層、大きくなったよ。父親は泣きながら家族を呼びに行った。それを見送るオペイクス様のお顔も、何とも悲しげでねえ。まるでオペイクス様も被害者の親族かと思えたくらいだ。

 でもオペイクス様には、しょんぼりしている時間は無かったよ。その父親を見送ったのは、わずか数秒で、すぐに振り返って兵士たちに、こう言った。

『さっき、骨はダメだと言ったが、少し変更しよう。今から、手下たちのすねも折る。君たちも、やっていいぞ』

 兵士たちは歓声を上げて、賊の手下たちは悲鳴を上げたね。『お、お頭が余計なことを言うから』なんて仲間割れを始めたが、縛られて動けないから、無駄な労力さ。兵士たちは怪我させられた御者さんや使用人たち、地元の農夫たちも誘って、報復に勤しんでいた。

 それで気を利かせた別の農夫が、荷車を取りに戻っていったよ。役人のところに賊どもを連行しようにも、連中はもう歩けない。荷車に乗せるしかないからね。

 兵士の一人は『これで逃げられるもんなら、逃げてみろや』なんて罵りながら、頭目の脇腹に蹴りを一つ、追加していた。

 一方、オペイクス様はその間にも、村長に念を押していた。

『くれぐれも被害者である娘とその家族を慰め、いろいろと助けてやってください。間違っても、責めたり、いじめたりしないように。

 我々はツッジャムに向かう途中だから、そろそろ出発します。ですが、帰り道に必ず立ち寄りますので。その際には被害者家族の処遇を確認させてもらいますぞ』

 村長は、しきりにうなずいていた。そして改めてオペイクス様に礼を述べて、オペイクス様の名を知りたがったよ。オペイクス様は名乗らなかった。

『私は事件に間に合わず、事件の後でここを通りかかっただけだ。娘さんを救えていない。よって、私に名乗る資格は無い。

 それより、今回の加害者である賊どもに対する処置は、この地域一帯の領主様の意向に沿うものと認識していただきたい』

 村長や近くで聞いていた農夫は、ハッとして、それ以上は何も言わなかった」

 そこまで話して、セピイおばさんは息をついた。またしても重く、深いため息。うーん、今夜はキツい話は無さそうと思ったんだが。

「その村人たちは地域の領主様と聞いて、ヌビ家と分かったよね」

「そりゃ、そうだよ。自分たちが直接関わる役人や、そこら辺の小貴族とは、わけが違う相手だと。

 しかしオペイクス様は、くどくど説明したりしなかったね。元々、秘密の任務で私の里帰りに同行してんだから。

 村人たちとのやり取りはそれくらいにして、私たちはツッジャムに向けて再出発したよ。

 今度は私もイリーデも、ちょくちょく窓を開けて、周りを見た。

 馬車のすぐ後ろについた荷車の使用人は『揺れが傷にひびく』とか言って、ちょっと辛そうだったねえ。

 馬車の前を行く兵士の一人は『まったく、盗賊どものせいで、とんだ寄り道になったぜ』とぼやいていた」

「おばさん。これは聞いてもしょうがない質問かもしれないけど。馬車にヌビ家の紋章を掲げていたら、盗賊に狙われなかったかな?」

「ああ、それは、あり得るね。こっちがいくら少人数だからと言って、ヌビ家の紋章があったら、それなりの立場の者じゃないと、近づいて来ないだろう。

 しかし紋章を掲げられないのは、前に話した通りさ。オペイクス様も兵士たちも、頭巾を目深に被って、紋章衣は着ていなかった」

「それにしても、初日から大ごとだったね。ツッジャム城からの里帰りの時と、大違いだわ」

「そりゃ、距離が違いすぎるよ。その分、こんな余計な事件にも巻き込まれやすいってわけさ。まあ正直に言えば、私もヌビ家の紋章を使わせてもらいたかったけどね」

 セピイおばさんは話し疲れたのか、そこで少し葡萄酒を注いだ。

「イリーデちゃんも、さぞかし驚いたんじゃない?」

「そうなんだよ。イリーデと来たら、すぐに泣き止んだのはいいが、馬車の中で興奮しっぱなしでねえ。オペイクス様の賊どもに対する振る舞いをしきりに弁護するのさ。『オペイクス様は、やり過ぎたわけじゃない。当然のことをなさったのよ。それこそ正義だわっ』とか。

 私は、まだ何も言っていなかったのに、だよ」

 セピイおばさんは苦笑した。

「そのうち、他の人たちまで槍玉に上げてね。『オーカーさんやアズールさんだったら、こうは行かなかったと思う。もっと怪我人が出るか、賊を取り逃しているに違いないわ。ブラウネンなんか居たって、今頃、足手まといよ』だとさ。手厳しいだろ」

「色男さんたちはともかく、ブラウネンまで責めるのは、かわいそうよ」

 私も苦笑しながらブラウネン君に同情してしまう。

 

 セピイおばさんが言うには、へんに火がついてしまったイリーデちゃんは、なかなか収まらなかったらしい。血生臭い事件の直後だから仕方ないさ、とセピイおばさんは加減してあげたけど。

 でもなあ、と私は内心、思う。勝手に欠席裁判を始めて、無闇に矛先を広げるなんて。いや、イリーデは何かを決めたんじゃなくて陰口を言っただけだから、裁判でもないか。

 イリーデは、色男さんたちだけでは飽き足らず、彼らと関係の深いお姉様方まで非難し出したらしい。シルヴィア、スカーレット、ヴァイオレット。三人は、べつにイリーデをいじめていたわけではない。そんな、かっこ悪いことをするような人たちではない、とおばさんも証言した。ただイリーデとしては、子供扱いが面白くなかったのだろう、と。

