紋章のような

My name is Samataka. I made coats of arms in my own way. Please accept my apologies. I didn't understand heraldry. I made coats of arms in escutcheons.

自作小説「塔の上のセピイ  〜中世キリスト教社会の城女中の話」第八話(全十九話の予定)

第八話 裏の事情

 

 私は焦っていた。すぐにでもセピイおばさんから話の続きを聞きたかったが、おばさんだって疲れているだろう。そろそろ、一日お預け、とか言われてもおかしくない。むやみに催促するわけにもいかないし。

 そのくせ、セピイおばさんは昼間、何食わぬ顔して家畜や番犬の相手をしていた。弟は、おばさんからお小言を喰らったらしい。そんな間にも、おばさんは離れを行ったり来たり。

 午後、ルチアたちとおしゃべりしたが、正直、気もそぞろだった。何人かが親に連れられて市場に行ってきたらしいのだが、特に驚くような話は一つも無かった。まあ、本人たちは興奮気味に話しているので、適当に合わせておいたが。自分が白けているからと言って、仲間たちまで白けさせる、なんてことは許されない。今後の付き合いも考えて、こまめに相づちを打ち、気持ちよく帰っていただく。

 しかし、セピイおばさんの話に比べたら。雲泥の差だ。あまりにも平和的で、内容が有って無いようなものばかり。

 昨夜のセピイおばさんの話は、内容が濃かった。濃いすぎた、と言っていい。まさか、おばさんが当時の城主様に強姦されそうになっていたなんて。未遂だったとは言え、あまりにも危険だった。未遂で済んだのは、運が良かっただけ。相手がその時の気分で引き下がってくれただけだ。

『まあ、いいわい。他の女を使えば済む』

 モラハルトのそんな声が聞こえてきそう。最低だ。考えただけで、腹が立ってくる。昨夜セピイおばさんが、こいつの名前を言うのを何回も、ためらったわけだわ。

 しかし、こいつがもっと酷い悪党だったら。たとえばゲスタスとか。その時はセピイおばさんは心身ともに深く傷つけられ、打ち捨てられていただろう。ヴィクトルカみたいに。

 悔しいし、面白くない。

 とは言え、希望が無いわけではない。

 メレディーン。ついに、メレディーンだ。麗しの大都会、メレディーン。ツッジャムも目じゃない華やかさの街。私も、いつか行ってみたい。そのためにも、おばさんの話を聞いておきたい。是非とも。

 ありがたいことに、この願いは、心配したより早く叶えられた。夕方、厩から部屋に戻る途中で、おばさんから呼び止められたのだ。今夜も離れに来てほしい、と。おばさんの方から言ってくれるなんて、幸先がいいぞ。

 私は、家族が寝静まるのが、待ち遠しかった。

 

 夜は、曇り空だった。昨夜は威勢の良かった月が、何回も雲に隠されていた。

 セピイおばさんが指定したのは、一番端っこにある離れ。五軒ある離れの互いの間は、そんなに広くない。五、六歩ずつ空けたくらいか。一番端の離れにたどり着くまで、大して時間がかからないようでも、やっぱり手間取るし、暗い中ちょっと怖い気もする。

 中では、いつも通り、二人して向かい合って座る。私たちの間には、小机のような役割を果たす椅子。その下のロウソクが光を滲ませて、椅子を縁取る。

「昨日のナイフは持ってきているね」

 セピイおばさんに言われて、私は強く頷いた。そして服の中から、それを取り出して見せる。

「よろしい。ちょっとでも出歩く時は必ず、それを持ち歩くんだよ」

「分かった」私はもう一度、頷いた。

「では、本題に入ろう」

「お、おばさん。今回もキツい話になるの?」

 私は少し怖気づいて、構えてしまった。

「安心おし。昨日が特別だったんだよ。今日は、その後日譚。キツいと言うより、呆れると言うか、情けないと言うか。そんな内容だよ。

 昨日ほど、お酒にも頼らないで済むと思う。

 ただし他人に聞かれてはいけない事にかけては、昨日以上かもしれないね。それで、この一番端の離れにした」

「ごめん、おばさん。しっかり聞くって約束したのに」

「何言ってんだい。今こうして聞きに来てくれたじゃないか。

 それより話の続き」

 セピイおばさんが背筋を伸ばしたので、私も合わせた。

 

「馬車は、飛ばしに飛ばした。御したマルフトさんが言うには、集落や峠を幾つも超えたらしい。馬車が散々、揺れたのを覚えているよ。

 それでもメレディーン城に着いた時には、やっぱり真夜中だった。城壁の上に篝火が焚かれ、月も結構、高い位置にあった。

 さすがに私も泣き止んでいたが、また別の不安に襲われたよ。メレディーン城の門番や衛兵たちが、まともに相手してくれるか、どうか。マルフトさんも同じ心配をしていた。

 しかし杞憂だったね。門番は、馬車の側面に彫られたツッジャム城の紋章を確認するや、慌てて跳ね橋を降ろしてくれたし。衛兵たちも飛び出してきて、私の話を聞いてくれた。

 衛兵の一人は報告のために城内に走っていったが、すぐに戻って来た。メレディーンの城主様、つまりヌビ家のご党首様が会ってくださる、と。私は感激して、また泣きそうになりながら、急いで衛兵について行った」

 聞いている私も安心して、ほっと息をついた。

「効果絶大だね」

「全くだよ。普通の馬車だったら、まず相手にされなかっただろう。

 しかも向こうの人たちは、意外と親切でね。マルフトさんは、兵士たちから『休んでいけ』と食事を出されたりして、びっくりしていた。私を送り終えたら、すぐにツッジャムに引き返して当たり前と覚悟していたんだ。それが寝床と食事まで用意してもらえたんだからね。おかげでマルフトさんとは、そのままお別れとならずに済んだ。

 私は私で、あまりにも順調に、ご党首様にお会いできた。夢でも見ているのかと思ったよ。ついさっきまで馬車の中で失くさないように気が気じゃなかった紹介状が、ご党首様の手に握られたんだ。私のすぐ目の前で。

 ご党首様は、おっしゃった。

『ふむ。封蝋も欠けとらんな。ご苦労』

 私は一瞬、ご党首様が何を言われたのか分からなかった。我に返ったら、慌てて頭を下げまくったよ。

 ご党首様と奥方様は、ビッサビア様が書いてくださった紹介状に目を通しておられた。時々お二人で顔を見合わせたりしながら。

 お二人とも、モラハルトやビッサビア様より少しお年を召して、それでいて細身だったよ。

 やがて奥方様が兵士の一人に、女中を呼んでくるよう言いつけなさった。

 程なく、中年の女中が一人、部屋に入ってきた。いくら当時の私が小娘でも、一目で分かったよ。このおばさんが、メレディーン城の女中たちの長なんだろう、と。女中たちの中で一番長く勤めていて、一番の物知り。そして、この時みたいに何か騒動があっても、対処の仕方を知っているわけさ。

 ご党首様は、このおばさん女中におっしゃった。私に食事をとらせ、女中部屋に連れて行って、休ませるように、と。

『そなたも疲れていようから、詳しい話は、また明日、聞かせてもらおう』

 ご党首様のそのお言葉、感情を表さないお顔に、私は、ハッと気がついたよ。私という存在が、ご党首様には喜ばしくない、どころか迷惑な存在であることに。

 私を暴行しようとした、あの人は、ご党首様の実弟だ。私がへんに騒いだら、ヌビ家の醜聞を世間に広めることになる。ご党首様たちが、それを快く思うはずがない。

 私だって、むやみに悪口を言いに来たわけじゃない。しかし、あの人が私に襲いかかってきた事は本当だ。だからこそ、あの人が城主を務めるツッジャム城には戻りたくないし。

 ビッサビア様も紹介状に、事件のことを書いておられたはずだ。

 そして、その紹介状の封蝋が、ツッジャム城の紋章ではなく、ビッサビア様の生家マーチリンドの紋章だった事。ご党首様ご夫妻も気づいておられただろう。ビッサビア様は間違いなく、怒っておられた。私からあの人を誘惑したわけじゃない事を、理解してくださっているといいけど。

 そういう、いろんな事に、よりによってメレディーン城に着いてから気づいてしまったんだよ。しかも、ご党首様の御前でね。

 だから、また目に涙がにじんできて、震えながら、私は必死に言葉を選んだ。

『ご、ご党首様。お気づかい、ありがとうございます。

 で、ですが、ご好意にあずかる前に少々、発言を、お、お許しいただきたいのです』

 私は床に膝をついて、頭を深く下げた。

『セピイとやら。そんなこと、せずとも良い。立って話しなさい』

 ご党首様が即答してくださったので、私は慌てて立ち上がったよ。

『お、恐れながら申し上げます、ご党首様、奥方様。こうして私めが押しかけて参りました事が、こちらにご迷惑をおかけしている、と私も理解しております。ビ、ビッサビア様が書いてくださった紹介状に、気を悪くなさったかもしれません。

 で、ですが、どうかお許しください。私はヌビ家を悪く言いたいのではないのです。あの方からされそうになった事も、口外しません。

 ただ、あの方が。父のように、尊敬しておりましたのに。

 お、お許し、ください』

 言いながら涙が止められなくて、せっかく立たせていただいたのに、また膝から崩れそうになった。すぐ隣に来ていた女中頭のおばさんが、私を支えてくれた。

『そなたが謝ることは無いぞ、セピイ。そなたは被害者であって、加害者ではない。悪いのは、我が不肖の弟だ。私こそ謝罪しよう。すまなかった』

『心配しないで、セピイ。此度の件で、あなたには何の落ち度もありませんよ。今は安心して休みなさい』

 ご党首様と奥方様は、口々におっしゃった。奥方様なんか、わざわざ歩み寄って、私の肩をさすってくださって。

 でもビッサビア様だったら、ここで抱きしめてくださっただろうに。なんて、贅沢な考えも浮かばないわけじゃなかったがね」

「でも、お二人が理解を示してくださったのは、大きいわ」私も素直に嬉しい。

「ああ、ありがたい事さ。こんなに、とんとん拍子で事が運ぶなんて。

 その後は、女中頭のおばさんに従って退室した。

 そのおばさんの背中を見ながら、私はツッジャム城でご挨拶した時の事を思い出したよ。あの時はベイジが私を案内してくれたが、今回は中年のおばさん。城によって違うんだな、なんて考えていたら、当の女中頭さんが不意に立ち止まって振り向いた。

 女中頭さんは少し笑い顔だった。

『セピイと言ったね。もしかして私みたいな、おばさん女中が珍しいのかい?』

 私は、気に障ったのだろうと思って、すぐに謝った。

『別に怒っちゃいないさ。

 逆に、もう一つ質問するよ。ツッジャム城には、私くらいの中年女中は居ないのかい?』

 私は一生懸命に考えたが、該当する者が思い浮かばなかった。ツッジャム城の姉さん女中たちは、一番年上でも三十にとどいていない。その前に大体、結婚などして去っていく。やはり正直に答えるしかない、と心の中で結論した。

『い、居ません』

『では、なぜだか分かるかい』

 私は答えられずに立ち尽くした。この地域一帯の中心地であるメレディーン城の、通路の途中で。女中頭さんの問いの意味を理解できていなかった。

『考えた事が無かったか』女中頭さんは、たしか小さく、ため息をついた。

『それが、あちらの城主、モラハルト様の趣味なのさ。ご党首様の弟君だから、あまり、とやかくは言えないけどね。噂には聞いていたが、まさか本当だとは、ねえ』

 私は愕然として、なおのこと、動けなくなったよ。あうあう声が漏れるだけで、返事が思い浮かばなかった。

『驚かせて悪いが、ここで突っ立っていても埒があかないよ。行こう』と女中頭さんに促されて、私も、やっと歩き出したよ」

「しゅ、趣味、ですか」

 話の途中でも、私は口をはさまずには、いられなかった。

「そう。あの人の好みだったんだよ。私も、はじめは親切な方だと思っていただけに、がっかりした。しかもメレディーンの人たちからは、すっかり見抜かれていたんだからね。人に言われて、後から気づく私も私だよ」

 セピイおばさんは深く息をついた。

「でも、おばさんも、それだけ仕事に集中していたって事でしょ。気づいても城主様相手に、とやかくは言えないし。

 それで、その夜は休めたの?」

「その後は、ご党首様のお言いつけ通りにした。食堂で食べ物をいただいて、女中部屋で休ませてもらったんだ。

 もう時間が時間だから、メレディーンの女中さんたちは、みんな寝入っていたよ。彼女たちを起こさないように、そおっと中に入って、空いている場所を女中頭さんに教えてもらった。女中頭さんも自分の寝床に戻った。

 私も毛布をかぶって、暗い天井を見上げた。だが、眠れるか自信は無かったねえ。その日は夕方から、あまりにも状況が変わりすぎていた。

 まさか、尊敬していたあの人が、あんなことをしてくるなんて。思い出したら怖くなって、私は毛布の中で縮こまったよ。

 こんな時にベイジが居てくれたら、小声でおしゃべりして気を紛らわせるのだけど。ツッジャム城では、それでよく姉さん女中たちから叱られたもんさ。

 スネーシカ姉さんや、ヴィクトルカ姉さんは今頃、どんな思いで休んでいるのだろう。平穏な暮らしをしているといいけど。

 それよりビッサビア様だ。あの人と喧嘩している頃だろうか。いくらカトリックで離婚が認められないと言っても、ご夫妻の心の溝は二度と埋まるまい。私がビッサビア様でも嫌だ。それを考えれば、ツッジャム城はこれから、どうなるのやら。

 なんて、誰も答えてくれないようなことで、頭ん中をぐるぐるさせていたら、私も、いつのまにか寝てしまっていた」

 当時の気持ちがよみがえったのか、セピイおばさんは椅子の背もたれに体を預けた。

「大変だったね。おばさんは相当、気を張っていたと思う」私は心から同情して言った。

「それにしても、モラハルトはデタラメだわ。自分の娘が酷い亡くなり方して、まだ間もなかったでしょうに」

「そうだね。たしか半年も経ってなかったはずだよ」

 ええーっ。私は声が大きくなりかけたが、何とかこらえた。

「ひどいっ。おばさんも可哀想だけど、ヒーナ様も救われないわ」

「ああ、その意味でも私は、あの人を恨んでいるよ。

 しかし繰り返しになるが、そう簡単に口にするわけにはいかないだろ。次の日、改めてご党首様たちに事件を説明した時も、その辺りは、やっぱり言えなかった」

 セピイおばさんは、ため息をつきかけたが。

「おおっと、その前に朝の事だ。

 私がまだ寝ている間に、女中部屋は、ちょっとした騒ぎになったらしい。まあ何しろ、よく知らない娘が、いつのまにか割り込んで寝ているんだからね。誰この子って話さ。だが、そこは女中頭さんが上手いこと説明してくれた。もちろん事件については、ぼかしていたんだろう。

 新入りの私は、そんなざわめきの中で目を覚ました。メレディーンの姉さん女中たちの視線が、自分に集中していたよ。

 私は、なかなか挨拶の言葉が出てこなかった。あの、その、ばかり繰り返して。しかも、体がだんだん震えてきた。

 すると女中の一人が、振り返って言ったよ。『ノコさん。まさか、この子、しゃべれないの?』

『何言ってんだい。昨日の夜は、ちゃんと会話したよ』と女中頭さんが答えた。

 そしたら別の女中も、からんできた。

『だったら何でこんなに怯えているの?私たちのことを化け物みたいな目で見て。失礼ね』

 なんて眉をひそめる。私は慌てて、首を左右に振りまくった。

『ち、違うんです。皆さんがお綺麗だから。こんな綺麗な人たちに囲まれるなんて、今までなかったから。それに私は逆に、田舎の、農家の娘だし』

 やっと返事ができたと思ったのに、みんなから、くすくす笑われたよ。

『あらまあ、早速おべっかだなんて、ありがとう』

 と、私にからんできた姉さん女中が言った。

『そ、そんなつもりじゃないです』

 と私は否定したんだが、その姉さん女中の答えは、こうだった。

『いいのよ。むしろ、そんなつもり、おべっかってことにしておきなさい。私たちくらいで、いちいち本気で褒めていたら、切りがないわよ』

 私は唖然として、口をぱくぱくさせてしまった。

 そしたら、また笑われた。『シルヴィアったら、脅かしすぎなんじゃない?この子、またしゃべれなくなったわよ』なんてね」

「お、おばさん」 私は口をはさまずには、いられなかった。「それくらい綺麗どころが揃っていたってこと?」

「そうなんだよ。ツッジャム城に初めて上がった時も驚いたが、その上を行っていた。ツッジャムの姉さん女中たちだって、負けていないはずなんだが。しかし確実に美貌で勝てるとしたら、ビッサビア様だけかも。そんなふうに思ったら、愕然としたのさ。おそらくメレディーン城の女中たちはみんな、中小の貴族の出身なんだろうと推測した」

「でも、そのシルヴィアさんに言わせると『私たちくらい』になるの?」

「そこなんだがねえ。シルヴィアさんたちに言わせれば、メレディーンの城下町にも自分たちくらいの女は、いくらでも居ると。そして都の女たちの方が格段に美人なんだとさ。私は想像がつかなかったよ」

「わ、私も想像がつかない」そう答えるのが、やっとだった。

 実は正直、私も自惚れていた。そりゃ街の女の子たちには敵わないだろうけど、この辺りじゃ、けっこう可愛い方じゃないか、いや大丈夫なはず、と思っていたのだ。お城に上がる機会があっても、絶対に言えないな、と肝に銘じる。

「まあ、それはともかく」絶句する私をよそに、セピイおばさんは話を続けた。

「その後、私は改めて挨拶と自己紹介をした。みんなも、それぞれの名前を教えてくれたよ。

 ノコさんは、やっぱり女中頭でね。最年長かと予想したが、もう一人おられた。ロッテンロープさんといって、たしかノコさんより一つ、二つ年上だったはずだ。『もう物忘れがひどくなったからね。私じゃ頭なんて務まらないよ』とか言っていたっけ。

 ロッテンロープさんはノコさんと、スージー、ロッタなんて呼び合っていたよ。ノコさんの本名がスザンナ・ノコだったのさ。

 その他、私にからんできた姉さん女中が、さっき言った通り、シルヴィアさん。彼女のお仲間がスカーレットさんと、ヴァイオレットさんと来た」

「おばさん、それ本当?」

「本当だよ、信じとくれ。まあ、疑いたくなる気持ちも分かるがね。三人とも、自分たちの名前をよく冗談のネタにしていたが、本当に偶然なんだ。初めて顔を合わせた時は、お互いに驚いたそうだよ。

 ちなみにメレディーン城に駐在していた騎士様には、オーカーさんとアズールさんが居た。

 賑やかなもんだろ」

「ふふ、色が豊富だなんて、さすがメレディーンね。当時のご党首様の趣味だったりして」

 私が茶化すと、セピイおばさんは声を出して笑った。

「あんたも言ってくれるじゃないか。まあ、ご党首様がわざわざ、そんな手間をとるわけはないが」

「でも、おばさん。女中頭さんたちや、お姉様方は分かったけど、逆に、おばさんより年下の子も居たの?」

「ああ、何人か居たね。女中としての経験も、まだ一、二年って子たちが。

 中でも印象深かったのが、イリデッセンシアという、ちょっと難しい、珍しい名前の子でね。この子がまた、ハッと息をのむような美少女だったんだよ。私は思ったね、この子ならヒーナ様に匹敵する、と。みんなは、イリーデちゃんとか呼んでいた」

 それもメレディーンらしい、なんて相づちをうちながら、私は安堵していた。メレディーンでも、おばさんにお仲間ができたんだ。ありがたい事だし、私も嬉しい。

 とか考えていたら、セピイおばさんは、また気を引き締めた話し方に戻した。

「そんな感じで、手短かにお互いを紹介し合ったのさ。それからは仕事を教わろうと、みんなについて回ったよ。一日でも早く慣れようと、焦ってね。

 しかし、そんな時に限って、ちょこちょこ邪魔が入るもんだ。その日の晩餐の後、またご党首様の部屋に呼ばれた。『明日、聞こう』が結局、そんな時間になっちまったのさ。ご党首様たちも、何かとお忙しいからねえ。やる気満々だった食卓の後片付けとかが、それで免除されてしまった。