 若かりし頃のセピイおばさんに、イリーデちゃんが言うには、たまたまブラウネンと立ち話していたところをお姉様方から冷やかされたそうな。

『何だか、おままごとみたい』

 これは嫌だ、と私も思う。あんまりだ。微笑ましい、とか言いたかったのかもしれないが。いや、やっぱり確信犯としか思えない。

 とにもかくにも、お姉様方は大人の女だったんだろう。男を知っている、男に肌をさらした経験のある、大人の女。そんなお姉様方からすれば、清らか過ぎるイリーデちゃんが、いかにも幼く見えて、少し苛立ちを覚えたのかも。

 村の年上の女たちも、私をそんな目で見ているのかなあ。何だか悔しい。かと言って、焦るのは嫌だし。私だって、相手はしっかり選びたいのだ。

 冷やかされた一件で恨んだのか、イリーデは三人のお姉様方を悪く評してばかりだった。特に、二人の色男さんとの関わり方が、イリーデには受け入れ難かったようだ。

 最初の組み合わせは、シルヴィアとオーカー、そしてヴァイオレットとアズールの二組だった。二回目は、シルヴィアとアズールが、スカーレットとオーカーがくっついた。それで三回目には、スカーレットとアズール、ヴァイオレットとオーカーが、それぞれ仲良くなった。

 いずれも、イリーデがメレディーン城で女中として働いている間に、聞くとはなしに仕入れてしまった噂話。

 お互いに取っ替え引っ替えとは、なるほど、おめでたい。それぞれ、どれくらいの交際期間があったことやら。その都度、体の関係があったと推測すべきなのか。すべきよねえ、大人のお姉様方なんだから。それならそれで、組み合わせが変わる際に、取った取られたの喧嘩をしそうなもんだけど。

 里帰りの後日、セピイおばさんがシルヴィアさん本人から聞かされた話によると、実際、喧嘩は、よくあったらしい。

「『でもね』とシルヴィアさんは言うんだよ。『いつまでも、いがみ合っていたも仕方ない』と。『誰が誰の気持ちを踏みにじった、と責めたって、お互い様よ。友達を裏切った、出し抜いたなんて、私ら三人とも、やっちゃっていたんだから。その回数の多い少ないをほじくり返しても、今さらでしょ。それで、そのうち怒り疲れて、お互いに顔を見合わせて笑い出す。その繰り返しだった。馬鹿みたいでしょ』だとさ。

 ちなみに、男二人の方でも似たような展開だったみたいだ」

 でしたか。セピイおばさんの説明に、私は曖昧な相づちしか打てない。

 当人たちは、それでよかっただろう。でも、イリーデちゃんには理解できなかったに違いない。セピイおばさんから話を聞いた私も、理解したわけじゃない。お姉様三人から取り合いっこされるほど、騎士二人が色男だった。私に理解できたのは、そこだけ。もう、その時点で、この二人に共感できないんだけど。むしろイリーデちゃんに激しく同情、同意してしまう。

「イリーデは五人まとめて、散々くさしていたよ。『ふしだら』だとか『節操がない』とか繰り返してね。ツッジャムに着くまで、馬車の中で、ずっとそんな調子だったと想像しておくれな。私は、相づちを打つだけで疲れたよ」

 私は、おばさんにつられて、苦笑してしまった。

 おばさんは、また遠くを見る目になって、こんなふうにも付け加えた。

「しかもね。この付き合い方で、姉さんたち三人とも、赤ちゃんができたりはしなかった。まあ、たまたまだろうが、それで良いのか悪いのか分からないよ」

 運良く妊娠しなかったと見るべきか。それとも妊娠していた方が、ころころ組み合わせが変わらずに、早く結婚が成立していたのか。なるほど、神様の思し召しは分からない。

「セピイおばさんは、里帰りの後でイリーデが言ったことを、お姉様三人に話したりはしてないんでしょ?」

 私が念のためと思って聞くと、おばさんは、また笑った。

「そりゃ、言えるわけないじゃないか。私まで無駄に睨まれちまう。それに、言わなくたって、三人とも感づいていたよ。それで三人の方から私に問わず語りを始めて、さっきのシルヴィアさんのせりふが出てきたってわけさ」

「ふふっ、お姉様たちなりの言い訳だったりして」

 セピイおばさんは、げらげら笑い出した。やった、ウケた、と私は、ほくそ笑む。

「はあ、神様が奇跡を起こしてくださらないかねえ。それで、あんたをあの頃のシルヴィアさんたちに引き合わせたいよ」

「ひーっ、それは勘弁」

 神様がなかなか見えない存在で良かった。今回だけは私も心から、そう思った。

 

「さて、私たち一行がツッジャムの城下町に入った時には、もう太陽が隠れかかっていた。西の空が真っ赤に染まって、影という影が長くなって。

 私は焦ったよ。もう少し明るい時間に城下町に入って、ベイジの商家を探したかったんだ。まったく、盗賊どものおかげで、いい迷惑さ。

 私にとっては、ベイジから聞かされていた通りの名前だけが頼りでね。私が先頭の兵士たちと馬車の御者にその名前を教えて、兵士たちが通りかかった町人たちに道を尋ねて回った。私もツッジャム城に居た時は、頻繁に城下町に出かけたわけじゃないんだよ」

「そうねえ。私たち村の人間が城下町に行くのも、たまにだし。父さんたちなら、だいぶ道を覚えただろうけど。私とか村の連中のほとんどは、城下町の道を把握できてないわ」

「やっぱり、そうかい。私の若い頃と大して変わってないねえ。

 そもそも、ベイジの商家が在る通りは、ツッジャム城からは結構、離れていた。城下町の端っこ、というほどでもないんだが。

 私たち一行は、町人に道を教わって、少し進み、また別の町人に道を教わる。それを三回くらい繰り返したと思うよ。城下町に入ったところから、ツッジャム城の向こう側にぐるっと回り込む形になった。その分、時間がかかって、私は気が気じゃなかった。

 でも、いいこともあってね。暮れかけて、店という店が片付けを始めて、人の出入りが活発になっていたんだ。通り側に出していた品物を店内に取り込んだり、壁に付け足して伸ばした日除けを畳んだり。商売人たちが、みんな忙しそうにしていた。

 私は馬車の窓から身を乗り出して、そんな商売人たちを喰い入るように見回したよ。そしたら、やっぱり居た。とある店先に、懐かしい顔を見つけたんだ。

 私はすぐに、ベイジの名を叫んだ。ベイジも顔を上げて、私と目が合ったよ。

『セピイっ。セピイなの?』ってベイジは目を丸くしてね。

『そうよ』と答えて、私も手を大きく振った。そして御者に、馬車を止めてもらった。

 それを見て、ベイジも通りに飛び出そうとしたんだ。そしたら途端に『ベイジ、走るなっ』と男の声が響いた。同い年くらいの男が店の奥から走り出てきて、ベイジを捕まえた。

 私は、その二人の様子にハッとして、もう一度、叫んだよ。『私の方から行くので、そこで待っていて』と」

「ん、どういうこと」

「ベイジのお腹に赤ちゃんがいると予想したんだよ。で、男は旦那さんだろう、とね」

「あ、なるほど。だから走っちゃいけなかったんだ」

「私が急いでベイジに駆け寄ってみると、やっぱり、予想通りだった。

 私とベイジは、久しぶりと言って抱き合ったり、私から赤ちゃんのことで、おめでとうと言ったり。それと、ベイジから旦那さんに、私を紹介してもらったり、もね。感激しながら、やること盛りだくさんだったから、二人とも混乱して、泣き笑いになったよ」

 セピイおばさんは話しながら、微笑んでいた。当時の喜びを再び感じているんだわ。

「とは言え、長々と立ち話している場合じゃないね。私は、ベイジと旦那さんに頼んでみた。いきなり押しかけて悪いが、私たち一行を泊めてくれないか、と。

 続けて私は、兵士たちや御者に声を掛けて、店の前に馬車と荷車を誘導してもらった。私ら一行の人数を見て、ベイジも旦那さんも言葉を失くしていたよ。そりゃ、仕方ないよね。兵士と使用人が二人ずつ。それと、馬車の御者とオペイクス様。あと、イリーデと私だ。急に八人も泊めるだなんて、誰だって困るよ」

 セピイおばさんは、ククッと忍び笑いをはさんだ。

「でも、そこで、またオペイクス様の登場さ。オペイクス様は兵士の一人に馬を預けて、こちらに駆け寄ったよ。

 オペイクス様は、まずベイジと旦那さんに挨拶して、簡単な自己紹介をした。旦那さんなんか、オペイクス様がメレディーン城の騎士と知って、驚いて恐縮したよ。オペイクス様が『あまり大声を出さないように』と頼まなきゃいけなくなったほどさ。

 オペイクス様はベイジ夫婦に説明した。

『まず自分と兵士二人には今夜、行くところがある。よって、こちらにご厄介にはならないから、安心していただきたい。使用人二人と馬車の御者にも、近くの宿屋を探すよう、私から言っておこう。

 あとは、こちらのセピイと、同僚の女中が残っているのだが。この計二名だけ、どうか泊めてやってください。

 それと、馬車と荷車を預かってくれる場所があると、ありがたいのだが』

 オペイクス様の丁寧な口調と内容に、ベイジ夫婦も少しは安堵した様子だった。しかし、まだ問題がある。馬車と二台の荷車だ。

 ベイジの旦那さんは自分の両親や店の使用人に声をかけて、店内の物を片側に寄せようと、品物やら棚やらを動かそうとした。

 品物は油が入った壺や樽が主で、その他は染料や薬液。酒樽とお酢の樽も少々あったね。もちろん、それらの大小は様々だよ。つまりベイジの商家では、油類を中心に売り買いをしていたのさ。

 私ら一行も、それらの壺や樽の移動を手伝おうとした。すると、ベイジ夫妻と親たちは慌てて遠慮してね。騎士であるオペイクス様に、そんなことはさせられない、と言うわけさ。まあ平民なら普通、そう反応するところだよ。

 しかし、オペイクス様は手伝った。『厄介をかけるのは我々なのだから、当然だ』と答えてね。

 で、しばらくして、何とか荷車を二台、店内に収容することができた」

「うーん。となると、残るは馬車」

 その対処の仕方を予想できなかった私は、つい口をはさんでしまう。

「それと、荷車を引いてきた馬たちも居るよ。

 これが最後の難問だったねえ。ベイジの旦那さんやお舅さんは『商人仲間に頼もうか』とか何とか言っていたが、適任者がいないのか、答えが出ない。

 そしたら、こちらの御者さんが言い出した。

『もう、しょうがない。馬車は店の前に置かせてもらって、馬たちは馬車に繋いで、路上に寝かそう。聞くところによると、セピイのお里は農村らしいじゃないか。明日、農村でゆっくり休めるんなら、馬たちも一晩くらいなら我慢できるって。

 オペイクス様。見張りを兼ねて、俺が馬車の中で寝ますんで、ご安心を。

 旦那さん、俺には晩飯だけ、厄介にならせてくれ』

 これには、みんな賛成したよ。もう、他に手は無い、と分かっていたからね。

 オペイクス様は改めてベイジ夫婦に、私とイリーデ、御者さんのことを頼んだよ。そして私らの宿代と馬の餌代として、金の入った小袋をベイジの旦那さんに受け取らせた。

 その上でオペイクス様は、宿屋で泊まる予定の使用人二人に、明朝、店に戻ってくるよう言いつけた。

 で、ご自分は、また馬上に戻った。兵士二人も同じだよ。揃って夕闇の中へ、ツッジャム城に向かって馬を走らせた。

 こちらの使用人たちも、ベイジのお舅さんに宿屋を教えてもらって、そちらに向かった。

 それを見送って、私とイリーデと御者さんは、ベイジの家族の晩餐にお呼ばれした」

 そこまで話すと、セピイおばさんは大きく息をついた。私も一緒に息をついてしまう。まるで二人とも、ベイジの店に居るみたい。

「私ら三人はベイジから、椅子に座ってゆっくり待つように言われた。奥でお舅さんの声が聞こえたよ。『せっかくのお客さんだ。いい肉と酒を奮発しろ』とかね。ベイジとお姑さんは食卓からお皿がはみ出そうなくらい、ご馳走を出してくれたよ。