 ノコさんは私をご党首様の部屋へ連れていくと、自分だけ戻っていったよ。私は、ご党首様の部屋に入って、ちょっと驚いた。ご夫妻以外に、見知らぬ男が一人、同席していたんだ。

 男は振り返って私に気づくと、ご夫妻に向かって軽く手をかざした。お二人が話し出すのを止めるためだった。

『この者がセピイですな、伯父上。ならば、お気づかいは無用。自分で名乗りますゆえ』

 男は椅子から立ち上がって、体を私に向けた。ソレイトナックと同じく二十代半ばだろうか。しかし彼よりちょっと背が低いだけで、むしろ彼より横幅があった。太っているのではなく、筋肉で膨らんでいる感じ。私は、この男がご党首様を伯父と呼んだところで、予想がついたよ。

『俺の名はパウアハルト。要するに、お前を犯そうとした、ひひ親父の息子だ』

 男から言われて、私は『セピイと申します』と答えるのが、やっとだった。

 前にも言ったが、あの人のご子息がメレディーン城で修行中である事は、私も以前から聞いていたからね。でも本人を見たのは、この時が初めてだった」

「えっ、ご党首様がわざわざ、そいつを呼んだの?」

 私としては、ご党首様をおばさんの味方だと期待していただけに、がっかりしたが。

「そうじゃなくて、本人が押しかけてきたんだよ。ご党首様も一応、教えたのさ。お前の父親が、女中の一人に酷い事をやらかしたぞ、と。それで、どうするかはともかく、まずは頭に入れておけ、と。

 そしたらパウアハルトは自分も立ち合いたいと言って、聞かなかったそうだ。

 彼は私に言ったよ。

『俺は、伯父上に無理を言って、同席させてもらっている身だ。俺からお前に、とやかく言うつもりはない。俺のことは気にせず、伯父上と伯母上にだけ報告するつもりで話せ。

 俺としては、自分の親父が何をしたのか、知りたいだけだ。

 ここでだけなら、親父に対する批判になっても構わんから、遠慮なく話せ』

 とか何とか。

 もちろん私は、ためらったよ。すぐに話し出せなかった。明らかにパウアハルトは不機嫌だったしね。

 奥方様も、心配しなくていい、とおっしゃってくださったんだが。私は横目でパウアハルトの顔色をうかがうと、どうしても怖気づいてしまって。

 すると本人が、また先にしゃべった。

『伯母上も言ってくれているではないか。何度も同じことを言わすな。遠慮なく話せ。

 それに、俺はお前の話を聞いたら、すぐツッジャムに帰るから、ここには残らん。それなら安心だろうが』

 私は思わず聞き返してしまったよ。『ツッジャムに、お戻りになるのですか』

 するとパウアハルトは、とうとう私を怒鳴りつけた。『同じことを言わすな、と言ったばかりではないかっ』

 私は慌てて、頭を下げまくった。『申し訳ありません、申し訳ありません』とね。

 それで、ついにご党首様も口をはさみなさった。『パウアハルトよ、落ち着け。そうやって声を荒げたら、セピイがますます話しにくくなるではないか』

 続けて、ご党首様夫妻が説明してくださった。ビッサビア様が書かれた私の紹介状には、ご自分の息子であるパウアハルトへの指示も書かれていた、と。それが、ツッジャムに戻るように、とのことだったのさ。ちょうどメレディーンに着いたばかりの私とは、入れ替わる形だよ。

 これを聞いて私も、やっと話し出せた。

 しかし話してみて、自分でも内心、驚いていたね。つい前日の、しかも午後の五、六時間ほどの出来事なのに、話してみたら、事前に説明しておかなければならない部分が結構、多かった。何で私がツッジャム城の塔に登っていたのか、とか。ソレイトナックとの関係とか。

 パウアハルトは、私とソレイトナックが婚約していたと知るや、目を丸くしていた。『あいつが婚約?』とか、声が裏返って。私は話の腰を折られると思ったが、パウアハルトはご党首様と目が合ったのか、それ以上は口をはさんでこなかった。

 さらに、そのソレイトナックの処遇をめぐって、モラハルトとロミルチ城の城主様がもめていた事に話が及ぶと、今度はご党首様と奥方様までが驚いておられたよ。お二人はさすがに声を出さなかったが、目を見開いて固まった。つまり、明らかに反応していたんだよ。

 一瞬、奥方様がご党首様に何か話しかけようとなさったが、ご党首様は軽く手をかざして、それを制した。二人とも、それ以上、言及してこない。むしろ私に話の続きを促した」

「なんか、ちょっと変ね。城持ちの弟二人がもめるくらいなんだから、とっくにご党首様の耳に入ってそうなものなのに」と私。

「私も内心は、そう思ったさ。しかし、その疑問をそのまま、ご党首様たちにぶつけている場合でもない。言われた通りに、話を再開する方が先だ。

 で、いよいよ、あの人、モラハルトが私にどんなことをしたかを、私は話したよ。しかし話しにくいったら、なかった。話しながら、あの人の怖さや気持ち悪さが思い出されるんだよ。鳥肌が立つわ、脚が震えるわ。仕舞いには、やっぱり涙も、にじんできた。

 私は、つっかえつっかえ話しながら、パウアハルトの様子に気をつけていた。父がそんな事をするはずがない、この者は嘘をついている、なんて激昂してくるんじゃないか、と心配したんだよ。しかしパウアハルトは、もう私の話を邪魔したりしなかった。椅子の上で腕も脚も組んで、窓の外を睨んだまま、耳だけ、こちらに傾けていた。たまに『ふん』なんて吐き捨てながら。

 奥方様も、すごく険しい顔をなさって。夫であるご党首様が居なかったら、とっくに私を止めていたんだろう。

 そのご党首様は、表情が動かなかったが、視線が冷ややかで。やっぱり聞いていて、気分は良くなかったんだろうね。身内の不始末を指摘されるんだから。

 私もできるだけ早く話を切り上げたかった。ビッサビア様が駆けつけてくださった場面に差し掛かった時は、心底ホッとしたよ。

 やがて、紹介状と一緒に馬車で、ツッジャムからメレディーンまで送っていただいたところで、話を終えた。

 すぐに奥方様が声をかけてくださったよ『辛い思いをしましたね』と。

 私は横目でパウアハルトをチラッと見て、こう、お答えした。

『こちらの、パウアハルト様のお母様が助けてくださいました』

 つまりは、おべっか。ケチな作戦さ。朝シルヴィアさんから言われた事を思い出して、私なりに必死に考えたんだよ。まあ、効かなかったけどね。パウアハルトは、また『ふん』と一蹴するだけだった。

 そして椅子から立ち上がると、言ったよ。

『邪魔しましたな、伯父上、伯母上。失礼いたしました。

 俺は、その母の言いつけに従って、今からツッジャムに戻ります。今日までお世話になりました。

 今後、火急の事態には喜んで駆けつけますゆえ、いつでも遠慮のう呼びつけてくだされ』

 パウアハルトはご党首様、奥方様と簡単な抱擁をしてから『では』と体をひるがえした。

 その時には私も椅子から立ち上がっていて、すれ違う直前のパウアハルトに頭を下げたよ。

 すると今度は、あの人の息子も『ふん』は無しにして、ちゃんと答えてくれた。『セピイとやら。好きなだけ、我が父モラハルトを恨むがいい。ついでに俺も憎んでいいぞ』なんてね。

 で、部屋から出ていった。

 もちろん、私は何も答えられなかった」

 あーあ、と私も声が出てしまった。腹が立つより、呆れるし、幻滅する。

「随分な言い捨て方ね。謝る気が、かけらも無いんだわ。教会の懺悔室に入った事なんか、無いんじゃないかしら」

 セピイおばさんは、くすりと笑った。

「かもね。でも、まあ、聞かされて気分のいい話じゃないから、仕方ないんだろうよ。

 とにかくパウアハルトは自分の従者数名を連れて、メレディーン城下の夜の大通りに飛び出していった。ご党首様のお話だと、見送りは断ったらしい。

 残った私に、奥方様は優しく微笑んでおっしゃった。

『では、セピイ。改めて聞きます。ビッサビアさんが推薦してくれた通り、このメレディーンで働いてくれますね』

『お願いしますっ』私は思わず声を大きくして即答したよ。

 ご党首様も、おっしゃった。『よろしい、セピイ。これからは我が奥や、女中頭のノコの指示に従って行動するように』

 私は、これにも力んで同じ返事をした。

 ご党首様は、うむ、とうなずいて、思い出したように、こう続けた。

『それと、私のことは、弟ほど愚かではなかろう、と考えてくれると、ありがたいな』

 私は、びっくりして顔を左右に振りまくった。

『わ、私からご党首様を悪く見なしたり、言及したり、は決してしません。今こうして助けていただいた事を感謝しております』

 とか何とか、唾を飛ばすようにして、一生懸命に言ったんだが。

 ご党首様はまた、ゆっくりと手をかざして私の発言を止めた。『とにかく、そなたに指示を出すのは、ノコや我が奥だ。私からそなたに、直接あれこれ言うことはほとんど無い、と思って安心するがよい』とのことだった。

 話は以上で『下がってよい』と言われたよ。奥方様からも『今日は、もう休みなさい』と促されて、部屋を出た」

「ご党首様も、少しは嫌味を言わないと、気が済まなかったのかな?」と私。

「仕方ないよ。このヨランドラを代表する名家だからね。面目ってもんがあるんだ。それを揺るがす醜聞なんて、喜ぶはずがない。ご党首様としては、事件そのものが無いのが一番だったろうし。

 ビッサビア様の紹介状が無かったら、私も泣き寝入りさせられていたのかもしれないよ」

「場合によっては、ご党首様も事件を揉み消していたってこと?」

「場合によっては、ね。後でノコさんが教えてくれたんだが、当時のご党首様はあまり、そういう手を使いなさるお方じゃなかった。それは私ら臣民としては良いこと、ありがたいことだよ。しかし、皆無ではない、と。ノコさんが言うには、ご党首様が身内の不始末を揉み消すような事が、一、二回だけあったそうだ。それはもう、善悪の問題じゃない。ただひたすらにヌビ家の名誉のためなのさ」

 私は、うーんと唸ってしまう。「なかなか期待させてくれない人だなあ、当時のご党首様も」

「逆だよ、プルーデンス。人ってもんは、つい勝手に期待しすぎるんだよ。そして願っていた結果にならなかったら、裏切られたとか言って嘆く。しかし嘆いたって、誰かをなじったって、現実は変わらないさ。だったら、はじめから期待しすぎない方がいい。

 これは大事なことだからね、プルーデンス。よく覚えといてくれ」

 私は、はい、と答えたが。

 私が一番期待しているのは、おばさんです、なんて言ったら、否定されるだろうか。やめときな、とか返されるかな。今は警戒して、呑み込んでおこう。

 

 セピイおばさんは話を続ける。

「というわけで、私は正式にメレディーン城の女中となった。

 繰り返して言うが、最初は焦っていたよ。早く新しい職場に馴染まなければ。ツッジャムとは違う、メレディーンのしきたりがあるなら、覚えなくては。とかね。

 しかし幸いなことに、この私にも少し強みがある事が分かった。家畜の世話とか、土いじりとか、汚れやすい仕事だよ。他の女中たちだって、もちろんやっていたんだが、他の仕事に比べて、明らかに熱が入っていなかった。若い人ほど、顔に出ていたねえ」

「逆に、この村で育ったおばさんとしては、その手の仕事は慣れっこだもんね」と私は先回りして言う。

 セピイおばさんもニヤリとする。

「そういうこと。だったら、使わない手は無いだろ。だから自分から率先して、やったんだ。調理した後の残飯の片付けとか、馬の糞の運び出しなんか、兵士たちに混じってでもやったもんさ。あと、花に付いていた芋虫をつまみ上げて、よそに持って行ったり、とかね。

 そのうちスカーレットさんとか、姉さん女中の何人かが時々、私に頼みに来るようになったよ。私は、しめたと思った。

 姉さん女中たちと来たら、そっと私に忍び寄って、私を拝むみたいに両手を合わせるんだ。ほら、教会で花瓶とか壊したら、告げ口しないよう、友達に頼むじゃないか。そんな顔だよ。

 それと言うのも、そうやって汚れ仕事を敬遠しているところを、目上の人たちに見つかるとまずかったのさ。ノコさんやロッテンロープさん、とか。やっぱり、お小言を喰らうのは嫌だろ。替わってやった私まで叱られるんだから、油断できなかった。

 スカーレットさんたちから頼まれると、私は問題の現場に飛んでいったね。で、急いで片付けて、また元の仕事場に戻る。途中でノコさんたちと鉢合わせにならないよう、気をつけたもんだ」

「でも、ずるい人とか居なかった?おばさんに頼んでばかりで、自分は楽する人とか」

「そうさせないために、ノコさんたちが目を光らせてくれていたんだよ。

 まあ、たしかに、そんな人も少し居たがね。

 でも、少なくとも私が名前を挙げた人たちは、そんなじゃなかったよ。

 ヴァイオレットさんなんか律儀なもんで、お返しと言って、よく針仕事で助けてくれた。しかも、びっくりするくらい刺繍が綺麗でね。それを奥方様がよく観に来られた。たまたま居合わせただけの私も、奥方様から声をかけていただいたりして。お返しどころか、それ以上のことをしてもらったようなもんだよ」

「シルヴィアさんとは?」

 私の質問に、おばさんは笑い出した。

「心配してくれて、ありがとよ。大丈夫さ。シルヴィアさんは生真面目なだけで、意地悪じゃなかった。

 それどころか、私を褒めてくれたね。メレディーンで働くようになって、二、三週くらい経った頃だったか。

『向こうで辛い思いをした、あんたには悪いんだけど。あんたが来てくれたおかげで、私たちメレディーン城の女中は、かなり助かったの。何しろ、あのパウアハルトを追い出せたんだからね。

 あいつ、私たちにやたら絡んできて、しつこかったのよ。そのくせ、私たちの誰かとちゃんと結婚して、将来のツッジャム城の奥方にする気なんて、さらさら無かったんだ。勝手なもんでしょ。大嫌いだった、あのスケベ』

 とか何とか。

 私としては自分を守るのに必死だっただけで、自分のことで手一杯だったはずが、思わぬところでお役に立てたらしい。

 シルヴィアさんは、こんなことも言ったよ。

『セピイ。あんたが向こうの城主様を拒んだのは、本当に良いこと、正しいことなのよ。

 なぜって、あんたも考えてごらん、逆の場合を。女中の一人である、あんたが城主様に身体をゆるす。考えるのも嫌だろうけど、こらえて落ち着いて、広く考えてみて。このヨランドラには、ヌビ家以外にも大小さまざまな貴族家があるわ。そして、それぞれが城や屋敷を構えている。それらのどこかで、似たような事態が起きているとしたら、と考えてみて。皆無だなんて言い切れないでしょ。どう甘く見積もっても、一、二件はあるはずだわ。タリンの他の国でも、同じことよ。

 そして、ここからが特に問題なんだけど。

 一つは、あんたの時みたいに相手から迫られて、しかも拒めなかった場合。その後、相手は図に乗って、女を苦しめ続けるか、あるいは他の女にまで被害を及ぼすか。つまり男が繰り返す可能性が高い。しかも女からすれば、相手が怖かったり、身分の違いから断れなかったりするから、この場合が一番ありがちだわ。

 もう一つは、女の方から誘った場合。あんたも、向こうの奥方様に睨まれるんじゃないか、とか心配したでしょ。でも、これも広く考えれば、女から誘う場合だって何件かはあるはずなの。城主様やお偉方に身体をゆるして、その奥さんに成り代わろうとする。離婚が認められなくても、相手の男が自分に夢中になりさえすれば、事足りるからね。あるいは、ただ単にスケベ心から、だけか。いずれにせよ、男は女をそんなものだと勘違いするわ。そして無責任な男が増えるでしょう。

 だからね、セピイ。あんたが向こうの城主様を拒んでくれたのは、すごく大事なことなの。

 あんたとしては、怖くてたまらなくて、勇気を振り絞るのも大変だったでしょう。私が他人事で言っている、と怒っても構わないわ。そういう怒りは当然なんだもの。

 でも、悪いけど、お願いだから言わせて。あんたが騒いでくれたおかげで、向こうの城主、モラハルトも自分の行動に気をつけるはずよ。何たって家長から、ご党首様から注意されたんだから。聞かないわけにはいかない。それで、どれだけの女たちが救われると思う?一人、二人じゃないはずだわ』

 とね。

 そうやって真剣に褒めてもらえるのはありがたいんだが。私には、もったいなく思えた」

 セピイおばさんは小さくため息をついた。

「え、おばさんとしては、シルヴィアさんの意見に引っかかるところがあったの?」

「あったね。モラハルトが必ず自制するとは言えないかもしれない、と思ったんだよ。たとえばアキーラやメロエとか」

 これには「ああ」と私も落胆の声を出してしまった。

「だから私はシルヴィアさんに、二人のことも話したよ。私が居なくなっても彼女たちに欲望を向けて、モラハルトは懲りないかもしれない、と。

 そしたらシルヴィアさんも、今のあんたみたいに声を漏らして、私の意見にも同意してくれたよ。『充分あり得る』と。

 その上で、シルヴィアさんは言った。

『その人たちが拒まなかったから、モラハルトは調子に乗って、あんたにも手を出そうとしたのかもしれない。でも、どちらが先かなんて議論しても、仕方がないわね。私としては、多少の効果はあったと願いたいわ』

 とか。せっかく褒めてくれたのに、最後は、しんみりしてしまった」

「話が話だから、しょうがないよ。

 それより、シルヴィアさんがそういう話もできる人で良かったわ」

 ちょっと生意気かもしれないけど、私も言わずにはいられなかった。セピイおばさんは、ふふっ、と笑ってくれた。

「まったく、得がたい人だったよ。私は神様に感謝したもんさ」

「じゃあ、女中頭のノコさんは、どう?厳しかった?」

 セピイおばさんは、やっぱり笑った。

「あんたも、なかなか心配性だねえ。まあ、厳しいと言えば厳しかったけど、悪い人じゃなかったよ。

 ノコさんが、よく言っていた。

『何にせよ、ここの女中は、あんたの敵じゃないよ。特別、味方ってわけでもないがね。味方でもないが、敵でもない』

 と。つまり、期待しすぎないで、それくらいに認識しておけばいいってことさ。

 そうそう、ノコさんには、後で気になって私の方から尋ねたんだ。ご党首様ご夫妻への挨拶や報告に落ち度が無かったか、どうか。それこそ大事な、心配すべきことだからね。

 ノコさんは答えてくれたよ。『とりあえず及第点だろう』と。

『あんたは、ちゃんと分をわきまえて、気をつけて挨拶できたからね。次の日の報告の後も、お二人は、あんたについて特に何もおっしゃっていなかった。褒めてもいないが、悪くもおっしゃらない。それで充分さ。お二人とも、ご機嫌は悪くない。あんたの印象が悪くなかった証拠だ。

 世の中には、あういう場面で勘違いする輩も居るからねえ。被害者として感情的になって、聞き手を非難するんだ。聞き手は加害者本人じゃなくて、あくまでも関係者ってだけなんだが。

 そりゃあ、感情的になる気持ちも分からなくはないよ。誰だって悔しいし、辛い。しかし、この世は貴族と平民に分かれた社会だ。立場ってもんがある。

 今回あんたの訴えを受け止めてくださったのは、このヨランドラを代表する名家のご党首様たちだ。たとえ、あんたを手込めにしようとした、あのお方がご党首様の親族でも、そこは覆らないよ。戦争なんかでヌビ家が余程の大打撃を受けない限りは、ね。そして、そんな事態にならない方が、私らみたいな下級臣民も食いっぱぐれずに済むのさ。

 あと、今回の件について、あんたの対処を『騒ぎすぎだ』とか『大げさ』とか言う者を見かけるかもしれない。特に男どもがそうやって、モラハルト様の肩を持とうとするに決まっているんだ。私くらいの年の女たちでも、似たような発想の者が結構いるしねえ。

 でも気にするんじゃないよ。全て無視しなさい。聞き捨てにしなさい。あんたは、もう対処したんだ。そしてご党首様も、それに応えてくださった。第三者がとやかく言ったって、それは変わらないよ。だから気にしなくていい』