 賑やかな晩餐だったねえ。みんなで改めて挨拶を交わして、乾杯した。ベイジの旦那さんもお舅さんも、私らからメレディーンの話を聞きたがって、話が弾んだ。

 で、やっぱりベイジの家族は、イリーデの美貌を誉めたよ。ヌビ家の娘ではない、と本人も説明したんだが、ベイジたちは、なかなか信じられないでいた。

 そのうち、ベイジの両親も駆けつけてね。近くに住んでいて、店の使用人が呼びに行ってくれたらしい。私はベイジの両親にも挨拶できて、よかったよ。

 そうやって盛り上がったはいいが、ベイジと積もる話をできる状況ではなかった。そこは我慢しながら、今度はこちらからツッジャムの様子を尋ねてみたよ。

 途端にベイジの両親も旦那さんの両親も、ぼやき出した。何って、新城主パウアハルトに対する不満さ。内容は、以前マルフトさんから聞いていた事とほぼ同じ。と言うより酷くなった感じか。ベイジのお舅さんがたしか、こんなふうに嘆いたよ。

『ああ、何でモラハルト様が引退なさったのか。今からでも戻っていただきたいよ。

 なあ、あんた方、メレディーンのお城に戻ったら、ヌビ家のご党首様にお願いしてくれんかね』

 私らは困ってしまった。確約なんて、できないからね。

 イリーデも言っていた。パウアハルトがメレディーン城に居た時は、怖くて近づかなかった、と。ベイジの旦那さんも親父さんも、それを聞いて『そうだろ、そうだろ』と仕切りにうなずいていた」

「うーん、パウアハルトは、ともかく。

 その口調だと、ベイジの家族は、モラハルトがセピイおばさんにどんなことをしたか、知らなかったみたいね」

「そうなんだよ。少なくともベイジは、かつての女中仲間から噂を聞いているだろう、と私も推測した。あとは、ベイジが旦那さんに話したかどうか、が半々くらいか」

「ますます、混み合った話が、できなさそう」

「だから私は内心、焦りながらも、晩餐がお開きになるのを待ったよ。

 で、みんなが食べ終わると、ベイジやお姑さんは片付けを始めた。ベイジのお袋さんも手伝っていたから、私とイリーデも加わろうとしたが、遠慮されてね。『お客なんだから、くつろいでおくれ』なんて、お姑さんが言ってくれるんだよ。

 それで、私とイリーデは手持ち無沙汰になった。と思ったら、お舅さんから声がかかった。何でも、こちらの御者さんと、馬たちを寝かしつけながら呑み直すから、ちょっと付き合ってほしい、と。すかさず、ベイジが言ってくれたよ、お皿を洗いながら。

『お義父さん、だめですよー。この後、女同士で大事な話があるんですからね』

 お舅さんは、いたずらを見つかった男の子みたいに舌を出して、首をすくめていたよ」

「ふむ、その様子なら、ベイジは旦那さんの両親と上手くやっているんだわ」

 私は感心しつつ、自分も将来こんなふうになれたらいいな、と羨んでしまう。

「ふふ、正しい推測だよ、プルーデンス。

 ただ私とイリーデは、それでも少しはお相手せねばなるまい、と気を使った。

 店先の路上では、旦那さんやお舅さん、ベイジの親父さん、こちらの御者さんが、何かを運んだりしていてね。何かと思えば、藁の束や大きめの粗布だった。それらを馬たちの脚元に敷いてやっていたんだよ。ベイジの旦那さんたちが急いで、かき集めてくれたらしい。

 私とイリーデは、それらを敷く作業を手伝ったのさ。馬の一頭なんか、イリーデが藁を撒いて広げた途端に、その上に寝転がったよ。それを見て、お舅さんも、こちらの御者さんも『現金な奴だ』と笑っていた。

 そうやって、馬車の周りに馬たちが一頭、また一頭と脚を屈めていった。ベイジの親父さんが『馬たちも、お疲れなんだろう』とそばに座って、撫でた。ベイジの旦那さんが、その隣にこちらの御者さんを誘導する。その時には、旦那さんの手に、盃が幾つかと、酒の皮袋があったよ。これに、ベイジのお舅さんも加わって、路上の酒盛りが始まった。

 私はイリーデと顔を見合わせて、一杯だけは付き合おうか、と迷った。でも結局、しなかった。皿を洗い終わったベイジが、呼びに来たんでね。

 ベイジは、ついでに塗り薬の入った小さな壺を持ってきていたよ。それを旦那さんに手渡して、御者さんの顔に塗ってやるように言った。昼間、盗賊が投げつけた棍棒のせいで、御者さんのおでこに染みができていたんだ」

「うーん、なかなか大変だったね。やっぱり賊の類は怖いわ」

「まったくだよ。だから遠出は悩ましいんだ。出ないと世の中が分からないし、出たら出たで危険と隣り合わせだからね」

 セピイおばさんは、その憂さを晴らそうと思ったのか、葡萄酒を一口あおった。

 

「さて、それからベイジは、私とイリーデを部屋に案内した。私ら二人のために寝床をこしらえてくれた部屋だよ。

 寝床はそれぞれ壁に寄せてあって、間が通路のように空いていた。私とベイジは、その二つの寝床に分かれて、向かい合って腰掛けた。イリーデは私の隣さ。低い棚の上で、小さなロウソクの灯りが周囲を照らしていた。