 ノコさんは私と、衣服の洗濯をしながら、そんなふうに話してくれたんだ。あれには大いに救われたねえ」

 セピイおばさんは、そこで大きく息をついた。そして暗がりから皮袋と盃を引っぱり出して、ほんの少しだけ呑む。それは、のどを潤すためだけなのだ、と私にもすぐに分かった。昨夜みたいに話の展開を心配しなくてもいいだろう。

 

「おばさんのメレディーンでの生活が長くなったわけだわ」と、また生意気を言ってみる。

「ああ。たしかに居心地は悪くなかったよ。ただ、最初の頃は、なかなか落ち着かなかった」

「えっ、シルヴィアさんやノコさんがいい人でも?」

「ああ、あの人たちとは関係ないところで、私は気もそぞろだったんだよ」

「あ、そっか。ソレイトナックね」

「そう。一刻も早く彼の消息をつかみたくて、気が気じゃなかった。

 女中として働きながら、よく厩を覗きに行ったよ。メレディーンとロミルチの間を行き来する使者や商人が居るかも、とか期待してね。

 それで何人か目ぼしい相手を見つけたが、じゃあ、すぐに言伝や手紙を頼むかというと、これが悩ましかった。来たばっかりの私じゃ、御者や使者の人たちに気軽に話しかけるほど、馴染んでないだろ。無理に頼もうなんて気も起こしかけたが、できなかった。相手も忙しかろうし、そもそも信用していいのかも分からない。

 私は観念して、ノコさんに相談した。本当は奥方様に頼りたかったが、そうするにも、まずは上役のノコさんを通さないと。私がノコさんにソレイトナックとの関係を説明すると、ノコさんは彼を覚えていた。ソレイトナックはツッジャム城からの使者として、何回かメレディーン城に来ていたんだよ。

 ノコさんは、すぐに動いてくれたんだが、その前に私に忠告した。

『焦らず気長に待つんだよ。とにかく、この件はご党首様たちにおすがりするしかない。しかし、お二人が何かとお忙しいことは、あんたも想像がつくだろ。報告の時と同じさ。態度や物言いを間違えるんじゃないよ。いいね?』

 私は、もちろん承諾した。焦るなと言われても無理だと内心は思ったが、従うしかなかったよ。私は仕事に専念することで、必死に気を紛らわした」

「うーん、辛いところだね。やっぱり時間がかかった?」

「まあ、かかるにはかかったが、その前に、もう一つ話しておくことがある。ソレイトナックとは別に、気になったことがもう一つ、あったのさ。この村、この家のことだよ」

 私は、あっと声が出てしまった。

「あの頃の私は、心配で心配で、たまらなかった。私から拒まれたあの人、モラハルトが逆恨みするんじゃないか。嫌がらせに、この家や村に酷いことをしないか。考えただけでも泣けてきたもんだよ。仕事中でもね。

 そもそも父さん母さんたちは、私がツッジャム城からメレディーン城に移ったことをまだ知らないはずだ。その事も知らせたい。

 だから、これもノコさんに相談したよ。ノコさんが言うには、こちらの方が早く確認できるだろう、と。そして、ご党首様たちから、いつお声が掛かってもいいよう、家族宛ての手紙を事前に用意しておくことを勧められたんだ。それで羊皮紙の余りを分けてもらって、言われた通りにした。

 懐に、この家宛ての手紙を忍ばせながら働いて、何日経ったかねえ。五日もしなかったと思うんだが、ついに奥方様に呼ばれたよ。

 ご夫妻のお部屋にすっ飛んでいくと、何と、マルフトさんが居た。久しぶりの知った顔で、しかもマルフトさんだから、私は安心して泣けてきたよ。マルフトさんも、私が元気そうで良かった、と言ってくれた。

 二人して、改めてご夫妻に感謝を申し上げた。

 ご党首様は『礼はよい。それより、マルフトからツッジャムの状況を聞こう』とおっしゃった。

 マルフトさんは戸惑って、すぐにはしゃべれなかったね。そもそもマルフトさんはツッジャム城で、モラハルトともビッサビア様とも、ほんの数回しか言葉を交わしたことが無かったそうだ。それが、メレディーン城でいきなり、ご党首様たちを相手に長々と話さなきゃならないんだから、緊張するはずだよ。

 マルフトさんは、まず断りを入れた。『お聞き苦しいところが多々あるでしょうが、何卒ご容赦くださいませ』と。

 これに対して奥方様が、気にしないように、とおっしゃってくださった。で、マルフトさんも、ようやく話し出したよ。

 話は、やはりツッジャム城の城主一家の事がほとんどだった。一番大きな変化は、あの人、モラハルトがツッジャム城を出た事さ。長男で跡継ぎのパウアハルトが帰還すると、あの人は城下町の屋敷で生活するようになった、と。そう、私がリオールと過ごした、あの曰く付きのお屋敷だよ」

 あー、と私も、つい声を出してしまった。「おばさん、もしかして」

「予想がついたかい。当たりだよ。あの人は屋敷に女中を何人か引っぱり込んでいたらしい。マルフトさんはその女中たちの名前までは知らなかったが、私も予想がついた。アキーラとメロエの二人は確実だろう、と。ほかに何人居たかは分からないが」

「ついに夫婦別居かあ。帰ってきた息子が母親と結託して、父親を追い出したのかな?」

「私も聞きながら、そんな推測をしたが、正確な事はよく分からなかった。マルフトさんなりにツッジャム城の使用人や女中の噂話に気をつけていたが、彼ら自身がよく分かっていなかった、と。特に夫婦喧嘩、親子喧嘩の騒ぎも無いまま、ある日突然そんな事になったそうだ。城詰めの騎士様たちをはじめ、ツッジャム城で寝起きする全員が驚いていたらしい」

「全然、喧嘩していない、とも思えないんだけどなあ」

「周囲に気づかれないように家族会議をなさったんだろうさ。

 で、この話でちょいと特殊なことは、あの人、モラハルトがはっきり引退して、息子のパウアハルトが跡を継いだ、というわけではなかったんだよ。傍目には親子で交代したも同然なんだが、正式な宣言は無かった。

 だからかねえ、メレディーン城のご党首様にも、ツッジャム城の状況が報告されていなかった」

「モラハルトは、ちゃんと代替わりしてから報告するつもりだったのかな」

「そんなところだろうよ。当然ご党首様は、もう少し詳しく知りたがった。ツッジャム城に詰めている人たちや、城下町の反応とかをね。

 すると、催促されたマルフトさんは、またちょっと言い淀んだ。

『ご党首様には申し訳ございませんが、報告のためにはモラハルト様に続いて、パウアハルト様についても少々、失礼なことを言わねばなりません』と、またしても断りだ。

 聞くや否や、ご党首様は天井を仰ぐように嘆息なされた。

『その言葉である程度、予想がついた。気にせず、率直に話してくれ』

 はい、と大人しく返事して、マルフトさんは話を続けた。

 私も内心、ご党首様と同意見だったんだが、やはりパウアハルトの評判が悪かった。まず、城詰めの騎士様たちに親しまなかった、と。

 騎士様たちは将来の城主であろうパウアハルトを盛り立てようと、あれこれと助言なさった。つまり、自分たちの務めを真面目に果たそうとしただけなんだよ。

 それなのにパウアハルトは、騎士様たちに感謝するどころか、迷惑がってね。露骨に。女中や使用人たちが見ていて、ハラハラするくらいだ。しかも、母親であるビッサビア様がたしなめても聞かない有り様だった、と」

「あちゃー。母と子でもダメだったか。てっきり、男の子は母親に懐くもの、と思ったんだけど」

「パウアハルトも、もうそんな歳じゃなかったのさ。とにもかくにも、自分の方針を押し通さないと気が済まなかったのかもね。

 私はビッサビア様のことも心配になったが、さらに悪いことがあった。ロンギノ様だよ。ツッジャム城詰めの騎士様たちの代表格であるロンギノ様とも険悪になったんだ。

 ロンギノ様の名前が出ると、ご党首様は、また顔をしかめなさった。

『あ奴も、せめてロンギノにだけは慎むだろうと期待したが、甘かったか。ロンギノほどの長年の功労者がそのような扱いでは、誰もあ奴に心から従うまい。あ奴がここに居た時に、注意したのだが。

 分かった。後で手紙を書いて、もう一度、叱っておこう』

 ご党首様は、そうお決めになって、マルフトさんに続きを促した。

 次は、ツッジャムの城下町の様子だよ。

 町人たちははじめ、突然帰ってきた御曹司のパウアハルトを歓迎する雰囲気で、にわかに盛り上がったそうだ。ある程度、名の通った商人たちとか、パウアハルトに挨拶しようとツッジャム城に上がる者が、しばらく続いた。

 しかし城主であるモラハルトが屋敷に移った事が次第に知れ渡ると、それもだんだん収まった。

 加えて、パウアハルトは自分が領主となった暁には、税率を上げる、とか宣言したらしい。『父はお前たちを甘やかしたようだが、俺は違うからな』なんて言い方で。

 これじゃあ盛り上がるどころか、むしろ盛り下がるよ。商人たちはパウアハルトに睨まれないよう、途端に口数が少なくなり、市場や人通りの多い所も活気が失われた。少なくともマルフトさんには、そう見えた、と。

 マルフトさんは付け加えた。

『モラハルト様がこちらのセピイさんになさった事は、城下には知れ渡ってはおりません。なので、町人たちは皆、城主様ご一家の変化に驚いております。

 そしてパウアハルト様には、警戒の目を向けているようです』

 話を聞き終えたご党首様は、マルフトさんを労った。そして、またメレディーンに来ることがあれば、今回のようにツッジャムの状況を教えてほしい、とおっしゃった。

 ところが、だよ。肝心のマルフトさんは弱々しく顔を横に振って、椅子から降りて跪こうとした。ご党首様たちに止められたが、マルフトさんの返事は、こんなだった。

『も、申し訳ありません、ご党首様。私自身、そうさせていただきたい気持ちなのですが。何しろ、この歳です。お役目を果たせるか、自信がございません。

 この度、ツッジャムから、こちらメレディーンまでの道を覚えたものの、正直、幾つもの峠を越えるのは、この老いた身にはこたえます。あと何回できることやら。

 しかもです、ご党首様。先ほどビッサビア様からのお手紙をお渡ししましたように、私はこの度、ビッサビア様のお使いとして参りました。つまり、パウアハルト様の使いではないのです。今後、パウアハルト様が母君様と同じように私を使ってくださるか、どうか。・・・おそらく無いでしょう。

 パウアハルト様も私の存在には気づいておられます。何度か目も合いました。ですが、お声掛けくださった事は一度もございません。これからもあるとは思われません。こちらメレディーンへのお使いは、私よりもっと若い者を使うおつもりでしょう。ソレイトナックさんの元部下だった若者たち、とか。

 したがって、ご党首様。申し訳ございませんが、このマルフト、とても役に立てそうにありません。お許しくださいませ』

 マルフトさんが深々と頭を下げると、ご党首様ご夫妻はとても残念がっておられた。

 その後マルフトさんは退室したんだが、私は奥方様に断ってから、マルフトさんを見送ろうと、厩までついて行った」

「おばさん」私はまた、つい口をはさんだ。「まだ、この村の状況を教えてもらっていないんじゃないの?」

「おや、慌てるじゃないか。そのためもあって、マルフトさんを見送るんだよ。ご党首様たちはこの村のことなんか興味も無いだろうし、モラハルトが酷いことをするかも、なんて疑うのも、兄弟であるご党首様が気を悪くするだろ。そんなこんなで、ご夫妻の前では聞けなかったのさ。

 で、厩で人の目を気にしながら、私はマルフトさんに確認した。

 ありがたいことにマルフトさんと来たら、馬車を借りて、この村の様子を見に行ってくれていたんだよ。そして、この山の案山子村に変わりは無かった。村人たちがヌビ家の兵隊を見かけた事も、モラハルトの噂を聞いた事も無かったそうだ。私は、マルフトさんが居てくれて本当に良かったと感激して、つい抱きつきそうになったよ。マルフトさんは真っ赤になって遠慮したけどね。

 マルフトさんは続けて話してくれた。父さんと兄さんにも会って、私がメレディーンに移った事を伝えた、と。

 ただしモラハルトとの件まで話すかは、すごく迷ったそうだ。でも結局、マルフトさんは話した。理由は二つ。一つは兄さん、つまり、若い頃のあんたたちのお爺さんがソレイトナックの事とかをしつこく聞いたんで、話すしかなかったんだと。もう一つは、私がした心配をマルフトさんもしたからさ。いつ何時、モラハルトが村に嫌がらせをするかもしれない。自分を拒んだ女の家族がいる、この村に。だからマルフトさんは、私の父さんと兄さんも知っておくべきだと考えてくれたんだ。

 もちろん父さんたちは口外しないと、マルフトさんに約束したよ。そして驚いて、絶句していた、と。父さんもマルフトさん自身も、モラハルトを名君と信じきっていたからねえ。

 私は改めてマルフトさんに感謝して、父さんたち宛ての手紙を届けてほしいと頼んだ。マルフトさんは快く引き受けてくれたよ。

 私が書いた手紙を懐にしまうと、マルフトさんは私の手をしっかり握った。握りながら、私の手の中に何か小さい物を押し込んでいた。

 マルフトさんは周囲を気にしながら、小声で言った。

『セピイさん。ご党首様たちにお話しした通り、私がこちらに来られるのは、これが最後だろう。本来なら何回も手紙を届けてやりたかったが、できるのは今回だけで、申し訳ない。

 でも一つ、朗報があるよ。ビッサビア様が協力してくださるそうだ。詳しいことはよく分からないが、とにかく、ここに書かれた指示通りにすれば、ビッサビア様と定期的に連絡が取れるらしい。ビッサビア様にお願いすれば、村のご家族の様子もその都度、確認できると思う。

 ただ、ビッサビア様がおっしゃるには、この方法を、こちらの誰にも気づかれてはならないそうだ。絶対に気づかれてはならない。ご党首様にも、こちらの奥方様にも、セピイさんの上役の方にも。私にもよく分からないが、そうじゃないとビッサビア様は、セピイさんのために協力できないらしい。私はもう、ビッサビア様に合わせるしかないと思う。

 これをよく読んで、誰にも気づかれないように」

 私も、手の中の物を急いで懐にしまった。

 それを見て安心したマルフトさんは、お別れ前にあと一つ言わせてほしい、と言い出した。

「セピイさん。どうか幸せになっておくれ。

 私は力が足りなくて、妻や子どもたちを早く亡くしてしまった。それで勝手に、あんたを自分の娘のように思っていた。あんたには、是非とも幸せになってほしい。

 ソレイトナックさんのことがどうなるかは、私も予想がつかないが・・・セピイさん。場合によっては、早く見切りをつけて他の人を探した方がいいかもしれない。ソレイトナックさんには私も助けてもらったから、私もセピイさんとソレイトナックさんのことを応援したい。しかし今、あの人がどこに居るのか・・・

 セピイさんがあの人を待ち続けて、人生を棒に振るのも、良くないと思う。

 最後の最後に気分を悪くさせて、ごめんよ。この年寄りの余計なお節介と笑っとくれ。

 手紙は必ずご家族に届けるから。

 いいかい。自分を大事に、きっと幸せになるんだよ』

 マルフトさんは私を一度、軽く抱きしめてから馬車の御者台に上がった。

 そして『忘れるところだった』と言って、鞘入りのナイフを私に差し出した。モラハルトにはたき落とされたナイフを、ツッジャム城の塔で見つけて拾ってくれたんだよ。私は感謝して、今度こそ失くすない、とマルフトさんに約束した。

 マルフトさんはそれで安心して、ツッジャムに帰っていった」

 おばさんはそこまで話すと、深く息をついた。私も、そうなった。それから二人して、葡萄酒をほんの少しだけ呑んだ。二人とも何も言わなかったけど、マルフトさんのために乾杯したつもりだった。

 

「人が良すぎるわ、マルフトさんって。親戚でもないのに、親戚のおじさん並みに助けてくれて」

 私は思わず、つぶやいていた。マルフトさんが回収してくれたナイフは今、私が保持している。

「よほど、ご家族のことで辛い事があったんだろう。マルフトさんも、詳しいことは最後まで話さなかった。戦争か何かだろうか、と私も推測していたが。そうやって推測することも良くないのかもしれないね。マルフトさんが言いたくないと思っているなら、その気持ちをくんであげないと。そっとしてあげないとね。

 プルーデンス、これもよく覚えといてくれ。あんたもこれから、いろんな人に出会うだろう。中には、自分が辛い目に遭ったからと言って、周りに辛く当たるような人も出てくる。これはもう絶対と言っていい、残念ながら。どちらかと言えば、その手の人の方が圧倒的に多いんだよ。

 でも、ごく稀にマルフトさんみたいな人も居るのさ。自分が辛い思いをしたから、他の人にそんな思いをさせたくない、と考える人。そんな人も、この世には全くいないわけじゃないんだ。世間は、そんな人をお人好しと笑いがちだがね。できれば、あんたには、そういう人と接して、よく見て、学んでほしい。

 そんな人が、あんたの前に現れるよう、私は神様にお祈りするよ」

「ありがとう、おばさん。私もそういう人をしっかり探すよ」と誓うのが、精一杯だった。

「さて、話を進めると」セピイおばさんは言いながら一旦、葡萄酒の皮袋と盃を背後の暗がりに戻した。

「気になるのは、やっぱり、マルフトさんが私に握らせた物だ。羊皮紙の切れっ端を小さく畳んだ物だったよ。

 私はそれを文字通り肌身離さず持って、一人になれる場所と機会を探した。ご党首様たちにも女中頭のノコさんにも気づかれてはならないなんて、考えただけでドキドキしたよ。私は心ん中で自分に言い聞かせた。落ち着け、落ち着け。慌てるんじゃない。よく考えるんだ。

 それで思いついたのが、晩餐の時だよ。配膳の手伝いをして、ご党首様や奥方様、騎士様たちが食事し出したのを確認して、私は城内の物陰に潜り込んだ。そこで切れっ端を開いたんだが、暗すぎて文字が読めないから、場所を変えた。もちろん誰にも見つからないように気をつけてね。

 切れっ端には、小さな文字がびっしり書いてあった。見覚えのあるビッサビア様の字だ。それは、こんな指示だった。

『メレディーン城の近くに、雑貨商の古くて小さな店がある。何とか時間を作って、そこに行きなさい。他の者から理由を尋ねられたら、マルフトの遠縁の者がそこに居る、と答えなさい。そこで自分の親族の知らせを受け取れるから、と答えなさい』

 そして店の名前、店主らしい人の名前が添えてあった。

 読み終えたら、また小さく畳んで、懐にしまったよ。

 さあ、それから数日間は悩ましかったねえ。できることなら、すぐにでも城下町に出て、問題の店を探したいところだ。だからって、外出します、なんてノコさんたちに断りを入れるかい?私を怪しんでください、と頼んでいるようなもんだよ」

「で、でも、せっかくの機会を逃したらダメだし」

「それで私も焦ったさ。仕事をしながら、気持ちが顔に出ないように必死だったよ。

 そしたら、向こうから動いてくれたね。マルフトさんから切れっ端をもらって一週間くらい経ったろうか。商人が一人、メレディーン城にやって来て、私を呼んでほしい、と門番に頼んだのさ。

 私が行くと、小太りの老人が待っていた。この男が私や門番たちに説明するには、自分はお使いで来た、と。

『私は、城下の雑貨商の店で働く使用人であります。店の主人が、以前ここに上がったマルフトという方と、古くからの知り合いでして。先日、私の主人が取引で何年かぶりにツッジャムを訪れて、そのマルフトさんと再会しました。そして、こちらのセピイさんを紹介していただいた次第です』

 そう言って、使用人は私に手紙を渡した。そして、これからも時々、マルフトさんや村の家族からの手紙を届けられるだろう、と。かつ、それに伴って、城の方々に店の品を紹介したい、と言い出した。

 その言葉で門番たちが、たちまち渋い顔をした。そうやって、いちいち商人を上げてやっていたら、切りがないからね。ツッジャムでもメレディーンでも、城に上がれるのは豪商たちに限られていた。つまり商人の中でも、城主様とかお偉方としっかり顔見知りになれた、裕福な者たちだけ。あんたも分かっているだろうが、これはどの城でも普通だよ。

 私はまず、門番たちが声を荒げないよう、なだめて、自分の上役であるノコさんを呼んでくると約束した。内心迷ったが、ノコさんを通さないわけにはいかない、通すしかないと結論したんだ。

 ノコさんは使用人に会ってくれたよ。しかしと言おうか、やはりと言おうか、門番たちと同じ反応で、あまりいい顔はしなかった。私からマルフトさんの説明をしても、うーんと唸る。

 ノコさんが口を開きかけると、老年の使用人が先にしゃべった。

『分かりました。商いの方は諦めます。

 ただ、こちらのセピイさんが私どもの店を定期的に訪れることをお許しくだされ。そうすれば、店を通して、セピイさんとツッジャムのご家族が手紙のやり取りをできるでしょう。我が主人も、これをきっかけに、頻繁にツッジャムまで商売を広げたいと申しております』

 これを聞いて、ノコさんは了承してくれた。その方が話が早いだろう、と。

 使用人は早速、私を店まで案内したい、と言い出して、ノコさんもこれを許してくれた。

 急きょ、私はその使用人の荷車に乗せてもらって、城下町の大通りに出たよ。店は城から、そう遠くなかった。ロバが引っぱって、のろのろ進む荷車に乗って、道順を覚えることもすぐにできた。何しろ、大通りを進んで、一回曲がるだけだったんだからね。

 大通りからちょっと路地に入って、荷車は小さな店の前に止まった。日陰になりやすい、地味な店だったよ。そして、これまた小さな看板が下がっていて、文字がかろうじて読めた。まさにビッサビア様の手紙に書かれていた店の名だった。

 使用人が先に店に入って確認すると、肝心の店主は急用で出かけていたよ。そして、私に一週間後にまた来るよう、店番に伝言していた。

 私はお預けをくらった形だが、手紙を受け取れた事もあって、今度は焦らなかった。使用人がまた荷車で送ろうかと言ってくれたが、私は遠慮したよ。城まで小一時間もかからない距離だったし、自分で歩いて道を覚えたかったんでね。

 あとは仕事に戻って、いつも通りさ」

 聞いていた私も安心して、ほっと息をついた。

「これで目処がついたね。よかった」

「まあね」

 セピイおばさんは、その一言だけで、私から一度、目をそらした。あれっ?と思う間に、セピイおばさんは話を続けた。

「使用人が届けてくれた手紙は父さんからだった。私からの手紙をマルフトさんから受け取って、急いで返事を書いてくれたらしい。

 村のことは心配しなくていい、と。パウアハルトの悪評は村にも伝わったようだが、兵隊たちを見かけたりした事は一度も無い、と書いていた。

 読みながら、山の案山子村はパウアハルトの眼中にないのだろう、と私は推測したよ。良くも悪くも。で、父親のモラハルトの方はお屋敷で女たちに夢中で、これまた、この村のことなんか思い出しもしない。私は、とりあえず神様に感謝した。

 父さんは、あと、ビッサビア様について書いていた。とにもかくにもビッサビア様の指示に従え、と。ソレイトナックの消息をつかみたいのは山々だが、そのためにもビッサビア様におすがりするしかない、とね。そこは私も分かりきっていたし、私からの手紙でも書いていたつもりだったんだが。何で父さんが、わざわざ念を押してきたのか。そう疑問に思って、はたと予想がついた。さては、ソレイトナックの件で母さんが悲しんで、兄さんが怒っているんだろう、とね」

「やっぱり怒っていたかな?お爺ちゃん」

 私も、おばさんのお兄さんの孫として気になるから、聞いてしまった。

「怒っていたに決まっているじゃないか。手紙を読みながら『それ見た事か』って兄さんの声が聞こえてきそうだったよ。

 でも、まあ、それも兄さんたちが元気な証拠だけどね。これも感謝しなきゃ、と自分に言い聞かせるしかなかった」

「そして、また新たな問題が発生したわけね。城下町のお店という問題が」

「ああ、晴れて堂々と外出する口実もできたんだが、不安も感じていた。一週間が経つのを待ちながら、考えたよ。ビッサビア様は何で、こんな手間の込んだやり方をなさるのか。ヌビ家から隠すような段取りにする必要があるのか。答えは出なくて、嫌な予感ばかりが湧いてきた。

 そして待ちに待った一週間後、私は雑貨商の店に急いだよ。例の小太りの老いた使用人が迎え入れてくれた。

 店の中は昼間でも薄暗くて、いい気はしなかったね。念のためと思って、私は服の中のナイフを確かめた。わざわざ届けてくれたマルフトさんには、ほんと感謝だよ。

 私をテーブルに着かせると、使用人が奥に入って、店の主人を呼んだ。そして使用人はそのまま引っ込んで、店の主人が私の前に座った。

『お前がセピイちゃんか』

 主人と言うか、その男は椅子の背に持たれながら、私に声をかけた。口の端は少しつり上がって、笑っているようにも見えたが、こちらを見る目が鋭いような、粘りつくように重たいような。私は、目つきだけならゲスタスに似ていると思ったよ。商人と言うよりも、兵隊に混じっていそうな中年男だった。

 私が『そうです』と答えると、男の口調は、こんなだった。

『俺の名はポロニュース。以後、お見知り置きを、なんてな。

 警戒しているようだが、まあ安心しろや。俺は、モラハルトみたいに襲いかかったりしねえよ。娼館に行くくらいの金は、いつも持ってんだ。

 ま、あのひひ親父もここ最近は、ずっと女中たちに手を出しまくって、そこまで不自由してないらしいけどな』

 私は驚いて、何と返したらいいのか思いつかなかった」

「と、とんだご挨拶だね」私も、つい言ってしまう。

「ああ、まったくだよ。だがポロニュースは、そんな私に構わず、話を続けた。

『お前も少しは気づいたと思うが、俺はこの店の主人でも、マルフトの知り合いでもねえ。ビッサビア様の使いだ。ビッサビア様がお前と連絡をとるために、俺を指名したのさ。

 本当の店主は、さっきの爺さんだよ。俺はこの店を使いたかったんで、金をつかませた。表向きだけ俺が店主ってことにしてな。ここなら城から遠くなくて、しかも目立たねえだろ。待ち合わせには、もってこいだ』

 私は、うなずくしかなかった。ポロニュースは、それに満足したのか、しなかったのか、やはり話を続ける。

『しかし、だからって長居はできねえぞ。お前の帰りが遅いなんて、お前の上役なんかが騒ぎ出したら、元も子もねえからな』

 私は、もう思い切って尋ねた。

『なぜ、こんな段取りにするんですか。ヌビ家に知られてはいけないんですか』

『ああ、知られちゃいけないねえ。なぜかと言えば、それをビッサビア様がお望みだからさ』

 というのが、ポロニュースの答えだった。もちろん、それだけじゃ、まだ話が見えない。私は続けて聞いた。

『ビ、ビッサビア様は一体、何をお望みなんです』

 そしたら、たしかポロニュースは声を殺して笑い出したよ。

『さあ、何をお望みなんでしょうかねえ。って、どうだっていいじゃねえか。俺やお前ごときが、あんな高貴なお方のお考えを根掘り葉掘り聞けるわけがねえだろ。ま、お前が馬鹿じゃなかったら、いちいち聞かなくても、そのうちピンと来そうなもんだがな。

 それより』

 ポロニュースは不意に振り向いた。奥に引っ込んだはずの、本物の店主が少しだけ顔を出していたんだ。ポロニュースに睨まれて、老いた店主は震えながら扉の向こうに消えたよ。

 ポロニュースは舌打ちしてから、私に向き直った。

『まず確認するが。セピイよ、お前はビッサビア様に感謝しているよな』

『もちろんです』と私は即答した。『今こうしてメレディーンに移り住む事ができたのは、ビッサビア様のおかげですから』

『だったら、当然ビッサビア様に恩返ししてくれるよなあ』

 そう言ったポロニュースの眼差しは冷たかった。

『わ、私にもできることでしたら』と、こちらは少し返事をぼかすのが精一杯だった。

 ポロニュースは、もう一度振り向いて、店主が覗き見していない事を確かめた。そして向き直ると、テーブルに少し身を乗り出した。

『あの爺さんにも言ったんだが。

 セピイよ。お前はビッサビア様側の人間になれ。表向きはメレディーン城の、ヌビ家の女中でもいい。しかし本当はビッサビア様のしもべ、マーチリンド家の人間になるんだ』

 私は、このポロニュースの言葉が、意味が分からなかった。私がそれを正直に言うと、ポロニュースは、また舌打ちしたよ。

『やっぱ、田舎娘だと、のみ込みが悪いな。さっさと本題に入るか。

 いいか。お前は、とりあえずメレディーン城の女中としての仕事を続けろ。ただし女中の仕事をしながら、周りの様子に気をつけるんだ。特に客が来た時にな。

 その客が誰なのか。王族か、もしくは、その使いか。はたまたシャンジャビとかリブリューみたいに、ある程度、名家の関係者ってこともあるだろう。あるいは、噂で名前を聞いた事があるような豪商とか。そういうのを逐一、覚えておけ。

 で、二週間おきくらいに、ここに来て、俺に報告しろ。いいか。紙とかに書いて覚えようなんて、すんなよ。間違っても、跡を残すじゃねえ。分かったか』

 なんて言うんだが。こっちは聞いている途中から怖くなったから、確認した。

『ヌビ家の動向を探れ、とおっしゃるんですか』

 するとポロニュースは顔を歪めて、ぼやいたよ。

『それくらい、いちいち聞かなくても、察しろや。それがビッサビア様のお望みなんだろうがよ。恩返しと思って、しっかり情報を集めてこい』

 私は食い下がってみた。

『ビッサビア様はヌビ家の情報を集めて、どうなさるんですか。まさかヌビ家とマーチリンド家が戦争になるんですか』

 私の質問に、ポロニュースは露骨に、ため息をついた。

『あほか。店の爺さんでも、そこまで言わなかったぞ。

 ビッサビア様ほどのお方が情報を持っていてくれりゃあ、戦争を回避するように活用してくださる事だってあるんだぞ。相手だって弱みを握られたら、そう簡単に攻めて来られねえだろ。

 あー所詮は、田舎の姉ちゃんだな。いくらビッサビア様のご命令とは言え、先が思いやられるぜ』

 なんて、明らかに私を蔑んでいた。

 私は悔しいやら、怖いやら、いろんな気持ちになりながらも、気を引き締めて受け答えしなければ、と思ったよ。

 そこで私は改めて言った。

『ポロニュースさん。お願いですから、少し待ってください。ビッサビア様に恩返ししたいのは山々ですが、だからと言って、ヌビ家に対して、そんなことをするのは・・・

 たしかに私はビッサビア様に何度もお世話になり、助けていただきました。ですが、今回はヌビ家のご党首様たちからも良くしていただいたんです』

 そしたらポロニュースは、私が話している途中で遮ったよ。

『だからヌビ家にも恩返ししなきゃあ、てか。お前を犯そうとしたモラハルトは、そのヌビ家のもんだろうがよ。アンディンやキオッフィーヌちゃんがお前に良くしてやるのは、スケベな親族がやらかした事に対する罪滅ぼしかもしれねえんだぜ。だったら、気兼ねなんかしなくてもいいじゃねえか』

 というのが、ポロニュースの理屈だった」

「アンディンとキオッフィーヌって?」

「ああ、ごめんよ。当時のヌビ家のご党首様と奥方様さ」とセピイおばさんが教えてくれた。

「うーん。罪滅ぼしっていう理屈は通らないわけじゃないけど」と私は唸った。

「だから気兼ねしなくていい、なんて気にはなれないだろ。アンディン様たちが私のために、あれこれと手配してくださった事に変わりはないんだから。

 しかも、だ。お二人は名家の党首夫妻というお立場。田舎娘の私からすれば、はるか雲の上の存在だよ。私なんかがこそこそ嗅ぎ回っている、なんて勘づかれた日には、どんなお咎めを受けることか。私は想像するだけでも恐ろしかったよ」

 それも分かる、と私は同意した。

「そんな私の様子に、ポロニュースは薄ら笑いを浮かべて、こう言ったんだ。

『分かったよ、セピイお嬢ちゃん。今日は、これくらいで帰れや。お前の上役とかから怪しまれる前にな。帰って、ゆっくり考えろ。

 一応、言っておくが、この話は断ってもいいんだぜ。ポロニュースって怪しい奴がヌビ家を嗅ぎ回っている、とか上役たちにタレ込んでもいい』

 私は耳を疑ったよ。もちろん、すぐに問い質した。『そんなことしたら、あなたは追われるし、ヌビ家とマーチリンド家の関係もまずくなります』

 すると、ポロニュースの答えは、こんなだった。

『それは、俺がヌビ家に捕まったら、の話だろ。俺がそんなヘマするかよ。この店は爺さんに返して、雲隠れするだけさ。お前も上役たちから叱られるだろうが、まあ、その程度だ。心配すんな』

『私の村は、家族は、どうなるんですか』と、私は続け様に質問した。

 それで今度は、ポロニュースの方が鈍い反応をする番になったよ。何で私がそんな質問をしたのか、不思議がっていたんだ。

 それで私は理由を説明しようとした。『だって、私が断った場合、それに対する報復があるんじゃ』

 それを、またしてもポロニュースが途中で遮った。

『お前の里はヌビ家の領内だろ。マーチリンド家のもんじゃねえ。たとえ、そうだったとしても、そんな七面倒くさいことはしねえけどな。労力の無駄だ』

 私は、それを聞いて、安心と言えば、安心だったんだが」

 セピイおばさんは、ため息をついた。

「随分と余裕綽々だね、ポロニュースって。どういうつもりだろ。おばさんが怪しむのも当然だわ。

 あっ、ソレイトナックっ」

 私はつい声を上げてしまった。が、おばさんはそれを咎めるのも忘れて、話を進めた。

「そう。そこだよ。私が彼の消息をつかむためには、ビッサビア様の協力が欠かせない。ビッサビア様への協力を拒めば。そう思い至った私は、もうポロニュースに尋ねていた。

『私が断った後も、ビッサビア様と手紙のやり取りができますでしょうか』

 ポロニュースは途端に笑い顔を見せた。声は出さないが、思い切り私を蔑んで、歪んだ笑みだった。

『おいおい、それで俺が、できると答えると思ってんのか。随分、厚かましいじゃねえか。そういうところだぞ、田舎もんの嫌われるところは。できるわけねえだろうが。ビッサビア様がお暇じゃない事は、お前も知ってんだろ。わざわざ、お前なんぞに構ってやる暇も義理も無えよ』

 私は、それを聞いて、へたり込みそうになった。椅子に支えられて、そうならなかったけどね。

 そんな私を見捨てるように、ポロニュースは立ち上がって、こちらを見ないで言ったよ。

『ま、せいぜい、頭悩ませて、結論出せや』

 私は大慌てで身を乗り出して、答えた。

『ごめんなさい。謝りますから、どうかビッサビア様に協力させてくださいっ』

 そしたらポロニュースは振り向きながら『だーから返事は急がなくてもいいって』と来た」

 ああっ、と私は思わず声が出てしまった。「確信犯ね。ポロニュースは、おばさんが断れないことを見越して、言っている」

「そうなんだよ。私は猫や犬が自分より小さい生き物を痛ぶって遊ぶ姿を連想したよ。私は、この男には敵わないんだと悟った。

 ポロニュースは、私に帰るよう急き立てた。にやけながらね。

 私は店の外に出されながら、最後にこれだけは、と思って、ソレイトナックのことを尋ねた。何か知らないか、と。

『あー、あのノッポ野郎か。会話した事は無えが、覚えてはいるよ。ただ、最近どうなのかは知らねえぞ。見かけねえんだから。

 まあ今度、ビッサビア様にお聞きしてみるわ』

 と言うのが、ポロニュースの答えだった」

「ほんとは、何か知っているんじゃないかな」と私。

「たしかに私も、そんな推測をしたよ。しかし食い下がっても、ポロニュースがはぐらかすのは目に見えているだろ。

 私は仕方なく、城に戻った」

 うーん、と私は、またしても唸ってしまう。

「しかし私は二週間も待てなかったね。何とか一週間はメレディーン城内で聞き耳を立てて、頭にため込んだ。そして、それらの情報を手土産に、ポロニュースの店へ急いだんだ。

『おいおい、頻繁に外出したら怪しまれるだろうが。加減を考えろ』なんて、ポロニュースから早速、釘を刺されたよ。

 でも、とにかく私は奴に報告して、ビッサビア様への恭順の気持ちを示したかったのさ。

 と言っても、実はこの一回目は、大したネタが無くてね。本当は、手土産と言えるほどじゃなかったんだ。

 たしか、アガスプス宮殿からの使者がメレディーン城を訪れた事があったような。しかし応対したのは、ご党首様じゃなくて、お役人。つまり、その程度の内容だったってことさ。

 他に話せそうなのは、どこかの貴族が城詰めの騎士様に会いに来た事とかが、幾つか。

 少しはポロニュースが興味を示してくれるかと期待したんだが、甘かったよ。『じゃあ、そいつらの紋章を言ってみろ』と突っ込まれて、すぐに返事できなかった」

「えっ、何で。少なくとも貴族が接触して来たんだから、立派な情報じゃないの?」と私。

「残念ながら、そこまで重要じゃなかった。たしか、その客人たちの紋章は、大きなS字とか図形のものばかりで、良くて十字架が描かれているくらいだったんだよ。蛇はもちろん、蛇以外の生き物すら見かけなかった」

S字の紋章

十字架の紋章の一種


「となると、まあ、たしかに上級とは言えないか。このヨランドラで一番自慢になる紋章は、蛇の類だもんね」

「そう。ポロニュースからは『そんな小物どもの話は要らねえんだよ』と腐された。ビッサビア様にお伝えするほどじゃない、とね。

 それで『今度こそ二週間以上、間をあけてから顔を出せ』と帰らされた」

「で、ソレイトナックのことは?」

「ビッサビア様が調べてくださっている最中だから待て、とのことだった」

 ああ、と私は声を漏らしてしまった。もしかしたらセピイおばさんは、もうソレイトナックに会えなくなったのかも。脳内には、そんな疑念も湧いてくる。

 セピイおばさんは話を続ける。

「とにかく私は焦りに耐えながら、二週間ずつを過ごしたよ。はじめの頃は、なかなかいい情報がつかめなくてねえ。どっかの豪商が品物の売り込みにやって来たり、楽士たちが城内で演奏したり、くらいじゃなかったかな。目立った出来事なんて無かったんだ。メレディーンは平和なりって感じさ。

 だから二回目、三回目も、大した紋章を見かけなかった。図形じゃなくても、花など植物の紋章、あるいはリュートとか楽器類を載せた紋章とか、だったような。

 ポロニュースにそれらを報告しても、露骨なため息をつくし、ソレイトナックに関しては進展が無い。

 ポロニュースが言うには、ビッサビア様も手こずっているんだ、と。ロミルチの城主様に何度も手紙を送っているが、ビッサビア様を赤の他人として、まともに返信をしてこない。そこでビッサビア様は、喧嘩中の夫モラハルトの尻を散々叩いて手紙を書かせたが、やはり効果が見られないんだとか。

『もう、あのノッポ野郎も、お前のことなんか忘れて、新婚生活を楽しんでんじゃねえのか』

 なんて、ポロニュースは簡単に言ってくれる。私は泣きたいのをこらえて、引き続きビッサビア様のご協力をお願いするしかなかった」

「で、でも、その間も、ひいお爺ちゃんやひいお婆ちゃんとの手紙のやり取りは、できたんでしょ?」

 私は少しでも肯定できる事を探して、そちらに話を振ってみた。

「ああ、そっちはポロニュースも、ちゃんと取り次いでくれたよ。

 ただし、実際に私からの手紙を父さんたちに届けたのは、ソレイトナックの元部下たちだったけどね。彼らも、ソレイトナックの後は、ポロニュースやビッサビア様の指示で動いていたらしい。若い連中がマルフトさんの替わりに、この村とメレディーンの間を往復してくれたのさ」