 ベイジが改めて言ったよ。『一年。丸一年、経ったんだよ、セピイ』

 ベイジは私の手を握りながら、目を潤ませていた。

 その上で、ベイジは私に確認したんだ。これからする話をイリーデにも聞かせていいのか、と。

 私は答えた。あえて聞かせたい、と。なぜならイリーデは、結婚前のヒーナ様と同じで、女と男について知りたがっている。そのために、ご党首様の許可も得ている、とね。

『分かった。じゃあ、イリーデちゃんも、しっかり聞いてね。あまり大きな声で話せない事が多いから』

 イリーデは『はいっ』と生真面目に答えた。

 ベイジは、まずモラハルトの事件について、私に尋ねた。私が『ビッサビア様のおかげで、何とか無事で済んだ』と答えると、ベイジは泣き出して、私を抱きしめてくれたよ。

『心配したんだよ。ずっと心配だったんだからね』

 そう、ベイジは繰り返した。私も、その気持ちがありがたくて泣けたもんさ。

 すぐそばでは、イリーデが目を白黒させていた。私がツッジャム城からメレディーン城に移ってきた事情を初めて知って、愕然としていたんだよ。『私、何でセピイさんがツッジャム城に立ち寄らないのか、不思議に思っていたんです。こ、こんな事情だったんですね』とまで言って、後は絶句していた。

 ちなみに、ベイジにモラハルトと私の事件を教えたのは、マルフトさんだった。マルフトさんがこの村に来て、私の家族に私の状況を伝えてくれた事は、前に話しただろ。マルフトさんは、それに合わせてベイジにも知らせてくれていたんだよ。もちろん気をつけて、口外しないように念を押してね。

 その頃のベイジは、まだモラハルトを信用していて、半信半疑だったそうだ。

 ベイジはマルフトさんの忠告通り、誰にも話さなかった。迷って結局、旦那さんと親父さんたちにも話さなかった、と。

 そしてベイジは、城下町の様子を注視していたんだ。ベイジが見たところ、私らが泊まりに来た時点でも、城下町で事件を知る者はほとんど居なさそうだ、と。それとも、噂などで事件を知りながら、口をつぐんでいたのか。

 とにかく、ベイジの見立ては、こんな感じだった。ある日突然、息子のパウアハルトがメレディーンから戻ってきた。そして父親であるモラハルトは、息子にツッジャム城を譲って、引退。城下町とここら一帯の住民は、その程度の認識だろう、と。だから噂も知らないベイジのお舅さんたちからすれば、モラハルトが急に引退したようにしか見えなくて、不思議で仕方ないのさ」

「な、なんか、悩ましいね。モラハルトの悪行がもう少し知れ渡るべき、とも思うけど。だからって、セピイおばさんがあれこれ噂されるのは良くないし」

「そうなんだよ。それでもモラハルトの犯行は未遂で、私は無事で済んだんだから、ありがたいと思っておくべきなのか。後になって、よく思い返したもんさ」

 セピイおばさんは、また、ため息をはさんだ。

「で、モラハルトの話はそれくらいにして、私はソレイトナックに話題を移した。そう、私からソレイトナックとの件を告白して、ベイジに謝ったんだよ。ベイジはびっくりして、私を問い詰めた。私は恨まれるのを覚悟して、できるだけ正直に話した。城下町のお祭りの日にソレイトナックと結ばれた事、結婚も約束した事。もちろん、ツッジャム城の地下道については言わないよ」

「ベイジは怒った?」

「怒った、と言うか。『なにー、ずるいっ。私がカーキフのお相手をしてやっていた時に』だってさ」

 ぷくくっ。私は吹き出してしまった。

「ベイジも偉いじゃない。ちゃんとカーキフの事、覚えてあげていたんだね。別の人と結婚したのに」

「まあ、旦那さんには聞かせられない話だよ」

「でも、そのカーキフの事とかも、イリーデちゃんに聞かせたの?」

「聞かせたよ。潔癖な娘だから、後でブツクサ言われるだろうと覚悟しながらね。

 でもカーキフの事は、まだよかった。私じゃなくて、ベイジが当事者だから。それより問題なのは、私が当事者の話さ。ベイジったら、仕返しのつもりなのか、私とソレイトナックがどんなふうに抱き合ったか、細かく追求してきてねえ。『せっかくだから、イリーデちゃんの学びのために、正直に話しなさいっ』だなんて。わたしゃ、恥ずかしかったよ」

「ふふふ、随分いじめられたわね」

 茶化しながら、ベイジは羨ましがっていたんだろうなあ、と私は推測する。

「簡単に言わないでおくれよ。私も辛かったんだからね。話しているうちに、恥ずかしいだけじゃなく、ソレイトナックに会いたくなって、たまらなくて、たまらなくて。私と来たら、ベイジとイリーデの前で、しくしく泣き出してしまったんだよ。

 ベイジは、やり過ぎたと慌てて私に謝ったけど、べつに私はベイジを責めて泣いたんじゃない。一刻も早くソレイトナックと再会して、もう一度きつく抱きしめてもらいたかった。

 はしたないと思うかい?でも、泣いた瞬間、私は、それしか考えられなかったんだよ。二人にも正直に話した。二人から、どう思われても構わない、と。とにかく、そんな気持ちだと知ってもらいたかったんだ」

 セピイおばさんが微かに微笑んだように、私には見えた。

 私は何も答えられなかった。相づちも打てない。もちろんニヤけるのも、やめていた。

「ついでに、と言おうか、ベイジはヒーナ様の事も尋ねてきたね。『今ここで泣くくらいなら、ヒーナ様とソレイトナックの逢引きを手伝うのも辛かったんじゃないの?』と。そう、ヒーナ様がマムーシュに嫁いでいく直前の、馬車を使った逢引きの事だよ。

 私は、それも二人に話した。馬車の外で待っていたら、ヒーナ様のすすり泣くような声が聞こえてきて、逃げ出したい気持ちを必死でこらえた事とかね。イリーデは赤面していたようだし、ベイジからは謝られた。自分だけ逃げて悪かった、と」

 セピイおばさんが遠くを見る目になった。視線が私を通り越して、どこかに飛んでいる。ツッジャムの城下町、ベイジの家の方かも。

「さて、そんな感じで私ばっかりしゃべったから、今度は私からベイジの近況を尋ねたよ。

 旦那さんは、ベイジの最初の彼氏だった。ベイジがツッジャム城の女中をやめて、実家に戻ってから、しばらくして、また頻繁に会うようになったそうだ。話が進んで、ベイジと旦那さんは、そのまま結婚したんだよ。私らが押しかけて泊めてもらったのは、そのちょうど半年後だったとさ」

「赤ちゃんができたから、結婚に踏み切ったのかな?」

 と、私は少々、生意気な質問をしてしまう。気になったのだ。

「それにしちゃ、お腹はまだ、そこまで膨らんでいなかったよ。つわりが始まって、一月ほどだ、とベイジは言っていた。それで赤ちゃんに気づいた、と。

 ベイジは、私とイリーデの手を取って、お腹に触らせたよ。私もイリーデも、手が震えてねえ。赤ちゃんの鼓動は分からなかったが、ベイジのこの体温は実は二人分なんだ、と思うと感慨深いじゃないか。よく見たら、隣でイリーデが、もう赤ちゃんと対面したみたいに、目を潤ませていたよ」

「なるほど。これは、たしかにイリーデにも聞かせて、体験させるべきことだわ」

 と言うことで、私もセピイおばさんに賛意を伝える。そして感謝も。私も聞くべき話だから。

「あの時は私も、イリーデを連れてきて良かった、と思ったよ」

 セピイおばさんの顔が柔らかい笑みに包まれた。

「そうだ、思い出した。その後、ベイジがイリーデに尋問を始めたんだよ。

『人に話させてばかりで、ずるいでしょ。少しは自分のことも話しなさい。ほら、お姉さんたちが聞いてあげるから』

 なんて、肘で小突いたりして。

 だもんで、イリーデはブラウネンと婚約中である事を白状しなきゃならなくなった。ベイジったら、最初の質問がブラウネンの容姿についてでね。イリーデは、まあまあみたいな答え方をしたんだが、私から『あら、充分かっこいいわよ』と訂正しておいた。イリーデは途端に私を睨んだね。余計なことを言うなって言いたかったんだろう。でもベイジから『照れなくったっていいじゃない』とか、さらに冷やかされていたっけ。

 その後、イリーデはブラウネンの欠点をくどくど並べ立てようとしたんで、ベイジと私は、それをやんわりと遮った。『はいはい。馬車の旅で疲れたろうから、もう寝なさい』なんて言い聞かせてね。

 イリーデは、ふて寝気味に、仕方なく横になったよ」

「ふふっ、いじめすぎたんじゃない?」

「かもね。でも、イリーデが疲れていたのも事実で、すぐに寝入った。私とベイジは、ちょっと驚いて、顔を見合わせたもんさ」

 セピイおばさんも、ふふっ、と笑い声をもらした。

「楽しい夜だったんだね」私は嬉しくて言ったのだが。

 セピイおばさんの表情が不意に寂しげに変わった。「と言いたいところだけどねえ。この夜には、まだ、ちょいと続きがあるんだ」

 

 セピイおばさんは、また葡萄酒を少し、盃に注いで呑んだ。

「イリーデが寝た後で、店先の馬車の方を見ると、そちらもお開きになろうとしていた。ベイジのお姑さんがお舅さんに、そうしろと声をかけたんだ。ベイジの親父さんもお袋さんに引っぱられて、ベイジのところに来たよ。お休みを言って、帰っていった。で、締めは旦那さんだ。一度ベイジを抱きしめてから、同じようにお休みを言って、引き上げていった。

『いい家族だわ』と私は思わず、つぶやいてしまった。

 そしたら、ベイジが『何言ってんのよ。セピイだって、明日は家族に会えるじゃない』なんて言いながら、私の背を軽く叩いた。

『でも、あれやこれやで、たっぷり絞られるのよ』って私が答えたら、笑っていたわ」

 そう話すセピイおばさんも笑みを浮かべているが、なんだか元気が無くなったような。

「ベイジは、さらに言ってくれたっけ。『それはそれで、家族が元気な証拠と思って、神様に感謝しなさい』とか何とか。

 でも軽口はそれくらいにして、私は、いよいよ本題、一番尋ねたかったことに話を移そうと思った。もう一度、イリーデが寝入っていることを確かめてからね」

 一番尋ねたかったこと?となると、ソレイトナックに関連することかな。

「よくよく顔を覗き込んでも、イリーデが寝ていることは確実だった。もっとも、聞き耳立てても、得する話なんか一つも無いんだが。

 声量をさらに下げて、私はベイジに話しかけた。

『どうしても聞きたいことがある。ビッサビア様を悪く言うことにもなるから、ご党首様からは口止めされていたんだけど、それでも知りたいの。お願いだから、知っている限りでいいから教えて』

 ご党首様から口止めと聞くや、ベイジが目をひん剥いたのが分かったよ。薄暗い寝室でも。そりゃ、そうだろう。モラハルトどころか、ご党首様だもの。ベイジは、うろたえた。

『待って、セピイ。あんた、自分が何を言っているのか分かってんの?』

 とまで言われたけど、私は謝りながら食い下がった。ベイジの手を握って、頭を下げたよ。そして泣けてきた。

 ベイジは困惑しながらも『手短に、ね』と言ってくれた。

 私は声を抑えつつ、意を決して、ついに話したよ。ポロニュースから聞かされた、ビッサビア様とソレイトナックの関係を。

 ベイジは目も口も大きく開け放して、絶句した。私は、彼女が裏返った声を上げるんじゃないかと心配して、彼女の口を塞ごうとしてね。それで我に返ったベイジは、こう言った。

『セピイ。今、何て言ったの。本気で言ってるの?』

 私はベイジに詳しく説明したよ。ポロニュースの存在と、まだ他にもマーチリンド家の密偵たちが暗躍しているだろうという見立て。それがビッサビア様の差し金である事。そして私自身が、その手伝いをしてしまったという事実。それらを全部ひっくるめて、ご党首様に告白した事もね。