「なら、あとはソレイトナックが見つかれば、完璧なんだけどなあ」

「あの頃は、父さん母さんたちとの手紙のやりが、せめてもの慰めだったよ」

 そう言ったものの、セピイおばさんは数秒、沈黙した。

「どうしたの、おばさん」

 セピイおばさんは私から目をそらして、うつむいた。

「父さんたちの手紙は、たしかにありがたかったが。三通目くらいだったかねえ。・・・マルフトさんが亡くなった事を伝えてきたよ」

 私は絶句した。今度は私が数秒、沈黙する番だった。

「そんな」

「メレディーンからツッジャムに戻ってすぐ、体調を崩したらしい。で、そのまま起き上がれなくなった、と。つまりは、私のせいさ」

「おばさん」私は思わず声が大きくなった。「やめようよ、そういう言い方。おばさんが悪いんじゃない。強いて言うなら、原因をつくったモラハルトのせいでしょ」

「ありがとよ、プルーデンス。そうしておくかねえ」

「いいのよ、それで。

 それより、マルフトさんの遺族は集まったの?」

「そこなんだが。一向に現れなかったそうだ。

 ツッジャム城の女中や兵士たちは仕方なく神父さんを呼んで、簡単な葬儀をしてもらったんだ、と。それを伝え聞いた父さん、つまり、あんたらのひいお爺さんがマルフトさんの遺体を引き取った。ビッサビア様に断りを入れて、この村の墓地に埋葬したのさ」

「えっ。てことは、マルフトさんのお墓は、この村にあるの?」

「ああ。今度、場所を教えるよ。あんたも手を合わせておくれ」

「ぜひ、そうさせてもらうわ。

 でもマルフトさんって、本当に身寄りが無かったの?」

「どうも、そうらしい。私としては、誰か一人くらい、この村に尋ねて来てほしかったんだがねえ。今日の今日まで、一度もそんなことは無かった。

 あんたのひいお爺ちゃんたちも、城下町の市場に行く時は、何度もツッジャム城に立ち寄って、確かめたんだよ。だけど門番たちも、やはり首を横に振るばかりだったとさ」

 セピイおばさんと私、二人して、ため息が重なった。

「よりによって、マルフトさんみたいな人がそんな扱いだなんて」

「嘆きたいのは山々だが、世間様は聞いちゃくれないよ。せめて私たちだけでも、この村でお墓を守ってあげないとね」

 セピイおばさんは、うつむいたままだ。

「もちろん、私も手伝うわ。弟にも、そして私に子どもができたら、その子たちにも私が教えるから」

 セピイおばさんは「ありがとう」と言いながら、やっと顔を上げてくれた。

 

「それにしても、ポロニュースは手強いわね。何とかしてデカい情報をつかんで、ポロニュースに認めさせたいけど」

「私も、そう思ったさ」

 セピイおばさんは、ふふっと笑った。

「でも実は、そんなに心配しなくてもよかったんだよ。何たって、名家ヌビのメレディーン城だからね」

 あっと私も思わず声が出てしまった。

「さすがは、大貴族の本拠地だったよ。来客は、ツッジャム城よりメレディーン城の方が、明らかに多かった。ヌビ家に取り入ろうと、大小あらゆる貴族たちが押しかけて来るんだ。それに、アガスプス宮殿とも、定期的に使者が行き来していたからね。

 マルフトさんの件は悲しかったが、そのうち、ついに上客に出会えたよ。しかもヴィクトルカ姉さんが、きっかけだった。

 あれは夜、もう寝ようという時間に、スカーレットさんか誰かから頼み事をされた時だ。用事そのものは難なく済んで、私は城内の通路を急いで戻るところだった。

 そしたら視界の先に、メレディーン城の騎士様の一人が入った。騎士様たちの中でも、代表格の年配の方でね。その方を見かけるくらいは珍しくないんだが、その方の後ろから、別の見慣れない騎士様が現れた。複雑な絵柄の服で、明らかに紋章衣だよ。と思ったら、そこに描かれているのは、ヌビ家のヒュドラじゃなくて、二匹の蛇じゃないか。左右どちらだったか忘れたが、片側で二匹の蛇が縄のように絡み合っているんだよ」

「リブリューだわ」私は、すかさず言った。

「覚えていたかい。そう、リブリュー家さ。ついに、蛇の紋章を掲げる上級貴族を見つける事ができたのさ。

 私は声が出そうになるのをこらえて、すれ違いざまに、二人に会釈した。

 で、すぐに壁の陰とかに隠れて、二人の跡をつけるつもりだった。ところが、また声が出そうになったよ。

 リブリュー家の騎士様の紋章衣には、二匹の蛇と並んで、もう片側に、たくさんの線が寄り集まって描かれていた。こっちも覚えているかい?竜巻の線だよ」

リブリュー家の騎士の一人が使う紋章 竜巻と二匹の蛇

「ヴィクトルカのっ」私は声が大きくなってしまった。

「そうだよ。何と、ヴィクトルカ姉さんの生家ジルフィネンの紋章にあったものとそっくりの竜巻が描かれていたんだ。

 私は思わず、そのリブリュー家の騎士様に話しかけてしまった。本来なら、ノコさんか誰かに事前に相談してからの方がいいだろうに、興奮して頭からすっかり抜けちまったんだよ。

『騎士様、もしやジルフィネン家の方と、お知り合いですか』

 私の問いを聞くや、リブリュー家の騎士様は目を丸くして驚いた。

『ジルフィネン。そなたは今、ジルフィネンと申したか。懐かしくも嬉しい響きよ。

 いかにも、ジルフィネン家の紋章に竜巻を加えさせたのは、何を隠そう、この俺よ』

 と、その騎士様は答えてくださった。

 何でも、ジルフィネン家が王弟様から四弁の花を賜った時に、このリブリュー家の騎士様も居合わせたんだ、と。

『あの時、俺は王弟様にいいところを見せようと、奴らに竜巻をくれてやったのだ。

 何とも真面目な一家でな。俺は今でも竜巻をやった甲斐があったと思っておるぞ。

 王弟様もその場でジルフィネン家の紋章を、花嵐とか名付けておられた。

 しかし最近は、あの一家の名を聞いてなかったな』

 そこで、まずメレディーン城のヌビ家の騎士様が、手短に私を紹介した。この女中は数ヶ月前にツッジャム城から移って来たばかりだと。それに続けて私も、ヴィクトルカ姉さんが結婚した事をお伝えした。

『そうか、娘が嫁いだか。それは、めでたい』

 なんてリブリュー家の騎士様は始終、上機嫌だ。

『そなたが、またジルフィネン家の者たちに会う時は、この竜巻の騎士も結婚を祝福しておったと伝えてくれ』

 とか付け足して、ガハハと笑っておられた。

 その騎士様はちょうど帰るところだったらしく、会話自体はそれで終わったよ。

 でも翌日、メレディーン城の代表格の騎士様から褒められた。リブリュー家の騎士様は、思わぬ土産話ができた、と喜んでいたそうだ」

「やったじゃん。蛇の紋章なんだから、間違いなく大収穫だね。

 それにリブリュー家って、ヒーナお嬢さんのはじめの縁談で、ヌビ家とは疎遠になってはずでしょ。それが騎士同士で談笑するくらいになるなんて」

「おお、それも覚えていたかい。そうなんだ。ポロニュースも同じ指摘をしていたよ。

『ほほう、面白くなってきたじゃねえか。これからも、よく注意して周りを見てろよ。そのうち夜どころか、白昼堂々、リブリュー家の幹部がアンディンに挨拶にやって来るぜ。

 何だよ。やればできるじゃねえか、セピイちゃん』

 なんて珍しく褒めてくれたもんでね。私は迂闊にも、リブリュー家の騎士様と会話できた事まで話してしまった。そしたら、ポロニュースは私を憐れむような目で見たよ。

『おいおい、仲良しこよしになれたって自慢してんのか。そいつを含め、周りの連中がお前に注目してしまうだろうがよ。この仕事は目立ったらダメなんだぞ。しっかりしてくれや』

 だとさ。

 私は赤面しながら、その日は大人しく帰るしかなかった」

「うーん、一進一退だなあ」と私。

「でも、この四度目の報告以降は立て続けに収穫があったよ。

 細やかな模様をしたトカゲの紋章が、ビナシス家。三匹の蛇が踊るように並んでいる紋章がア・ヤ・ベイン家、とかね。中でも大物だったのが、長い蛇の紋章、ナモネア家だ。あそこは今でこそ勢いが衰えているが、ヨランドラ王家が興る以前から在る貴族家だからね。歴史があって、馬鹿にならないんだ。

 あと、他家じゃないが、ゲスタスが死んだという情報も入った。相変わらず揉め事を起こし続けて、とうとうご党首のアンディン様から見捨てられたのさ。表向きは、王弟様の一人がゲスタスを直属の部下にするべく引き取ってくださった、と言われていたんだが。奴は、すぐに東部のフィッツランドとの国境付近に送られたよ。で、その道中で暗殺された、と。暗がりで滅多刺しだった、とさ」

ビナシス家の紋章 二色トカゲ

 

ア・ヤ・ベイン家の紋章 三匹の踊る蛇

 

ナモネア家の紋章 長蛇

「当然の報いだわ」

「メレディーン城の女中たちも、同じことを言っていたねえ。

 ちなみに犯人は分からず終い。ご党首アンディン様も王弟様も、もう、調査のために人手や時間を割こうとはなさらなかった。おそらくゲスタスを恨む他家の者がやったんだろう。メレディーン城では、女中も兵士たちも、そんな推測をしていたよ。

 とにかく、この事件も貴重な情報だった。何せ、ビッサビア様はゲスタスを嫌っておられたからね。朗報として喜ばれること間違いなし、と確信できた」

 セピイおばさんは当時の気持ちに戻ったのか、声の調子が上がっているようだ。私の勘ぐり過ぎだろうか。

 そのくせ、私は聞かずにはいられない。恐る恐る、かつ、しつこく。

「だ、だったら、見返りにソレイトナックの情報も、もらえそうだね」

「ああ・・・もらえたよ。伝言という形でね。ロミルチ城でソレイトナックは監視下に置かれているのか、なかなか手紙を書けない状況らしい。そう推測したポロニュースは、ロミルチ城にソレイトナックの元部下の若者を派遣しながら、指示を出していたよ。手紙ではなく伝言を受けてこい、と。

 で、その元部下がロミルチ城を離れてから、伝言を忘れないうちに、羊皮紙に書きとめておいてくれたのさ。

 と言うのが、ポロニュースの説明で、私にその羊皮紙をくれたよ。

 そこでソレイトナックは、こう言っていた。

『セピイ。済まないが、結婚の約束を守れそうにない。こちらの城主様に拘束されて、手紙もまともに書けない。どうか俺のことは忘れて、メレディーンで新たな人生を歩んでくれ』とね。

 頭の中が真っ白になるっていう言い回しは、こういう時に使うのかねえ。私は泣くどころか、ポロニュースの前で、しばらく動けなくなったよ。何をどう考えたらいいのか、分からなかった。

 ポロニュースは『まあ城に戻って、じっくり考えろや』なんて、私を追い返そうとする。

 私は慌てて、もう一度ソレイトナックから伝言をもらってきて、と頼むのが精一杯だった」

 私は黙って、つばを呑み込んだ。しつこく質問した事を後悔した。

 セピイおばさんは、それに気づかないのか、話を続ける。

「皮肉なことと言おうか、次の報告までに、また結構なネタが入ってきてね。こっちが躍起になって耳をそば立てたわけでもないのに。こっちは何一つ、頭の中が整理できていなかったのに、だよ。

 たしか、紋章の中で二匹の蟹が取っ組み合いをしているのが、ビマー家だろ。脚はないけど首は三本もある飛竜の紋章が、チャレンツ家。どちらも蛇ではないが、なかなかの勢力さ。

 それより何より大きな出来事は、ご党首様夫妻のお嬢様がメレディーン城に立ち寄られた事だ」

 

ビマー家の紋章 二匹の蟹

 

チャレンツ家の紋章 三つ首の飛竜

 

「てことは、ヒーナ様の従姉妹」

「そう。同じ女子修道院に入っておられたんだ。年下のヒーナ様が先に嫁ぐ形になったが、この姫様も近々結婚なさる、という話だった。

 姫様は修道院長を連れて、久々に里帰りしたわけだよ。

 私は、この姫様から呼ばれた。ヒーナ様について知っている事を話すように、と。この方は従姉妹とは言え、実の妹のようにヒーナ様に接しておられたんだ。

 ご所望の通り、私は、できるだけお話ししたよ。ただし修道院長が同席しているから、馬車での密会なんかは伏せておいた。マムーシュの屋敷での事件なんかも、どこまで話したものか悩ましかったねえ。

 でも、ご党首様のお嬢様は私を褒めてくださったよ。『ヒーナをよく支えてくれました。あなたが居てくれて良かった』とまで言ってくださったんだが。

 私はお答えした『私はヒーナ様をお守りできませんでした』と。言わなきゃならない、と思った。

 ヒーナ様の従姉妹の姫様は、私と一緒に泣いてくださったよ。

 それはいいんだが、私と来たら、泣きながら考えていた。この姫様にも、ソレイトナックの件でご協力いただけないか、と。しかし姫様は修道院に戻られる身だ。自由に動ける、とは言いがたい。それに、私は何となく、隣りの修道院長が怖かった。無言で、私とソレイトナックの関係を責めているように思えたのさ」

 セピイおばさんは、そこで話を区切って、深く息をついた。これは、この流れは、と私は思う。話が嫌な展開になる前ぶれ。

 ちょっと怖気づいた私は、少し話をそらしてみる。

「当時のご党首様のお嬢様は分かったけど、息子さんは?跡取りはメレディーン城で一緒に住んでいたの?」

「一緒じゃなかった。跡取りの若様は、その頃アガスプス宮殿で王陛下にお仕えしながらの修行中だった。ちょうどパウアハルトがメレディーン城に来ていたのと同じやり方さ。

 だから宮殿とメレディーン城の間を、定期的に使者や手紙が行き来していたんだよ」

 なるほど、などと私は相槌を打つ。ほんの数秒の時間稼ぎにしかならなかった。

 セピイおばさんは話を進める。

「ビマー家なんかは私の記憶違いかもしれないが、ご党首様のお嬢様の件は確かだよ。私はそれらの情報を引っ提げて、ポロニュースの店に急いだ。事前にソレイトナック宛ての伝言を書いた羊皮紙の切れっ端も持ってね。

 ポロニュースは、ご党首様のお嬢様や修道院長の話を聞くと、目を光らせた。で、私は安心して、ソレイトナックからの伝言をもらってないか、と尋ねた。

『おお、もらっているぞ。要るか』

 なんて、ポロニュースは聞き返してきた。要るに決まっているじゃないか。

 私はそれをもらって、その場ですぐに読んだよ。ポロニュースがそばで見ていようが、いまいが、気にするゆとりなんて無かった。ソレイトナックの主張は、前回とほぼ同じ。言い回しがちょっと変わって、繰り返されているだけだった。

 私は嘆きたいのをこらえながら、自分が用意した伝言の羊皮紙をポロニュースに差し出したよ。

 ポロニュースは、それを受け取ってくれたんだが・・・数秒、動かなくなった。私が渡した羊皮紙の切れっ端を持った手が、テーブルの上で浮いたまま。私を睨むわけでもなく、じっと見るんだよ。

『セピイよ。次も、これをするつもりか』

 私は『もちろん』と即答した。そして、ソレイトナックからの伝言をもらって来て、と改めて頼んだ。

『いつまで、こんなことをするんだ?埒があかねえ、と思わねえのか』

 ポロニュースの二つめの質問に、私は『いつまでも』と答えた。『ソレイトナックと再会できるまで、いつまでも』と。

 ポロニュースは首を横に振りながら『だめだ』と、つぶやくように言った。

『無駄なんだよ。さっき渡した、ノッポ野郎からの伝言の切れっ端だって、偽物だ。俺が適当に書いただけだよ。いちいち言われなくても、大概で気づけてくれや』

 私は・・・何も答えられなかった」

 セピイおばさんは、うつむいた。

「おばさん」私は声をかけたが、後が続かない。

「大丈夫だよ、プルーデンス。

 それに、話はここから、すごく大事な、同時にものすごく情けない内容になるんだ。お願いだから、しっかり聞いておくれ。

 ポロニュースは、こんなふうに言ったんだ。

『俺は前々からビッサビア様に忠告していたんだぞ。このセピイとかいう田舎娘は大してお役に立ちませんぜ、って。

 俺もマーチリンド家にお仕えするようになって大分経つが、意見したのは、おそらく今回が初めてだよ。でも俺はあえて粘って、ビッサビア様に忠告し続けたんだ。ビッサビア様としては、時間をかけて手懐けたお前を、もっと働かせたかったようだが。

 しかし、さすがに、もう潮時だわ。ビッサビア様からは一応、お許しをいただいてんだ。どうしても糞づまった場合は俺が判断していい、と。てなわけで、この際、はっきり言わせてもらうぜ。

 ソレイトナックはなあ、ビッサビア様のイロだったんだよ』

 私はポロニュースの言っていることが理解できなかった。このイロという言葉を、まだ知らなかったのさ」

「私も知らないわ。何その、イロって」

「情夫、愛人ってこと。ソレイトナックはビッサビア様の愛人だったんだよ」

 へ。私はセピイおばさんが口にした単語をすぐに咀嚼できなかった。脳内で単語を繰り返して、やっと気づいた。

「ま、待って、おばさん。何言ってるの」

「ソレイトナックは、ビッサビア様のお相手をしていたのさ。寝床でね」

「おばさん、本気で言っているの?」

「プルーデンス。私だって、言いたくて言っているわけじゃないんだ。そもそも、ポロニュースの話を鵜呑みにしないという手もある。でもね。これだと辻褄が合うんだよ。馬鹿みたいに」

 セピイおばさんがため息混じりに話したポロニュースの解説は、こんなだった。

 まず、ビッサビアは夫モラハルトに愛情を持たなかった。自分たち夫婦の関係はあくまでヌビ家とマーチリンド家の政略結婚であって、ビッサビアは跡継ぎを産む役割を果たしただけ。パウアハルトやヒーナが産まれた後は、モラハルトに抱かれる義理は無い、という考えだったらしい。

 しかしモラハルトの方では、いかにも女らしい体つきのビッサビアを離したくなかった。何としても、自分に繋ぎ止めたい。カトリック教会が離婚を認めないことなど、何の慰めにもならない。妻は明らかに自分を拒絶しているのだから。仕方なくモラハルトは、自分の美貌の妻に若い男をあてがうことにした。それがソレイトナックだったわけである。

 ソレイトナックの方でも、モラハルト夫妻に従わざるを得ない事情があった。もともとソレイトナックは、どこかの小貴族の落とし胤らしく、実父から捨てられて、親戚筋を転々として成人したのだとか。

「ポロニュースのお仲間は冗談で言っていたそうだよ。案外、ソレイトナックは王族の隠し子かもしれない、とかね。いくら何でも、それはないだろう、とポロニュース自身はニヤけていたけど。

 ただ、父親をはじめ親族が世間体を気にする人たちで、ソレイトナックが望まれない存在だった事は確かなようだ」

 セピイおばさんは、そう付け加えた。

 そして、その転々とした先で、ソレイトナックは結婚の相手を見つけたわけだが。

 相手にも少し、事情があった。母親が双子を産んだ際に、亡くなったのである。のちにソレイトナックの妻となる娘と、その妹であるネマを産んで。

 運が悪いことに、なぜか、その地域では、双子はあまり縁起が良くない存在と考えられていた。そのせいで肩身の狭い思いをしながら、二人の娘は成長したことだろう。

 そこへソレイトナックがやって来て、姉妹と出会った。やがて姉の方とソレイトナックが結婚を決意した。

「プルーデンス、覚えているかい。私がソレイトナックにネマのことを尋ねた時に、彼が何と答えたのか」

「えっと、たしか従姉妹なんでしょ。

 あっ」

 私は、声が裏返った。

「気がついたかい」

「ネマが従姉妹って事は、ソレイトナックの結婚相手も従姉妹。ネマと双子なんだから。つまり、ソレイトナックは従姉妹と結婚したの?」

「そうだよ。そういう事だったのさ」

「で、でも血が近すぎるわ。教会がそれを許したの?」

「許したか、どうか。いや多分、許してなかったんだろう。しかし、応援してくれる人も少なからずいて、二人は押し通したようだ。もちろん反対する人たちの方が多かったろうけど」

 とにかくソレイトナックと、その従姉妹は夫婦として生活を始めたのだ。しかし、それは一年ほどしか続かなかった。ソレイトナックの奥さんがしばらくして病気で亡くなったからだ。

 この事態に、地元の教会をはじめ、二人の結婚に反対していた連中が騒ぎ立てた。そら見たことか。教会の忠告に従わないから、バチが当たったのだ。まさに天罰。やはり双子は良くない、とか。

「この騒動を、あの人、モラハルトがどこで聞きつけたのかねえ。モラハルトはソレイトナックをツッジャム城に引き取った。ネマも一緒に。

 そしてソレイトナックを自分の従者に、ネマを城住みの女中にした。というのは表向き。実際は、ソレイトナックを愛人としてビッサビア様にあてがい、ネマを自分の妾にしたわけさ」

「ア、アキーラやメロエは?」

「彼女たちも同じだよ。昼間は女中、ときどき夜に城主様のお相手。そういう女が、他にも何人か居たらしい。ツッジャム城の内か外かは、分からないけど。

 ただポロニュースが言うには、モラハルトのお気に入りは、やはりネマだろう、と。ポロニュースは日頃の鬱憤なのか、汚い言葉をたくさん吐いたよ。

『ネマは、たしかにいい女だよなあ。俺は、ああいう背の高い、すらっとした姉ちゃんが大好きなんだ。認めたくはねえが、モラハルトの気持ちが分からなくもねえぜ』とか。『ビッサビア様も男が欲しいんなら、この俺をご指名してくれればいいのによ』とかね。

 だからと言おうか、ポロニュースはソレイトナックを忌み嫌っていた。

『あのひょろ長野郎め。美人の母親と娘を両方とも、しっかり堪能しやがって。あー、考えただけで腹が立つ。

 お前も馬鹿だぞ、セピイ。知らなかったとは言え、わざわざヒーナ様をあいつに差し出すなんてな。いくらヒーナ様に同情したって、お前はあいつに惚れてんだろ。おかげで、随分と面倒くさくなったんだぞ』

 私は馬鹿にされても、もう言い返す気力も無く、泣いていたよ」

 おばさんの話を聞きながら、私も思い出していた。自分の娘ヒーナとソレイトナックの件で、モラハルトはセピイおばさんに、こう話していた。『自分だったら、妻を譲りたくない。たとえ本人が望んだとしても』

 そう言いながら、妻ビッサビアの相手をソレイトナックにさせたのは、そして妻と他の男の関係を黙認したのは、どういう心境だろう。どう考えたって、穏やかなはずがない。それは、まだ小娘の私にだって分かる。妻ビッサビアを繋ぎ止めたい一心で、モラハルトは歯軋りするような思いで耐えていたに違いない。

「だから、とポロニュースは話を続けた。

『ソレイトナックは、おそらく生きてねえぞ。事情はともかく、モラハルトとしては、妻も娘も、まんまと喰われちまったんだ。あのむっつりスケベだって、腹わたが煮えくり返っているに決まってんだろ。まあ、それを顔に出さなかった事だけは、この俺も褒めてやるがな。

 と言うわけで、奴がソレイトナックをそのまま無事に済ますわけがねえ。どうせロミルチへの道中に刺客を放って、闇に葬っているぜ。だから、お前の愛しいノッポ野郎は、すっかり行方不明さ』

 これを聞いて、私はもう、何をどう考えたらいいのか分からなかった」

 セピイおばさんは、話しながら、いつの間にか涙を流していた。

「それで、ついにポロニュースは結論を下したよ。私に『もう帰れ』と。『もう、密偵ごっこは終いにしようや。お前は元々、向いていなかったんだよ』とね。

 私は、自分が何を言い渡されたのか理解できなかった。ひたすら混乱していたんだ。

 それでもソレイトナックのことだけは忘れなかったよ。私は、ほとんど喚くように頼んだ。『ソレイトナックに会わせて』と。とにかく彼だけは、と必死に頼んだ。

 しかしポロニュースの答えは、こんなだった。

『おお、おお、かわいそうなセピイちゃん。悪いが、してやりたくても、できねえよ。もう一度言うが、あいつは行方知れずなんだぜ。別に意地悪して言ってんじゃねえ。ビッサビア様だって、あいつの消息をつかめてねえんだ。諦めな。どうせ、あいつは生きてねえよ』

 私はすぐに言い返した。『彼は死んでません。きっと、どこかで生きています』思わず、そう叫んでいた。

 そしたら、だよ。ポロニュースは椅子から立ち上がったまま、私をぼんやり見下ろした。反論できずに黙っていたんじゃない。蔑みを通り越して、私を憐んでいる目だった。

『だとしたら、セピイよ。お前、あいつと別れて、どれくらい経つ?最後に、あのノッポ野郎を見て、何ヶ月が過ぎた?』

 分かるかい、プルーデンス。反論できなくなったのは、私の方だったんだよ。もう、その時点で半年以上が過ぎていた。メレディーン城に移ってからも、そうだねえ、四ヶ月は経っていただろう。

 ポロニュースは、静かに畳みかけてきたよ。

『生きているって言うんなら、あいつは今、どこで何をしてんだ。許嫁のお前を放ったらかして』

『き、きっと何か事情があるんです』と私は、もう一度、言い返したんだが。

『きっと、きっと、ばかりだな。

 しかし、いくら何でも、手紙の一つくらいは寄越せるだろう。俺はあいつが嫌いだが、あいつの能力まで馬鹿にするつもりはないぜ。生きているんだったら、書けるはずだ。

 なのに、手紙は来ない。って事は、あいつが死んだか、何か意図があって書かないか、だろ』

 なんて、ポロニュースは淡々と私に解説した。

 私は食い下がった。『い、意図って何ですか』

 ポロニュースは露骨に、ため息をついた。

『お前を捨てることに決まってんだろ。分かっていて聞くなよ。言わせないと気が済まねえのか』

 私は泣きながら反論した。『ソレイトナックは私との将来を誓ってくれた』と。

『だったら、死に物狂いでお前に会いに来るか、手紙だけでも寄越すはずだろ。あいつが本気なら。

 でも、あいつは現れねえ。手紙も来ねえ。

 あのな、セピイ。短い付き合いだったが、最後に一つ、忠告しておいてやるぞ。こういう時は予想とか推測とか、幾らしても意味、無えんだ。結果、事実だけを見ろや。あいつは現れねえ。それが事実だ。それだけ。事情の有る無しなんて関係無えぞ』

 ポロニュースは言い終わると、私に背を向けて、店の入り口に向かって歩き出した。途中で振り返って『じゃあな』とか付け足して。

 私は、どこへ行くのか尋ねた。

『どこへって、さあ、どこでしょうかねえ。とりあえず俺は、ずらかるぜ』

 そう答えたかと思ったら、ポロニュースは奥に引っ込んでいた店主の老人に声を飛ばした。

『と言うわけで、爺さん、お前に店を返すぜ。世話んなったな』

 店主は慌てて姿を現して、事前に受け取った店の代金について尋ねた。ポロニュースは要らないと答えた。

 そのやり取りに割り込むように、私はポロニュースに聞いたよ。これから、どうしたらいいのか、と。ポロニュースの返事は、こんなだった。

『そんなもん、自分で考えろや。って、そのまま女中を続けてもいいんじゃねえのか。前にも言ったように、俺のことを上役たちにタレ込んでもいいんだぜ』

『ソレイトナックは?』と私はもう一度、聞いた。

『しつこいぞ。無理だって言ってんだろ』

 ポロニュースは、泣いている私を見捨てて、店から出ようとした。

『おおっと、俺としたことが、忘れるところだったぜ。最後にもう一つ、付け加えておくぞ。

 セピイよ、間違ってもビッサビア様を恨んだりするなよ。あの方のおかげで、お前も散々いい思いをさせてもらったんだからな。

 逆に、あの方は、お気に入りのソレイトナックをお前に横取りされたんだぜ。お怒りのところを我慢してくださったんだ。ありがてえじゃねえか。あの方の度量に感謝しろよ。

 と言うわけで、分かったな、泥棒猫ちゃん。忘れんなよ』

 なんて吐き捨ててね。とうとう、ポロニュースの姿が店の外に紛れた。私はポロニュースの最後の嫌味のせいか、後を追えずに立ち尽くしていた」

 セピイおばさんは、そこで一度、話を区切った。そして深く息をつく。

 

 二人して数秒、沈黙する。散々口をはさんできた私も、さすがに言葉が出ない。頭が混乱して、少しも整理できないのだ。おばさんに何と言葉をかけたら良いのやら。

 セピイおばさんは静かに、だらだらと涙を流し続ける。と思ったら、おばさんは不意に顔を上げた。

「ああ、話し疲れている場合じゃないね。これじゃ、区切りが悪すぎる。せめて、もう少し話さないと。

 ポロニュースが居なくなると、店主の老人が一人で騒ぎ出したよ。店主が言うには、ポロニュースのせいで、いつヌビ家の兵士たちに取り囲まれてもおかしくない、と。恐れおののきながら、薄暗い店内を行ったり来たりして、荷物をまとめていた。

 一方、私は、ただただ茫然としてしまって。何をどうするべきか、少しも思いつかないんだ。何も分からなかった。

 やがて老人は荷造りを終えると、私のそばに来た。

『お嬢さん、いつまで、ぼーっとしとるんだ?わしは、もう出るぞ。あんたも一刻も早く、ここを離れた方がいい』

 私は老人の忠告が空虚に聞こえて、返事をする意欲が湧かなかった。

『それとも、もしかして行くところが無いのか?だったら、わしと一緒に行こう。わしは年寄りだが、貯えはあるぞ』

 途端に、老人はニタリと笑みを浮かべた。そして私の肩に手を伸ばしてくるじゃないか。その笑みは明らかに、モラハルトに似ていたよ。

 それで私は、その手を強く払い除けて、外に飛び出した。背後で、老人の声が聞こえたが、もう内容まで聞こうとは思わなかった」

「また、そんな奴だったの?男ってのは、どうして、こう、どいつもこいつも」

 しまった。また口をはさんじゃった。

「まったくだね。だから、あんたも男には気をつけるんだよ」

 セピイおばさんに言われて、私は、はい、と答えるしかない。

 おばさんは、そのまま話を続ける。

「で、気がついたら、と言うか、あっという間に、メレディーン城の門の前にたどり着いていた。

 そこでまた、私は立ち尽くしたよ。門番の一人が『おお、戻ったか』なんて声をかけてくれたが、私は返事できなかった。考えがまとまらないままだったから。

『どうした?早く入れ。ノコばあさんが、針仕事で人手が足りないとか騒いでいたぞ』

 なんて門番に言われたんで、私は、ようやく城内に戻ったよ。そうするしかない、と思ったんだ。

 私は、まず井戸へ走って行って、顔を洗った。涙で顔がぐしゃぐしゃになっている事を思い出したんでね。それから改めて、ノコさんを探そうと急いだ。今はとにかく仕事をしよう、と。

 ノコさんは城内の一室に、イリデッセンシアを含め、女中五、六人と車座になっていた。手にした針を布地に刺して、引っぱり上げて、を全員で忙しなく繰り返していたよ。他の女中たちは調理場とかで、離れられなかったのだろう。

 私はノコさんたちの輪に割り込ませてもらいながら、作業に加わった。まずは仕事に没頭して、気持ちを落ち着けよう。その後で、いろいろなことを考えるんだ。心の中で、自分にそう言い聞かせた。

 しかし、だよ、プルーデンス。あんただったら、仕事を集中するかい?」

 う、うーん。私は唸った。

「だめだと思う。どうしても考えてしまうから。考えたくなくても、ポロニュースの話が頭をよぎってしまうと思う」

「そうか。あんたでもだめか。私もだめだったよ。あんたが予想した通りさ。黙って針を動かしているつもりでも、頭ん中ではポロニュースの声、というか言い草が次々とよみがえってきてねえ。気がつくと、針を持つ手が震えていたんだ。

 とどめは、他の女中たちのおしゃべりさ。自慢しているのか、彼氏と城下町のどの辺りで遊んだ、とか話していた。一応ノコさんから叱られないように警戒の目を時々走らせながら、声を抑えていたが、まあ無理だよ。年頃の女たちだからね。一度その手の話で盛り上がったら、雷でも落とされない限り、やめない。

 しかもノコさんだって、いちいち注意できるわけじゃないんだ。ロッテンロープさんが仕事の段取りを聞きに来たり、奥方様の指示を使用人が伝えに来たりして、どうしても場を離れる事が多い。

 それで若い姉さん女中たちは、調子に乗るわけさ。お御堂で神父さんがお説教している時に、娘たちが隅の方でヒソヒソ話を止められないのと同じだよ。

 しかも会話の内容が、なかなか際どくてねえ。宿屋にしけ込んだ時に、彼氏が自分のどこを触ってきたか、だの、彼氏のあそこがどれくらいの大きさか、だの。

 居合わせたイリーデちゃんとか、年下の子は顔を真っ赤にして、黙ってうつむいていたよ」

 セピイおばさんは話しながら、当時の同僚に呆れたらしく、ため息をはさんだ。

 私は私で、黙って言わない事があった。似たような話を、知り合いの女の子二人ほどがしていたのだ。つまり、その二人は経験済み、ということ。その二人の話を聞いて以来、自分が遅れていると焦るような、でも怖いような。未だに悩ましいのだ。

 セピイおばさんは私の心境を読めているのか、いないのか、そのまま話を続ける。

「運が悪いことに、この彼氏の話で盛り上がっている女中たちは、ソレイトナックを覚えていた。ソレイトナックが使者としてメレディーン城に訪れた時に見かけた、と。それで私を会話に巻き込みたいのか、話を振ってきたんだよ。

『セピイさん。あなた、あのソレイトナックの婚約者なんでしょう。あんな、すらっとした、かっこいい人と婚約なんて、羨ましいわ』とか。

『あの人がここに来た時、私も気になったのよねえ。私が散々、視線を送って、話しかけたのに、彼ったら随分と素っ気なかったわよ。あなたが原因なのね』とか、何とか。

 もう、これだけでも、私としては泣きたい気分だったよ。愛想のいい返しなんて、一つも思いつかない。黙っているのが精一杯だった。なのに、私の反応が無いのが不満なのか、ついに耳元で言われたよ。

『ねえ、ソレイトナックって寝床では、どんななの?』なんて。

 私はね、プルーデンス、その時、思い浮かべてしまったんだ。裸のソレイトナックがビッサビア様と並んでいる姿を。そして、並んだ二人の体が重なって。途端に私は大声で叫んだ。『いやっ』て」

 セピイおばさんは大きく息をついた。私は、もちろん何も言えない。

「何で自分がそうしたのか、今でも分からないよ。思わずしてしまった、としか言いようがない。想像したくない事をわざわざ想像して、大声を出すべきところじゃない場所で出すなんて。

 当然、他の女中たちは大騒ぎになったよ。ただし私の大声だけが原因じゃなくて。叫んだ拍子に、私は針で自分の指を刺していたんだ。深く入って、けっこう血が流れていた。

 私の耳元で囁いた女中は謝るし、イリーデちゃんは止血しようと傷口を拭いてくれた。

 でも私は茫然としていた。されるがままになっていた。自分の血を見ながら、痛くないわけじゃないんだが、そんな痛み、どうでもよかった。自分が思い浮かべてしまった事に比べれば。

 反応が無い私を心配して、女中たちはあれこれ声をかけてくれたよ。それこそ肩を揺さぶられたりもしたんだが。

 私は別のことで頭がいっぱいだった。何でソレイトナックとビッサビア様を一緒に思い浮かべたんだろう。分からない。分からないどころか、嫌悪感が足元から背筋を駆け昇るような気がした。尊敬していたビッサビア様が、そして恋しくてたまらないはずのソレイトナックが、何だか急に穢れた存在に思えたんだよ。そんな気持ちを抱いてしまった自分自身も嫌だった。そんな自分を許せなかった。

 だからね、プルーデンス。私は、また泣いたんだ。周りに居合わせた女中たちがいくら騒いでも、涙を止められなかった。

 そこへノコさんが戻って来たんだよ。ノコさんは部屋に入るなり、叫んだ。『セピイっ。しっかりしなさいっ』

 ノコさんに両肩をつかまれて、私は目が覚めたような気がした」

 セピイおばさんは、そこで話を区切って、葡萄酒をほんの少しだけついで、呑んだ。私も同じようにしようかとも思ったけど、言葉が出なかった。何だろう。今は、どんな相づちでも、おばさんに対して悪いような。

 おばさんは改めて私の目を見て、話を再開した。

「ノコさんは私の指の手当てができている事を確認すると、私に針仕事から外れるよう言いつけた。私の血で、大切な布地が汚れてはいけないからね。

 で、別の仕事に加勢に行くように言いかけていたんだが、ノコさんはその言葉を途中で飲み込んだよ。ノコさんが言うには、私は顔が真っ青になっていたらしい。で、ノコさんは私に言った。『とりあえず女中部屋で休んでいなさい』と。

 私は立ち上がって、その部屋を出たんだが。動作が自分でも呆れるほど鈍かった。イリーデちゃんが心配して、女中部屋まで付き添うと申し出てくれたよ」

「い、いい子だね、イリーデちゃんって。美少女である上に、気づかってくれるなんて」

 少し間ができた気がしたので、私はイリーデちゃんを出汁にして、合いの手を入れてみた。今は、これくらいがやっとだ。

「まったくだよ。と言いたいところだが。私と来たら、そんなイリーデちゃんに当たってしまったよ。

 女中部屋に着いて、私が寝床の上に座ると、イリーデちゃんが、こんなふうに言うんだ。

『私、セピイさんとソレイトナックさんのこと、応援してます。落ち着いたら、お二人のことを聞かせてくださいね。参考にしたいんで』

 つまり、大真面目に言っただけなんだよ。でも、私はソレイトナックの名前を他人の口から聞いただけで、無性に腹が立ってしまった。

『うるさいわねっ。知りもしないくせに、勝手なこと、言わないで』

 なんて怒鳴っちまったんだよ」

「あちゃー」と私。

「やらかしたもんだろ。イリーデちゃんは一瞬びっくりして固まったと思ったら、泣きながら部屋を飛び出して行ったよ。

 もちろん私は後悔した。そのくせ、追いかける気力も無かった。寝床に座り込んだまま、横になる気にもなれず、ただ膝の上に置いた自分の拳を見ていて。

 みんなが働いているのに、しかもイリーデちゃんを泣かせておいて、自分だけ寝転がるのが悪いことに思えた。いや、それ以前にソレイトナックのことや、今後のことを考えなければ。寝ている場合でも、泣いている場合でもない。

 しかし、そうやって焦っても考えがまとまるわけがないよ。そうだ。思い出した。そんなふうに思ったら、また苛立ってしまったんだ。イリーデだって、何も泣かなくたっていいじゃない。こっちは泣くに泣けないのに。とかね。

 そして、また他人に当たりたがっている自分に気がついて、嫌気がさした。で、ふらふらと女中部屋を抜け出したよ。行き先は塔の上。こうなったらメレディーン城でも、塔の上のセピイになってやろう、と思ったのさ。途中で、兵士とか他の女中とすれ違っているはずなんだが、そこも覚えてない」

 セピイおばさんはそこまで話すと、一息ついて、また葡萄酒に手を伸ばしかけた。でも、すぐに首を横に振った。

「だめだね。まだ区切りが悪い。

 メレディーン城の城壁にある、幾つかの塔のうち、どれでもよかった。とにかく天辺まで行って、一人になりたかった。もちろん景色なんて楽しめないよ。私は胸壁の陰に隠れるように、うずくまった。

 そして思い出したんだ。そういえばスネーシカ姉さんが似たようなことをしていたな、と。あの時、スネーシカ姉さんは親友であるヴィクトルカ姉さんのために泣いていた。

 二人の顔が思い浮かんだ途端、私は声を上げて、涙を流したよ。猛烈に淋しいと思った。二人に会いたくてたまらなかった。会って、話を聞いてもらいたい。ソレイトナックを思って、私が苦しくて悲しい気持ちになっている事を分かってもらいたい。私をぎゅっと抱きしめて、ポロニュースの言うことなんか信じるな、と言ってほしい。どうすれば二人に会えるのだろうか。二人のうち、どちらかにでも話を聞いてもらえたら。その方法が全然分からなくて、私は尚更、泣けてきた。

 泣きながらベイジの顔も思い浮かんだよ。ヒーナ様の顔も。二人が今の私を知ったら、何と言うだろうか。恋敵として、ざま見ろ、とか言うだろうか。それとも親友として一緒に泣いてくれるだろうか。