 ベイジは聞いてくれたものの、顔をしかめたまま、なかなか返事してくれない。私が何回も謝っても。やっと口を開いたと思ったら、こんな返事だった。

『セピイ〜。聞かせないでよ、そんな話。ヌビ家とマーチリンド家なんて、貴族家が二つも出ばってきてんのよ。怖すぎるじゃない。シャレになんないわよ』

 私は、もう一度、謝るしかなかった。

『でも、これで分かったわ。ビッサビア様が何であんたを猫かわいがりしていたのか。手懐けて、あとあと密偵の手伝いをさせるつもりだったのね。

 それにしても、ソレイトナックがビッサビア様のお相手だなんて。私たち、それも知らずに彼を追いかけ回していたの?ビッサビア様が、どんな目で私たちを見ていたことやら』

 ベイジは、そこまで言って、身震いしていたよ。

 彼女には本当に申し訳なかったねえ。でも私としては、状況を理解してもらう必要があった。そうしないと、こちらが質問できないんだよ。だからこそ、ご党首様に逆らうことになるのを覚悟してまで、私は話したのさ。

 まあ質問と言うか、要するに、ベイジの意見を聞きたかっただけなんだがね」

「意見?」

「そう、私の推測に対して。私はベイジに、自分の推測を披露したよ。ビッサビア様がソレイトナックを拘束しているのではないか、という推測。

 それを聞いてベイジは唸った。数秒考えていたが、結局しかめた顔のまま、ゆっくり横に振った。ベイジの意見は否だった。

『事情を考えれば、そういう発想になるセピイの気持ちは分かるけど。

 ソレイトナックはビッサビア様のところにも居ないと思う』

 そう言って、ベイジは理由を説明してくれたよ。ベイジは、まず、ビッサビア様の機嫌が非常に悪くて、城下町でも噂になっている事を教えてくれた。ツッジャム城を息子パウアハルトに譲って、屋敷に移った夫モラハルトが、堂々と女中などに手を出しまくっている事が原因だろう、と。城下の町人たちは黙っていても、そう考えているはず。そしてベイジも、私から話を聞くまでは、そう推測していたそうだ。

 しかし、そのうちベイジの耳に、別の噂も入ってくるようになったらしい。ビッサビア様がツッジャム城に若い男を連れ込んでいる、と。その手の男は、ずっとかわいがられて、いい思いをしている、とか。逆に、まったく姿を見せなくなって、亡き者にされたんじゃないか、という噂もあったそうだ。要するに、町人たちの間では、散々な噂が飛び交っていたわけだよ。もちろん声を潜めながら、ね。

 ベイジは付け加えた。『私は、この噂もあながち嘘じゃない、少なくとも半分くらいは事実だろう、と思っている。それでいくと、ビッサビア様がソレイトナックを捕まえているとは思えないの。彼を確保しているなら、他の男を連れ込む必要なんか無いでしょ』と。

 なるほど、と今度は私が唸る番だった。

 ベイジは、さらに、こうも言った。

『私はてっきり、あんたがまだビッサビア様を崇拝していると思っていたから、この手の噂については言わないつもりだったのよ。でも、状況がすっかり変わってしまったわね』

 私には、ベイジの眼差しが、ちょっと憐れみを含んでいるように感じたよ」

 セピイおばさんは、大きく息をついた。

「う、うーん。収穫無し、か」と私は思わず、ぼやいてしまう。

「贅沢を言えば、ね。たしかにソレイトナックの行方は相変わらず不明。でも、ビッサビア様の状況は分かったんだ。それだけでも私はベイジに礼を言ったし、ご党首様の意向に反した甲斐があったと思ったもんさ」

 ううーむ、と私は唸るしかない。そして内心、思っている。私だったら焦るけどなあ、と。もちろん、おばさんも辛かったろう。

「ベイジは少し考えて、もう一つ話せる事があると言い出したよ。あんまり面白くない話だけど、こらえて聞いてほしい、と逆に頼まれた。私は知っておいた方がいい、と。

 ベイジは、先月の事かと言っていたね。旦那さんと知り合いの商家に顔を出して、大通りを戻るところだったそうだ。そしたら、離れたところから呼び止める声がする。誰かと振り返れば、ミアンカだよ。あんた、覚えているかい?私が城下町のお屋敷でリオールと逢引きしていた時に、絡んできた女中。リオールと関係があっただろう、と噂されていた女さ。

 しかも、ミアンカには連れの男が居た。それがなんと、モラハルトその人さ。ミアンカはモラハルトと腕を組んだまま、ベイジに手を振ったらしい。大通りの反対側から。お伴も二、三人、そばに立っていた、とか。

 ベイジは唖然として、目が合ったものの、返事をすべきか分からなかったそうだ。旦那さんも、たまたま近くに居合わせた町人たちも、ミアンカの方を見た後で、すぐに目をそらした。きっと、そうするしかなかったんだろうよ。ミアンカとモラハルトじゃ、親子もいいところだからねえ。それが公衆の面前で、堂々と腕を絡ませるなんて。みんな、気づかないふりをするのが、やっとだよ。

 しかも、だ。ミアンカと来たら、わざわざ大通りを跨いで、ベイジに駆け寄ってきた。モラハルトをお伴に預けたままで。ベイジは、逃げ出そうかと迷ったらしい。

 ミアンカは、さも親しげにベイジに話しかけた。そしてベイジと旦那さんの関係を聞き出すや『あら、おめでとう』と微笑んだとさ。

 そのくせミアンカは、聞かれてもないのに、モラハルトとの関係を滔々と語った。屋敷で一緒に暮らしている、寝食を共にしている、と」

「寝食」私は思わず、口をはさんでしまった。

「そう。寝ることと食べること。あんたと同様、誰だって、ミアンカはモラハルトの寝床でのお相手をしている、と解釈するさ。そんなことを自分から言いふらすんだからねえ。

 ミアンカは自分の生活を、優雅で満ち足りたものだ、と言ったそうだ。食べ物も衣類も、いつでも望んだ時に手にして、かつて同僚だった女中たちや使用人たちが自分にかしずくんだ。なるほど、優雅なもんだろうよ。