 そんなことを考えて、はたと気づいた。ヒーナ様は、自分の母親、ビッサビア様とソレイトナックの関係を知らなかったんだろう。知らないまま死んでしまった。それは良いことなのか。知らずに済むなら、私も知りたくはなかった。ビッサビア様とソレイトナックの関係なんて。ヒーナ様は知らずに済んだ。ただし死んでしまった。その代わりでもなかろうに。そう思うと、さらに悲しいような悔しいような。私は泣きながら混乱していた」

 セピイおばさんは話しながら、頬を濡らしている。きっと当時も、こんなだったんだろう。

 セピイおばさんは不意に、ふっと笑った。頰は濡れたままで。何を、誰を笑ったのか、と思えば、どうやら自分自身らしい。

「笑っとくれ、プルーデンス。私はね、気づいてなかったんだよ。いつの間にか声を出していた事にね。後で知らされたが、私は結構、大きな声で言っていたそうだ。『ソレイトナックに会いたい。あなたは、なぜ迎えに来てくれないの?どこに居るの?ソレイトナックっ』とか何とか、いつまでも繰り返していたんだと。私としては、頭の中で思っているだけで、口から発していないつもりだったのに。

 ところが、自分の言葉に混じって、誰かのか細い声が聞こえるじゃないか。『セピイさん』とか、泣きそうな声が頭の中に響いて。

 で、ハッとした。頭の中じゃない。実際に耳で聞いていたんだ。

 気がつくと、塔の階段の辺りに人の気配がした。声の主はイリーデちゃんだった。そのそばに、シルヴィアさんとノコさんもいた。

 イリーデは言ったよ。『セピイさん。元気を出してください』少し泣いているようだった。

 逆に私は、涙が引っこんだ。自分は声を出していたのかと私から問うと、三人は黙ってうなずく。私は愕然として、動けなかったよ。

 と、シルヴィアさんがサッと近づいてきて、私を抱きしめた。私は、久しぶりだな、と思った。マルフトさんは亡くなったし、ビッサビア様に抱きしめてもらったのがいつだったか、思い出せなかった。

 シルヴィアさんはビッサビア様と違って痩せ気味で骨ばっていて、抱きしめられると、少し痛いような。でも暖かい、ありがたいと思った。

 ぼんやり、そんなことを考えていると、シルヴィアさんはさらに力を込めた。そして、少し私の体を引っぱるんだ。ずるずると。私はシルヴィアさんの意図が分からなかった。黙っていたシルヴィアさんが、不意に口を開いた。

『行かせないからね』

 それで私は、やっと理解したよ。シルヴィアさんは私を捕まえて、胸壁から引き離そうとしていたんだ」

「シ、シルヴィアたちは、おばさんが塔から飛び降りると思ったの?」私は念のため確認した。

「どうやら、そうらしい。本人は、そんなこと全然、考えてもいなかったんだがね。塔の上で我も忘れて、ぶつくさ言っていたから、そう見えたんだろう。

 シルヴィアさんの後ろで、イリーデも言ったよ。『セピイさん、ごめんなさい。セピイさんがこんなに辛い時に、私ったら気が利かなくて。謝ります。謝りますから、どうか無茶なことはしないで』泣きじゃくりながら、私の服を引っぱっていた。

 私はシルヴィアさんに『大丈夫です』と答えて、その腕をそっとほどいた。

 そしてイリーデにも答えた。『イリーデ、謝らないで。私があなたに八つ当たりしたのよ。謝るのは、私の方だわ』私は改めてイリーデに謝った。

 彼女やシルヴィアさんのおかげで、私も落ち着きを取り戻せたよ。そして気がついた。もう辺りは暗くなっていたんだ。夕食の時間になっても私が戻って来ないんで、シルヴィアさんたちが探し回ってくれたのさ。

『まったく、もう。へんな心配させないで』

 シルヴィアさんは声を抑えていたけど、さすがに表情がキツくなっていた。私は『お騒がせして、すみません』と頭を下げた。ノコさんにも。

 すると、ノコさんは淡々と、こう言った。

『セピイ。私は前に言ったね、敵でも味方でもない、と。だから私は、あんたがここから飛び降りようが、気にしないよ。そりゃあ騒ぎにはなるだろうが、代わりに女中になりたがる娘なんか、街に出れば、いくらでも居るんだ。

 でもね、セピイ。飛び降りるにしても、あと一週間ほど待った方がいいね。来週、オーデイショー様がお見えになる。私が言っている意味が分かるね、セピイ』

 私はその言葉で、はっきりと目が覚めた気になった」

「オ、オーデイショー?」

「ご党首アンディン様の何番目かの弟で、モラハルトのすぐ上の兄。当時のロミルチ城の城主様だよ」

 おばさんの説明に、私は、あっと声を上げてしまった。

「つ、ついにソレイトナックがロミルチ城でどうしているのか、確認できるのね」

「そう。もっとも、オーデイショー様は私みたいな女中一人のためだけにメレディーンに来てくださるわけじゃないよ。あくまでも他のいろんな問題で、ご党首様と話し合うために来られるんだ。でも、ノコさんが言うには、奥方キオッフィーヌ様が私のために一席設けてくれるよう、取り計らってくださったそうだ。

 私は驚きながらも、慌ててノコさんにお礼を言った。

『礼は奥方様に言いなさい。分かったら、さっさと夕食を済ませて寝るんだよ。明日は今日の分まで働いてもらうからね』

 言い終わると、ノコさんは階段を降りていった。ノコさんが見えなくなると、私はその場にへなへなと座り込んでしまったよ。

 シルヴィアさんが早口で言った。

『ノコさんにお礼を言って、正解よ。ノコさんから奥方様にお願いしてくれたに決まってんだから』

 私も、その通りだと思ったよ。

 そして思わず、つぶやいていた。『これで少なくともロミルチ城の状況が分かる』とかね。

 そしたら、イリーデも口をはさんでね。『よかったですね、セピイさん』とか。

 私は立たせてもらいながら『ありがとう』と答えたよ。でも本当は内心、ちょっと苛立ちを感じていた」

「えっ、何で、また」私は驚いて尋ねた。

「結果が見えていたからね。良い結果は期待できない。悪い状況を確認するだけさ。でも淡い期待にすがって時間を無駄にするより、辛くても事実を把握できた方がいいだろ。

 そう落ち着いて考えることができたんで、もうイリーデに当たったりしなくて済んだよ。とにもかくにも、あの子には悪気は無かったんだから。

 シルヴィアさんとイリーデに促されて、私もやっと塔を降りた。階段の途中でスカーレットさん、ヴァイオレットさんとも合流したよ。私は改めて申し訳なく思った。こんなにも心配かけていたんだなって」

「で、でも、それだけ、おばさんにとっては大変な出来事だったんだよ」

 私は、やっと、まともな相づちを打てた気がした。

 

 セピイおばさんも区切りがついた気になったのか、葡萄酒を少し呑んで、私にも回してくれた。

「さてと」セピイおばさんは話を再開した。

「その夜から、オーデイショー様がお見えになる日まで、私なりに、とにかく考えた。と言いながら結局、何一つ決められなかったが。

 私はまず、自分が持っている情報を頭の中で並べてみたよ。

 モラハルトは言った。ソレイトナックはロミルチ城の城主様に見込まれて、私以外の嫁を持たされた、と。

 ポロニュースは推測した。モラハルトに恨まれているソレイトナックは、ロミルチへの道中で暗殺されただろう、と。

 そしてご党首様夫妻、アンディン様とキオッフィーヌ様の反応。私がお二人にソレイトナックの話をした時の、驚きの表情。

 もう、この時点であまりいい予感はしないんだが、情報が足りていない事にも気づいた」

「ロミルチの城主様の人となりね」

「そう。だから私は、できるだけオーデイショー様がどんな方か、聞いて回った。シルヴィアさんたちやノコさんはもちろん、イリーデちゃんみたいな年下の子たちにまで。

 そしたら、また、大した収穫が無かった。分かったのは、兄君であるアンディン様より大柄で、どちらかと言えば、ロンギノ様みたいな体格であること。特に悪い評判は無いこと。

 もっとも悪い評判が無かったのはモラハルトも同じで、後で実は、なんてこともあるかもしれない。ただしモラハルトの場合は、息子パウアハルトのメレディーン城での態度が悪すぎた。それでシルヴィアさんたちは、もしかして父親も、と思うことがあったそうだ。

 オーデイショー様の場合は、ご子息などにも悪い噂は無くてね。そのわずかな違いが、貴重な判断材料だったよ」

「少なくとも、悪い人では無さそうね」と私。

「私も、そう予想したよ。

 そして、モラハルトが嘘をついているんだろう、と。

 そこまでは良いとしても、その先が何一つ分からない。

 自分は、このままメレディーン城で女中を続けるべきなのか。ポロニュースに協力した事がバレないか。バレてお咎めがあるとしたら、どれほどなのか。今さら、この山の案山子村には戻りたくないし。

 それ以前に、本当にポロニュースの言う通りに、ソレイトナックとは、もう二度と会えないのか。彼がどこかで生き延びている可能性は無いか。しかし、生き延びているとしたら、なぜ会いにきてくれないのか。それには何か訳があるのかも。

 そこまで考えが及んだ途端に、ポロニュースの言葉が耳によみがえった。事実だけを見ろ。その発想に従うと、当時の私の状況は、こんなだった。ソレイトナックは私のそばに居ない。将来はともかく、今は居ない。私が悩み苦しんでいる時に、彼は居ない。

 ポロニュースの言う通り、それを認めるべきだ、受け止めるべきだ、という自分が居る。同時に、それを拒む自分も居る。強く、断固として拒む。認めたくない、受け止めたくない。なぜならソレイトナック本人に聞いたわけじゃないのだから。理由を、事情を。彼の言い分をまだ聞いていない。まだ確認していない。確認していないだけ。

 分かるだろ、プルーデンス。こんな調子で、考えているつもりが、一向に考えが進まなかったんだ。とてもじゃないが、決断なんて出来ないよ。覚悟なんて出来なかった。自分に言い訳して、先延ばしにしていたんだからね。将来のこととか、決めるべき、いろんなことを」

 セピイおばさんは、そこで小さなため息をはさんだ。

「そして、あっという間に一週間が過ぎた。忘れもしない、何とも来客の多い日でね。オーデイショー様をはじめロミルチ城からの一行も朝から到着していたし、その後も近郊の司教様とか、何組か入城した。

 当然、メレディーン城の人々は皆、忙しなく動き回った。門の辺りも厩の方も騒がしかったし、下っ端の兵士たちだけでなく、幹部格である騎士様たちでさえ、やれお出迎えだ何だと、落ち着きがなかった。

 もちろん、私ら女中も大忙しさ。お客様が多い分、ご馳走だとかお酒だとか、用意する物も格段に増えるからね。

 私はノコさんから言いつけられて、日中は、ずっと厨房で働いていた。途中、休憩している時に、厩を覗きに行きたくもなったが、ノコさんに相談すると、やめておけ、と言われたよ。奥方様からお声がかかるまで我慢しろ、と。

 私は大人しく従った。元より逆らいようもないし、止められてよかったという気持ちも半分あった。早くオーデイショー様に確認したいと焦りながら、同時に、確認するのが怖かったんだ。

 そして晩餐の後。食器洗いなどに加わろうとしたら、ノコさんから呼ばれたよ。仕事は他の者たちに任せて、ご党首様の書斎に来い、と。しかも、ノコさんは自分も同席すると言い出した」

「えっ、何で。あくまでもセピイおばさんの個人的な要件でしょ」

「落ち着いて考えてごらん、プルーデンス。ノコさんからすれば、私は一度騒ぎを起こした前科者だよ。ご党首様やオーデイショー様の前でまた私が取り乱したりしないか、ノコさんは警戒したのさ」

 あー、と私は声を漏らしてしまう。なるほど、と続けそうになったが、呑み込んだ。

「私たちがご党首様の部屋に入ると、ご党首夫妻と大柄な男の人が待っていた。ご党首様がその方を紹介してくださった。『我が弟の一人、ロミルチ城の城主を務めるオーデイショーだ』と。

 私からも頭を下げて名乗った。と、体が少し震えてきたよ。べつにオーデイショー様から睨まれたわけじゃない。むしろ柔らかい眼差しを私に向けてくださっているように思えたくらいだ。そう、私を見る目に憐れみが感じられたんだよ。噂と言うか、予想通りの悪い人じゃない事が分かった。

 そして明らかに困っておられた。オーデイショー様は頭をかきながら、大体こんなふうに私に話しかけた。

『事情は兄者から聞いたが、一応そなたの口からも改めて聞かせてくれんか。特に、我らが弟のモラハルトがそなたに何と話したのか、ソレイトナックの処遇について、どんな説明をしたのか、を』

 私はお言いつけ通り、話してみた。まず、ソレイトナックの処遇について、モラハルトがご党首様に相談するべく、何度もお手紙のやり取りをした事。そして、ロミルチ城への転属、つまりオーデイショー様の元でソレイトナックを働かせるという決定。その指示に従って、ソレイトナックがロミルチ城に向かった事。その後ソレイトナックからの連絡が滞り、オーデイショー様がソレイトナックを小貴族の娘と結婚させようとしておられるという噂。それをモラハルトから聞かされた事、など。

 私が話している間、ご党首夫妻もオーデイショー様も微妙な表情のままだった。どう反応すべきか決めかねているお顔だよ。

 私が、以上です、と話を終えると、ご党首アンディン様が軽く片手を上げた。

『まず私から言わせてもらうぞ、セピイ。モラハルトはソレイトナックの処遇について私の意見を求めた、との事だが。実は、そのような相談は一度も受けていない。手紙でも、直に会った時でも、だ』

 私は何も答えられなかった。そんな私の反応を確かめるおつもりだったのか、少し間を置いてからオーデイショー様も口を開いた。

『同じく、わしもモラハルトから、そのような話は聞いておらん。

 ソレイトナックなら、使者として何度かロミルチに来た事がある。会った時の印象から、有能な男だとは、わしも思っていた。しかし、だからと言って、わしのところに転属させるなどとモラハルトに打診した事は無いぞ。ましてや貴族の娘を娶らせるような事も、わしは、しとらん。そもそもソレイトナックはロミルチに来ておらんのだからな』

 私は力の入らない声で、そうですか、と相づちを打つのがやっとだった。

 最後は奥方キオッフィーヌ様だ。

『ここであなたの話を聞いて以来、私たちもビッサビアさんと何度も手紙のやり取りをしました。しかしビッサビアさんも、ツッジャム城周辺でソレイトナックの消息をつかめていない。そしてオーデイショーさんが先ほどおっしゃったように、ロミルチ城にも来ていない。ここメレディーン城にも現れない。

 逆にビッサビアさんからは、ソレイトナックを見つけたら自分にも教えてほしい、と頼まれたくらいです。

 もちろん私たちからも同じことをお願いしているのですが、何度も言うように、進展はありません。

 セピイ。今あなたに話せるのは、これが全てです』

 私は、ビッサビア様もソレイトナックの行方を知りたがっているという箇所だけで心がざわついて、すぐに返事ができなかった。で、隣にいたノコさんから肘で突かれたよ。私はハッとして、お三方にお礼申し上げた『ご協力ありがとうございます』と。

 ついで、でもないが、私は続けて質問の許可を求めた。ご党首様がお許しくださったので、私は、とうとう口にしてしまった。聞かずにはいられなかった。

『どうか、失礼なお尋ねをすることをお許しください。もしかしてモラハルト様がソレイトナックを殺めたということはないでしょうか』

 私が言った途端、ご党首様の目がほんの少し尖ったように見えた。そりゃ、気にしすぎかもしれないよ。しかし、一瞬だけそんな気がしたのを、今でも覚えているんだ。

 ご党首様は、いい質問だ、とおっしゃった。

『たしかに有り得ない話ではない。経緯はともかく、ソレイトナックは結婚前のヒーナと関係をもったのだ。しかも、その後のヒーナの嫁入りは、お世辞にも成功したとは言えぬ。モラハルトが密かにソレイトナックを恨んでいても、おかしくはない。

 しかしモラハルトがそれを素直に認めるかと言うと』

 ご党首様は思い切り、ため息をついて、首を横に振った。

『何一つ認めようとはせぬ。我ら兄弟に嘘、隠し事をした事さえ認めぬ。あくまで伝え遅れただけ、順番が替わっただけだ、と。たしかにソレイトナックをロミルチへ送り出したが、刺客に追わせるような真似はしていない。何度問い質しても、モラハルトからの手紙には、そのようにしか書かれていなかった』

 ご党首様が言い終わると、部屋に居た全員が沈黙した」

 セピイおばさんも、そこで一息ついた。当時のご党首様たちに合わせたわけでもないだろうに。

「プルーデンス。あんたは、このご党首様の話を信じるかい。あるいはモラハルトの答えを。

 私は信じたかったよ。刺客なんて居ない、ソレイトナックが、なぜか行方不明になっただけ。そう思いたかった。それならソレイトナックはまだ、どこかで生きている。

 そう思いたかったが・・・プルーデンス、そう思っていいのかねえ」

 セピイおばさんは私に問いかけておきながら、私から目をそらしていた。

 私は「分からない」としか答えられなかった。

「そうだね。あの時の私も分からなかった。今も、どうだか。

 今でも、あの時のアンディン様のお顔を思い出せるよ。怒っておられるのか、私を憐れに思われたのか。それでいて何の感情も無いようにも取れる。あの、つかみどころの無いお顔。

 そのくせアンディン様の心の声は、こんなじゃなかろうか、と推測もした。『セピイよ、信じるも疑うも好きにするが良い。しかし我らとしては、これ以上、答えようもない』とかね。

 私は文字通り、途方に暮れた。ご党首様たちのような高貴な方々を前にしているのに、何も言えず、立ち尽くしていたんだ。アンディン様にご返事することすら思いつかなかった。

 そんな私を見かねたのか、キオッフィーヌ様が先におっしゃった。

『ソレイトナックについて、何か知らせが入ったら、あなたに必ず教えます。

 今日はもう疲れたでしょうから、そろそろ部屋に戻りなさい』

 そのお言葉を潮に、ノコさんが私の腕を引いたよ」

 そこで、セピイおばさんの話が、また途切れた。

 

「す、すっかり分からなくなっちゃったね、ソレイトナックの行方」

 どう話の続きを促したらいいのか迷って、私からやっとこさ出たのは、そんな言葉だった。

「まったくだよ。雲隠れと言うか、夢から覚めたみたいな。そのまま惰性で女中の仕事を続けたが、日中ふと仕事の手を止めると、まるでソレイトナックが元から存在しなかったかのような錯覚に陥いる事もあって、私はその度に首を横に振ったよ。何も言わずに突然、首を激しく振るもんだから、周りに居合わせた他の女中たちから怪しまれたり、心配されたりした。

 私とあの人は確かに結ばれたのに。結婚の約束までしたのに。一瞬でもソレイトナックを夢まぼろしのように思ってしまった自分を認めたくなかった。

 先のことなんて全然、考えられなかったよ。考えなきゃいけない、と頭では分かっていたんだが。

 それよりソレイトナックを探したい。でもビッサビア様の協力は、もう得られない。それどころか恋敵だったなんて。もしビッサビア様が私より先に彼の消息をつかんだら。私に教えてくださるとは、とても思えない。

 そんなことに思い至ったら、ついでと言おうか、こんな推測も浮かんだよ。ビッサビア様がモラハルトと結託していたら。自分のお気に入りの男がいつの間にか、女中の一人と結婚を誓う。怒ったビッサビア様は、自分に惚れ込んで言いなりになる夫に、その女中を襲わせる。同時に主従の立場を利用して、ソレイトナックを一旦、別の場所に移動させて。ソレイトナックを離さないのは、ロミルチ城のオーデイショー様じゃない。ビッサビア様が彼を離さないんだ。彼はビッサビア様に囚われているのでは。

 そう考えただけで、私は居ても立っても居られない気分だった。できることなら、ツッジャム城に戻って、直接ビッサビア様を問い詰めたいくらい。でも、もちろん、そんなこと、できないよ。ツッジャム城に行く馬車に乗せてくれ、なんて頼めないし、たとえ連れて行ってもらったとしても、ビッサビア様が私に本当の事を話してくれるわけがない。

 何か手は無いか。自分なりに知恵を絞ったつもりでも、大したことは思いつかなかった。やっと思いついたのは・・・城下町のポロニュースの店に行ってみること。分かるだろ。ただの悪あがきだよ」

「で、でも、おばさん。もう、ポロニュースもスケベな店主も居なくなっているはずじゃ」私は語尾を途切らせてしまった。

「その通りだよ。どちらも居なかった。私も馬鹿だねえ。分かりきっていたのに。だから悪あがきなんだ。

 店は取り壊されている途中だった。大工たちがウロウロしていてね。彼らが言うには、土地の新しい所有者が全く別の店を構える予定なんだ、と。折れた木材とか砕けた煉瓦とかが、幾つかの小山を成していた。私は、そのうちの一つに羊皮紙の切れっ端を見つけたよ。廃材の下に埋もれて、端っこが出ていたんだ。

 私はそれを拾った。予想通り、私がソレイトナックに宛てた手紙だよ。ポロニュースが放り捨てていたんだね。私はそれを握りしめて、城に戻った」

「おばさん」私は意を決して尋ねた。「もしかして、その手紙をまだ持ってる?」

 セピイおばさんは軽く笑い出した。

「いくら私がケチだからって、そこまでしないよ。お城のかまどに放り込んださ」

 答えはともかく、私は久々におばさんの笑い声を聞いた気がして、安心した。昨日や一昨日だって聞いていたはずなのに。

「そうだ、プルーデンス。それで思い出した」

 セピイおばさんは話を続けた。

「私はメレディーン城に戻って、一度、それを読み返した。当然そこには私の言葉ばかりで、ソレイトナックからの言葉は無い。それで、もう焼いてしまおうと、厨房に行ったのさ。で、かまどの火に、小さく丸めた手紙を放り込んだ。

 それで私は、ようやく決心がついたよ。ご党首様夫妻に全てを話そう、と。ビッサビア様とソレイトナックの関係も、ポロニュースの存在も。それに伴って、自分も罰を受ける可能性があるが、仕方ない。ビッサビア様は味方じゃなくて、敵なんだ。そう認識し直して、対抗する手立てを考えたら、とにかく味方を探すしかないだろ。ビッサビア様やモラハルト、ポロニュースに引けを取らないほどの影響力を持つ味方。それは、どう考えたって、ご党首様夫妻、アンディン様とキオッフィーヌ様しか居ない。しかし味方になってもらえなかったら。その時はソレイトナックを、人生を諦めるしかない、とね。

 へんなもんで、そうやって結論に達したら、心の整理がついたと言うか、自分でも気持ちが落ち着くのが分かったよ。

 そしたら、だ。誰か人の気配がするじゃないか。振り返ったらイリーデが、もじもじしながら立っていた。私はそれを見て、相変わらずお姫様みたいな姿だと、ぼんやり感心したもんさ。

 イリーデは、たしか、こんなふうに言ったねえ。『セピイさん。どうか私の頼みを聞いてくれませんか』と。続けて、イリーデは頭を下げた。『セピイさんがいろいろと大変な時に、相談なんか持ちかけて、ごめんなさい』とか付け足して。

 私は、ぽかんとしたよ。イリーデほどの器量良しに、悩みや問題があるなんて想像もつかなかった。しかも一度やらかした私に、相談を求めるなんて、どれほどの問題なのか。

 私は念を押した。『私でいいの?他の人には聞かせられない話ってこと?』

 イリーデは思いつめた顔で、深くうなずく。

 それで私も、ちょっと考えて答えた。

『仕事の合間、都合のいい時間と場所を決めておいて。それとも今がいいなら、どこかに移動しよう』

 その時は二人とも忙しいと言うほどではなかったので、イリーデは私を連れて城内を歩き回った。で、結局、塔の上に行ったよ。私が騒ぎを起こした塔とは、別のところでね。

 たしか、まだ夕暮れ前で、天気も良かった。かつてポロニュースの店があった場所が、埃っぽかったのを思い出したくらいだよ。

 イリーデは大して景色を楽しんだりせずに、こわばった顔を私に向けて言った。『私、許嫁がいるんです』と。

 続けて、彼女は事情を説明した。メレディーン近郊の小貴族の息子とゆくゆくは結婚する予定なのだ、と。親同士が旧知の仲で、決めたそうだ。

 聞きながら私も、そう言えば、と思い出した。よくメレディーン城に上がって、イリーデにやたら話しかける少年がいるな、と。その少年は、ご党首様夫妻へのあいさつはもちろん、城詰めの騎士様たちに剣術などの稽古をつけてもらうなど、忙しなく城内を回っていた。少なくとも週に一回は見かける、お馴染みの光景だったよ。名をブラウネンと言い、イリーデと同い年だと聞いていた。

 当然のことながら、ブラウネンはメレディーン城に顔を出すと、必ずイリーデのところに立ち寄った。そしてイリーデの健康を気づかったり、たわい無い世間話をしたり。

 ただし私が見かけた時は、イリーデはいかにもつまらなそうに、興味無さげに会話しているのが常だった。

 逆にブラウネンは美少女を前に緊張してか、強ばった笑みに汗を浮かべてね。話題が途切れるのを恐れて必死に話しているのが、遠目でも分かったよ。

 意地悪なオーカー様なんか、わざと通りかかって、からかったもんさ」

「てことは、ブラウネンは不細工だったの?」

 私がつい口をはさむと、セピイおばさんは、また笑った。

「そこが気になるかい。まあ若過ぎて頼りない少年だったが、一応、貴族の息子だけあって、充分見られる顔だったよ。ここみたいな田舎だったら、結構な美少年として、もてはやされただろう」

「うーん、それなのに、そいつとの結婚が嫌だったのかな、イリーデちゃんは」

「さあ、私も彼女によくよく聞いたが、ブラウネンから特に意地悪されたわけでもなかった。だから若くて、結婚そのものがまだ早いとか思いたかったんだろう。私は、そう解釈したよ」

「なんか聞けば聞くほど、ヒーナ様みたい」

「そこまで分かっているなら、イリーデが何の相談を持ってきたのか、想像がつくだろ」

「えっ、ヒーナ様と同じで、イリーデもおばさんの体験談を聞きに来たの?」

「そう。しかも、私が耳にした他の人の例も聞きたい、なんてね。とにかく女と男のこと、寝床のことに関して、私が知っていることを全て教えてほしい、なんて言い出したのさ」

「前におばさんとソレイトナックの話を聞きたいとか言ったのは、そういう意味だったのね。ちょっとしつこい気がしていたけど、やっと理由が分かったわ。

 で、それでおばさんは、イリーデに話してあげたの?」

「それなんだが」セピイおばさんは一息ついた。

「私としては、イリーデとブラウネンの結婚を応援してやりたい、と思ったよ。

 しかし、そのために私の体験談が有益と言えるのか。私の経験は、お世辞にも成功例とは言えないだろ。良くない事例として注意を促すことなら、できるかもしれない。しかし、かえって結婚に対する不安や心配をあおるようじゃ、考えもんじゃないか。

 それに、話がヒーナ様やビッサビア様に及ぶようなら、どこまで話していいか考えないと。

 それを踏まえて、私はイリーデに、こんなふうに答えた。

『実はね、私には、ご党首様夫妻に謝らなければならない事があるの。それで今夜、お話しさせていただこうと思っている。お二人から下される判決によっては、あなたに話を聞かせる機会が無くなるかもしれない。お二人からお許しが出て、この城に残れたら、あなたに私の話せる事を話すわ。どれだけ、あなたの参考になるか分からないけど』

 その時点では、それが精一杯の返事だった。イリーデは、突然ご党首様たちが話題に上がったので、驚いて絶句していたよ。彼女なりに、私がご党首様たちに謝罪しようとしている事の内容までは聞いてはならない、と分かってくれたんだろう」

「そうね。イリーデには悪いけど、ビッサビアの件とかを片付けるのが先だもんね」

「その夜、私は晩餐の支度を手伝いながら、頃合いを見計らって、ノコさんに小声で話しかけた。相談事がある、と。

 ノコさんは黙って、私を暗がりまで引っぱっていった。私は周りに他の人が居ないことを確認してから、ノコさんに改めて頼んだ。ご党首様夫妻にお話ししたいことがある。お二人に時間を割いてくれるよう、ノコさんから頼んでほしい、と。

 ノコさんの反応は、こんなだった。『私には聞かせられない、ご党首様夫妻にだけお話しするような内容かい』

 私は答えた。『モラハルト様の奥方であるビッサビア様や、ビッサビア様の生家マーチリンドに関する事です。ご党首様たちがノコさんも聞くべきと判断なさるなら、ノコさんにもお話しします』

 私が言い終わるや、ノコさんの指が音もなく飛んできて、私の唇を押さえた。分かったから、もう言うな、と。私はそう解釈した。

 実際、ノコさんは私から離れると、足音も立てずに、ご党首様の書斎に向かったよ。

 しばらくして、ご党首様夫妻や騎士様たちの晩餐も、私ら女中や兵士たちの食事も済んだ。

 そして私は他の女中何人かと食器を洗ったりした。その女中たちが何かの拍子で、私から離れた。すると、すぐ後ろから、ノコさんの抑えた声が耳に入った。『お許しが出たよ』

 私が振り返ると、ノコさんが体を割り込ませるようにして、炊事場に立った。で、私と交代して洗い物を始める。

 私はご党首様の書斎に行きかけて、一度ノコさんを見たよ。ノコさんは、ついて来なかったね。つまりは、まず、ご党首様夫妻にだけお話ししろ、ということさ。

 ご党首様の書斎に行く間、私の中で緊張が急速に高まった。扉を軽く叩き、お許しをもらってから中に入る。すぐに、ご党首様の冷ややかな視線が飛んできたよ。奥方様も心配そうなお顔で、そばに座って居られた。

『セピイよ。ビッサビア殿のことで話があるそうだな。他の者たちに聞かれぬよう、もっと近くに寄って、小声で話しなさい』

 私は言われた通り、ご党首様の机のすぐ前に椅子を寄せて座った。

 私は一度、お二人に頭を下げてから話した。ビッサビア様からヌビ家の動向を探るように命じられていた事。ビッサビア様と私の間を仲介した、ポロニュースという男の存在。そして、そのポロニュースから密偵として失格を言い渡された事。その際に聞かされた、ビッサビア様とソレイトナックの関係。最後に、私はお二人に謝罪して『罰をお受けします』と付け加えた。

 アンディン様は、ふう、と息をついて、こんなふうにおっしゃった。

『罰とは、ちと大げさだな。

 まあ、リブリュー家の竜巻き殿やナモネア家の事は、まだ隠しておきたかったが。ビッサビア殿にもマーチリンド家にも』

 マーチリンド家と聞くや、私はお許しも得ないで、思わず尋ねてしまったよ。『マーチリンド家とヌビ家は事を構えるのですか』

 アンディン様は私を咎めもせず、少し笑みを浮かべて、首を横に振った。

『そうならないように、お互いが腹の探り合いをしている、と言っておこう。たしかにモラハルトとビッサビア殿の結婚で、ヌビ家とマーチリンド家は同盟関係になった。しかし、だからと言って、私は油断するつもりはないぞ。そして、それは向こう、マーチリンド側も同じだ。それでビッサビア殿は、こちらに探りを入れてきた。貴族とは、そういうものだ、と覚えておきなさい』

 私は一瞬ホッとしたものの、本当に安心していいのか分からなくなって、返事ができなかった」

「おばさん、質問」私は手を上げた。

「ヌビ家とマーチリンド家が探り合いするのなら、キオッフィーヌ様の生家とも、探り合いになるんじゃないの?」

 セピイおばさんは、ふふっと笑いをはさんだ。

「いい質問だよ、プルーデンス。私もアンディン様のお話を聞きながら、同じことを考えた。もちろん口にするわけにはいかなかったがね。

 でも、やはり、やっていただろうよ。腹の探り合いを。なぜって、あの時、奥方キオッフィーヌ様が褒めてくださったんだ。『それにしてもセピイは、よく正直に話してくれましたね。私は嬉しいですよ』なんてね。

 私はありがたいお言葉と思いながらも、キオッフィーヌ様が話題をそらしたんだ、と勘ぐった。

 ちなみに、キオッフィーヌ様の生家は」

 セピイおばさんは、わざと言葉を切って、私の顔を覗き込んだ。目が笑っている。

 シャンジャビか、リブリューか。あるいはナモネア。私には予想がつかない。

「王家だよ。キオッフィーヌ様は、当時の王陛下の姪にあたるお方だった」

 あー。私はつい、間の抜けた声をもらしてしまった。なるほどである。

「それはともかく、話を戻そう。

 私は処罰の内容をお尋ねした。またしても、お許しを得ずにアンディン様に向かって発言してしまった形さ。アンディン様は、とうとう声に出して笑いなさった。『そこまで罰を望むなら、セピイに一役買ってもらおうかな』

 そう、おっしゃったアンディン様は、私が部屋に入った時と違って、表情が大分ほぐれていた」

 そう話すセピイおばさんも、顔が緩んだように見える。これなら、しばらくキツい展開は無いかも。

「アンディン様が私に何をさせたいのか。その時はまだ細かく決まっていなかったが、要するにビッサビア様が私にさせたような動きを、今度はヌビ家、アンディン様たちのためにしろ、とのことだった。

 アンディン様としてはツッジャムの状況を確認したかったのさ。何しろ、ツッジャム一帯を任せた弟のモラハルトは、勝手なことばかりして、まともな報告を寄越さない。その奥さんであるビッサビア様は、メレディーンに探りを入れてくる始末だ。二人の息子、パウアハルトはツッジャムで評判が悪いだろ。ヌビ家のご党首様にとっては、どれも由々しき事態だよ。アンディン様が改めてツッジャムの状況を把握し直したいと考えるのも、当然さ。

 そのためには、密偵たちを何人も動かす必要がある。私がアンディン様から求められたのは、その手伝い。会ったこともない密偵たちが陰で動きやすくなるように、私は私で別の行動をとれ、とね。

『具体的なことは、また追って説明する』それが、アンディン様が一旦、下した判決だった」

「つまり、お咎めは無しってこと?」

「ああ、おかげさまでね。キオッフィーヌ様が『これからもよろしく頼みますよ』と微笑んでくださった。私は安心しすぎて、椅子からヘナヘナとずり落ちたくらいさ。

 もちろん、急いでお二人にお礼申し上げたがね」

「よかった」私も、やっと安心できた。

「まったくだよ。お二人が度量の広いお方で、助かった。

 これがアンディン様とキオッフィーヌ様じゃなかったら、どんなお咎めを受けていたことやら。今思い出しても、ヒヤリとするよ。あんたも、そこは勘違いしないでおくれ」

 うん、と私もうなずいた。貴族がそんなに甘い人種ではないことを、肝に銘じておく。アンディンも、セピイおばさんを利用したいと言っただけ。しかし、正直さはある、と私は思う。モラハルトとビッサビアは善人ぶって、それを表明しなかったのだ。

「そうだ。これでイリーデちゃんのお願いも聞いてあげられるわね」

「ああ、お二人に確認したさ。イリーデから相談を受けていて、そのためにヒーナ様の事なども話すべきか迷っている、とね。

 アンディン様の答えは、こんなだった。

『ヒーナやモラハルトなど、ヌビ家の者については、どのように話しても良い。悪く言っても良い。遠慮せず、セピイが思うように話してやりなさい。私が許す。

 ただし、ビッサビア殿については言及しないように。どこで漏れるか分かったものではないからな』

 アンディン様は、ビッサビア様のところだけ目を鋭くなったが、後は、また表情を緩めた。『イリーデの不安を、できるだけ軽くしてやりなさい』とか付け加えて。

 そもそも、ご党首様夫妻はイリーデとブラウネンの縁談を後押ししていたんだよ」

 それからセピイおばさんは、あと少し補足した。

 ヌビ家内でも、美少女のイリーデちゃんをお嫁さんにしたいと望む者は、何人か居たらしい。しかし政略結婚として考えると、イリーデの生家はそこまで力のある、同盟し甲斐のある貴族とは言い難かった。あくまでも、ヌビ家に頼って成り立つ小貴族だったのだろう。そこでアンディンはヌビ家の党首として、イリーデをヌビ家に迎えないことに決めた。そして鬱陶しい親族たちを黙らせ、イリーデの両親の意向を尊重することにしたのである。

 これを受けて、イリーデの両親は、家族ぐるみの付き合いをしている同等の貴族の息子、ブラウネンを娘婿に選んだ。

「ここで大事なのは、イリーデの両親が、ヌビ家以外の勢力のある貴族に、自慢の娘を売り込まなかった事さ」

 と、セピイおばさんは念を押した。イリーデの両親は、ヌビ家以外の大貴族にすり寄ったりは、しなかった。もちろん、ヌビ家の目を恐れての判断である。

「ふふ、ブラウネン君は運が良かったわね」

 私がちょっと意地悪を言うと、セピイおばさんも笑ってくれた。

「そうさ。政治上の駆け引きが、程よくブラウネンの都合と合致したんだよ。

 幼なじみとして、ブラウネンはイリーデを誰かに取られるんじゃないかと、気が気じゃなかったろうからねえ」

 イリーデの件はそこまでにして、私は、もう一つ気になることを尋ねた。「ところで、当時のご党首様たちは、おばさんの動きに気づいていたの?」

 それもいい質問だ、とセピイおばさんは言ってくれた。

「気づいていたね。私としては一生懸命、隠していたつもりだったんだが。城下の店に行くところを尾けられていたらしい。後で聞かされたが、ノコさんも私に目を光らせていたそうだ。

 アンディン様がおっしゃるには、ポロニュースがマーチリンド家の屋敷に出入りする姿も確認した、と。ポロニュースの奴、偉そうなことを言っていた割には、あっさり尻尾をつかまれていたのさ」

 尋ねておきながら、私はため息をついてしまった。「貴族って、そういうもんなんだね」

「そう。だから離れを四つも建て増して、撹乱しなきゃならない」

 セピイおばさんは特に力みもせず、つぶやく。私はドキリとして、相づちが打てなかった。

 セピイおばさんは、そんな私に構わず、話を続けた。

「こうして謝罪も済んで、イリーデの件も要点を押さえることができたわけさ。すると奥方キオッフィーヌ様がおっしゃった。『もう休みなさい』と。

 私は頭を下げて退室した。そしてノコさんのところに戻った。ノコさんは洗い物を終えて、炊事場の椅子に腰掛けて、一息ついていたよ。他の女中たちは居なかった。

 私はノコさんに報告した。話の内容までは明かせなかったが、とにかくご党首様夫妻に謝罪を受け入れてもらえた、と。

 ノコさんは数秒、私を見つめた。と、思ったら、静かに、こんな質問を投げてきた。

『セピイ。それは、あんたが向こうの奥方様、ビッサビア様と決別できたって事じゃないのかい?』

 私は、ハッとしたよ。まさしく、その通りだと気づかされた。私は意気込んで、はい、と答えた。

 するとノコさんは、さらに言った。

『つまり今、あんたのツッジャムの時代が終わったのさ。そしてこれから、あんたのメレディーンの時代が始まるんだよ』

 ノコさんは一度、席を立って、葡萄酒の皮袋と小さな盃を二つ持ってきた」

 セピイおばさんは当時を再現するつもりなのか、私の目の前でも、盃に葡萄酒を注いだ。そして、それを軽く持ち上げる。

「ノコさんは片方の盃を私に取らせて、もう片方を自分で持った。そして二人して、盃をカチンとやった。

『改めて言うよ。メレディーン城へようこそ。しっかり働いておくれ』

 そう言ったノコさんは少しニヤリとしたように見えた。私は、また意気込んで快諾した。あとは二人で呑み干して、その夜は休んだよ」

 

 話をそこで区切ると、セピイおばさんは手元の盃を空にした。

 続けて、また少し注いで、今度は私に寄越す。私も一気に呑んだ。そんな私に、セピイおばさんは微笑んでくれた。

「よっし、やっと話の区切りがついた。今夜は、ここまでにしよう。思っていた以上に長くなって、自分でも、びっくりだよ。

 あんたも、もう寝なさい」

 セピイおばさんは小机代わりの椅子の下から灯りを回収し、私を立たせた。

 灯りを消してから扉を開けて外を確認する。家までの地面を、月明かりがまばらに照らしていた。

「今夜も話を聞いてくれて、ありがとよ」

 セピイおばさんは、そう言って、私の背中を押した。