 さらにミアンカは、こんなことも言った。

『もう、ニッジ・リオールもソレイトナックも目じゃないわ。だって、城主様が私の旦那様なんだもん。ああ、私を小物狙いなんて言ってくれた、ネマに見せてやりたい。あいつ、途端に姿を見せなくなったでしょ。私にやり返されると分かっているから、出てこられないのよ、きっと。

 でも、まあ、ネマみたいな小物、どうでもいいわ。それより見てなさい。私はビッサビアを追い出すわよ。ネマどころか、私はもうビッサビアにも勝てるの。なんてったって、私にはモラハルト様がついているんだからね。あの人ったら、私にぞっこんで、私無しでは生きられないみたい。

 だから、ゆくゆくは、あのおっぱいが大きいだけのおばさんには引退してもらって、威張りん坊で嫌われ者の息子にもお城を返してもらうわよ。あのどら息子には、豪商たちの誰もついて来ていないんだから、うちの人が返り咲いたら、感謝されるわ。みんな、幸せになれるってね』

 ベイジが言うには、ミアンカは、その後、話題を私に移したそうだ。私を馬鹿呼ばわりしていた、と。要するに、私がモラハルトに犯されそうになった、あの時、そのまま抱かれておけば良かった、と彼女は言うのさ。そうすれば、お妾という彼女の地位に、このセピイが立っていたはずだ、と。優雅な暮らしを得られたのは彼女ではなく、私だっただろう、とね。

 だからミアンカは、私に感謝していたそうだ。ベイジに、私と再会することがあったら、礼を言っておいて、なんて頼んで、モラハルトのところに帰っていったとさ」

「って、ベイジってば、だからって、わざわざミアンカの嫌味な伝言をおばさんに伝えたの?」

「そんなんじゃないよ。ベイジは、そんなことが言いたかったんじゃないのさ。そこからが、ベイジの本題だよ。彼女は言った。

『私も、ミアンカがあそこまで馬鹿だとは思わなかったわ。城主夫人に成り代われると思っていたみたいだけど、なれるわけないじゃない。モラハルト様に弄ばれて、飽きられたら捨てられるだけ。それに、あんたの話だと、アキーラとかメロエも妾なんでしょ。まだモラハルト様と関係が続いているに決まっているわ。何で、そんなことが分からないのかしら。

 そもそも、ビッサビア様はそんな甘ちゃんじゃないわよ。今、セピイから密偵たちの話を聞いて、恐ろしくなったくらいだわ。

 それなのに、あいつったら、周りに町人たちとか、私の亭主とか居るのに、べらべらしゃべりまくって。ビッサビア様やパウアハルトについてまで言及するもんだから、みんな硬直して、必死で聞こえないふりをしていたわ』

 そしてベイジは、こうも言ってくれた。

『セピイ、嫌なことを聞かせて悪かったけど、私は逆だと思うの。あんたはモラハルト様の無理強いを拒んで正解だった。

 だってメレディーンで、ご党首様からビッサビア様の事を口止めされたんでしょ。事情はともかく、ヌビ家のご党首様と直接、言葉を交わしたって事じゃない。このツッジャムに、そんなお偉方と直接、会話した人間がどれほど居ると思う。それどころか、メレディーンに行った事も無い者の方が、ほとんどだわ。私だって、そうだし。あんたは、そのごくわずかの人たちの方に食い込んだのよ。

 もし神様から、セピイとミアンカのどちらかの道を選んでいいと言われたら、私は間違いなく、あんたの方を選ぶわ』

 そこまで言ってくれた時のベイジの真剣な顔を、私は今でも思い出せるよ。私は、いい友達を持った。ご党首様に逆らってまで話した甲斐があった」

 セピイおばさんは、また葡萄酒で、のどを少し湿らせた。

「その後は、念のため、ヴィクトルカ姉さんとスネーシカ姉さんの消息もベイジに尋ねた。

 ヴィクトルカ姉さんの方は、旦那さんの生家に移った事は、私も前に聞いていたんだ。しかしベイジの話だと、その行き先はツッジャムから少し離れているようでね。

 スネーシカ姉さんの方は、さっぱり。もしかして姉さんはツッジャムに戻っていないんじゃないか、というのが、ベイジの推測だった」

 私は聞きながら、またしても、うーん、とうなってしまう。個人的には、また二人に登場してほしい。そして、セピイおばさんと再会してほしいんだけどなあ。

 

「と、まあ、こんなわけで、すっかり長話になったからね。さすがに私とベイジも、もう休むことにしたよ。

 でも一応、私はもう一度、謝ったんだ。『赤ちゃんに悪そうな話ばかりで申し訳なかった』と。『まったくだわ』とベイジも笑っていた。

 ベイジはお休みと言って、自分の寝室に戻りかけた。が、振り返って、思い切り、ため息をついたよ。

『それにしても、ビッサビア様とソレイトナックかぁ。そりゃ、みんなが彼から振り向いてもらえないわけだわ。て言うか、あんたもよくソレイトナックと結ばれたわね。いい女だよ』

 なんて私の尻を叩いて、部屋から出て行った。それを見送って、私も横になったよ。イリーデも静かに寝息を立てていた。

 これで里帰りの初日は、やっと終いさ」

 そこまで聞いて私も、ふう、と息をつく。私からすれば、もうすでに大冒険だ。

 セピイおばさんは、私との間にある小机のような椅子を持ち上げた。その下に置かれていたロウソクの明かりが、パッと広がる。

「プルーデンス。ちょうどいい区切りだ。ロウソクも、ほれ、この通り。だいぶ減ったよ。今夜は、この辺りにしておこう。翌日からの話は、また明日だ。あんたも、そろそろお休み」

 セピイおばさんから、そう送り出されて、私は外に出た。離れに入った時と同じ霧雨。それに包まれながら、私は部屋に戻った。